けだまころころ／べにざくろ
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g_a3b2c3o12 2022年03月13日(日) 19:27:08履歴
みちとのそうぐう――われわれはひとりじゃない。
けだまはとつぜんに
なもなきこいぬ
きみがいるだけで
けだまはとつぜんに 
リリアナは母親に良く似た少し吊り上がった目をパチクリとしてそれ を見ていた。
「どうしたの……？」
外遊びの最中、急に一角を見つめて動かなくなったリリアナに気付いたカヤが常に抱いているテディベアのぬいぐるみを殊更強く抱きしめながら聞いてくる。カヤは引っ込み思案の子なので自ら話しかけてくることは稀だった。それほどにリリアナは変な行動をしていたということだろう。
「なになに？どーしたの!?」
そこへ、いつもカヤが懐いて一緒にいる女の子――マジュが飛んできた。
元気いっぱいのマジュとオドオドするカヤという、正反対の性格に見えて仲良しの２人に硬い表情のリリアナはそれ を指さした。
「ん？」
「毛玉……？」
リリアナが指さした先にあったものは確かにカヤの言うように薄茶色の毛玉だった。何の毛だか分からないが、あの大きさの毛玉が出来るような動物は、とても大きな動物じゃないだろうか。
子どもの想像力は豊かである。
彼女達の脳内で、それぞれ薄茶色の大きな生き物が描かれていく。
「ここに野生のライオンがいるんだ！」
カンテ国に野生のライオンはいないが、子どもはそんなことは知らない。
３人の中で一番おねえさんのマジュが顔を青くして叫べば、それが子どもの中では真実となるのだ。
「オルヴォせんせーい！」
マジュの行動は早かった。
ライオンを退治してもらうためには大人を頼ればいいと気付いた賢いマジュは踵を返すと保育士のオルヴォを探して走り出す。
「まっ、マジュ姉ちゃんっ！ まっ、待って」
その後に続いて顔色を青くしたカヤもとことこと走って行ってしまう。
残されたリリアナは泣きそうだった。リリアナだって走って逃げたいが、ライオンがいるかもしれないという恐怖で足が動かなくなってしまったのだ。
きっと、このままライオンに食べられて死んじゃうんだ。
パパ、ごめんなさい。
ママは、わたしに会えたら喜んでくれるかな？
そんな恐怖に潤み出すリリアナの目に、ふと風も無いのに毛玉が動いたように見えた。
薄茶色の毛玉。まん丸の毛玉。そんな毛玉に、唐突に足が生える。
「きゃ……」
恐怖に叫び出そうとしたリリアナの声は、瞬く間に彼女自身によって飲み込まれて消えた。
これは、毛玉じゃない。
だって毛玉に足もしっぽもないもの。
そして、リリアナと足の生えた毛玉のくりんくりんの目が遭った瞬間。
「きゃー!!」
語尾にハートの付きそうな勢いのリリアナの叫びが響き渡った。
* * *
総務部とは組織全体に関する事務を扱う業務あるいは職務のことであり、いわば会社の「何でも屋さん」である。
しかし、この仕事は総務部の仕事なのだろうか。
リアムは渋面で総務部の部屋にやってきたそれ を見つめていた。
「他に解決するのに相応しい部署もなく……急に来てしまい、すみません」
眉間に皺を寄せているリアムに申し訳なさそうに声をかけるのはオルヴォ・ワシレフスキー。言うまでもなく、先程マジュが呼びに走った「オルヴォ先生」本人だ。
「パパ……ごめんなさい」
そんなオルヴォの隣で大人同士の空気を読んだのかリリアナがションボリした様子で謝罪を口にする。そんなリリアナの様子にリアムは慌てて顔から険しさを消した。それ は問題だが、愛娘にそんな顔をさせるつもりはなかったからだ。
「良いんだ、リリ。困った事があれば総務部に来るのは間違ったことではないし、パパはリリに怪我がなければそれで良い」
「怪我なんかしないわ！ この子、とっても良い子だもの！」
リリアナの言う「良い子」はそれ のことだった。それ リリアナに抱っこされていた薄茶色の毛玉のような仔犬のことであり、ご機嫌とばかりに尻尾を振りながら真っ黒の真ん丸の目でリアムを見上げている。
「……とりあえず、この犬は総務部で預かろう」
「嫌よ！ もっとこの子と遊びたいの！」
リリアナは仔犬の魔力に囚われているらしく、リアムの言葉に異論の声を上げた。子どもらしい可愛い我儘だが、それを簡単に許すわけにはいかない。
そんな時に素早く動いたのは子どもの扱いに長けた保育士のオルヴォだ。
「リリアナちゃん」
オルヴォはリリアナの名前を呼んで、彼女と目線を合わせるように屈み込んだ。その顔に浮かぶ表情は怒るとか説教するようなものではなく、あくまでも優しいものだ。
「リリアナちゃんは、この可愛いワンちゃんと遊びたいよね？」
「もちろんよ！」
「だけどね、保育部のお友達にはワンちゃんが苦手な子もいるんだ」
子供ながらに聡いところのあるリリアナはオルヴォの言葉に、保育部での騒ぎを思い出す。
リリアナが仔犬の可愛さに叫んだことで保育部のお友達のみんなが「なになに？」と寄ってきて、大抵の子はワンちゃんに気付くとリリアナと同じような喜んだ反応をしていた。しかし、中には「犬怖い」と逃げ出していた子もいたのだ。
「うん……いたわ……」
「それとね、ワンちゃんが近くに居るとコンコンとお咳がいっぱい出ちゃったり痒ーい思いをしちゃうお友達もいるんだよ。だから保育部では遊べないんだ」
保育部で預かっている子の中には犬アレルギーの子がいることもオルヴォは保育士としてしっかり把握していた。そして、ただ頭ごなしに「ダメ」と言われたのではなく理由をしっかりと説明されたことでリリアナも納得をする。
「分かったわ、オルヴォ先生」
「お友達のことを考えられてリリアナちゃんは偉いね」
「あ、当たり前なの！立派なレレイは他の人のことも考えられるのよ！」
オルヴォに褒められて嬉しかったのか頬を紅潮させたリリアナは、仔犬をもう一度見つめてからオルヴォへと手渡した。仔犬を受けとったオルヴォは「ありがとう」と彼女に声をかけると、立ち上がってリアムに仔犬を差し出す。
しかし、リアムはすぐに手を差し出さなかった。
「あの……シュミットさん？」
仔犬を差し出したままオルヴォは首を傾げる。
「パパ……？」
父親の予想外の反応にリリアナも首を傾げてリアムを見上げていた。
『保育部のお友達にはワンちゃんが苦手な子もいるんだ』
それは先程のオルヴォの言葉である。
そしてリアムは『ワンちゃんが苦手な子』だった。幼い時に幼馴染のミカナギ家に飼われていた犬に追い回されてから、ずっと『ワンちゃんが苦手な子』だったのだ。
ミカナギ家に飼われていた犬は、今、目の前にいる仔犬よりずっと大きくて迫力のある犬だった。しかし、犬種なんてリアムには関係ない。犬は全て恐怖の対象なのだから。
娘の見ている前で「犬が怖くて触れません」とリアムは言えなかった。
パパは娘の前では格好良くいたい生き物なのだ。
しかし触れないのは事実で、この状況をどうやって乗り切ろうか頭の中はフル回転していた。
「所有者の判明しない犬又は猫その他の動物が拾得された場合の取扱い等に基づきお預かりします」
そんな膠着状態を破ったのはセーラー服を身にまとったクロエ・バートンの冷静な声だった。近寄ってきたクロエは、いつも通りの平静な顔でオルヴォから仔犬を受け取って、その腕に抱き込む。
「あ、じゃあ宜しくお願いします」
急に話に入ってきたクロエに面食らいながらも、オルヴォは柔和な笑みを浮かべて軽く頭を下げた。オルヴォを真似してリリアナも「おねがいします」と、こちらは最敬礼並に頭を下げる。
「それじゃ、ぼく達は帰ろうか」
「うん！ じゃあね、パパ！」
とりあえず仔犬問題の片付いたオルヴォとリリアナはそうして保育部へと戻って行く。その後ろ姿が扉の向こうへ消えて、たっぷり１０秒数えたリアムは分かりやすいほどにクロエから距離をとった。その表情は変えないもののリアムの明らかすぎる態度にクロエが呆れたように息を吐いた。
「これのどこが怖いのか理解できないですね」
「……色々とあったんだ」
「あたしは、わざわざ『何があったの？』なんて聞いてあげる義理がなければ聞きませんから」
「それで良い。この過去は話したくないんだ」
ミカナギ家の飼い犬をリアムに向かって放ったのは、言うまでもなくセリカ・ミカナギである。今でこそ「ヤマトナデシコ」な楚々とした皮を被っているが、リアムがあの女にやられた事は一つや二つではない。いっそのこと、あの女の鬼畜ぶりを話したい気もするが話したところで信じては貰えないだろうし、喋った事がセリカにバレたら何をされるか分かったものでは無い。
口を濁すリアムを、さして興味無い顔で見ていたクロエの腕の中で仔犬が甘えるように鳴いた。
「あれぇ？ かわいいー」
ほぼ同時に人間側からも甘えるような声が上がる。声を上げたのはたった今、休憩から帰ってきたユリア・ベルだ。
「保育部が遊んでいたら迷い込んできたようです」
「だから、さっき廊下にワシレフスキーさんがいたんだぁ……」
「抱きます？」
クロエの問いにリアムはユリアが洋服に犬の毛が付くのを嫌がって抱かないと予想した。何故ならば、ユリアのようにお洒落に気を遣っていたリアムの元カノのナタリア・イバニェスがそういう女だったからだ。
「うん、ありがとー」
しかしリアムの予想は大きく外れ、ユリアは嬉しそうにクロエから仔犬を受け取って抱いた。
(犬好きにとっては)可愛い仔犬と、(世間一般的には)可愛いユリア。
可愛いのマリアージュに部屋にいた男性陣は鼻の下を伸ばしながらユリアを見つめていた。それを呆れた目で見つめていたリアムだったが、それこそがユリアの作戦であると気付いて彼女へと目を向ける。
「ベル……」
「何ですかぁ？ シュミットさんも抱きますぅ？」
可愛い自分と可愛い仔犬の組み合わせを見せることで男性陣の心を掴んでみせたユリアがにこやかに微笑む。服に毛がついてでも可愛い組み合わせを見せつけているユリアに「肉を切らせて骨を断つ」という不釣り合いながらも似合う言葉を浮かべつつ、リアムは犬を抱かないという意思表示を見せるために首を横に振った。
「えー、残念。こんなに可愛いのにぃ」
可愛らしく口を尖らせたユリアに、部屋のどこからか「可愛いのはユリアちゃんだよ……」と誰かの言葉が漏れたのをユリアは聞き逃さなかった。
そして一頻り『仔犬を可愛がる可愛い私』の演出をして満足したユリアは、仔犬をクロエへと返す。可愛いの演出に利用されただけの仔犬であったが案外ユリアの可愛がり方の手つきは慣れたものであったため、クロエの腕に戻ってもどこか満足そうな表情であった。
「……それにしても、この犬はどこから来たんだ？」
満足そうな仔犬を見ながらリアムは最初から疑問に思っていたことを、ようやく口にした。首周りを撫でながらクロエが答える。
「首輪は無いですが、これだけ人馴れをしているのだから飼い犬だとあたしは思います」
「やはり迷い犬だろうな」
「マルフィ結社内では現在、犬が居なくなったとの届けは出ていないですね」
これまで沈黙を貫き、個人用電子端末を見ていたフィオナ・フラナガンが画面から目を離して二人を見た。マルフィ結社には家族で身を寄せている者もおり中にはペットを飼っている人間もいるのだが、残念ながらクロエが抱いている仔犬がいなくなったという連絡は現在無いようだ。
「尤も届けがまだ出ていないだけで探している人がいるかもしれませんが」
続いたフィオナの言葉にクロエは一瞬だけ何かを思い付いたように片眉を上げた。それは一瞬のことで総務部の人間は誰一人として気付かなかったが、この瞬間クロエは妙案を思いついていた。
「ばっ、バートン!?」
リアムが珍しく大きな声を上げる。
それというのもクロエが再び仔犬を差し出すようにリアムへと腕を伸ばしたからだ。シッポをフリフリ、きゅるるんっとした瞳をした仔犬から少しでも逃れようとリアムは数歩後ずさる。
「取引しましょう、シュミット氏」
「取引だと？」
「ええ。あたしは、この犬を探している人がいないか結社内を聞き込みに行ってきます。もちろん、この犬は連れて行きます」
総務部の部屋からリアムの苦手な犬がいなくなるのは両手を上げて喜びたいことだ。しかし、クロエが言っているのは取引。上手い話にはリスクが付き纏うもののためリアムは一息に賛成せずにクロエの言葉の先を促した。
「代わりにシュミット氏には、あたしが請け負っている仕事を代行して貰いたいのです」
「代行……バートンが今請け負っているのは何の仕事だ？」
「言いません。知らない仕事を請け負うというリスクを負う勇気があるかシュミット氏に問うているので」
クロエの紫色の目から感情は読み取れない。
おそらくは「読み取れない」のではなく「読み取らせない」なのだろう。
肝の据わりきったクロエの態度は取引に慣れた人間のものだった。表情から何も悟らせないように鉄仮面の如く無表情を貫き、声も焦りや嘘の臭いが感じられない平坦なもので、彼女は本当に１０代の成人して間もない女性なのだろうかとリアムは内心で舌を巻いた。
「……良いだろう」
リアムの言葉にクロエの鉄仮面が剥がれ、唇の端が上がる。
「交渉成立ですね」
「バートンの仕事は何だ？」
「あたしの仕事は――外部の人間が結社へ訪問する件に関しての諸々の調整です」
クロエの仕事内容を聞いたリアムの眉間に皺が寄った。
リアムの記憶が正しければ、その件は外部の人間 が誰かを知った総務部の女性陣が「私がやる！」と揉めに揉めた結果、女性同士の醜い争いに参戦しなかったクロエに任されたものだったからだ。
マルフィ結社を訪れたいと連絡をしてきた外部の人間の名前はディルラバという。女性からも人気の高いグラビアタレントだ。
そんな彼女が何故マルフィ結社を訪問したいのかは不明だが、マルフィ結社はディルラバを歓迎することに決めた。そのために「会社の何でも屋さん」の総務部としては人事部をはじめとする各部署と連携をとって、日程から何から調整を行わなければならないのだ。
「良いのか？」
思わずリアムはクロエに問いかけていた。
「何がです？」
「いや、その……折角の有名人と会えるかもしれない案件だったのに……」
珍しく言い淀むリアムをクロエは鼻で笑う。
「あたしは別に興味ありませんから。では、宜しくお願いしますね」
キッパリと言い放ったクロエは仔犬を抱いて総務部の部屋を去って行く。
扉がしまった時、部屋の中の誰かがポツリと呟いた。
「クロエちゃん……相変わらず格好良い な」
リアムも同感だった。
「どうしたの……？」
外遊びの最中、急に一角を見つめて動かなくなったリリアナに気付いたカヤが常に抱いているテディベアのぬいぐるみを殊更強く抱きしめながら聞いてくる。カヤは引っ込み思案の子なので自ら話しかけてくることは稀だった。それほどにリリアナは変な行動をしていたということだろう。
「なになに？どーしたの!?」
そこへ、いつもカヤが懐いて一緒にいる女の子――マジュが飛んできた。
元気いっぱいのマジュとオドオドするカヤという、正反対の性格に見えて仲良しの２人に硬い表情のリリアナは
「ん？」
「毛玉……？」
リリアナが指さした先にあったものは確かにカヤの言うように薄茶色の毛玉だった。何の毛だか分からないが、あの大きさの毛玉が出来るような動物は、とても大きな動物じゃないだろうか。
子どもの想像力は豊かである。
彼女達の脳内で、それぞれ薄茶色の大きな生き物が描かれていく。
「ここに野生のライオンがいるんだ！」
カンテ国に野生のライオンはいないが、子どもはそんなことは知らない。
３人の中で一番おねえさんのマジュが顔を青くして叫べば、それが子どもの中では真実となるのだ。
「オルヴォせんせーい！」
マジュの行動は早かった。
ライオンを退治してもらうためには大人を頼ればいいと気付いた賢いマジュは踵を返すと保育士のオルヴォを探して走り出す。
「まっ、マジュ姉ちゃんっ！ まっ、待って」
その後に続いて顔色を青くしたカヤもとことこと走って行ってしまう。
残されたリリアナは泣きそうだった。リリアナだって走って逃げたいが、ライオンがいるかもしれないという恐怖で足が動かなくなってしまったのだ。
きっと、このままライオンに食べられて死んじゃうんだ。
パパ、ごめんなさい。
ママは、わたしに会えたら喜んでくれるかな？
そんな恐怖に潤み出すリリアナの目に、ふと風も無いのに毛玉が動いたように見えた。
薄茶色の毛玉。まん丸の毛玉。そんな毛玉に、唐突に足が生える。
「きゃ……」
恐怖に叫び出そうとしたリリアナの声は、瞬く間に彼女自身によって飲み込まれて消えた。
これは、毛玉じゃない。
だって毛玉に足もしっぽもないもの。
そして、リリアナと足の生えた毛玉のくりんくりんの目が遭った瞬間。
「きゃー!!」
語尾にハートの付きそうな勢いのリリアナの叫びが響き渡った。
* * *
総務部とは組織全体に関する事務を扱う業務あるいは職務のことであり、いわば会社の「何でも屋さん」である。
しかし、この仕事は総務部の仕事なのだろうか。
リアムは渋面で総務部の部屋にやってきた
「他に解決するのに相応しい部署もなく……急に来てしまい、すみません」
眉間に皺を寄せているリアムに申し訳なさそうに声をかけるのはオルヴォ・ワシレフスキー。言うまでもなく、先程マジュが呼びに走った「オルヴォ先生」本人だ。
「パパ……ごめんなさい」
そんなオルヴォの隣で大人同士の空気を読んだのかリリアナがションボリした様子で謝罪を口にする。そんなリリアナの様子にリアムは慌てて顔から険しさを消した。
「良いんだ、リリ。困った事があれば総務部に来るのは間違ったことではないし、パパはリリに怪我がなければそれで良い」
「怪我なんかしないわ！ この子、とっても良い子だもの！」
リリアナの言う「良い子」は
「……とりあえず、この犬は総務部で預かろう」
「嫌よ！ もっとこの子と遊びたいの！」
リリアナは仔犬の魔力に囚われているらしく、リアムの言葉に異論の声を上げた。子どもらしい可愛い我儘だが、それを簡単に許すわけにはいかない。
そんな時に素早く動いたのは子どもの扱いに長けた保育士のオルヴォだ。
「リリアナちゃん」
オルヴォはリリアナの名前を呼んで、彼女と目線を合わせるように屈み込んだ。その顔に浮かぶ表情は怒るとか説教するようなものではなく、あくまでも優しいものだ。
「リリアナちゃんは、この可愛いワンちゃんと遊びたいよね？」
「もちろんよ！」
「だけどね、保育部のお友達にはワンちゃんが苦手な子もいるんだ」
子供ながらに聡いところのあるリリアナはオルヴォの言葉に、保育部での騒ぎを思い出す。
リリアナが仔犬の可愛さに叫んだことで保育部のお友達のみんなが「なになに？」と寄ってきて、大抵の子はワンちゃんに気付くとリリアナと同じような喜んだ反応をしていた。しかし、中には「犬怖い」と逃げ出していた子もいたのだ。
「うん……いたわ……」
「それとね、ワンちゃんが近くに居るとコンコンとお咳がいっぱい出ちゃったり痒ーい思いをしちゃうお友達もいるんだよ。だから保育部では遊べないんだ」
保育部で預かっている子の中には犬アレルギーの子がいることもオルヴォは保育士としてしっかり把握していた。そして、ただ頭ごなしに「ダメ」と言われたのではなく理由をしっかりと説明されたことでリリアナも納得をする。
「分かったわ、オルヴォ先生」
「お友達のことを考えられてリリアナちゃんは偉いね」
「あ、当たり前なの！立派なレレイは他の人のことも考えられるのよ！」
オルヴォに褒められて嬉しかったのか頬を紅潮させたリリアナは、仔犬をもう一度見つめてからオルヴォへと手渡した。仔犬を受けとったオルヴォは「ありがとう」と彼女に声をかけると、立ち上がってリアムに仔犬を差し出す。
しかし、リアムはすぐに手を差し出さなかった。
「あの……シュミットさん？」
仔犬を差し出したままオルヴォは首を傾げる。
「パパ……？」
父親の予想外の反応にリリアナも首を傾げてリアムを見上げていた。
『保育部のお友達にはワンちゃんが苦手な子もいるんだ』
それは先程のオルヴォの言葉である。
そしてリアムは『ワンちゃんが苦手な子』だった。幼い時に幼馴染のミカナギ家に飼われていた犬に追い回されてから、ずっと『ワンちゃんが苦手な子』だったのだ。
ミカナギ家に飼われていた犬は、今、目の前にいる仔犬よりずっと大きくて迫力のある犬だった。しかし、犬種なんてリアムには関係ない。犬は全て恐怖の対象なのだから。
娘の見ている前で「犬が怖くて触れません」とリアムは言えなかった。
パパは娘の前では格好良くいたい生き物なのだ。
しかし触れないのは事実で、この状況をどうやって乗り切ろうか頭の中はフル回転していた。
「所有者の判明しない犬又は猫その他の動物が拾得された場合の取扱い等に基づきお預かりします」
そんな膠着状態を破ったのはセーラー服を身にまとったクロエ・バートンの冷静な声だった。近寄ってきたクロエは、いつも通りの平静な顔でオルヴォから仔犬を受け取って、その腕に抱き込む。
「あ、じゃあ宜しくお願いします」
急に話に入ってきたクロエに面食らいながらも、オルヴォは柔和な笑みを浮かべて軽く頭を下げた。オルヴォを真似してリリアナも「おねがいします」と、こちらは最敬礼並に頭を下げる。
「それじゃ、ぼく達は帰ろうか」
「うん！ じゃあね、パパ！」
とりあえず仔犬問題の片付いたオルヴォとリリアナはそうして保育部へと戻って行く。その後ろ姿が扉の向こうへ消えて、たっぷり１０秒数えたリアムは分かりやすいほどにクロエから距離をとった。その表情は変えないもののリアムの明らかすぎる態度にクロエが呆れたように息を吐いた。
「これのどこが怖いのか理解できないですね」
「……色々とあったんだ」
「あたしは、わざわざ『何があったの？』なんて聞いてあげる義理がなければ聞きませんから」
「それで良い。この過去は話したくないんだ」
ミカナギ家の飼い犬をリアムに向かって放ったのは、言うまでもなくセリカ・ミカナギである。今でこそ「ヤマトナデシコ」な楚々とした皮を被っているが、リアムがあの女にやられた事は一つや二つではない。いっそのこと、あの女の鬼畜ぶりを話したい気もするが話したところで信じては貰えないだろうし、喋った事がセリカにバレたら何をされるか分かったものでは無い。
口を濁すリアムを、さして興味無い顔で見ていたクロエの腕の中で仔犬が甘えるように鳴いた。
「あれぇ？ かわいいー」
ほぼ同時に人間側からも甘えるような声が上がる。声を上げたのはたった今、休憩から帰ってきたユリア・ベルだ。
「保育部が遊んでいたら迷い込んできたようです」
「だから、さっき廊下にワシレフスキーさんがいたんだぁ……」
「抱きます？」
クロエの問いにリアムはユリアが洋服に犬の毛が付くのを嫌がって抱かないと予想した。何故ならば、ユリアのようにお洒落に気を遣っていたリアムの元カノのナタリア・イバニェスがそういう女だったからだ。
「うん、ありがとー」
しかしリアムの予想は大きく外れ、ユリアは嬉しそうにクロエから仔犬を受け取って抱いた。
(犬好きにとっては)可愛い仔犬と、(世間一般的には)可愛いユリア。
可愛いのマリアージュに部屋にいた男性陣は鼻の下を伸ばしながらユリアを見つめていた。それを呆れた目で見つめていたリアムだったが、それこそがユリアの作戦であると気付いて彼女へと目を向ける。
「ベル……」
「何ですかぁ？ シュミットさんも抱きますぅ？」
可愛い自分と可愛い仔犬の組み合わせを見せることで男性陣の心を掴んでみせたユリアがにこやかに微笑む。服に毛がついてでも可愛い組み合わせを見せつけているユリアに「肉を切らせて骨を断つ」という不釣り合いながらも似合う言葉を浮かべつつ、リアムは犬を抱かないという意思表示を見せるために首を横に振った。
「えー、残念。こんなに可愛いのにぃ」
可愛らしく口を尖らせたユリアに、部屋のどこからか「可愛いのはユリアちゃんだよ……」と誰かの言葉が漏れたのをユリアは聞き逃さなかった。
そして一頻り『仔犬を可愛がる可愛い私』の演出をして満足したユリアは、仔犬をクロエへと返す。可愛いの演出に利用されただけの仔犬であったが案外ユリアの可愛がり方の手つきは慣れたものであったため、クロエの腕に戻ってもどこか満足そうな表情であった。
「……それにしても、この犬はどこから来たんだ？」
満足そうな仔犬を見ながらリアムは最初から疑問に思っていたことを、ようやく口にした。首周りを撫でながらクロエが答える。
「首輪は無いですが、これだけ人馴れをしているのだから飼い犬だとあたしは思います」
「やはり迷い犬だろうな」
「マルフィ結社内では現在、犬が居なくなったとの届けは出ていないですね」
これまで沈黙を貫き、個人用電子端末を見ていたフィオナ・フラナガンが画面から目を離して二人を見た。マルフィ結社には家族で身を寄せている者もおり中にはペットを飼っている人間もいるのだが、残念ながらクロエが抱いている仔犬がいなくなったという連絡は現在無いようだ。
「尤も届けがまだ出ていないだけで探している人がいるかもしれませんが」
続いたフィオナの言葉にクロエは一瞬だけ何かを思い付いたように片眉を上げた。それは一瞬のことで総務部の人間は誰一人として気付かなかったが、この瞬間クロエは妙案を思いついていた。
「ばっ、バートン!?」
リアムが珍しく大きな声を上げる。
それというのもクロエが再び仔犬を差し出すようにリアムへと腕を伸ばしたからだ。シッポをフリフリ、きゅるるんっとした瞳をした仔犬から少しでも逃れようとリアムは数歩後ずさる。
「取引しましょう、シュミット氏」
「取引だと？」
「ええ。あたしは、この犬を探している人がいないか結社内を聞き込みに行ってきます。もちろん、この犬は連れて行きます」
総務部の部屋からリアムの苦手な犬がいなくなるのは両手を上げて喜びたいことだ。しかし、クロエが言っているのは取引。上手い話にはリスクが付き纏うもののためリアムは一息に賛成せずにクロエの言葉の先を促した。
「代わりにシュミット氏には、あたしが請け負っている仕事を代行して貰いたいのです」
「代行……バートンが今請け負っているのは何の仕事だ？」
「言いません。知らない仕事を請け負うというリスクを負う勇気があるかシュミット氏に問うているので」
クロエの紫色の目から感情は読み取れない。
おそらくは「読み取れない」のではなく「読み取らせない」なのだろう。
肝の据わりきったクロエの態度は取引に慣れた人間のものだった。表情から何も悟らせないように鉄仮面の如く無表情を貫き、声も焦りや嘘の臭いが感じられない平坦なもので、彼女は本当に１０代の成人して間もない女性なのだろうかとリアムは内心で舌を巻いた。
「……良いだろう」
リアムの言葉にクロエの鉄仮面が剥がれ、唇の端が上がる。
「交渉成立ですね」
「バートンの仕事は何だ？」
「あたしの仕事は――外部の人間が結社へ訪問する件に関しての諸々の調整です」
クロエの仕事内容を聞いたリアムの眉間に皺が寄った。
リアムの記憶が正しければ、その件は
マルフィ結社を訪れたいと連絡をしてきた外部の人間の名前はディルラバという。女性からも人気の高いグラビアタレントだ。
そんな彼女が何故マルフィ結社を訪問したいのかは不明だが、マルフィ結社はディルラバを歓迎することに決めた。そのために「会社の何でも屋さん」の総務部としては人事部をはじめとする各部署と連携をとって、日程から何から調整を行わなければならないのだ。
「良いのか？」
思わずリアムはクロエに問いかけていた。
「何がです？」
「いや、その……折角の有名人と会えるかもしれない案件だったのに……」
珍しく言い淀むリアムをクロエは鼻で笑う。
「あたしは別に興味ありませんから。では、宜しくお願いしますね」
キッパリと言い放ったクロエは仔犬を抱いて総務部の部屋を去って行く。
扉がしまった時、部屋の中の誰かがポツリと呟いた。
「クロエちゃん……相変わらず
リアムも同感だった。
なもなきこいぬ
クロエ・バートンはクール格好良い女子であり、ミア・フローレスにとって大事な友人の女の子である。
そんなクロエが、ミアにとって予想外のものを抱いていた。
「く、クロエちゃん。それって……？」
医療 班の部屋に来たクロエに、ミアは目を丸くして問いかけた。
「ああ、非常食です」
「えっ!?」
「冗談ですよ」
真顔でクロエが言うものだから若干の猜疑心を残したままミアは改めてクロエの抱いている毛玉――仔犬へと目を向けた。静かにクロエに抱かれている仔犬もうるうるした真ん丸の目でミアを見つめている。
その間、なんと３０秒。
時でも止まってしまったのではないかという時間を経てミアがようやく声を上げる。
「かっわっいーい！ クロエちゃん、ワンちゃん飼い始めたの!? お名前は!? 何歳かな!? まだ仔犬って感じだよねー！ もふもふしててぬいぐるみみたい！ お腹空いてないかな!? あっ、でも今ご飯無いし調達 班に買いに行ってこなくっちゃだね！」
「落ち着いて下さい。迷い犬で総務部が預かっているだけですし、食事は先程させてから此処に来ました」
きゃーきゃーわーわー犬よりも騒がしいミアに対しても、クロエは冷静に淡々と事実を述べるだけだ。
そんな凸凹女子高生コンビのところに一組の男女が近寄ってくる。
「ミアちゃん、今日も元気だな……っと、クロエちゃ……」
寄ってきた男女はテオフィルス・メドラーとヴォイド・ホロウだった。可愛い女子高生コンビがいるなんて場所を女好きの彼が見逃すはずはなく、笑顔で近寄ってきたテオフィルスだったのだが、彼の笑顔はあるものを見てピシリと音をたてて固まる。
「テオ？ ど……」
「ヴォイド。だめだ、近付くな」
ヴォイドを手で制するテオフィルスの顔は真剣そのものだった。
予想外の重い空気感にミアは首を傾げ、テロ前まではミクリカに住んでおりテオフィルスとヴォイドが住んでいた岸壁街の諸々を理解しているクロエは彼の固い態度の理由を悟る。
「外 の犬は狂犬病の心配は非常に低いものですから安心して下さい」
「嘘じゃないな？」
「あたしが此処で嘘をつくメリットがあります？」
クロエの言葉にテオフィルスは肩の力を抜いてヴォイドを制していた手を下ろした。霧散した重い空気感の理由が分からないままのミアは、オロオロとクロエとテオフィルスの顔を交互に見るしかない。
「あー……ごめんな、ミアちゃん。俺の住んでた所だと犬は危ない生き物だったんで警戒したんだ」
テオフィルスがそう言って苦笑いのようなものを浮かべる。
何もテオフィルスは犬に嚙まれてしまうことでの外傷自体が怖いのではない。本当に恐ろしいのは嚙まれて「狂犬病」に感染することである。一般的には絶滅したような狂犬病だが、岸壁街ではまだまだ現役だったのだ。狂犬病は岸壁街では致死率１００パーセントの恐怖の病であり、そんな環境で生きてきていれば犬を見れば警戒するのも致し方ないことだろう。
とはいえ狂犬病に罹っていない犬には別の立派な使い道があるのだが、それは今言うものではないと何となく悟っていたテオフィルスは口を噤んでおく。
「そうなんですか……」
ミアはテオフィルスに言いながら、彼と同郷のヴォイドも同じ考えで犬は怖いものなのだろうかと不安に揺れる瞳でヴォイドを見た。折角ならば、この仔犬の可愛さをヴォイドと分かち合いたいと思っているからである。
しかし、ヴォイドは硝子玉のような目に仔犬を映したまま特にこれまで反応を見せていない。彼女は仔犬をどう思っているのだろうか――？
「今日の夕飯？」
満を持して呟かれたヴォイドの言葉を、ミアは一瞬理解できなかった。
どうして急に、お夕飯のことをヴォイドさんは言っているんだろう？
お昼ご飯ならさっき一緒に食べたばっかりなのに。
「お、おい、ヴォイド……」
一転して狼狽えた様子のテオフィルスがヴォイドに声をかけるが、ヴォイドは「違うの？」と変わらないテンションでテオフィルスを見つめて小首を傾げていた。それを見て今度はヴォイドの言いたいことをいち早く悟ったクロエは仔犬を抱く手に密やかに力を篭める。
仔犬を見つめて「今日のお夕飯」。
段々、ミアにもヴォイドの言いたいことが分かりたくないけど分かってきたような気がした。
分かりたくない。分かりたくないけど分かってきていた。
『ああ、非常食です』
そんな時、頭にポンッと浮かんだのは先程のクロエの言葉。
クロエは「冗談です」と言っていたが、もしかしなくてもヴォイドは本気で「夕飯」として仔犬を――。
「だだだダメですよ！ この子は食べ物じゃないです!!」
顔を青くしてクロエごと仔犬を抱き締めたミアはヴォイドに真剣に言い放って彼女の言葉を否定した。
慌てるミアを見てもヴォイドはきょとんとしたままだ。一方、隣のテオフィルスは額に片手をあてて天を仰ぎ「あー……」と意味の無い言葉を呟く。テオフィルスだってヴォイドと同じ岸壁街で育った人間だ。狂犬病に罹っていない犬が食材だったことは良く知っているし食べたことだってある。それどころか食べられるだけで有難い世界では何の肉か分からない肉を食べることなんて日常茶飯事だった。ただ、それは岸壁街の常識であってカンテ国全体の常識ではないことをテオフィルスは食堂のメニューから悟りつつあった。犬は食べ物ではない。
「この子は愛玩用です」
至って端的にクロエが言う。「愛玩用」とクロエの言葉を反芻したヴォイドは分かっているのか分かっていないのかといった表情だ。そんなヴォイドにミアは泣きそうな困り顔を向ける。
「食べちゃダメですよ……」
「そうなんだ」
言外に「残念」という雰囲気を漂わせつつヴォイドはクロエに近付くと仔犬と目線を合わせるように屈みこんだ。
「触るのは良いの？」
「大人しい子ですし問題はないと思います。抱きます？」
クロエの問いにヴォイドは頷く。それを見てもミアはまだヴォイドが仔犬を食べるんじゃないかと不安だった。ラシアスにいた頃、犬を飼っている友達が「犬吸い最高！」と言って犬を食べそうな勢いで吸っていたことを思い出したからだ。そこから発展してミアの脳内ではヴォイドが犬を丸呑みにしようと啜っている光景が想像されていた。もはやそれはヴォイドを人間扱いしていない無茶苦茶な想像である。
（ミア、変な想像をしていますね……）
（ミアちゃん、愉快な事思ってるんだろうな）
顔に出やすいミアの表情を見てクロエとテオフィルスは、ほぼ同時にそんなことを思っていた。そして、それは何も間違っていない。
そんなミアの余計な心配を他所にクロエはヴォイドに仔犬を手渡した。恐る恐るながらも抱いたヴォイドであったが、きゅるんっという擬音でも付きそうな仔犬の瞳に見つめられて表情を緩ませる。
「ヴォイド、抱き潰すなよ？」
珍しいことに幸せいっぱいとばかりの顔をしているヴォイドにテオフィルスが声をかける。それはヴォイドが「嬉しい」と口に出す前に頬を赤らめて貰ったものを抱き締める癖があることを知っているが故に、仔犬を抱き潰すのではないかという心配からの声であった。しかし、ヴォイドも流石に生き物を殺しかねない勢いで思いきり抱きしめることはせず、テオフィルスの杞憂に終わりそうだ。
「わっ!?」
暫くヴォイドに大人しく抱かれていた仔犬だったが、不意にヴォイドの手から飛び出して床に着地する。
「えっ、どうしたのワンちゃん!?」
医療班の部屋で仔犬が暴れては大変だとミアが仔犬を捕まえようと手を伸ばすが、その手を俊敏に振り切って仔犬は一目散へ扉へと向かっていった。さすがに扉を開ける力は仔犬にはないだろうが、外に飛び出して行かれたら大変なことになる。
誰も医療班の扉を外から開けないでいて欲しい。
全員がそう思った時、無情にも扉は開いてしまった。
「あら、どうしたの……？」
扉を開けて入ってきたのは眠そうな目をしたカウンセラーのクイン・エリーズ。しかし「どうしたの？」は中にいた人間達がクインに向かって言いたいセリフだった。
何故ならば、クインの手には首輪らしき革のベルトがあったのだ。
クインと首輪。
不思議と似合う何かしらの空気があり、名前と相俟ってクインは何処ぞの夜の女王様のようであった。
「クイン先生、その首輪……」
「廊下に落ちていたから拾ったのよ。誰かの持ち物かもしれないし、勝手に捨てる訳にいかないでしょう？」
ミアの問いにそう答えたクインの視線は床へ、正確には床近くのクインをしっぽをふりふりしながら見つめる仔犬へと向けられた。仔犬は扉が開いても逃げることなくクインを見上げている。
「その首輪、この仔犬のものなのかもしれないですね」
自分の匂いのついたものが近付いてきていたから仔犬はヴォイドの腕から逃げたのかもしれないと判断したクロエの言葉に、クインは首輪についていたドッグタグへと目を向けた。
「そうだとすると、この子の名前は『シプリ』ね」
「ワンッ！」
仔犬はクインが読み上げた名前に正に返事をするかのように鳴く。
「ちゃんと返事が出来るなんて良い子ね」
微笑んで仔犬――シプリを見つめるクイン。
それは微笑ましい一幕の筈なのだが、心が汚れているテオフィルスにはクイン女王の前に四つん這いの男の幻覚が見えていた。
「シプリちゃんかぁ」
「名前も分かれば飼い主を探すのも容易そうですね」
「もう少し撫でてていい……？」
女の子三人はそんな汚れたテオフィルスと違い、シプリの元に集まってはキャッキャとクインを交えて楽しそうに会話をしている。そしてシプリは噛み付く素振りも見せず大人しく女の子達に撫でられ抱かれていた。
――こうして、ようやく名前の分かった迷い犬のシプリであったが。
終業時間まで飼い主が名乗り出ることも無く、やむなくクロエが一時的に預かることになるのであった。
そんなクロエが、ミアにとって予想外のものを抱いていた。
「く、クロエちゃん。それって……？」
「ああ、非常食です」
「えっ!?」
「冗談ですよ」
真顔でクロエが言うものだから若干の猜疑心を残したままミアは改めてクロエの抱いている毛玉――仔犬へと目を向けた。静かにクロエに抱かれている仔犬もうるうるした真ん丸の目でミアを見つめている。
その間、なんと３０秒。
時でも止まってしまったのではないかという時間を経てミアがようやく声を上げる。
「かっわっいーい！ クロエちゃん、ワンちゃん飼い始めたの!? お名前は!? 何歳かな!? まだ仔犬って感じだよねー！ もふもふしててぬいぐるみみたい！ お腹空いてないかな!? あっ、でも今ご飯無いし
「落ち着いて下さい。迷い犬で総務部が預かっているだけですし、食事は先程させてから此処に来ました」
きゃーきゃーわーわー犬よりも騒がしいミアに対しても、クロエは冷静に淡々と事実を述べるだけだ。
そんな凸凹女子高生コンビのところに一組の男女が近寄ってくる。
「ミアちゃん、今日も元気だな……っと、クロエちゃ……」
寄ってきた男女はテオフィルス・メドラーとヴォイド・ホロウだった。可愛い女子高生コンビがいるなんて場所を女好きの彼が見逃すはずはなく、笑顔で近寄ってきたテオフィルスだったのだが、彼の笑顔はあるものを見てピシリと音をたてて固まる。
「テオ？ ど……」
「ヴォイド。だめだ、近付くな」
ヴォイドを手で制するテオフィルスの顔は真剣そのものだった。
予想外の重い空気感にミアは首を傾げ、テロ前まではミクリカに住んでおりテオフィルスとヴォイドが住んでいた岸壁街の諸々を理解しているクロエは彼の固い態度の理由を悟る。
「
「嘘じゃないな？」
「あたしが此処で嘘をつくメリットがあります？」
クロエの言葉にテオフィルスは肩の力を抜いてヴォイドを制していた手を下ろした。霧散した重い空気感の理由が分からないままのミアは、オロオロとクロエとテオフィルスの顔を交互に見るしかない。
「あー……ごめんな、ミアちゃん。俺の住んでた所だと犬は危ない生き物だったんで警戒したんだ」
テオフィルスがそう言って苦笑いのようなものを浮かべる。
何もテオフィルスは犬に嚙まれてしまうことでの外傷自体が怖いのではない。本当に恐ろしいのは嚙まれて「狂犬病」に感染することである。一般的には絶滅したような狂犬病だが、岸壁街ではまだまだ現役だったのだ。狂犬病は岸壁街では致死率１００パーセントの恐怖の病であり、そんな環境で生きてきていれば犬を見れば警戒するのも致し方ないことだろう。
とはいえ狂犬病に罹っていない犬には別の立派な使い道があるのだが、それは今言うものではないと何となく悟っていたテオフィルスは口を噤んでおく。
「そうなんですか……」
ミアはテオフィルスに言いながら、彼と同郷のヴォイドも同じ考えで犬は怖いものなのだろうかと不安に揺れる瞳でヴォイドを見た。折角ならば、この仔犬の可愛さをヴォイドと分かち合いたいと思っているからである。
しかし、ヴォイドは硝子玉のような目に仔犬を映したまま特にこれまで反応を見せていない。彼女は仔犬をどう思っているのだろうか――？
「今日の夕飯？」
満を持して呟かれたヴォイドの言葉を、ミアは一瞬理解できなかった。
どうして急に、お夕飯のことをヴォイドさんは言っているんだろう？
お昼ご飯ならさっき一緒に食べたばっかりなのに。
「お、おい、ヴォイド……」
一転して狼狽えた様子のテオフィルスがヴォイドに声をかけるが、ヴォイドは「違うの？」と変わらないテンションでテオフィルスを見つめて小首を傾げていた。それを見て今度はヴォイドの言いたいことをいち早く悟ったクロエは仔犬を抱く手に密やかに力を篭める。
仔犬を見つめて「今日のお夕飯」。
段々、ミアにもヴォイドの言いたいことが分かりたくないけど分かってきたような気がした。
分かりたくない。分かりたくないけど分かってきていた。
『ああ、非常食です』
そんな時、頭にポンッと浮かんだのは先程のクロエの言葉。
クロエは「冗談です」と言っていたが、もしかしなくてもヴォイドは本気で「夕飯」として仔犬を――。
「だだだダメですよ！ この子は食べ物じゃないです!!」
顔を青くしてクロエごと仔犬を抱き締めたミアはヴォイドに真剣に言い放って彼女の言葉を否定した。
慌てるミアを見てもヴォイドはきょとんとしたままだ。一方、隣のテオフィルスは額に片手をあてて天を仰ぎ「あー……」と意味の無い言葉を呟く。テオフィルスだってヴォイドと同じ岸壁街で育った人間だ。狂犬病に罹っていない犬が食材だったことは良く知っているし食べたことだってある。それどころか食べられるだけで有難い世界では何の肉か分からない肉を食べることなんて日常茶飯事だった。ただ、それは岸壁街の常識であってカンテ国全体の常識ではないことをテオフィルスは食堂のメニューから悟りつつあった。犬は食べ物ではない。
「この子は愛玩用です」
至って端的にクロエが言う。「愛玩用」とクロエの言葉を反芻したヴォイドは分かっているのか分かっていないのかといった表情だ。そんなヴォイドにミアは泣きそうな困り顔を向ける。
「食べちゃダメですよ……」
「そうなんだ」
言外に「残念」という雰囲気を漂わせつつヴォイドはクロエに近付くと仔犬と目線を合わせるように屈みこんだ。
「触るのは良いの？」
「大人しい子ですし問題はないと思います。抱きます？」
クロエの問いにヴォイドは頷く。それを見てもミアはまだヴォイドが仔犬を食べるんじゃないかと不安だった。ラシアスにいた頃、犬を飼っている友達が「犬吸い最高！」と言って犬を食べそうな勢いで吸っていたことを思い出したからだ。そこから発展してミアの脳内ではヴォイドが犬を丸呑みにしようと啜っている光景が想像されていた。もはやそれはヴォイドを人間扱いしていない無茶苦茶な想像である。
（ミア、変な想像をしていますね……）
（ミアちゃん、愉快な事思ってるんだろうな）
顔に出やすいミアの表情を見てクロエとテオフィルスは、ほぼ同時にそんなことを思っていた。そして、それは何も間違っていない。
そんなミアの余計な心配を他所にクロエはヴォイドに仔犬を手渡した。恐る恐るながらも抱いたヴォイドであったが、きゅるんっという擬音でも付きそうな仔犬の瞳に見つめられて表情を緩ませる。
「ヴォイド、抱き潰すなよ？」
珍しいことに幸せいっぱいとばかりの顔をしているヴォイドにテオフィルスが声をかける。それはヴォイドが「嬉しい」と口に出す前に頬を赤らめて貰ったものを抱き締める癖があることを知っているが故に、仔犬を抱き潰すのではないかという心配からの声であった。しかし、ヴォイドも流石に生き物を殺しかねない勢いで思いきり抱きしめることはせず、テオフィルスの杞憂に終わりそうだ。
「わっ!?」
暫くヴォイドに大人しく抱かれていた仔犬だったが、不意にヴォイドの手から飛び出して床に着地する。
「えっ、どうしたのワンちゃん!?」
医療班の部屋で仔犬が暴れては大変だとミアが仔犬を捕まえようと手を伸ばすが、その手を俊敏に振り切って仔犬は一目散へ扉へと向かっていった。さすがに扉を開ける力は仔犬にはないだろうが、外に飛び出して行かれたら大変なことになる。
誰も医療班の扉を外から開けないでいて欲しい。
全員がそう思った時、無情にも扉は開いてしまった。
「あら、どうしたの……？」
扉を開けて入ってきたのは眠そうな目をしたカウンセラーのクイン・エリーズ。しかし「どうしたの？」は中にいた人間達がクインに向かって言いたいセリフだった。
何故ならば、クインの手には首輪らしき革のベルトがあったのだ。
クインと首輪。
不思議と似合う何かしらの空気があり、名前と相俟ってクインは何処ぞの夜の女王様のようであった。
「クイン先生、その首輪……」
「廊下に落ちていたから拾ったのよ。誰かの持ち物かもしれないし、勝手に捨てる訳にいかないでしょう？」
ミアの問いにそう答えたクインの視線は床へ、正確には床近くのクインをしっぽをふりふりしながら見つめる仔犬へと向けられた。仔犬は扉が開いても逃げることなくクインを見上げている。
「その首輪、この仔犬のものなのかもしれないですね」
自分の匂いのついたものが近付いてきていたから仔犬はヴォイドの腕から逃げたのかもしれないと判断したクロエの言葉に、クインは首輪についていたドッグタグへと目を向けた。
「そうだとすると、この子の名前は『シプリ』ね」
「ワンッ！」
仔犬はクインが読み上げた名前に正に返事をするかのように鳴く。
「ちゃんと返事が出来るなんて良い子ね」
微笑んで仔犬――シプリを見つめるクイン。
それは微笑ましい一幕の筈なのだが、心が汚れているテオフィルスにはクイン女王の前に四つん這いの男の幻覚が見えていた。
「シプリちゃんかぁ」
「名前も分かれば飼い主を探すのも容易そうですね」
「もう少し撫でてていい……？」
女の子三人はそんな汚れたテオフィルスと違い、シプリの元に集まってはキャッキャとクインを交えて楽しそうに会話をしている。そしてシプリは噛み付く素振りも見せず大人しく女の子達に撫でられ抱かれていた。
――こうして、ようやく名前の分かった迷い犬のシプリであったが。
終業時間まで飼い主が名乗り出ることも無く、やむなくクロエが一時的に預かることになるのであった。
きみがいるだけで
「キューン」
「はぁ〜。シプリちゃん、きゃわいいねぇ〜。女の子同士、女子会楽しもうねぇ〜」
クロエの部屋で相好を崩したミアが蕩けていた。
その手に抱かれているのは飼い主が見つからなかったためクロエが一時的に預かることになった仔犬のシプリである。そんなシプリの可愛さにメロメロになったミアは仕事終わりに「女子会しよう！」と高級牛乳片手にクロエの部屋を強襲していたのだ。
「わーっ、シプリちゃんっ。ガジガジは禁止だよ〜！」
抱きしめたシプリに着ていたパーカーの紐を齧られて声を上げるミア。
なお、「めっ！」と怒る顔はデロデロのデレデレで怒っているようには見えないためシプリの躾には何の効果もない。
そんなミアを見てクロエは動いていた。
「ミア」
「ん？」
ピロリンッとお気楽な音がしてミアのマヌケな顔がクロエの手にある端末に撮られて保存される。当然のようにその端末はクロエのものではなく、ミアのものだ。
「あっ、ダメだよクロエちゃん！ 絶対盛れてないもん！」
以前、酔っ払ってスライムのようにぐでーんとしていた姿を撮影された挙句にネビロスを召喚された記憶のあるミアは慌ててクロエから端末を取り返そうとするが、ミアの手には愛くるしいシプリがいて仔犬を手放す気もないミアの動きは悪い。
「はい、送信完了です。大丈夫ですよ、盛れてようが盛れてなかろうがネビロス氏は気にしません」
そんな動きが愚鈍なミアをあしらってクロエはさっさと写真をネビロスに送っていた。そんなクロエにミアは子供っぽく頬を膨らませる。
「ネビロスさんはどんな私だって『かわいいですよ』って言ってくれるけど私が気にするもん！」
「はいはい、ノロケ乙です」
ミアから返ってきた言葉に自分の行動がアホらしくなってクロエはグラスの牛乳を一気飲みした。
夫婦喧嘩は犬も食わないというが、惚気だって犬も食わないだろう。
「シプリちゃん、飼い主さんどこ行っちゃったんだろうねー。寂しいねー」
ミアはモフモフをモフモフしながらシプリに話しかけていた。
そんなミアとシプリを見つめながらクロエは想像を巡らせる。
昨年の夏、ギロク博士によって起きた機械汚染 。赤く光る目で殺戮を行うようになった機械人形 だが、彼等は人間しか狙わない。
もし、シプリの飼い主が既に機械人形の手によってこの世の者ではない者になっていたとしたら。
飼い主が亡くなり、餌と庇護を求めてたまたまマルフィ結社に迷い込んできた犬だとしたら。
……止めよう。暗い想像は良くない。単純に飼い主がうっかりしてシプリを逃がしてしまっただけなのだろう。
きっと、明日には飼い主が見つかる筈だ。
クロエはポジティブな結論に至ることにした。目の前にポジティブ魔神がいるからポジティブ精神が伝染ったのかもしれない。
「うち、お花屋さんだからペット飼えなくて。シプリちゃんをいっぱいモフモフできて幸せだよー」
幼い頃は犬が飼いたい、猫が飼いたいと騒いで両親を困らせた記憶を思い出しながらミアは呟く。家が花屋であったことは何も嫌なことではなかったけれど両親は店の経営とミアの育児で手いっぱいでペットを飼う余裕まではなかったのだ。ミアの“ お姉ちゃん ”の機械人形のララが家に来て花屋を手伝うようになって「ララちゃんのおかげで楽になったわ」と母が笑っていたのは、あながち冗談ではなかったのだろう。
両親のことを思い出してしんみりとした様子を見せるミアに、クロエはそれとなく話題を変えることにした。
「ミア、着信来ましたよ」
「えっ。貸して貸して！」
タイミング良くネビロスからの着信があったのでミアに端末を見せつけるとミアは表情を一変させてクロエから端末を受け取った。メッセージを見たミアがデレッとした顔になったのでネビロスからのメッセージは予想通り悪いものではなかったらしい。
「ネビロス氏が動物好きなら飼えば良いじゃないですか」
「そうだね。ネビロスさん、動物好きかなぁ？」
シプリを見つめて、ミアは恋人のネビロスの姿を思い浮かべる。
ネビロスが自分と同じように動物が好きだったら嬉しい。犬でも猫でも他の動物でも良いが、今は目の前にシプリがいるので犬を飼う想像が膨らんだ。もちろんシプリや前にエミールが連れていたペペローネと同じような小型犬も良いが、ネビロスならばサルーキのようなスマートな大型犬も似合いそうだ。ネビロスの色彩と合わせるなら、きっと白い毛並みの犬が良い。
そんな犬を散歩するネビロスと一緒に歩く自分を想像してニコニコとしていたミアだが、ふと我に返って頬を赤く染めた。何だかこれじゃ、結婚生活を妄想しているみたいだからだ。
「残念。気付いてしまったようですね」
「クロエちゃん！」
ミアの表情で考えていることを読み取ったクロエが呟くので、ミアは恥ずかしさを紛らわすように抗議の声とばかりにクロエの名前を呼んだ。
「良いじゃないですか。『幸せな結婚生活』の妄想は自由です」
「自由だけど人前でするのは恥ずかしいの！シプリちゃーん、慰めてー！」
叫ぶだけ叫んでミアはシプリに顔を埋める。
そんな人間のそんな騒ぎなんてお構い無しにシプリは可愛らしい欠伸を一つ。
その時、クロエの部屋のインターホンが軽快な音をたてた。
今夜はクロエとミアとシプリの女子会であって、他に参加者はいないため２人は思わず顔を見合わせる。
「クロエちゃん、今日は誰か来る予定？」
「そんな予定があればミアを招き入れませんよ」
「そうだよね。誰だろ？」
「さあ？」
言いながらクロエは玄関に向かっていく。
そして、女子としてはあるまじきことにチェーンもしていない扉を何の警戒感もなく開けた。
「……バートン。扉にチェーンくらいしろ、不審者だったらどうする」
警戒感なく開いた扉に眉を顰めて忠告してきたのは扉の先にいたリアムだった。リアムは娘のリリアナを抱いているが、夜も遅くなってきたこともあってリリアナは眠そうに目を擦っている。
「レレイの部屋に……パパが行くのは……マナー違反、なのよー……」
リアムだけならば扉を閉めていたクロエだったが、そんなことを言う彼の娘の目の前でそんなことをする訳にいかないので大人しくリアムを見た。
「何の用ですか？ 付き添いまで連れて」
クロエの言う「付き添い」はリリアナでは無かった。リアムの脇に大人しく立っている着物姿の女性――前線駆除 班第三小隊のセリカ・ミカナギだ。クロエが視線を向けるとセリカは「今晩和」と会釈をする。
総務班のリアムと前線駆除班のセリカ。不思議な組み合わせだが、クロエは２人が結社加入前からの知り合いであるとリアム本人から聞いていたので特に驚いた顔も見せずに、リアムに用件を問い掛けた。
「犬の飼い主が名乗り出てきたんだ」
「えっ!?」
クロエの部屋はワンルームであり、玄関先のリアムの言葉はミアにも聞こえていた。空色の瞳を丸くしているミアがシプリを抱いていることを目視すると、リアムが言葉を続ける。
「あれはリーシェールさん夫妻が最近飼い始めた犬だったことが判明してな。ああ、旦那が調達 班で奥様が給食部の人だ」
「良く腰痛で医療 班に来るリーシェールさんですね！」
クロエの代わりのようにミアが再び声を上げた。それを聞いてクロエもミアからそんな話を聞いたことがあったことを思い出す。
リアムが語ったシプリが迷子になるまでの過程はこうだ。
朝、リーシェール(夫)がシプリを散歩している途中で躾の完了していないシプリがリードを引っ張るように走り出してしまった為に持病の腰痛が悪化。横転した際にリードから手を離してしまい、シプリは逃走してしまった。追いかけようにも腰が痛くて動けないリーシェール(夫)は傍目には行き倒れた中年男性であったため、たまたま近くを通りすがった住民の通報により救急車で病院へ搬送されてしまう。搬送されたと聞いたリーシェール(妻)はパニック状態で病院へ。夫の無事を確認して胸を撫で下ろしたと思えば、ふと気付く。最近飼い始めた仔犬はどこへ――と。
「奥様の方が犬の事を心配されていて早く会いたいとの事だ。元々の窓口が私だったのでこちらに連絡が来たようだが、私はリリがいるので預かっていったとしても犬が暴れる等の不測の事態に対応できない。故に既知の知り合いである……ミカナギさんに同行を願った訳だ」
尤もらしい事を並びたてるリアムだが、当然の事ながら彼は犬が嫌いで触れないだけである。そもそもセリカはリアム少年を犬嫌いにした張本人であり諸悪の根源であるのだが、友人の少ないリアムが急に頼める存在で犬が大丈夫だとわかっている人間はセリカくらいしかおらず、背に腹はかえられなかった。
「リリアナちゃんがパパが女性の部屋に行くなら女性同伴で無いと許してくれなかったので私が来たんですぅ。夜分に申し訳ないですねぇ」
セリカがそう言って楚々とした態度で頭を下げる。隣で「似非 が」と吐き捨てるようにリアムが呟くが、セリカは後でゆっくりリアムを締めようと心に誓い微笑みは崩さない。幸いなことにリアムに抱かれたリリアナは夢の世界に旅立ち、クロエにもリアムの言葉は聞こえていないようだった。
「シプリちゃん、飼い主さんが分かってよかったね」
言いながらシプリを抱いて玄関先へとやってきたミアだが、言葉と裏腹に表情は晴れない。結社の人間が飼っているなら、また会える時もあるだろうが今はお別れになるのが悲しいのだ。
「はい、クロエちゃん」
直接、リアム達に仔犬を渡すことはせずミアは一度クロエにシプリを差し出した。クロエもそれに対してツッコミを入れることはせず、ミアからシプリを受け取る。
黒く濡れた瞳でクロエを見上げるシプリを一撫ですると、クロエはいつも通りの淡々とした態度でセリカにシプリを差し出した。
「はい。では、お預かりしますねぇ」
「夜分の急な訪問、済まなかったな」
そう言ってリアム達はクロエ達の前からシプリを連れて去って行く。
その姿が廊下の角に消えるまで見送ると、クロエとミアは部屋に戻った。
いつも通りのクロエの部屋。
だけど、何だか物悲しい。
「クロエちゃん」
「ミア」
２人はほぼ同時に互いの名前を呼んでいた。クロエが「先にどうぞ」と言うので言葉に甘えてミアが口を開く。
「今日、やっぱりお泊まりしてっていいかな？」
「今夜は帰る予定だったのでは……？」
「うん。でも、やっぱり泊まる！」
――急にシプリちゃんがいなくなっちゃって、クロエちゃんが寂しいと思うから。
そう思ったけれど、それをミアは口に出さなかった。
医療班の部屋に来た時からクロエはずっとシプリを抱いていて、クロエの部屋の女子会ではミアがシプリを満喫していたけれどクロエの目がシプリに向いていたのはミアにも分かっていた。
それはミアの勘違いかもしれない。自分がシプリが可愛くて仕方ないから勝手にクロエもそう思っているに違いないと思い込んでいるだけかもしれない。それでも本当にクロエが寂しくなっているならば、そんな友達を独りにするのは友達じゃない。
「別に構いませんよ」
クロエが薄らと笑う。
そんなクロエにミアは思いきり抱きついた。
「ネビロス氏に嫉妬されそうですね」
「クロエちゃんは私の大事なお友達だから許してくれるもん」
「どうだか」
クロエが再び笑みを顔に乗せる。
しかし、そこには悲しみの色がないように見えてミアは心底ほっとするのであった。
後日。
はしゃぐ仔犬のシプリを追い掛けていたら魔女の一撃を受けたリーシェール(夫)の代わりに、楽しそうに仔犬を散歩するクロエとミアの姿が結社で見られたという。
「はぁ〜。シプリちゃん、きゃわいいねぇ〜。女の子同士、女子会楽しもうねぇ〜」
クロエの部屋で相好を崩したミアが蕩けていた。
その手に抱かれているのは飼い主が見つからなかったためクロエが一時的に預かることになった仔犬のシプリである。そんなシプリの可愛さにメロメロになったミアは仕事終わりに「女子会しよう！」と高級牛乳片手にクロエの部屋を強襲していたのだ。
「わーっ、シプリちゃんっ。ガジガジは禁止だよ〜！」
抱きしめたシプリに着ていたパーカーの紐を齧られて声を上げるミア。
なお、「めっ！」と怒る顔はデロデロのデレデレで怒っているようには見えないためシプリの躾には何の効果もない。
そんなミアを見てクロエは動いていた。
「ミア」
「ん？」
ピロリンッとお気楽な音がしてミアのマヌケな顔がクロエの手にある端末に撮られて保存される。当然のようにその端末はクロエのものではなく、ミアのものだ。
「あっ、ダメだよクロエちゃん！ 絶対盛れてないもん！」
以前、酔っ払ってスライムのようにぐでーんとしていた姿を撮影された挙句にネビロスを召喚された記憶のあるミアは慌ててクロエから端末を取り返そうとするが、ミアの手には愛くるしいシプリがいて仔犬を手放す気もないミアの動きは悪い。
「はい、送信完了です。大丈夫ですよ、盛れてようが盛れてなかろうがネビロス氏は気にしません」
そんな動きが愚鈍なミアをあしらってクロエはさっさと写真をネビロスに送っていた。そんなクロエにミアは子供っぽく頬を膨らませる。
「ネビロスさんはどんな私だって『かわいいですよ』って言ってくれるけど私が気にするもん！」
「はいはい、ノロケ乙です」
ミアから返ってきた言葉に自分の行動がアホらしくなってクロエはグラスの牛乳を一気飲みした。
夫婦喧嘩は犬も食わないというが、惚気だって犬も食わないだろう。
「シプリちゃん、飼い主さんどこ行っちゃったんだろうねー。寂しいねー」
ミアはモフモフをモフモフしながらシプリに話しかけていた。
そんなミアとシプリを見つめながらクロエは想像を巡らせる。
昨年の夏、ギロク博士によって起きた
もし、シプリの飼い主が既に機械人形の手によってこの世の者ではない者になっていたとしたら。
飼い主が亡くなり、餌と庇護を求めてたまたまマルフィ結社に迷い込んできた犬だとしたら。
……止めよう。暗い想像は良くない。単純に飼い主がうっかりしてシプリを逃がしてしまっただけなのだろう。
きっと、明日には飼い主が見つかる筈だ。
クロエはポジティブな結論に至ることにした。目の前にポジティブ魔神がいるからポジティブ精神が伝染ったのかもしれない。
「うち、お花屋さんだからペット飼えなくて。シプリちゃんをいっぱいモフモフできて幸せだよー」
幼い頃は犬が飼いたい、猫が飼いたいと騒いで両親を困らせた記憶を思い出しながらミアは呟く。家が花屋であったことは何も嫌なことではなかったけれど両親は店の経営とミアの育児で手いっぱいでペットを飼う余裕まではなかったのだ。ミアの“ お姉ちゃん ”の機械人形のララが家に来て花屋を手伝うようになって「ララちゃんのおかげで楽になったわ」と母が笑っていたのは、あながち冗談ではなかったのだろう。
両親のことを思い出してしんみりとした様子を見せるミアに、クロエはそれとなく話題を変えることにした。
「ミア、着信来ましたよ」
「えっ。貸して貸して！」
タイミング良くネビロスからの着信があったのでミアに端末を見せつけるとミアは表情を一変させてクロエから端末を受け取った。メッセージを見たミアがデレッとした顔になったのでネビロスからのメッセージは予想通り悪いものではなかったらしい。
「ネビロス氏が動物好きなら飼えば良いじゃないですか」
「そうだね。ネビロスさん、動物好きかなぁ？」
シプリを見つめて、ミアは恋人のネビロスの姿を思い浮かべる。
ネビロスが自分と同じように動物が好きだったら嬉しい。犬でも猫でも他の動物でも良いが、今は目の前にシプリがいるので犬を飼う想像が膨らんだ。もちろんシプリや前にエミールが連れていたペペローネと同じような小型犬も良いが、ネビロスならばサルーキのようなスマートな大型犬も似合いそうだ。ネビロスの色彩と合わせるなら、きっと白い毛並みの犬が良い。
そんな犬を散歩するネビロスと一緒に歩く自分を想像してニコニコとしていたミアだが、ふと我に返って頬を赤く染めた。何だかこれじゃ、結婚生活を妄想しているみたいだからだ。
「残念。気付いてしまったようですね」
「クロエちゃん！」
ミアの表情で考えていることを読み取ったクロエが呟くので、ミアは恥ずかしさを紛らわすように抗議の声とばかりにクロエの名前を呼んだ。
「良いじゃないですか。『幸せな結婚生活』の妄想は自由です」
「自由だけど人前でするのは恥ずかしいの！シプリちゃーん、慰めてー！」
叫ぶだけ叫んでミアはシプリに顔を埋める。
そんな人間のそんな騒ぎなんてお構い無しにシプリは可愛らしい欠伸を一つ。
その時、クロエの部屋のインターホンが軽快な音をたてた。
今夜はクロエとミアとシプリの女子会であって、他に参加者はいないため２人は思わず顔を見合わせる。
「クロエちゃん、今日は誰か来る予定？」
「そんな予定があればミアを招き入れませんよ」
「そうだよね。誰だろ？」
「さあ？」
言いながらクロエは玄関に向かっていく。
そして、女子としてはあるまじきことにチェーンもしていない扉を何の警戒感もなく開けた。
「……バートン。扉にチェーンくらいしろ、不審者だったらどうする」
警戒感なく開いた扉に眉を顰めて忠告してきたのは扉の先にいたリアムだった。リアムは娘のリリアナを抱いているが、夜も遅くなってきたこともあってリリアナは眠そうに目を擦っている。
「レレイの部屋に……パパが行くのは……マナー違反、なのよー……」
リアムだけならば扉を閉めていたクロエだったが、そんなことを言う彼の娘の目の前でそんなことをする訳にいかないので大人しくリアムを見た。
「何の用ですか？ 付き添いまで連れて」
クロエの言う「付き添い」はリリアナでは無かった。リアムの脇に大人しく立っている着物姿の女性――
総務班のリアムと前線駆除班のセリカ。不思議な組み合わせだが、クロエは２人が結社加入前からの知り合いであるとリアム本人から聞いていたので特に驚いた顔も見せずに、リアムに用件を問い掛けた。
「犬の飼い主が名乗り出てきたんだ」
「えっ!?」
クロエの部屋はワンルームであり、玄関先のリアムの言葉はミアにも聞こえていた。空色の瞳を丸くしているミアがシプリを抱いていることを目視すると、リアムが言葉を続ける。
「あれはリーシェールさん夫妻が最近飼い始めた犬だったことが判明してな。ああ、旦那が
「良く腰痛で
クロエの代わりのようにミアが再び声を上げた。それを聞いてクロエもミアからそんな話を聞いたことがあったことを思い出す。
リアムが語ったシプリが迷子になるまでの過程はこうだ。
朝、リーシェール(夫)がシプリを散歩している途中で躾の完了していないシプリがリードを引っ張るように走り出してしまった為に持病の腰痛が悪化。横転した際にリードから手を離してしまい、シプリは逃走してしまった。追いかけようにも腰が痛くて動けないリーシェール(夫)は傍目には行き倒れた中年男性であったため、たまたま近くを通りすがった住民の通報により救急車で病院へ搬送されてしまう。搬送されたと聞いたリーシェール(妻)はパニック状態で病院へ。夫の無事を確認して胸を撫で下ろしたと思えば、ふと気付く。最近飼い始めた仔犬はどこへ――と。
「奥様の方が犬の事を心配されていて早く会いたいとの事だ。元々の窓口が私だったのでこちらに連絡が来たようだが、私はリリがいるので預かっていったとしても犬が暴れる等の不測の事態に対応できない。故に既知の知り合いである……ミカナギさんに同行を願った訳だ」
尤もらしい事を並びたてるリアムだが、当然の事ながら彼は犬が嫌いで触れないだけである。そもそもセリカはリアム少年を犬嫌いにした張本人であり諸悪の根源であるのだが、友人の少ないリアムが急に頼める存在で犬が大丈夫だとわかっている人間はセリカくらいしかおらず、背に腹はかえられなかった。
「リリアナちゃんがパパが女性の部屋に行くなら女性同伴で無いと許してくれなかったので私が来たんですぅ。夜分に申し訳ないですねぇ」
セリカがそう言って楚々とした態度で頭を下げる。隣で「
「シプリちゃん、飼い主さんが分かってよかったね」
言いながらシプリを抱いて玄関先へとやってきたミアだが、言葉と裏腹に表情は晴れない。結社の人間が飼っているなら、また会える時もあるだろうが今はお別れになるのが悲しいのだ。
「はい、クロエちゃん」
直接、リアム達に仔犬を渡すことはせずミアは一度クロエにシプリを差し出した。クロエもそれに対してツッコミを入れることはせず、ミアからシプリを受け取る。
黒く濡れた瞳でクロエを見上げるシプリを一撫ですると、クロエはいつも通りの淡々とした態度でセリカにシプリを差し出した。
「はい。では、お預かりしますねぇ」
「夜分の急な訪問、済まなかったな」
そう言ってリアム達はクロエ達の前からシプリを連れて去って行く。
その姿が廊下の角に消えるまで見送ると、クロエとミアは部屋に戻った。
いつも通りのクロエの部屋。
だけど、何だか物悲しい。
「クロエちゃん」
「ミア」
２人はほぼ同時に互いの名前を呼んでいた。クロエが「先にどうぞ」と言うので言葉に甘えてミアが口を開く。
「今日、やっぱりお泊まりしてっていいかな？」
「今夜は帰る予定だったのでは……？」
「うん。でも、やっぱり泊まる！」
――急にシプリちゃんがいなくなっちゃって、クロエちゃんが寂しいと思うから。
そう思ったけれど、それをミアは口に出さなかった。
医療班の部屋に来た時からクロエはずっとシプリを抱いていて、クロエの部屋の女子会ではミアがシプリを満喫していたけれどクロエの目がシプリに向いていたのはミアにも分かっていた。
それはミアの勘違いかもしれない。自分がシプリが可愛くて仕方ないから勝手にクロエもそう思っているに違いないと思い込んでいるだけかもしれない。それでも本当にクロエが寂しくなっているならば、そんな友達を独りにするのは友達じゃない。
「別に構いませんよ」
クロエが薄らと笑う。
そんなクロエにミアは思いきり抱きついた。
「ネビロス氏に嫉妬されそうですね」
「クロエちゃんは私の大事なお友達だから許してくれるもん」
「どうだか」
クロエが再び笑みを顔に乗せる。
しかし、そこには悲しみの色がないように見えてミアは心底ほっとするのであった。
後日。
はしゃぐ仔犬のシプリを追い掛けていたら魔女の一撃を受けたリーシェール(夫)の代わりに、楽しそうに仔犬を散歩するクロエとミアの姿が結社で見られたという。
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