幸せの重さを背負う／燐花
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rinka_creation 2021年09月26日(日) 22:17:37履歴
月光に浮かぶ本性 
自分はきっと、矛盾の塊で勝手な人間なのだと思う。自分で自分をそう思う。
酷い、酷い、身勝手な男だ。
愛しているから手放してしまいたくて、愛していたから今はもう思い出したくなくて、でもいざ思い出さない日があると急に焦燥感に駆られ、彼女が他の男と居ると思うと急に手放したく無くなる。
本当に勝手な物だ。自分本位、身勝手で汚い大人。
彼女と口付けを交わす度、幸せで厭な気持ちになる。まるで自分の唇と交わったところから彼女が汚れていくのでは無いかと思う。そう思うのに、幸せそうなその空色の瞳で見つめられるともっと彼女を味わいたくなる。
自分の物だと独占欲を剥き出しにした印を付けたくなる。そしてそれを付ける度、また彼女を汚している気になってしまうのだ。
「ネビロスさん…？」
ベッドで寝ていたミアに声を掛けられネビロスは我に返る。直前まで見せていた暗い顔を何とか取り払い、努めて優しい顔でミアに向き合った。
「おや…？起こしてしまいましたか？ミア」
「ネビロスさんこそ…いつ起きたんですか…？」
ミアと恋人同士になってから定期的に互いの部屋で夜を過ごす様になった。とは言え一緒にお茶を飲んだり仕事の確認をしたり、偶に無理無い程度に晩酌をしてみたり。
キスをするのにやっと慣れてくれたミアと口付けを交わしたり様子を見つつ体に触れる事はあれど、まだ一線は超えていない。舌を絡める様に深く深く口付けを交わせばその先にも進みたくなるものだがまるで怖気付いた様に止まってしまう。ネビロスには胸に秘めた想いがあった。
「ついさっきですよ。目が覚めてしまって…眠れるか分からなかったので少し窓から外を眺めていました。今日は月が綺麗だったので」
そう言って月光を背にするネビロスの姿にミアは目眩がした。ネビロスさん、綺麗。そう思わず漏らせば彼は本心から嬉しそうに微笑む。
本当に綺麗に見えた。
だから急に怖くなった。
ネビロスの正体が実は月の妖精で、ふとした弾みで自分の前から居なくなってしまいそうな儚く消えてしまいそうなそんな気がしてしまったからだ。
「ネビロスさん…！！」
気付けばミアはベッドから飛び起きると背中を押された様に駆け出し、ネビロスの体に抱き付いた。ネビロスは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに優しく微笑むとミアの頭を撫でた。
「…どうしました？」
「ネビロスさん…ネビロスさん…！」
行かないで。
何故かそんな言葉が頭を過ぎるが、それを言ったら本当に彼が居なくなってしまう気がして言えなかった。だから誤魔化す様に言葉を選ぶ。『起きる直前に見た怖い夢を思い出した』なんてお粗末な嘘だがネビロスはそれを聞いて頭を撫でるだけでなくその腕で抱き締めてくれた。
「怖がりですね、ミアは…」
「はい…怖いです…」
貴方が居なくなる気がして。
「…大丈夫。傍に居ますよ。一緒に寝ましょうか。温かいミアを抱きしめていたら何だかまた眠くなって来ました」
「…はい、ネビロスさん…」
二人でベッドまで戻り、一緒に潜り込む。一人用の狭いベッドだがそれ故に寂しくなかった。最初こそ彼との密着にどきどきと胸が弾んだものだが最近はそれも少しだけ落ち着いて来ている。本当に少しだけ。以前よりもっともっとネビロスからの愛情表現をきちんと受け止められる様になったし、それで慌てたりもしなくなった。
だからまだどきどきするけれど、それを感じる度ミアはネビロスが好きだと自覚して嬉しかった。
「ネビロスさん」
「はい？」
「お休みなさい。大好きです…」
そう口に出すと、一瞬キョトンとした表情を浮かべ、ネビロスはすぐ微笑む。そしてミアの髪を触れるだけの様に優しくなぞり、額にキスをした。
「私もです…ミアが好きですよ」
ミアはそれを聞き安心した様に目を伏せるとそのまますうすう寝息を立て始める。ネビロスはそれを見届けると嬉しそうに彼女の頬に口付け、そっと部屋の中の何も無い壁を見つめた。
何でだろう。こうして何も無い壁を使って一点を見つめていると、何だか視界の端の方に彼女がいる気がするのだ。決して焦点の合う位置に現れない。決して真ん中に現れない。あくまで視界の端っこの方に彼女は居る。
そして彼女は、いつも腹から血を滴らせ、そこに佇んでいる。
「……ルミエル」
ミアと愛し合う様になり、ミアと過ごす事が多くなり、必然的に彼女 の事を考える時間が減った。それはネビロスの心の負担を軽減させているのは明らかで、最初は無理にルミエルの事を考えて悲しみに浸らなくても良いのだと少し気持ちが軽くなったのは確かなのだが、その気持ちはその後違う物に変わってしまう。
最近はむしろ思い出さない事でルミエルに責められている様な気がしてしまっているのだ。ミアへの愛に逃げ、自分から目を背けるネビロスをルミエルは怨んでいる。ネビロスは何故かそんな事を思っていた。
ごめん、ごめんルミエル。
決して君を悪者に仕立て上げたいわけでは無いのに。それでも君を思い出すのが苦痛なんだ。
あの日の君を思い出すと頭が痛くて堪らなくなる。君の事は子供の頃から見て来たから、あの日もしっかり君を見た。
すぐ横に居る我が子の──ルーチェの目が異様な光を放ち、君を獲物と見定めた瞬間の、そんな事知る由もないと言う君の顔。
その後、大きく振りかぶったルーチェの腕が君の柔らかな胸のすぐ下を捉えた。おそらくは心臓を狙おうとして的が外れたのだろう。それに気付いた時の信じ難いと言わんばかりに驚愕した君の顔。
瞬時に襲って来た痛みを認識し、絶望に染まった君の顔。
君の腹から溢れんばかりに噴き出す血。
君を確実に殺す為、腹から臓物まで引き摺り出そうとするルーチェは残忍な手法に反し感情の無い顔をしていた。
そして段々生き物としての活動を停止させて行く君。
頭ではこんなにはっきり認識していたのに、全く体が動かさずただ君が死んで行くのを黙って見ていた自分。
ねえルミエル、あの時私は笑っていたんだ。あの日から私はこの気持ちの悪い脊椎反射の様な物に囚われ、それによる負の連鎖を断ち切れなくなってしまった。
うとうととネビロスも微睡む。
視界の端のルミエルはいつのまにか朧げな形しか写し出さなくなった。
どうやら薬の効果が切れる前にもう一眠り出来そうだ。
不意に耳の奥にボトボトボトッと何かが落ちる音が響く。これは、ルミエルが居なくなるサインの様な物。臓物を床に落とす音を響かせ、彼女は消える。最初こそこの音を聞いて不快感から嘔吐した事もあった。だが今は、それが彼女からの「また来るね」と言うメッセージだと思うとすっと受け入れられる様になった。
酷い、酷い、身勝手な男だ。
愛しているから手放してしまいたくて、愛していたから今はもう思い出したくなくて、でもいざ思い出さない日があると急に焦燥感に駆られ、彼女が他の男と居ると思うと急に手放したく無くなる。
本当に勝手な物だ。自分本位、身勝手で汚い大人。
彼女と口付けを交わす度、幸せで厭な気持ちになる。まるで自分の唇と交わったところから彼女が汚れていくのでは無いかと思う。そう思うのに、幸せそうなその空色の瞳で見つめられるともっと彼女を味わいたくなる。
自分の物だと独占欲を剥き出しにした印を付けたくなる。そしてそれを付ける度、また彼女を汚している気になってしまうのだ。
「ネビロスさん…？」
ベッドで寝ていたミアに声を掛けられネビロスは我に返る。直前まで見せていた暗い顔を何とか取り払い、努めて優しい顔でミアに向き合った。
「おや…？起こしてしまいましたか？ミア」
「ネビロスさんこそ…いつ起きたんですか…？」
ミアと恋人同士になってから定期的に互いの部屋で夜を過ごす様になった。とは言え一緒にお茶を飲んだり仕事の確認をしたり、偶に無理無い程度に晩酌をしてみたり。
キスをするのにやっと慣れてくれたミアと口付けを交わしたり様子を見つつ体に触れる事はあれど、まだ一線は超えていない。舌を絡める様に深く深く口付けを交わせばその先にも進みたくなるものだがまるで怖気付いた様に止まってしまう。ネビロスには胸に秘めた想いがあった。
「ついさっきですよ。目が覚めてしまって…眠れるか分からなかったので少し窓から外を眺めていました。今日は月が綺麗だったので」
そう言って月光を背にするネビロスの姿にミアは目眩がした。ネビロスさん、綺麗。そう思わず漏らせば彼は本心から嬉しそうに微笑む。
本当に綺麗に見えた。
だから急に怖くなった。
ネビロスの正体が実は月の妖精で、ふとした弾みで自分の前から居なくなってしまいそうな儚く消えてしまいそうなそんな気がしてしまったからだ。
「ネビロスさん…！！」
気付けばミアはベッドから飛び起きると背中を押された様に駆け出し、ネビロスの体に抱き付いた。ネビロスは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに優しく微笑むとミアの頭を撫でた。
「…どうしました？」
「ネビロスさん…ネビロスさん…！」
行かないで。
何故かそんな言葉が頭を過ぎるが、それを言ったら本当に彼が居なくなってしまう気がして言えなかった。だから誤魔化す様に言葉を選ぶ。『起きる直前に見た怖い夢を思い出した』なんてお粗末な嘘だがネビロスはそれを聞いて頭を撫でるだけでなくその腕で抱き締めてくれた。
「怖がりですね、ミアは…」
「はい…怖いです…」
貴方が居なくなる気がして。
「…大丈夫。傍に居ますよ。一緒に寝ましょうか。温かいミアを抱きしめていたら何だかまた眠くなって来ました」
「…はい、ネビロスさん…」
二人でベッドまで戻り、一緒に潜り込む。一人用の狭いベッドだがそれ故に寂しくなかった。最初こそ彼との密着にどきどきと胸が弾んだものだが最近はそれも少しだけ落ち着いて来ている。本当に少しだけ。以前よりもっともっとネビロスからの愛情表現をきちんと受け止められる様になったし、それで慌てたりもしなくなった。
だからまだどきどきするけれど、それを感じる度ミアはネビロスが好きだと自覚して嬉しかった。
「ネビロスさん」
「はい？」
「お休みなさい。大好きです…」
そう口に出すと、一瞬キョトンとした表情を浮かべ、ネビロスはすぐ微笑む。そしてミアの髪を触れるだけの様に優しくなぞり、額にキスをした。
「私もです…ミアが好きですよ」
ミアはそれを聞き安心した様に目を伏せるとそのまますうすう寝息を立て始める。ネビロスはそれを見届けると嬉しそうに彼女の頬に口付け、そっと部屋の中の何も無い壁を見つめた。
何でだろう。こうして何も無い壁を使って一点を見つめていると、何だか視界の端の方に彼女がいる気がするのだ。決して焦点の合う位置に現れない。決して真ん中に現れない。あくまで視界の端っこの方に彼女は居る。
そして彼女は、いつも腹から血を滴らせ、そこに佇んでいる。
「……ルミエル」
ミアと愛し合う様になり、ミアと過ごす事が多くなり、必然的に
最近はむしろ思い出さない事でルミエルに責められている様な気がしてしまっているのだ。ミアへの愛に逃げ、自分から目を背けるネビロスをルミエルは怨んでいる。ネビロスは何故かそんな事を思っていた。
ごめん、ごめんルミエル。
決して君を悪者に仕立て上げたいわけでは無いのに。それでも君を思い出すのが苦痛なんだ。
あの日の君を思い出すと頭が痛くて堪らなくなる。君の事は子供の頃から見て来たから、あの日もしっかり君を見た。
すぐ横に居る我が子の──ルーチェの目が異様な光を放ち、君を獲物と見定めた瞬間の、そんな事知る由もないと言う君の顔。
その後、大きく振りかぶったルーチェの腕が君の柔らかな胸のすぐ下を捉えた。おそらくは心臓を狙おうとして的が外れたのだろう。それに気付いた時の信じ難いと言わんばかりに驚愕した君の顔。
瞬時に襲って来た痛みを認識し、絶望に染まった君の顔。
君の腹から溢れんばかりに噴き出す血。
君を確実に殺す為、腹から臓物まで引き摺り出そうとするルーチェは残忍な手法に反し感情の無い顔をしていた。
そして段々生き物としての活動を停止させて行く君。
頭ではこんなにはっきり認識していたのに、全く体が動かさずただ君が死んで行くのを黙って見ていた自分。
ねえルミエル、あの時私は笑っていたんだ。あの日から私はこの気持ちの悪い脊椎反射の様な物に囚われ、それによる負の連鎖を断ち切れなくなってしまった。
うとうととネビロスも微睡む。
視界の端のルミエルはいつのまにか朧げな形しか写し出さなくなった。
どうやら薬の効果が切れる前にもう一眠り出来そうだ。
不意に耳の奥にボトボトボトッと何かが落ちる音が響く。これは、ルミエルが居なくなるサインの様な物。臓物を床に落とす音を響かせ、彼女は消える。最初こそこの音を聞いて不快感から嘔吐した事もあった。だが今は、それが彼女からの「また来るね」と言うメッセージだと思うとすっと受け入れられる様になった。
朝日を浴びた物悲しさ
「んぅ…？」
ぱちりと目が覚めたミアは窓から太陽の光が差し込んでいる事に気が付いた。もう朝だ。けれど、昨日一回起きてしまったからか、何だか少し長い夜だった気がした。
横を見るとネビロスが寝ている。昨夜感じた儚く消えそうな雰囲気は今の彼には無く、ただただ穏やかに眠っている。ミアはそんなネビロスに手を見、彼の頭を撫でる様に優しく手を置いた。何故か昨日は本当に怖かった。ネビロスが居なくなりそうで。
「…駄目駄目！そんな事思わないっ！」
朝からそんな怖い事、考えない。
ぱしぱしと自分の頬を叩き叱責する。別の事を考えよう、そう思ったミアの脳裏に先日のクロエとの会話が蘇って来た。
* * *
「で？ネビロス氏とはその後？」
珍しく終業後お互い暇だったのでモビデことモビーディックス・コーヒーに出掛ける事にした。テロ以降こんな女子高生らしい事をしていなかったのでミアはワクワクしながら店頭で呪文を唱える。
フォーヒアリストレットベンティツーパーセントアドエクストラソイエクストラチョコレートエクストラホワイトモカエクストラバニラエクストラキャラメルエクストラヘーゼルナッツエクストラクラシックエクストラチャイエクストラチョコレートソースエクストラキャラメルソースエクストラパウダーエクストラチョコレートチップエクストラローストエクストラアイスエクストラホイップエクストラトッピングダークモカチップクリームフラップッチーノお願いします、と。店員も慣れた物でそれを忠実に作っていく。一方クロエは、そんな黒魔術師の様なミアを横目に一言「ホットミルクとパンプキンスコーン、ソーセージパイで」とあっさりした注文をした。
見た目にも女の子受けしそうなミアのフラップッチーノ、どちらかと言うと食に傾いたクロエの持つトレー。個性の出る注文の仕方にミアが笑っていたら席に着いた後クロエからのその質問が飛び出たのだ。
「その後？いつも通りだよ？行ける時は夜にどっちかの部屋に行って、お仕事の内容確認したり分からないところ勉強し合ったり、たまにちょっとだけお酒飲む事もあるよ！」
「ふーん。で、その時どこまでされるんです？」
「え？どこ…？あ、最近ネビロスさんの為にと思って置いたコーヒー豆や紅茶の場所覚えてくれたみたいで私の部屋でも朝とか二人の分淹れてくれるよ…？」
「そうじゃねぇよ」
ズバッと無遠慮に切るクロエの言葉に「あらら」と声を漏らすミア。ホイップクリームをつついて口に含んでいると、大きな一口でソーセージパイに齧り付いたクロエはそれを牛乳と一緒に飲み込んだ。
「キスから先の進展は？」
ミアはその言葉に動揺してホイップクリームに深くストローを刺してしまった。
「あああ！ホイップがー！」
諦めた様に形の崩れたホイップクリームを口に運ぶ。せっかく綺麗だったのに、一度崩れたらもう戻せないのだからあまり驚く事を言わないで欲しい物だ。
「し、進展って…無いもん」
「…嘘。ミア、嘘吐いてますね」
「え！？何で分かるの！？」
「まるっとお見通しですよ、ミアは嘘を吐くとちょっと変な目の動きをします…うふふ」
「え！？そんなわかりやすいの！？」
「なーんて、それこそ嘘ですよ。私がそんな人の体の変化分かる訳ないじゃ無いですか。カマ掛けですよカマ掛け。嘘吐いてるのかと思ってそう聞いたら貴女が自爆しただけです」
「クロエちゃんひどーい！！私そんな分かりやすいのかと思って心配したのにー！！」
「まぁ、分かりやすくはありますけどね。で？どうなんですか？」
じっと此方を見るクロエにミアは思わず目を背けた。しかしクロエのこの制服とモビデと言うのが何とも学校に通っていた頃を彷彿とさせ、放課後の様でワクワクしてしまうのも確かで。おいそれと人に話して良い話では無い様な気もするのだが、クロエとの情報共有もまたしたかった。
「ネビロスさん、に…。少し触られる事、あるよ…？」
しかし口に出すと本当に恥ずかしい物で、ミアはすぐにきゃーきゃー言いながら真っ赤な顔でフラップッチーノを半ばヤケの様に数回口に運んだ。
「どこを？」
「な、何でそんな追求するのクロエちゃん…」
「もう二ヶ月近くなりますからね。何かありゃしないかと思っただけです」
「何かって？」
ズズズ…と音を立ててストローでゆっくり冷たいフラップッチーノを吸う。甘い味が口内に広まると瞬時に幸せな気持ちになる。
「セックスとか」
そして咽せた。
甘い幸せな味だった筈のフラップッチーノが鼻の方まで逆流し、それが冷たい物だから尚更鼻の奥が変に痛い。
数回ゲホゲホと咽せた後、涼しい顔でソーセージパイを齧るクロエをミアは睨んだ。
「クロエちゃん！もうっ！」
「うふふ、そんな子猫の睨み怖くも何とも無いですね」
「なんて事聞くのかと思ったよ！」
「……まあ、ミアがその辺の知識無さそうだったんで。そんな事はあの人に限って無いだろう、無い事であって欲しいと思ってはいますが…知らないのを良い事に言葉巧みにそう言う方向に誘導する悪い大人は居るんですよ」
心配そうな目でミアを見るクロエ。ミアはやっと咽せる喉が落ち着いた頃、そんなクロエの顔を見て優しく微笑んだ。
「クロエちゃん、ありがとう。でも大丈夫だよ！ネビロスさん、無理させないって言ってくれたし、私の気持ち聞いてくれるし」
「ミア、単語で噴くって事は多少知識あったんですね」
「だって…キャベツ畑の話ですっごい心配されちゃったんだもん…」
「ま、医療班でその辺の知識皆無だとちょっと今後に支障出かねませんもんね」
「あ、ひどーい」
「ちなみに何で勉強したんです？医学書とか…或いは学校の教科書とか…」
「深夜にやってたちょっと大人向けな映画とドラマと少女漫画！」
「鬼の様に偏りがあるじゃねぇか」
全くもう、とスコーンに手を伸ばしたクロエは今度は割と小さな口でそれを一口齧ると、ミアに優しい目を向ける。そして忠告した。
「……朝方の男の理性の消え方はヤバいらしいですよ」
「え？」
「寝起きが一番そう言う気分になってるらしいんです。これは感情がどうのと言うより、生物としての体の反応がどうとか。なので前日の夜一緒に寝ていても朝起きた時に不用意にキスをしたり触らせたりしない方が良いかもしれませんね」
「そ、そうなんだ…」
「ネビロス氏はネビロス氏で、あれで鋼の様な理性で我慢してるとこあるかもしれませんからね。好きな女ただ横に置いて手も出さずに満足する男なんて居ないでしょ」
はい、あーん。そう言ってスコーンをミアの口元に持って行くクロエ。ミアも疑いもせず一口ぱくりと口にした。かぼちゃの優しい甘さが美味しいスコーンだ。
「そんな気も無いなら刺激しないに越した事は無いですよ。一度崩れたら戻せないものが男女の関係には結構多いんで」
そう言われ、ミアは自分の前にあるフラップッチーノを見る。このホイップと同じ、崩れたら戻せないものが多い。
「知ってしまったら知る前の自分には戻れない。仕事だろうが何だろうが、そんなの結構当たり前にありますけど、その中でも当事者として大きく実感する事が恋人との色々には多いですから。そこで培われる信用や不信感も。一度大きく傾いたら、戻すのは難しいんです。まあ、それを経て得るのがその二人の恋人としての形っちゃ形かもしれませんが」
「…そう言うクロエちゃんは、経験あるの？私ばっか喋ってる気がして…」
「無いです。未だかつて、一度たりとも」
「えー…」
「だからミアが喋ってください。私はそれを肴に牛乳でも飲みますよ」
* * *
そんな会話をした事を思い出し、ミアはネビロスを見る。そう言えばいつも起きるのはネビロスの方が早かった。ミアが起きるとネビロスは大概起きていて、朝ご飯の準備もしてくれている。
クロエはああ言ったが、いつも先に起きているネビロスが何もして来ないのだから彼にそう言う気持ちは薄いのかもしれない。そう思いながら、今日は自分の方が早く起きれたのだから彼の為に朝ご飯を作ろうと気合いを入れる。
しかしその前に、せっかくだからネビロスの寝顔を眺めてみた。昨日はあんなに儚く消えそうな顔をしていたのに今は安心した様に眠っている。疲れているからなのか、彼はいつも年齢不詳な見た目をしている。微笑む事はあっても大袈裟に笑わない。物静かだけど決して怒らないわけではない。
彼の人間らしさが見える度に、また彼への想いが上書きされてどんどん好きになる。
気付くとミアは、真っ赤な顔で自分の髪の毛を押さえる様に手で軽く纏めると、ネビロスの顔に髪の毛が掛からないように注意しながら眠る彼の唇に自分のそれを重ねてみた。
冷静になると随分大胆な事をしてしまったかも？とも思う。まあ良いか、たまには。
満足しながら離れる為に体を起こそうとしたミアの頭にぐっと手が伸びる。ミアがそれに気付いたのは、ぐいと寄せられて再び彼と口付けを交わしていると気が付いた時だった。
「んっ…ネビロス、さん…！」
「…ミア」
いつも以上に甘い声で囁かれ一瞬脳が溶ける様な気持ちになるが、ふとクロエと交わした会話を思い出した。
『……朝方の男の理性の消え方はヤバいらしいですよ』
『寝起きが一番そう言う気分になってるらしいんです。なので一緒に寝ていても朝起きた時に不用意にキスをしたり触らせたりしない方が良いかもしれませんね』
心の何処かでネビロスにはそう言うものが無いのではないかと思っていた。彼は特別で、見た目通り本当に人間離れした、ちょっと機械人形の様な感性を持った人。しかしそんな事は無かった。ネビロスは人間で、男だった。
「ネビロスさん…！」
ベッドに引き摺り込まれ強引に口付けられる。普段が優し過ぎるからか、触れ方がいつもより荒く感じる。
するりと下着を探る様に伸ばされた手はいつもの彼より少し温かくて触れられているのをより実感する。しかし、そんな中でも意外と冷静にミアは気が付いた。今ネビロスに感じて居る恐怖は彼の理性の無い姿では無い。そうだ、何故かそう思ってしまうのだ。もし今このまま彼を受け入れたら、
──その後彼が居なくなってしまう気がして。
「ネビロス…さん…。私、嫌。嫌です…！」
目に涙を溜めながらやっとそう口にすると、体を這っていた手も唇もぴたりと止まる。そしてゆっくり体が離れて行く感じがして、次の瞬間にはいつもの様に抱き締められていた。
「ネビロスさん…！ネビロスさん…！」
ネビロスは何も言わない。ごめんでも無ければこのまま続けたいと言うでもない。ただただ呆然とした様にミアを力無く抱き締めて彼女の頭を優しく撫でた。
ミアは何故かこの時やっと彼がここ に戻って来た様な気がした。
ぱちりと目が覚めたミアは窓から太陽の光が差し込んでいる事に気が付いた。もう朝だ。けれど、昨日一回起きてしまったからか、何だか少し長い夜だった気がした。
横を見るとネビロスが寝ている。昨夜感じた儚く消えそうな雰囲気は今の彼には無く、ただただ穏やかに眠っている。ミアはそんなネビロスに手を見、彼の頭を撫でる様に優しく手を置いた。何故か昨日は本当に怖かった。ネビロスが居なくなりそうで。
「…駄目駄目！そんな事思わないっ！」
朝からそんな怖い事、考えない。
ぱしぱしと自分の頬を叩き叱責する。別の事を考えよう、そう思ったミアの脳裏に先日のクロエとの会話が蘇って来た。
* * *
「で？ネビロス氏とはその後？」
珍しく終業後お互い暇だったのでモビデことモビーディックス・コーヒーに出掛ける事にした。テロ以降こんな女子高生らしい事をしていなかったのでミアはワクワクしながら店頭で呪文を唱える。
フォーヒアリストレットベンティツーパーセントアドエクストラソイエクストラチョコレートエクストラホワイトモカエクストラバニラエクストラキャラメルエクストラヘーゼルナッツエクストラクラシックエクストラチャイエクストラチョコレートソースエクストラキャラメルソースエクストラパウダーエクストラチョコレートチップエクストラローストエクストラアイスエクストラホイップエクストラトッピングダークモカチップクリームフラップッチーノお願いします、と。店員も慣れた物でそれを忠実に作っていく。一方クロエは、そんな黒魔術師の様なミアを横目に一言「ホットミルクとパンプキンスコーン、ソーセージパイで」とあっさりした注文をした。
見た目にも女の子受けしそうなミアのフラップッチーノ、どちらかと言うと食に傾いたクロエの持つトレー。個性の出る注文の仕方にミアが笑っていたら席に着いた後クロエからのその質問が飛び出たのだ。
「その後？いつも通りだよ？行ける時は夜にどっちかの部屋に行って、お仕事の内容確認したり分からないところ勉強し合ったり、たまにちょっとだけお酒飲む事もあるよ！」
「ふーん。で、その時どこまでされるんです？」
「え？どこ…？あ、最近ネビロスさんの為にと思って置いたコーヒー豆や紅茶の場所覚えてくれたみたいで私の部屋でも朝とか二人の分淹れてくれるよ…？」
「そうじゃねぇよ」
ズバッと無遠慮に切るクロエの言葉に「あらら」と声を漏らすミア。ホイップクリームをつついて口に含んでいると、大きな一口でソーセージパイに齧り付いたクロエはそれを牛乳と一緒に飲み込んだ。
「キスから先の進展は？」
ミアはその言葉に動揺してホイップクリームに深くストローを刺してしまった。
「あああ！ホイップがー！」
諦めた様に形の崩れたホイップクリームを口に運ぶ。せっかく綺麗だったのに、一度崩れたらもう戻せないのだからあまり驚く事を言わないで欲しい物だ。
「し、進展って…無いもん」
「…嘘。ミア、嘘吐いてますね」
「え！？何で分かるの！？」
「まるっとお見通しですよ、ミアは嘘を吐くとちょっと変な目の動きをします…うふふ」
「え！？そんなわかりやすいの！？」
「なーんて、それこそ嘘ですよ。私がそんな人の体の変化分かる訳ないじゃ無いですか。カマ掛けですよカマ掛け。嘘吐いてるのかと思ってそう聞いたら貴女が自爆しただけです」
「クロエちゃんひどーい！！私そんな分かりやすいのかと思って心配したのにー！！」
「まぁ、分かりやすくはありますけどね。で？どうなんですか？」
じっと此方を見るクロエにミアは思わず目を背けた。しかしクロエのこの制服とモビデと言うのが何とも学校に通っていた頃を彷彿とさせ、放課後の様でワクワクしてしまうのも確かで。おいそれと人に話して良い話では無い様な気もするのだが、クロエとの情報共有もまたしたかった。
「ネビロスさん、に…。少し触られる事、あるよ…？」
しかし口に出すと本当に恥ずかしい物で、ミアはすぐにきゃーきゃー言いながら真っ赤な顔でフラップッチーノを半ばヤケの様に数回口に運んだ。
「どこを？」
「な、何でそんな追求するのクロエちゃん…」
「もう二ヶ月近くなりますからね。何かありゃしないかと思っただけです」
「何かって？」
ズズズ…と音を立ててストローでゆっくり冷たいフラップッチーノを吸う。甘い味が口内に広まると瞬時に幸せな気持ちになる。
「セックスとか」
そして咽せた。
甘い幸せな味だった筈のフラップッチーノが鼻の方まで逆流し、それが冷たい物だから尚更鼻の奥が変に痛い。
数回ゲホゲホと咽せた後、涼しい顔でソーセージパイを齧るクロエをミアは睨んだ。
「クロエちゃん！もうっ！」
「うふふ、そんな子猫の睨み怖くも何とも無いですね」
「なんて事聞くのかと思ったよ！」
「……まあ、ミアがその辺の知識無さそうだったんで。そんな事はあの人に限って無いだろう、無い事であって欲しいと思ってはいますが…知らないのを良い事に言葉巧みにそう言う方向に誘導する悪い大人は居るんですよ」
心配そうな目でミアを見るクロエ。ミアはやっと咽せる喉が落ち着いた頃、そんなクロエの顔を見て優しく微笑んだ。
「クロエちゃん、ありがとう。でも大丈夫だよ！ネビロスさん、無理させないって言ってくれたし、私の気持ち聞いてくれるし」
「ミア、単語で噴くって事は多少知識あったんですね」
「だって…キャベツ畑の話ですっごい心配されちゃったんだもん…」
「ま、医療班でその辺の知識皆無だとちょっと今後に支障出かねませんもんね」
「あ、ひどーい」
「ちなみに何で勉強したんです？医学書とか…或いは学校の教科書とか…」
「深夜にやってたちょっと大人向けな映画とドラマと少女漫画！」
「鬼の様に偏りがあるじゃねぇか」
全くもう、とスコーンに手を伸ばしたクロエは今度は割と小さな口でそれを一口齧ると、ミアに優しい目を向ける。そして忠告した。
「……朝方の男の理性の消え方はヤバいらしいですよ」
「え？」
「寝起きが一番そう言う気分になってるらしいんです。これは感情がどうのと言うより、生物としての体の反応がどうとか。なので前日の夜一緒に寝ていても朝起きた時に不用意にキスをしたり触らせたりしない方が良いかもしれませんね」
「そ、そうなんだ…」
「ネビロス氏はネビロス氏で、あれで鋼の様な理性で我慢してるとこあるかもしれませんからね。好きな女ただ横に置いて手も出さずに満足する男なんて居ないでしょ」
はい、あーん。そう言ってスコーンをミアの口元に持って行くクロエ。ミアも疑いもせず一口ぱくりと口にした。かぼちゃの優しい甘さが美味しいスコーンだ。
「そんな気も無いなら刺激しないに越した事は無いですよ。一度崩れたら戻せないものが男女の関係には結構多いんで」
そう言われ、ミアは自分の前にあるフラップッチーノを見る。このホイップと同じ、崩れたら戻せないものが多い。
「知ってしまったら知る前の自分には戻れない。仕事だろうが何だろうが、そんなの結構当たり前にありますけど、その中でも当事者として大きく実感する事が恋人との色々には多いですから。そこで培われる信用や不信感も。一度大きく傾いたら、戻すのは難しいんです。まあ、それを経て得るのがその二人の恋人としての形っちゃ形かもしれませんが」
「…そう言うクロエちゃんは、経験あるの？私ばっか喋ってる気がして…」
「無いです。未だかつて、一度たりとも」
「えー…」
「だからミアが喋ってください。私はそれを肴に牛乳でも飲みますよ」
* * *
そんな会話をした事を思い出し、ミアはネビロスを見る。そう言えばいつも起きるのはネビロスの方が早かった。ミアが起きるとネビロスは大概起きていて、朝ご飯の準備もしてくれている。
クロエはああ言ったが、いつも先に起きているネビロスが何もして来ないのだから彼にそう言う気持ちは薄いのかもしれない。そう思いながら、今日は自分の方が早く起きれたのだから彼の為に朝ご飯を作ろうと気合いを入れる。
しかしその前に、せっかくだからネビロスの寝顔を眺めてみた。昨日はあんなに儚く消えそうな顔をしていたのに今は安心した様に眠っている。疲れているからなのか、彼はいつも年齢不詳な見た目をしている。微笑む事はあっても大袈裟に笑わない。物静かだけど決して怒らないわけではない。
彼の人間らしさが見える度に、また彼への想いが上書きされてどんどん好きになる。
気付くとミアは、真っ赤な顔で自分の髪の毛を押さえる様に手で軽く纏めると、ネビロスの顔に髪の毛が掛からないように注意しながら眠る彼の唇に自分のそれを重ねてみた。
冷静になると随分大胆な事をしてしまったかも？とも思う。まあ良いか、たまには。
満足しながら離れる為に体を起こそうとしたミアの頭にぐっと手が伸びる。ミアがそれに気付いたのは、ぐいと寄せられて再び彼と口付けを交わしていると気が付いた時だった。
「んっ…ネビロス、さん…！」
「…ミア」
いつも以上に甘い声で囁かれ一瞬脳が溶ける様な気持ちになるが、ふとクロエと交わした会話を思い出した。
『……朝方の男の理性の消え方はヤバいらしいですよ』
『寝起きが一番そう言う気分になってるらしいんです。なので一緒に寝ていても朝起きた時に不用意にキスをしたり触らせたりしない方が良いかもしれませんね』
心の何処かでネビロスにはそう言うものが無いのではないかと思っていた。彼は特別で、見た目通り本当に人間離れした、ちょっと機械人形の様な感性を持った人。しかしそんな事は無かった。ネビロスは人間で、男だった。
「ネビロスさん…！」
ベッドに引き摺り込まれ強引に口付けられる。普段が優し過ぎるからか、触れ方がいつもより荒く感じる。
するりと下着を探る様に伸ばされた手はいつもの彼より少し温かくて触れられているのをより実感する。しかし、そんな中でも意外と冷静にミアは気が付いた。今ネビロスに感じて居る恐怖は彼の理性の無い姿では無い。そうだ、何故かそう思ってしまうのだ。もし今このまま彼を受け入れたら、
──その後彼が居なくなってしまう気がして。
「ネビロス…さん…。私、嫌。嫌です…！」
目に涙を溜めながらやっとそう口にすると、体を這っていた手も唇もぴたりと止まる。そしてゆっくり体が離れて行く感じがして、次の瞬間にはいつもの様に抱き締められていた。
「ネビロスさん…！ネビロスさん…！」
ネビロスは何も言わない。ごめんでも無ければこのまま続けたいと言うでもない。ただただ呆然とした様にミアを力無く抱き締めて彼女の頭を優しく撫でた。
ミアは何故かこの時やっと彼が
雁字搦めの二律背反
クインは自販機の前に立つと小銭を入れボタンを押す。しかし、紅茶を押したつもりだったのに、呆けていて隣の微糖コーヒーを押してしまったのか出てきたのはコーヒーだった。
「あらやだ…」
こう言う時の小さな不運と言うのはその後のテンションに作用する。クインは午後から何人も、一人当たり六十分近く取るカウンセリングを予定して居るのに先が思いやられるなと愚痴った。
そんな時に、光を浴びて少しキラキラした銀色の髪を携えた彼が現れたので尚更気分は沈む。
ネビロスは自販機で牛乳と砂糖たっぷりのコーヒーを買うと、クインのすぐ横に落ち着いた。
「ここ使うのかしら？じゃあ、私は行くからお一人でどうぞ？」
クインがそのまま離れようとするが、不意にネビロスに腕を掴まれ動けなくなる。はぁ、と分かりやすく大きな溜息が出てしまった。
クインは相も変わらず暗い顔で自分を見つめる大男を一瞥した。
「貴方って、あまり笑わないのね」
「…ミアの前では、これでも笑う方なんですが」
「ただの惚気なら聞いてあげるわよ。でも相談事なら今は営業時間外だわ」
クインは、ネビロスにカウンセラーとして求められる事はほぼ無い。何故なら二人は性格的に相性が悪く、普段から関わりを持たない様気を付けて居るからだ。クインが居ながら彼の治療をアペルピシアが一手に担って居るのは勿論彼女のやり方がネビロスに合っているからと言うのもあるが、自分が担当したら双方嫌な思いしかしないとそう言ってクインが辞退したのもある。
クインは過去の出来事から死に急ぐ男性が苦手だ。悲しくて悲しくて、悲しみに蓋をしきれなくなってしまう。ネビロスは確かにミアと関わって変わった気がする。しかしそれはあくまで表面的な話であり、奥深くでは未だ根強くその弱さが彼の核となっている事も知っている。
クインはネビロスのたまに見せる弱さを危惧していた。この弱さは例えるならば、少し目を離したら目の前から消えてなくなりそうなそんな儚さを持った弱さ。
「今の私は貴方の望む答えを用意出来ないと思うわ。今は仕事のモードになって居ないし、私は貴方が好きでは無いの。だからきっといじめたくなっちゃうわよ？」
敢えて揶揄う様にそう口にしてみる。しかし、こう言う時のネビロスはそんな事で引いてくれないのも知っていた。
「だからこそ、貴女に聞いてほしいんです」
ネビロスはそう呟いた。
「私に教会の懺悔室になれって言うの？悪いけどそれなら今神は里帰り中よ」
「それで良いんです。私の事を見透かしているであろう貴女だから、聞いて欲しいんです。神に聞いて罪を許して欲しいなどと思ってません。ただ私が懺悔するだけです。貴女が私を責めるなら責めるで良いんですよ」
これは何を言ってもどいてくれる感じでは無い。ネビロスはこう言うところが頑固なのだ。
「全くしょうがないわね…。その代わり、今の私に何言われても『余計辛くなった』なんて責任転嫁はなしよ？」
「はい、ありがとうございます」
ネビロスは音を立てて缶コーヒーのプルタブを開ける。音が響いた事で余計に二人きりの空間を強調された気がした。
「私は…ここに来た時から何か変わったつもりでいました」
「はい…？」
「ですが結果として、あまり変わって居ません。私は私を、きっとまともな人間であろうと周りから思われれば思われる程、まともじゃ無い素振りをしたくなるのです」
「それはその後ミアと会って変わったのではなくて？」
「いいえ、いいえ。変わったつもりでいました。本当につもりなだけでした。どんなにミアを愛しても、愛したからこそ自覚した想いがあります。きっと私は、相反した思いで打ち消したいんです」
クインは目を見開くとネビロスを見つめる。ネビロスは変わらずクインを視界に入れず何処か遠くを眺めて居た。
「エル先生から定期的な催眠療法と薬を貰って凌いでいますが…それが本当に恨み辛みでそこに居るのか私の脳が作った幻なのか、ルミエルが…亡くなった妻がよく視界の端に居るのです。あの日と同じ、格好で」
裂けた腹から血と臓物を滴らせて佇んでいる顔の見えない愛した人。いつも視界の端っこで、まるで存在を知らしめる様にそこに居る。
大丈夫だよ、そんな心配しなくても。君を置き去りにして一人幸せになんてならない。なってはいけない。私は運良く生き延びただけで、きっとそこに意味は無い。
ルミエルが死ぬまで笑って彼女を見つめて居た、そしてやっと体を動かせたと思ったら、手の甲が変色するくらいルーチェを殴り続けてしまった。私達の娘だった筈のあの子を。あの拳がどう言う理由で奮われたのか今でも分からない。ただただ機械人形の破壊と言うだけなら道具だってあった筈だ。なのに素手で、そして壊れたのに気付いても一昼夜殴り続けたのは私の中で異常な気持ちが起きたからだ。
ルミエルが死ぬのを見、笑っていた。
ルーチェをこれ以上汚染された機械人形で居させたくなくて、自分の手で破壊した。原型を留めないくらいにまで。
ショックで倒れて、そして生き延びた。
目が覚めた時、私は物事にバランスを付けたがった。良い事が起きたら、敢えて悪い事を取り入れる様にして居た。
これ以上傷付きたくない。きっと根底はこれなのだ。
良い人だ、と見られているのに気付いたら異様な人間を装いたくなる。
ケンズの医者達によって救われた命である事は分かっている。だから無理をするなと言われると、より体に負荷を掛けたくなって休みを拒否する様になる。
まともな人間では居られない。居てはいけない。だって私は君が死ぬ間際、笑ってそれを眺めて居た人間なのだから。
「………ふぅ」
ネビロスが一区切り着くまで黙ってそれを聞いたクインは、溜め息を吐くと流し込む様にコーヒーを飲む。まるで搾り取った胆汁の様な苦さを感じた。そう考えてしまうくらいにはネビロスの異様な思考に今この瞬間毒されているな、と彼女は自覚する。
ネビロスは尚も続けた。
「私を人間らしく引っ張ってくれたのは、ミアの存在なのです…」
ミアと出会い、彼女に恋をした。
彼女の純粋な優しさに触れていつしか好きになって居た。他の女性はどうでも良くて、本当に彼女の事しか目に入らなくなった時、ルミエルがまた現れた。
顔の見えない、暗がりに潜むおぞましい化け物の様な姿で。
──死ぬ私を見て笑って居たじゃない。その行動の正常さを追求したくて、貴方は物事にバランスを取りたがっていたのでしょう？一つ前の動作を打ち消すだけの理由、それが欲しくて相反する行動を取っていたのでしょう？なら、彼女を愛したならどうするの？──
そう言われている気がした。ミアへの想いを強く持てば持つ程ルミエルの存在を強く感じる様になって居た。それでも体は止まってくれなくて何度もミアを求めた。
初めてキスした夜は幸せだった。その日は割れる程頭が痛くなった。
初めて彼女の体に触れた時は久々に体の底から生きている実感が湧いた。その日はずっとルミエルの存在を感じて居た。
「そしてつい今朝の事ですが…私は我を忘れてミアを抱こうとしました」
「ふーん…？」
「寝起きだったから、と言うのが一番大きいのですが。彼女から求める様にキスをされて何も考えられなくなったんです。随分あの子を怖がらせてしまった…」
「……へぇ」
それは、急に求められたからではなく、貴方の考えを彼女が先読みしたからでは無いかしら？
クインはそう言おうとしたが言葉にしなかった。しかし結果として話を聞けば、おそらくそう言う 事だった。
「気付いたんです。私はあの日からずっと、死んでいくルミエルを見て笑みを見せてしまった理由と納得するだけの理由を求めて日々を過ごして居たと。そして、打ち消す行動を無意識に取る事で安心する事に気が付きました。人からの評価が上がり掛けたらそれを打ち消す行動を。そして人に過度に踏み込んで傷付きたく無いと思っていました。それは今尚続いて居ます。なのに、私はミアをこんなに愛してしまった。前向きに生きようと思ったのに、それでもまだその思いは消えてくれません。だからもしもミアに手を出したなら、私はその日の内に反射的に死に場所を決めるのだと思います」
パシッ。空間を割く乾いた音が響き渡る。クインは渾身の力でネビロスに平手を喰らわせて居た。それは完全に、彼女の私情から繰り出されたものだった。
「馬鹿言うんじゃないわ、このロリコン木偶の坊。貴方、今まで全ての行動に幸不幸打ち消すだけのものを付けて来たの？奥さんの最期を見た自分に正当性を持たせる為に！？」
「ええ…彼女を見て咄嗟に笑みを見せたあの時から、私は普通に幸せで居てはいけない気がしたんです」
冗談じゃないわ。貴方はそんな大層なもの背負っている存在じゃ無い、ただのロリコン木偶の坊よ。尚もクインはそう続けた。
ネビロスの姿は酷く身勝手に見えた。ミアから好意を持たれている事を知って、それに応えるまでは普通の恋人同士の形だった筈だ。しかし、彼が結社に来た時から抱えて居た妙な価値観。それがミアと愛し合う様になって根強く表に出る様になってしまった。
幸せになればなるほど、まるで戒めの様に打ち消す何らかの行動を取らねばならない。ネビロスは、それが自分の義務であるかの様に語った。幸せを感じたら、それを帳消しにするだけの何かを。自分が平穏な幸せを手にしてはいけないと思い知らなければならないと。誰もそんな事彼に求めて居ないのに。きっと亡き妻、ルミエルだってそう言う筈だ。
そして何より幸せの打ち消しを求めるあまりそれを実行されたらミアがどう思うか。一切考えずに容易に口に出す。
ミアと一緒に幸せに生きていきたくないのか、本当の自分の気持ちはどうなのか。それすらも『目の前に現れるルミエルの残影』に気を取られると、分からなくなってしまう様だ。そしてクインも、今の彼に正論を突き付けるのはあまりよろしく無いと思った。悪影響しか出さないと傍目に思うルミエルの残影だが、それに支えられて己を保っていた面もあるのは確かだからだ。
ルミエルの残影に押される様に、幸せを感じる度自ら不幸な道に身を投じて不運を得る事で「これ以上の不幸は起きないだろう」と言う不確定な安心を得る。
「ミアを…失いたく無い気持ちの方が大きいんです」
「だからって恋人らしい事も貴方の都合でこれ以上はって拒否するの？貴方達二人の関係って、貴方の幸せの匙加減でどこまで進むか決まるの？つい先日まで未成年だった子との恋愛を推奨するわけじゃ無いけどね、それでもそう言う関係になる以上年齢関係無く平等でなければ不公平だわ」
「…私は大人です。ミアを愛していますが、同時にまだ若い彼女を守る義務もあると思っています。だから…安心して傍に居たいんです」
「……呆れた。綺麗な事言ってるつもりだろうけど、要は彼女の気持ちはさして考えず全部自分が決めますって事でしょう？どこまで自分本位なの？」
「彼女は…私の恋人ですがまだか弱い女の子でもあるので…」
クインはそれを聞くと空になった缶コーヒーをゴミ箱に投げ付ける。そしてネビロスを一睨みすると「付き合ってられない」と言わんばかりの態度で歩き出した。
「貴方面白くないわ。つまんない男」
「はい」
「うざい、独り善がり。ロリコンならロリコンらしく何も考えずに変態で居なさいよ」
「はい」
「小難しい事考えると拗らせがもっと拗れるわよ」
ネビロスの亡き妻に見せた笑顔と言うのは、彼が精一杯目の前に広がる地獄から自分の心を守ろうとした結果だろう。その後子供代わりにしていた機械人形を凄まじい勢いで破壊したのも、意識を失ったのも、偏に自分を守ろうとしたが故の結果の筈だ。
その後ミアを好きになったのは、きっと生きようと強く思ったから。前向きに新たな人生を考える事も良いのかもしれないと思ったからだろう。
そして今、その反発に苦しんでいる。決してミアの事を考えていない訳でも、彼女の自立心を認めていない訳でも無い。ただただまた大事に思う誰かを失う事を恐れたのもあるだろうが、色んな感情が一度に押し寄せて彼も困惑しているのだろう。
「彼の事なんて知らないけど…」
思わずボソッと口を突いて出る。彼が自滅しようが何だろうが関係無いが、ミアに自分が経験した様な思いはさせたくなかった。だからもしもミアが頼ってくる様なら手を貸そう。クインはそう思った。
愛する彼女 と身も心も一つになれたならこの上ない幸せだ。だから不安になった。それだけの大きな幸せを得てしまったら、代償も大きいと考えてしまった。
そしてその不安をミアにきちんと伝えるでもなく、ネビロスは一人今日も細やかな笑顔の下に不安を抱えていた。
「あらやだ…」
こう言う時の小さな不運と言うのはその後のテンションに作用する。クインは午後から何人も、一人当たり六十分近く取るカウンセリングを予定して居るのに先が思いやられるなと愚痴った。
そんな時に、光を浴びて少しキラキラした銀色の髪を携えた彼が現れたので尚更気分は沈む。
ネビロスは自販機で牛乳と砂糖たっぷりのコーヒーを買うと、クインのすぐ横に落ち着いた。
「ここ使うのかしら？じゃあ、私は行くからお一人でどうぞ？」
クインがそのまま離れようとするが、不意にネビロスに腕を掴まれ動けなくなる。はぁ、と分かりやすく大きな溜息が出てしまった。
クインは相も変わらず暗い顔で自分を見つめる大男を一瞥した。
「貴方って、あまり笑わないのね」
「…ミアの前では、これでも笑う方なんですが」
「ただの惚気なら聞いてあげるわよ。でも相談事なら今は営業時間外だわ」
クインは、ネビロスにカウンセラーとして求められる事はほぼ無い。何故なら二人は性格的に相性が悪く、普段から関わりを持たない様気を付けて居るからだ。クインが居ながら彼の治療をアペルピシアが一手に担って居るのは勿論彼女のやり方がネビロスに合っているからと言うのもあるが、自分が担当したら双方嫌な思いしかしないとそう言ってクインが辞退したのもある。
クインは過去の出来事から死に急ぐ男性が苦手だ。悲しくて悲しくて、悲しみに蓋をしきれなくなってしまう。ネビロスは確かにミアと関わって変わった気がする。しかしそれはあくまで表面的な話であり、奥深くでは未だ根強くその弱さが彼の核となっている事も知っている。
クインはネビロスのたまに見せる弱さを危惧していた。この弱さは例えるならば、少し目を離したら目の前から消えてなくなりそうなそんな儚さを持った弱さ。
「今の私は貴方の望む答えを用意出来ないと思うわ。今は仕事のモードになって居ないし、私は貴方が好きでは無いの。だからきっといじめたくなっちゃうわよ？」
敢えて揶揄う様にそう口にしてみる。しかし、こう言う時のネビロスはそんな事で引いてくれないのも知っていた。
「だからこそ、貴女に聞いてほしいんです」
ネビロスはそう呟いた。
「私に教会の懺悔室になれって言うの？悪いけどそれなら今神は里帰り中よ」
「それで良いんです。私の事を見透かしているであろう貴女だから、聞いて欲しいんです。神に聞いて罪を許して欲しいなどと思ってません。ただ私が懺悔するだけです。貴女が私を責めるなら責めるで良いんですよ」
これは何を言ってもどいてくれる感じでは無い。ネビロスはこう言うところが頑固なのだ。
「全くしょうがないわね…。その代わり、今の私に何言われても『余計辛くなった』なんて責任転嫁はなしよ？」
「はい、ありがとうございます」
ネビロスは音を立てて缶コーヒーのプルタブを開ける。音が響いた事で余計に二人きりの空間を強調された気がした。
「私は…ここに来た時から何か変わったつもりでいました」
「はい…？」
「ですが結果として、あまり変わって居ません。私は私を、きっとまともな人間であろうと周りから思われれば思われる程、まともじゃ無い素振りをしたくなるのです」
「それはその後ミアと会って変わったのではなくて？」
「いいえ、いいえ。変わったつもりでいました。本当につもりなだけでした。どんなにミアを愛しても、愛したからこそ自覚した想いがあります。きっと私は、相反した思いで打ち消したいんです」
クインは目を見開くとネビロスを見つめる。ネビロスは変わらずクインを視界に入れず何処か遠くを眺めて居た。
「エル先生から定期的な催眠療法と薬を貰って凌いでいますが…それが本当に恨み辛みでそこに居るのか私の脳が作った幻なのか、ルミエルが…亡くなった妻がよく視界の端に居るのです。あの日と同じ、格好で」
裂けた腹から血と臓物を滴らせて佇んでいる顔の見えない愛した人。いつも視界の端っこで、まるで存在を知らしめる様にそこに居る。
大丈夫だよ、そんな心配しなくても。君を置き去りにして一人幸せになんてならない。なってはいけない。私は運良く生き延びただけで、きっとそこに意味は無い。
ルミエルが死ぬまで笑って彼女を見つめて居た、そしてやっと体を動かせたと思ったら、手の甲が変色するくらいルーチェを殴り続けてしまった。私達の娘だった筈のあの子を。あの拳がどう言う理由で奮われたのか今でも分からない。ただただ機械人形の破壊と言うだけなら道具だってあった筈だ。なのに素手で、そして壊れたのに気付いても一昼夜殴り続けたのは私の中で異常な気持ちが起きたからだ。
ルミエルが死ぬのを見、笑っていた。
ルーチェをこれ以上汚染された機械人形で居させたくなくて、自分の手で破壊した。原型を留めないくらいにまで。
ショックで倒れて、そして生き延びた。
目が覚めた時、私は物事にバランスを付けたがった。良い事が起きたら、敢えて悪い事を取り入れる様にして居た。
これ以上傷付きたくない。きっと根底はこれなのだ。
良い人だ、と見られているのに気付いたら異様な人間を装いたくなる。
ケンズの医者達によって救われた命である事は分かっている。だから無理をするなと言われると、より体に負荷を掛けたくなって休みを拒否する様になる。
まともな人間では居られない。居てはいけない。だって私は君が死ぬ間際、笑ってそれを眺めて居た人間なのだから。
「………ふぅ」
ネビロスが一区切り着くまで黙ってそれを聞いたクインは、溜め息を吐くと流し込む様にコーヒーを飲む。まるで搾り取った胆汁の様な苦さを感じた。そう考えてしまうくらいにはネビロスの異様な思考に今この瞬間毒されているな、と彼女は自覚する。
ネビロスは尚も続けた。
「私を人間らしく引っ張ってくれたのは、ミアの存在なのです…」
ミアと出会い、彼女に恋をした。
彼女の純粋な優しさに触れていつしか好きになって居た。他の女性はどうでも良くて、本当に彼女の事しか目に入らなくなった時、ルミエルがまた現れた。
顔の見えない、暗がりに潜むおぞましい化け物の様な姿で。
──死ぬ私を見て笑って居たじゃない。その行動の正常さを追求したくて、貴方は物事にバランスを取りたがっていたのでしょう？一つ前の動作を打ち消すだけの理由、それが欲しくて相反する行動を取っていたのでしょう？なら、彼女を愛したならどうするの？──
そう言われている気がした。ミアへの想いを強く持てば持つ程ルミエルの存在を強く感じる様になって居た。それでも体は止まってくれなくて何度もミアを求めた。
初めてキスした夜は幸せだった。その日は割れる程頭が痛くなった。
初めて彼女の体に触れた時は久々に体の底から生きている実感が湧いた。その日はずっとルミエルの存在を感じて居た。
「そしてつい今朝の事ですが…私は我を忘れてミアを抱こうとしました」
「ふーん…？」
「寝起きだったから、と言うのが一番大きいのですが。彼女から求める様にキスをされて何も考えられなくなったんです。随分あの子を怖がらせてしまった…」
「……へぇ」
それは、急に求められたからではなく、貴方の考えを彼女が先読みしたからでは無いかしら？
クインはそう言おうとしたが言葉にしなかった。しかし結果として話を聞けば、おそらく
「気付いたんです。私はあの日からずっと、死んでいくルミエルを見て笑みを見せてしまった理由と納得するだけの理由を求めて日々を過ごして居たと。そして、打ち消す行動を無意識に取る事で安心する事に気が付きました。人からの評価が上がり掛けたらそれを打ち消す行動を。そして人に過度に踏み込んで傷付きたく無いと思っていました。それは今尚続いて居ます。なのに、私はミアをこんなに愛してしまった。前向きに生きようと思ったのに、それでもまだその思いは消えてくれません。だからもしもミアに手を出したなら、私はその日の内に反射的に死に場所を決めるのだと思います」
パシッ。空間を割く乾いた音が響き渡る。クインは渾身の力でネビロスに平手を喰らわせて居た。それは完全に、彼女の私情から繰り出されたものだった。
「馬鹿言うんじゃないわ、このロリコン木偶の坊。貴方、今まで全ての行動に幸不幸打ち消すだけのものを付けて来たの？奥さんの最期を見た自分に正当性を持たせる為に！？」
「ええ…彼女を見て咄嗟に笑みを見せたあの時から、私は普通に幸せで居てはいけない気がしたんです」
冗談じゃないわ。貴方はそんな大層なもの背負っている存在じゃ無い、ただのロリコン木偶の坊よ。尚もクインはそう続けた。
ネビロスの姿は酷く身勝手に見えた。ミアから好意を持たれている事を知って、それに応えるまでは普通の恋人同士の形だった筈だ。しかし、彼が結社に来た時から抱えて居た妙な価値観。それがミアと愛し合う様になって根強く表に出る様になってしまった。
幸せになればなるほど、まるで戒めの様に打ち消す何らかの行動を取らねばならない。ネビロスは、それが自分の義務であるかの様に語った。幸せを感じたら、それを帳消しにするだけの何かを。自分が平穏な幸せを手にしてはいけないと思い知らなければならないと。誰もそんな事彼に求めて居ないのに。きっと亡き妻、ルミエルだってそう言う筈だ。
そして何より幸せの打ち消しを求めるあまりそれを実行されたらミアがどう思うか。一切考えずに容易に口に出す。
ミアと一緒に幸せに生きていきたくないのか、本当の自分の気持ちはどうなのか。それすらも『目の前に現れるルミエルの残影』に気を取られると、分からなくなってしまう様だ。そしてクインも、今の彼に正論を突き付けるのはあまりよろしく無いと思った。悪影響しか出さないと傍目に思うルミエルの残影だが、それに支えられて己を保っていた面もあるのは確かだからだ。
ルミエルの残影に押される様に、幸せを感じる度自ら不幸な道に身を投じて不運を得る事で「これ以上の不幸は起きないだろう」と言う不確定な安心を得る。
「ミアを…失いたく無い気持ちの方が大きいんです」
「だからって恋人らしい事も貴方の都合でこれ以上はって拒否するの？貴方達二人の関係って、貴方の幸せの匙加減でどこまで進むか決まるの？つい先日まで未成年だった子との恋愛を推奨するわけじゃ無いけどね、それでもそう言う関係になる以上年齢関係無く平等でなければ不公平だわ」
「…私は大人です。ミアを愛していますが、同時にまだ若い彼女を守る義務もあると思っています。だから…安心して傍に居たいんです」
「……呆れた。綺麗な事言ってるつもりだろうけど、要は彼女の気持ちはさして考えず全部自分が決めますって事でしょう？どこまで自分本位なの？」
「彼女は…私の恋人ですがまだか弱い女の子でもあるので…」
クインはそれを聞くと空になった缶コーヒーをゴミ箱に投げ付ける。そしてネビロスを一睨みすると「付き合ってられない」と言わんばかりの態度で歩き出した。
「貴方面白くないわ。つまんない男」
「はい」
「うざい、独り善がり。ロリコンならロリコンらしく何も考えずに変態で居なさいよ」
「はい」
「小難しい事考えると拗らせがもっと拗れるわよ」
ネビロスの亡き妻に見せた笑顔と言うのは、彼が精一杯目の前に広がる地獄から自分の心を守ろうとした結果だろう。その後子供代わりにしていた機械人形を凄まじい勢いで破壊したのも、意識を失ったのも、偏に自分を守ろうとしたが故の結果の筈だ。
その後ミアを好きになったのは、きっと生きようと強く思ったから。前向きに新たな人生を考える事も良いのかもしれないと思ったからだろう。
そして今、その反発に苦しんでいる。決してミアの事を考えていない訳でも、彼女の自立心を認めていない訳でも無い。ただただまた大事に思う誰かを失う事を恐れたのもあるだろうが、色んな感情が一度に押し寄せて彼も困惑しているのだろう。
「彼の事なんて知らないけど…」
思わずボソッと口を突いて出る。彼が自滅しようが何だろうが関係無いが、ミアに自分が経験した様な思いはさせたくなかった。だからもしもミアが頼ってくる様なら手を貸そう。クインはそう思った。
そしてその不安をミアにきちんと伝えるでもなく、ネビロスは一人今日も細やかな笑顔の下に不安を抱えていた。
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