君に掛ける魔法の話／燐花
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rinka_creation 2022年03月06日(日) 19:27:18履歴
無理難題 
マルフィ結社は機械人形との共存を選んだ組織だ。しかし、先のテロを起こしたのもまた機械人形。陰謀説も安易に囁かれるくらい、彼らの背後に誰かが居たのだと言う事は皆分かっている。何故なら機械人形が自らの意思で人に危害を加えようと思ったなど考えにくいからだ。分かっているが、人々は皆分かりやすく実行犯である機械人形を怖れた。機械人形達が各々示しあった様に自我を失くし、各々示しあった様に暴れたわけではない。そんな訳はないのだが、矢張り直接的に手を下す形になった彼等を人々は怖れた。
この日、シリルの前に現れた女性も同じ様な目を向けた。
「私、機械人形に用なんか無いわ！！」
シリルの掴まれた手を払い除ける様にする彼女。シリルは機械人形であるが故、本当は簡単に払い除けられないだけの力があったが事情が事情なのであっさり払われてやる。そんなシリルの手を痛そうな顔で見つめながらひょっこり顔を出したウルリッカがシリルに耳打ちした。
「どうする？軍警呼ばなくて良いの？」
ウルリッカとシリルがドラッグストアで出会ったその女性の手を何故シリルが掴んだか。その理由は至極簡単で、まだ会計を通していない商品を彼女が鞄にねじ込むところを見てしまったからだ。
目深にフードを被って見るからに怪しい風貌だったので見ていたのだが案の定な動きをした。騒ぎが大きくなる前に説得しようかと思ったが、彼女は自分の腕を掴んだのが人間では無いと気付くや否や、吐き捨てる様に「大罪人の癖に！いっぱい人を殺した癖に！」とシリルを罵った。周りがどよめきながらシリルに目を遣るが、勿論何もしていないシリルには関係の無い話だ。近くで一部始終を見ていたウルリッカが飛び込もうとしたが、既のところでシリルがそれを止めた。しかし曲がりなりにも職場の同僚、兄が主人登録をしている家族同然な機械人形が謂れもない非難を受けたのだ。穏やかなウルリッカだって腹が立つ。それに、今この瞬間罪を犯そうとしていたのは彼女なのだからと軍警の名前を出したが、シリルは人間で言う「悲しげな顔」を浮かべただけでそれには同意しなかった。
「ウルちゃん、ワタシは大丈夫よ」
「でも…あんな事言われて…」
「ううん、仕方ないわ。きっと彼女は機械人形に大事な誰かを奪われたのかも。そうだとしたら、ワタシ達はいつ起爆するか分からない爆弾みたく見えるかもしれないわよね。怖いと思うのは仕方ないわよ」
「でも…」
「それよりカップ麺は買ったの？シキと一緒に食べるんでしょ？早く買って帰らなきゃね。隊長達も皆待ってるんだから」
「シリルは何買うの？」
「ワタシ？ワタシはそこの赤いクリームチークを買うわ！領収書はアルヴィ・マルムフェで」
「…え？お兄ちゃんに化粧…？」
うげぇ。と言いたげな顔を向けるウルリッカにくすりと笑うシリル。そうだけど、ウルちゃんが考えてる化粧と違うわよー！と言ってあげれば「じゃあ何だ？」と言う目を向けられた。
「ほら、肌は綺麗に見えた方が良いじゃない？」
「ん？んー…」
「やーね。お髭よ！お髭」
「ああ」
男性にとって切っても切れない話題が髭だ。それはどんな男性だって絶対に生えるもの。下手をすれば女性にだって生える。男性が目立つだけだ。そして男性の中には、髭を剃った数時間後に伸びて来て目立ってしまういわゆる青髭によって印象の変わる顔色を気にする者も多い。
アルヴィも肌の色が白い分仕事終わりは損な顔色になっている事が多かった。
「どうしても毛が太い人っているからね。青髭を隠すにはコンシーラーに赤いクリームチーク混ぜるのがおすすめよ！」
「へぇ…」
とは言え、ウルリッカにはあまり関係の無い話ではある。そんな彼女の頭には、夜食仲間の巨人が浮かんでいた。
「シキも…」
「え？」
「シキも生えるのかな？髭…」
「生えるんじゃないかしら…？シキも男の子だし…」
「隊長も…？」
「隊長も」
「キツネさんも…？」
「ロードは…あ、ロードや隊長は脱毛してるかもねー」
「おお…ぉ…？」
まだあまり納得の行っていない顔をしたウルリッカを連れてユウヤミの元へ戻ろうと足を進める。会計を終えて店を一歩出ると、何やらトラックの方向が騒がしかった。
何故か車に乗っていたメンバーが全員外に出ていたのみならず、エドゥアルトとガートに至っては誰かを取り押さえている様だった。そして二人が取り押さえている誰かを見つめるユウヤミの姿が見えた。
「隊長…？」
ウルリッカが不安そうに声を掛ける。ユウヤミは振り返り、ウルリッカを見てにこりと微笑むといつもの調子で「おかえり」と呟いた。しかし、その目はいつも以上に冷たく見えた。
「流石に現行犯は私も見過ごせなくてねぇ…立場上さ…。さっきウチのシリル君に止められただろう？そこで辞めておけば良かったのにねぇ」
ユウヤミのその言葉にウルリッカもシリルも「あ！」と声を上げる。エドゥアルトとガートが取り押さえて居たのは、先程シリルが未然に防いだと思っていた万引き犯の女性だった。
「あらアナタ…さっきの…」
シリルが口を開くと女性はキツい目で彼女を睨み、そして指差した。
「何でこんな物 連れて歩いてるのよ！？おかしいわよあんた達！それ も！それ だってただの殺戮兵器でしょ！？そんなもん連れてるなんて頭おかしいんじゃない！？」
「……じゃかぁしいわぁっ！！百歩譲って機械人形嫌いって理由でウチらを邪険に扱うのはまだ許したる！許したるけど自分万引きしようとしてた癖に何棚上げしとんねん！！」
「うるさいわよ機械兵器！！」
「ウチはやっとらんっちゅうねん！！」
これはおそらくガードだから成立しているやり取りだ。本来こんなナイーヴな話題でこんな賑やかな応酬は繰り広げられないだろう。それを感じ取ったのかヨダカがガートを止めに入る。噛み付くガートを押さえ込むヨダカの横で一歩彼女に歩みを進めたエドゥアルトが苦々しく口を開いた。
「それでもさ、お姉さん…それはそれ、これはこれですよ。どんな理由があろうと、お姉さんがしようとしたのはお店に損害を与える行為でしょ？機械人形を理由にして良い物じゃないって分かってるはずです」
「………」
エドゥアルトの至極真っ当な物言いに女性は黙り込む。後ろで見ていたユウヤミも続けて口を開いた。
「君が先のテロで何某かの損害を機械人形から受けたとする。しかし、その君が今度は関係の無いこの店に対して損害を働く。それは…世間一般的に『連鎖行為』って言わないかい？それに、昔あるドラマを観た時に印象的なセリフがあってね。それによると、人が不当な目に遭った時一番避けねばならないのが不当な報復をする事だそうだよ。何故だか分かるかい？不当な報復をする事で、君の受けた不当が不当だと誰も思わないどころか、やっぱり君はその不当と思っていたものを受けて然るべきだと思わせてしまうからなんだってね。君、ここで生み出そうとしていた損害は君が新たに生み出す『不当』だよ」
「……そんな事、言われなくても分かってるわ」
「うん。それじゃあ、間違って 持って来てしまった商品、私に渡してくれるかな？」
ユウヤミに促されるまま女性は彼の手に持っていたものを乗せた。基本的には、三百イリ程で買える所謂『プチプラ』な化粧品ばかりで居た堪れない気持ちになる。女性の手の平にも容易に収まってしまうような大きさのチーク、アイシャドウがユウヤミの幾分大きな手の平に乗せられた。しかし、割と低価格な商品であるからと言え罪は罪だ。それが百イリだろうが五十イリだろうが店の損失は損失だ。
「…うん、よく正直に出してくれたね」
「あんな風に言われたら…出さなかった時『最悪の事態』にしかならないって分かるし…」
「それでも、君の為にもこの方が良かったよ」
そう言って差し出した手をぎゅっと優しく握るユウヤミ。手袋越しではあるが、彼の行動に照れた様に女性は頬を染めた。
あらヤダ、隊長ったら罪な人。
そうシリルが口にすれば、ウルリッカがその黒目がちな目を彼女に向けて「え？罪って…それはあの女の人だよ…？」と呟いたので、彼女にはこのままで居て欲しいとシリルは思った。
「シリル君」
女性と一緒に店側に謝りに行こうとしていたユウヤミがシリルに声を掛ける。すっかり油断していて省エネの様なモードになっていたシリルは突然のユウヤミの呼び掛けに思考回路がショートしそうな程急な動かし方をした。
「な、何かしら？隊長」
「ちょっと君に頼みがあるんだ」
「頼み？」
「ああ、マルムフェ君と一緒に彼女を送っていって欲しいんだ」
「「「えっ！？」」」
ウルリッカとシリルは「何故機械人形を嫌っている女性を…？」と怪訝そうな顔をしたし、女性は女性で「何故先程悶着あった機械人形を…？」と怪訝そうな顔をした。
「あの、ワタシに務まるかしら？隊長…」
「ん？うん、宜しくね」
ユウヤミ・リーシェル。彼は時折有無を言わさぬ男になる。
この日、シリルの前に現れた女性も同じ様な目を向けた。
「私、機械人形に用なんか無いわ！！」
シリルの掴まれた手を払い除ける様にする彼女。シリルは機械人形であるが故、本当は簡単に払い除けられないだけの力があったが事情が事情なのであっさり払われてやる。そんなシリルの手を痛そうな顔で見つめながらひょっこり顔を出したウルリッカがシリルに耳打ちした。
「どうする？軍警呼ばなくて良いの？」
ウルリッカとシリルがドラッグストアで出会ったその女性の手を何故シリルが掴んだか。その理由は至極簡単で、まだ会計を通していない商品を彼女が鞄にねじ込むところを見てしまったからだ。
目深にフードを被って見るからに怪しい風貌だったので見ていたのだが案の定な動きをした。騒ぎが大きくなる前に説得しようかと思ったが、彼女は自分の腕を掴んだのが人間では無いと気付くや否や、吐き捨てる様に「大罪人の癖に！いっぱい人を殺した癖に！」とシリルを罵った。周りがどよめきながらシリルに目を遣るが、勿論何もしていないシリルには関係の無い話だ。近くで一部始終を見ていたウルリッカが飛び込もうとしたが、既のところでシリルがそれを止めた。しかし曲がりなりにも職場の同僚、兄が主人登録をしている家族同然な機械人形が謂れもない非難を受けたのだ。穏やかなウルリッカだって腹が立つ。それに、今この瞬間罪を犯そうとしていたのは彼女なのだからと軍警の名前を出したが、シリルは人間で言う「悲しげな顔」を浮かべただけでそれには同意しなかった。
「ウルちゃん、ワタシは大丈夫よ」
「でも…あんな事言われて…」
「ううん、仕方ないわ。きっと彼女は機械人形に大事な誰かを奪われたのかも。そうだとしたら、ワタシ達はいつ起爆するか分からない爆弾みたく見えるかもしれないわよね。怖いと思うのは仕方ないわよ」
「でも…」
「それよりカップ麺は買ったの？シキと一緒に食べるんでしょ？早く買って帰らなきゃね。隊長達も皆待ってるんだから」
「シリルは何買うの？」
「ワタシ？ワタシはそこの赤いクリームチークを買うわ！領収書はアルヴィ・マルムフェで」
「…え？お兄ちゃんに化粧…？」
うげぇ。と言いたげな顔を向けるウルリッカにくすりと笑うシリル。そうだけど、ウルちゃんが考えてる化粧と違うわよー！と言ってあげれば「じゃあ何だ？」と言う目を向けられた。
「ほら、肌は綺麗に見えた方が良いじゃない？」
「ん？んー…」
「やーね。お髭よ！お髭」
「ああ」
男性にとって切っても切れない話題が髭だ。それはどんな男性だって絶対に生えるもの。下手をすれば女性にだって生える。男性が目立つだけだ。そして男性の中には、髭を剃った数時間後に伸びて来て目立ってしまういわゆる青髭によって印象の変わる顔色を気にする者も多い。
アルヴィも肌の色が白い分仕事終わりは損な顔色になっている事が多かった。
「どうしても毛が太い人っているからね。青髭を隠すにはコンシーラーに赤いクリームチーク混ぜるのがおすすめよ！」
「へぇ…」
とは言え、ウルリッカにはあまり関係の無い話ではある。そんな彼女の頭には、夜食仲間の巨人が浮かんでいた。
「シキも…」
「え？」
「シキも生えるのかな？髭…」
「生えるんじゃないかしら…？シキも男の子だし…」
「隊長も…？」
「隊長も」
「キツネさんも…？」
「ロードは…あ、ロードや隊長は脱毛してるかもねー」
「おお…ぉ…？」
まだあまり納得の行っていない顔をしたウルリッカを連れてユウヤミの元へ戻ろうと足を進める。会計を終えて店を一歩出ると、何やらトラックの方向が騒がしかった。
何故か車に乗っていたメンバーが全員外に出ていたのみならず、エドゥアルトとガートに至っては誰かを取り押さえている様だった。そして二人が取り押さえている誰かを見つめるユウヤミの姿が見えた。
「隊長…？」
ウルリッカが不安そうに声を掛ける。ユウヤミは振り返り、ウルリッカを見てにこりと微笑むといつもの調子で「おかえり」と呟いた。しかし、その目はいつも以上に冷たく見えた。
「流石に現行犯は私も見過ごせなくてねぇ…立場上さ…。さっきウチのシリル君に止められただろう？そこで辞めておけば良かったのにねぇ」
ユウヤミのその言葉にウルリッカもシリルも「あ！」と声を上げる。エドゥアルトとガートが取り押さえて居たのは、先程シリルが未然に防いだと思っていた万引き犯の女性だった。
「あらアナタ…さっきの…」
シリルが口を開くと女性はキツい目で彼女を睨み、そして指差した。
「何で
「……じゃかぁしいわぁっ！！百歩譲って機械人形嫌いって理由でウチらを邪険に扱うのはまだ許したる！許したるけど自分万引きしようとしてた癖に何棚上げしとんねん！！」
「うるさいわよ機械兵器！！」
「ウチはやっとらんっちゅうねん！！」
これはおそらくガードだから成立しているやり取りだ。本来こんなナイーヴな話題でこんな賑やかな応酬は繰り広げられないだろう。それを感じ取ったのかヨダカがガートを止めに入る。噛み付くガートを押さえ込むヨダカの横で一歩彼女に歩みを進めたエドゥアルトが苦々しく口を開いた。
「それでもさ、お姉さん…それはそれ、これはこれですよ。どんな理由があろうと、お姉さんがしようとしたのはお店に損害を与える行為でしょ？機械人形を理由にして良い物じゃないって分かってるはずです」
「………」
エドゥアルトの至極真っ当な物言いに女性は黙り込む。後ろで見ていたユウヤミも続けて口を開いた。
「君が先のテロで何某かの損害を機械人形から受けたとする。しかし、その君が今度は関係の無いこの店に対して損害を働く。それは…世間一般的に『連鎖行為』って言わないかい？それに、昔あるドラマを観た時に印象的なセリフがあってね。それによると、人が不当な目に遭った時一番避けねばならないのが不当な報復をする事だそうだよ。何故だか分かるかい？不当な報復をする事で、君の受けた不当が不当だと誰も思わないどころか、やっぱり君はその不当と思っていたものを受けて然るべきだと思わせてしまうからなんだってね。君、ここで生み出そうとしていた損害は君が新たに生み出す『不当』だよ」
「……そんな事、言われなくても分かってるわ」
「うん。それじゃあ、
ユウヤミに促されるまま女性は彼の手に持っていたものを乗せた。基本的には、三百イリ程で買える所謂『プチプラ』な化粧品ばかりで居た堪れない気持ちになる。女性の手の平にも容易に収まってしまうような大きさのチーク、アイシャドウがユウヤミの幾分大きな手の平に乗せられた。しかし、割と低価格な商品であるからと言え罪は罪だ。それが百イリだろうが五十イリだろうが店の損失は損失だ。
「…うん、よく正直に出してくれたね」
「あんな風に言われたら…出さなかった時『最悪の事態』にしかならないって分かるし…」
「それでも、君の為にもこの方が良かったよ」
そう言って差し出した手をぎゅっと優しく握るユウヤミ。手袋越しではあるが、彼の行動に照れた様に女性は頬を染めた。
あらヤダ、隊長ったら罪な人。
そうシリルが口にすれば、ウルリッカがその黒目がちな目を彼女に向けて「え？罪って…それはあの女の人だよ…？」と呟いたので、彼女にはこのままで居て欲しいとシリルは思った。
「シリル君」
女性と一緒に店側に謝りに行こうとしていたユウヤミがシリルに声を掛ける。すっかり油断していて省エネの様なモードになっていたシリルは突然のユウヤミの呼び掛けに思考回路がショートしそうな程急な動かし方をした。
「な、何かしら？隊長」
「ちょっと君に頼みがあるんだ」
「頼み？」
「ああ、マルムフェ君と一緒に彼女を送っていって欲しいんだ」
「「「えっ！？」」」
ウルリッカとシリルは「何故機械人形を嫌っている女性を…？」と怪訝そうな顔をしたし、女性は女性で「何故先程悶着あった機械人形を…？」と怪訝そうな顔をした。
「あの、ワタシに務まるかしら？隊長…」
「ん？うん、宜しくね」
ユウヤミ・リーシェル。彼は時折有無を言わさぬ男になる。
無理なもんかい
「シリル君、腕を見るんだよ」
ユウヤミはシリルとウルリッカを送り出す際、シリルにだけこっそりそう言った。
「腕？」
「そう。腕だ。彼女の腕には君にしか出来ない事が隠れている」
ワタシにしか出来ない事、何だろう？
ユウヤミの言葉の意味を読み解こうと思考回路を巡らせていると、ウルリッカがシリルの名前を遠くから呼んだ。急いで駆けるとウルリッカは黒目がちな瞳を少しだけじっとり伏せる様な目線で女性を見た。
「この子、ミシロ。名前ミシロって言うんだって」
「指差さないでよウルリッカ」
流石ノーリアクションな人懐っこさに定評のあるウルリッカ。目立つ様なオーバーな事はしていないのにもう女性の名前を聞き出したらしい。
「そう…家に帰るまでの短い間だけどよろしくね、ミシロ。ワタシはシリルって言うの」
「……アンタ、男なの？女なの？どっち？」
女性──ミシロがシリルに興味無さげにそう尋ねる。シリルは特に何も思わないのでにこりと微笑むだけだった。
「ワタシ、無性なの。一応男でも女でもないわ」
「ふぅん……もしかしてこの質問、良くなかった？」
「何故？」
「だって…深く考えずに聞いちゃったけど、人によってはタブーだったりするかな？って…」
少し俯く様に口にするミシロ。シリルはくすりと笑うとミシロがどう言う人間かと言う予測を立てる。
女性、機械人形への偏見有り、気性に波がある、ただし人を傷付ける言葉に抵抗が無いわけではない。
人を傷付ける言葉の何たるかを知っており、それによりどのくらい傷付けてしまうか想像の出来ない人間ではない。おそらく浅慮なだけで悪い人間ではない。
「そうね。人によってはタブーかもね。でもワタシは機械人形だから平気よ」
「あ、それもそうよね」
すると、ウルリッカが嫌そうにムッと眉間に皺を寄せて二人の間に割って入った。
「私は平気じゃない」
「だ、誰もウルリッカに対して言ってないでしょ？ウルリッカは女の子ってすぐに分かるし…」
「そうじゃない。シリルは兄さんの機械人形なの。家族同然の子に冷たく当たられて良い気分になれるはずがない」
ウルリッカの言葉にシリルはハッとし、ミシロは居た堪れない顔をする。
そうか。機械人形の自分には人間程の仲間意識は無いから機械人形がどう思われても、自分がどう言われても人と違い気に病む事は無いがウルリッカからしてみれば結社に入ってからの付き合いとは言え特別な思いがあるのだとシリルは考える。そして普段なかなか見られない様な、少しムッとした顔のウルリッカを見てシリルの中で「早く彼女の機嫌を直さなきゃ」が最優先のタスクになった。だってウルリッカに明らかな不機嫌さが滲み出ていて誰が喜ぶの？と言う話なのだから。
「ミシロ、アナタは機械人形に何か嫌な思い出でもあるのかしら？でもね、こうして触れてみてくれる？ウルちゃんみたく機械人形に特別な想いを抱いてくれる人の気持ちも想像出来るんじゃないかしら？」
シリルはそう言いながらミシロの手を取り自分の手を絡ませる。人間と似ている様で感触も少し違うその手に一瞬びくりと体を震わすミシロだったが、シリルの手を握り返すと何か思うところがあるのか少しだけ目を伏せた。心理学を少し齧った範疇しか機械人形のシリルには分からない。人間の言うところの「顔色」や「空気読み」はデータとして把握している程度だが、その顔には少し申し訳無さが漂よっているのでは無いかと察せられた。
『シリル君、腕を見るんだよ』
手を絡めたその時、シリルはユウヤミの言葉を思い出す。そう言えば自分を送り出すその瞬間、ユウヤミは何に気付き何を自分に伝えようとしていたのか。
そうこうしている内にミシロの家に辿り着く。ミシロの家は件のドラッグストアから程近いところにあり、近場のドラッグストアに手を出したと言うのがより万引きと言う行為のリアルさを増させている気がしてシリルは飲食のオプションも無いのに後味が悪い感じがした。
結局ミシロの家に辿り着いてしまったし、ユウヤミの言った言葉の意味が分からないのにこのまま彼女と別れる事になりそうでどうしたものかとシリルは思考を巡らせる。
すると、家のすぐ近くまで来てまだ一人になりたくなかったのかミシロが口を開いた。
「わ、私…ごめんなさい……」
突如として出た謝罪の言葉。ウルリッカは相変わらず黒目がちな瞳でじっと彼女を見つめると、彼女にとって今はただ痛いだけであろう正論を当て始めた。
「それは何に対してのごめん？万引き？シリルの事？」
「ど、どっちも……」
「謝るくらいなら多分、最初からやらない方が良かったよ」
「分かってたわよ…そんな事…！罪の意識が全く無いわけじゃない…！あ、いや…機械人形に対しては初めて罪の意識芽生えた感じだったけど…」
「でも、それでお店の人傷付けてたら、今度ミシロが『自分を傷付けた人』って、一生そう言う目で相手から見られるんだよ？人に傷付けられて出来た傷ってなかなか治らないって医療班のクインが言ってた」
ウルリッカにそう諭され、ミシロは俯くと「治らない傷がこの世にあるのもちゃんと知ってる」と小さく呟いた。そして長袖を捲ると腕を露わにする。その時やっとシリルはユウヤミの言葉を理解した。ミシロの左腕には、それがどういう理由で付いたかは分からないが痛々しい痣が肘から肩に掛けて広がっていた。半袖で居たら少し人の目を引きそうな痣だ。そして更に、痣だけでなく縫った様な傷も同じ場所にあった。
「どうしたの…？これ…」
ウルリッカが遠慮がちに尋ねると、ミシロは目に涙を浮かべながら口を開いた。
「あの…同情して欲しいとかじゃないの…理解して欲しいとも思ってない…それで許して欲しいとも思ってない…でも、何で今日こんな馬鹿な事しそうになったのか、その主張だけは聞いて欲しいなって。聞いてくれるだけで良いの、私が悪いのちゃんと分かってるから…」
帰り際にこんな話をするなんて、先程帰りたく無さそうにしていた様に見えたが矢張り気のせいではなかったか。シリルは思考を巡らせメモリの中を漁ってみる。ユウヤミは帰り時間については言及していなかったし、何より彼はシリルが何かしらの成果を持って帰ってくると期待している筈だ。ただミシロを送って帰るだけでは彼が自分を充てた意味は分からず終わるだろう。メモリに残るユウヤミの発言の解析をしながら周りを見ると、少し気難しそうな顔をした老婆がミシロを見、そしてシリルの髪をじっと見た。
「んー…ねぇウルちゃん、ちょっとミシロのお家お邪魔しない？」
「え？」
「立ち話もなんだし。ワタシ達目立っちゃうからさ」
ミシロはパッと顔を上げると視界の端に老婆が入り込んだのか嫌そうに眉を顰めた。
「あのクソババア…またこっち見てるよ…」
「ミシロ、あのお婆さんに何かされたの？」
ウルリッカが「あんな小さいお婆さんなのに…」と、もしやあの老婆は集落 に居たおばば達みたく何かしらの強者かとワクワクした様な目で見ながら言うと、ミシロは嫌そうにふんとそっぽを向いた。
「だって…ここ公共の道路なのに少し屯するだけでずっと圧かける様に見てくるんだもん…先代、先々代からこの辺りに住んでるとか何とか言うけど、そんなん関係ないし…」
「…何かされたわけじゃなくて単に口煩いのね…あのねミシロ、意見の違う人皆敵意を持って食って掛かっちゃだめよ？ずっとそれじゃアナタの人生疲れちゃうわ」
「だって、このアパートに来る人皆一回はババアと喧嘩してんのよ？誰か入る度その都度絡みに来るの」
「んー、でもじゃあその人の長年培って来たルールではここは屯するの禁止なのよ。それかもしかしたらミシロが知らないだけで本当にここにはそう言うルールあるかも知れないわよ？」
「でも、時代だったり住む人が変わってどっちの意見がマジョリティーになって来たかによっては都度変えていくもんでしょ？普通は」
「それは理想の話よ、ミシロ。あのお婆さん、見たとこ八十代くらいかしら？お元気ね。そのお婆さんがアナタより長い年月生きて来て当たり前だと思って来た事をアナタは今その理由で『新しい価値観を受け入れろ！』って、無理に納得して飲み込めって強いているのよ？先々代なんて言うなら幼い頃からここのルールを守ってきたかもしれないわよね、そんな人に若い世代の水準の理解を求めるのは酷な話よ。周りに住む人が新顔さんが多くなった、多数決で『屯しても良いと思う』意見が目立つ、若い子達の様にすぐに柔軟に受け入れ体制作って新しい良識をインストールして、新たな分野の『物分かりの良さ』を最新レベルまで即刻上げろって、それは同じ世代の人に『こう言うルールだけど都度変わるからね』って説明するのと同じ目線では出来ないわ。今まで平気で食べてきた美味しいものを、『それは毒だと認定された』って、飲食禁止にされたらアナタ納得出来る？」
「…うーん……」
「こればっかりは、話し合いを重ねるしかないわね。敵認定していても疲れるだけだし、きっとその先に得るものって何も無いから」
そう言いつつもただ黙ってじっと見てくる老婆と言うのは確かに存在が高圧的だった。なのでシリルはウルリッカとミシロの肩を抱きそそくさとミシロの部屋に足を進める。
シリルに促されながらアパートのエントランスを移動する時、ウルリッカが振り返ると老婆が此方を向いていた。ウルリッカは何も考えず、ただいつもの癖でにこりと微笑み老婆に手を振る。老婆はキョトンとしただけだったが、その瞬間先程までの険しい感じは無くなった気がした。
* * *
ミシロはカンテ人には珍しく、生まれた時から異所性蒙古斑があった。それは肩から肘に掛けて大きくあり、子供の頃はもっと濃かったと言う。そしてその痣は、当たり前の様に周りの関心を引いた。
「ねーねー、ミシロちゃんのうでさー、へんだよねー！！」
見た事が無いから、変。それがミシロの心を最初に抉った。不思議だとそう言いたかっただけかもしれない。いかんせんまだこの世に生を受けて三年程の子供に語彙を求めるのは無理があった。
ミシロもまたこの世に生を受けて数年。相手の子供と同じく言葉にする術は未熟で、故にこの時彼女は気に入らないと手を出してしまった。
この時「変だ」と言って来た子の母親が我が子を傷付けられた仕仇討ちか、ミシロ側の話を聞こうとせず彼女達を一方的に悪者と決め付けた事だった。とは言え我が子に手を上げられたのだから守ろうと牙を剥くのは当然と言えば当然かもしれない。実際手を出したのはミシロだけだからだ。だからこの扱いを受けた事が果たして本当に不当な事だったのか彼女は未だに答えを出せていないが、ミシロの痣を「虐待跡では無いか」と吹聴した事で町内に悪い噂が瞬く間に広まった事は確かだった。カンテ国から出て海を渡り東國の方に行けばミシロと同じ痣を持つ子はいたかもしれないが、滅多に見ないカンテ国でこれは好奇の目に晒された。ミシロと家族は即座にその地を離れた。
この時彼女は学んだ。人と違う事を認められないとは即ち悪だと。自分は変だ虐待だと言われたが、それはそう言う事を口にする方がおかしいのであって、自分は同じ状況になったら相手を受け入れるし周りも同様に自分を受け入れるべきだと。しかし、その認識は歪んだ方向に傾いて行き、ミシロは徐々に「相手にも拒否する自由と権利がある」と言う事を忘れていく。
その内彼女は、集団生活の中で痣を人質の様に使う様になり、それを晒した時に顔を顰めたり自分にとって良い反応をしてくれない人間を「悪人だ」と見做す様になる。そして「受け入れてもらえない時点で私は傷付いたのだから傷付けられただけ相手を責めて良い」と言う勝手な解釈の元我儘を繰り返す。当然、友達なんて出来ないが、そうなってもミシロは自分の振る舞いが正しいと思っていたし、娘がそんな事をしているなんて知らない両親は何故ミシロがいつも孤独でいるのかただ頭を抱えた。
そしてミシロは、自分を全面的に肯定してくれる誰かを夢見て待っていた。
しかし、中学に上がっても高校に上がってもそんな人は居なかった。しかし大学に上がった時、ミシロは人前で派手に怒られる。彼女の我儘な態度を叱り、痣をチラつかせて赦しを乞う姿勢を止めろと彼女を叱ったのは、同じく新入生の女の子だった。
彼女に真正面から怒られミシロは気付く。電子世界で色々調べれば、カンテの医療技術でいくらでも痣を薄くする治療が出来たはずなのだ。ミシロはいつのまにか一番嫌悪しコンプレックスだった筈の痣を「我儘を通す為の最終手段として無くてはならない存在にしている」事に気が付いた。
その後も幼い頃からの癖でつい我儘を言ってしまう大学生活。中には彼女に振り回されるのが耐えられないと二度と縮まぬ距離を空けた子も居た。しかし傍で怒るその人は、怒るけれど決して見放さなかった。
彼女の傍に居る間ミシロの我儘は減り、段々人とのちゃんとした付き合い方を考えるようになる。
自分を受け入れないから「悪い」のでは無い。相手も人生の中であらゆる価値観を培って、その中で自分にとって心地良い、妥協出来るところを選んでいる。自分が受け入れて欲しいと当たり前に望む様に、相手にもそれを精査し拒否する権利がある。しかし冷静になって周りの反応を見れば大体がミシロの痣を拒否しているのでは無かった。傷付けたり良い加減な事をして人を大切にしない様な態度を咎めているにも関わらず痣の話にシフトさせ、絶対に謝罪しない様な態度を取っているそんな彼女自身を拒否していたのだ。
それに気付いたミシロは少しずつ前向きになって行く。痣も歳を経るごとに少し薄くなっている気がしたし、親に相談して痣を消す治療を受ける段取りも取れた。
腕を気にしない理想の自分になるまでもう少し。そう思っていたミシロだが、悲劇は再び彼女を襲った。
ギロク博士のテロが起こる。たまたまミクリカに友人と遊びに来ていたミシロは暴走した機械人形に遭遇してしまい、命からがら逃げ帰ったものの攻撃から身を守ろうと無我夢中になった彼女は肩に傷を負った。それは痣のある場所に重なる様に負わされ、直そうと前向きになっていた痣の上に縫合跡が付いてしまった。おまけに、神経を一部傷付けられた様で以前程手が馴染まなくなったと言うか、少しぼんやりした違和感を抱いていた。指の一部に動かしにくさを感じる絶望の中、一番頭を駆けていたのは「何故私ばかりこんな目に遭うの？」だった。
その後、治療の甲斐あって傷は塞がり抜糸に至る。リハビリにも通い少しは動かしやすくなったが、痣を治そうとした矢先に付いた傷はまるで「痣を消す事への警告」の様な理不尽さにミシロは思えた。
大きな痣で揶揄われ、人の目を気にして半袖も着れない。普段から苦しんでいるんだ、だから少し我儘になってしまっただけなのに何が悪いの？そのくらい受け入れてくれたって良いはずだ。普段から少し人の目を気にして臆病にいなきゃいけないのだから。なのに、同じ手に麻痺まで受けてしまった。もう既にこんなに苦しんでるのに、これ以上まだ苦しまなくちゃいけないの？
せっかく前向きになっていたミシロの心を再び自分勝手な主張が覆う。自分は苦しんでいるんだから受け入れてもらえないなら牙を剥く。そんな発想に至ってしまっていたミシロは友達とも連絡の取れないやり切れなさと、痣どころかその上にひきつれの様な跡が残ってしまった腕に絶望し、気付けば近場のドラッグストアで何の気無しに手に取った化粧品をそのまま鞄に突っ込んでいた。
でも、それでも満たされない想いを埋める事は出来ない。その事に気付いて罪悪感を強く認識した時、ミシロの手を優しく掴んだその手には皺もシミも一切無い、嘘みたいに美しい人が幻想みたいな色の髪を携え困った様に微笑んでいた。
「アナタ…悪い事は言わないわ。そのままお店出ちゃダメよ」
自分の腕から希望を奪った奴と同じ様な特徴を持ったそれは、劣化なぞ気にも留めない絶対的な美を持って自分を見下していた。……様にミシロには見えた。
* * *
ウルリッカとシリルは出されたお茶を飲みながら、シリルはそんな飲んでいるウルリッカを微笑ましく見つめながら沈黙に耐えていた。
生まれた時から痣があって、幼少の頃にそれによってトラブルがあって。そんな事があれば悪い意味で痣を特別視してしまうのも分かると言えば分かる。だが、矢張りそれを横に置いてもミシロは我儘だと二人とも思っていた。
しかし同時に、自分達には分からないがそこまで彼女を思い詰めるものでもあるのだ、この痣と言う存在は。
ウルリッカは、機械人形には飲食機能が無いものが多いと言う事を知らないミシロに出されたシリルの分のお茶もくぴくぴと飲み干すと、どうしたものかと彼女を見た。
「シリル」
「あら、なーに？」
「…さっき隊長に何か言われたでしょ？だから、今日はシリルに任せるね」
「あらあら、ワタシも信用されたものね」
「だって、今何か考えてるでしょ？良い案」
「良いかどうかは分からないわ。ただ…隊長に期待された事をやろうと思っただけよ」
トイレから戻って来たミシロをシリルはじっと見る。よくよく見れば、彼女の顔は肌荒れやニキビを隠せていない。眉毛がボサボサとしているところを見ると手入れをしていないのだろう。今も普通にトイレに行っただけで化粧直しが目的ではない。つまりミシロは、化粧を日常的にやっているタイプではないとシリルは踏んだ。
「ごめんね。変な事聞かせて…」
申し訳無さそうにミシロは口を開く。ウルリッカはふっと笑うと、「変な事じゃないよ」と返した。変な事ではない。ミシロの傷付いた記憶だ。ただ、やはりそれを免罪符にして良いと言うわけではないと言うだけで。
「ねぇミシロ。お医者さんじゃないから完全には消えない、でも素人でも出来る簡単なやり方をちょっと試してみても良いかしら？」
「何…？」
「腕出して？」
ミシロは袖を捲り、痣とひきつれのある腕を露わにした。シリルはゴソゴソ懐を探ると先程「アルヴィ・マルムフェ」で領収書を切ったクリームチーク、そしてシェーディング、そして化粧下地を取り出す。シリルはミシロに「腕にメイクをして良いか」と尋ねる。傷は塞がってるし痛くないから大丈夫だとミシロが了承した瞬間、シリルはウルリッカに化粧下地を付けるように頼んだ。
「な、何でウルリッカ…？」
「人の手の温かさで温めながら伸ばして馴染ませるのが良いのよー」
ウルリッカは手の平に化粧下地をにゅるりと出すと、両手で包むように覆い、手の温かみで丁寧に伸ばした。そしてミシロの腕に塗る。薄いピンクの下地で少し肌色が明るくなったように見えるがまだ痣は残っている。
そして後ろから覗き込んだシリルにウルリッカが代わる様に場所を譲る。シリルはオレンジのクリームチークを取り出し、叩き込む様に塗っていった。突如としてオレンジに染まる腕にミシロは目を剥くしかない。
「な、な、何このオレンジ！！」
「良いから良いから」
シリルが次にシェーディングを取り出すと、ミシロは今度こそ手で待ったと制止する。シリルが無理強いしない様にと手を止めると、シリルによってチークを塗られた腕をまじまじと見た。
「そ、その肌色だって随分濃い色じゃない…」
「うん、でも自然になるから安心して？」
トントントンと濃い肌色のシェーディングを重ねる様に塗ると、シリルはメイクブラシを取り出し先に塗ったチークと混ぜる様に馴染ませ始める。濃い色に染まった腕に更に重ねる様にファンデーションを叩いて行く。そして最後にフィニッシュパウダーを叩くと、そこには痣の目立たない腕があった。
「え…全然目立たない…？」
「うん、このやり方でもこれくらい出来るわね。流石に傷は凹凸があるから消すのは難しいけどね、今は品質の良いファンデーションテープとかあるからそう言うのと併用しても良いかもよ？ワタシ達機械人形の皮膚の技術を流用してるからクオリティは折り紙付きって聞いた事あるわ。ちなみに、意外かもしれないけどヘアスプレーを仕上げに吹き掛けると服で擦れてメイクが付いたり、とかも防止できるわよ」
「すごい……！」
ミシロは手鏡も使って何度も腕を眺めた。きっと彼女はもう痣や傷を何かの言い訳に使わない。シリルはそう確信する。
「嬉しくないの？ミシロ」
ウルリッカが彼女の顔色を見ながらそう尋ねる。ミシロはふるふると首を振ると、違うの、寂しいだけなのと呟いた。
「寂しい？」
「うん…どんなに嫌だと思っても、私にとって痣ってちゃんと自分の一部だったんだなぁって思って。今振り返ると私、痣のある自分、嫌いじゃ無かったかも。でも、痣の無い方がもっと好き」
「…よし！じゃあせっかくだから顔も綺麗にしちゃいましょうよ！ミシロ、化粧品持って来て！」
「え！？何でよ！？」
「ワタシの手持ちじゃ意味ないでしょ？ミシロのやれる範囲でどこまで綺麗になるかやってやろうじゃない？」
こうして眉の整えから始まり、化粧水の付け方、下地の塗り方を一からおさらいしたミシロは、改めてシリルに謝り店にも謝罪し、ウルリッカとシリルが帰る頃には来る前よりも笑顔な彼女がそこに居た。
「ねぇシリル、私お化粧ハマっちゃうかも」
「良いじゃない！お化粧ハマってどんどん自分の事好きになれたら良いわ」
この時、シリルは何となくユウヤミが自分を送り込んだ理由に気が付いた。ユウヤミはミシロの抱えるコンプレックスにきっといち早く気付いて、だから自分だった。しかし、化粧を目的とするなら特殊メイクに近い技法を得意とするキッカを後日第三小隊に頼んで派遣してもらうでも良かったのでは無いだろうか。
「それじゃつまらないだろう？」
翌日、ミシロとの事を報告に行ったシリルにユウヤミはいつもの調子で笑った。
「カナリス君の技術ならまるで傷も痣も無かった様に出来ただろうねぇ。けどね、それじゃあこうはならなかったよ」
「あら隊長、どうしてなの？」
「彼女、ミシロさんと言ったかな？顔を見て日常的にあまりお手入れに慣れた感じがしなかったのだよ」
「あらやだ、隊長ったら野暮ね。そんなとこ見てたの？」
「別に心配しなくてもそれ以上には思っていないよ。ただ見たままの情報として『化粧の仕方にムラがあった』事、そのムラの目立つ化粧の下の『素肌が荒れていそうだった』事、それに気付いただけだよ。だから、もしもカナリス君にお願いして彼女のプロ並みの技法を見せ付けられたら二つに一つだよ。自分もこうやりたいと熱を上げるか、彼女の腕前と自分を比べて早々に諦めるか。ミシロさんの場合は後者っぽくてね。シリル君から聞いた通り、今まで散々痣に頼って生きて来たなら少しばかり自分が努力する事に対して腰が重いと思ってね」
「ふーん、人間ってそうなのね」
「人間にも色々あってね、そう言う傾向にあるとしか言えないけれど、状況的にも君が最適だったのだよ。テロに、つまり機械人形に良い印象を持っていない。だからあのタイミングであの後君と話す機会を経た上で君にコンプレックスの乗り越え方を伝授してもらう。君はカナリス君と違って完全に消す技法は持っていない。けど、だから良かったんだ。彼女の気持ち的には一瞬で痣を視界から消してはいけないんだ。痣の存在をある程度認識するくらいでないと、きっとこんなに素直に前向きにならなかったよ。彼女の痣が完全に消える時、それは彼女本人がクリニックなり何なりで自分の力で消した時って言うのが一番気持ち的にも良いんじゃないかな？」
「なるほど…」
「そうする事によって、機械人形への印象の好転も計った。元々印象がマイナスだったものが良い姿を見せると、元々がマイナスだから急にプラスの方へ跳ね上がりやすいそんな心理もあるよ」
「確かに、それならワタシが適任だったわけね」
「君のおかげで未来の万引き犯を未然に防げた。良い仕事をしたんじゃないかい？」
未来が崩れない方向へ、機械人形ともう一度共存しても良いと思える方向へ。
機械人形に嫌悪を向けていた女の子がまた一人好意的に生きてくれる未来へ無理なく手を取り進んでくれたなら、その立役者になれたなんて名誉な事だわとシリルは呟き、待機室を後にした。
「アル、はい領収書」
そして向かった経理部で主人であるアルヴィに領収書のみを渡す。ちなみに、クリームチークはせっかくだからとミシロにあげて来てしまった。
「……うん、現物は？」
「あげちゃった」
「どう言う事なの…？」
最初こそ頭に「？」ばかり浮かべていたアルヴィだが、シリルが事の真相を全て伝えると彼もまた安心した様にふふっと笑う。流石シリル、最強のコーディネーターだね！と微笑むアルヴィにシリルは今は亡き前主人の笑顔を重ねていた。
後日、調べたところミシロがトラブルになったと言う例のアパート近くに住んでいた老婆が本当にあの辺一帯の土地の所有者一族である事が分かり、ミシロが文句を言っていたあのアパート前の道路も老婆の私有地の一部であった事が判明した。老婆の恨めしい顔は正当な理由の下だった。しかし、シリルはまた更に後日、思わず人がする様に微笑みながらその手紙を読む。
そこには、同じ様に土地の事をちゃんと調べたと言う事、そして今まで反抗的な態度で当たっていた事をきちんと老婆に謝りに行った結果、老婆と仲良くなりよく夕飯をご馳走してもらう様になったとミシロの手紙慣れしていない字でそう書いてあった。
「さて、今日もお仕事頑張るわよ」
大事そうに箪笥の引き出しにそれを仕舞う。そしてフライパンとお玉を手に取ると、シリルはアルヴィを起こすべくベッドへ向かった。
ユウヤミはシリルとウルリッカを送り出す際、シリルにだけこっそりそう言った。
「腕？」
「そう。腕だ。彼女の腕には君にしか出来ない事が隠れている」
ワタシにしか出来ない事、何だろう？
ユウヤミの言葉の意味を読み解こうと思考回路を巡らせていると、ウルリッカがシリルの名前を遠くから呼んだ。急いで駆けるとウルリッカは黒目がちな瞳を少しだけじっとり伏せる様な目線で女性を見た。
「この子、ミシロ。名前ミシロって言うんだって」
「指差さないでよウルリッカ」
流石ノーリアクションな人懐っこさに定評のあるウルリッカ。目立つ様なオーバーな事はしていないのにもう女性の名前を聞き出したらしい。
「そう…家に帰るまでの短い間だけどよろしくね、ミシロ。ワタシはシリルって言うの」
「……アンタ、男なの？女なの？どっち？」
女性──ミシロがシリルに興味無さげにそう尋ねる。シリルは特に何も思わないのでにこりと微笑むだけだった。
「ワタシ、無性なの。一応男でも女でもないわ」
「ふぅん……もしかしてこの質問、良くなかった？」
「何故？」
「だって…深く考えずに聞いちゃったけど、人によってはタブーだったりするかな？って…」
少し俯く様に口にするミシロ。シリルはくすりと笑うとミシロがどう言う人間かと言う予測を立てる。
女性、機械人形への偏見有り、気性に波がある、ただし人を傷付ける言葉に抵抗が無いわけではない。
人を傷付ける言葉の何たるかを知っており、それによりどのくらい傷付けてしまうか想像の出来ない人間ではない。おそらく浅慮なだけで悪い人間ではない。
「そうね。人によってはタブーかもね。でもワタシは機械人形だから平気よ」
「あ、それもそうよね」
すると、ウルリッカが嫌そうにムッと眉間に皺を寄せて二人の間に割って入った。
「私は平気じゃない」
「だ、誰もウルリッカに対して言ってないでしょ？ウルリッカは女の子ってすぐに分かるし…」
「そうじゃない。シリルは兄さんの機械人形なの。家族同然の子に冷たく当たられて良い気分になれるはずがない」
ウルリッカの言葉にシリルはハッとし、ミシロは居た堪れない顔をする。
そうか。機械人形の自分には人間程の仲間意識は無いから機械人形がどう思われても、自分がどう言われても人と違い気に病む事は無いがウルリッカからしてみれば結社に入ってからの付き合いとは言え特別な思いがあるのだとシリルは考える。そして普段なかなか見られない様な、少しムッとした顔のウルリッカを見てシリルの中で「早く彼女の機嫌を直さなきゃ」が最優先のタスクになった。だってウルリッカに明らかな不機嫌さが滲み出ていて誰が喜ぶの？と言う話なのだから。
「ミシロ、アナタは機械人形に何か嫌な思い出でもあるのかしら？でもね、こうして触れてみてくれる？ウルちゃんみたく機械人形に特別な想いを抱いてくれる人の気持ちも想像出来るんじゃないかしら？」
シリルはそう言いながらミシロの手を取り自分の手を絡ませる。人間と似ている様で感触も少し違うその手に一瞬びくりと体を震わすミシロだったが、シリルの手を握り返すと何か思うところがあるのか少しだけ目を伏せた。心理学を少し齧った範疇しか機械人形のシリルには分からない。人間の言うところの「顔色」や「空気読み」はデータとして把握している程度だが、その顔には少し申し訳無さが漂よっているのでは無いかと察せられた。
『シリル君、腕を見るんだよ』
手を絡めたその時、シリルはユウヤミの言葉を思い出す。そう言えば自分を送り出すその瞬間、ユウヤミは何に気付き何を自分に伝えようとしていたのか。
そうこうしている内にミシロの家に辿り着く。ミシロの家は件のドラッグストアから程近いところにあり、近場のドラッグストアに手を出したと言うのがより万引きと言う行為のリアルさを増させている気がしてシリルは飲食のオプションも無いのに後味が悪い感じがした。
結局ミシロの家に辿り着いてしまったし、ユウヤミの言った言葉の意味が分からないのにこのまま彼女と別れる事になりそうでどうしたものかとシリルは思考を巡らせる。
すると、家のすぐ近くまで来てまだ一人になりたくなかったのかミシロが口を開いた。
「わ、私…ごめんなさい……」
突如として出た謝罪の言葉。ウルリッカは相変わらず黒目がちな瞳でじっと彼女を見つめると、彼女にとって今はただ痛いだけであろう正論を当て始めた。
「それは何に対してのごめん？万引き？シリルの事？」
「ど、どっちも……」
「謝るくらいなら多分、最初からやらない方が良かったよ」
「分かってたわよ…そんな事…！罪の意識が全く無いわけじゃない…！あ、いや…機械人形に対しては初めて罪の意識芽生えた感じだったけど…」
「でも、それでお店の人傷付けてたら、今度ミシロが『自分を傷付けた人』って、一生そう言う目で相手から見られるんだよ？人に傷付けられて出来た傷ってなかなか治らないって医療班のクインが言ってた」
ウルリッカにそう諭され、ミシロは俯くと「治らない傷がこの世にあるのもちゃんと知ってる」と小さく呟いた。そして長袖を捲ると腕を露わにする。その時やっとシリルはユウヤミの言葉を理解した。ミシロの左腕には、それがどういう理由で付いたかは分からないが痛々しい痣が肘から肩に掛けて広がっていた。半袖で居たら少し人の目を引きそうな痣だ。そして更に、痣だけでなく縫った様な傷も同じ場所にあった。
「どうしたの…？これ…」
ウルリッカが遠慮がちに尋ねると、ミシロは目に涙を浮かべながら口を開いた。
「あの…同情して欲しいとかじゃないの…理解して欲しいとも思ってない…それで許して欲しいとも思ってない…でも、何で今日こんな馬鹿な事しそうになったのか、その主張だけは聞いて欲しいなって。聞いてくれるだけで良いの、私が悪いのちゃんと分かってるから…」
帰り際にこんな話をするなんて、先程帰りたく無さそうにしていた様に見えたが矢張り気のせいではなかったか。シリルは思考を巡らせメモリの中を漁ってみる。ユウヤミは帰り時間については言及していなかったし、何より彼はシリルが何かしらの成果を持って帰ってくると期待している筈だ。ただミシロを送って帰るだけでは彼が自分を充てた意味は分からず終わるだろう。メモリに残るユウヤミの発言の解析をしながら周りを見ると、少し気難しそうな顔をした老婆がミシロを見、そしてシリルの髪をじっと見た。
「んー…ねぇウルちゃん、ちょっとミシロのお家お邪魔しない？」
「え？」
「立ち話もなんだし。ワタシ達目立っちゃうからさ」
ミシロはパッと顔を上げると視界の端に老婆が入り込んだのか嫌そうに眉を顰めた。
「あのクソババア…またこっち見てるよ…」
「ミシロ、あのお婆さんに何かされたの？」
ウルリッカが「あんな小さいお婆さんなのに…」と、もしやあの老婆は
「だって…ここ公共の道路なのに少し屯するだけでずっと圧かける様に見てくるんだもん…先代、先々代からこの辺りに住んでるとか何とか言うけど、そんなん関係ないし…」
「…何かされたわけじゃなくて単に口煩いのね…あのねミシロ、意見の違う人皆敵意を持って食って掛かっちゃだめよ？ずっとそれじゃアナタの人生疲れちゃうわ」
「だって、このアパートに来る人皆一回はババアと喧嘩してんのよ？誰か入る度その都度絡みに来るの」
「んー、でもじゃあその人の長年培って来たルールではここは屯するの禁止なのよ。それかもしかしたらミシロが知らないだけで本当にここにはそう言うルールあるかも知れないわよ？」
「でも、時代だったり住む人が変わってどっちの意見がマジョリティーになって来たかによっては都度変えていくもんでしょ？普通は」
「それは理想の話よ、ミシロ。あのお婆さん、見たとこ八十代くらいかしら？お元気ね。そのお婆さんがアナタより長い年月生きて来て当たり前だと思って来た事をアナタは今その理由で『新しい価値観を受け入れろ！』って、無理に納得して飲み込めって強いているのよ？先々代なんて言うなら幼い頃からここのルールを守ってきたかもしれないわよね、そんな人に若い世代の水準の理解を求めるのは酷な話よ。周りに住む人が新顔さんが多くなった、多数決で『屯しても良いと思う』意見が目立つ、若い子達の様にすぐに柔軟に受け入れ体制作って新しい良識をインストールして、新たな分野の『物分かりの良さ』を最新レベルまで即刻上げろって、それは同じ世代の人に『こう言うルールだけど都度変わるからね』って説明するのと同じ目線では出来ないわ。今まで平気で食べてきた美味しいものを、『それは毒だと認定された』って、飲食禁止にされたらアナタ納得出来る？」
「…うーん……」
「こればっかりは、話し合いを重ねるしかないわね。敵認定していても疲れるだけだし、きっとその先に得るものって何も無いから」
そう言いつつもただ黙ってじっと見てくる老婆と言うのは確かに存在が高圧的だった。なのでシリルはウルリッカとミシロの肩を抱きそそくさとミシロの部屋に足を進める。
シリルに促されながらアパートのエントランスを移動する時、ウルリッカが振り返ると老婆が此方を向いていた。ウルリッカは何も考えず、ただいつもの癖でにこりと微笑み老婆に手を振る。老婆はキョトンとしただけだったが、その瞬間先程までの険しい感じは無くなった気がした。
* * *
ミシロはカンテ人には珍しく、生まれた時から異所性蒙古斑があった。それは肩から肘に掛けて大きくあり、子供の頃はもっと濃かったと言う。そしてその痣は、当たり前の様に周りの関心を引いた。
「ねーねー、ミシロちゃんのうでさー、へんだよねー！！」
見た事が無いから、変。それがミシロの心を最初に抉った。不思議だとそう言いたかっただけかもしれない。いかんせんまだこの世に生を受けて三年程の子供に語彙を求めるのは無理があった。
ミシロもまたこの世に生を受けて数年。相手の子供と同じく言葉にする術は未熟で、故にこの時彼女は気に入らないと手を出してしまった。
この時「変だ」と言って来た子の母親が我が子を傷付けられた仕仇討ちか、ミシロ側の話を聞こうとせず彼女達を一方的に悪者と決め付けた事だった。とは言え我が子に手を上げられたのだから守ろうと牙を剥くのは当然と言えば当然かもしれない。実際手を出したのはミシロだけだからだ。だからこの扱いを受けた事が果たして本当に不当な事だったのか彼女は未だに答えを出せていないが、ミシロの痣を「虐待跡では無いか」と吹聴した事で町内に悪い噂が瞬く間に広まった事は確かだった。カンテ国から出て海を渡り東國の方に行けばミシロと同じ痣を持つ子はいたかもしれないが、滅多に見ないカンテ国でこれは好奇の目に晒された。ミシロと家族は即座にその地を離れた。
この時彼女は学んだ。人と違う事を認められないとは即ち悪だと。自分は変だ虐待だと言われたが、それはそう言う事を口にする方がおかしいのであって、自分は同じ状況になったら相手を受け入れるし周りも同様に自分を受け入れるべきだと。しかし、その認識は歪んだ方向に傾いて行き、ミシロは徐々に「相手にも拒否する自由と権利がある」と言う事を忘れていく。
その内彼女は、集団生活の中で痣を人質の様に使う様になり、それを晒した時に顔を顰めたり自分にとって良い反応をしてくれない人間を「悪人だ」と見做す様になる。そして「受け入れてもらえない時点で私は傷付いたのだから傷付けられただけ相手を責めて良い」と言う勝手な解釈の元我儘を繰り返す。当然、友達なんて出来ないが、そうなってもミシロは自分の振る舞いが正しいと思っていたし、娘がそんな事をしているなんて知らない両親は何故ミシロがいつも孤独でいるのかただ頭を抱えた。
そしてミシロは、自分を全面的に肯定してくれる誰かを夢見て待っていた。
しかし、中学に上がっても高校に上がってもそんな人は居なかった。しかし大学に上がった時、ミシロは人前で派手に怒られる。彼女の我儘な態度を叱り、痣をチラつかせて赦しを乞う姿勢を止めろと彼女を叱ったのは、同じく新入生の女の子だった。
彼女に真正面から怒られミシロは気付く。電子世界で色々調べれば、カンテの医療技術でいくらでも痣を薄くする治療が出来たはずなのだ。ミシロはいつのまにか一番嫌悪しコンプレックスだった筈の痣を「我儘を通す為の最終手段として無くてはならない存在にしている」事に気が付いた。
その後も幼い頃からの癖でつい我儘を言ってしまう大学生活。中には彼女に振り回されるのが耐えられないと二度と縮まぬ距離を空けた子も居た。しかし傍で怒るその人は、怒るけれど決して見放さなかった。
彼女の傍に居る間ミシロの我儘は減り、段々人とのちゃんとした付き合い方を考えるようになる。
自分を受け入れないから「悪い」のでは無い。相手も人生の中であらゆる価値観を培って、その中で自分にとって心地良い、妥協出来るところを選んでいる。自分が受け入れて欲しいと当たり前に望む様に、相手にもそれを精査し拒否する権利がある。しかし冷静になって周りの反応を見れば大体がミシロの痣を拒否しているのでは無かった。傷付けたり良い加減な事をして人を大切にしない様な態度を咎めているにも関わらず痣の話にシフトさせ、絶対に謝罪しない様な態度を取っているそんな彼女自身を拒否していたのだ。
それに気付いたミシロは少しずつ前向きになって行く。痣も歳を経るごとに少し薄くなっている気がしたし、親に相談して痣を消す治療を受ける段取りも取れた。
腕を気にしない理想の自分になるまでもう少し。そう思っていたミシロだが、悲劇は再び彼女を襲った。
ギロク博士のテロが起こる。たまたまミクリカに友人と遊びに来ていたミシロは暴走した機械人形に遭遇してしまい、命からがら逃げ帰ったものの攻撃から身を守ろうと無我夢中になった彼女は肩に傷を負った。それは痣のある場所に重なる様に負わされ、直そうと前向きになっていた痣の上に縫合跡が付いてしまった。おまけに、神経を一部傷付けられた様で以前程手が馴染まなくなったと言うか、少しぼんやりした違和感を抱いていた。指の一部に動かしにくさを感じる絶望の中、一番頭を駆けていたのは「何故私ばかりこんな目に遭うの？」だった。
その後、治療の甲斐あって傷は塞がり抜糸に至る。リハビリにも通い少しは動かしやすくなったが、痣を治そうとした矢先に付いた傷はまるで「痣を消す事への警告」の様な理不尽さにミシロは思えた。
大きな痣で揶揄われ、人の目を気にして半袖も着れない。普段から苦しんでいるんだ、だから少し我儘になってしまっただけなのに何が悪いの？そのくらい受け入れてくれたって良いはずだ。普段から少し人の目を気にして臆病にいなきゃいけないのだから。なのに、同じ手に麻痺まで受けてしまった。もう既にこんなに苦しんでるのに、これ以上まだ苦しまなくちゃいけないの？
せっかく前向きになっていたミシロの心を再び自分勝手な主張が覆う。自分は苦しんでいるんだから受け入れてもらえないなら牙を剥く。そんな発想に至ってしまっていたミシロは友達とも連絡の取れないやり切れなさと、痣どころかその上にひきつれの様な跡が残ってしまった腕に絶望し、気付けば近場のドラッグストアで何の気無しに手に取った化粧品をそのまま鞄に突っ込んでいた。
でも、それでも満たされない想いを埋める事は出来ない。その事に気付いて罪悪感を強く認識した時、ミシロの手を優しく掴んだその手には皺もシミも一切無い、嘘みたいに美しい人が幻想みたいな色の髪を携え困った様に微笑んでいた。
「アナタ…悪い事は言わないわ。そのままお店出ちゃダメよ」
自分の腕から希望を奪った奴と同じ様な特徴を持ったそれは、劣化なぞ気にも留めない絶対的な美を持って自分を見下していた。……様にミシロには見えた。
* * *
ウルリッカとシリルは出されたお茶を飲みながら、シリルはそんな飲んでいるウルリッカを微笑ましく見つめながら沈黙に耐えていた。
生まれた時から痣があって、幼少の頃にそれによってトラブルがあって。そんな事があれば悪い意味で痣を特別視してしまうのも分かると言えば分かる。だが、矢張りそれを横に置いてもミシロは我儘だと二人とも思っていた。
しかし同時に、自分達には分からないがそこまで彼女を思い詰めるものでもあるのだ、この痣と言う存在は。
ウルリッカは、機械人形には飲食機能が無いものが多いと言う事を知らないミシロに出されたシリルの分のお茶もくぴくぴと飲み干すと、どうしたものかと彼女を見た。
「シリル」
「あら、なーに？」
「…さっき隊長に何か言われたでしょ？だから、今日はシリルに任せるね」
「あらあら、ワタシも信用されたものね」
「だって、今何か考えてるでしょ？良い案」
「良いかどうかは分からないわ。ただ…隊長に期待された事をやろうと思っただけよ」
トイレから戻って来たミシロをシリルはじっと見る。よくよく見れば、彼女の顔は肌荒れやニキビを隠せていない。眉毛がボサボサとしているところを見ると手入れをしていないのだろう。今も普通にトイレに行っただけで化粧直しが目的ではない。つまりミシロは、化粧を日常的にやっているタイプではないとシリルは踏んだ。
「ごめんね。変な事聞かせて…」
申し訳無さそうにミシロは口を開く。ウルリッカはふっと笑うと、「変な事じゃないよ」と返した。変な事ではない。ミシロの傷付いた記憶だ。ただ、やはりそれを免罪符にして良いと言うわけではないと言うだけで。
「ねぇミシロ。お医者さんじゃないから完全には消えない、でも素人でも出来る簡単なやり方をちょっと試してみても良いかしら？」
「何…？」
「腕出して？」
ミシロは袖を捲り、痣とひきつれのある腕を露わにした。シリルはゴソゴソ懐を探ると先程「アルヴィ・マルムフェ」で領収書を切ったクリームチーク、そしてシェーディング、そして化粧下地を取り出す。シリルはミシロに「腕にメイクをして良いか」と尋ねる。傷は塞がってるし痛くないから大丈夫だとミシロが了承した瞬間、シリルはウルリッカに化粧下地を付けるように頼んだ。
「な、何でウルリッカ…？」
「人の手の温かさで温めながら伸ばして馴染ませるのが良いのよー」
ウルリッカは手の平に化粧下地をにゅるりと出すと、両手で包むように覆い、手の温かみで丁寧に伸ばした。そしてミシロの腕に塗る。薄いピンクの下地で少し肌色が明るくなったように見えるがまだ痣は残っている。
そして後ろから覗き込んだシリルにウルリッカが代わる様に場所を譲る。シリルはオレンジのクリームチークを取り出し、叩き込む様に塗っていった。突如としてオレンジに染まる腕にミシロは目を剥くしかない。
「な、な、何このオレンジ！！」
「良いから良いから」
シリルが次にシェーディングを取り出すと、ミシロは今度こそ手で待ったと制止する。シリルが無理強いしない様にと手を止めると、シリルによってチークを塗られた腕をまじまじと見た。
「そ、その肌色だって随分濃い色じゃない…」
「うん、でも自然になるから安心して？」
トントントンと濃い肌色のシェーディングを重ねる様に塗ると、シリルはメイクブラシを取り出し先に塗ったチークと混ぜる様に馴染ませ始める。濃い色に染まった腕に更に重ねる様にファンデーションを叩いて行く。そして最後にフィニッシュパウダーを叩くと、そこには痣の目立たない腕があった。
「え…全然目立たない…？」
「うん、このやり方でもこれくらい出来るわね。流石に傷は凹凸があるから消すのは難しいけどね、今は品質の良いファンデーションテープとかあるからそう言うのと併用しても良いかもよ？ワタシ達機械人形の皮膚の技術を流用してるからクオリティは折り紙付きって聞いた事あるわ。ちなみに、意外かもしれないけどヘアスプレーを仕上げに吹き掛けると服で擦れてメイクが付いたり、とかも防止できるわよ」
「すごい……！」
ミシロは手鏡も使って何度も腕を眺めた。きっと彼女はもう痣や傷を何かの言い訳に使わない。シリルはそう確信する。
「嬉しくないの？ミシロ」
ウルリッカが彼女の顔色を見ながらそう尋ねる。ミシロはふるふると首を振ると、違うの、寂しいだけなのと呟いた。
「寂しい？」
「うん…どんなに嫌だと思っても、私にとって痣ってちゃんと自分の一部だったんだなぁって思って。今振り返ると私、痣のある自分、嫌いじゃ無かったかも。でも、痣の無い方がもっと好き」
「…よし！じゃあせっかくだから顔も綺麗にしちゃいましょうよ！ミシロ、化粧品持って来て！」
「え！？何でよ！？」
「ワタシの手持ちじゃ意味ないでしょ？ミシロのやれる範囲でどこまで綺麗になるかやってやろうじゃない？」
こうして眉の整えから始まり、化粧水の付け方、下地の塗り方を一からおさらいしたミシロは、改めてシリルに謝り店にも謝罪し、ウルリッカとシリルが帰る頃には来る前よりも笑顔な彼女がそこに居た。
「ねぇシリル、私お化粧ハマっちゃうかも」
「良いじゃない！お化粧ハマってどんどん自分の事好きになれたら良いわ」
この時、シリルは何となくユウヤミが自分を送り込んだ理由に気が付いた。ユウヤミはミシロの抱えるコンプレックスにきっといち早く気付いて、だから自分だった。しかし、化粧を目的とするなら特殊メイクに近い技法を得意とするキッカを後日第三小隊に頼んで派遣してもらうでも良かったのでは無いだろうか。
「それじゃつまらないだろう？」
翌日、ミシロとの事を報告に行ったシリルにユウヤミはいつもの調子で笑った。
「カナリス君の技術ならまるで傷も痣も無かった様に出来ただろうねぇ。けどね、それじゃあこうはならなかったよ」
「あら隊長、どうしてなの？」
「彼女、ミシロさんと言ったかな？顔を見て日常的にあまりお手入れに慣れた感じがしなかったのだよ」
「あらやだ、隊長ったら野暮ね。そんなとこ見てたの？」
「別に心配しなくてもそれ以上には思っていないよ。ただ見たままの情報として『化粧の仕方にムラがあった』事、そのムラの目立つ化粧の下の『素肌が荒れていそうだった』事、それに気付いただけだよ。だから、もしもカナリス君にお願いして彼女のプロ並みの技法を見せ付けられたら二つに一つだよ。自分もこうやりたいと熱を上げるか、彼女の腕前と自分を比べて早々に諦めるか。ミシロさんの場合は後者っぽくてね。シリル君から聞いた通り、今まで散々痣に頼って生きて来たなら少しばかり自分が努力する事に対して腰が重いと思ってね」
「ふーん、人間ってそうなのね」
「人間にも色々あってね、そう言う傾向にあるとしか言えないけれど、状況的にも君が最適だったのだよ。テロに、つまり機械人形に良い印象を持っていない。だからあのタイミングであの後君と話す機会を経た上で君にコンプレックスの乗り越え方を伝授してもらう。君はカナリス君と違って完全に消す技法は持っていない。けど、だから良かったんだ。彼女の気持ち的には一瞬で痣を視界から消してはいけないんだ。痣の存在をある程度認識するくらいでないと、きっとこんなに素直に前向きにならなかったよ。彼女の痣が完全に消える時、それは彼女本人がクリニックなり何なりで自分の力で消した時って言うのが一番気持ち的にも良いんじゃないかな？」
「なるほど…」
「そうする事によって、機械人形への印象の好転も計った。元々印象がマイナスだったものが良い姿を見せると、元々がマイナスだから急にプラスの方へ跳ね上がりやすいそんな心理もあるよ」
「確かに、それならワタシが適任だったわけね」
「君のおかげで未来の万引き犯を未然に防げた。良い仕事をしたんじゃないかい？」
未来が崩れない方向へ、機械人形ともう一度共存しても良いと思える方向へ。
機械人形に嫌悪を向けていた女の子がまた一人好意的に生きてくれる未来へ無理なく手を取り進んでくれたなら、その立役者になれたなんて名誉な事だわとシリルは呟き、待機室を後にした。
「アル、はい領収書」
そして向かった経理部で主人であるアルヴィに領収書のみを渡す。ちなみに、クリームチークはせっかくだからとミシロにあげて来てしまった。
「……うん、現物は？」
「あげちゃった」
「どう言う事なの…？」
最初こそ頭に「？」ばかり浮かべていたアルヴィだが、シリルが事の真相を全て伝えると彼もまた安心した様にふふっと笑う。流石シリル、最強のコーディネーターだね！と微笑むアルヴィにシリルは今は亡き前主人の笑顔を重ねていた。
後日、調べたところミシロがトラブルになったと言う例のアパート近くに住んでいた老婆が本当にあの辺一帯の土地の所有者一族である事が分かり、ミシロが文句を言っていたあのアパート前の道路も老婆の私有地の一部であった事が判明した。老婆の恨めしい顔は正当な理由の下だった。しかし、シリルはまた更に後日、思わず人がする様に微笑みながらその手紙を読む。
そこには、同じ様に土地の事をちゃんと調べたと言う事、そして今まで反抗的な態度で当たっていた事をきちんと老婆に謝りに行った結果、老婆と仲良くなりよく夕飯をご馳走してもらう様になったとミシロの手紙慣れしていない字でそう書いてあった。
「さて、今日もお仕事頑張るわよ」
大事そうに箪笥の引き出しにそれを仕舞う。そしてフライパンとお玉を手に取ると、シリルはアルヴィを起こすべくベッドへ向かった。
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