月下美人に例える程格好良くは無い／燐花
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rinka_creation 2022年01月28日(金) 01:52:42履歴
ニコリネ・エークルンド。二十三年感生きてきて、暗闇が物騒だと思った事がない。何故なら、夜遊びが盛んになり始める高校生に上がるくらいには立派な引きこもりになっていたのだから。
暗い路地で変な人を見たとか、暗がりに引き摺り込まれて暴行されたとか、電子世界でニュースは目にするが実際に見た事がないのでイメージは湧かなかったし少なくとも自分は無縁と思っていた。夜の帳が下りる時間帯など、完全に部屋に篭ってネットサーフィンに勤しむ時間だ。それをするのが当たり前に行なっていた。テロ前までは。
マルフィ結社に所属してから仕事を意識した生活になるからか少しだけ前よりも生活リズムが安定していた。ご飯はお母さんの味で無い事に最初は動揺してしまったけど、慣れて来て緊張が解けた今となっては食堂のご飯はたいへん美味しい。たまにお母さんの味が恋しくなるけれど、それはまた実家に帰った時の楽しみにしようと思うとそれがまた活力になる。
信じられない事に最近はカレンダーを購入した。毎日自堕落に朝とも昼とも夜ともわからない生活を続けていたけれど、以前よりは日々意識して生活をしている気がする。
しかしそれでも危機意識はすぐ培われるわけでなく、この日ニコリネは急に小腹が空いて小腹が空いて居られなくなり夜も更けた時間に財布片手に一人コンビニに赴いた。腹が減っては何とやらと聞いた事があるし、先日電子世界で話題になったのを見てから新発売のチキンを早く食べたかったのだ。別に誰も見て居ないだろうしと、誰に会うかも分からないのに「胸装甲」こと下着も着けず、上にコートを羽織っただけで飛び出していた。おまけに前髪はドラマを観るのに邪魔でヘアゴムとヘアバンドを使って完全に上げて縛って居たのを解かずにである。しかし、やはりこの姿を見られるのは恥と思ったのか一応変装用の大きめのサングラスを掛けてみる。
どうだろう？サングラス掛けるとか芸能人みたい？と一瞬考えたが、姿見に映ったのは下手をすれば不審者である。完全に陰キャの雰囲気と「どーでも良し」な雰囲気を纏ったニコリネがそこにいた。しかし気分的にも「どーでも良し」だったので不審者感を漂わせる事も最早「どーでも良し」。とりあえず結社の誰かに見られるのだけ避けてチキンを買えたら良いやと外に出た。
こんなお姉ちゃんの姿を見たら心配性なクルトは真っ先に着飾りの心配をするだろう。実家に居た時はそれが有り難くもあり煩わしくもあったわけだが、この生活になって一番気が楽なのはそう言った家族の過度な心配が無くなった事だろうか。自己責任の文字がチラついて適度な緊張感があるのも良い。結社で自立した生活を続けてしばらく経つが、少しずつこの限られた自由を享受する幸せを噛み締め始めて居た。幸いにも職場は良い人が多く、一番心配して居た人間関係でのトラブルは今のところ無い。責任のある自由と言うのもなかなか楽しいものかもしれない。
そんな事を考えながらすぐにレジに並ぶ。目当てのチキンはレジのすぐ横で売っているので、今日は他のものを見なくて良い。意外にもこの時間、少しコンビニは混んでおり、レジにはスウェット、ジャージ等ラフな格好な客が三人並んでいた。一人会計を終え、二人会計を終え、とうとうニコリネの前の客で最後と言う時、急にレジが止まった。
「ん…？」
ニコリネは身を傾けてレジを見る。目の前に居るスウェット姿の男性がズボンのポケットやら色々ひっくり返しているが、どうも財布を忘れたらしい。
「あーあ…よくあるやつ…」
そのまま知らん顔をしておきたかったが、彼の騒動がひと段落つかないとおそらく自分の会計の番は回ってこない。そして彼のレジに置いた物を見ると、歯磨き粉だった為ニコリネは少し悩んでしまった。確かにこの男性はドジだと思う。が、何だろう。これで成人向けのちょっとセクシーなお姉さんが載った雑誌とかギャンブルの雑誌とかで会計待ちしていたなら放っておこうと思うが、何故か買おうとして居たであろうものが歯磨き粉だった事にニコリネは謎の好感を抱いた。きっとこの歯磨き粉が良くて買いに出たら諸々忘れてしまったのだろう。
そうだ。頑張れ、頑張れ自分。せっかくだからちょっと殻を割ってみても良いじゃ無い。仮に失敗したとしても身近な人は今周りに居ないし。もし変な結果になったとして見てるのは私だけ。だから平気。
そう心の中で何度と呟くと、ニコリネは財布を取り出して居た。
「あ、あのぉうっ！！」
ちょっと上擦ってしまった。早速恥ずかしいのだが、いつもと違い「消えてしまいたい」と悲観的にならず更に言葉を続ける。
「す、すすすみません！チキン一つお願いします！お会計一緒で！！」
店員も、勿論先に会計して居た男性も状況が飲み込めないと言った顔でニコリネを見る。それもそうだ。無関係な人間がいきなり現れて自分が会計をすると言うのだから不審がって当然だ。
小さな親切、大きなお世話とかだったらどうしよう！？と急に現実をネガティブに受け止めていると目の前の男性が振り返りニコリネを見た。
「あ、あの…流石に申し訳ないです…そんな事していただいて…」
「あ、えと……い、いえ！？歯磨き粉なんてそんな！たたた大したものじゃ無いし！！」
「すんませーん、お会計全部で九百イリでーす」
「………」
結構大したものだった。
え？チキンが二百イリくらいだから、え？この歯磨き粉七百イリもするの？
そう言いたげなニコリネの心の声が漏れてしまって居たのか、男性は居た堪れなさそうに頬を掻いた。ちょっと痛い出費だった。
「本当に申し訳ありません…財布を入れ忘れてしかも携帯端末まで忘れてしまって…」
「い、いえ…！でも良かったです！歯磨き粉が無事買えて！ふひひっ！」
自分の財布はちょっと痛かったが。
「いえ…流石にこの出費は悪いです。お金お返ししたいんでご連絡先を聞いても…？」
しかし、まさかの男性に連絡先を聞かれてニコリネは焦った。男性と接点が無い歴実に年の数、未だかつてナンパなど遭った事もないニコリネにとって連絡先を聞かれるなど明日は雨が降る、いや雹が、むしろ霰が、それとも槍が、そんな事より機械人形が降って来そうな勢いだった。
目の前の男性は所謂スウェット族。だから多分部屋着の趣味は自分と違わない。そして気持ち長い髪を少しボサボサさせているけどトータルとして見たらきちんとしている方。顔立ちがまだ幼い風に見えるので自分より年下かもしれない。とは言え、自信の無さ故か恥ずかしくて顔をしっかり直視できないし、良かれと思って掛けてきたサングラスが完全に邪魔だったので彼がどんな顔をしているのかしっかり分からないわけだが。
しかしそれでも異性に連絡先を聞かれるなど人生の中で前例の無い事だった。
「あ、えっと…私も端末忘れちゃったかなー？みたいな…」
「ん？さっきアプリの帳簿に金額付けてませんでした？」
「あ、えっとそれはですね…ふひひっ」
笑って誤魔化して良いのは美少女だけだ。私が笑って誤魔化したらそれは恐怖映像になってしまう。
そう思ったニコリネ、今度こそ「消えてしまいたい」と言う単語が頭を過ったが、意外にも男性は優しかった。
「…やはり見知らぬ男にいきなり連絡先聞かれたら困っちゃいますよねぇ…？」
「そ、そんな事……ある様な無い様な…」
「いえ、すみません。では職場の連絡先…とかならいかがですか？貴女の職場の下までお返しに伺います」
「え！？だ、駄目ですよ！そんな、私の為に足運んでもらうなんて今度逆に申し訳ないです！！」
「しかしこの歯磨き粉、結構な金額だと思いまして…」
確かに、この歯磨き粉はチキン三個分くらいと思うと少し高い。この人も抵抗無いみたいだし、お言葉に甘えよう。
ニコリネは紙とペンを取り出すと、「マルフィ結社汚染駆除班、ニコリネ・エークルンド」と書き、下に結社の連絡先を書いた。個人情報漏洩か？どこまでなら書いても問題無い？社会人経験が浅いニコリネはよく分からないままそれを渡す。こう言うやりとりからストーカーとかに遭ってしまったらどうしよう！？と妄想が爆発しそうになりつつ、ガラスに反射した自分の姿が「どーでも良し」の化身な事を確認して思いとどまった。
「おや……？」
男性はメモを見ると、不思議そうに顎に手をやる。そしてニコリネの顔をじっと見た。
「あの…」
「は、はひっ…！？」
「ニコリネ・エークルンドさん？」
「そそそそうです私がニコリネです！え！？もしかしてこう言う時ってフルネームで書かない方が良いんですか！？」
「うふふ 、いいえ。すみません。では後日お返しに伺いますね」
お休みなさい。そう言い残して男性は一足先に店を出てしまった。何だかどっと疲れた気がするが悪い事はしていないのでむしろ気分は晴れやかだ。チキンが冷める前に帰って食べようとワクワクしながら歩き出すと、目の前で屯している三人の男性の姿を捉えた。
まだ若い。弟のクルトと同じくらいだろうか。夜も更けて寝ている人も居そうな時間にも関わらず大声で盛り上がっている。その手には缶ビールを持ち、足元にも空き缶が散らばっている。嫌だなぁ、ここは公共の道路でパブじゃ無いのに。ニコリネが嫌そうな顔をしたのはそれだけじゃ無い。彼らは酔っているのか、ニコリネより先に彼らと擦れ違った男性を煽ったり揶揄ったりしていた。所謂、絡むタイプの酔っ払いの様だ。
「うぅ…」
今この瞬間、自分は「無いもの」として極めて存在を薄くしなければならない。先程通った人畜無害そうなおじさまも絡まれていたんだ、自分にも妙な因縁を付けてくる事も有り得なくはないのだ。
「え…？あの女ヤバくない？」
「マジだ。あの格好、女捨ててんじゃん」
「いや、意外とオフの時ああ言う格好の女の方が可愛かったりしない？」
ほら絡まれた。ニコリネは無視する様に足早に進もうとするが、彼らはニヤニヤと笑いながらやってくる。いつもならすぐ走り抜けてしまうが、ニコリネの足取りは少し重くなった。品定めをする様な彼らの、自分を見下す様な嘲笑う様な目が中学時代の彼女達と被ってしまったのだ。
『あの地味子がニコちゃんと同じ愛称とか生意気なんだけど』
何をもって人を生意気と言うのか、名前を付けたのは親なのだから文句は親に言って欲しい。いや、違う。そもそもとして文句なんて言わないで欲しい。一体自分が何をしたと言うのだろう？そんな風に通り掛かりにいきなり酷い言葉を吐かれる様な事、私が一度でもあなた達にした？
「ねーお姉さんどこ行くのー？」
「俺達と飲まない？」
「どうせ一人でしょ？」
一人だって良いじゃない。一人気ままにチキン食べてドラマ観てたって良いじゃない。邪魔だからと思って色気も無く前髪上げてたって良いじゃない。せめてもの顔隠しにこんな暗がりでサングラス掛けてても良いじゃない、世の中光に目が弱い人だって居るんだから。ノーブラだって良いじゃない。あ、それはあんまり良くないか。
「やめて…ください…」
言わなければ良かったのに、声を上げてしまった。別に無視すればそれで済んだのに、中途半端に声を上げたから彼らも関わらざるを得なくなる。
「え？何？もしかして迷惑とか言っちゃう？」
「うわー。お姉さん酷ぇー」
「あ、いや…その……」
彼らは彼らで、まさか無視されると思っていたのに反応したニコリネに対し思いきり困惑の眼差しを向ける。ニコリネはむしろ罪悪感でいっぱいになった。空気を読まずに反応なんてしてしまったから彼らと自分に接点が出来てしまった。
ごめんなさい、関わらせてごめんなさい。私が拒否の姿勢すら見せなければ一方的に言われて終わるだけだったのに。
『みんな、そんな言い方可哀想だよ。ね、エークルンドさん？』
そう言って嘲笑ったニコレッタを思い出す。あの時自分は空気も読まず、彼女の言葉を鵜呑みにして『親が付けた愛称なんだけどな…』と口答えをした。その瞬間、ニコレッタの笑顔が歪なほど歪み、そうしてニコリネは次の日から陰湿ないじめを受けた。
彼女の目は言っていた。「お前、空気読めよ」と。ニコレッタも周りの子達も、ニコリネがただ口籠る姿が見たかっただけ。それを口答えなんてされたものだから面白くなかったのだ。
あの時も、何も言わずにはいはいと流していたらあんな事にならなかったのかな？
「はい、迷惑です」
急に声が聞こえたので振り返る。彼らもニコリネと同じ方向を向いた。
そこに居たのは、顔はフルフェイスのメットで覆い、防寒に良さそうなレザーのバイクウェアを着込み、しかし足元は何故か袴の様な着物の様な出立ちの──
「(えええええ！？クルト！お姉ちゃん変な格好の不審者に会っちゃったよぉぉぉ！！何か知らないけど上半身と下半身が別の文化を生きてる人ぉぉぉぉぉお！！)」
──ニコリネは自分の格好を棚に上げて心の中でそう叫んだ。
「え？いや…アンタ誰？」
「通りすがりのバイク乗り。女性に絡んでいるのが見えたから来ただけだ」
「へ、へぇ…そっスか」
「ってか、それ別にお兄さんに迷惑掛けて無くない…？」
「こんなところで屯して酒飲んで誰彼構わず絡みに行くのは迷惑以外の何者でもない」
ぴくっと動いた彼らの空気が変わった事にニコリネも気が付いた。このフルフェイスの彼の言う事は正論だ。正論だが、それは彼らの怒りに触れる行為だ。
「あァ？何かこっちが何も言わないでりゃめちゃくちゃ言うじゃん、アンタ」
「黙ってりゃ見逃してやろうと思ったのにさ」
明らかに怒りを纏った声で三人の内一人が呟く。その言葉がどこまで本気でどこまで実行できる事なのか分からない。だが彼らは三人、フルフェイスメットを被っているとは言え此方は一人。ニコリネがどうしようかと慌てていると、更にフルフェイスの彼は言葉を続けた。
「見逃す？お前らが？俺を？逆だろ」
「は！？調子乗んな！」
「調子に乗ってんのはどっちだ？三人集まっても文殊の知恵になれねぇ餓鬼がデカくなったつもりかよ？一人じゃナンパも出来ねぇ餓鬼が女に絡むな」
背はカンテ国の男性の平均を見ればうんと大きいわけじゃない。そんな彼なのに何故か身に纏う雰囲気が凄まじく、一見多勢に無勢であると見えるのだが逆に彼らが萎縮してしまっていた。フルフェイスの彼が伸ばした指が傷だらけで只者ではない空気を発していたからだ。
「あ…！！」
三人の内一人が声を上げ、残り二人に耳打ちをした。とは言え、小声にしては大きめだったので全部聞こえているわけだが。
「あのバイク…！あれ、あの 兄弟のバイクだ！」
「あの兄弟？」
「俺知ってるかも…！兄貴から聞いた事ある…！暴走族のあいつらだろ？鉄パイプのシュ…シュ何とか言う奴！！」
「兄弟揃ってヤベェ奴だって言うアレか…！？」
そう言うや否や、少し距離をとり始める三人。手を伸ばしても届かないくらいの距離まで自然に離れたと思ったら、「行こうぜ」の一言で足早に散ってしまった。
「えええええ！？さっきのイキリ何だったのぉぉぉお！？」
嵐の後の静けさにニコリネが困惑していると、フルフェイスの彼に声を掛けられた。顔色は分からないが、もう先程までの怖い圧は彼から消えていた。
「あの、お怪我ありませんか？」
「あ、はい…」
「良かった…全く、迷惑ですよねああ言うの。複数人でツルんで大きくなった気になって、人に迷惑な絡み方をして…」
「え、ええ…」
「…しかし、彼らは彼らでまた懊悩の日々を送っているのかも分かりません。お怪我が無いと聞いたからこそ言える戯言ではありますが、今日の彼らをどうか許してあげてください」
「え！？あ、はい、全然別に…」
「大丈夫です。迷惑なものは迷惑だと私も思いますから。ただ、もし後日ふと彼らを思い出す事があった時貴女に必要以上に彼らを恨めしく思う気持ちを持っていて欲しくなかっただけです。赦せ、とは言いませんが、日を跨いでも嫌な感情を抱いて欲しく無いと思ったんです」
表情こそ見えないが、きっと優しい顔をしながら言っているのだろう。明るい道まで送ってくれると言うので言葉に甘え、寮の建物が見えたくらいでフルフェイスの彼と別れた。部屋に帰った時にはチキンはすっかり冷めてしまっていた。
* * *
「失礼します。エークルンドさんはどちらにいらっしゃいますか？」
次の日、仕事に出たニコリネはいつも通りに生活していたが突然の来訪者に驚いて書類を盛大にぶちまけてしまった。先日タイガも含めた四人で昼食を摂った時に話をした人事部のロード・マーシュが何故かニコリネに用があると言って来たのだ。エフゲーニはそんなニコリネの反応を少し妙な目で見た後ロードの応対をした。
「……見ての通りの元気さであそこに居ますけど」
「うふふ、すみません。少し彼女をお借りして良いですか？ほんの数分で良いんです」
「ええ。長話にさえ気をつけてくだされば」
そう言って手招きをされたのでニコリネはよろよろと覚束ない足のままロードに近付く。
あれ！？私マーシュさんに何かしちゃったのかな！？とんでもない無礼を働いて、とんでもなく怒らせてしまった…とか？わざわざ汚染駆除班まで出向くとか相当怒ってるに決まってる。
青い顔でロードの傍に寄ったニコリネ。ロードは彼女の姿を確認すると封筒を差し出した。
「エークルンドさん、此方お返しします」
「はい…？」
「昨夜はありがとうございました。本当に助かりました」
封筒を開けて中を確認すると、何故か七百イリがそこに入っていた。何故ロードがお金を？彼に貸した記憶は無いのだが？未だ事情が分からず呆けた顔を向けると、ロードはキョトンとした顔になる。
「…もしかして、分かっていなかったんですか？」
「な、何がでしょう…？」
「ああ、こうしたら分かります？」
整えられた髪を雑にぐしゃぐしゃと乱れさせる。そして「この顔にスウェット着せてみてください」と呟いたものだからニコリネの頭を昨日の青年が高速で駆け抜けていった。
「えええええ！？昨日の…！え！？マーシュさん！？」
「ええ、私です。私もまさかサングラス掛けられてたのでお顔が分からず、すぐエークルンドさんだと気付けなかったんですが」
「まままままさかのマーシュさん、スウェット派なんですね！？」
「おや？何だと思ってました？」
「とても上質なパジャマ派かと…！！」
「うふふ、あれはあれで着たり脱いだりしやすくて好きなんですよ」
「で、でも髪の毛…！」
「ああ。私、セットしなきゃあんな感じですよ」
色々と予想外過ぎてニコリネは受け取った七百イリをどうしようかと思ってしまった。もし昨日の彼からお金を返してもらえたらそのお金でせっかくだからチキンを買おうと思っていたが、何だかあまりにも衝撃的な出来事過ぎてこのお金でチキンは買えないとそう思った。
こんな日は光の速さで時間が過ぎる。お昼過ぎにはお腹が空いてクタクタになってしまった。食堂に向かえば、明るいヒギリがいつもの笑顔で受付にいた。可愛い女の子の可愛い笑顔、癒されるなぁと思いつつその奥に居るエミールが気になった。そう言えば、昨日会った謎のフルフェイスの彼。彼の下半身はエミールと同じ様な着衣だったと思う。あの東國由来の様な格好、カンテ国にはありふれたものなのだろうか。それとも、やっぱり珍しいのだろうか。
「ねぇエミール」
ニコリネは言葉を発せられた事で目の前に並ぶ彼女 が誰だか気が付いた。医療班のヴォイド・ホロウ。直視できない様な凶悪なプロポーションの持ち主である。同時に、あのリーシェールさんにビタァン！！を施す思い切りは良いが凶悪な処置でも有名だ。そして彼女の持つトレーの上のご飯の量はいつも通りの特盛りであった。やっぱりあれだろうか。その特盛はそちらの特盛に吸収されるのだろうか。
「は、はははい！？」
ヴォイドに名前を呼ばれたエミールは目を彼方此方に泳がせながらオドオドと返事を返す。同じ袴なのに昨日の彼の堂々たる感じとは似ても似つかない。
「このエビフライ、もう一切れ欲しい…」
「え！？え、え、エビフライですか！？」
「こら！ヴォイ姐！色仕掛けしない！エビフライは一人二本！！」
「色仕掛け…？してない」
「エミールさんには普通に話し掛けるだけで色仕掛けになるの！」
「知らないそんなの」
「エミールさんはヴォイ姐みたいな元気なおっぱいに弱いヘタレだって知ってるでしょ！？」
ヒギリがそう言うのと同時に、厨房の奥から「ああっ！」と言う情けない声が上がりエミールが出て来た。妙に赤く染まったティッシュで手を押さえながら。
「すみません…指を切ったので医療班に行ってきます…！」
「また！？エミールさん切り過ぎだよ！」
今回のは完全にヒギリが原因な気がするが、幸い近くにヴォイドが居たので彼女に診て貰い軽く水で流すと絆創膏を貼るだけで処置は済んだ。
ニコリネも何事も無かった様に食券を出し、昼食を用意してもらう。ふとエミールの方を見ると、彼の手は絆創膏だらけだった。こんなにも昨日のフルフェイスの彼と似てるのにエミールは何だか情けなく見えるから不思議だ。不意に目が遭ったエミールは、一瞬ニコリネの視線にわたわたと慌てると恥ずかしそうににこりと不器用な会釈を見せた。
実は、フルフェイスのメットは壁一枚隔てる様な気分になるのかはたまた顔が隠れるからか、エミールはそれを被る事によって女性と普通に話せる様になるのだがそれはニコリネの知るところでは無い。
図らずも夜食にチキンを食べに出た事でマルフィ結社で出会った男性二人の夜の顔を見てしまったニコリネだが、それと昼の顔を一致させるのは人の顔をまともに見ると変な気持ちになってしまう彼女にはまだ当分難しそうである。
暗い路地で変な人を見たとか、暗がりに引き摺り込まれて暴行されたとか、電子世界でニュースは目にするが実際に見た事がないのでイメージは湧かなかったし少なくとも自分は無縁と思っていた。夜の帳が下りる時間帯など、完全に部屋に篭ってネットサーフィンに勤しむ時間だ。それをするのが当たり前に行なっていた。テロ前までは。
マルフィ結社に所属してから仕事を意識した生活になるからか少しだけ前よりも生活リズムが安定していた。ご飯はお母さんの味で無い事に最初は動揺してしまったけど、慣れて来て緊張が解けた今となっては食堂のご飯はたいへん美味しい。たまにお母さんの味が恋しくなるけれど、それはまた実家に帰った時の楽しみにしようと思うとそれがまた活力になる。
信じられない事に最近はカレンダーを購入した。毎日自堕落に朝とも昼とも夜ともわからない生活を続けていたけれど、以前よりは日々意識して生活をしている気がする。
しかしそれでも危機意識はすぐ培われるわけでなく、この日ニコリネは急に小腹が空いて小腹が空いて居られなくなり夜も更けた時間に財布片手に一人コンビニに赴いた。腹が減っては何とやらと聞いた事があるし、先日電子世界で話題になったのを見てから新発売のチキンを早く食べたかったのだ。別に誰も見て居ないだろうしと、誰に会うかも分からないのに「胸装甲」こと下着も着けず、上にコートを羽織っただけで飛び出していた。おまけに前髪はドラマを観るのに邪魔でヘアゴムとヘアバンドを使って完全に上げて縛って居たのを解かずにである。しかし、やはりこの姿を見られるのは恥と思ったのか一応変装用の大きめのサングラスを掛けてみる。
どうだろう？サングラス掛けるとか芸能人みたい？と一瞬考えたが、姿見に映ったのは下手をすれば不審者である。完全に陰キャの雰囲気と「どーでも良し」な雰囲気を纏ったニコリネがそこにいた。しかし気分的にも「どーでも良し」だったので不審者感を漂わせる事も最早「どーでも良し」。とりあえず結社の誰かに見られるのだけ避けてチキンを買えたら良いやと外に出た。
こんなお姉ちゃんの姿を見たら心配性なクルトは真っ先に着飾りの心配をするだろう。実家に居た時はそれが有り難くもあり煩わしくもあったわけだが、この生活になって一番気が楽なのはそう言った家族の過度な心配が無くなった事だろうか。自己責任の文字がチラついて適度な緊張感があるのも良い。結社で自立した生活を続けてしばらく経つが、少しずつこの限られた自由を享受する幸せを噛み締め始めて居た。幸いにも職場は良い人が多く、一番心配して居た人間関係でのトラブルは今のところ無い。責任のある自由と言うのもなかなか楽しいものかもしれない。
そんな事を考えながらすぐにレジに並ぶ。目当てのチキンはレジのすぐ横で売っているので、今日は他のものを見なくて良い。意外にもこの時間、少しコンビニは混んでおり、レジにはスウェット、ジャージ等ラフな格好な客が三人並んでいた。一人会計を終え、二人会計を終え、とうとうニコリネの前の客で最後と言う時、急にレジが止まった。
「ん…？」
ニコリネは身を傾けてレジを見る。目の前に居るスウェット姿の男性がズボンのポケットやら色々ひっくり返しているが、どうも財布を忘れたらしい。
「あーあ…よくあるやつ…」
そのまま知らん顔をしておきたかったが、彼の騒動がひと段落つかないとおそらく自分の会計の番は回ってこない。そして彼のレジに置いた物を見ると、歯磨き粉だった為ニコリネは少し悩んでしまった。確かにこの男性はドジだと思う。が、何だろう。これで成人向けのちょっとセクシーなお姉さんが載った雑誌とかギャンブルの雑誌とかで会計待ちしていたなら放っておこうと思うが、何故か買おうとして居たであろうものが歯磨き粉だった事にニコリネは謎の好感を抱いた。きっとこの歯磨き粉が良くて買いに出たら諸々忘れてしまったのだろう。
そうだ。頑張れ、頑張れ自分。せっかくだからちょっと殻を割ってみても良いじゃ無い。仮に失敗したとしても身近な人は今周りに居ないし。もし変な結果になったとして見てるのは私だけ。だから平気。
そう心の中で何度と呟くと、ニコリネは財布を取り出して居た。
「あ、あのぉうっ！！」
ちょっと上擦ってしまった。早速恥ずかしいのだが、いつもと違い「消えてしまいたい」と悲観的にならず更に言葉を続ける。
「す、すすすみません！チキン一つお願いします！お会計一緒で！！」
店員も、勿論先に会計して居た男性も状況が飲み込めないと言った顔でニコリネを見る。それもそうだ。無関係な人間がいきなり現れて自分が会計をすると言うのだから不審がって当然だ。
小さな親切、大きなお世話とかだったらどうしよう！？と急に現実をネガティブに受け止めていると目の前の男性が振り返りニコリネを見た。
「あ、あの…流石に申し訳ないです…そんな事していただいて…」
「あ、えと……い、いえ！？歯磨き粉なんてそんな！たたた大したものじゃ無いし！！」
「すんませーん、お会計全部で九百イリでーす」
「………」
結構大したものだった。
え？チキンが二百イリくらいだから、え？この歯磨き粉七百イリもするの？
そう言いたげなニコリネの心の声が漏れてしまって居たのか、男性は居た堪れなさそうに頬を掻いた。ちょっと痛い出費だった。
「本当に申し訳ありません…財布を入れ忘れてしかも携帯端末まで忘れてしまって…」
「い、いえ…！でも良かったです！歯磨き粉が無事買えて！ふひひっ！」
自分の財布はちょっと痛かったが。
「いえ…流石にこの出費は悪いです。お金お返ししたいんでご連絡先を聞いても…？」
しかし、まさかの男性に連絡先を聞かれてニコリネは焦った。男性と接点が無い歴実に年の数、未だかつてナンパなど遭った事もないニコリネにとって連絡先を聞かれるなど明日は雨が降る、いや雹が、むしろ霰が、それとも槍が、そんな事より機械人形が降って来そうな勢いだった。
目の前の男性は所謂スウェット族。だから多分部屋着の趣味は自分と違わない。そして気持ち長い髪を少しボサボサさせているけどトータルとして見たらきちんとしている方。顔立ちがまだ幼い風に見えるので自分より年下かもしれない。とは言え、自信の無さ故か恥ずかしくて顔をしっかり直視できないし、良かれと思って掛けてきたサングラスが完全に邪魔だったので彼がどんな顔をしているのかしっかり分からないわけだが。
しかしそれでも異性に連絡先を聞かれるなど人生の中で前例の無い事だった。
「あ、えっと…私も端末忘れちゃったかなー？みたいな…」
「ん？さっきアプリの帳簿に金額付けてませんでした？」
「あ、えっとそれはですね…ふひひっ」
笑って誤魔化して良いのは美少女だけだ。私が笑って誤魔化したらそれは恐怖映像になってしまう。
そう思ったニコリネ、今度こそ「消えてしまいたい」と言う単語が頭を過ったが、意外にも男性は優しかった。
「…やはり見知らぬ男にいきなり連絡先聞かれたら困っちゃいますよねぇ…？」
「そ、そんな事……ある様な無い様な…」
「いえ、すみません。では職場の連絡先…とかならいかがですか？貴女の職場の下までお返しに伺います」
「え！？だ、駄目ですよ！そんな、私の為に足運んでもらうなんて今度逆に申し訳ないです！！」
「しかしこの歯磨き粉、結構な金額だと思いまして…」
確かに、この歯磨き粉はチキン三個分くらいと思うと少し高い。この人も抵抗無いみたいだし、お言葉に甘えよう。
ニコリネは紙とペンを取り出すと、「マルフィ結社汚染駆除班、ニコリネ・エークルンド」と書き、下に結社の連絡先を書いた。個人情報漏洩か？どこまでなら書いても問題無い？社会人経験が浅いニコリネはよく分からないままそれを渡す。こう言うやりとりからストーカーとかに遭ってしまったらどうしよう！？と妄想が爆発しそうになりつつ、ガラスに反射した自分の姿が「どーでも良し」の化身な事を確認して思いとどまった。
「おや……？」
男性はメモを見ると、不思議そうに顎に手をやる。そしてニコリネの顔をじっと見た。
「あの…」
「は、はひっ…！？」
「ニコリネ・エークルンドさん？」
「そそそそうです私がニコリネです！え！？もしかしてこう言う時ってフルネームで書かない方が良いんですか！？」
「
お休みなさい。そう言い残して男性は一足先に店を出てしまった。何だかどっと疲れた気がするが悪い事はしていないのでむしろ気分は晴れやかだ。チキンが冷める前に帰って食べようとワクワクしながら歩き出すと、目の前で屯している三人の男性の姿を捉えた。
まだ若い。弟のクルトと同じくらいだろうか。夜も更けて寝ている人も居そうな時間にも関わらず大声で盛り上がっている。その手には缶ビールを持ち、足元にも空き缶が散らばっている。嫌だなぁ、ここは公共の道路でパブじゃ無いのに。ニコリネが嫌そうな顔をしたのはそれだけじゃ無い。彼らは酔っているのか、ニコリネより先に彼らと擦れ違った男性を煽ったり揶揄ったりしていた。所謂、絡むタイプの酔っ払いの様だ。
「うぅ…」
今この瞬間、自分は「無いもの」として極めて存在を薄くしなければならない。先程通った人畜無害そうなおじさまも絡まれていたんだ、自分にも妙な因縁を付けてくる事も有り得なくはないのだ。
「え…？あの女ヤバくない？」
「マジだ。あの格好、女捨ててんじゃん」
「いや、意外とオフの時ああ言う格好の女の方が可愛かったりしない？」
ほら絡まれた。ニコリネは無視する様に足早に進もうとするが、彼らはニヤニヤと笑いながらやってくる。いつもならすぐ走り抜けてしまうが、ニコリネの足取りは少し重くなった。品定めをする様な彼らの、自分を見下す様な嘲笑う様な目が中学時代の彼女達と被ってしまったのだ。
『あの地味子がニコちゃんと同じ愛称とか生意気なんだけど』
何をもって人を生意気と言うのか、名前を付けたのは親なのだから文句は親に言って欲しい。いや、違う。そもそもとして文句なんて言わないで欲しい。一体自分が何をしたと言うのだろう？そんな風に通り掛かりにいきなり酷い言葉を吐かれる様な事、私が一度でもあなた達にした？
「ねーお姉さんどこ行くのー？」
「俺達と飲まない？」
「どうせ一人でしょ？」
一人だって良いじゃない。一人気ままにチキン食べてドラマ観てたって良いじゃない。邪魔だからと思って色気も無く前髪上げてたって良いじゃない。せめてもの顔隠しにこんな暗がりでサングラス掛けてても良いじゃない、世の中光に目が弱い人だって居るんだから。ノーブラだって良いじゃない。あ、それはあんまり良くないか。
「やめて…ください…」
言わなければ良かったのに、声を上げてしまった。別に無視すればそれで済んだのに、中途半端に声を上げたから彼らも関わらざるを得なくなる。
「え？何？もしかして迷惑とか言っちゃう？」
「うわー。お姉さん酷ぇー」
「あ、いや…その……」
彼らは彼らで、まさか無視されると思っていたのに反応したニコリネに対し思いきり困惑の眼差しを向ける。ニコリネはむしろ罪悪感でいっぱいになった。空気を読まずに反応なんてしてしまったから彼らと自分に接点が出来てしまった。
ごめんなさい、関わらせてごめんなさい。私が拒否の姿勢すら見せなければ一方的に言われて終わるだけだったのに。
『みんな、そんな言い方可哀想だよ。ね、エークルンドさん？』
そう言って嘲笑ったニコレッタを思い出す。あの時自分は空気も読まず、彼女の言葉を鵜呑みにして『親が付けた愛称なんだけどな…』と口答えをした。その瞬間、ニコレッタの笑顔が歪なほど歪み、そうしてニコリネは次の日から陰湿ないじめを受けた。
彼女の目は言っていた。「お前、空気読めよ」と。ニコレッタも周りの子達も、ニコリネがただ口籠る姿が見たかっただけ。それを口答えなんてされたものだから面白くなかったのだ。
あの時も、何も言わずにはいはいと流していたらあんな事にならなかったのかな？
「はい、迷惑です」
急に声が聞こえたので振り返る。彼らもニコリネと同じ方向を向いた。
そこに居たのは、顔はフルフェイスのメットで覆い、防寒に良さそうなレザーのバイクウェアを着込み、しかし足元は何故か袴の様な着物の様な出立ちの──
「(えええええ！？クルト！お姉ちゃん変な格好の不審者に会っちゃったよぉぉぉ！！何か知らないけど上半身と下半身が別の文化を生きてる人ぉぉぉぉぉお！！)」
──ニコリネは自分の格好を棚に上げて心の中でそう叫んだ。
「え？いや…アンタ誰？」
「通りすがりのバイク乗り。女性に絡んでいるのが見えたから来ただけだ」
「へ、へぇ…そっスか」
「ってか、それ別にお兄さんに迷惑掛けて無くない…？」
「こんなところで屯して酒飲んで誰彼構わず絡みに行くのは迷惑以外の何者でもない」
ぴくっと動いた彼らの空気が変わった事にニコリネも気が付いた。このフルフェイスの彼の言う事は正論だ。正論だが、それは彼らの怒りに触れる行為だ。
「あァ？何かこっちが何も言わないでりゃめちゃくちゃ言うじゃん、アンタ」
「黙ってりゃ見逃してやろうと思ったのにさ」
明らかに怒りを纏った声で三人の内一人が呟く。その言葉がどこまで本気でどこまで実行できる事なのか分からない。だが彼らは三人、フルフェイスメットを被っているとは言え此方は一人。ニコリネがどうしようかと慌てていると、更にフルフェイスの彼は言葉を続けた。
「見逃す？お前らが？俺を？逆だろ」
「は！？調子乗んな！」
「調子に乗ってんのはどっちだ？三人集まっても文殊の知恵になれねぇ餓鬼がデカくなったつもりかよ？一人じゃナンパも出来ねぇ餓鬼が女に絡むな」
背はカンテ国の男性の平均を見ればうんと大きいわけじゃない。そんな彼なのに何故か身に纏う雰囲気が凄まじく、一見多勢に無勢であると見えるのだが逆に彼らが萎縮してしまっていた。フルフェイスの彼が伸ばした指が傷だらけで只者ではない空気を発していたからだ。
「あ…！！」
三人の内一人が声を上げ、残り二人に耳打ちをした。とは言え、小声にしては大きめだったので全部聞こえているわけだが。
「あのバイク…！あれ、
「あの兄弟？」
「俺知ってるかも…！兄貴から聞いた事ある…！暴走族のあいつらだろ？鉄パイプのシュ…シュ何とか言う奴！！」
「兄弟揃ってヤベェ奴だって言うアレか…！？」
そう言うや否や、少し距離をとり始める三人。手を伸ばしても届かないくらいの距離まで自然に離れたと思ったら、「行こうぜ」の一言で足早に散ってしまった。
「えええええ！？さっきのイキリ何だったのぉぉぉお！？」
嵐の後の静けさにニコリネが困惑していると、フルフェイスの彼に声を掛けられた。顔色は分からないが、もう先程までの怖い圧は彼から消えていた。
「あの、お怪我ありませんか？」
「あ、はい…」
「良かった…全く、迷惑ですよねああ言うの。複数人でツルんで大きくなった気になって、人に迷惑な絡み方をして…」
「え、ええ…」
「…しかし、彼らは彼らでまた懊悩の日々を送っているのかも分かりません。お怪我が無いと聞いたからこそ言える戯言ではありますが、今日の彼らをどうか許してあげてください」
「え！？あ、はい、全然別に…」
「大丈夫です。迷惑なものは迷惑だと私も思いますから。ただ、もし後日ふと彼らを思い出す事があった時貴女に必要以上に彼らを恨めしく思う気持ちを持っていて欲しくなかっただけです。赦せ、とは言いませんが、日を跨いでも嫌な感情を抱いて欲しく無いと思ったんです」
表情こそ見えないが、きっと優しい顔をしながら言っているのだろう。明るい道まで送ってくれると言うので言葉に甘え、寮の建物が見えたくらいでフルフェイスの彼と別れた。部屋に帰った時にはチキンはすっかり冷めてしまっていた。
* * *
「失礼します。エークルンドさんはどちらにいらっしゃいますか？」
次の日、仕事に出たニコリネはいつも通りに生活していたが突然の来訪者に驚いて書類を盛大にぶちまけてしまった。先日タイガも含めた四人で昼食を摂った時に話をした人事部のロード・マーシュが何故かニコリネに用があると言って来たのだ。エフゲーニはそんなニコリネの反応を少し妙な目で見た後ロードの応対をした。
「……見ての通りの元気さであそこに居ますけど」
「うふふ、すみません。少し彼女をお借りして良いですか？ほんの数分で良いんです」
「ええ。長話にさえ気をつけてくだされば」
そう言って手招きをされたのでニコリネはよろよろと覚束ない足のままロードに近付く。
あれ！？私マーシュさんに何かしちゃったのかな！？とんでもない無礼を働いて、とんでもなく怒らせてしまった…とか？わざわざ汚染駆除班まで出向くとか相当怒ってるに決まってる。
青い顔でロードの傍に寄ったニコリネ。ロードは彼女の姿を確認すると封筒を差し出した。
「エークルンドさん、此方お返しします」
「はい…？」
「昨夜はありがとうございました。本当に助かりました」
封筒を開けて中を確認すると、何故か七百イリがそこに入っていた。何故ロードがお金を？彼に貸した記憶は無いのだが？未だ事情が分からず呆けた顔を向けると、ロードはキョトンとした顔になる。
「…もしかして、分かっていなかったんですか？」
「な、何がでしょう…？」
「ああ、こうしたら分かります？」
整えられた髪を雑にぐしゃぐしゃと乱れさせる。そして「この顔にスウェット着せてみてください」と呟いたものだからニコリネの頭を昨日の青年が高速で駆け抜けていった。
「えええええ！？昨日の…！え！？マーシュさん！？」
「ええ、私です。私もまさかサングラス掛けられてたのでお顔が分からず、すぐエークルンドさんだと気付けなかったんですが」
「まままままさかのマーシュさん、スウェット派なんですね！？」
「おや？何だと思ってました？」
「とても上質なパジャマ派かと…！！」
「うふふ、あれはあれで着たり脱いだりしやすくて好きなんですよ」
「で、でも髪の毛…！」
「ああ。私、セットしなきゃあんな感じですよ」
色々と予想外過ぎてニコリネは受け取った七百イリをどうしようかと思ってしまった。もし昨日の彼からお金を返してもらえたらそのお金でせっかくだからチキンを買おうと思っていたが、何だかあまりにも衝撃的な出来事過ぎてこのお金でチキンは買えないとそう思った。
こんな日は光の速さで時間が過ぎる。お昼過ぎにはお腹が空いてクタクタになってしまった。食堂に向かえば、明るいヒギリがいつもの笑顔で受付にいた。可愛い女の子の可愛い笑顔、癒されるなぁと思いつつその奥に居るエミールが気になった。そう言えば、昨日会った謎のフルフェイスの彼。彼の下半身はエミールと同じ様な着衣だったと思う。あの東國由来の様な格好、カンテ国にはありふれたものなのだろうか。それとも、やっぱり珍しいのだろうか。
「ねぇエミール」
ニコリネは言葉を発せられた事で目の前に並ぶ
「は、はははい！？」
ヴォイドに名前を呼ばれたエミールは目を彼方此方に泳がせながらオドオドと返事を返す。同じ袴なのに昨日の彼の堂々たる感じとは似ても似つかない。
「このエビフライ、もう一切れ欲しい…」
「え！？え、え、エビフライですか！？」
「こら！ヴォイ姐！色仕掛けしない！エビフライは一人二本！！」
「色仕掛け…？してない」
「エミールさんには普通に話し掛けるだけで色仕掛けになるの！」
「知らないそんなの」
「エミールさんはヴォイ姐みたいな元気なおっぱいに弱いヘタレだって知ってるでしょ！？」
ヒギリがそう言うのと同時に、厨房の奥から「ああっ！」と言う情けない声が上がりエミールが出て来た。妙に赤く染まったティッシュで手を押さえながら。
「すみません…指を切ったので医療班に行ってきます…！」
「また！？エミールさん切り過ぎだよ！」
今回のは完全にヒギリが原因な気がするが、幸い近くにヴォイドが居たので彼女に診て貰い軽く水で流すと絆創膏を貼るだけで処置は済んだ。
ニコリネも何事も無かった様に食券を出し、昼食を用意してもらう。ふとエミールの方を見ると、彼の手は絆創膏だらけだった。こんなにも昨日のフルフェイスの彼と似てるのにエミールは何だか情けなく見えるから不思議だ。不意に目が遭ったエミールは、一瞬ニコリネの視線にわたわたと慌てると恥ずかしそうににこりと不器用な会釈を見せた。
実は、フルフェイスのメットは壁一枚隔てる様な気分になるのかはたまた顔が隠れるからか、エミールはそれを被る事によって女性と普通に話せる様になるのだがそれはニコリネの知るところでは無い。
図らずも夜食にチキンを食べに出た事でマルフィ結社で出会った男性二人の夜の顔を見てしまったニコリネだが、それと昼の顔を一致させるのは人の顔をまともに見ると変な気持ちになってしまう彼女にはまだ当分難しそうである。
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