It's fine today／べにざくろ
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g_a3b2c3o12 2021年10月17日(日) 19:35:59履歴
子供のイジメなんてほんの些細なことから始まってしまう。
私の場合はクラスの人気者の女の子であったニコレッタと名前が似ていたからということからだった。それと学年でもトップクラスであった成績に対する妬みもあったのかもしれない。
「あの地味子がニコちゃんと同じ愛称とか生意気なんだけど」
「“じゃない方”のニコじゃない？」
「みんな、そんな言い方可哀想だよ。ね、エークルンドさん？」
そう言って私に向けたニコレッタの目は嘲笑 っていて彼女はそんな事は微塵も思っていないのだなと直ぐに分かった。そこから始まったのは些細なイジメ。陰口を叩かれたり、グループ活動でわざとグループに入れてから仲間外れにされたりする程度の小さな小さなもの。いっそのこと暴力を振るうとか物を隠したり壊すとか、大々的にやってくれていたならば両親や教師に相談も出来ただろうに彼女達のイジメは小さなものだった。だからそもそも彼女達にはイジメの認識は無かっただろうし、中学卒業後疎遠となった今となっては私の存在なんて覚えてもいないことだろう。
それでも中学生という多感な時期に受けたそれらは私の人格形成に負の方向で大きく影響した。人の視線が怖い。だから目を見て話せない。自分から誰かに話しかける勇気を失った私は高校も孤独だった。そして、そんな私が明るく元気にハキハキとした人間が重宝される就職活動で勝ち抜けるはずもなく、あっという間に家事手伝いという名のヒキコモリの出来上がりだ。
幸いにも我が家は穀潰しである私がいても生活には困らない程度の水準の家庭であったし、私とは違い元気にすくすくと真っ直ぐに育っている弟がいたのでエークルンドの家の将来は彼に任せればいい。後はこの穀潰しのヒキコモリの将来を考えれば良いだけだ。
そんなことを思っていた矢先の事だった。
ギロク博士が機械人形 を用いたテロを起こしたのは。
我が家にも家事手伝いの一体の機械人形 がいたが、彼は機械人形 が汚染を受けた時に何処かへと走って消えてしまった。そのおかげといっては何だが我が家の被害は彼が出ていく時に壊した玄関ドア位で済んだので良かったとも言える。なお、後々彼は軍警によって機能停止させられて我が家に帰ってきた。さすがに付き合いの長い機械人形が動かなくなったのはショックだった。
正直、ギロク博士がテロを起こして世の中が混乱してくれたのは楽しかった。ミクリカやケンズの人や、その後に起きるようになった機械人形 の暴走で亡くなった人は可哀想だが、世間が混乱していてもヒキコモリには何ら関係なかったし、精々、電子世界 が使えない時期に困ったくらいしかなかった。むしろ、家の中にいた方が安全ということで世界が私に寄り添ってくれているとすら感じるほどだったからだ。嗚呼、全カンテ国民よ。ひきこもりとなれ。
「姉ちゃん」
ある日、大学がリモート授業になって家に居ることの増えた弟が私の部屋を尋ねてきた。
「何？ 急にどうしたの？」
弟のクルトはいわゆる陽キャという生き物であるが、私にとって弟は弟という存在であってクルトとは普通に話すことが出来た。相変わらずのキラキラしい笑顔を向けたクルトは自分の携帯型端末を私に見せつけるようにひらつかせる。
「友達が勤めてるところが求人出してるんだけど姉ちゃん働かない？」
「……お姉ちゃんにも働けるの？」
「色んな人、募集しているらしいから」
クルトの友達が言うなら無茶なものではないのだろう。マグロ漁船に乗せられるとか白い粉を運ばされるとか身体を売らされるとか、そういうことはないはずだ。
そう思いながら端末を受け取って表示されているものを見る。
知らない社名？だ。
「マルフィ結社……？」
「父さんも母さんも賛成してたよ。寮生活が出来るっていうし環境変えたい姉ちゃんにピッタリじゃない？」
なんということでしょう。外堀は先に埋められていたらしい。
「でも……」
外に出るのは怖かった。今の世界ならヒキコモリでも許されると呑気に思っていたのに、急に外に出されそうになってしまうとは。
でも、これは良い機会かもしれない。
将来、弟がお嫁さんを迎えようとした時にヒキコモリの姉なんていたらドン引きされて破談になりかねないのだから、これは一歩踏み出すチャンスなんじゃないだろうか。
「……うん、やってみようかな」
そう言うとクルトの顔が更に輝いた。我が弟ながら眩しすぎて直視できない。
「じゃあ、まずは俺が連絡してみるね」
端末を私から取り返した弟は上機嫌にメッセージを打ち出す。
さすが、陽キャ。フットワークが軽い だ。私なら明日にしようと思うのに。
「そういえば高校の友達って、私も知ってる人……？」
メッセージの送信者の名前を見なかったのでクルトに問い掛けると、クルトは画面から目を離さず手を動かしたまま答えを返してきた。
「タイガだよ、タイガ・ヴァテール。ほら、陽キャの」
「クルトも立派な陽キャだけどね」
「えー。俺なんかよりタイガの方が陽キャじゃん」
お姉ちゃんからすれば、どっちも十分すぎる陽キャだ。
タイガ君は小学校からクルトと友達の子で我が家によく遊びに来ていたので面識がある。そこまで深い知り合いではないが、全く知らない人しかいない場所で働かないといけない訳じゃないというのは心強い。
それに、あの能天気そうだったタイガ君が働ける場所なら私も働ける気がする。多分。
* * *
いや、やっぱり無理でした帰らせてくださいごめんなさい。
ニコリネは気配を消して壁の染みにでもなった気分になりながらディスプレイを凝視してキーボードに置いた指を動かしていた。
プログラミングが出来るということでニコリネが配属された汚染駆除 班の部屋では、イオ・アスキーとミサキ・ケルンティアによるバトルが勃発していた。バトルとはいうもののイオが掴みかかりそうな勢いでミサキに叫んでいて、それをミサキが冷たい眼差しで見つめているという一方的なものであったが。
二人と親交もなく割って入る勇気なんて当然ないニコリネは現実から逃亡するようにディスプレイを見つめていた。それでも耳に入ってくるものを遮断することは出来ないから、結局はそちらへとついつい目が行ってしまう。
イオ・アスキーはどことなくニコリネが親近感を抱く人物だった。他人を避けるような態度、それでいて他人が気になって勝手に恐怖や嫉妬や敗北感を抱いて卑屈になって攻撃的になってしまう性格。
そして、それを助長させる存在ともいえるのが今、対峙しているミサキだ。
初めて見た時から若いだろうとは思っていたが何と齢 １４。全体的に色素が薄くて儚げにも機械人形 にも見える容姿が人目を引き、それでいて年齢に負けない知識の持ち主。
神様が「天才」というものを具現化したらミサキが出来ました。そう言っても過言ではないような彼女を見ていると、イオ程ではないがニコリネも様々な負の感情を抱いてしまうので彼の気持ちは分からないでは無い。
「イオさん、落ち着きましょう」
黒マスクが特徴的なエフゲーニがイオを宥めている隙に、ミサキは何も言わず部屋を出て行こうと扉へと向かっていた。あんな若い子が面と向かって男の人に怒鳴られていたのだ。きっと泣いてしまうに違いないと思ったニコリネは、そっと席を立ってミサキの後を追う。
追おうと思って席を立ったニコリネだが、廊下を歩くミサキの背中に何と言って呼び止めたらいいのか悩んだ。やはりここは普通に「ケルンティアさん」で良いのだろうか。それとも親しみをもって「ミサキちゃん」？ いや、話した事もないのに急にそれは馴れ馴れしすぎるか。
「何？」
「ひゃい!?」
後を付けている形になったニコリネの足音で気づいたらしく振り返ったミサキが睨んでいた。１０歳近く歳の離れた背の小さな子に睨まれているのに物凄い恐怖を感じてしまうのはミサキの持つオーラの強さだろうか。思わず２、３歩後退してしまう。
「いえ、その、えっと……」
泣くために外に出たかと思っていたがミサキは決してそんなつもりはなかったようだ。その証拠に彼女の氷河の氷を切り取って嵌めたような目には静かに怒りの炎が浮かんでいる。
「怒りの対象を視界から消せば怒りは消える。アンガーマネジメントの基本」
「あっ、はい……」
唐突に言われた言葉に思わず頷くとミサキは踵を返して再び歩いて行ってしまう。
要するにイオの視界から怒りの対象 を消すために、彼女は外に出たということなのだろう。それにしても１４歳で心理療法プログラムを理解して実践出来るとは末恐ろしい子供である。
それと同時に羨ましいという気持ちがニコリネの中に湧いてくる。
自分が１４歳の時にミサキ並みの知識があれば、ニコレッタを上手く対処することが出来て自分はもっと輝く人間になれたのではないかと思ってしまうからだ。残念ながら、凡人の自分には説明したところで無理だったろうけども。
「ミサキちゃん、どっか行っちゃった？」
「ひゃい!?」
ボーッと突っ立っていたら後ろから声がかかり、ニコリネは本日２回目の変な返事をしつつ振り向く。ニコリネに声をかけてきたのは砂色の変な髪型の男――同じ汚染駆除 班のテオフィルス・メドラーだった。女なら誰でもいいとばかりの性格の彼はニコリネにも親しげに話しかけてくる稀有な存在だ。
「あ、えっと……そう、ですね……」
「まぁ、ミサキちゃんのことだからそのうち帰ってくるか。ニコリネちゃんも戻ろうぜ」
「は、はい……ごめんなさい」
「ニコリネちゃんが謝ること無くね？」
「ご、ごめんなさい……」
癖のように謝ってしまうニコリネの様子にテオフィルスが噴き出すように笑い「悪い、悪い」と頭をポンポンと軽く撫でるように触られる。
ゴミのような存在の私に触るなんて凄い人だなぁ。
そんなことを思いながら大人しく頭を撫でられてニコリネはテオフィルスと共に汚染駆除 班の部屋へと戻って行こうと振り返り、驚いて足を止めた。
「イオ」
テオフィルスも驚いたような顔をして、そこにいた人物の名を呼ぶ。
「エフに落ち着いて来いと追い出された。そうだよな、壁際の埃如きが騒いでいたら邪魔だよな……空気が汚れるよな……俺なんて死んだ方が……」
先程までのミサキへと突っかかっていた勢いはどこへ行ってしまったのかと問い掛けたくなる程に牙を抜かれた獣のようになっているイオが廊下に立っており自嘲めいた笑みを浮かべて呟く。それはニコリネとテオフィルスに言っているというよりは独り言のような弱々しさだった。
この人を放っておいてはいけない。
それは、ニコリネとテオフィルスの考えが一致した瞬間だった。
* * *
休憩所にコーヒーの香りが漂う。
テオフィルスに買って貰ってしまったコーヒーを啜りながらニコリネは横目でイオの様子を窺っていた。イオは自分で買った砂糖とミルクの入ったコーヒーを飲みながら黙っているだけであるし、テオフィルスも特に彼に何か話す訳でなくニコリネに買ったものと同じコーヒーを飲んでいるだけだ。
要するに沈黙が重い。
しかし、ニコリネはそれを打破できるような話題が提供できる人間ではない。
どうしようかとニコリネが悶々としていると口を開いたのはやはりというかテオフィルスだった。
「イオ。ミサキちゃんは若くて可愛いか弱い女の子なんだから、あの言い方はないだろ？」
真面目な顔で言い放つテオフィルスに、ニコリネは先程ミサキに睨まれたことを思い出して内心では首を傾げる。ミサキに対して“若くて可愛い”は同意できるが“か弱い”は当てはまらないような気がするのだが、テオフィルスには何か違うものが見えているのだろうか。
テオフィルスの言葉にイオは何も答えない。折角、テオフィルスが話しかけたのだから喋ってくれれば良いのにと思うものの、恐らくはイオの心の中では凄まじい勢いで言葉が溢れているのだろうなぁと親近感から分かるニコリネは何も言わずに２人を見つめていた。
しかしイオが口を開かないので結局は話が進まず、重い雰囲気は消えない。
「テオ、いた」
そんな空気を吹き飛ばすように現れたのは瑠璃色のスクラブに白衣を纏った女性だった。彼女は怒ったような表情を浮かべて、ツカツカとテオフィルスに近づいて行く。
「ヴォイド。どうした？」
「どうした、じゃない。全然リハビリ来ないから呼びに来た」
初めて会った時からテオフィルスの歩き方が少し可笑しいとは思っていたが、リハビリという事は見た目には分からないが脚を悪くしているのだろうか。テオフィルスの足の事情を知らないニコリネはそんなことを思う。
テオフィルスにヴォイドと呼ばれた女性は彼の前に立つと怒りを表すように腰に手をあてる。少し胸を張ったことで服の上からでも分かる大きな胸が良く分かって、ニコリネは羨望の眼差しを胸に向けてしまった。
良いな、私も欲しい。
「リハビリなぁ……仕事が落ち着いたら行くから」
「そう言ってこの間も来なかった」
言い放つヴォイドに、どんどんテオフィルスの旗色が悪くなっていく。しかヴォイドとテオフィルスの話はテオフィルス個人の話なのでニコリネが口を挟むことでもなければ、そんな勇気もない。暇になってしまったニコリネはそういえばイオはどうしているのだろうかと横目で窺った。
イオの鮮やかな青色の目は、ニコリネと同じようにヴォイドの胸に吸い付けられていた。時々、我に返るのか目を逸らして床を見つめているものの、ヴォイドが動いたり喋ったりする度に再び胸に目線が移動している。
――１日にたった１０分でも豊満なおっぱいを見ることで、３０分間エアロビクスを行ったことと同じ効果が期待できます。
以前、電子世界 をネットサーフィンしていた時に見たボーデンリヒトの医療研究チームが発表したとかいう嘘臭い記事を思い出す。
あれの真偽はどうだったのだろう。きっと嘘だろうけど。
そんなくだらないことをボーッと考えてしまったせいでニコリネはイオを凝視してしまっていた。人の視線に敏感なイオがそれに気付かないはずはなく、彼はニコリネにヴォイドの胸を凝視していたことがバレたことを悟って顔を赤くしたり青くしたりする。その様がちょっと面白いな、と失礼なことを思った時だった。
「すみませんでしたすみませんでしたすみませんでした」
立ち上がったイオは口早に謝罪を述べる。
「俺なんかが見ていいものではありませんでした目ぇ合わせたら失礼かと思って視線下げるとそこにあるんだからあるほうが悪いとは思うけどそもそも俺が存在するのが間違いでした」
一息で言い放つイオに３人共驚いた顔を向けるが、人の視線を集めてしまったことで余計に混乱したイオは逃走しようとして何故か出入口ではなく窓へと向かって行く。
「ばっ、馬鹿か早まるな！」
「あああアスキーさんっ、お気を確かに持ってください!!」
窓からアイキャンフライとばかりに飛び立とうとしたイオの身体をギリギリで押さえつけることに成功したテオフィルスと、足に縋り着いたニコリネが説得をする。反応が遅れたヴォイドは良く分からない展開を見つめることしか出来ないが、こういう場合は精神科医のアペルピシアかカウンセラーのクインを連れてきた方が良いのだろうかと悩む。
そんな大騒ぎの休憩所の中を見てしまった戻ってきたミサキは。
絶対零度 の一瞥をすると、馬鹿には付き合っていられないとばかりに何も見なかったことにして汚染駆除 班の部屋へと静かに戻って行ったのだった。
私の場合はクラスの人気者の女の子であったニコレッタと名前が似ていたからということからだった。それと学年でもトップクラスであった成績に対する妬みもあったのかもしれない。
「あの地味子がニコちゃんと同じ愛称とか生意気なんだけど」
「“じゃない方”のニコじゃない？」
「みんな、そんな言い方可哀想だよ。ね、エークルンドさん？」
そう言って私に向けたニコレッタの目は
それでも中学生という多感な時期に受けたそれらは私の人格形成に負の方向で大きく影響した。人の視線が怖い。だから目を見て話せない。自分から誰かに話しかける勇気を失った私は高校も孤独だった。そして、そんな私が明るく元気にハキハキとした人間が重宝される就職活動で勝ち抜けるはずもなく、あっという間に家事手伝いという名のヒキコモリの出来上がりだ。
幸いにも我が家は穀潰しである私がいても生活には困らない程度の水準の家庭であったし、私とは違い元気にすくすくと真っ直ぐに育っている弟がいたのでエークルンドの家の将来は彼に任せればいい。後はこの穀潰しのヒキコモリの将来を考えれば良いだけだ。
そんなことを思っていた矢先の事だった。
ギロク博士が
我が家にも家事手伝いの一体の
正直、ギロク博士がテロを起こして世の中が混乱してくれたのは楽しかった。ミクリカやケンズの人や、その後に起きるようになった
「姉ちゃん」
ある日、大学がリモート授業になって家に居ることの増えた弟が私の部屋を尋ねてきた。
「何？ 急にどうしたの？」
弟のクルトはいわゆる陽キャという生き物であるが、私にとって弟は弟という存在であってクルトとは普通に話すことが出来た。相変わらずのキラキラしい笑顔を向けたクルトは自分の携帯型端末を私に見せつけるようにひらつかせる。
「友達が勤めてるところが求人出してるんだけど姉ちゃん働かない？」
「……お姉ちゃんにも働けるの？」
「色んな人、募集しているらしいから」
クルトの友達が言うなら無茶なものではないのだろう。マグロ漁船に乗せられるとか白い粉を運ばされるとか身体を売らされるとか、そういうことはないはずだ。
そう思いながら端末を受け取って表示されているものを見る。
知らない社名？だ。
「マルフィ結社……？」
「父さんも母さんも賛成してたよ。寮生活が出来るっていうし環境変えたい姉ちゃんにピッタリじゃない？」
なんということでしょう。外堀は先に埋められていたらしい。
「でも……」
外に出るのは怖かった。今の世界ならヒキコモリでも許されると呑気に思っていたのに、急に外に出されそうになってしまうとは。
でも、これは良い機会かもしれない。
将来、弟がお嫁さんを迎えようとした時にヒキコモリの姉なんていたらドン引きされて破談になりかねないのだから、これは一歩踏み出すチャンスなんじゃないだろうか。
「……うん、やってみようかな」
そう言うとクルトの顔が更に輝いた。我が弟ながら眩しすぎて直視できない。
「じゃあ、まずは俺が連絡してみるね」
端末を私から取り返した弟は上機嫌にメッセージを打ち出す。
さすが、陽キャ。
「そういえば高校の友達って、私も知ってる人……？」
メッセージの送信者の名前を見なかったのでクルトに問い掛けると、クルトは画面から目を離さず手を動かしたまま答えを返してきた。
「タイガだよ、タイガ・ヴァテール。ほら、陽キャの」
「クルトも立派な陽キャだけどね」
「えー。俺なんかよりタイガの方が陽キャじゃん」
お姉ちゃんからすれば、どっちも十分すぎる陽キャだ。
タイガ君は小学校からクルトと友達の子で我が家によく遊びに来ていたので面識がある。そこまで深い知り合いではないが、全く知らない人しかいない場所で働かないといけない訳じゃないというのは心強い。
それに、あの能天気そうだったタイガ君が働ける場所なら私も働ける気がする。多分。
* * *
いや、やっぱり無理でした帰らせてくださいごめんなさい。
ニコリネは気配を消して壁の染みにでもなった気分になりながらディスプレイを凝視してキーボードに置いた指を動かしていた。
プログラミングが出来るということでニコリネが配属された
二人と親交もなく割って入る勇気なんて当然ないニコリネは現実から逃亡するようにディスプレイを見つめていた。それでも耳に入ってくるものを遮断することは出来ないから、結局はそちらへとついつい目が行ってしまう。
イオ・アスキーはどことなくニコリネが親近感を抱く人物だった。他人を避けるような態度、それでいて他人が気になって勝手に恐怖や嫉妬や敗北感を抱いて卑屈になって攻撃的になってしまう性格。
そして、それを助長させる存在ともいえるのが今、対峙しているミサキだ。
初めて見た時から若いだろうとは思っていたが何と
神様が「天才」というものを具現化したらミサキが出来ました。そう言っても過言ではないような彼女を見ていると、イオ程ではないがニコリネも様々な負の感情を抱いてしまうので彼の気持ちは分からないでは無い。
「イオさん、落ち着きましょう」
黒マスクが特徴的なエフゲーニがイオを宥めている隙に、ミサキは何も言わず部屋を出て行こうと扉へと向かっていた。あんな若い子が面と向かって男の人に怒鳴られていたのだ。きっと泣いてしまうに違いないと思ったニコリネは、そっと席を立ってミサキの後を追う。
追おうと思って席を立ったニコリネだが、廊下を歩くミサキの背中に何と言って呼び止めたらいいのか悩んだ。やはりここは普通に「ケルンティアさん」で良いのだろうか。それとも親しみをもって「ミサキちゃん」？ いや、話した事もないのに急にそれは馴れ馴れしすぎるか。
「何？」
「ひゃい!?」
後を付けている形になったニコリネの足音で気づいたらしく振り返ったミサキが睨んでいた。１０歳近く歳の離れた背の小さな子に睨まれているのに物凄い恐怖を感じてしまうのはミサキの持つオーラの強さだろうか。思わず２、３歩後退してしまう。
「いえ、その、えっと……」
泣くために外に出たかと思っていたがミサキは決してそんなつもりはなかったようだ。その証拠に彼女の氷河の氷を切り取って嵌めたような目には静かに怒りの炎が浮かんでいる。
「怒りの対象を視界から消せば怒りは消える。アンガーマネジメントの基本」
「あっ、はい……」
唐突に言われた言葉に思わず頷くとミサキは踵を返して再び歩いて行ってしまう。
要するにイオの視界から
それと同時に羨ましいという気持ちがニコリネの中に湧いてくる。
自分が１４歳の時にミサキ並みの知識があれば、ニコレッタを上手く対処することが出来て自分はもっと輝く人間になれたのではないかと思ってしまうからだ。残念ながら、凡人の自分には説明したところで無理だったろうけども。
「ミサキちゃん、どっか行っちゃった？」
「ひゃい!?」
ボーッと突っ立っていたら後ろから声がかかり、ニコリネは本日２回目の変な返事をしつつ振り向く。ニコリネに声をかけてきたのは砂色の変な髪型の男――同じ
「あ、えっと……そう、ですね……」
「まぁ、ミサキちゃんのことだからそのうち帰ってくるか。ニコリネちゃんも戻ろうぜ」
「は、はい……ごめんなさい」
「ニコリネちゃんが謝ること無くね？」
「ご、ごめんなさい……」
癖のように謝ってしまうニコリネの様子にテオフィルスが噴き出すように笑い「悪い、悪い」と頭をポンポンと軽く撫でるように触られる。
ゴミのような存在の私に触るなんて凄い人だなぁ。
そんなことを思いながら大人しく頭を撫でられてニコリネはテオフィルスと共に
「イオ」
テオフィルスも驚いたような顔をして、そこにいた人物の名を呼ぶ。
「エフに落ち着いて来いと追い出された。そうだよな、壁際の埃如きが騒いでいたら邪魔だよな……空気が汚れるよな……俺なんて死んだ方が……」
先程までのミサキへと突っかかっていた勢いはどこへ行ってしまったのかと問い掛けたくなる程に牙を抜かれた獣のようになっているイオが廊下に立っており自嘲めいた笑みを浮かべて呟く。それはニコリネとテオフィルスに言っているというよりは独り言のような弱々しさだった。
この人を放っておいてはいけない。
それは、ニコリネとテオフィルスの考えが一致した瞬間だった。
* * *
休憩所にコーヒーの香りが漂う。
テオフィルスに買って貰ってしまったコーヒーを啜りながらニコリネは横目でイオの様子を窺っていた。イオは自分で買った砂糖とミルクの入ったコーヒーを飲みながら黙っているだけであるし、テオフィルスも特に彼に何か話す訳でなくニコリネに買ったものと同じコーヒーを飲んでいるだけだ。
要するに沈黙が重い。
しかし、ニコリネはそれを打破できるような話題が提供できる人間ではない。
どうしようかとニコリネが悶々としていると口を開いたのはやはりというかテオフィルスだった。
「イオ。ミサキちゃんは若くて可愛いか弱い女の子なんだから、あの言い方はないだろ？」
真面目な顔で言い放つテオフィルスに、ニコリネは先程ミサキに睨まれたことを思い出して内心では首を傾げる。ミサキに対して“若くて可愛い”は同意できるが“か弱い”は当てはまらないような気がするのだが、テオフィルスには何か違うものが見えているのだろうか。
テオフィルスの言葉にイオは何も答えない。折角、テオフィルスが話しかけたのだから喋ってくれれば良いのにと思うものの、恐らくはイオの心の中では凄まじい勢いで言葉が溢れているのだろうなぁと親近感から分かるニコリネは何も言わずに２人を見つめていた。
しかしイオが口を開かないので結局は話が進まず、重い雰囲気は消えない。
「テオ、いた」
そんな空気を吹き飛ばすように現れたのは瑠璃色のスクラブに白衣を纏った女性だった。彼女は怒ったような表情を浮かべて、ツカツカとテオフィルスに近づいて行く。
「ヴォイド。どうした？」
「どうした、じゃない。全然リハビリ来ないから呼びに来た」
初めて会った時からテオフィルスの歩き方が少し可笑しいとは思っていたが、リハビリという事は見た目には分からないが脚を悪くしているのだろうか。テオフィルスの足の事情を知らないニコリネはそんなことを思う。
テオフィルスにヴォイドと呼ばれた女性は彼の前に立つと怒りを表すように腰に手をあてる。少し胸を張ったことで服の上からでも分かる大きな胸が良く分かって、ニコリネは羨望の眼差しを胸に向けてしまった。
良いな、私も欲しい。
「リハビリなぁ……仕事が落ち着いたら行くから」
「そう言ってこの間も来なかった」
言い放つヴォイドに、どんどんテオフィルスの旗色が悪くなっていく。しかヴォイドとテオフィルスの話はテオフィルス個人の話なのでニコリネが口を挟むことでもなければ、そんな勇気もない。暇になってしまったニコリネはそういえばイオはどうしているのだろうかと横目で窺った。
イオの鮮やかな青色の目は、ニコリネと同じようにヴォイドの胸に吸い付けられていた。時々、我に返るのか目を逸らして床を見つめているものの、ヴォイドが動いたり喋ったりする度に再び胸に目線が移動している。
――１日にたった１０分でも豊満なおっぱいを見ることで、３０分間エアロビクスを行ったことと同じ効果が期待できます。
以前、
あれの真偽はどうだったのだろう。きっと嘘だろうけど。
そんなくだらないことをボーッと考えてしまったせいでニコリネはイオを凝視してしまっていた。人の視線に敏感なイオがそれに気付かないはずはなく、彼はニコリネにヴォイドの胸を凝視していたことがバレたことを悟って顔を赤くしたり青くしたりする。その様がちょっと面白いな、と失礼なことを思った時だった。
「すみませんでしたすみませんでしたすみませんでした」
立ち上がったイオは口早に謝罪を述べる。
「俺なんかが見ていいものではありませんでした目ぇ合わせたら失礼かと思って視線下げるとそこにあるんだからあるほうが悪いとは思うけどそもそも俺が存在するのが間違いでした」
一息で言い放つイオに３人共驚いた顔を向けるが、人の視線を集めてしまったことで余計に混乱したイオは逃走しようとして何故か出入口ではなく窓へと向かって行く。
「ばっ、馬鹿か早まるな！」
「あああアスキーさんっ、お気を確かに持ってください!!」
窓からアイキャンフライとばかりに飛び立とうとしたイオの身体をギリギリで押さえつけることに成功したテオフィルスと、足に縋り着いたニコリネが説得をする。反応が遅れたヴォイドは良く分からない展開を見つめることしか出来ないが、こういう場合は精神科医のアペルピシアかカウンセラーのクインを連れてきた方が良いのだろうかと悩む。
そんな大騒ぎの休憩所の中を見てしまった戻ってきたミサキは。
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