意地悪な神様に別れを告げる為に／燐花
最終更新：
rinka_creation 2021年03月20日(土) 14:06:21履歴
愛の日の次の日 
いつもより少しだけ寝坊する。昨日は色々楽しかったけど疲れてしまった。ヴォイドは気怠そうにベッドから体を起こすと、すぐ目に入ったコートを手に取る。それを抱き締めて、安心した様に微笑んだ。
「ユウヤミがくれた…」
続いて愛の日に貰ったお菓子をまとめて置いておいたところから、ピンクの包みを一つ取り出すと、中から生キャラメルを取り出し口に運ぶ。口溶けの良いキャラメルの優しい甘さ。滑らかな舌触りに目をとろんとさせた。
「ロードがくれた」
更に紙袋を取り出し、カントゥッチを一つ口に運んだ。アーモンドとチョコチップの香りが口に広がる。日持ちがすると言われてもらったのに、別の意味で持ちそうにない。ヴォイドはそんな感じがした。
「テオが、くれた」
愛の日。この三人は部屋まで来てくれた。ユウヤミは疲れた体を引きずって、お菓子とコートを渡すためだけに会いに来てくれた。二人でお茶を飲んだ穏やかな時間は、永遠を感じる程に、涙が出る程暖かかった。たった一瞬触れただけのユウヤミの手袋をしない手が想像していたよりも熱く感じたのを覚えている。
テオフィルスは、夜に部屋まで来て──。
昨夜の事を思い出してヴォイドは顔を真っ赤にする。ぶっきらぼうでガサツな様で、いつだって本当は物凄く色々考えて動いてくれているのだと気付き何だか照れ臭くなった。そして彼のあんな真面目な顔を、彼の口から紡がれる愛の言葉を思い出した。子供の頃から知っていたのにあんな顔を見たのは初めてだった。
ロードは、どうして自分も気付かない自分の異変に気付いてしまうのか。彼が来なかったら多分、ヴォイドは昨日の事は昨日の事としてリセットし、今日からまた消滅の神様を強烈に恐れながら空虚な心で日々を過ごしていそうだ。
普段変な事しか言わないくせに。その癖大切な事はいつも言わなかった癖に、今はあんなに優しく大事そうに包んでくれると思わなかった。
──誰に対して好きな気持ちを返しても、誰も居なくなりません──
ロードの言葉が頭の中で反復する。
ヴォイドはシャワー室に向かうと、さっぱりした後服を着替えた。
「ユウヤミがくれた…」
続いて愛の日に貰ったお菓子をまとめて置いておいたところから、ピンクの包みを一つ取り出すと、中から生キャラメルを取り出し口に運ぶ。口溶けの良いキャラメルの優しい甘さ。滑らかな舌触りに目をとろんとさせた。
「ロードがくれた」
更に紙袋を取り出し、カントゥッチを一つ口に運んだ。アーモンドとチョコチップの香りが口に広がる。日持ちがすると言われてもらったのに、別の意味で持ちそうにない。ヴォイドはそんな感じがした。
「テオが、くれた」
愛の日。この三人は部屋まで来てくれた。ユウヤミは疲れた体を引きずって、お菓子とコートを渡すためだけに会いに来てくれた。二人でお茶を飲んだ穏やかな時間は、永遠を感じる程に、涙が出る程暖かかった。たった一瞬触れただけのユウヤミの手袋をしない手が想像していたよりも熱く感じたのを覚えている。
テオフィルスは、夜に部屋まで来て──。
昨夜の事を思い出してヴォイドは顔を真っ赤にする。ぶっきらぼうでガサツな様で、いつだって本当は物凄く色々考えて動いてくれているのだと気付き何だか照れ臭くなった。そして彼のあんな真面目な顔を、彼の口から紡がれる愛の言葉を思い出した。子供の頃から知っていたのにあんな顔を見たのは初めてだった。
ロードは、どうして自分も気付かない自分の異変に気付いてしまうのか。彼が来なかったら多分、ヴォイドは昨日の事は昨日の事としてリセットし、今日からまた消滅の神様を強烈に恐れながら空虚な心で日々を過ごしていそうだ。
普段変な事しか言わないくせに。その癖大切な事はいつも言わなかった癖に、今はあんなに優しく大事そうに包んでくれると思わなかった。
──誰に対して好きな気持ちを返しても、誰も居なくなりません──
ロードの言葉が頭の中で反復する。
ヴォイドはシャワー室に向かうと、さっぱりした後服を着替えた。
ロードへのお返し
濃い色のスキニーパンツにユウヤミから貰ったコート、しかしトップスは特に無くいつものキャミソール姿と言う相変わらず暖かいのだか寒いのだか分からない格好のままヴォイドはツカツカ歩く。斜め掛けにしてあるショルダーバッグは少し年季の入った物で、かれこれ五年は使っている物だ。せめてキャミソールではなくスクラブを上に着れば良いと思うのだが、今日のヴォイドは休務でありスクラブを着ていたら仕事と区別が付かないから嫌だと言う彼女らしい理由で着ていなかった。
「喉渇いた…」
朝から特に何も食べておらず珍しく水すら飲んでおらず急速に体の渇きに気付く。医療班所属としては推奨出来る行動ではない。とりあえず自販機で何か買おう。そう思い休憩所に向かうと、誰かのくしゃみが聞こえた。
「あ…」
珍しく喫煙所ではなくお茶を買いに来ていたロードと鉢合わせる。昨日の今日で思わず体を強張らせるヴォイドを見ると、ロードは一瞬目線を下に向け「パイスラ…」と呟きそれから顔を見てニコリと微笑んだ。
「おやおや…朝から眼福ですねぇ」
こう言う時、本人は上手く誤魔化したつもりでも往々にしてどこを経由して顔を見たのか分かるもの。彼に限って言うならばそもそも隠すつもりも誤魔化すつもりもなさそうだ。
「…おはよ」
「うふふふ。おはようございます」
「さっきくしゃみした？」
「ああ、ええまあ。聞こえました？昨日ちょっとしたアクシデントがありましてね。朝からほんの少し冷えてしまいました」
だからか、温まれそうなお茶を手に持つとそれをゆっくり飲むロード。ヴォイドはじっと見つめた。彼に会ったら何かしようとしていた気がするのにいざ本人を前にすると上手く行動に移せない。
「ちょっとちょうだい」
代わりに口から飛び出した「お茶寄越せ」。ロードは一瞬強張った笑顔を貼り付けたがすぐにいつもの顔に戻る。
「……いや、買ってあげますよ？一本くらい」
「あ、じゃあそれで」
「うふふふ、間接キスも捨てがたいんですけどねぇ…仮に私が風邪菌保有して移してしまってはいけません。まだまだ冷え込みは厳しいですし、せっかくならさっき私の買ったものではなくしっかり温かいのを飲んだ方が良いでしょう？」
そう言って自分と同じ物を追加で買うロード。彼は何故かいつだってそうだった。どんな関係になろうとどんな事をしようと、彼の唇がヴォイドのそれと重なった事はないのだ。当時、あまり自分の思っている事をヴォイドに話そうとしなかった彼がそれだけはこだわりがあると話した事があった。
曰く、「本当の意味でヴォイドが私無しで居られなくなったらその時はキスしましょう」。
結果として今現在その言葉が彼の首を絞めている事をヴォイドは知らないのだが。それを思い出していたら、そっと手に渡されたお茶。確かにとても温かい。ロードはにっこり笑うと「それ美味しいですよ」と言った。ヴォイドはこくりと頷きキャップを外してゆっくり飲み始める。
「…昨日の事なんだけど…私…色々考えようとして…でも、何か…難しくて…」
しどろもどろ整理が付かぬまま話し始めようとしたヴォイドの肩にロードはそっと手を置く。
「…大丈夫です、落ち着いて？」
「うん…」
それでも、やっぱりどうしたいのか頭の中ですら答えは出ず。そんなヴォイドを見ながら、ロードは落ち着かせようとパタパタ音を立てて肩に置いた手を叩くが、少し眉尻を下げた。
「…私が昨日言った事でヴォイドを逆に困らせちゃいましたか？」
「え…」
「まあ、よく考えたら幼い頃から頭の隅に居た存在をいきなり消そうったって難しい話ですもんねぇ…」
消滅の神様の事を言っているのはすぐに分かった。だから、そうでは無くて、昨日色々な事があったから少し神様を忘れようと思い立ったって言いたくて、そんな顔して欲しかったんじゃなくて──
気付けばヴォイドはロードの腕に逃さんと言わんばかりにがっちりしがみついていた。
「ま、待って」
「…大丈夫です、居なくなりませんよ。むしろこんな事されたら仕事に戻れないですねぇ。…私の下半身事情を考慮してください」
「は？」
「いや、何でもないです…」
「聞こえなかった」
「…なら聞こえなくて良いです」
ロードにしがみついたままヴォイドは何かを言おうと口をパクパク動かす。普段と違う、何だか様子のおかしいヴォイドを不思議そうな目で見つめていると彼女はやっと声を発した。
「ロ、ロード…」
「…はい」
「ロード、私、お前、渡す物、ある…」
「…な、何をそんな緊張してるんですか？原始人みたいな口調になってますよ…」
ちょっと面白いです。本気でツボに入り掛けたロードが顔を赤らめて笑うのを堪えたその時、片手は彼の腕に絡み付いたままもう片方の手でバッグから小さな包みを取り出した。
「これは…？」
「昨日の…お礼…。もらったのにちゃんと返せなかったから…一日過ぎたけど、ありがと」
お世辞にも上手いとは言えない、少しガタガタしたラッピング。そのピンクの包みを縛っているリボンは結び方を間違えたのか縦に歪んでいる。
が、ロードを本気で喜ばせるにはあまりにも十分過ぎるもので。
「あ、え…？お礼…？私にですか…？」
「うん。愛の日に作ったのの残りだけど…」
「いやそりゃあ…貰えたら良いなとは思っていましたが…しかも手作りですか…」
珍しく耳まで赤くしたロード。ニヤつきを抑え切れない口元を手で隠し目線をヴォイドから外す。本気で照れる姿をヴォイドは珍しそうに見つめた。こう言う時の上手い照れ方を彼は知らないらしい。
「嬉しい…」
思わず口から漏れる言葉。それを聞いてヴォイドは「一日過ぎても喜んでもらえるんだ」と少しホッとする。
「ロードに昨日アドバイスもらったから。皆から貰ったくらいと、同じだけ返せたら返そうと思って」
「同じだけ…？私があげた愛情と同じだけ返してくれるんですか本当ですかそれならベッドでもソファでも何でも良いんで今から一緒に少し休憩でも致しませんかこの半年私の体は元気を持て余してますし何なら今現在進行形で物凄く元気なんですよ誰かさんが可愛過ぎて」
「………」
あからさまにじっとりした目を向けられて尚ロードの暴走は止まらず。ヴォイドを前にするとついつい自制が無くなるのでこう言う流れになった時、彼女にゴミを見る様な目で見られるまでがお約束だ。しかしいつまで経ってもヴォイドの変わらない表情を見ていたロードは急に冷静になった。
「おっと…はっちゃけ過ぎましたかね…？」
そう言って覗き込むロード。ヴォイドはそんな彼を見てふっと笑う。
「…仕事中なんでしょ？それに、今は朝だし私は寝るならベッドが良い」
それを聞いたロードの顔がまた真っ赤になった。ヴォイド本人にその気はさらさら無いしただただうたた寝に対する理想を語ったに過ぎないが、想像力逞しいロードには、裏を返して「プライベートで夜なら良い」と言われた気がしたのだ。
と言うか、おそるべし愛の日。こんなにも無頓着で人の感情に関して特に寄り添おうとしなかったヴォイドをここまで揺さぶるとは。何か諸々通り越して彼女が悪女っぽくも見えてきてしまった。自分は今まさに弄ばれている感じで、それはそれで良い。
「じゃ。他にも返す人いるから」
お茶のお礼だけ言っていそいそとその場を離れるヴォイド。ロードはその去って行く背中をただただぼーっと眺めていた。
「あ！マテ…マーシュさん探しましたよー！」
「…フラナガンさん、密かに結社でマテオ呼びするのやめてください」
「えへへ…名前呼ぶとより一層推しと同じ空気を吸ってるみたいっていうかむしろわたしがなりたいのは推しと同じ空間の壁か床か埃か塵なんですけど、やっぱり名前呼べたら嬉しいじゃないですか！？リアルにマテオがいるとか日々ご褒美じゃないですか！？日に日に寿命延びるんですよ！？多分ここ最近だけで五年八ヶ月分くらい延びてます！！」
「気持ちは分かりますがここで私の名前を呼ぶ時はロード・マーシュでお願いします。後、何ですかその五年八ヶ月なんて具体的な数字は」
「だからマーシュさんって呼んでますよちゃんと！そこは計算が難しいんで雰囲気ですけどね！ところでどうしたんですか？難しい顔して…」
何かを考える様なロードはフィオナとの話もそこそこにじっと廊下を歩くヴォイドの背中を見つめた。まさかとは思うが彼女、誰に返すか具体的に聞いていないが愛の日にもらった分と同じだけだなんて、まさか下心丸出しでお菓子を持って来たような男が仮に居たとしてそいつにもこんな風に返すつもりじゃ無いだろうな？
「…男なんてどんな野郎も皆大概頭の中はスケベな事しか考えてないんですよ…？分かってるんですかねぇ…？」
自分を棚に上げてボソリとロードは呟く。それを隣で見ていたフィオナは聞き漏らさずメガネをキラリと光らせた。
「それはっ！モニカが多忙と疲労で参りつつ夜まで仕事をしていたらたまたま居残っていたマテオが通り掛かったは良いものの話していたら雷雨で電気系統の一時的な故障から部屋がクローズドサークルのごとく出られなくなってその間にうっかり隣で寝てしまったモニカに対してドキドキしてしまったマテオが言ったアレがモチーフですか！！？」
フィオナの勢いに負けたロードは、「じゃあ、そう言う事で」と返事をした。本当にそんなつもりで言ったのではなかったが、まあ良いか。目の前のオタ友が喜んでくれるなら。
しかし、何だか漠然と不安を覚えたロードだった。
「喉渇いた…」
朝から特に何も食べておらず珍しく水すら飲んでおらず急速に体の渇きに気付く。医療班所属としては推奨出来る行動ではない。とりあえず自販機で何か買おう。そう思い休憩所に向かうと、誰かのくしゃみが聞こえた。
「あ…」
珍しく喫煙所ではなくお茶を買いに来ていたロードと鉢合わせる。昨日の今日で思わず体を強張らせるヴォイドを見ると、ロードは一瞬目線を下に向け「パイスラ…」と呟きそれから顔を見てニコリと微笑んだ。
「おやおや…朝から眼福ですねぇ」
こう言う時、本人は上手く誤魔化したつもりでも往々にしてどこを経由して顔を見たのか分かるもの。彼に限って言うならばそもそも隠すつもりも誤魔化すつもりもなさそうだ。
「…おはよ」
「うふふふ。おはようございます」
「さっきくしゃみした？」
「ああ、ええまあ。聞こえました？昨日ちょっとしたアクシデントがありましてね。朝からほんの少し冷えてしまいました」
だからか、温まれそうなお茶を手に持つとそれをゆっくり飲むロード。ヴォイドはじっと見つめた。彼に会ったら何かしようとしていた気がするのにいざ本人を前にすると上手く行動に移せない。
「ちょっとちょうだい」
代わりに口から飛び出した「お茶寄越せ」。ロードは一瞬強張った笑顔を貼り付けたがすぐにいつもの顔に戻る。
「……いや、買ってあげますよ？一本くらい」
「あ、じゃあそれで」
「うふふふ、間接キスも捨てがたいんですけどねぇ…仮に私が風邪菌保有して移してしまってはいけません。まだまだ冷え込みは厳しいですし、せっかくならさっき私の買ったものではなくしっかり温かいのを飲んだ方が良いでしょう？」
そう言って自分と同じ物を追加で買うロード。彼は何故かいつだってそうだった。どんな関係になろうとどんな事をしようと、彼の唇がヴォイドのそれと重なった事はないのだ。当時、あまり自分の思っている事をヴォイドに話そうとしなかった彼がそれだけはこだわりがあると話した事があった。
曰く、「本当の意味でヴォイドが私無しで居られなくなったらその時はキスしましょう」。
結果として今現在その言葉が彼の首を絞めている事をヴォイドは知らないのだが。それを思い出していたら、そっと手に渡されたお茶。確かにとても温かい。ロードはにっこり笑うと「それ美味しいですよ」と言った。ヴォイドはこくりと頷きキャップを外してゆっくり飲み始める。
「…昨日の事なんだけど…私…色々考えようとして…でも、何か…難しくて…」
しどろもどろ整理が付かぬまま話し始めようとしたヴォイドの肩にロードはそっと手を置く。
「…大丈夫です、落ち着いて？」
「うん…」
それでも、やっぱりどうしたいのか頭の中ですら答えは出ず。そんなヴォイドを見ながら、ロードは落ち着かせようとパタパタ音を立てて肩に置いた手を叩くが、少し眉尻を下げた。
「…私が昨日言った事でヴォイドを逆に困らせちゃいましたか？」
「え…」
「まあ、よく考えたら幼い頃から頭の隅に居た存在をいきなり消そうったって難しい話ですもんねぇ…」
消滅の神様の事を言っているのはすぐに分かった。だから、そうでは無くて、昨日色々な事があったから少し神様を忘れようと思い立ったって言いたくて、そんな顔して欲しかったんじゃなくて──
気付けばヴォイドはロードの腕に逃さんと言わんばかりにがっちりしがみついていた。
「ま、待って」
「…大丈夫です、居なくなりませんよ。むしろこんな事されたら仕事に戻れないですねぇ。…私の下半身事情を考慮してください」
「は？」
「いや、何でもないです…」
「聞こえなかった」
「…なら聞こえなくて良いです」
ロードにしがみついたままヴォイドは何かを言おうと口をパクパク動かす。普段と違う、何だか様子のおかしいヴォイドを不思議そうな目で見つめていると彼女はやっと声を発した。
「ロ、ロード…」
「…はい」
「ロード、私、お前、渡す物、ある…」
「…な、何をそんな緊張してるんですか？原始人みたいな口調になってますよ…」
ちょっと面白いです。本気でツボに入り掛けたロードが顔を赤らめて笑うのを堪えたその時、片手は彼の腕に絡み付いたままもう片方の手でバッグから小さな包みを取り出した。
「これは…？」
「昨日の…お礼…。もらったのにちゃんと返せなかったから…一日過ぎたけど、ありがと」
お世辞にも上手いとは言えない、少しガタガタしたラッピング。そのピンクの包みを縛っているリボンは結び方を間違えたのか縦に歪んでいる。
が、ロードを本気で喜ばせるにはあまりにも十分過ぎるもので。
「あ、え…？お礼…？私にですか…？」
「うん。愛の日に作ったのの残りだけど…」
「いやそりゃあ…貰えたら良いなとは思っていましたが…しかも手作りですか…」
珍しく耳まで赤くしたロード。ニヤつきを抑え切れない口元を手で隠し目線をヴォイドから外す。本気で照れる姿をヴォイドは珍しそうに見つめた。こう言う時の上手い照れ方を彼は知らないらしい。
「嬉しい…」
思わず口から漏れる言葉。それを聞いてヴォイドは「一日過ぎても喜んでもらえるんだ」と少しホッとする。
「ロードに昨日アドバイスもらったから。皆から貰ったくらいと、同じだけ返せたら返そうと思って」
「同じだけ…？私があげた愛情と同じだけ返してくれるんですか本当ですかそれならベッドでもソファでも何でも良いんで今から一緒に少し休憩でも致しませんかこの半年私の体は元気を持て余してますし何なら今現在進行形で物凄く元気なんですよ誰かさんが可愛過ぎて」
「………」
あからさまにじっとりした目を向けられて尚ロードの暴走は止まらず。ヴォイドを前にするとついつい自制が無くなるのでこう言う流れになった時、彼女にゴミを見る様な目で見られるまでがお約束だ。しかしいつまで経ってもヴォイドの変わらない表情を見ていたロードは急に冷静になった。
「おっと…はっちゃけ過ぎましたかね…？」
そう言って覗き込むロード。ヴォイドはそんな彼を見てふっと笑う。
「…仕事中なんでしょ？それに、今は朝だし私は寝るならベッドが良い」
それを聞いたロードの顔がまた真っ赤になった。ヴォイド本人にその気はさらさら無いしただただうたた寝に対する理想を語ったに過ぎないが、想像力逞しいロードには、裏を返して「プライベートで夜なら良い」と言われた気がしたのだ。
と言うか、おそるべし愛の日。こんなにも無頓着で人の感情に関して特に寄り添おうとしなかったヴォイドをここまで揺さぶるとは。何か諸々通り越して彼女が悪女っぽくも見えてきてしまった。自分は今まさに弄ばれている感じで、それはそれで良い。
「じゃ。他にも返す人いるから」
お茶のお礼だけ言っていそいそとその場を離れるヴォイド。ロードはその去って行く背中をただただぼーっと眺めていた。
「あ！マテ…マーシュさん探しましたよー！」
「…フラナガンさん、密かに結社でマテオ呼びするのやめてください」
「えへへ…名前呼ぶとより一層推しと同じ空気を吸ってるみたいっていうかむしろわたしがなりたいのは推しと同じ空間の壁か床か埃か塵なんですけど、やっぱり名前呼べたら嬉しいじゃないですか！？リアルにマテオがいるとか日々ご褒美じゃないですか！？日に日に寿命延びるんですよ！？多分ここ最近だけで五年八ヶ月分くらい延びてます！！」
「気持ちは分かりますがここで私の名前を呼ぶ時はロード・マーシュでお願いします。後、何ですかその五年八ヶ月なんて具体的な数字は」
「だからマーシュさんって呼んでますよちゃんと！そこは計算が難しいんで雰囲気ですけどね！ところでどうしたんですか？難しい顔して…」
何かを考える様なロードはフィオナとの話もそこそこにじっと廊下を歩くヴォイドの背中を見つめた。まさかとは思うが彼女、誰に返すか具体的に聞いていないが愛の日にもらった分と同じだけだなんて、まさか下心丸出しでお菓子を持って来たような男が仮に居たとしてそいつにもこんな風に返すつもりじゃ無いだろうな？
「…男なんてどんな野郎も皆大概頭の中はスケベな事しか考えてないんですよ…？分かってるんですかねぇ…？」
自分を棚に上げてボソリとロードは呟く。それを隣で見ていたフィオナは聞き漏らさずメガネをキラリと光らせた。
「それはっ！モニカが多忙と疲労で参りつつ夜まで仕事をしていたらたまたま居残っていたマテオが通り掛かったは良いものの話していたら雷雨で電気系統の一時的な故障から部屋がクローズドサークルのごとく出られなくなってその間にうっかり隣で寝てしまったモニカに対してドキドキしてしまったマテオが言ったアレがモチーフですか！！？」
フィオナの勢いに負けたロードは、「じゃあ、そう言う事で」と返事をした。本当にそんなつもりで言ったのではなかったが、まあ良いか。目の前のオタ友が喜んでくれるなら。
しかし、何だか漠然と不安を覚えたロードだった。
テオフィルスへのお返し
「痛ってぇぇえ〜…」
ズキズキ痛む頭を押さえ、休憩がてら外の空気を吸う。テオフィルスの今日は正に絶不調だった。昨日ヴォイドに言ってしまった告白。のみならずその後部屋に戻って人知れず始めたヤケ酒は文字通り潰れるまで続けてしまったし、今朝は目が覚めたら無事二日酔いになっていた。
仕事に行けば汚染駆除班の姫様ことミサキ・ケルンティアに「愛の日に無駄に浮かれた奴」と言う目で見られた上「酒臭いから頻繁に部屋から出ろ」とお達しが。
頭痛がすると言うのを考慮した優しさも勿論あるとは思うのだが、酒臭い男を近くに置きたく無いと言うのが一番の本音だろうと思いつつテオフィルスは空を見上げた。
今日は快晴だ。澄み渡る様な青。ミサキの瞳の様だ。もう少し暗い色の青ならヴォイドに似合う様な気がしていた。
しばらく医療班には行けない。
そもそもあまり行って居なかったが。定期的なリハビリを受けないと足や腰が痛んでしまうので最近は少し気を遣う様にもなっていた。彼女にも会えるし。でも今は会いづらい。「愛してる」を過去の事にしたかったのに、口に出したらより自覚する気がしなくも無いから辛い。
今日見た夢にはナンネルも出て来て、家も足も残っていて、隣にはヴォイドが居て。いくら何でも夢見過ぎだろう。ナンネルは戻らないし、家も倒壊したし、足もその時失った。
でも、そこまで考えて、ヴォイドはまだ生きているんだと言う事に気が付く。ずっと生死すら分からず自棄になっていた日々もあったのに、彼女は生きていた。
彼女との未来なら、まだ望んでも夢で終わらない事もあるのかもしれない。
そこまで思考を巡らせてしかし首を横に振る。良い方にも悪い方にもまだ何とも言えないし何の確証も無いのに、岸壁街での生活は呆気なく諦める事を上手くさせる。
「…俺は童貞か？」
妙な期待と夢を見た事を自嘲する。心を伴わない付き合いなら楽なのに。
まあ、気持ちが落ち着くまで医療班に行かなければ良いだけの事。万が一彼女から探しに来るなんてそんな奇跡起きない限り会う事は無いのだから、それまでに自分が見付けた最善の立場、誰も傷付かない「ヴォイドにとって良いお兄ちゃん」に心を落ち着かせればそれで良い。
「あ、いた。テオ」
嘘だろ奇跡起きてしまった。
テオフィルスのもとにとことこと歩いて来るのは紛れもなくヴォイドその人で、今日は珍しくスラッと伸びた足をスキニーパンツで包み、暖かそうなコートまで羽織っている。
…が、何故かトップスは着ておらずいつものキャミソールな為、いつも以上に露出している部分が目立ちついつい目線がカヌル山とも言うべき胸元に伸びてしまう。視線を感じ上を見れば何とも言えない顔をしたヴォイドと目が合った為テオフィルスは慌てて咳払いをした。
「やっぱテオも見る…」
「いやそりゃ…ん、待て。『も』？」
「さっきロードも普通に見てた」
アイツはガッツリ見るだろう。何故なら言葉の節々から同胞の匂いがするから。
「そう言やぁ…いつからロードの事名前で呼ぶ様になったんだ？あれ？そんな親しかったっけ？お前の口からアイツの名前が出るって珍しいな」
何気なく疑問に思ったので口に出す。すると昨日の事を思い出したのかヴォイドの顔が赤くなった為、彼女の顔からマイナスな思考を巡らせたテオフィルスの胸の内を少しだけドロドロした何かが圧迫した。
「き、昨日から…」
「昨日って…愛の日じゃん。あー…なるほど、そう言う事か、納得納得。ま、ああ言うタイプは本命作りゃ一途だぜ？頑張れ」
矢継ぎ早にそう言ってテオフィルスはヴォイドから目線を逸らす。
本当はこの場から去ってしまいたかったが、義足だから離れられないんだ。それでも未練がましく彼女の横に居たいとか思っていない。これは全て失った足が悪い。
だから掴まれたヴォイドの手を振り解けないのも、この場から離れられなくした足が悪い。ひいては失う原因になったテロが悪い。と言うかギロクが悪い。もう全部何かが悪い。
「…何の納得？私何も言ってない」
「俺にだって察する能力くらいあるぜ？」
「何にも察せてない」
「ンな事ないだろ？」
「察せてない！」
珍しく声を張り上げたヴォイド。赤い顔でこちらを睨む彼女を不覚にも可愛いとすら思ってしまう。妹みたいで、可愛い。妹みたいで、と自分に何度も言い聞かせようとするが、二日酔いの頭痛も相俟って思考がぐるぐる歪んで行く。
「な、何だよ…そんな怒る事無いだろ…」
「怒る…怒るでしょ、誰だって」
「あー…彼氏差し置いてデコにキスしたからか？口じゃないだけ良いだろ」
「…は……」
「俺はそう言う男なの」
自分でも言ってて最低だとは思う。だけど、彼女が誰かのモノになったなんて話は聞きたくなかったし、額にしたキスくらいは自分だけの思い出として取っておきたかった。
「…話聞け馬鹿っ！！」
ばしんっと音を立てて結構な力で胸を叩かれる。テオフィルスが思わず顔を歪めながら「そう言う時は頬叩くもんじゃねぇの？」と聞くと「本当に叩いてやろうか」と珍しい返しが来た。
「私誰のものにもなってないし勝手に早とちりしないで」
「え？だって、ロード…」
「アレはアドバイスくれただけだし昨日もいつもの冗談言ってただけ！」
可哀想に。愛の言葉を全部冗談だと思われているとは。肩を持ちたい訳では無いが、彼のヴォイドへの言葉は何だかんだ本物だとテオフィルスは思った。
「おい…流石に冗談にして流すのは可哀想だろ」
「とにかく、ロードのアドバイスで色々あって、テオに色々返すって決めてたの！」
その有耶無耶になってる色々って何だ。面倒だからって説明まで端折るなよ。とは言いたかったが、彼女の今までの環境や過去の事を考えれば何となく、価値観を変える程の一大決心をした事くらいは詳細を聞かなくてもテオフィルスは分かった。分からなかったのは、それをもってしても彼女が自分に何を伝えたいかだった。
「で、俺に何返すんだよ？菓子の交換なら昨日ちゃんと出来たし、もう返すモンも理由も無いだろ？」
愛してる、は過去の事にしてくれ。なんて言うのは勝手だと分かっているが、思い出すだけ意識してしまうからもうほじくり返さないで欲しいとも思った。
とは言えそれはテオフィルスの勝手であり、ヴォイドはヴォイドでまた彼女なりに勝手なのだ。
「……だった…から…」
「え？」
「あんな事言われた後…テオの事考えたら変な風になったんだから…！」
真っ赤な顔でそんな事を言われたものだから、つられて自分まで顔が赤くなる。昔の事とは言え、面と向かって言われてどうしたら良いか分からなくなったのだとヴォイドは主張した。そして彼女は、とんでもない事を口走る。
「…まだ私、何て答えたら良いかわからない」
「だから、アレは昔の話だから答えなくても…」
昔の話で、今は好意が全く無い。なんてのは嘘だけど自分は傷付きたくない。
「それでも、テオに怖がらないで同じだけ返すって決めたから」
「だから返すって何を…」
ぐっと背伸びをしたヴォイドの顔が近くまで迫る。テオフィルスは今朝見た夢を思い出して心臓が跳ねた。ほんの少し顔を傾ければ唇に届く。でもそれをしたら多分、昨日で終わらせたかった物を終わらせられなくなってしまう。恋愛に振り回されて傷付くなんてらしくないし、そんな自分まっぴらだ。
しかしヴォイドは、知るかと言わんばかりに無遠慮にテオフィルスの首に腕を回すと、唇を彼の頬に押し付けた。
キスじゃない。こんなのキスじゃない。
無理矢理唇を頬に押し付けただけ。
そう思いたかったが、唇が離れた時の軽いリップ音が耳に届きその興奮が夢では無く現実である事をまざまざと自覚させる。
思わず頬を押さえて口をぱくぱく動かす。残念ながら言葉は出て来なかったし、残念ながら自分の手は一瞬の事過ぎて彼女を抱き止める事も出来なかった。
「あ、ありがと、なー…」
上手く余裕あるお兄ちゃんを演じ切れているかも分からない。いや多分、出来ていなさそうな気はする。
「…おでこ届かなかったから、ほっぺにお返し」
「『お返し』ってそう言う事かよ…！？お前、それ、誰にでも簡単にやるんじゃねぇぞ！？」
「私だってそんな事も分からない程馬鹿じゃない…。ただ、昨日テオの事でいっぱい悩んだしでも嬉しかったし、よく分からなくなったけどそれでも嬉しい気持ちは返そうと思ったから…」
──だからテオも、いっぱい悩んで。
──お前、とんでもない事サラッと言うなよ。
愛の日の翌日。本人に会ったらどんな顔をすれば良いのか。悩んでいたのはヴォイドも同じらしい。そして、動物的に本能で動いて来た彼女に先手を喰らわされた。だってまさか、こんな返し方をされるなんて思ってもみなかったから。
加えて、「おでこにキスされるの初めてだったんだから」なんて言葉まで突き付けられれば色々とグラつくもので。
「消滅の神様の事、少しずつ忘れようと思ったから…だからちゃんと嬉しかった事は返せる人に返そうと思ったの」
「し、消滅の神様…？ああ、娼婦達がよく口にしてたあれか…」
「ねえ、お願い。今嬉しかった事返したけど、テオも居なくならないでね？」
ああ、今日は彼女なりにその神様と決別する為に動いているのか。理屈としては分かったが、それとは別に胸の高鳴りはおさまってくれないし、そんな事に付き合わせるなよと毒づきたくもなった。そんなの、お前が勝手に今まで信じて来た事だろ？何で今になって辞めようと思ったんだよ。まだまだ消滅教の信徒で居てくれ。じゃないと、自分の中で「愛してる」を過去に出来なくなる。
「……おう…」
しかし口を出た言葉はおそらく彼女の求めた言葉だし、今まさに物凄く悩み始めた。彼女の思う壺だ。こんなに女に振り回されるタイプだったっけ？俺。属性鞍替えした？
「居なくなんて、ならねぇよ…」
「良かった…」
そんな安心した顔を向けるな。
満足気な顔をして、やり遂げた顔をした彼女をまた不覚にも可愛いと思ってしまう。自分も仕事に戻らなければいけないしヴォイドもまだ行くところがあると言うので名残惜しいしまだ言いたい事もあるがとりあえずここで一旦互いに手を振る。
「……もっとヤベェ夢見そう…」
二日酔いの頭で色々考えても答えなんて出ず、テオフィルスはゆっくり歩き出す。ミサキは更に惚けた顔で帰って来た彼を出て行く時より冷ややかな目で見つめた。
ズキズキ痛む頭を押さえ、休憩がてら外の空気を吸う。テオフィルスの今日は正に絶不調だった。昨日ヴォイドに言ってしまった告白。のみならずその後部屋に戻って人知れず始めたヤケ酒は文字通り潰れるまで続けてしまったし、今朝は目が覚めたら無事二日酔いになっていた。
仕事に行けば汚染駆除班の姫様ことミサキ・ケルンティアに「愛の日に無駄に浮かれた奴」と言う目で見られた上「酒臭いから頻繁に部屋から出ろ」とお達しが。
頭痛がすると言うのを考慮した優しさも勿論あるとは思うのだが、酒臭い男を近くに置きたく無いと言うのが一番の本音だろうと思いつつテオフィルスは空を見上げた。
今日は快晴だ。澄み渡る様な青。ミサキの瞳の様だ。もう少し暗い色の青ならヴォイドに似合う様な気がしていた。
しばらく医療班には行けない。
そもそもあまり行って居なかったが。定期的なリハビリを受けないと足や腰が痛んでしまうので最近は少し気を遣う様にもなっていた。彼女にも会えるし。でも今は会いづらい。「愛してる」を過去の事にしたかったのに、口に出したらより自覚する気がしなくも無いから辛い。
今日見た夢にはナンネルも出て来て、家も足も残っていて、隣にはヴォイドが居て。いくら何でも夢見過ぎだろう。ナンネルは戻らないし、家も倒壊したし、足もその時失った。
でも、そこまで考えて、ヴォイドはまだ生きているんだと言う事に気が付く。ずっと生死すら分からず自棄になっていた日々もあったのに、彼女は生きていた。
彼女との未来なら、まだ望んでも夢で終わらない事もあるのかもしれない。
そこまで思考を巡らせてしかし首を横に振る。良い方にも悪い方にもまだ何とも言えないし何の確証も無いのに、岸壁街での生活は呆気なく諦める事を上手くさせる。
「…俺は童貞か？」
妙な期待と夢を見た事を自嘲する。心を伴わない付き合いなら楽なのに。
まあ、気持ちが落ち着くまで医療班に行かなければ良いだけの事。万が一彼女から探しに来るなんてそんな奇跡起きない限り会う事は無いのだから、それまでに自分が見付けた最善の立場、誰も傷付かない「ヴォイドにとって良いお兄ちゃん」に心を落ち着かせればそれで良い。
「あ、いた。テオ」
嘘だろ奇跡起きてしまった。
テオフィルスのもとにとことこと歩いて来るのは紛れもなくヴォイドその人で、今日は珍しくスラッと伸びた足をスキニーパンツで包み、暖かそうなコートまで羽織っている。
…が、何故かトップスは着ておらずいつものキャミソールな為、いつも以上に露出している部分が目立ちついつい目線がカヌル山とも言うべき胸元に伸びてしまう。視線を感じ上を見れば何とも言えない顔をしたヴォイドと目が合った為テオフィルスは慌てて咳払いをした。
「やっぱテオも見る…」
「いやそりゃ…ん、待て。『も』？」
「さっきロードも普通に見てた」
アイツはガッツリ見るだろう。何故なら言葉の節々から同胞の匂いがするから。
「そう言やぁ…いつからロードの事名前で呼ぶ様になったんだ？あれ？そんな親しかったっけ？お前の口からアイツの名前が出るって珍しいな」
何気なく疑問に思ったので口に出す。すると昨日の事を思い出したのかヴォイドの顔が赤くなった為、彼女の顔からマイナスな思考を巡らせたテオフィルスの胸の内を少しだけドロドロした何かが圧迫した。
「き、昨日から…」
「昨日って…愛の日じゃん。あー…なるほど、そう言う事か、納得納得。ま、ああ言うタイプは本命作りゃ一途だぜ？頑張れ」
矢継ぎ早にそう言ってテオフィルスはヴォイドから目線を逸らす。
本当はこの場から去ってしまいたかったが、義足だから離れられないんだ。それでも未練がましく彼女の横に居たいとか思っていない。これは全て失った足が悪い。
だから掴まれたヴォイドの手を振り解けないのも、この場から離れられなくした足が悪い。ひいては失う原因になったテロが悪い。と言うかギロクが悪い。もう全部何かが悪い。
「…何の納得？私何も言ってない」
「俺にだって察する能力くらいあるぜ？」
「何にも察せてない」
「ンな事ないだろ？」
「察せてない！」
珍しく声を張り上げたヴォイド。赤い顔でこちらを睨む彼女を不覚にも可愛いとすら思ってしまう。妹みたいで、可愛い。妹みたいで、と自分に何度も言い聞かせようとするが、二日酔いの頭痛も相俟って思考がぐるぐる歪んで行く。
「な、何だよ…そんな怒る事無いだろ…」
「怒る…怒るでしょ、誰だって」
「あー…彼氏差し置いてデコにキスしたからか？口じゃないだけ良いだろ」
「…は……」
「俺はそう言う男なの」
自分でも言ってて最低だとは思う。だけど、彼女が誰かのモノになったなんて話は聞きたくなかったし、額にしたキスくらいは自分だけの思い出として取っておきたかった。
「…話聞け馬鹿っ！！」
ばしんっと音を立てて結構な力で胸を叩かれる。テオフィルスが思わず顔を歪めながら「そう言う時は頬叩くもんじゃねぇの？」と聞くと「本当に叩いてやろうか」と珍しい返しが来た。
「私誰のものにもなってないし勝手に早とちりしないで」
「え？だって、ロード…」
「アレはアドバイスくれただけだし昨日もいつもの冗談言ってただけ！」
可哀想に。愛の言葉を全部冗談だと思われているとは。肩を持ちたい訳では無いが、彼のヴォイドへの言葉は何だかんだ本物だとテオフィルスは思った。
「おい…流石に冗談にして流すのは可哀想だろ」
「とにかく、ロードのアドバイスで色々あって、テオに色々返すって決めてたの！」
その有耶無耶になってる色々って何だ。面倒だからって説明まで端折るなよ。とは言いたかったが、彼女の今までの環境や過去の事を考えれば何となく、価値観を変える程の一大決心をした事くらいは詳細を聞かなくてもテオフィルスは分かった。分からなかったのは、それをもってしても彼女が自分に何を伝えたいかだった。
「で、俺に何返すんだよ？菓子の交換なら昨日ちゃんと出来たし、もう返すモンも理由も無いだろ？」
愛してる、は過去の事にしてくれ。なんて言うのは勝手だと分かっているが、思い出すだけ意識してしまうからもうほじくり返さないで欲しいとも思った。
とは言えそれはテオフィルスの勝手であり、ヴォイドはヴォイドでまた彼女なりに勝手なのだ。
「……だった…から…」
「え？」
「あんな事言われた後…テオの事考えたら変な風になったんだから…！」
真っ赤な顔でそんな事を言われたものだから、つられて自分まで顔が赤くなる。昔の事とは言え、面と向かって言われてどうしたら良いか分からなくなったのだとヴォイドは主張した。そして彼女は、とんでもない事を口走る。
「…まだ私、何て答えたら良いかわからない」
「だから、アレは昔の話だから答えなくても…」
昔の話で、今は好意が全く無い。なんてのは嘘だけど自分は傷付きたくない。
「それでも、テオに怖がらないで同じだけ返すって決めたから」
「だから返すって何を…」
ぐっと背伸びをしたヴォイドの顔が近くまで迫る。テオフィルスは今朝見た夢を思い出して心臓が跳ねた。ほんの少し顔を傾ければ唇に届く。でもそれをしたら多分、昨日で終わらせたかった物を終わらせられなくなってしまう。恋愛に振り回されて傷付くなんてらしくないし、そんな自分まっぴらだ。
しかしヴォイドは、知るかと言わんばかりに無遠慮にテオフィルスの首に腕を回すと、唇を彼の頬に押し付けた。
キスじゃない。こんなのキスじゃない。
無理矢理唇を頬に押し付けただけ。
そう思いたかったが、唇が離れた時の軽いリップ音が耳に届きその興奮が夢では無く現実である事をまざまざと自覚させる。
思わず頬を押さえて口をぱくぱく動かす。残念ながら言葉は出て来なかったし、残念ながら自分の手は一瞬の事過ぎて彼女を抱き止める事も出来なかった。
「あ、ありがと、なー…」
上手く余裕あるお兄ちゃんを演じ切れているかも分からない。いや多分、出来ていなさそうな気はする。
「…おでこ届かなかったから、ほっぺにお返し」
「『お返し』ってそう言う事かよ…！？お前、それ、誰にでも簡単にやるんじゃねぇぞ！？」
「私だってそんな事も分からない程馬鹿じゃない…。ただ、昨日テオの事でいっぱい悩んだしでも嬉しかったし、よく分からなくなったけどそれでも嬉しい気持ちは返そうと思ったから…」
──だからテオも、いっぱい悩んで。
──お前、とんでもない事サラッと言うなよ。
愛の日の翌日。本人に会ったらどんな顔をすれば良いのか。悩んでいたのはヴォイドも同じらしい。そして、動物的に本能で動いて来た彼女に先手を喰らわされた。だってまさか、こんな返し方をされるなんて思ってもみなかったから。
加えて、「おでこにキスされるの初めてだったんだから」なんて言葉まで突き付けられれば色々とグラつくもので。
「消滅の神様の事、少しずつ忘れようと思ったから…だからちゃんと嬉しかった事は返せる人に返そうと思ったの」
「し、消滅の神様…？ああ、娼婦達がよく口にしてたあれか…」
「ねえ、お願い。今嬉しかった事返したけど、テオも居なくならないでね？」
ああ、今日は彼女なりにその神様と決別する為に動いているのか。理屈としては分かったが、それとは別に胸の高鳴りはおさまってくれないし、そんな事に付き合わせるなよと毒づきたくもなった。そんなの、お前が勝手に今まで信じて来た事だろ？何で今になって辞めようと思ったんだよ。まだまだ消滅教の信徒で居てくれ。じゃないと、自分の中で「愛してる」を過去に出来なくなる。
「……おう…」
しかし口を出た言葉はおそらく彼女の求めた言葉だし、今まさに物凄く悩み始めた。彼女の思う壺だ。こんなに女に振り回されるタイプだったっけ？俺。属性鞍替えした？
「居なくなんて、ならねぇよ…」
「良かった…」
そんな安心した顔を向けるな。
満足気な顔をして、やり遂げた顔をした彼女をまた不覚にも可愛いと思ってしまう。自分も仕事に戻らなければいけないしヴォイドもまだ行くところがあると言うので名残惜しいしまだ言いたい事もあるがとりあえずここで一旦互いに手を振る。
「……もっとヤベェ夢見そう…」
二日酔いの頭で色々考えても答えなんて出ず、テオフィルスはゆっくり歩き出す。ミサキは更に惚けた顔で帰って来た彼を出て行く時より冷ややかな目で見つめた。
ユウヤミへのお返し
途方も無く青い空。自由にその中を飛ぶ鳥が見えて思わず視線が釘付けになる。自分の中で鳥と彼女が重なり嬉しい様な切ない様なはたまた羨ましい様な気持ちになった。
昨日の愛の日は良い意味でなかなか疲れる一日を過ごせたとユウヤミはふと思い返した。
軍警病院の検診もあの場所特有の空気感も落ち着ける物ではないしいつもより気を使うのも確かではあるが、代理人として働いて貰ったエドゥアルトは立派に仕事を全うしてくれた様だから今後の人間関係も一先ず安泰だし、何より夜は珍しいものも見れた。
──探しちゃったでしょ……──
…いや、違う。昼過ぎた頃にはもういつもと違う事にはなっていたか。
何にせよ、今日からまた日常に戻るだけ。多分、おそらく自分だけじゃない。あの少女、ミサキ・ケルンティアも同じ事を感じて居ただろう。受け取れる情報量が世間一般のそれより多いとあらゆるところまで巡らせる予測の仕方はただただ疲れてしまう。
そう言う日だ。昨日は。ただただそう言う日だった筈だ。
「……」
彼女の前では思ったより気が抜ける様になってしまったな。
何となく、悪い日では無かった。だから今はとりあえず、日常に戻るウォーミングアップも込みと考える。
「主人、いつ呼び出されても良い様に動ける様にはしておいてくださいよ」
ヨダカに声を掛けられユウヤミは彼の方を見る。ヨダカの顔は、彼が機械人形だからか感情は読めないが、それにしても珍しい念押しをしたものだ。
「えぇ？そんな当たり前の事を言うなんて珍しいねぇ」
「何だか普段より目の焦点があっていない様に見えたので。呆けているつもりはないと思いますが、今日は空を見つめる時間が平均していつもより一秒も長いです」
「うーん…昨日の今日だからそう言う気がするんじゃないかい？」
「お疲れですか？」
「まあねぇ…なんたって久しぶりにガニマール君の顔も見てお小言も聞いたワケだしねぇ。それは私も割と…」
何かを言い掛けてユウヤミの言葉はそこで止まった。ヨダカはそれを不審そうな目で見た後、ユウヤミの視線を追う。その先にいたのは、ベンチの上で蹲っているヴォイドだった。
すぐ様地面を蹴り駆け寄るユウヤミ。よく見るとスキニーパンツにコートと言う出立ちでいつもより幾分暖かそうだがどう言う訳かトップスは相変わらずのキャミソールな為少し体が冷えている。
「…ホロウ君？」
ぐいと肩を抱き上げるとぼんやり目を開けた。ヴォイドは目線の先にいるのがユウヤミだと気付くと安堵の表情を浮かべる。
「あ…ユウヤミ…」
「ホロウ君…？どうしたんだい…？」
「ユウ…ヤミ…居た…」
「そもそも君、今日休みじゃなかったっけ？こんなところで一体何をしていたんだい？」
何か状況だけ見たら昔の戦争映画で目にした瀕死の兵士(大体直前に死亡フラグを立てて視聴者の予感を誘っている奴)を抱える主人公(大概において戦火に巻き込まれているのに驚異の無傷)に見えなくもないが、日常の殆どの事象は大体それ程大事ではない何かで満ち溢れているものだ。
「ホロウ君…？」
「ユウヤミぃ…」
次の瞬間。近くで獣が咆哮したのかと言う勢いのもはや轟音の様な地鳴りの様な、例えるならそんな感じの腹の虫が鳴り響いた。
無論、ユウヤミの目の前に居るこの煽情的なスタイルの女性からである。
あまりの不意打ちに思わず口の端がひくりと動くが本人を前にして笑うのは失礼かとユウヤミは顔をヴォイドから背けた。
「…ホロウ君、いつから何も食べていないんだい？」
しかし、笑いを堪えているのかその声は少し上擦っている。
「き、昨日の夜から…」
「もうすぐお昼だけど…朝はどうしたんだい？」
「考え事…してたら…忘れ…」
「分かった分かった、もう喋らなくて良い…喋らなくて良いよホロウ君。とりあえずベンチに座り直そう」
ヴォイドの肩と膝の下に回した腕にグッと力を込め一瞬抱き上げるとベンチに上手く座る様に促す。ボーッと地面を見つめるヴォイド、それを見て手に持って居た鞄の中を漁るユウヤミ。
何を見せられているんだろう？ただの「極端にお腹空いただけの話」をさも戦火の絆の様に見せてくる二人をどう処理したら良いんだ？と言う目をした様に見えるヨダカ。
三人の間に流れる沈黙を割くようにまたしても獣の咆哮が腹から流れた。
「…で？珍しいなと思ったんだけれどねぇ。君が休みの日にこんなところにいるなんて」
はむはむ言いながらユウヤミから受け取った炒麦のおにぎりを頬張るヴォイド。尚、このおにぎりは一応ユウヤミが仕事に備えて念の為と思って用意しておいたものでこんな事は一切予測していなかったが意外にも役に立った。ただし、彼の持参した昼ご飯は消えた訳だが。
「それから…上は何か中に着た方が良いかもねぇ…それじゃあ逆に目のやり場に困りそうだ」
そう言って微笑むユウヤミを見ながら口をもぐもぐ動かしていたヴォイドだが、ごくりと喉を鳴らすとやっと口を開いた。
「無かったの」
「スクラブを着れば良いだろう？」
「それは仕事着だから。着てて仕事中と勘違いされて休みなのに駆り出されても嫌だし」
「あ、なるほど。他の服はどうしたんだい？」
「クリーニング中…しっかり泥落ちてくれなくて、色んなところ持ってってるんだけど…」
泥が落ちない。それを聞いてユウヤミは一瞬ハッとした顔になった。
「…もしかして、ミクリカのお祭の時のあの服、まだ持っているのかい？」
「だって、捨てる理由ある？」
「機械人形との交戦があって泥まみれになってしまったよねぇ？」
「…ユウヤミが初めてくれたから。とっておく理由はあっても捨てる理由が無い」
しっかりと言い切るヴォイド。ユウヤミはそれを聞いて少しだけ口元を緩ませた。彼女の事だから、汚れてしまった服を手元に置いておく事に得を感じず捨ててしまうか、それでも勿体無いと思って逆に置いておくかは半々の予想だった。どちらにせよ損得による導きが大きく、まさかそんな感情の理由で手元に置いているとは思っていなかったのだ。
「…また一緒に服、見に行こうか。私で良ければ」
「うん」
「とりあえず、今日はコートの前ボタン閉めよう？サイズはピッタリの筈だよ？」
「ちょっとピッタリ過ぎてキツイかも…」
「んー…そう来たか…サイズミスはしていないと思うけれどねぇ…もう少しゆとりが欲しかった？」
「でも…それじゃ今度全体が大きく見えそうだよね」
「そうそう、そこなのだよねぇ」
ヴォイド・ホロウ。自分の服の採寸をほぼ正確に把握している男性に特に騒ぐ気配無しなのでラウールの言動も特に問題なし。ヨダカは頭の中でそう処理した。
不意にユウヤミとヨダカの目が合う。ユウヤミは目を少しだけ三日月の形の様なそんな愛想めいた笑い方を見せ、そのまますいっと横に瞳を揺らした。
許可出来ません。そう言わんばかりに首を横に振るヨダカ。しかしユウヤミはまた同じ行動を取る。
仕方ない。昨日少しだけ好転の数値を上げた事だし、ほんの少しですよ？そう言わんばかりに人間の溜息の様な声を漏らしたヨダカは、二人から距離を取るとしかし二人の姿は見えるところに立ち直した。
「少し席外して」
あの時ユウヤミの瞳は間違いなくそう言っていた。まあ、人間で言うところの「空気を読め」みたいなものだろう。
「…で？何をしていたんだい？」
改めてユウヤミがヴォイドに尋ねる。ヴォイドは少し黙って目をキョロキョロさせた。おそらく、何処から話したら良いか整理出来ず頭の中で話題を構築し直しているのだろう。黙って待っているとヴォイドはやっと口を開いた。
「昨日の…お返し…」
「ん？それは私が渡して君からもらって、それで相殺じゃないかい？」
「それから、後悔したくなかったから…」
ヴォイドはぐっとユウヤミに近付くと手で彼の服の袖をキュッと掴む。その手は少し震えていた。
「ねえユウヤミ…もしユウヤミが誰かに好きな気持ちを伝えたらその伝えられた人が消えてしまう呪いに掛かっていたとして、それでも伝える？伝えない？」
「どうしたんだい？急にそんなファンタジーな事聞いて…」
「んー……死亡フラグ立てやすいキャラだったとして、立てなきゃ話進まないかもって聞いたらそれ分かってて立てる？立てない？」
「一気に馴染みやすくなったけれど」
例え話を出して来たが、おそらくこれは彼女自身の話だろう。ヴォイドには確かに「好き」と言う感情が欠落している様な気はしていた。否、正確には「好き」と言う感情を意識しない様にしている気がしていた。好きな感情を誰かに抱いたのと同じタイミングで彼女にとって嫌な事が起きた、そう考えるのが妥当だろうが。彼女の生い立ちや環境を考えれば恩人か、恋愛関係か。
「つまり、やってする後悔とやらなかった後悔どっちが良いかって解釈で良いのかい？」
「うん…」
「そうだねぇ…それは、ホロウ君の求める答えになるかなぁ…？どちらか、なんて時と場合によってかなり違うしねぇ…ただ、一般論を言うならば、やるとしたら『やってする後悔』かな？」
ユウヤミの回答にヴォイドがぴくりと反応する。彼の口から紡がれる次の言葉を待っている様だった。
「やらなかった後悔と言うのはね、『もしも』の先の無限の可能性を構築出来てしまうから恐ろしい程未練が残るのだよ。やった後悔には、既に『やった』事による結果が出て居るからある程度その時点で人間は大なり小なり満足感を得るものさ。だけど、やらなかった時に残る後悔と言うのは結果すら往々にして朧げにしか出ないからね。物語だって、『さあ、いざ舞踏会に着いて王子様に話し掛けるか掛けないか』なんてところで終わったら終わった気がしないよね。やらなかった後悔の余波は、時としてそれ程までにじわじわと尾を引くものだよ」
「じゃあ、やった方が良いの…？」
「場合によるね。例えば、言わない方が良いと分かっていて相手にその言葉を掛けた場合。自分は相手の為、良かれと思って。だけど相手はそんな風に聞かない。相手にも相手の人生、物語、感情がある。だから言った側の思う様に受け止めてくれるなんて都合の良い話はない。それで関係が破綻した後に後悔して縋る『もしも』の方が影を落とす事もある」
私も分からないけれどね。まだまだ見様見真似で人の姿を保てているだけだから。
出掛かったその言葉は言わずに留め、ユウヤミはヴォイドに微笑む。だがやはり、納得行かないと言う顔でヴォイドはユウヤミの服の裾を解放しなかった。
「ユウヤミは、どうしたいの？」
「私かい？」
「ユウヤミだったらどうしたいかを聞きたかったの」
「…それこそ場合によりけりだねぇ。こう、とは言えないかな？」
「そう…」
沈黙が少しだけ痛く感じる。ユウヤミもまさかそう聞かれるとは思わなかった。何だか今日の彼女は随分と好意に翻弄されている気がする。でも不思議と居心地は悪くない。愛と言う言葉にはいつも少し足踏みしたくなる様なそんな記憶が一つある。愛の行き着くところまで行ってしまった、身勝手極まる醜態を見た事があるからだ。
でもそれは彼女からは感じない。しかしいつもの損得で動く空気も感じない。今日の彼女は極彩色に見えてユウヤミには少し眩しかった。
「ねえ、ユウヤミ」
ヴォイドが裾を離さないまま呟く。
「何だい？」
努めて笑顔を見せるが、ヴォイドの空気は変わらない。
「ユウヤミ」
「…どうしたの？」
意を決した様にヴォイドが目にキッと力を込める。感情が昂って来ているのだろう。ユウヤミは彼女の瞳の潤みを見逃さずにいた。
ヴォイドはそんなユウヤミの目をまっすぐ見る。しかし彼と目が合うと、驚く程ふっと緊張の解れた柔らかい眼差しになった。
「私、ユウヤミの名前を呼ぶのが好き」
「え…」
「ユウヤミの作ってくれるお菓子が好き。…昨日のマカロンまた食べたい。ユウヤミの選んでくれる服が好き。ユウヤミの声が好き。ユウヤミのふわふわな髪撫でるのも好き。だからまた触らせてね。ユウヤミのいつもの笑顔はいつも通りな感じがする。ユウヤミのたまに見せる何か無みたいな顔は、一瞬誰か分からなくなるけど最近それも好きだと思った」
「……うん」
「私…ユウヤミの傍に居る時、凄くホッとするんだと思う…少し眠くなる。でも、昨日からは少しだけドキドキもする…」
時々、ユウヤミ・リーシェルの仮面を彼女の前では外してしまう事もある。でもまさかそれを指して「好き」と言われると思わなかった。あまりにも拙い「好き」の数々。お菓子なんて昨日の追加注文だし髪を触っていた時は猫を見る目だったししかもまた触らせろと言うし。これを、いわゆる恋愛の好きとごっちゃにして良くはないだろうし彼女もいまいち線引きは分かってないだろうなぁ。
ただ、彼女が損得抜きの漠然とした好意を向けてくれているのは確かで、それを向けるのは彼女にとってきっと恐ろしい事だった筈で、きっと先程のやるやらないの後悔の問答はこれを言おうか迷ったからなのだろうと言うのは次に紡がれた言葉で気が付いた。
「ユウヤミの好きなところ…伝えちゃったけど…ユウヤミは、居なくならない？」
「居なく…？それはホロウ君の傍からかい？」
「私の傍とかは関係なくて…今までずっと消滅の神様に怯えて来たから聞かないと不安になっちゃうの…」
「消滅の神様…？」
「私が人を好きだと思うタイミングでその人との縁を切って行っちゃう事象。いつもそんな気がしてたから、なら本当は言わなければ良いんだろうけど、もし私に好きって気持ちを向けてくる人がいてその時に私が何も分からなくて突っぱねちゃったら結果として私も相手もちょっとだけ寂しいわよって昨日言ってもらえて。じゃあ少しでもそう言う気持ち分かろうと思ったら、私が誰のどこが好きか自覚しなきゃいけないなって思って、でも思われるだけならまだ良いけど、私が思った後に消滅の神様に来られない保証は無いからうんと怖くなっちゃって」
「ふむ…」
「昨日、色んな人から貰ったものが温かくて、幸せに感じちゃったら急に怖くなっちゃったの。ふとした時に皆居なくなっちゃうんじゃないかって、漠然と。でも、もう貴女とそのふざけた神様の縁は切れましたって強く言ってもらえもしたから、とりあえず昨日温かいものをいっぱいくれた人達には返したいと思ったの」
きっと最初の契機は女性メンバーの誰かかな？と彼女が添えた語尾で気が付く。その後、この状況を後押しした誰かは敬語。何となく誰かはよくよく考えれば想像出来るけど、そこまでは突き止めない。
それよりも困った事がユウヤミにはあった。彼は束縛されるのは嫌いだし、嘘もつけない。ヴォイドの求める答えを本心から言うのは難しい。
「ホロウ君、ありがとう。でもね…私は、居なくならないよだなんて、もしも嘘になった時が嫌だからそれは言えないんだ。ごめんね」
ぐっと唇に力を入れたヴォイド。眉間に皺が寄って行き、目には涙が溜まり始める。だからユウヤミは、手袋を外すと自分の手で精一杯彼女の頬を包んだ。
「でもね、少なくとも消滅の神様とやらに負けてやる気はさらさらないよ。ごめんね、君の求める答えと違って。だけど期待を持たせて嘘にしてしまったらそれこそ、ね？」
「そんな事…言わないで…」
「だから、それは君のせいじゃない。少なくとも君のせいじゃない。もしそうなる要素があるとしたら、それは消滅の神様じゃなくて、探偵ユウヤミ・リーシェルによって浮気がバレた哀れな人間達の身勝手な怨念かな？」
ユウヤミはそう言って微笑む。聞いていたヴォイドの顔も少しだけ落ち着いた様に見えた。
「だから私は、消滅の神様からは絶対に逃げ切る事を約束するよ。でも、嘘になった時が嫌だから居なくならないよとは言えない。だけどこれだけは覚えておいてくれ給え。私に何か悪い事が起きたとして、それは絶対に君が向けた好意のせいじゃない」
ユウヤミがそう言い切るのと同時に、堰を切った様にヴォイドの目から涙が溢れる。そう言えば昨日も感情が昂った時に瞳を潤ませていたなぁと思いながら、まるで子供をあやす様に彼女の頭だけ抱き寄せると少しだけ無遠慮にわしゃわしゃ撫でてみた。彼女には珍しい、花の様な香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「ほら、私も昨日のお返し」
「えーっと……んにゃぁ…？」
「そう言えばそんな事言ったねぇ」
ひとしきり笑った後、ユウヤミは不思議そうにヴォイドを見つめた。
「ホロウ君、香水付けてるのかい？」
「え…これも臭い？」
「いや？臭くなんてないよ？良い香り。嗅ぎ慣れない香りがしたから驚いただけ」
「昨日…シャワー浴びる前に、多分首筋からだろうけど、薬品の匂いがするって言われて…もしかしたら臭かったのかと思って、の助…あ、ヒギリに相談したら、私そんなの気にした事ないけどって言いながら試しにって試供品で貰ったらしいやついっぱいくれた」
「んー…」
ユウヤミは思考を巡らせた。治療の為距離を詰める瞬間なんてごまんとあるし、その中でそれを言う人間も無きにしも非ず、か？しかし、そもそも医療班の部屋自体がある程度薬品の臭いが薄く充満しているわけで、それが人からしたからと言って指摘する人間と言うのは可能性が低い。居るだろうけど、ヴォイドがそれを真に受けて気にするかまで考えたら可能性は極めて低そうだ。
では、それ以外で考えると、少なくとも場所は薬品の臭いの充満していないところ。つまり医療班の部屋以外でと言うのは確定だろう。そして相手は気軽に匂いの話まで出来る間柄の人間…。
「ユウヤミ…？」
ヴォイドが不安そうにこちらを見つめてくるのでユウヤミは一度思考をシャットダウンする。何だかその人間のフォローをする様で癪だけど、彼女がマイナスに捉えてしまっているのは嫌だったのでユウヤミは口を開いた。
「その人は…多分、とても良い匂いだって言ったんだよ…その匂いを、君らしいって言わなかったかい？」
「……言っ…た…」
「だよね。きっとその人は、君のありのままの今を匂いって形で知れて…嬉しかったんだよ」
薬品の匂いを気にするとなると、医療班の誰かと言う可能性はゼロだ。そしてやりとりを聞き齧るに、それがあったから彼女に相談したと言う状況なのだからヒギリも除外して良いだろう。
となるとあまり考えたくは無いが、仕事外の場で会った男性の誰かと言うのが可能性としては一番濃厚か。
「そうなの…かな…」
「そうだよ。良い意味で言ったんだよ。私も薬品とか消毒液の匂い、割合好きだしねぇ」
「…ありがとう。ユウヤミにも言われたら安心した」
さっきあんな近くまで寄ってしまったけど、テオは香水と薬品、どっちが良いんだろ？
不意に新たな疑問がヴォイドの頭を過ぎる。
ユウヤミは傍でただいつも通り微笑んでいた。
「私、ユウヤミといると安心する…」
「そう…？嬉しいな…」
自分のあげたキャラメルマカロンに生チョコを返して来たヴォイド。
奇しくも「安心出来る特別な存在」と密かに込めて渡したものに、言葉で返されてしまった。チョコレートのお菓子言葉は「貴方と同じ気持ちです」。知っていてこれにした訳ではないだろうが、とても無難だなぁなんて思っていたのに、本当に言葉で返されてしまうなんて。
「主人、すみませんがそろそろ」
特に何の感情も無さそうなヨダカが現れる。汚染された機械人形が出たと情報が入ったらしい。こうなると名残惜しいが出ない訳にはいかないので、ヴォイドとはこのまま別れる事にした。
「ホロウ君、ありがとう」
「むしろ…また私、いっぱいユウヤミから安心を貰った気がする…」
「なら、君の気の済むまでまた返しに来ておくれよ。私はここに居てその神様とやらを撒いているからさ」
何せあの目敏いヨダカすら日常的に撒いているんだよ？と耳打ちするとヴォイドはふっと声を上げて笑った。
「ごめんね、しっかり安心出来るまで傍に居られなくて」
「ううん。ありがとう、ユウヤミ」
それじゃあ、と背を向けたユウヤミの背に、「行ってらっしゃい」と言う声が届く。久しく聞いていなかった気がする。そんな言葉だった。
「お楽しみのところ申し訳ありません主人。でも仕事ですので」
「そんな嫌味ったらしく言わなくて良いよヨダカ」
「そんなつもりありませんが。しかし、シードさんと主人になんて報告をすれば…」
「…言わなくて良いよ、ホロウ君との関係は何も変わってない。まだ、何もね？」
だってまだ、さっきの香水の話が釈然としない。仕事外の場で会った男性の誰かと言うのが可能性としては一番濃厚か、とは思ったが、少なくとも先程の自分くらいかそれ以上の距離まで詰め寄った誰かが居たのは確かなのだろう。この気持ちは何だろう？とにかく一番しっくりくるのは、釈然としないとか、そんな感じだ。
ユウヤミは色々考えを巡らせ、一瞬だけ寂しげにまなじりを下げた。
「…もうちょっと危機感持った方が良いと思うのだけれど？ホロウ君…」
ふと口にした言葉。ヨダカが気にしてユウヤミを見るが、彼はいつもの無表情に戻っていた。
気のせいか。何だか狐につままれた様な変な心地だ。
「どうしたんだい？ほら行くよ、ヨダカ」
「はい…主人」
昨日の愛の日は良い意味でなかなか疲れる一日を過ごせたとユウヤミはふと思い返した。
軍警病院の検診もあの場所特有の空気感も落ち着ける物ではないしいつもより気を使うのも確かではあるが、代理人として働いて貰ったエドゥアルトは立派に仕事を全うしてくれた様だから今後の人間関係も一先ず安泰だし、何より夜は珍しいものも見れた。
──探しちゃったでしょ……──
…いや、違う。昼過ぎた頃にはもういつもと違う事にはなっていたか。
何にせよ、今日からまた日常に戻るだけ。多分、おそらく自分だけじゃない。あの少女、ミサキ・ケルンティアも同じ事を感じて居ただろう。受け取れる情報量が世間一般のそれより多いとあらゆるところまで巡らせる予測の仕方はただただ疲れてしまう。
そう言う日だ。昨日は。ただただそう言う日だった筈だ。
「……」
彼女の前では思ったより気が抜ける様になってしまったな。
何となく、悪い日では無かった。だから今はとりあえず、日常に戻るウォーミングアップも込みと考える。
「主人、いつ呼び出されても良い様に動ける様にはしておいてくださいよ」
ヨダカに声を掛けられユウヤミは彼の方を見る。ヨダカの顔は、彼が機械人形だからか感情は読めないが、それにしても珍しい念押しをしたものだ。
「えぇ？そんな当たり前の事を言うなんて珍しいねぇ」
「何だか普段より目の焦点があっていない様に見えたので。呆けているつもりはないと思いますが、今日は空を見つめる時間が平均していつもより一秒も長いです」
「うーん…昨日の今日だからそう言う気がするんじゃないかい？」
「お疲れですか？」
「まあねぇ…なんたって久しぶりにガニマール君の顔も見てお小言も聞いたワケだしねぇ。それは私も割と…」
何かを言い掛けてユウヤミの言葉はそこで止まった。ヨダカはそれを不審そうな目で見た後、ユウヤミの視線を追う。その先にいたのは、ベンチの上で蹲っているヴォイドだった。
すぐ様地面を蹴り駆け寄るユウヤミ。よく見るとスキニーパンツにコートと言う出立ちでいつもより幾分暖かそうだがどう言う訳かトップスは相変わらずのキャミソールな為少し体が冷えている。
「…ホロウ君？」
ぐいと肩を抱き上げるとぼんやり目を開けた。ヴォイドは目線の先にいるのがユウヤミだと気付くと安堵の表情を浮かべる。
「あ…ユウヤミ…」
「ホロウ君…？どうしたんだい…？」
「ユウ…ヤミ…居た…」
「そもそも君、今日休みじゃなかったっけ？こんなところで一体何をしていたんだい？」
何か状況だけ見たら昔の戦争映画で目にした瀕死の兵士(大体直前に死亡フラグを立てて視聴者の予感を誘っている奴)を抱える主人公(大概において戦火に巻き込まれているのに驚異の無傷)に見えなくもないが、日常の殆どの事象は大体それ程大事ではない何かで満ち溢れているものだ。
「ホロウ君…？」
「ユウヤミぃ…」
次の瞬間。近くで獣が咆哮したのかと言う勢いのもはや轟音の様な地鳴りの様な、例えるならそんな感じの腹の虫が鳴り響いた。
無論、ユウヤミの目の前に居るこの煽情的なスタイルの女性からである。
あまりの不意打ちに思わず口の端がひくりと動くが本人を前にして笑うのは失礼かとユウヤミは顔をヴォイドから背けた。
「…ホロウ君、いつから何も食べていないんだい？」
しかし、笑いを堪えているのかその声は少し上擦っている。
「き、昨日の夜から…」
「もうすぐお昼だけど…朝はどうしたんだい？」
「考え事…してたら…忘れ…」
「分かった分かった、もう喋らなくて良い…喋らなくて良いよホロウ君。とりあえずベンチに座り直そう」
ヴォイドの肩と膝の下に回した腕にグッと力を込め一瞬抱き上げるとベンチに上手く座る様に促す。ボーッと地面を見つめるヴォイド、それを見て手に持って居た鞄の中を漁るユウヤミ。
何を見せられているんだろう？ただの「極端にお腹空いただけの話」をさも戦火の絆の様に見せてくる二人をどう処理したら良いんだ？と言う目をした様に見えるヨダカ。
三人の間に流れる沈黙を割くようにまたしても獣の咆哮が腹から流れた。
「…で？珍しいなと思ったんだけれどねぇ。君が休みの日にこんなところにいるなんて」
はむはむ言いながらユウヤミから受け取った炒麦のおにぎりを頬張るヴォイド。尚、このおにぎりは一応ユウヤミが仕事に備えて念の為と思って用意しておいたものでこんな事は一切予測していなかったが意外にも役に立った。ただし、彼の持参した昼ご飯は消えた訳だが。
「それから…上は何か中に着た方が良いかもねぇ…それじゃあ逆に目のやり場に困りそうだ」
そう言って微笑むユウヤミを見ながら口をもぐもぐ動かしていたヴォイドだが、ごくりと喉を鳴らすとやっと口を開いた。
「無かったの」
「スクラブを着れば良いだろう？」
「それは仕事着だから。着てて仕事中と勘違いされて休みなのに駆り出されても嫌だし」
「あ、なるほど。他の服はどうしたんだい？」
「クリーニング中…しっかり泥落ちてくれなくて、色んなところ持ってってるんだけど…」
泥が落ちない。それを聞いてユウヤミは一瞬ハッとした顔になった。
「…もしかして、ミクリカのお祭の時のあの服、まだ持っているのかい？」
「だって、捨てる理由ある？」
「機械人形との交戦があって泥まみれになってしまったよねぇ？」
「…ユウヤミが初めてくれたから。とっておく理由はあっても捨てる理由が無い」
しっかりと言い切るヴォイド。ユウヤミはそれを聞いて少しだけ口元を緩ませた。彼女の事だから、汚れてしまった服を手元に置いておく事に得を感じず捨ててしまうか、それでも勿体無いと思って逆に置いておくかは半々の予想だった。どちらにせよ損得による導きが大きく、まさかそんな感情の理由で手元に置いているとは思っていなかったのだ。
「…また一緒に服、見に行こうか。私で良ければ」
「うん」
「とりあえず、今日はコートの前ボタン閉めよう？サイズはピッタリの筈だよ？」
「ちょっとピッタリ過ぎてキツイかも…」
「んー…そう来たか…サイズミスはしていないと思うけれどねぇ…もう少しゆとりが欲しかった？」
「でも…それじゃ今度全体が大きく見えそうだよね」
「そうそう、そこなのだよねぇ」
ヴォイド・ホロウ。自分の服の採寸をほぼ正確に把握している男性に特に騒ぐ気配無しなのでラウールの言動も特に問題なし。ヨダカは頭の中でそう処理した。
不意にユウヤミとヨダカの目が合う。ユウヤミは目を少しだけ三日月の形の様なそんな愛想めいた笑い方を見せ、そのまますいっと横に瞳を揺らした。
許可出来ません。そう言わんばかりに首を横に振るヨダカ。しかしユウヤミはまた同じ行動を取る。
仕方ない。昨日少しだけ好転の数値を上げた事だし、ほんの少しですよ？そう言わんばかりに人間の溜息の様な声を漏らしたヨダカは、二人から距離を取るとしかし二人の姿は見えるところに立ち直した。
「少し席外して」
あの時ユウヤミの瞳は間違いなくそう言っていた。まあ、人間で言うところの「空気を読め」みたいなものだろう。
「…で？何をしていたんだい？」
改めてユウヤミがヴォイドに尋ねる。ヴォイドは少し黙って目をキョロキョロさせた。おそらく、何処から話したら良いか整理出来ず頭の中で話題を構築し直しているのだろう。黙って待っているとヴォイドはやっと口を開いた。
「昨日の…お返し…」
「ん？それは私が渡して君からもらって、それで相殺じゃないかい？」
「それから、後悔したくなかったから…」
ヴォイドはぐっとユウヤミに近付くと手で彼の服の袖をキュッと掴む。その手は少し震えていた。
「ねえユウヤミ…もしユウヤミが誰かに好きな気持ちを伝えたらその伝えられた人が消えてしまう呪いに掛かっていたとして、それでも伝える？伝えない？」
「どうしたんだい？急にそんなファンタジーな事聞いて…」
「んー……死亡フラグ立てやすいキャラだったとして、立てなきゃ話進まないかもって聞いたらそれ分かってて立てる？立てない？」
「一気に馴染みやすくなったけれど」
例え話を出して来たが、おそらくこれは彼女自身の話だろう。ヴォイドには確かに「好き」と言う感情が欠落している様な気はしていた。否、正確には「好き」と言う感情を意識しない様にしている気がしていた。好きな感情を誰かに抱いたのと同じタイミングで彼女にとって嫌な事が起きた、そう考えるのが妥当だろうが。彼女の生い立ちや環境を考えれば恩人か、恋愛関係か。
「つまり、やってする後悔とやらなかった後悔どっちが良いかって解釈で良いのかい？」
「うん…」
「そうだねぇ…それは、ホロウ君の求める答えになるかなぁ…？どちらか、なんて時と場合によってかなり違うしねぇ…ただ、一般論を言うならば、やるとしたら『やってする後悔』かな？」
ユウヤミの回答にヴォイドがぴくりと反応する。彼の口から紡がれる次の言葉を待っている様だった。
「やらなかった後悔と言うのはね、『もしも』の先の無限の可能性を構築出来てしまうから恐ろしい程未練が残るのだよ。やった後悔には、既に『やった』事による結果が出て居るからある程度その時点で人間は大なり小なり満足感を得るものさ。だけど、やらなかった時に残る後悔と言うのは結果すら往々にして朧げにしか出ないからね。物語だって、『さあ、いざ舞踏会に着いて王子様に話し掛けるか掛けないか』なんてところで終わったら終わった気がしないよね。やらなかった後悔の余波は、時としてそれ程までにじわじわと尾を引くものだよ」
「じゃあ、やった方が良いの…？」
「場合によるね。例えば、言わない方が良いと分かっていて相手にその言葉を掛けた場合。自分は相手の為、良かれと思って。だけど相手はそんな風に聞かない。相手にも相手の人生、物語、感情がある。だから言った側の思う様に受け止めてくれるなんて都合の良い話はない。それで関係が破綻した後に後悔して縋る『もしも』の方が影を落とす事もある」
私も分からないけれどね。まだまだ見様見真似で人の姿を保てているだけだから。
出掛かったその言葉は言わずに留め、ユウヤミはヴォイドに微笑む。だがやはり、納得行かないと言う顔でヴォイドはユウヤミの服の裾を解放しなかった。
「ユウヤミは、どうしたいの？」
「私かい？」
「ユウヤミだったらどうしたいかを聞きたかったの」
「…それこそ場合によりけりだねぇ。こう、とは言えないかな？」
「そう…」
沈黙が少しだけ痛く感じる。ユウヤミもまさかそう聞かれるとは思わなかった。何だか今日の彼女は随分と好意に翻弄されている気がする。でも不思議と居心地は悪くない。愛と言う言葉にはいつも少し足踏みしたくなる様なそんな記憶が一つある。愛の行き着くところまで行ってしまった、身勝手極まる醜態を見た事があるからだ。
でもそれは彼女からは感じない。しかしいつもの損得で動く空気も感じない。今日の彼女は極彩色に見えてユウヤミには少し眩しかった。
「ねえ、ユウヤミ」
ヴォイドが裾を離さないまま呟く。
「何だい？」
努めて笑顔を見せるが、ヴォイドの空気は変わらない。
「ユウヤミ」
「…どうしたの？」
意を決した様にヴォイドが目にキッと力を込める。感情が昂って来ているのだろう。ユウヤミは彼女の瞳の潤みを見逃さずにいた。
ヴォイドはそんなユウヤミの目をまっすぐ見る。しかし彼と目が合うと、驚く程ふっと緊張の解れた柔らかい眼差しになった。
「私、ユウヤミの名前を呼ぶのが好き」
「え…」
「ユウヤミの作ってくれるお菓子が好き。…昨日のマカロンまた食べたい。ユウヤミの選んでくれる服が好き。ユウヤミの声が好き。ユウヤミのふわふわな髪撫でるのも好き。だからまた触らせてね。ユウヤミのいつもの笑顔はいつも通りな感じがする。ユウヤミのたまに見せる何か無みたいな顔は、一瞬誰か分からなくなるけど最近それも好きだと思った」
「……うん」
「私…ユウヤミの傍に居る時、凄くホッとするんだと思う…少し眠くなる。でも、昨日からは少しだけドキドキもする…」
時々、ユウヤミ・リーシェルの仮面を彼女の前では外してしまう事もある。でもまさかそれを指して「好き」と言われると思わなかった。あまりにも拙い「好き」の数々。お菓子なんて昨日の追加注文だし髪を触っていた時は猫を見る目だったししかもまた触らせろと言うし。これを、いわゆる恋愛の好きとごっちゃにして良くはないだろうし彼女もいまいち線引きは分かってないだろうなぁ。
ただ、彼女が損得抜きの漠然とした好意を向けてくれているのは確かで、それを向けるのは彼女にとってきっと恐ろしい事だった筈で、きっと先程のやるやらないの後悔の問答はこれを言おうか迷ったからなのだろうと言うのは次に紡がれた言葉で気が付いた。
「ユウヤミの好きなところ…伝えちゃったけど…ユウヤミは、居なくならない？」
「居なく…？それはホロウ君の傍からかい？」
「私の傍とかは関係なくて…今までずっと消滅の神様に怯えて来たから聞かないと不安になっちゃうの…」
「消滅の神様…？」
「私が人を好きだと思うタイミングでその人との縁を切って行っちゃう事象。いつもそんな気がしてたから、なら本当は言わなければ良いんだろうけど、もし私に好きって気持ちを向けてくる人がいてその時に私が何も分からなくて突っぱねちゃったら結果として私も相手もちょっとだけ寂しいわよって昨日言ってもらえて。じゃあ少しでもそう言う気持ち分かろうと思ったら、私が誰のどこが好きか自覚しなきゃいけないなって思って、でも思われるだけならまだ良いけど、私が思った後に消滅の神様に来られない保証は無いからうんと怖くなっちゃって」
「ふむ…」
「昨日、色んな人から貰ったものが温かくて、幸せに感じちゃったら急に怖くなっちゃったの。ふとした時に皆居なくなっちゃうんじゃないかって、漠然と。でも、もう貴女とそのふざけた神様の縁は切れましたって強く言ってもらえもしたから、とりあえず昨日温かいものをいっぱいくれた人達には返したいと思ったの」
きっと最初の契機は女性メンバーの誰かかな？と彼女が添えた語尾で気が付く。その後、この状況を後押しした誰かは敬語。何となく誰かはよくよく考えれば想像出来るけど、そこまでは突き止めない。
それよりも困った事がユウヤミにはあった。彼は束縛されるのは嫌いだし、嘘もつけない。ヴォイドの求める答えを本心から言うのは難しい。
「ホロウ君、ありがとう。でもね…私は、居なくならないよだなんて、もしも嘘になった時が嫌だからそれは言えないんだ。ごめんね」
ぐっと唇に力を入れたヴォイド。眉間に皺が寄って行き、目には涙が溜まり始める。だからユウヤミは、手袋を外すと自分の手で精一杯彼女の頬を包んだ。
「でもね、少なくとも消滅の神様とやらに負けてやる気はさらさらないよ。ごめんね、君の求める答えと違って。だけど期待を持たせて嘘にしてしまったらそれこそ、ね？」
「そんな事…言わないで…」
「だから、それは君のせいじゃない。少なくとも君のせいじゃない。もしそうなる要素があるとしたら、それは消滅の神様じゃなくて、探偵ユウヤミ・リーシェルによって浮気がバレた哀れな人間達の身勝手な怨念かな？」
ユウヤミはそう言って微笑む。聞いていたヴォイドの顔も少しだけ落ち着いた様に見えた。
「だから私は、消滅の神様からは絶対に逃げ切る事を約束するよ。でも、嘘になった時が嫌だから居なくならないよとは言えない。だけどこれだけは覚えておいてくれ給え。私に何か悪い事が起きたとして、それは絶対に君が向けた好意のせいじゃない」
ユウヤミがそう言い切るのと同時に、堰を切った様にヴォイドの目から涙が溢れる。そう言えば昨日も感情が昂った時に瞳を潤ませていたなぁと思いながら、まるで子供をあやす様に彼女の頭だけ抱き寄せると少しだけ無遠慮にわしゃわしゃ撫でてみた。彼女には珍しい、花の様な香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「ほら、私も昨日のお返し」
「えーっと……んにゃぁ…？」
「そう言えばそんな事言ったねぇ」
ひとしきり笑った後、ユウヤミは不思議そうにヴォイドを見つめた。
「ホロウ君、香水付けてるのかい？」
「え…これも臭い？」
「いや？臭くなんてないよ？良い香り。嗅ぎ慣れない香りがしたから驚いただけ」
「昨日…シャワー浴びる前に、多分首筋からだろうけど、薬品の匂いがするって言われて…もしかしたら臭かったのかと思って、の助…あ、ヒギリに相談したら、私そんなの気にした事ないけどって言いながら試しにって試供品で貰ったらしいやついっぱいくれた」
「んー…」
ユウヤミは思考を巡らせた。治療の為距離を詰める瞬間なんてごまんとあるし、その中でそれを言う人間も無きにしも非ず、か？しかし、そもそも医療班の部屋自体がある程度薬品の臭いが薄く充満しているわけで、それが人からしたからと言って指摘する人間と言うのは可能性が低い。居るだろうけど、ヴォイドがそれを真に受けて気にするかまで考えたら可能性は極めて低そうだ。
では、それ以外で考えると、少なくとも場所は薬品の臭いの充満していないところ。つまり医療班の部屋以外でと言うのは確定だろう。そして相手は気軽に匂いの話まで出来る間柄の人間…。
「ユウヤミ…？」
ヴォイドが不安そうにこちらを見つめてくるのでユウヤミは一度思考をシャットダウンする。何だかその人間のフォローをする様で癪だけど、彼女がマイナスに捉えてしまっているのは嫌だったのでユウヤミは口を開いた。
「その人は…多分、とても良い匂いだって言ったんだよ…その匂いを、君らしいって言わなかったかい？」
「……言っ…た…」
「だよね。きっとその人は、君のありのままの今を匂いって形で知れて…嬉しかったんだよ」
薬品の匂いを気にするとなると、医療班の誰かと言う可能性はゼロだ。そしてやりとりを聞き齧るに、それがあったから彼女に相談したと言う状況なのだからヒギリも除外して良いだろう。
となるとあまり考えたくは無いが、仕事外の場で会った男性の誰かと言うのが可能性としては一番濃厚か。
「そうなの…かな…」
「そうだよ。良い意味で言ったんだよ。私も薬品とか消毒液の匂い、割合好きだしねぇ」
「…ありがとう。ユウヤミにも言われたら安心した」
さっきあんな近くまで寄ってしまったけど、テオは香水と薬品、どっちが良いんだろ？
不意に新たな疑問がヴォイドの頭を過ぎる。
ユウヤミは傍でただいつも通り微笑んでいた。
「私、ユウヤミといると安心する…」
「そう…？嬉しいな…」
自分のあげたキャラメルマカロンに生チョコを返して来たヴォイド。
奇しくも「安心出来る特別な存在」と密かに込めて渡したものに、言葉で返されてしまった。チョコレートのお菓子言葉は「貴方と同じ気持ちです」。知っていてこれにした訳ではないだろうが、とても無難だなぁなんて思っていたのに、本当に言葉で返されてしまうなんて。
「主人、すみませんがそろそろ」
特に何の感情も無さそうなヨダカが現れる。汚染された機械人形が出たと情報が入ったらしい。こうなると名残惜しいが出ない訳にはいかないので、ヴォイドとはこのまま別れる事にした。
「ホロウ君、ありがとう」
「むしろ…また私、いっぱいユウヤミから安心を貰った気がする…」
「なら、君の気の済むまでまた返しに来ておくれよ。私はここに居てその神様とやらを撒いているからさ」
何せあの目敏いヨダカすら日常的に撒いているんだよ？と耳打ちするとヴォイドはふっと声を上げて笑った。
「ごめんね、しっかり安心出来るまで傍に居られなくて」
「ううん。ありがとう、ユウヤミ」
それじゃあ、と背を向けたユウヤミの背に、「行ってらっしゃい」と言う声が届く。久しく聞いていなかった気がする。そんな言葉だった。
「お楽しみのところ申し訳ありません主人。でも仕事ですので」
「そんな嫌味ったらしく言わなくて良いよヨダカ」
「そんなつもりありませんが。しかし、シードさんと主人になんて報告をすれば…」
「…言わなくて良いよ、ホロウ君との関係は何も変わってない。まだ、何もね？」
だってまだ、さっきの香水の話が釈然としない。仕事外の場で会った男性の誰かと言うのが可能性としては一番濃厚か、とは思ったが、少なくとも先程の自分くらいかそれ以上の距離まで詰め寄った誰かが居たのは確かなのだろう。この気持ちは何だろう？とにかく一番しっくりくるのは、釈然としないとか、そんな感じだ。
ユウヤミは色々考えを巡らせ、一瞬だけ寂しげにまなじりを下げた。
「…もうちょっと危機感持った方が良いと思うのだけれど？ホロウ君…」
ふと口にした言葉。ヨダカが気にしてユウヤミを見るが、彼はいつもの無表情に戻っていた。
気のせいか。何だか狐につままれた様な変な心地だ。
「どうしたんだい？ほら行くよ、ヨダカ」
「はい…主人」
しあわせのさか
保育部に行くとフランソワがまっしぐらに駆け寄って来て抱き着いてきてくれた。
「あらー嫉妬しちゃうわー」と嬉しそうに言うロザリーに少し頬を赤く染めた。このところ、自分は感情のコントロールが出来ない気がする。
でも以前より幸せを感じる。
まだ怖い事も多くて、悩む事が多いけど、それでも。
幼い頃から抱えて来たもの。
想い、思い出。結局全部捨て切れなくて。
重くて重くて、持ち切れなくて。
擦り減るまで持ち続けて 皆のおかげで少し軽くなって。
昔程ではないけど、また好きな気持ちを好きだと素直に皆に伝えられそうな気がする。
まだまだ、怖くはあるし、自分の気持ちとしっかり向き合うのは難しいけれど。
私は確かに、坂を登る様に
行先は分からなくても、怖がらずに
と言ったら嘘になるけれど、それでも前より少しだけ勇気を出して
昨日の自分より高い位置から世界を見ている。
「お姉ちゃん！」
「何？フランソワ」
「僕ね…お姉ちゃん大好きだよ！」
──気持ちはしっかり返さなきゃいけませんね──
昨夜、ロードから言われた事を思い出す。
いや、もう思い出さなくともフランソワに対して何を言うかは決まっている。
「私も…フランソワのこと、大好き」
「本当！？僕ね、いっぱいいっぱい好きだよ！」
「私も、いっぱいいっぱい好き」
「僕はね、いっぱいいっぱい、いーっぱい好きなんだよ！」
「ちょっとフランソワ、何お姉ちゃんと張り合ってるのよー？」
笑いながらロザリーは言う。
フランソワを真ん中にして挟む様に手を繋ぐと温かい気持ちになった。
一歩一歩、私はこの道を登れている。
だって、振り返った時見える景色は物凄く広くて綺麗なんだもの。
「空、綺麗…」
思わず漏れた言葉。岸壁街では決して見れなかったそれは、絵の具を薄く垂らした様に澄んだ綺麗な色をしていた。
今日も何か良いことありそう。
「あらー嫉妬しちゃうわー」と嬉しそうに言うロザリーに少し頬を赤く染めた。このところ、自分は感情のコントロールが出来ない気がする。
でも以前より幸せを感じる。
まだ怖い事も多くて、悩む事が多いけど、それでも。
幼い頃から抱えて来たもの。
想い、思い出。結局全部捨て切れなくて。
重くて重くて、持ち切れなくて。
擦り減るまで持ち続けて 皆のおかげで少し軽くなって。
昔程ではないけど、また好きな気持ちを好きだと素直に皆に伝えられそうな気がする。
まだまだ、怖くはあるし、自分の気持ちとしっかり向き合うのは難しいけれど。
私は確かに、坂を登る様に
行先は分からなくても、怖がらずに
と言ったら嘘になるけれど、それでも前より少しだけ勇気を出して
昨日の自分より高い位置から世界を見ている。
「お姉ちゃん！」
「何？フランソワ」
「僕ね…お姉ちゃん大好きだよ！」
──気持ちはしっかり返さなきゃいけませんね──
昨夜、ロードから言われた事を思い出す。
いや、もう思い出さなくともフランソワに対して何を言うかは決まっている。
「私も…フランソワのこと、大好き」
「本当！？僕ね、いっぱいいっぱい好きだよ！」
「私も、いっぱいいっぱい好き」
「僕はね、いっぱいいっぱい、いーっぱい好きなんだよ！」
「ちょっとフランソワ、何お姉ちゃんと張り合ってるのよー？」
笑いながらロザリーは言う。
フランソワを真ん中にして挟む様に手を繋ぐと温かい気持ちになった。
一歩一歩、私はこの道を登れている。
だって、振り返った時見える景色は物凄く広くて綺麗なんだもの。
「空、綺麗…」
思わず漏れた言葉。岸壁街では決して見れなかったそれは、絵の具を薄く垂らした様に澄んだ綺麗な色をしていた。
今日も何か良いことありそう。
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