相思相愛薔薇の花ーー花弁の色／燐花
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rinka_creation 2021年04月13日(火) 20:32:24履歴
目蓋の裏 あなただけ 
ここ最近で一番幸せかもしれない。そんな顔でネビロスはその日一日仕事をしていた。
意外と目敏いヴォイドからの「うわぁ、何浮かれた顔してんだろ」と言う視線には気付かないフリをして、少なくとも今日は処置の時いつもより怖がられない顔になっていた様だから、それで良しとする。
就業後、一言挨拶をして外に出る。何だか今日は疲れた。主にヴォイドの視線がやたらと刺さって。思うに彼女、変なところに目敏いんだ。ミアの事を大事に思っているのは有り難いが、彼女の向ける警戒の視線は主にロードを筆頭に何故か自分にも向いている。以前ヴォイドはボソッと言った。「何か…ネビロスとロードって似てるよね」と。どこが？と聞きたい様な聞きたくない様な。
しかしそんなネビロスに遠慮など一切ないヴォイド本人が言うには、子供好きなところや雰囲気やら色々だと言っていたが最後に彼が少しどきりとする一言を呟いた。
『スイッチ入ると歯止め効かなそうなところとか似てそう』
ネビロスは愛の日の前、ミアを抱き締めた事を思い出す。あの時も確かに歯止めが効かなかった結果彼女に触れた。ミア本人があれをどう捉えているかはさておき、自分にその自覚があの瞬間確かにあったのだ。泣いて縋って来たミア。彼女の姿があまりにも愛おしくて。
早くいつもみたく笑って欲しかった。
だから、体が咄嗟に動いた。
彼女は『自分が』ぎゅっとしてても良いかとは聞いて来た。『自分を』ぎゅっとしててくれとは言っていない。あの時ばかりは少し焦ったが、その後無事彼女に笑顔が戻ったし想いも伝えられたし良しとする。でも、伝わったら伝わったで、また別の不安がネビロスの頭を過った。
（軽く…十歳超えるとか考える事も大分違うんだろうな…）
三、四歳差くらいからカルチャーショックも軽くあったりすると聞くのに十歳以上ともなるともう大分見て来たものが異なる。自分が二十歳手前の時にやっと学校に行ったかどうかくらいだったのだと思うとちょっとした罪悪感すら感じてしまう。そもそもとして、ミアは照れてはいたが決定的な事を自分に言っていない。
「ネビロスが好き」だと彼女は言っていないのだ。
浮かれてばかりも居られない状況だとふと思い出してネビロスの顔が暗くなる。いっそ、ミアに電話でも掛けて聞いてしまおうか。そう思ったその時、後ろから控えめに声を掛けられた。
「あ、あの…」
「…はい？」
それは、愛の日に自分にお菓子を渡してくれた女性の内の一人だった。気付くまでに時間が掛かり思わず返事がフワフワしてしまうネビロス。女性は気にせず彼に恥ずかしそうに微笑んだ。
「先日は…受け取ってくれてありがとうございました」
「こちらこそ。わざわざありがとうございます」
「それでその…もしこの後お時間あったら…少しお話させてもらっても良いですか…？」
赤い顔で、潤んだ目で見上げて来る女性。ふとミアの顔と重なりネビロスはふっと頬を緩める。何だか急にミアに会いたくなってしまった。彼女は今日休みだと言うのに。
「…申し訳ないのですが、この後予定がありまして…」
本当は予定なんて入っていない。「ミアに早く会いたいから早く寝てしまおう」。そう思っただけである。しかし、ネビロスの返事を聞いた女性が想像したよりうんと顔を暗くしてしまったのでネビロスは急な事に酷く焦った。
「予定って…か、彼女さんとかですか…？」
だとしたらどんなに嬉しいか。違うから少し焦っているのだが。
「いいえ…そう言うわけでは…」
「本当に本当に、ほんの少しだけで良いからお話させて欲しいんです…駄目ですか…？」
泣きそうな顔でネビロスを見る。その様子にネビロスはつい負けてしまった。
「ほんの少しだけなら…」
ミアに連絡しようと取り出していた端末をポケットに仕舞い直し、そして彼女に誘われるまま近くの休憩所に移動する。彼女は尚も赤い顔のままネビロスを見た。
ネビロスはボーッと窓から外を眺める。昨日初めて見た顔。ルミエルの事、おそらく驚いただろうに。あんなに嬉しい事を言ってくれるのだから。しかし、それと自分と交際するか否かと言うのはまた別の話なのか…？そんな事を考えて、ネビロスは先程から自分が何度も呼ばれている事にようやく気が付いた。
「あの…」
「あ、すみません。呆けてしまって…」
「…やっぱり、ご予定あるみたいだし…すみません、呼び止めてしまって…」
呆気なく解放されたネビロス。彼女に会釈するとやれやれと思いながら自室に戻る為足を出す。今度こそ、ミアに連絡をしてみようか。ポケットに入れた端末に手を伸ばそうとした瞬間、トンっと音がしてネビロスは背中に温かいものを感じた。
「…好きなんです…急に何だって思うかもしれないけど…私、ファウストさんが好きなんですっ！」
それが、女性が自分の背中に抱き着いたから感じた温もりだと気付くのにネビロスは彼にしては随分な時間を要した。
参ったな。彼女の雰囲気から気付いても良かったのに。気付かなかった上言わせてしまった。そして今、自分はそんな彼女に無慈悲にも断りを告げなければならない。
「…私は…」
「いきなりだって言うのも分かってます…！話した事無いのにって…！でも私、一回怪我して医療班にお世話になった時に貴方を見掛けて…それからずっとずっと好きでした！」
私とお付き合いして欲しいんです。そう言う彼女を見て、ネビロスの頭を占めたのは「これを言ってくれたのがミアだったなら」と「もしもミアが知らない男からこんな風に告白されたと知ったら酷く嫉妬するだろうな」と言う事だった。
ネビロスは彼女と向き合うとそっと肩に手を添え、自分と距離を空けさせた。
「…お気持ちは嬉しいです…本当に、大変申し訳ないのですが…」
言い終わる前に彼女が「聞きたくない」と言わんばかりに距離を詰めようとする。が、そこは格闘技経験者とでも言うのか、反射神経の良さが勝り咄嗟に彼女の肩に添えた手に力を込め、距離を保った。
「ファウストさん…」
「…すみません…」
「どうしても…ですか…？」
「ごめんなさい…私も、好きな人がいるんです…だから、貴女の気持ちには応えられません…」
しっかりと、はっきりとそう言い切る。だが、尚も彼女は諦めない。
「…私、二番目でも良いんです…」
「……は…？」
「二番目でも良いんです…！」
まさか食い下がられると思わずネビロスは呆気に取られた。同時に、昨日「今生きてる人の中で一番になりたいです」と言ってくれたミアの事を思い出す。目の前の彼女には悪いが、会いたくなってしまっている。ミアの顔が見たくなってしまっている。
「あの…私は二番なんて求めていません…。複数の人と話が出来るほど器用な人間ではありませんし、今一番好きな人が知ったら傷付く様な事、したくないんです。ごめんなさい」
貴女もそんな事軽く口にせず、自分を大事にして。そうは言ったものの、彼女は泣き出してしまい、結局ネビロスはしばらくその場から離れられずに居た。
彼女の肩に手を添え、力を少しだけ入れる。非道だとは思うが、間違ってもこれ以上距離を詰めて更に離れ難いと思われても経験の少ないネビロスは困ってしまうからだ。これが経験の多い人間なら、もっとスマートに、もっと傷付けない言い方も知っているのかもしれない。少なくとも、あまり人と関わらない生活を送って来たネビロスにはこれが本当に限界だったし他に言い方が分からなかった。
口ではそう言いつつも様子が心配で彼女から離れられない自分。そんな自分にもやきもきした。それが彼女の未練を加速させていると言う事に気付いて漸く離れた事で、やっと長い長い時間が終わりを告げたのだった。
その後夕飯を食べに食堂に向かったが、正直何をどう食べたか、どんな味がしたかよく覚えていない。先程の彼女が早く吹っ切れてくれる事を心配したが、同時にまだミアから好きだと言われていない自分にもまた危機感を感じてしまった。
どっと疲れてしまったネビロスは、珍しく部屋でうとうとする。いつもならシャワーも済まし、とっくに「お茶のお供にプティ・フール」でも読んで次何を作ろうか等と考えていたりするものだが、今日は後手後手に回っている。
駄目だ。早くシャワーくらい浴びよう。
乱雑に纏めていた髪を解き、シャツを脱ぐ。少しだらしないと思いつつ脱いだシャツが床に落ちるのを見届ける。ズボンに手を掛けボタンを外した時、携帯型端末に着信が入った。何だと思いながら画面を覗いたネビロスは目を丸くする。画面に映し出されたのはミアの名前だったのだ。
「ミア？どうしました？」
慌てて通話ボタンを押すと、ホッとしたミアの声。そして彼女の口からまさかの『今、ネビロスさんの寮の下にいるんです』と言う言葉。
時間はもう九時過ぎ。まさか一人で女子寮からここまで歩いて来たのだろうか。
「入口の所にいるんですね？ 」
『はい。ちょっとだけ、会って話したいことがあって……』
ネビロスは慌てて新しいシャツを出し、咄嗟に着るとズボンを履き直す。
「そこから動かないで下さい」
『はい？』
「良いですね？」
『はい！』
ついつい有無を言わさぬ物言いで言ってしまう。ネビロスは通話状態のまま足を早めた。やっとミアの姿を目に入れた時、ネビロスはやっと少し安心できた。
「こ、こんばんは」
彼女の挨拶に返してはみるものの、おそらく自分の表情は硬いだろうとネビロスは思った。
「どうやってここまで来たのですか？」
「えっと、それは勿論歩いてですけど……」
「夜道は何があるか分からないのですから危ないでしょう？」
「スレイマン先生に会ったので一緒に来たから危なくないです！」
スレイマン。自分の主治医にもなってくれているアペルピシアの恋人で、自分も無茶をして迷惑を掛ける事もしばしばある、職場の同僚にして恩人でもあるのだがそれとこれとはまた別の話だ。恋人が居て危険度は自分の知りうる限り一番低い人間とは言え、彼も男だ。こんな時間に男と二人と聞いて胸中穏やかになれないのは致し方ない事ではある。
思わず呆れたようにネビロスは溜め息をつく。
「此処では何ですし、行きますよ」
ネビロスらしからぬ、いつも気を付けているのに自然に、しかし強引に彼女の肩を抱いた。ミアは少しぽーっとしている気がするが、これはエスコートというより連行に近かった。
意外と目敏いヴォイドからの「うわぁ、何浮かれた顔してんだろ」と言う視線には気付かないフリをして、少なくとも今日は処置の時いつもより怖がられない顔になっていた様だから、それで良しとする。
就業後、一言挨拶をして外に出る。何だか今日は疲れた。主にヴォイドの視線がやたらと刺さって。思うに彼女、変なところに目敏いんだ。ミアの事を大事に思っているのは有り難いが、彼女の向ける警戒の視線は主にロードを筆頭に何故か自分にも向いている。以前ヴォイドはボソッと言った。「何か…ネビロスとロードって似てるよね」と。どこが？と聞きたい様な聞きたくない様な。
しかしそんなネビロスに遠慮など一切ないヴォイド本人が言うには、子供好きなところや雰囲気やら色々だと言っていたが最後に彼が少しどきりとする一言を呟いた。
『スイッチ入ると歯止め効かなそうなところとか似てそう』
ネビロスは愛の日の前、ミアを抱き締めた事を思い出す。あの時も確かに歯止めが効かなかった結果彼女に触れた。ミア本人があれをどう捉えているかはさておき、自分にその自覚があの瞬間確かにあったのだ。泣いて縋って来たミア。彼女の姿があまりにも愛おしくて。
早くいつもみたく笑って欲しかった。
だから、体が咄嗟に動いた。
彼女は『自分が』ぎゅっとしてても良いかとは聞いて来た。『自分を』ぎゅっとしててくれとは言っていない。あの時ばかりは少し焦ったが、その後無事彼女に笑顔が戻ったし想いも伝えられたし良しとする。でも、伝わったら伝わったで、また別の不安がネビロスの頭を過った。
（軽く…十歳超えるとか考える事も大分違うんだろうな…）
三、四歳差くらいからカルチャーショックも軽くあったりすると聞くのに十歳以上ともなるともう大分見て来たものが異なる。自分が二十歳手前の時にやっと学校に行ったかどうかくらいだったのだと思うとちょっとした罪悪感すら感じてしまう。そもそもとして、ミアは照れてはいたが決定的な事を自分に言っていない。
「ネビロスが好き」だと彼女は言っていないのだ。
浮かれてばかりも居られない状況だとふと思い出してネビロスの顔が暗くなる。いっそ、ミアに電話でも掛けて聞いてしまおうか。そう思ったその時、後ろから控えめに声を掛けられた。
「あ、あの…」
「…はい？」
それは、愛の日に自分にお菓子を渡してくれた女性の内の一人だった。気付くまでに時間が掛かり思わず返事がフワフワしてしまうネビロス。女性は気にせず彼に恥ずかしそうに微笑んだ。
「先日は…受け取ってくれてありがとうございました」
「こちらこそ。わざわざありがとうございます」
「それでその…もしこの後お時間あったら…少しお話させてもらっても良いですか…？」
赤い顔で、潤んだ目で見上げて来る女性。ふとミアの顔と重なりネビロスはふっと頬を緩める。何だか急にミアに会いたくなってしまった。彼女は今日休みだと言うのに。
「…申し訳ないのですが、この後予定がありまして…」
本当は予定なんて入っていない。「ミアに早く会いたいから早く寝てしまおう」。そう思っただけである。しかし、ネビロスの返事を聞いた女性が想像したよりうんと顔を暗くしてしまったのでネビロスは急な事に酷く焦った。
「予定って…か、彼女さんとかですか…？」
だとしたらどんなに嬉しいか。違うから少し焦っているのだが。
「いいえ…そう言うわけでは…」
「本当に本当に、ほんの少しだけで良いからお話させて欲しいんです…駄目ですか…？」
泣きそうな顔でネビロスを見る。その様子にネビロスはつい負けてしまった。
「ほんの少しだけなら…」
ミアに連絡しようと取り出していた端末をポケットに仕舞い直し、そして彼女に誘われるまま近くの休憩所に移動する。彼女は尚も赤い顔のままネビロスを見た。
ネビロスはボーッと窓から外を眺める。昨日初めて見た顔。ルミエルの事、おそらく驚いただろうに。あんなに嬉しい事を言ってくれるのだから。しかし、それと自分と交際するか否かと言うのはまた別の話なのか…？そんな事を考えて、ネビロスは先程から自分が何度も呼ばれている事にようやく気が付いた。
「あの…」
「あ、すみません。呆けてしまって…」
「…やっぱり、ご予定あるみたいだし…すみません、呼び止めてしまって…」
呆気なく解放されたネビロス。彼女に会釈するとやれやれと思いながら自室に戻る為足を出す。今度こそ、ミアに連絡をしてみようか。ポケットに入れた端末に手を伸ばそうとした瞬間、トンっと音がしてネビロスは背中に温かいものを感じた。
「…好きなんです…急に何だって思うかもしれないけど…私、ファウストさんが好きなんですっ！」
それが、女性が自分の背中に抱き着いたから感じた温もりだと気付くのにネビロスは彼にしては随分な時間を要した。
参ったな。彼女の雰囲気から気付いても良かったのに。気付かなかった上言わせてしまった。そして今、自分はそんな彼女に無慈悲にも断りを告げなければならない。
「…私は…」
「いきなりだって言うのも分かってます…！話した事無いのにって…！でも私、一回怪我して医療班にお世話になった時に貴方を見掛けて…それからずっとずっと好きでした！」
私とお付き合いして欲しいんです。そう言う彼女を見て、ネビロスの頭を占めたのは「これを言ってくれたのがミアだったなら」と「もしもミアが知らない男からこんな風に告白されたと知ったら酷く嫉妬するだろうな」と言う事だった。
ネビロスは彼女と向き合うとそっと肩に手を添え、自分と距離を空けさせた。
「…お気持ちは嬉しいです…本当に、大変申し訳ないのですが…」
言い終わる前に彼女が「聞きたくない」と言わんばかりに距離を詰めようとする。が、そこは格闘技経験者とでも言うのか、反射神経の良さが勝り咄嗟に彼女の肩に添えた手に力を込め、距離を保った。
「ファウストさん…」
「…すみません…」
「どうしても…ですか…？」
「ごめんなさい…私も、好きな人がいるんです…だから、貴女の気持ちには応えられません…」
しっかりと、はっきりとそう言い切る。だが、尚も彼女は諦めない。
「…私、二番目でも良いんです…」
「……は…？」
「二番目でも良いんです…！」
まさか食い下がられると思わずネビロスは呆気に取られた。同時に、昨日「今生きてる人の中で一番になりたいです」と言ってくれたミアの事を思い出す。目の前の彼女には悪いが、会いたくなってしまっている。ミアの顔が見たくなってしまっている。
「あの…私は二番なんて求めていません…。複数の人と話が出来るほど器用な人間ではありませんし、今一番好きな人が知ったら傷付く様な事、したくないんです。ごめんなさい」
貴女もそんな事軽く口にせず、自分を大事にして。そうは言ったものの、彼女は泣き出してしまい、結局ネビロスはしばらくその場から離れられずに居た。
彼女の肩に手を添え、力を少しだけ入れる。非道だとは思うが、間違ってもこれ以上距離を詰めて更に離れ難いと思われても経験の少ないネビロスは困ってしまうからだ。これが経験の多い人間なら、もっとスマートに、もっと傷付けない言い方も知っているのかもしれない。少なくとも、あまり人と関わらない生活を送って来たネビロスにはこれが本当に限界だったし他に言い方が分からなかった。
口ではそう言いつつも様子が心配で彼女から離れられない自分。そんな自分にもやきもきした。それが彼女の未練を加速させていると言う事に気付いて漸く離れた事で、やっと長い長い時間が終わりを告げたのだった。
その後夕飯を食べに食堂に向かったが、正直何をどう食べたか、どんな味がしたかよく覚えていない。先程の彼女が早く吹っ切れてくれる事を心配したが、同時にまだミアから好きだと言われていない自分にもまた危機感を感じてしまった。
どっと疲れてしまったネビロスは、珍しく部屋でうとうとする。いつもならシャワーも済まし、とっくに「お茶のお供にプティ・フール」でも読んで次何を作ろうか等と考えていたりするものだが、今日は後手後手に回っている。
駄目だ。早くシャワーくらい浴びよう。
乱雑に纏めていた髪を解き、シャツを脱ぐ。少しだらしないと思いつつ脱いだシャツが床に落ちるのを見届ける。ズボンに手を掛けボタンを外した時、携帯型端末に着信が入った。何だと思いながら画面を覗いたネビロスは目を丸くする。画面に映し出されたのはミアの名前だったのだ。
「ミア？どうしました？」
慌てて通話ボタンを押すと、ホッとしたミアの声。そして彼女の口からまさかの『今、ネビロスさんの寮の下にいるんです』と言う言葉。
時間はもう九時過ぎ。まさか一人で女子寮からここまで歩いて来たのだろうか。
「入口の所にいるんですね？ 」
『はい。ちょっとだけ、会って話したいことがあって……』
ネビロスは慌てて新しいシャツを出し、咄嗟に着るとズボンを履き直す。
「そこから動かないで下さい」
『はい？』
「良いですね？」
『はい！』
ついつい有無を言わさぬ物言いで言ってしまう。ネビロスは通話状態のまま足を早めた。やっとミアの姿を目に入れた時、ネビロスはやっと少し安心できた。
「こ、こんばんは」
彼女の挨拶に返してはみるものの、おそらく自分の表情は硬いだろうとネビロスは思った。
「どうやってここまで来たのですか？」
「えっと、それは勿論歩いてですけど……」
「夜道は何があるか分からないのですから危ないでしょう？」
「スレイマン先生に会ったので一緒に来たから危なくないです！」
スレイマン。自分の主治医にもなってくれているアペルピシアの恋人で、自分も無茶をして迷惑を掛ける事もしばしばある、職場の同僚にして恩人でもあるのだがそれとこれとはまた別の話だ。恋人が居て危険度は自分の知りうる限り一番低い人間とは言え、彼も男だ。こんな時間に男と二人と聞いて胸中穏やかになれないのは致し方ない事ではある。
思わず呆れたようにネビロスは溜め息をつく。
「此処では何ですし、行きますよ」
ネビロスらしからぬ、いつも気を付けているのに自然に、しかし強引に彼女の肩を抱いた。ミアは少しぽーっとしている気がするが、これはエスコートというより連行に近かった。
苦しかったら 言って？…でも止めない
「ミア、昨日と同じ様にベッドに座ってください」
部屋に着くやネビロスはミアをベッドに促す。彼女が座ったのを確認すると、自分も隣に座る。昨日と状況は全く同じなのに心臓の高鳴りが別物に感じるのは、ミアが一人で来て今無事隣にいるからだ。機械人形によるテロもさる事ながら、少し隙があると言うか付け入られやすい彼女に悪い虫が付かないか。
今日他班の女性にあろう事か告白された自分を思い出してネビロスは心底青い顔をする。ミアもそれに気付いたのか少しだけしょんぼりした。
「ごめんなさい……心配かけちゃいましたね」
とは言えそれは自分の事情であり彼女をこれ以上責めるわけにいかず、それよりも何も無かった事を喜ばねばとネビロスは一つ溜め息をついた。
「次からは迎えに行きますから、連絡をしてください」
何気なく言った言葉。勿論本心から出た言葉だが、予想外に呆けた顔を見せるミアにネビロスは怪訝な表情を浮かべた。
「どうしましたか？」
「ええっと……次があるんだ、って思って驚いてました」
えへへ、と笑うミア。急に彼女が可愛い事を言うものだから思わずニヤけるのを隠す様に目を細めるネビロス。しかし隠し切れるものではなく、唇の端が上がってしまい楽しそうな表情はすぐにミアにバレてしまった。先程までの心配と打って変わって悪戯心に火の点いたネビロス。ミアの耳に極力唇を近付けると敢えて甘い声音で「昨夜のことは忘れてしまいましたか？」と囁いてみる。
「忘れてなんかいません！！」と慌てるミア。ネビロスの方にぐりんと顔を向け、そして予想外に近い彼の顔に驚き大慌てで仰け反る。慣れておらずわたわたと動くミアがネビロスには可愛くて可愛くて仕方なかった。
ミアは少し頬を膨らませると、少し不貞腐れる様に口を開く。
「何か……私ばっかりドキドキしてます。ネビロスさんばっかり大人でズルいです」
ずっと気にしていた事──であった。どうしたって埋まらない年齢の隔たり。これから同じものを見ていけば良いのだろうが、今十八歳のミアと二十九歳の自分。実際のところ、自分はミアよりずっと大人だ。思わずそれを口に出す。あまりに素っ気なさすぎて突き放す様に聞こえたかもしれない。少し心配してミアの方を見ると、ミアはネビロスの心配をよそに真面目な顔を見せた後、少し微笑んだ。
「私はネビロスさんが何歳上でも気にしないですよ？」
あまりにあっさりとそう言う。嬉しい筈なのに、心配からかネビロスの中で育って欲しくない反発心が膨らむ。
「そう言いきれますか？ 私の方が先におじさんになってお爺さんになってしまいますよ？」
言ってネビロスはそんな先の姿を想像してみる。自分…はともかく、ミアはほんわかとした可愛らしい歳の取り方をしそうだ。むしろミアみたいなタイプは、四、五十代くらいまでほぼほぼ印象が変わらない…六、七十代になって流石に世間的にも老人と言われる年齢になっていきなり「お婆ちゃんになったね」と思われる様な見た目の印象が変わらないタイプじゃなかろうか。
そんな事を考えていたら、意を決した様なミアと目が合った。
「ネビロスさんは素敵に歳を重ねそうだから大丈夫です！それにたとえ頭髪が寂しくなっても、お腹がタヌキみたいになってもそれはそれで可愛い気がします！だから、私はネビロスさんとずっと一緒にいたいです」
ミアが何か言いたげに息を大きく吸う。何となく先の言葉を期待したネビロスにとってはそれは永遠の時間に感じた。
「私と付き合って下さい！」
あの恥ずかしがり屋なミアの口から出た言葉にネビロスは驚いて目を丸くする。更に続け様に「私、ネビロスさんの彼女になりたいんです」なんて言うものだから、ネビロスは相反する二つの感情に瞬く間に圧し潰されそうになる。今日一日ずっと聞きたかった言葉。だがしかし、求めると同時に「本当に自分で良いのか」と後ろ向きに考えてしまうそんな言葉。もっと、もっと欲しい。自分を安心させて欲しい。そんな事、こんな若く小さな女の子の肩に担がせてはいけないが、どうしても一度受け入れられるともっともっとと欲しくなってしまう。
その体に身を預けてしまいそうになる。
「ミア。私は過去に妻がいた身ですよ？」
意地の悪い言い方だと思う。自分から全て明かしておいて、そして好きだと言っておいて。いざ彼女にそう言われると「自分で良いのか？」と言わんばかりに引き摺っている思いをチラつかせる。しかしネビロスの予想に反してミアは、とても元気良く「はい！ ルミエルさんですよね？ 昨日教えてもらったから、しっかり覚えてます！」と口にした。
違う、そうじゃない。何だか想像していた反応と違う。ミアらしいと言えばらしいのだが。
「年齢だって……」
ダメ押しの様に口から出る言葉。しかし、ミアは先程恥ずかしがって逃げてしまったのに、今はしっかりと顔を近付けて言った。自分の両親の歳の差は十五歳で、ならば自分達の方が近いのだと。一瞬出た家族の名前にネビロスは愛の日前のミアの取り乱しぶりを思い出して少しどきりとするのだが、幸いにも両親の歳の差の話は彼女の悲しみのトリガーにはならなかった様だ。
だとすると、自分の答えは一つだ。一つだけの筈なのに。おかしなものだ。今日あんなにミアに会いたくて会いたくてその言葉を言って欲しくて、いっそ電話でも掛けて聞いてしまおうかと思っていたのに、いざ彼女に口に出して言ってもらうと、先程から嬉しさでか本心と違う言葉ばかり浮かんできてしまう。
何度も口から自分を否定する言葉が出掛かっては飲み込んで、漸く深く息を吸い込んで意を決すると、ネビロスはミアを見た。
「本当に良いんですか？」
「はい、もちろん！」
本当に何の躊躇いもなく言うものだから、愛おしくて愛おしくてネビロスはミアを抱き締めた。腕の中に在るその温かさを感じながら静かに目を伏せる。愛する人が傍に居てくれる喜びをまた感じる事が出来るとは思わなかった。しかもこんなに歳の離れた子に。不意に目が合ったので少し微笑む。
「こいびと、ですね」
自分とネビロスを交互に指差してミアも同じように笑う。確りと頷くと、目線の先にチェーンが見えた。ネビロスはわざとミアの首筋をくすぐる様に指でなぞると、服の中に隠れていたペンダントトップを外へ引き出す。
「付けていてくれたんですね」
「出来たら仕事中にも付けていたいなって思ってます。あ、もちろん危なくないように服の下にしまっておきます！」
チェーンを長くつければ服の下につけておいても、よっぽど前屈みにならなければ勝手に飛び出してくることはなさそうだ。つまり、このペンダントトップ、ミアが自分から見せる以外で気付いた者が居たとしたらそれは彼女が前に屈んだその中を覗こうとした不届き者と言う訳で…。
「……ミアは薔薇の意味を知っていますか？」
不意に口にした言葉にミアは小首を傾げる。
「全般的には『愛』と『美』です……？」
ミアが答えたのは、一般的に花言葉として知られている方だ。うん、やはりそう答えるよなぁ、と思いつつネビロスは真剣そのものと言う顔でミアを見た。
「薔薇には棘がありますね？」
「はい」
「その為、薔薇のモチーフには『魔除け』の効果があるんです」
「魔除け？」
「そうです。ミアに悪い虫が付かないように魔除けです」
「私、虫は苦手です」
「そんなミアに御守りですよ」
当然の如く、ネビロスの言う「悪い虫」とは「下心を持った人間の男」である。ミアが思い浮かべているアブラムシやカメムシ等では無い。しかし、上手い事噛み合っていない二人の会話は良い感じに続く。
「これから暖かくなると虫が増えますもんね！ ありがとうございます」
「ええ、気候に併せて浮かれた輩が増えると良くないですから」
互いに至極真剣な会話を交わした後、先にその恋人らしい話題を振ったのはミアだった。
「ねぇ、ネビロスさん。今度、お休みが一緒の時に……デートしたいです」
今朝テレビで美味しそうな名前のアロマ屋さんが紹介されていて…と、ちょっとよく分からない説明をされたがせっかくのミアからのデートのお誘い、頭の中でスケジュールを思い返し暖かくなってからか…？と柄にも無く少しワクワクした。
「ええ。行きましょう」
「ありがとうございます！」
まさか返されるのが満面の笑みとハグとは予想しておらず。恋人同士と言うのに安心したからか今まで以上に距離の近いミアに少し眩暈がする。ぎゅうぎゅうと首に抱き付いてくるミアの腕。改めて彼女を意識したと同時に彼女の「生」を強烈に意識する。
好きな人、ミア、ルミエル、生、死、安心、不安、欲求、心、恐怖、鼓動、静寂──…。
頭の中をいくつもの想いが駆け抜けて行く。この体を抱き締め返す前に、ネビロスはどうしてもミアに聞いておきたい事があった。
「ミア。我儘を一つ言っていいですか？」
「はい！ 何でしょう？」
「ミアから…ミアの口からどうしても聞きたいんです…」
髪を撫でて彼女に問い掛ける。
それはかつて、彼が亡き妻ルミエルに二度尋ねた言葉。彼なりの告白にも近い相思相愛の確認。私は貴女が好きだけど、貴女はどうですか？と言う理由で問い掛ける言葉だった。
「ミアは……私の事好きですか？」
ルミエル亡き後、誰に聞く事も無いだろうと思っていた言葉。ミアと出会って、いつか彼女に聞いても良いのだろうかと思っていた言葉。だからこそネビロスは、彼女が恥ずかしがり屋だと分かっていても、それを差し引いても今彼女の気持ちを聞きたかった。
一瞬顔を真っ赤にしたミア。知っている。彼女が恥ずかしがり屋な事くらい。しかしミアは自然に、しかし確りと笑顔で返してくれた。
「はい！もちろん、大好きです！」
「ミア…」
やっと安心したのか、彼から伸ばされた腕。その腕に収まったミアは、彼から痛いくらいの幸せを感じた。その言葉にどれほどの意味があると言うのか、彼のその懇願する様な様子に少し戸惑ったが、それでも本心ではあったので羞恥心を捨て伝えられて良かったと思った。
「口付けをしてもいいですか……？」
不意に抱き締められたまま耳元で囁かれる。誘導される様に「はい」と答えると、温かい吐息と共に擽ったい感覚を耳に感じた。まさかそこにキスをされると思わずびくりと体を震わせ驚くミア。真っ赤な顔でネビロスを見ると彼は嬉しそうに微笑んだ。
「驚きましたか？」
「はい……驚きました」
まだ驚きのあまり固まったままのミアの顎に添えられる指。そのままくいと持ち上げる様に顔の向きを変えられネビロスと目が合う。それが少女漫画でよく見るキス前の動作であると言うのに気付くとミアは目を見開いた。
「目を閉じて下さい」
無理です！！とは言えず、言われるがまま目を閉じる。ネビロスは一瞬ミアの唇を見つめると、軽く触れた。
初めて唇が重なった瞬間は本当に瞬き程度の時間でしかなかったのに、忘れる事は無いだろうとお互いに思っていた。
一度、離した後角度を変えてもう一度唇を重ねるネビロス。ミアはきっと初めてだろう。そう思うのだが、いまいち気の利いたキスの仕方と言うのが分からない。先程不用心に抱き付かれた時から自分の気持ちが少しぐら付いているのには気付いていた。だから少しだけ彼曰くスイッチには緩みがあった。
「ネ……」
名前を呼ぼうと中途半端に開けられた唇をネビロスが見逃す筈は無く。再度唇を重ねた彼に先程までの余裕は無かった。
一瞬だった。ほんの一瞬、緩んだスイッチ。キスで唇に走った衝撃はネビロスの体に雷を落とす様に彼の体を突き動かす。
彼はミアの唇の少し開かれたところから無遠慮に、しかし愛おしむ様に舌を伸ばし咥内を探る。当然、キスも初めての様な子にいきなりやるのは無茶な事だとネビロスも分かっていた。咥内を蹂躙するかの様な愛撫するかの様な口付けを終えた後、息を荒げながら唇を離した彼はミアが気絶している事に気が付いた。
部屋に着くやネビロスはミアをベッドに促す。彼女が座ったのを確認すると、自分も隣に座る。昨日と状況は全く同じなのに心臓の高鳴りが別物に感じるのは、ミアが一人で来て今無事隣にいるからだ。機械人形によるテロもさる事ながら、少し隙があると言うか付け入られやすい彼女に悪い虫が付かないか。
今日他班の女性にあろう事か告白された自分を思い出してネビロスは心底青い顔をする。ミアもそれに気付いたのか少しだけしょんぼりした。
「ごめんなさい……心配かけちゃいましたね」
とは言えそれは自分の事情であり彼女をこれ以上責めるわけにいかず、それよりも何も無かった事を喜ばねばとネビロスは一つ溜め息をついた。
「次からは迎えに行きますから、連絡をしてください」
何気なく言った言葉。勿論本心から出た言葉だが、予想外に呆けた顔を見せるミアにネビロスは怪訝な表情を浮かべた。
「どうしましたか？」
「ええっと……次があるんだ、って思って驚いてました」
えへへ、と笑うミア。急に彼女が可愛い事を言うものだから思わずニヤけるのを隠す様に目を細めるネビロス。しかし隠し切れるものではなく、唇の端が上がってしまい楽しそうな表情はすぐにミアにバレてしまった。先程までの心配と打って変わって悪戯心に火の点いたネビロス。ミアの耳に極力唇を近付けると敢えて甘い声音で「昨夜のことは忘れてしまいましたか？」と囁いてみる。
「忘れてなんかいません！！」と慌てるミア。ネビロスの方にぐりんと顔を向け、そして予想外に近い彼の顔に驚き大慌てで仰け反る。慣れておらずわたわたと動くミアがネビロスには可愛くて可愛くて仕方なかった。
ミアは少し頬を膨らませると、少し不貞腐れる様に口を開く。
「何か……私ばっかりドキドキしてます。ネビロスさんばっかり大人でズルいです」
ずっと気にしていた事──であった。どうしたって埋まらない年齢の隔たり。これから同じものを見ていけば良いのだろうが、今十八歳のミアと二十九歳の自分。実際のところ、自分はミアよりずっと大人だ。思わずそれを口に出す。あまりに素っ気なさすぎて突き放す様に聞こえたかもしれない。少し心配してミアの方を見ると、ミアはネビロスの心配をよそに真面目な顔を見せた後、少し微笑んだ。
「私はネビロスさんが何歳上でも気にしないですよ？」
あまりにあっさりとそう言う。嬉しい筈なのに、心配からかネビロスの中で育って欲しくない反発心が膨らむ。
「そう言いきれますか？ 私の方が先におじさんになってお爺さんになってしまいますよ？」
言ってネビロスはそんな先の姿を想像してみる。自分…はともかく、ミアはほんわかとした可愛らしい歳の取り方をしそうだ。むしろミアみたいなタイプは、四、五十代くらいまでほぼほぼ印象が変わらない…六、七十代になって流石に世間的にも老人と言われる年齢になっていきなり「お婆ちゃんになったね」と思われる様な見た目の印象が変わらないタイプじゃなかろうか。
そんな事を考えていたら、意を決した様なミアと目が合った。
「ネビロスさんは素敵に歳を重ねそうだから大丈夫です！それにたとえ頭髪が寂しくなっても、お腹がタヌキみたいになってもそれはそれで可愛い気がします！だから、私はネビロスさんとずっと一緒にいたいです」
ミアが何か言いたげに息を大きく吸う。何となく先の言葉を期待したネビロスにとってはそれは永遠の時間に感じた。
「私と付き合って下さい！」
あの恥ずかしがり屋なミアの口から出た言葉にネビロスは驚いて目を丸くする。更に続け様に「私、ネビロスさんの彼女になりたいんです」なんて言うものだから、ネビロスは相反する二つの感情に瞬く間に圧し潰されそうになる。今日一日ずっと聞きたかった言葉。だがしかし、求めると同時に「本当に自分で良いのか」と後ろ向きに考えてしまうそんな言葉。もっと、もっと欲しい。自分を安心させて欲しい。そんな事、こんな若く小さな女の子の肩に担がせてはいけないが、どうしても一度受け入れられるともっともっとと欲しくなってしまう。
その体に身を預けてしまいそうになる。
「ミア。私は過去に妻がいた身ですよ？」
意地の悪い言い方だと思う。自分から全て明かしておいて、そして好きだと言っておいて。いざ彼女にそう言われると「自分で良いのか？」と言わんばかりに引き摺っている思いをチラつかせる。しかしネビロスの予想に反してミアは、とても元気良く「はい！ ルミエルさんですよね？ 昨日教えてもらったから、しっかり覚えてます！」と口にした。
違う、そうじゃない。何だか想像していた反応と違う。ミアらしいと言えばらしいのだが。
「年齢だって……」
ダメ押しの様に口から出る言葉。しかし、ミアは先程恥ずかしがって逃げてしまったのに、今はしっかりと顔を近付けて言った。自分の両親の歳の差は十五歳で、ならば自分達の方が近いのだと。一瞬出た家族の名前にネビロスは愛の日前のミアの取り乱しぶりを思い出して少しどきりとするのだが、幸いにも両親の歳の差の話は彼女の悲しみのトリガーにはならなかった様だ。
だとすると、自分の答えは一つだ。一つだけの筈なのに。おかしなものだ。今日あんなにミアに会いたくて会いたくてその言葉を言って欲しくて、いっそ電話でも掛けて聞いてしまおうかと思っていたのに、いざ彼女に口に出して言ってもらうと、先程から嬉しさでか本心と違う言葉ばかり浮かんできてしまう。
何度も口から自分を否定する言葉が出掛かっては飲み込んで、漸く深く息を吸い込んで意を決すると、ネビロスはミアを見た。
「本当に良いんですか？」
「はい、もちろん！」
本当に何の躊躇いもなく言うものだから、愛おしくて愛おしくてネビロスはミアを抱き締めた。腕の中に在るその温かさを感じながら静かに目を伏せる。愛する人が傍に居てくれる喜びをまた感じる事が出来るとは思わなかった。しかもこんなに歳の離れた子に。不意に目が合ったので少し微笑む。
「こいびと、ですね」
自分とネビロスを交互に指差してミアも同じように笑う。確りと頷くと、目線の先にチェーンが見えた。ネビロスはわざとミアの首筋をくすぐる様に指でなぞると、服の中に隠れていたペンダントトップを外へ引き出す。
「付けていてくれたんですね」
「出来たら仕事中にも付けていたいなって思ってます。あ、もちろん危なくないように服の下にしまっておきます！」
チェーンを長くつければ服の下につけておいても、よっぽど前屈みにならなければ勝手に飛び出してくることはなさそうだ。つまり、このペンダントトップ、ミアが自分から見せる以外で気付いた者が居たとしたらそれは彼女が前に屈んだその中を覗こうとした不届き者と言う訳で…。
「……ミアは薔薇の意味を知っていますか？」
不意に口にした言葉にミアは小首を傾げる。
「全般的には『愛』と『美』です……？」
ミアが答えたのは、一般的に花言葉として知られている方だ。うん、やはりそう答えるよなぁ、と思いつつネビロスは真剣そのものと言う顔でミアを見た。
「薔薇には棘がありますね？」
「はい」
「その為、薔薇のモチーフには『魔除け』の効果があるんです」
「魔除け？」
「そうです。ミアに悪い虫が付かないように魔除けです」
「私、虫は苦手です」
「そんなミアに御守りですよ」
当然の如く、ネビロスの言う「悪い虫」とは「下心を持った人間の男」である。ミアが思い浮かべているアブラムシやカメムシ等では無い。しかし、上手い事噛み合っていない二人の会話は良い感じに続く。
「これから暖かくなると虫が増えますもんね！ ありがとうございます」
「ええ、気候に併せて浮かれた輩が増えると良くないですから」
互いに至極真剣な会話を交わした後、先にその恋人らしい話題を振ったのはミアだった。
「ねぇ、ネビロスさん。今度、お休みが一緒の時に……デートしたいです」
今朝テレビで美味しそうな名前のアロマ屋さんが紹介されていて…と、ちょっとよく分からない説明をされたがせっかくのミアからのデートのお誘い、頭の中でスケジュールを思い返し暖かくなってからか…？と柄にも無く少しワクワクした。
「ええ。行きましょう」
「ありがとうございます！」
まさか返されるのが満面の笑みとハグとは予想しておらず。恋人同士と言うのに安心したからか今まで以上に距離の近いミアに少し眩暈がする。ぎゅうぎゅうと首に抱き付いてくるミアの腕。改めて彼女を意識したと同時に彼女の「生」を強烈に意識する。
好きな人、ミア、ルミエル、生、死、安心、不安、欲求、心、恐怖、鼓動、静寂──…。
頭の中をいくつもの想いが駆け抜けて行く。この体を抱き締め返す前に、ネビロスはどうしてもミアに聞いておきたい事があった。
「ミア。我儘を一つ言っていいですか？」
「はい！ 何でしょう？」
「ミアから…ミアの口からどうしても聞きたいんです…」
髪を撫でて彼女に問い掛ける。
それはかつて、彼が亡き妻ルミエルに二度尋ねた言葉。彼なりの告白にも近い相思相愛の確認。私は貴女が好きだけど、貴女はどうですか？と言う理由で問い掛ける言葉だった。
「ミアは……私の事好きですか？」
ルミエル亡き後、誰に聞く事も無いだろうと思っていた言葉。ミアと出会って、いつか彼女に聞いても良いのだろうかと思っていた言葉。だからこそネビロスは、彼女が恥ずかしがり屋だと分かっていても、それを差し引いても今彼女の気持ちを聞きたかった。
一瞬顔を真っ赤にしたミア。知っている。彼女が恥ずかしがり屋な事くらい。しかしミアは自然に、しかし確りと笑顔で返してくれた。
「はい！もちろん、大好きです！」
「ミア…」
やっと安心したのか、彼から伸ばされた腕。その腕に収まったミアは、彼から痛いくらいの幸せを感じた。その言葉にどれほどの意味があると言うのか、彼のその懇願する様な様子に少し戸惑ったが、それでも本心ではあったので羞恥心を捨て伝えられて良かったと思った。
「口付けをしてもいいですか……？」
不意に抱き締められたまま耳元で囁かれる。誘導される様に「はい」と答えると、温かい吐息と共に擽ったい感覚を耳に感じた。まさかそこにキスをされると思わずびくりと体を震わせ驚くミア。真っ赤な顔でネビロスを見ると彼は嬉しそうに微笑んだ。
「驚きましたか？」
「はい……驚きました」
まだ驚きのあまり固まったままのミアの顎に添えられる指。そのままくいと持ち上げる様に顔の向きを変えられネビロスと目が合う。それが少女漫画でよく見るキス前の動作であると言うのに気付くとミアは目を見開いた。
「目を閉じて下さい」
無理です！！とは言えず、言われるがまま目を閉じる。ネビロスは一瞬ミアの唇を見つめると、軽く触れた。
初めて唇が重なった瞬間は本当に瞬き程度の時間でしかなかったのに、忘れる事は無いだろうとお互いに思っていた。
一度、離した後角度を変えてもう一度唇を重ねるネビロス。ミアはきっと初めてだろう。そう思うのだが、いまいち気の利いたキスの仕方と言うのが分からない。先程不用心に抱き付かれた時から自分の気持ちが少しぐら付いているのには気付いていた。だから少しだけ彼曰くスイッチには緩みがあった。
「ネ……」
名前を呼ぼうと中途半端に開けられた唇をネビロスが見逃す筈は無く。再度唇を重ねた彼に先程までの余裕は無かった。
一瞬だった。ほんの一瞬、緩んだスイッチ。キスで唇に走った衝撃はネビロスの体に雷を落とす様に彼の体を突き動かす。
彼はミアの唇の少し開かれたところから無遠慮に、しかし愛おしむ様に舌を伸ばし咥内を探る。当然、キスも初めての様な子にいきなりやるのは無茶な事だとネビロスも分かっていた。咥内を蹂躙するかの様な愛撫するかの様な口付けを終えた後、息を荒げながら唇を離した彼はミアが気絶している事に気が付いた。
覚えていますか？
顔を真っ赤にして自分のベッドに横になるミアを見てネビロスは頭を抱えた。
完全にやってしまった。
ミアは話を聞いていた感じから過去に交際経験こそありそうだったが、それ以上は全く未知だった。反応からなんとなく「何もかも初めてかもしれない」と察し動こうとしたのだが、たった今ほんの少しだけ「悪い大人」が顔を出した事によりミアは倒れてしまった。と思う。
「こっちも…これでも我慢しようとしてるんですけどね…」
少し文句を言いたげにネビロスはミアの頬を指でなぞる。さて、この可愛い子をどうしようか。
このまま寝かせておいてあげても良いが…起きた後の事を考えてネビロスは彼女を部屋に運ぶ事にした。少し遠慮気味にミアの服に手を這わせる。ポケットのありそうなところを探ると、チャリと音がしたので手を入れた。ミアの服の内ポケットから寮の部屋の鍵が出て来たのでネビロスはそれを手に取った。ミアらしい可愛いマスコットの付いた鍵だった。
そう言えば、今日やたら唇が艶めいていたな。
寝ているミアの顔を覗き込む。本当はこのまま彼女をここで寝かせておきたいが、起きてまた目が合ってそのまま失神しかねないのが彼女だ。ネビロスは何も言わずにまたミアの唇に自分のそれを重ねる。何となく、自分とキスをした証拠を残しておきたかったのだ。悪いと思いつつ寝ているミアの唇を何度も啄むと、ネビロスは満足気に彼女の体を抱き抱えた。
「よいしょ…っと…」
ミアを横抱きに抱え、部屋を後にする。
そのまま女子寮まで足を運ぶと、迷う事なくミアの部屋に向かう。軽いとは言え、眠っている人間を運ぶのはなかなか骨の折れる作業ではあるが、ネビロスは彼女を起こさない様に慎重に鍵でドアを開けた。部屋に入るとふわりと香るミアの香り。不思議なもので、同じ構造、同じ部屋であっても使う人間によって玄関のにおいが違く感じるのだから驚きである。ネビロスは幼い頃学校や病院から家に帰った時、祖父母と暮らす家の玄関でそのにおいを嗅いで「我が家に帰ってきた」と安心した事を思い出していた。
今は物珍しく感じるミアの部屋の玄関のにおい。いつかこれが当たり前に馴染みのある光景になったりするのか。玄関に掛けられた可愛らしい壁掛けの装飾や鏡を見てそう思った。
ミアをベッドに寝かせると、彼女の履いていた靴を脱がせる。綺麗に揃えて床に置くと、眠るミアの体に布団を掛けた。こうして見るとまだまだ子供の様なのに。そう思っても彼女に怖いくらい惹かれている自分を少しだけ笑ってしまった。
「無理をさせて…すみません…」
でも、嬉しかったです。
そう言葉に乗せてもう一度唇を重ねると、ネビロスは少し名残惜しそうに玄関に向かう。そしてミアの部屋の鍵を見て少し考えると、手に取り、彼女の部屋に外から鍵を掛けて自室に戻った。
* * *
ふわふわして、恥ずかしくて、でも嬉しくて変な感じ。ミアは夢を見た気がした。ネビロスの部屋に向かって、彼に部屋に招かれて、彼に付き合って欲しいと伝えて、彼に好きだと伝えて。
彼から「キスがしたい」と言われて生まれて初めてあんなにボヤけるくらい好きな人を目の前にして、それから、それから…。
「はっ！！？」
いつも起きる時間より、一時間は早くミアは目を覚ました。あれ？おかしいな、どこからが夢？
昨日ネビロスの部屋に行った気がする。そして彼に好きだと伝えたのも。自分の着ている服が確かに彼の部屋に行こうとしていた時に着ていた服だったから、そこまでは夢では無い。では、どこからが夢？
不意に唇に触れた。部屋で唇にグロスを付けたのはハッキリ覚えている。ハッキリ覚えているのに、今自分の唇にそれはあまり残っていない。あれ？もしかしてそこから夢？
携帯端末を見ると、今日は二月二十四日の朝だった。今日は出勤の日だ。あれ？二十三日はどう過ごしていたんだっけ？
とりあえずシャワーを浴びてから考えよう。ミアはシャワーを浴び、朝食を食べ、いつもより早めに玄関に向かった。
「あれ…？」
玄関に来てミアは驚く。鍵が無い。いつもここに置いてあるのに、どうして鍵がどこにも見当たらないんだろう。しかし玄関に鍵は掛かっている。あれ？鍵は無いのにどうやって掛けたんだろう？この密室はどうやって出来上がったんだろう？急な名探偵ミアを始めたところで、携帯端末にネビロスからメッセージが入って来た事に気が付いた。
『おはようございます。もう起きていますか？』
『はい、起きてます』
『今からそっちに行っても良いですか？』
え！？ネビロスさんが来る！？ミアはちゃんと仕事用に身支度を整えたにも関わらず、もう一度念入りに鏡を見ながら服を整えた。
コンコン、と音がしたので鍵を開けると、目の前にはネビロスが少し微笑みながら立っていた。
「おはようございます」
「お、おはようございます…」
「…失礼しても…？」
「ど、どうぞ！」
照れから声を詰まらせてしまうミア。部屋に入ったネビロスは、申し訳なさそうに目を伏せた。
「昨日は…すみません…」
「昨日…？」
「…もしかして…覚えていないんですか…？」
ネビロスは懐から鍵を取り出す。それは、見慣れたマスコットの付いている自分の部屋の鍵だった。
「な…何でネビロスさんがそれを…？」
ネビロスは鍵をミアに渡すと、「昨日、部屋に来てくれましたよね？」と言って笑う。ミアは頭をフル回転させて何があったか必死に思い出そうとした。そうこうしている間にミアと距離を詰めたネビロスは、彼女の耳元にそっと唇を近付け軽くキスを落とす。
「昨夜の事…思い出せますか…？」
「えっと…」
なんかこの感じ、確かに覚えがある様な。
そう、昨日確かに部屋を出た。カジュアルなパーカーワンピースを着て、唇にグロスを塗って。それでネビロスの部屋に行って、それから彼に招かれて気持ちを伝えて…。
「あ…！」
ほんの少し、頭にブワッと昨日の様子の断片が見えた。ネビロスの顔がずいっと迫って来ており、ミアは思わず目を伏せる。するとチュッと小さく音が聞こえ、ミアは唇に温かい感触を得た。
「…思い出しましたか？ミア」
「お…おはようございます…」
「すみません…昨日はつい無茶をしてしまって…」
そう言われて、ミアはキスをした時に一際息が苦しくなったものがあった事を思い出す。あの咥内を蹂躙する様な感覚。思わず顔を真っ赤にすると、隠す様にネビロスは彼女を抱き締めた。
「嫌…でしたか？」
「え！？嫌じゃない…です！ただ…」
「ただ…？」
「キ、キスしたの…初めてだったんで…キスってあんなに…く、口の中大変になっちゃうんですね…？」
ネビロスはそれを聞くと、ふっと噴き出す様に笑い、ミアを抱き締める手を強めた。
「すみません…アレは…ちょっと大人のキスです…」
「え」
「何もかも初めてのミアには…ちょっと急ぎ過ぎましたかね…？」
「え！？」
果たして「大人の階段はもう少しゆっくり上がりましょう？」と言っていた彼と目の前の彼は同一人物なのだろうか。そう思うくらい悪戯めいた目をしたネビロスは、それでもとても優しい手付きでミアの髪を撫でた。
「昨日、私の部屋でお付き合いしましょうって言ってくれましたよね」
「は、はい…」
「嬉しくて、キスをしましたね…？」
「はい…」
「すみません、そこで少しだけ走り過ぎました」
「は…」
「…嫌いになりませんか…？」
昨日、正直何が起きたのか確りと思い出せないが、ネビロスとする事で何か嫌だと思ったことは無いし、昨日された事でネビロスを嫌いになったりもしない。むしろ自分も、嬉しさが大き過ぎて気を失った気もしなくも無い。気付けばミアは、ネビロスの服の裾を握り、意を決して彼を見た。
「ネビロスさん…昨日の…もう一度してください…」
「え…？」
「嫌いになんてなりません…だから、もう一度してください…！！」
「本当に…良いんですか？」
「はい！！」
「……では」
ネビロスはミアの顎に手を添えると、唇を近付けて囁いた。
「少しだけ、口を少し開ける様に力を抜いてください…」
「は、はい…っ！！」
緊張から真一文字に結んだ口の力を少し抜いて、ミアはネビロスが唇を重ねてくれるのを待った。柔らかく重なった唇からちろりと違う感触が触る。遠慮がちに触る様に動くそれが彼の舌だと気付き、ミアは顔を真っ赤にして体を強張らせた。
ネビロスは少しだけミアの舌に自分の舌を触れさせると、昨日程激しくはせずミアから離れた。
心配そうに顔を覗いたミアは、初めてネビロスのこんなにも余裕の無さそうな表情を見た気がした。
「すみません…仕事に行き難くなりそうです…」
「え…？」
「もっとしたくなりそうで…」
かあっと顔を赤くさせるミア。ネビロスはミアを確りと抱き締め少し息を整えると「もう、恋人ですからね」と嬉しそうに呟いた。
「それでも…ゆっくりの方が良さそうですね…」
「ゆ、ゆっくりですか…？」
「ええ…一歩進むごとに気絶してしまって記憶に残らなくなるのは残念ですからね」
その唇のグロスの様に。
と呟かれ、やはりグロスを付けたのは夢では無かったと言う事と、彼がその付けたグロスを失くしてしまった本人で、どの様にしたのかも何となくわかってしまいミアはまた顔を真っ赤にした。
「…一緒に医療班まで行きましょう？」
ネビロスに促されミアは部屋を出る。こんな浮かれた調子で仕事になるだろうか。心配そうにネビロスを見るが彼はただ微笑むだけだった。医療班の部屋まで向かうこの時間がいつもより長く感じて、今日は一段としっかりしなければフラフラしそうだ！とミアは一日頑張る決意を固めた。
「あ、ミア」
「はい？」
呼ばれて彼に振り返る。唇に軽くちゅっと音を立てて触れて、ネビロスはにこりと笑った。
「今日も一日頑張りましょうか」
すみません、ドキドキしてもう保ちそうにありません。この日、いつもより穏やかな顔で入ってきたネビロスの後ろに真っ赤で呆けた顔をしたミアがおり、医療班の大人組は何となく何かを察した。
思いの外何も察して居なかったヴォイドはとことことミアに近付く。彼女はミアにお酒の話を聞きたくてうずうずして居たのだった。
完全にやってしまった。
ミアは話を聞いていた感じから過去に交際経験こそありそうだったが、それ以上は全く未知だった。反応からなんとなく「何もかも初めてかもしれない」と察し動こうとしたのだが、たった今ほんの少しだけ「悪い大人」が顔を出した事によりミアは倒れてしまった。と思う。
「こっちも…これでも我慢しようとしてるんですけどね…」
少し文句を言いたげにネビロスはミアの頬を指でなぞる。さて、この可愛い子をどうしようか。
このまま寝かせておいてあげても良いが…起きた後の事を考えてネビロスは彼女を部屋に運ぶ事にした。少し遠慮気味にミアの服に手を這わせる。ポケットのありそうなところを探ると、チャリと音がしたので手を入れた。ミアの服の内ポケットから寮の部屋の鍵が出て来たのでネビロスはそれを手に取った。ミアらしい可愛いマスコットの付いた鍵だった。
そう言えば、今日やたら唇が艶めいていたな。
寝ているミアの顔を覗き込む。本当はこのまま彼女をここで寝かせておきたいが、起きてまた目が合ってそのまま失神しかねないのが彼女だ。ネビロスは何も言わずにまたミアの唇に自分のそれを重ねる。何となく、自分とキスをした証拠を残しておきたかったのだ。悪いと思いつつ寝ているミアの唇を何度も啄むと、ネビロスは満足気に彼女の体を抱き抱えた。
「よいしょ…っと…」
ミアを横抱きに抱え、部屋を後にする。
そのまま女子寮まで足を運ぶと、迷う事なくミアの部屋に向かう。軽いとは言え、眠っている人間を運ぶのはなかなか骨の折れる作業ではあるが、ネビロスは彼女を起こさない様に慎重に鍵でドアを開けた。部屋に入るとふわりと香るミアの香り。不思議なもので、同じ構造、同じ部屋であっても使う人間によって玄関のにおいが違く感じるのだから驚きである。ネビロスは幼い頃学校や病院から家に帰った時、祖父母と暮らす家の玄関でそのにおいを嗅いで「我が家に帰ってきた」と安心した事を思い出していた。
今は物珍しく感じるミアの部屋の玄関のにおい。いつかこれが当たり前に馴染みのある光景になったりするのか。玄関に掛けられた可愛らしい壁掛けの装飾や鏡を見てそう思った。
ミアをベッドに寝かせると、彼女の履いていた靴を脱がせる。綺麗に揃えて床に置くと、眠るミアの体に布団を掛けた。こうして見るとまだまだ子供の様なのに。そう思っても彼女に怖いくらい惹かれている自分を少しだけ笑ってしまった。
「無理をさせて…すみません…」
でも、嬉しかったです。
そう言葉に乗せてもう一度唇を重ねると、ネビロスは少し名残惜しそうに玄関に向かう。そしてミアの部屋の鍵を見て少し考えると、手に取り、彼女の部屋に外から鍵を掛けて自室に戻った。
* * *
ふわふわして、恥ずかしくて、でも嬉しくて変な感じ。ミアは夢を見た気がした。ネビロスの部屋に向かって、彼に部屋に招かれて、彼に付き合って欲しいと伝えて、彼に好きだと伝えて。
彼から「キスがしたい」と言われて生まれて初めてあんなにボヤけるくらい好きな人を目の前にして、それから、それから…。
「はっ！！？」
いつも起きる時間より、一時間は早くミアは目を覚ました。あれ？おかしいな、どこからが夢？
昨日ネビロスの部屋に行った気がする。そして彼に好きだと伝えたのも。自分の着ている服が確かに彼の部屋に行こうとしていた時に着ていた服だったから、そこまでは夢では無い。では、どこからが夢？
不意に唇に触れた。部屋で唇にグロスを付けたのはハッキリ覚えている。ハッキリ覚えているのに、今自分の唇にそれはあまり残っていない。あれ？もしかしてそこから夢？
携帯端末を見ると、今日は二月二十四日の朝だった。今日は出勤の日だ。あれ？二十三日はどう過ごしていたんだっけ？
とりあえずシャワーを浴びてから考えよう。ミアはシャワーを浴び、朝食を食べ、いつもより早めに玄関に向かった。
「あれ…？」
玄関に来てミアは驚く。鍵が無い。いつもここに置いてあるのに、どうして鍵がどこにも見当たらないんだろう。しかし玄関に鍵は掛かっている。あれ？鍵は無いのにどうやって掛けたんだろう？この密室はどうやって出来上がったんだろう？急な名探偵ミアを始めたところで、携帯端末にネビロスからメッセージが入って来た事に気が付いた。
『おはようございます。もう起きていますか？』
『はい、起きてます』
『今からそっちに行っても良いですか？』
え！？ネビロスさんが来る！？ミアはちゃんと仕事用に身支度を整えたにも関わらず、もう一度念入りに鏡を見ながら服を整えた。
コンコン、と音がしたので鍵を開けると、目の前にはネビロスが少し微笑みながら立っていた。
「おはようございます」
「お、おはようございます…」
「…失礼しても…？」
「ど、どうぞ！」
照れから声を詰まらせてしまうミア。部屋に入ったネビロスは、申し訳なさそうに目を伏せた。
「昨日は…すみません…」
「昨日…？」
「…もしかして…覚えていないんですか…？」
ネビロスは懐から鍵を取り出す。それは、見慣れたマスコットの付いている自分の部屋の鍵だった。
「な…何でネビロスさんがそれを…？」
ネビロスは鍵をミアに渡すと、「昨日、部屋に来てくれましたよね？」と言って笑う。ミアは頭をフル回転させて何があったか必死に思い出そうとした。そうこうしている間にミアと距離を詰めたネビロスは、彼女の耳元にそっと唇を近付け軽くキスを落とす。
「昨夜の事…思い出せますか…？」
「えっと…」
なんかこの感じ、確かに覚えがある様な。
そう、昨日確かに部屋を出た。カジュアルなパーカーワンピースを着て、唇にグロスを塗って。それでネビロスの部屋に行って、それから彼に招かれて気持ちを伝えて…。
「あ…！」
ほんの少し、頭にブワッと昨日の様子の断片が見えた。ネビロスの顔がずいっと迫って来ており、ミアは思わず目を伏せる。するとチュッと小さく音が聞こえ、ミアは唇に温かい感触を得た。
「…思い出しましたか？ミア」
「お…おはようございます…」
「すみません…昨日はつい無茶をしてしまって…」
そう言われて、ミアはキスをした時に一際息が苦しくなったものがあった事を思い出す。あの咥内を蹂躙する様な感覚。思わず顔を真っ赤にすると、隠す様にネビロスは彼女を抱き締めた。
「嫌…でしたか？」
「え！？嫌じゃない…です！ただ…」
「ただ…？」
「キ、キスしたの…初めてだったんで…キスってあんなに…く、口の中大変になっちゃうんですね…？」
ネビロスはそれを聞くと、ふっと噴き出す様に笑い、ミアを抱き締める手を強めた。
「すみません…アレは…ちょっと大人のキスです…」
「え」
「何もかも初めてのミアには…ちょっと急ぎ過ぎましたかね…？」
「え！？」
果たして「大人の階段はもう少しゆっくり上がりましょう？」と言っていた彼と目の前の彼は同一人物なのだろうか。そう思うくらい悪戯めいた目をしたネビロスは、それでもとても優しい手付きでミアの髪を撫でた。
「昨日、私の部屋でお付き合いしましょうって言ってくれましたよね」
「は、はい…」
「嬉しくて、キスをしましたね…？」
「はい…」
「すみません、そこで少しだけ走り過ぎました」
「は…」
「…嫌いになりませんか…？」
昨日、正直何が起きたのか確りと思い出せないが、ネビロスとする事で何か嫌だと思ったことは無いし、昨日された事でネビロスを嫌いになったりもしない。むしろ自分も、嬉しさが大き過ぎて気を失った気もしなくも無い。気付けばミアは、ネビロスの服の裾を握り、意を決して彼を見た。
「ネビロスさん…昨日の…もう一度してください…」
「え…？」
「嫌いになんてなりません…だから、もう一度してください…！！」
「本当に…良いんですか？」
「はい！！」
「……では」
ネビロスはミアの顎に手を添えると、唇を近付けて囁いた。
「少しだけ、口を少し開ける様に力を抜いてください…」
「は、はい…っ！！」
緊張から真一文字に結んだ口の力を少し抜いて、ミアはネビロスが唇を重ねてくれるのを待った。柔らかく重なった唇からちろりと違う感触が触る。遠慮がちに触る様に動くそれが彼の舌だと気付き、ミアは顔を真っ赤にして体を強張らせた。
ネビロスは少しだけミアの舌に自分の舌を触れさせると、昨日程激しくはせずミアから離れた。
心配そうに顔を覗いたミアは、初めてネビロスのこんなにも余裕の無さそうな表情を見た気がした。
「すみません…仕事に行き難くなりそうです…」
「え…？」
「もっとしたくなりそうで…」
かあっと顔を赤くさせるミア。ネビロスはミアを確りと抱き締め少し息を整えると「もう、恋人ですからね」と嬉しそうに呟いた。
「それでも…ゆっくりの方が良さそうですね…」
「ゆ、ゆっくりですか…？」
「ええ…一歩進むごとに気絶してしまって記憶に残らなくなるのは残念ですからね」
その唇のグロスの様に。
と呟かれ、やはりグロスを付けたのは夢では無かったと言う事と、彼がその付けたグロスを失くしてしまった本人で、どの様にしたのかも何となくわかってしまいミアはまた顔を真っ赤にした。
「…一緒に医療班まで行きましょう？」
ネビロスに促されミアは部屋を出る。こんな浮かれた調子で仕事になるだろうか。心配そうにネビロスを見るが彼はただ微笑むだけだった。医療班の部屋まで向かうこの時間がいつもより長く感じて、今日は一段としっかりしなければフラフラしそうだ！とミアは一日頑張る決意を固めた。
「あ、ミア」
「はい？」
呼ばれて彼に振り返る。唇に軽くちゅっと音を立てて触れて、ネビロスはにこりと笑った。
「今日も一日頑張りましょうか」
すみません、ドキドキしてもう保ちそうにありません。この日、いつもより穏やかな顔で入ってきたネビロスの後ろに真っ赤で呆けた顔をしたミアがおり、医療班の大人組は何となく何かを察した。
思いの外何も察して居なかったヴォイドはとことことミアに近付く。彼女はミアにお酒の話を聞きたくてうずうずして居たのだった。
おまけのおまけ
魔王が降臨した。
私悪くないのに。
ヴォイドの顔は語って居た。承服しかねる、と。
何となくミアの誕生日の様子が気になって色々聞いたらまさかのキスまでしてしまったらしいとの暴露が。
何だかミアが遠くに行ってしまった様な妙な感覚になり、ヴォイドは改めて納得のいかない顔をネビロスに向けた。頬を膨らませてむくれる珍しいヴォイド。ネビロスに散々尋問された仲間であるスレイマンもアキヒロも宥める様にヴォイドに近付いた。
「まあ、ネビロスも自覚してるだろうしミアを傷付ける様な事が起きたりは…ね！？」
「ふふ、ヴォイドさんにとったら大事な妹みたいな子が彼氏に取られちゃった気分かもしれませんけどね、彼なら大丈夫じゃないでしょうか？言う程子供でも無いですし」
ヴォイドはムッとした顔を崩さないまま「よく分かんない」と呟いた。スレイマンもアキヒロも顔を見合わせる。何が分からないのか、それが分からずヴォイドを見る。ヴォイドはそんな二人をよそに若干浮かれた調子のミアを見た。
「キスって…何？」
「…！？」
「ええー…」
開口一番「ミアは子供の作り方を知ってるの？」と迫った女性と同一人物とは思えないぼやきにギョッとする二人。医学的に子供の作り方こと妊娠の仕組みを説明することに何ら抵抗のないこの女性は、これはこれで今度「キスって何が良いの？」と感情の方が分からない、と言わんばかりに頭に疑問符を浮かべて居た。
そんなヴォイドを見て、「失礼な事を聞くけど」と前置きしてスレイマンは聞いた。
「キス…経験無い？」
「無い」
「全く？」
「全く」
「そ、そうなのか…」
「何が嬉しいの？キスって…ミアみたくあんなになっちゃうくらい嬉しいもんなの？」
困った。さっきとはまた違う拗れた無垢さがここにもあった。なまじ医療的知識があるのに感情が追い付いていないタイプのヴォイドに色々と聞かれて二人とも口籠る。
「うーん…好きな人がいたら結構当たり前にしたくなるもんだと思うけどなぁ…」
「それは理屈としては分かる。どんな感じかが分からないの」
「どんな感じって言われても…ってか、したくなるのも理屈で分かるってどんな分かり方だ…」
どう伝えようかと悩むスレイマンに興味津々で尋ねるヴォイド。そんな二人に助け舟を出す様にアキヒロが口を開いた。
「これは生物としての性 ですかねぇ」
「さが…？」
「こう、と表せられる言葉は難しくて選べないです。でも、人を好きになった時、何か込み上げる気持ちってありませんか？」
「込み上げる…」
「それが生物としての本能であれ何であれ、人は相手を慈しむ事の出来る生き物です。その慈しみの向いた先が例えばキスをしたい気持ちだったりつまりは行動として表れたりするんです。それを実際に行動に移せた時の感情って言ったら想像できますか？」
「うーん…」
尚も難しい顔をするヴォイドを見てフッと笑ったアキヒロは、「ああ、ヴォイドさんが一番分かりやすい例えがありました」と手をポンと叩いた。
「極限までお腹を空かせてお腹を空かせて、やっと食べられるーって目の前に食べ物が来た時どんな気持ちでしょう？」
「早く食べたいっ！」
「じゃあやっと食べれた時は？そう言う感じです」
「なるほど…」
そんな二人を見て「ん？合ってるのか？」と今度はこちらが疑問符を浮かべるスレイマン。アキヒロは優しく笑うと「これでヴォイドさんの処置が優しくなるなら良いじゃ無いですか」と呟いた。
「まあ、それもそうか…」
「ええ。しかし、好きな人とキスが出来た時の喜びなんて…私は久しく考えたりもしませんでしたねぇ…」
どう見ても浮かれているミア、いつもより穏やかな顔をしているネビロス。そしてこれで合っているのか？と疑問と納得を繰り返しているヴォイドを見てアキヒロは少し寂しそうに、懐かしむ様に呟いた。
私悪くないのに。
ヴォイドの顔は語って居た。承服しかねる、と。
何となくミアの誕生日の様子が気になって色々聞いたらまさかのキスまでしてしまったらしいとの暴露が。
何だかミアが遠くに行ってしまった様な妙な感覚になり、ヴォイドは改めて納得のいかない顔をネビロスに向けた。頬を膨らませてむくれる珍しいヴォイド。ネビロスに散々尋問された仲間であるスレイマンもアキヒロも宥める様にヴォイドに近付いた。
「まあ、ネビロスも自覚してるだろうしミアを傷付ける様な事が起きたりは…ね！？」
「ふふ、ヴォイドさんにとったら大事な妹みたいな子が彼氏に取られちゃった気分かもしれませんけどね、彼なら大丈夫じゃないでしょうか？言う程子供でも無いですし」
ヴォイドはムッとした顔を崩さないまま「よく分かんない」と呟いた。スレイマンもアキヒロも顔を見合わせる。何が分からないのか、それが分からずヴォイドを見る。ヴォイドはそんな二人をよそに若干浮かれた調子のミアを見た。
「キスって…何？」
「…！？」
「ええー…」
開口一番「ミアは子供の作り方を知ってるの？」と迫った女性と同一人物とは思えないぼやきにギョッとする二人。医学的に子供の作り方こと妊娠の仕組みを説明することに何ら抵抗のないこの女性は、これはこれで今度「キスって何が良いの？」と感情の方が分からない、と言わんばかりに頭に疑問符を浮かべて居た。
そんなヴォイドを見て、「失礼な事を聞くけど」と前置きしてスレイマンは聞いた。
「キス…経験無い？」
「無い」
「全く？」
「全く」
「そ、そうなのか…」
「何が嬉しいの？キスって…ミアみたくあんなになっちゃうくらい嬉しいもんなの？」
困った。さっきとはまた違う拗れた無垢さがここにもあった。なまじ医療的知識があるのに感情が追い付いていないタイプのヴォイドに色々と聞かれて二人とも口籠る。
「うーん…好きな人がいたら結構当たり前にしたくなるもんだと思うけどなぁ…」
「それは理屈としては分かる。どんな感じかが分からないの」
「どんな感じって言われても…ってか、したくなるのも理屈で分かるってどんな分かり方だ…」
どう伝えようかと悩むスレイマンに興味津々で尋ねるヴォイド。そんな二人に助け舟を出す様にアキヒロが口を開いた。
「これは生物としての
「さが…？」
「こう、と表せられる言葉は難しくて選べないです。でも、人を好きになった時、何か込み上げる気持ちってありませんか？」
「込み上げる…」
「それが生物としての本能であれ何であれ、人は相手を慈しむ事の出来る生き物です。その慈しみの向いた先が例えばキスをしたい気持ちだったりつまりは行動として表れたりするんです。それを実際に行動に移せた時の感情って言ったら想像できますか？」
「うーん…」
尚も難しい顔をするヴォイドを見てフッと笑ったアキヒロは、「ああ、ヴォイドさんが一番分かりやすい例えがありました」と手をポンと叩いた。
「極限までお腹を空かせてお腹を空かせて、やっと食べられるーって目の前に食べ物が来た時どんな気持ちでしょう？」
「早く食べたいっ！」
「じゃあやっと食べれた時は？そう言う感じです」
「なるほど…」
そんな二人を見て「ん？合ってるのか？」と今度はこちらが疑問符を浮かべるスレイマン。アキヒロは優しく笑うと「これでヴォイドさんの処置が優しくなるなら良いじゃ無いですか」と呟いた。
「まあ、それもそうか…」
「ええ。しかし、好きな人とキスが出来た時の喜びなんて…私は久しく考えたりもしませんでしたねぇ…」
どう見ても浮かれているミア、いつもより穏やかな顔をしているネビロス。そしてこれで合っているのか？と疑問と納得を繰り返しているヴォイドを見てアキヒロは少し寂しそうに、懐かしむ様に呟いた。
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