バイオレットノスタルジー／燐花
最終更新：
rinka_creation 2021年04月07日(水) 16:19:21履歴
そのネックレス綺麗だね 
岸壁街がつい半年程前まで確かにここにあったのに、今は呆気ない物だ。
男はぼんやりそんな事を考えていた。この場所は、夢の様な場所だった。いや、例えが悪い。そんな楽園の様な場所と言う意味ではなくて、その時が来れば呆気なく跡形も無く消えてしまうそんな場所。
「一応…故郷なんだけどなぁ…」
だから離れられず未だ此処にいる。この無秩序と隣り合わせの場所に線を引く様に。自分が線になる様に。
「あれ？」
不意に近所の悪ガキ達が何かを企んでる様に様子を伺っているのが見える。悪ガキ、とは言えとっくに成人している大人なのだが、男にとっては彼らは子供同然だった。
「なーにしてんだぁ…？」
目に飛び込んできたのは、荷物を抱える青いスクラブ。手入れが行き届いているそのビスケット色の髪をふわりと靡かせる彼女を品定めする様に見つめるガキ共。何となく彼らの目的が何なのか察してしまった男は、珍しくその透き通る様な金色の前髪を上げて露にさせている色素の薄い瞳を光らせた。
あー…。そいつはいけないねぇ。
男は少女に向かって歩き始める。少女が向かってくる男に気が付いたのは彼女まで後少しと言うくらい近付いた頃。無防備だな、と男は思う。
「おやおや？こんなところにかわい子ちゃん発見！！」
わざとらしく振る舞えば、ガキ共は彼の存在に気付き急に青い顔になる。先程まで画策していた「彼女を連れ込む」なんて計画は一瞬で白紙にし、逃げる事に精を出すのだ。
「あ…え…っと…？」
「あれ？俺だよ俺、分かんない？」
はじめましてじゃないんだけどな、と彼女を見ながら色々考える。今日いつもの服じゃないからかと。Tシャツにジーパン、そしてダウンを着た男は考えた末に前髪を留めていたクリップを外し、その暖簾の様な長い前髪をだらりと顔に垂らす。
「ほら、この顔見覚えござんせん？」
「あ…！ササカマさん！？」
「……ヤサカでーす…」
サカしか合ってねぇ。
「ミア・フローレスちゃん、だよね？」
「フ、フルネームで覚えてくれてたんですか！？」
「俺人の顔と名前覚えんのは得意なのよ。可愛い女の子なら尚更ね」
そう言われてミアはつい先日の事を思い出す。誕生日、ネビロスと共にナラ下のモニカの行き着けの店「ならの木」モデルとも言えるカミナリに飲みに行った際、あろう事かナンパをして来た男がいた。最初こそ警戒したが、彼の巧みな話術に徐々に引っ張られていき、気付けば彼のペースに乗せられ、剰えそれも悪くはないかな？と思ってしまう程。
男、ヤサカはにやりと笑うと「運命じゃーん？」とナンパのテンプレートの様な事を言った。
「ミアちゃんこんなとこで何してたの？」
「あ…お買い物帰りに…近道しようとしてこっち回って来たんですが…」
「ふーん。ミアちゃんここねぇ、言うて治安良くはないよ？変な男に捕まる前に帰んなよー」
でもその前に一休みでもどう？
ずいっと顔を近付けるヤサカに若干後退りながらも引っ張られるミアだった。
「ここ、俺の店」
「え！？ヤサカさんのお店ここなんですか！？」
「そうよ？元岸壁街のあったとこの近くなの。今仕込み中の時間だから客は居ないし俺と二人だけだから安心しなよ」
逆に安心してはいけない気もするが、その言葉に頷くとミアは店の扉を開けた。
いや、安心しちゃ駄目だろ。むしろ警戒しなきゃ駄目だろ。そう言いたげなヤサカとミアの目が合う。しまった。今日は前髪上げてるから目ぇ見えるんだった。
「ヤサカさん…綺麗な目してるんですね…！」
「そう？ミアちゃんも似た様なものじゃない？」
「でもヤサカさん、私よりもっと色が薄くて…」
透ける様な金色の髪と青い瞳。その色合いは結社にいるミサキ・ケルンティアを彷彿とさせる。しかし彼女を思い浮かべてる事なんて知らないヤサカは、密かに昔の事を思い出していた。色が薄いからと機械人形に間違われ、時に追いかけられもしたなぁと。いじめと言う名の白害の対象には真っ先に名を連ね、謂れもない噂も流されたし暴力も受けた。まあ、もしも今何か言われて手を出されても心当たりが多すぎて分からないが。
「どうしてそんな綺麗なのに前髪で隠しちゃうんですか？」
「ヒヒヒッ、綺麗だからさ。見せんの勿体無いじゃん？」
ヤサカはスパイスを煮出した鍋に入れた茶葉の様子を見、牛乳と砂糖を加え茶こしでこすとミアの前にチャイを出した。
「わぁ…良い香り…」
「嫌いじゃない？結構癖のある匂いするからね、嫌いな人も多いんだよ。俺は好きだけど」
「私も好きです！え？でも良いんですか？いただいて…」
「逆にいただいてくれないと。ミアちゃんの為だけに今作ったんだからさ」
「ありがとうございます…」
あったかい。そう言ってチャイを口にするミア。ヤサカは満足気にそれを見ていたが、ふと彼女の胸元に光る物を見付けた。
「また随分と可愛らしいもの付けてんじゃないの」
「え？」
「それそれ、ネックレス。あの意地悪そうな顔した兄さんからかな？」
「あっ…」
パッと恥ずかしそうに隠すミア。よっぽど嬉しい物だったんだなと察しつつ、何だか恥ずかしがるその様子を見てやたら悪い事をしてる気分をうっすら感じるヤサカ。
「俺がナンパした日？何だよー、しっかりよろしくやってんじゃーん」
「や、やめてくださいよ！あの日は誕生日で…あの人が大人にしてくれた大切な日なんです！」
ぷくっと頬を膨らませるミアを見て一瞬間を置いたヤサカは頭の中で思考を巡らす。
え？大人にしてくれた…とは…？
後にロードも同じ勘違いをするのだが、ヤサカは流石商売人と言うのか年の功と言うのか、口に出す前に候補を挙げて確認をした。
「…もしかして生まれて初めてお酒飲んだ？」
「そうなんです……」
選んでもらって…と恥ずかしそうに言うミアにヤサカは静かにガッツポーズを取る。
よっしゃ、「ヤった？」なんて聞かなくて良かった！！正直後者の方が可能性高いかと思ったけど！！
「ふーん…で？その後は？」
「後って？」
「…え？何もなし？」
「あ、その時にネックレス一緒にもらっちゃいました…」
ネックレスを貰っただけでこれだけ恥ずかしそうにするのだから多分、その先特に無かったんだろうな。こりゃよっぽど強引にしないと先は長そうだな。
ついつい根掘り葉掘り聞きたくなってしまったが少し自重しようと思う。しかしふとミアを見ると、まだまだ惚気たそうな感じがした。
「…で？ミアちゃんはあのお兄さんのどんなとこが好きなの？」
「え…！？」
「照れんなよー。言ったれって」
「あの…凄い真面目で格好良くて…」
「うんうん」
「すっごい優しくて…」
「惚れた女の子の典型みたいな回答だね」
おそらく職場恋愛。あまり大っぴらに普段惚気られないのかな？そう思ったヤサカは何となくミアの惚気を受け止めてやりたくなった。何を隠そう、ヤサカはミクリカの愛の伝道師ことクリス・P・ベーコンとは頻繁に彼の下に足繁く通う仲。褒め言葉が足りん！誰か俺を褒めて！そんな欲求に襲われた時、彼の娘目当てに彼の店に行く。
まあ、いつもそんな下心を知っているクリスに阻止されるのだが、その分クリスはめちゃくちゃに褒めちぎってくれるので、普通におっさんに言われるが情熱的だしまあそれでも良いかと思いながら帰る。そんな生活をしていれば彼に影響もされるもので。
「良いねぇ、青春だねぇ」
「すみませんっ…私喋り過ぎちゃったかな…？」
「ヒヒッ、恋した女の子はそのくらい姦しい方が良いってね」
チャイを一杯ゆっくり飲み切るまで、ミアのお喋りは続いた。
「すみませんヤサカさん…送ってまでもらっちゃって…」
「引き留めたの俺だしねー」
夕方。ミクリカの裏路地を二人は歩いていた。さっきの事もあるしとヤサカは表通りまでミアを送る。当然、ヤサカに気付いて絡んで来る人間は無し。怖い思いさせちゃいけないからと表通りまで話しながらゆっくり歩くと、活気付いて段々と増えてくる人々。
ここまで来れば大丈夫かな？そう思いながらミアに別れを告げる為呼び止めようとしたヤサカの目に彼の顔が飛び込んで来た。銀髪の様な長い髪を携え少し焦った顔をした、カミナリで自分にえらくおっかない顔を見せてくれた例の彼が。
ははーん？さてはお姫様の帰りが遅くて心配で出て来たな？良いじゃないのよ、愛されてるってのはさ。
「ミアちゃん」
「はい？」
「俺そろそろ行かなきゃ。その信号の先よく見てみ？ミアちゃんの銀髪の王子様がいるぜ？」
「え！？あれ！？本当だ…ネビロスさん！？何でここに！？」
「可愛い可愛い彼女の帰りが遅くて心配で来たんでしょーよ。今会ったら俺また怒られそうだから早めに退散しようかねー」
「で、でもお世話になったし、お礼も言わずになんて…」
「俺が世話焼いたとしたらミアちゃんだけ。そのミアちゃんには充分お礼言ってもらえたから良いよー。今度また客として店に来て俺の事褒めちぎってくれ」
じゃーなー。と、ヒラヒラ手を振ってまた裏路地に消えるヤサカ。ネビロスに呼ばれたミアが彼に駆け寄り、振り返った時には既にヤサカはどこにも居なかった。
「ミア…帰りが遅いから心配で来てしまいましたよ…」
「ごめんなさい、ネビロスさん…」
「たまたま近くを通ってスレイマンからミアの買い出しの話を聞いて…少し帰りが遅いと彼も漏らしてたので…」
「あっ…後で先生にも謝らなきゃですね」
「そうですね…」
ネビロスは少し頬を染めてミアの手を握る。
「医療班に戻れば会えるのに、近くに居ると聞いて先に会いたくなって来てしまいました」
その言葉を聞いたミアはネビロスに輪をかけて赤い顔を見せた。
──それを、実はこっそり見ていたヤサカは満足気にヒヒヒッと笑ったとか笑っていないとか。
男はぼんやりそんな事を考えていた。この場所は、夢の様な場所だった。いや、例えが悪い。そんな楽園の様な場所と言う意味ではなくて、その時が来れば呆気なく跡形も無く消えてしまうそんな場所。
「一応…故郷なんだけどなぁ…」
だから離れられず未だ此処にいる。この無秩序と隣り合わせの場所に線を引く様に。自分が線になる様に。
「あれ？」
不意に近所の悪ガキ達が何かを企んでる様に様子を伺っているのが見える。悪ガキ、とは言えとっくに成人している大人なのだが、男にとっては彼らは子供同然だった。
「なーにしてんだぁ…？」
目に飛び込んできたのは、荷物を抱える青いスクラブ。手入れが行き届いているそのビスケット色の髪をふわりと靡かせる彼女を品定めする様に見つめるガキ共。何となく彼らの目的が何なのか察してしまった男は、珍しくその透き通る様な金色の前髪を上げて露にさせている色素の薄い瞳を光らせた。
あー…。そいつはいけないねぇ。
男は少女に向かって歩き始める。少女が向かってくる男に気が付いたのは彼女まで後少しと言うくらい近付いた頃。無防備だな、と男は思う。
「おやおや？こんなところにかわい子ちゃん発見！！」
わざとらしく振る舞えば、ガキ共は彼の存在に気付き急に青い顔になる。先程まで画策していた「彼女を連れ込む」なんて計画は一瞬で白紙にし、逃げる事に精を出すのだ。
「あ…え…っと…？」
「あれ？俺だよ俺、分かんない？」
はじめましてじゃないんだけどな、と彼女を見ながら色々考える。今日いつもの服じゃないからかと。Tシャツにジーパン、そしてダウンを着た男は考えた末に前髪を留めていたクリップを外し、その暖簾の様な長い前髪をだらりと顔に垂らす。
「ほら、この顔見覚えござんせん？」
「あ…！ササカマさん！？」
「……ヤサカでーす…」
サカしか合ってねぇ。
「ミア・フローレスちゃん、だよね？」
「フ、フルネームで覚えてくれてたんですか！？」
「俺人の顔と名前覚えんのは得意なのよ。可愛い女の子なら尚更ね」
そう言われてミアはつい先日の事を思い出す。誕生日、ネビロスと共にナラ下のモニカの行き着けの店「ならの木」モデルとも言えるカミナリに飲みに行った際、あろう事かナンパをして来た男がいた。最初こそ警戒したが、彼の巧みな話術に徐々に引っ張られていき、気付けば彼のペースに乗せられ、剰えそれも悪くはないかな？と思ってしまう程。
男、ヤサカはにやりと笑うと「運命じゃーん？」とナンパのテンプレートの様な事を言った。
「ミアちゃんこんなとこで何してたの？」
「あ…お買い物帰りに…近道しようとしてこっち回って来たんですが…」
「ふーん。ミアちゃんここねぇ、言うて治安良くはないよ？変な男に捕まる前に帰んなよー」
でもその前に一休みでもどう？
ずいっと顔を近付けるヤサカに若干後退りながらも引っ張られるミアだった。
「ここ、俺の店」
「え！？ヤサカさんのお店ここなんですか！？」
「そうよ？元岸壁街のあったとこの近くなの。今仕込み中の時間だから客は居ないし俺と二人だけだから安心しなよ」
逆に安心してはいけない気もするが、その言葉に頷くとミアは店の扉を開けた。
いや、安心しちゃ駄目だろ。むしろ警戒しなきゃ駄目だろ。そう言いたげなヤサカとミアの目が合う。しまった。今日は前髪上げてるから目ぇ見えるんだった。
「ヤサカさん…綺麗な目してるんですね…！」
「そう？ミアちゃんも似た様なものじゃない？」
「でもヤサカさん、私よりもっと色が薄くて…」
透ける様な金色の髪と青い瞳。その色合いは結社にいるミサキ・ケルンティアを彷彿とさせる。しかし彼女を思い浮かべてる事なんて知らないヤサカは、密かに昔の事を思い出していた。色が薄いからと機械人形に間違われ、時に追いかけられもしたなぁと。いじめと言う名の白害の対象には真っ先に名を連ね、謂れもない噂も流されたし暴力も受けた。まあ、もしも今何か言われて手を出されても心当たりが多すぎて分からないが。
「どうしてそんな綺麗なのに前髪で隠しちゃうんですか？」
「ヒヒヒッ、綺麗だからさ。見せんの勿体無いじゃん？」
ヤサカはスパイスを煮出した鍋に入れた茶葉の様子を見、牛乳と砂糖を加え茶こしでこすとミアの前にチャイを出した。
「わぁ…良い香り…」
「嫌いじゃない？結構癖のある匂いするからね、嫌いな人も多いんだよ。俺は好きだけど」
「私も好きです！え？でも良いんですか？いただいて…」
「逆にいただいてくれないと。ミアちゃんの為だけに今作ったんだからさ」
「ありがとうございます…」
あったかい。そう言ってチャイを口にするミア。ヤサカは満足気にそれを見ていたが、ふと彼女の胸元に光る物を見付けた。
「また随分と可愛らしいもの付けてんじゃないの」
「え？」
「それそれ、ネックレス。あの意地悪そうな顔した兄さんからかな？」
「あっ…」
パッと恥ずかしそうに隠すミア。よっぽど嬉しい物だったんだなと察しつつ、何だか恥ずかしがるその様子を見てやたら悪い事をしてる気分をうっすら感じるヤサカ。
「俺がナンパした日？何だよー、しっかりよろしくやってんじゃーん」
「や、やめてくださいよ！あの日は誕生日で…あの人が大人にしてくれた大切な日なんです！」
ぷくっと頬を膨らませるミアを見て一瞬間を置いたヤサカは頭の中で思考を巡らす。
え？大人にしてくれた…とは…？
後にロードも同じ勘違いをするのだが、ヤサカは流石商売人と言うのか年の功と言うのか、口に出す前に候補を挙げて確認をした。
「…もしかして生まれて初めてお酒飲んだ？」
「そうなんです……」
選んでもらって…と恥ずかしそうに言うミアにヤサカは静かにガッツポーズを取る。
よっしゃ、「ヤった？」なんて聞かなくて良かった！！正直後者の方が可能性高いかと思ったけど！！
「ふーん…で？その後は？」
「後って？」
「…え？何もなし？」
「あ、その時にネックレス一緒にもらっちゃいました…」
ネックレスを貰っただけでこれだけ恥ずかしそうにするのだから多分、その先特に無かったんだろうな。こりゃよっぽど強引にしないと先は長そうだな。
ついつい根掘り葉掘り聞きたくなってしまったが少し自重しようと思う。しかしふとミアを見ると、まだまだ惚気たそうな感じがした。
「…で？ミアちゃんはあのお兄さんのどんなとこが好きなの？」
「え…！？」
「照れんなよー。言ったれって」
「あの…凄い真面目で格好良くて…」
「うんうん」
「すっごい優しくて…」
「惚れた女の子の典型みたいな回答だね」
おそらく職場恋愛。あまり大っぴらに普段惚気られないのかな？そう思ったヤサカは何となくミアの惚気を受け止めてやりたくなった。何を隠そう、ヤサカはミクリカの愛の伝道師ことクリス・P・ベーコンとは頻繁に彼の下に足繁く通う仲。褒め言葉が足りん！誰か俺を褒めて！そんな欲求に襲われた時、彼の娘目当てに彼の店に行く。
まあ、いつもそんな下心を知っているクリスに阻止されるのだが、その分クリスはめちゃくちゃに褒めちぎってくれるので、普通におっさんに言われるが情熱的だしまあそれでも良いかと思いながら帰る。そんな生活をしていれば彼に影響もされるもので。
「良いねぇ、青春だねぇ」
「すみませんっ…私喋り過ぎちゃったかな…？」
「ヒヒッ、恋した女の子はそのくらい姦しい方が良いってね」
チャイを一杯ゆっくり飲み切るまで、ミアのお喋りは続いた。
「すみませんヤサカさん…送ってまでもらっちゃって…」
「引き留めたの俺だしねー」
夕方。ミクリカの裏路地を二人は歩いていた。さっきの事もあるしとヤサカは表通りまでミアを送る。当然、ヤサカに気付いて絡んで来る人間は無し。怖い思いさせちゃいけないからと表通りまで話しながらゆっくり歩くと、活気付いて段々と増えてくる人々。
ここまで来れば大丈夫かな？そう思いながらミアに別れを告げる為呼び止めようとしたヤサカの目に彼の顔が飛び込んで来た。銀髪の様な長い髪を携え少し焦った顔をした、カミナリで自分にえらくおっかない顔を見せてくれた例の彼が。
ははーん？さてはお姫様の帰りが遅くて心配で出て来たな？良いじゃないのよ、愛されてるってのはさ。
「ミアちゃん」
「はい？」
「俺そろそろ行かなきゃ。その信号の先よく見てみ？ミアちゃんの銀髪の王子様がいるぜ？」
「え！？あれ！？本当だ…ネビロスさん！？何でここに！？」
「可愛い可愛い彼女の帰りが遅くて心配で来たんでしょーよ。今会ったら俺また怒られそうだから早めに退散しようかねー」
「で、でもお世話になったし、お礼も言わずになんて…」
「俺が世話焼いたとしたらミアちゃんだけ。そのミアちゃんには充分お礼言ってもらえたから良いよー。今度また客として店に来て俺の事褒めちぎってくれ」
じゃーなー。と、ヒラヒラ手を振ってまた裏路地に消えるヤサカ。ネビロスに呼ばれたミアが彼に駆け寄り、振り返った時には既にヤサカはどこにも居なかった。
「ミア…帰りが遅いから心配で来てしまいましたよ…」
「ごめんなさい、ネビロスさん…」
「たまたま近くを通ってスレイマンからミアの買い出しの話を聞いて…少し帰りが遅いと彼も漏らしてたので…」
「あっ…後で先生にも謝らなきゃですね」
「そうですね…」
ネビロスは少し頬を染めてミアの手を握る。
「医療班に戻れば会えるのに、近くに居ると聞いて先に会いたくなって来てしまいました」
その言葉を聞いたミアはネビロスに輪をかけて赤い顔を見せた。
──それを、実はこっそり見ていたヤサカは満足気にヒヒヒッと笑ったとか笑っていないとか。
相変わらず可愛いね
元岸壁街の入り口付近で今日も開店準備に勤しむヤサカ。昨日は可愛いお嬢さんにも会えたしラッキーだった！とニヤニヤしながら床をモップで擦る。いつもと違う、前髪を上げてラフな格好でいたら珍しい客が彼の目の前に現れた。
「おぉう…？いらっしゃい可愛いお嬢さん」
「………」
「それとも、相変わらずセクシーだねって言った方が良い？」
「どっちも要らない」
岸壁街で同じコミュニティに入っていたヴォイド・ホロウが眉間に深い皺を寄せた状態で現れた。と言うか、今はまだ開店時間前なのだが。
「ちょっとちょっとヴォイちゃーん…まだ開店時間前じゃんよー」
「ヤサカにちょっと話あっただけ」
「え？そんなに俺に会いたかった？やめろよー照れるぜ」
「何も言ってない」
無遠慮に店に入るとこれまた無遠慮にカウンター席に座るヴォイド。おーい、そこ今掃除したところなんだけどなぁー。
「ヴォイちゃん…相変わらず無慈悲っ！！」
「は？」
「やだよーもー。相変わらず男の純情弄ぶんだからこの子は」
「何の話だ」
「そっちこそ何の用よ？久しぶりにしちゃ乱暴じゃない？」
しくしくと態とらしく声を上げてみれば、嫌そうな顔で彼女は睨む。ヤサカがヴォイドの言葉を待つと、彼女は「ミアが来たでしょ」と呟いた。
「ミア？ミアって、ミア・フローレスちゃん？アポリフ山かエルプリフ山くらいの！？」
「何の話だ」
「ちなみにヴォイちゃんはカヌル山っ」
「……次言ったらすり潰す」
意味の通じたヴォイドに軽く脅されたところで。ヤサカはいそいそとグラスの準備を始めるとドリンクを混ぜ合わせヴォイドにサッと献上する。
「こちらどうぞ。どうせならゆっくりしてってよ」
「私…お酒飲めない…」
「知ってるよ。昔ベロベロになった時介抱したの誰だったか覚えてなーい？本当少し嗅いだくらいで様子おかしくなってたからさー。何か変だなーって思ってたんだけどまさか一口、二口であんな綺麗にひっくり返ると思わなくてさー。あの時ヴォイちゃんキャッチした俺の反射神経拍手モンだしその後もマジでカヌル山前にしてただただ介抱しただけの俺を本当褒めて欲し…」
ゴッ！！！と音を立ててヤサカの目前に拳が落ちた。無言で放たれたそれが、「次は狙う」と言っている。
「…と言うのは冗談でー…」
「冗談に聞こえないけど」
「まあまあ、とりあえず冗談って事でさ。こちらバージンブリーズでごさいますっ。ノンアルコールカクテルだよ。アルコール入ってないのに味に深みあるからジュースより大人な飲み物だぜ？」
「へー…」
「ヴォイちゃんバージンじゃねえってのにな！ヒッヒッヒ」
ヤサカの目前に、また拳が落ちた。少しのズレで掠ったそれは温情だろうか。「本当に狙うぞ」と言っている。じわじわと近付いて来る拳が怖い。
「まー…乙女のプライベートな話はこの辺にしときやしょーかねー…」
「続けても良いよ？喰らいたいなら」
「…シャドーボクシング見せ付けられて尚続ける死にたがりは居ないでさぁーねー…」
用心深くグラスに鼻を近付けるヴォイド。ヤサカは「だからアルコール入ってないって」と言うが、信用出来ないのかおそるおそるクンクン匂いを嗅ぎ、そして口付けた。
あ、でも飲むのね。流石飲食への欲求は底無しだなぁ。
思えば初めて会った時からよく食べる子だった。所謂、「燃費の悪い体質」とでも言うのか、食べても太らず吸収もそこそこと言う、食うに困る人間の多い岸壁街の環境では生きるのに不自由な体。
──あの子はよく食べる子なんです──
骨を折られ体を満足に動かせず、内出血だらけの顔で痛々しく微笑みながら愛おしそうにそう言った男を思い出す。その度、ヴォイドを見ると少し双方に苛立ってしまう。あの男がどれだけ想おうと、彼女には上手く届いていないからだ。あの男の下手くそな愛の届け方も、本当にお感じが無いこの彼女も全く。恋愛において不器用この上ない二人に挟まれ中立にならざるをえない自分の身にもなって欲しい。
「で？ミアちゃんが何だって？」
ヴォイドは目を見開き、「忘れてた」と言わんばかりの顔をヤサカにぐりんと向けた。そしてまたジトッとした目で睨むのだった。
「…ミアに変な事言ったでしょ」
「えー？流石に誤解じゃね？」
「二回もナンパされた上にネックレスの事根掘り葉掘り聞かれたって」
「おっと」
多分あの子の事だからもうちょっと詳しく話したろうが、事実だけ挙げれば確かにそうなるか。そしてヴォイドの事だから、そう言う面で悪いイメージしか無い相手に対しては容赦なく悪いイメージだけで見る。釈明のしようもないししたところでどうと言う事もないのでヤサカは特に言い訳もせず肯定した。
「いやー…やっぱ可愛い子見付けたら声掛けたくもなるじゃないの。そう言う話聞きたいじゃないの」
「ヤサカとロードって本当同類だよね…ミアはそう言う冗談言って良いタイプの子じゃないんだから、あんまり言わないで自重して」
「はいはーい」
「…本当に自重する？」
「多分ねー」
ヴォイドとヤサカは、掃除屋のコミュニティに入っている。掃除屋と言っても町の清掃活動、なんて意味ではなくその対象は主に人間だ。依頼を受けた通りに処分する。コミュニティに依頼が入れば、素性がバレない様に防護服に身を包んで仕事に向かう。掃除屋は常にニュートラルであらねばならない。そしてその仕事の性質上、誰よりも安全を保証されねばならない。
ヴォイドは一度、正体がバレてあろう事か標的側の人間から報復を受けそうになった事がある。その時、掃除屋としてのタブーを犯してまで助けたのはヤサカだった。素性を明かした上に依頼に無い人間の削除に及んだ為、岸壁街では飲み屋のマスターと言うよりかは「掃除屋ヤサカ」と言った方が名が知れていると言う異例の事態。ミアを狙って狼藉を働こうとした青年が怯えて実行を止めたのも、「掃除屋ヤサカ」の顔を知っていたからだ。
そして彼と組む時、決まって彼は標的の息の根を止める役を買って出る。それがどう言う意味かヴォイドは分かっていたので、気が付くとヤサカには強くものを言えなくなっていた。素性を明かした危険な身の上で汚れ役を買って出る彼。真意は分からないが、そんな彼を邪険に扱う事だけは流石のヴォイドも胸が痛んで出来なかった。
「ヤサカ、本当にやめてよ。ミアはそう言うのに免疫ある子じゃない」
「あーね…。これからあの意地悪そうな兄さんと大人になっちゃうんだな、ミアちゃん…」
「おい、言ったそばから」
「それよりヴォイちゃんよぉ、ミアちゃんの事大事なのは分かるが俺みたいな人間皆にこれからも釘刺して歩く気か？ミアちゃんだって子供じゃ無いんだし」
「まだこの間成人したばっかだ」
「そうじゃねぇよ。ってかヴォイちゃんてば束縛癖ある彼女みてぇ。良いけどさー、そんな事してたら束縛嫌いな男は逃げちゃうかもしれないよ？束縛されんの嫌いな男傍に居るなら気を付けなー」
「えっ…！？」
心当たりでもあるのか、顔を真っ赤にするヴォイド。あれ？珍しい。こんなにこの子ころころ顔色変わったっけ？悪戯心に火の点いたヤサカはヴォイドをオモチャにする事にした。
「あれー？ヴォイちゃんもしかして狙ってる男にそう言うタイプいる？」
「ち、違うっ！身近に…もしかしたらそうかもしれな…ね、猫みたいな人が居たの思い出しただけ…」
「え？ヴォイちゃん職場にそんな良い仲の男いんの？」
「い、良い仲…！？」
「前会った時初恋の幼馴染とも再会したって言ってなかった？」
ヴォイドは何かを思い出したのか、赤い顔の赤みは更に増す。さては愛の日にでも何かあったな？ヤサカの揺さぶりは更に続く。
「ははーん？さては愛の日にそいつらと何かあったろ」
「べ、べ、別に」
「ヒッヒ、分っかりやすく動揺しちゃって可愛いのー！って言うかさっきちゃっかりロードの名前呼んでたのも気付いてたぜー？あんなに呼ぶの嫌がってたのにさー」
「そ、それも別に…！気分！気分だから！」
「えー？随分躊躇いなく親しげに呼ぶなーって思ってたんだけども？」
「別に親しく無い！」
ああ、少し報われるな。気付けばヤサカもヴォイドと同じものを作って飲んでいた。あの男が彼女に何をしたか全部知っている。彼女をずっと想っていたのも、彼女を守る為に一時動けない体になった事も。
だから自分は彼の代わりに掃除屋のコミュニティで彼女を見守ると決めた。でもきっとあの男は、自分以外の人間からそれを知らされる事を良しとしない。
だから言わない。自分で言え。俺は言ってやらない。だって言わなくても少しずつちゃんと伝わってんじゃん。そして彼女も、やっと少しずつ周りを見ようとしてるんじゃん。
「お兄ちゃん嬉しいわー…あのヴォイちゃんが、地味に色んな男振り回してた無自覚悪女ちゃんが…！」
「振り回した覚えなんてない、誰の話だ！？」
「とうとう男に振り回されて真っ赤になる姿を見せてくれるなんて…！えっと？束縛嫌いな猫っぽい同僚とー、初恋の幼馴染とー、あと七三スーツ。あれ？どこのナラ下？」
「……！う、うるさい！言いたい事言えたから私は帰る！！」
「ちょい待ち」
ヤサカは慌てるヴォイドの腕を掴むと、にっこりと微笑む。
「ヴォイちゃん、良い事なんだから照れる事無ぇって」
「…ヤサカはいつも揶揄うみたいに話すから、嫌い…」
「嫌わないでよー。俺はヴォイちゃんずっと好きよ？」
「…私は嫌い…」
「でも俺は好き」
見るからに目尻を下げしょんぼりした顔になるヴォイドの体を愛おしそうに抱き締めるヤサカ。昔はこうすると「子供扱いするな」とよく暴れられたものだが、今日はやけに素直にすっぽり収まった。だからついつい抱き締める手に力も加わる。
「俺は好き。ずっと好き。だーい好き」
「うるさい…」
「…やっとこの言葉がどんなにあったかいもんか気付けたんでしょ？ヒヒッ、それだけでも御の字よ」
「でも…そう思ったら多分、こっちに戻れなくなると思う…」
珍しくヴォイドの腕が返す様にヤサカの背中にまわされる。だろうな、やっぱり。何か変わったと思っていたが、彼女にとったらきっと大変な変化だった訳だ。
居場所を見付けてしまったんだろうな。あったかくて今まで無縁だった様なところに。そこの居心地の良さに気付いてしまって、気付かないふりをまだしたかったんだろうな。もし出て行く事になったら耐えられなくなるだろうから。
「良いじゃん？戻らなくて。今のヴォイちゃんに岸壁街って似合う様で似合わねぇって」
「でも…」
「出会った奴らも以前どこに居たか別にして今は立派に外の世界に馴染んでる連中だろ？ヴォイちゃんが岸壁街引き摺ってどーすんのよ。時々思い出せるくらいで良いんじゃね？一応故郷だって思うならさ。捨てる訳じゃねえ、前に進んだ結果少し離れようってだけだろ？それに、誰がヴォイちゃんにこっち戻れなんて言うのよ？」
「…じゃあ、ヤサカは？」
「俺？俺はここにいるよ？ここに居てー、ヴォイちゃんみたく外に居られるにも関わらず義務感でも感じてなのかこんな掃き溜めに戻ろうとする子をハグして止める。外にいて良いんだよーって。あ、モチ可愛い女の子限定ね」
「……」
「ヴォイちゃんてさ、実はすげぇ人の娘とかだったりして。お姫様とか…もしかしたら『この世界に有終の美を』のナイジュみたいに実は体の半分うんと価値のある何かで出来てて、だから岸壁街から出られない様に色々画策されてて其のすげぇ人が実は生き別れた父──」
「何の話だ…ヤサカも何かよく知らない作品の話するよね…」
「…『も』って事は、そんな話題振る奴いんのね？」
「…い、居なくもない…」
「うん、よいねよいね、よい事だね」
こうして文句を言いに来た筈のヴォイドは結局ヤサカの口の上手さとペースに乗せられて宥められてしまう。ヤサカはヤサカで、あんなに感情の起伏が無く常に寂しそうだった彼女が人を思いコロコロ顔を変えているのが寂しくもあり、嬉しくもあった。
全く、本当良い風に変わって行ってくれて。この子を揺さぶってくれた知らない外の人間に感謝しなければ。多分、その内の一人にミアもいるのだろうな。ヤサカの脳裏にあの屈託のない花の様な笑顔が蘇った。
「……ところでヴォイちゃんや。まーたおっぱい大きくなってねぇ？何かやわっこくて気持ち良いね今日」
「……さっき、二度目はすり潰すって、言った」
ミクリカの裏路地付近を歩いていた人間は、この日鈍器で殴打するかの様な凄まじい音がリカ・コスタの中から外に響き渡るのを聞いた。
そして店から出て来たヤサカは、頭に出来たこぶをさすりながら「ちょっと調子こき過ぎた…」と呟いて笑った。一緒に出て来たスクラブ姿の女はそんなヤサカを睨みながら呆れた様に笑って、慣れた様にミクリカの裏路地から街の中を突き進んでいった。
「おぉう…？いらっしゃい可愛いお嬢さん」
「………」
「それとも、相変わらずセクシーだねって言った方が良い？」
「どっちも要らない」
岸壁街で同じコミュニティに入っていたヴォイド・ホロウが眉間に深い皺を寄せた状態で現れた。と言うか、今はまだ開店時間前なのだが。
「ちょっとちょっとヴォイちゃーん…まだ開店時間前じゃんよー」
「ヤサカにちょっと話あっただけ」
「え？そんなに俺に会いたかった？やめろよー照れるぜ」
「何も言ってない」
無遠慮に店に入るとこれまた無遠慮にカウンター席に座るヴォイド。おーい、そこ今掃除したところなんだけどなぁー。
「ヴォイちゃん…相変わらず無慈悲っ！！」
「は？」
「やだよーもー。相変わらず男の純情弄ぶんだからこの子は」
「何の話だ」
「そっちこそ何の用よ？久しぶりにしちゃ乱暴じゃない？」
しくしくと態とらしく声を上げてみれば、嫌そうな顔で彼女は睨む。ヤサカがヴォイドの言葉を待つと、彼女は「ミアが来たでしょ」と呟いた。
「ミア？ミアって、ミア・フローレスちゃん？アポリフ山かエルプリフ山くらいの！？」
「何の話だ」
「ちなみにヴォイちゃんはカヌル山っ」
「……次言ったらすり潰す」
意味の通じたヴォイドに軽く脅されたところで。ヤサカはいそいそとグラスの準備を始めるとドリンクを混ぜ合わせヴォイドにサッと献上する。
「こちらどうぞ。どうせならゆっくりしてってよ」
「私…お酒飲めない…」
「知ってるよ。昔ベロベロになった時介抱したの誰だったか覚えてなーい？本当少し嗅いだくらいで様子おかしくなってたからさー。何か変だなーって思ってたんだけどまさか一口、二口であんな綺麗にひっくり返ると思わなくてさー。あの時ヴォイちゃんキャッチした俺の反射神経拍手モンだしその後もマジでカヌル山前にしてただただ介抱しただけの俺を本当褒めて欲し…」
ゴッ！！！と音を立ててヤサカの目前に拳が落ちた。無言で放たれたそれが、「次は狙う」と言っている。
「…と言うのは冗談でー…」
「冗談に聞こえないけど」
「まあまあ、とりあえず冗談って事でさ。こちらバージンブリーズでごさいますっ。ノンアルコールカクテルだよ。アルコール入ってないのに味に深みあるからジュースより大人な飲み物だぜ？」
「へー…」
「ヴォイちゃんバージンじゃねえってのにな！ヒッヒッヒ」
ヤサカの目前に、また拳が落ちた。少しのズレで掠ったそれは温情だろうか。「本当に狙うぞ」と言っている。じわじわと近付いて来る拳が怖い。
「まー…乙女のプライベートな話はこの辺にしときやしょーかねー…」
「続けても良いよ？喰らいたいなら」
「…シャドーボクシング見せ付けられて尚続ける死にたがりは居ないでさぁーねー…」
用心深くグラスに鼻を近付けるヴォイド。ヤサカは「だからアルコール入ってないって」と言うが、信用出来ないのかおそるおそるクンクン匂いを嗅ぎ、そして口付けた。
あ、でも飲むのね。流石飲食への欲求は底無しだなぁ。
思えば初めて会った時からよく食べる子だった。所謂、「燃費の悪い体質」とでも言うのか、食べても太らず吸収もそこそこと言う、食うに困る人間の多い岸壁街の環境では生きるのに不自由な体。
──あの子はよく食べる子なんです──
骨を折られ体を満足に動かせず、内出血だらけの顔で痛々しく微笑みながら愛おしそうにそう言った男を思い出す。その度、ヴォイドを見ると少し双方に苛立ってしまう。あの男がどれだけ想おうと、彼女には上手く届いていないからだ。あの男の下手くそな愛の届け方も、本当にお感じが無いこの彼女も全く。恋愛において不器用この上ない二人に挟まれ中立にならざるをえない自分の身にもなって欲しい。
「で？ミアちゃんが何だって？」
ヴォイドは目を見開き、「忘れてた」と言わんばかりの顔をヤサカにぐりんと向けた。そしてまたジトッとした目で睨むのだった。
「…ミアに変な事言ったでしょ」
「えー？流石に誤解じゃね？」
「二回もナンパされた上にネックレスの事根掘り葉掘り聞かれたって」
「おっと」
多分あの子の事だからもうちょっと詳しく話したろうが、事実だけ挙げれば確かにそうなるか。そしてヴォイドの事だから、そう言う面で悪いイメージしか無い相手に対しては容赦なく悪いイメージだけで見る。釈明のしようもないししたところでどうと言う事もないのでヤサカは特に言い訳もせず肯定した。
「いやー…やっぱ可愛い子見付けたら声掛けたくもなるじゃないの。そう言う話聞きたいじゃないの」
「ヤサカとロードって本当同類だよね…ミアはそう言う冗談言って良いタイプの子じゃないんだから、あんまり言わないで自重して」
「はいはーい」
「…本当に自重する？」
「多分ねー」
ヴォイドとヤサカは、掃除屋のコミュニティに入っている。掃除屋と言っても町の清掃活動、なんて意味ではなくその対象は主に人間だ。依頼を受けた通りに処分する。コミュニティに依頼が入れば、素性がバレない様に防護服に身を包んで仕事に向かう。掃除屋は常にニュートラルであらねばならない。そしてその仕事の性質上、誰よりも安全を保証されねばならない。
ヴォイドは一度、正体がバレてあろう事か標的側の人間から報復を受けそうになった事がある。その時、掃除屋としてのタブーを犯してまで助けたのはヤサカだった。素性を明かした上に依頼に無い人間の削除に及んだ為、岸壁街では飲み屋のマスターと言うよりかは「掃除屋ヤサカ」と言った方が名が知れていると言う異例の事態。ミアを狙って狼藉を働こうとした青年が怯えて実行を止めたのも、「掃除屋ヤサカ」の顔を知っていたからだ。
そして彼と組む時、決まって彼は標的の息の根を止める役を買って出る。それがどう言う意味かヴォイドは分かっていたので、気が付くとヤサカには強くものを言えなくなっていた。素性を明かした危険な身の上で汚れ役を買って出る彼。真意は分からないが、そんな彼を邪険に扱う事だけは流石のヴォイドも胸が痛んで出来なかった。
「ヤサカ、本当にやめてよ。ミアはそう言うのに免疫ある子じゃない」
「あーね…。これからあの意地悪そうな兄さんと大人になっちゃうんだな、ミアちゃん…」
「おい、言ったそばから」
「それよりヴォイちゃんよぉ、ミアちゃんの事大事なのは分かるが俺みたいな人間皆にこれからも釘刺して歩く気か？ミアちゃんだって子供じゃ無いんだし」
「まだこの間成人したばっかだ」
「そうじゃねぇよ。ってかヴォイちゃんてば束縛癖ある彼女みてぇ。良いけどさー、そんな事してたら束縛嫌いな男は逃げちゃうかもしれないよ？束縛されんの嫌いな男傍に居るなら気を付けなー」
「えっ…！？」
心当たりでもあるのか、顔を真っ赤にするヴォイド。あれ？珍しい。こんなにこの子ころころ顔色変わったっけ？悪戯心に火の点いたヤサカはヴォイドをオモチャにする事にした。
「あれー？ヴォイちゃんもしかして狙ってる男にそう言うタイプいる？」
「ち、違うっ！身近に…もしかしたらそうかもしれな…ね、猫みたいな人が居たの思い出しただけ…」
「え？ヴォイちゃん職場にそんな良い仲の男いんの？」
「い、良い仲…！？」
「前会った時初恋の幼馴染とも再会したって言ってなかった？」
ヴォイドは何かを思い出したのか、赤い顔の赤みは更に増す。さては愛の日にでも何かあったな？ヤサカの揺さぶりは更に続く。
「ははーん？さては愛の日にそいつらと何かあったろ」
「べ、べ、別に」
「ヒッヒ、分っかりやすく動揺しちゃって可愛いのー！って言うかさっきちゃっかりロードの名前呼んでたのも気付いてたぜー？あんなに呼ぶの嫌がってたのにさー」
「そ、それも別に…！気分！気分だから！」
「えー？随分躊躇いなく親しげに呼ぶなーって思ってたんだけども？」
「別に親しく無い！」
ああ、少し報われるな。気付けばヤサカもヴォイドと同じものを作って飲んでいた。あの男が彼女に何をしたか全部知っている。彼女をずっと想っていたのも、彼女を守る為に一時動けない体になった事も。
だから自分は彼の代わりに掃除屋のコミュニティで彼女を見守ると決めた。でもきっとあの男は、自分以外の人間からそれを知らされる事を良しとしない。
だから言わない。自分で言え。俺は言ってやらない。だって言わなくても少しずつちゃんと伝わってんじゃん。そして彼女も、やっと少しずつ周りを見ようとしてるんじゃん。
「お兄ちゃん嬉しいわー…あのヴォイちゃんが、地味に色んな男振り回してた無自覚悪女ちゃんが…！」
「振り回した覚えなんてない、誰の話だ！？」
「とうとう男に振り回されて真っ赤になる姿を見せてくれるなんて…！えっと？束縛嫌いな猫っぽい同僚とー、初恋の幼馴染とー、あと七三スーツ。あれ？どこのナラ下？」
「……！う、うるさい！言いたい事言えたから私は帰る！！」
「ちょい待ち」
ヤサカは慌てるヴォイドの腕を掴むと、にっこりと微笑む。
「ヴォイちゃん、良い事なんだから照れる事無ぇって」
「…ヤサカはいつも揶揄うみたいに話すから、嫌い…」
「嫌わないでよー。俺はヴォイちゃんずっと好きよ？」
「…私は嫌い…」
「でも俺は好き」
見るからに目尻を下げしょんぼりした顔になるヴォイドの体を愛おしそうに抱き締めるヤサカ。昔はこうすると「子供扱いするな」とよく暴れられたものだが、今日はやけに素直にすっぽり収まった。だからついつい抱き締める手に力も加わる。
「俺は好き。ずっと好き。だーい好き」
「うるさい…」
「…やっとこの言葉がどんなにあったかいもんか気付けたんでしょ？ヒヒッ、それだけでも御の字よ」
「でも…そう思ったら多分、こっちに戻れなくなると思う…」
珍しくヴォイドの腕が返す様にヤサカの背中にまわされる。だろうな、やっぱり。何か変わったと思っていたが、彼女にとったらきっと大変な変化だった訳だ。
居場所を見付けてしまったんだろうな。あったかくて今まで無縁だった様なところに。そこの居心地の良さに気付いてしまって、気付かないふりをまだしたかったんだろうな。もし出て行く事になったら耐えられなくなるだろうから。
「良いじゃん？戻らなくて。今のヴォイちゃんに岸壁街って似合う様で似合わねぇって」
「でも…」
「出会った奴らも以前どこに居たか別にして今は立派に外の世界に馴染んでる連中だろ？ヴォイちゃんが岸壁街引き摺ってどーすんのよ。時々思い出せるくらいで良いんじゃね？一応故郷だって思うならさ。捨てる訳じゃねえ、前に進んだ結果少し離れようってだけだろ？それに、誰がヴォイちゃんにこっち戻れなんて言うのよ？」
「…じゃあ、ヤサカは？」
「俺？俺はここにいるよ？ここに居てー、ヴォイちゃんみたく外に居られるにも関わらず義務感でも感じてなのかこんな掃き溜めに戻ろうとする子をハグして止める。外にいて良いんだよーって。あ、モチ可愛い女の子限定ね」
「……」
「ヴォイちゃんてさ、実はすげぇ人の娘とかだったりして。お姫様とか…もしかしたら『この世界に有終の美を』のナイジュみたいに実は体の半分うんと価値のある何かで出来てて、だから岸壁街から出られない様に色々画策されてて其のすげぇ人が実は生き別れた父──」
「何の話だ…ヤサカも何かよく知らない作品の話するよね…」
「…『も』って事は、そんな話題振る奴いんのね？」
「…い、居なくもない…」
「うん、よいねよいね、よい事だね」
こうして文句を言いに来た筈のヴォイドは結局ヤサカの口の上手さとペースに乗せられて宥められてしまう。ヤサカはヤサカで、あんなに感情の起伏が無く常に寂しそうだった彼女が人を思いコロコロ顔を変えているのが寂しくもあり、嬉しくもあった。
全く、本当良い風に変わって行ってくれて。この子を揺さぶってくれた知らない外の人間に感謝しなければ。多分、その内の一人にミアもいるのだろうな。ヤサカの脳裏にあの屈託のない花の様な笑顔が蘇った。
「……ところでヴォイちゃんや。まーたおっぱい大きくなってねぇ？何かやわっこくて気持ち良いね今日」
「……さっき、二度目はすり潰すって、言った」
ミクリカの裏路地付近を歩いていた人間は、この日鈍器で殴打するかの様な凄まじい音がリカ・コスタの中から外に響き渡るのを聞いた。
そして店から出て来たヤサカは、頭に出来たこぶをさすりながら「ちょっと調子こき過ぎた…」と呟いて笑った。一緒に出て来たスクラブ姿の女はそんなヤサカを睨みながら呆れた様に笑って、慣れた様にミクリカの裏路地から街の中を突き進んでいった。
元気そうで良かったよ。会いたかった。
昔々のお話過ぎて、きっと君は覚えていないよな。
でも俺は覚えてるんだよ、あまりにそれが悲しかったから。
俺と言う人間のした事が、あまりにもさもしくて悲しかったから。
だから強烈に君を覚えて居たんだよ。
どうしようもなく脳裏に焼き付いて、君の事を忘れられなかったんだよ。
ある夏の暑い日。岸壁街上層は中層、下層よりほんの少し太陽に近いからか茹だる様な暑さを催す事もある。
部屋の隅で小さくなり、一日をやり過ごそうとしていた青年は、もうそろそろ仕事も決まりこの施設を出て行こうとしていた。
自分一人でやって行ける。そう自信が胸を満たした。それでもやはり幼い頃からこの施設で得てしまった想いを塗り替える事は出来ず。幼い頃から「機械人形の様だ」と揶揄われ、何かあると暴力を加えられ、迫害の的になっていた。
施設から出るのは寂しい。そして不安もある。忘れたくない楽しい記憶だって勿論ある。同じくらい、忘れたくても忘れさせてくれない記憶もある。
青年は、まるで空気に溶け込むように、目立たない様にこの暑さの中フードを被って髪を隠し、部屋の隅で静かにして居た。
「わぁ…きれい…」
「…は……？」
「お兄さん、髪の毛綺麗ねー」
不意に小さな女の子が覗き込んでくる。正直放っておいて欲しいのだが。
「…ンだよ。何の用だっての…」
「お兄さん、一人？」
「あぁ？ナンパかよ」
「あのね、私アメ二つあるからね、一個お兄さんにあげようと思ったの」
コロンと差し出されたそれは、グレープ味なのだろう。やけに濃い紫が陽の光に当たってキラキラして居た。
* * *
「お姉さん、髪の毛良い色じゃん！可愛いねー！」
「……ンだよ、テメェさっきから…」
アンはうんざりしていた。ミクリカに用があり、少し工具を買いに出て来たらこのよく分からない男にさっきからずっと付き纏われているからだ。煩わしくて堪らないのだが、彼の髪の色、目の色がミサキに似ているからなのかどうしても強く振り切る事が出来ずに居た。
「どう言うつもりか知らねェけど、あーしは工具見に来ただけだからテメェとどっか行くつもりも何するつもりも無ェ！」
「えー、良いじゃんお話しよーよ。一人でしょ？」
「ナンパかよ、他当たれ！」
全く何なんだこの男。アンは変なモノに目を付けられたとげんなりした。ミサキによく似た髪の色、目の色はついつい情が移るのか無下に扱えない。そうこうしていたらこの調子乗りだ。荷物で両手も塞がっているし手で振り払う事も出来ずに居たアン。ただ、この男も口でこそぐいぐい来るが今のところ特に実害が無いのでやり過ごそうとも思った。
にしても、久しぶりにミクリカに来てこんなナンパ男に絡まれるなんてツイてない。
「良いじゃんよー…俺お姉さんの話聞きたいのよ。俺の店そこだからさ、ちょっとだけお茶しない？」
「何でテメェの店でテメェと茶ァしばかなきゃなンねェんだ！？ぼったくりバーの経営者かテメェ！？」
「そうそう、ビール一杯三万イリ。って何でやねーん！」
「何つまんねェノリツッコミ入れてんだ？」
「うわぁ、この子非常にキビシー…！あ、でもその蔑んだ様な顔ちょっと興奮すんね」
「知るかよ」
「ちなみに俺が一番好きなのは褒められる事だけどね！お姉さんに言われたら一番興奮する気がする！」
「尚更知るか！くだらねェ事言ってねェで退け！」
足でちょいと男の足を突く。勿論、意思表示程度の小突きだ。男はそれを見て、やけに寂しげににこりと微笑む。なんなんだ、調子狂う変な奴だなァ。
その微笑みを目にしてふと、何故か夏の暑さを記憶の片隅に見た。
* * *
「要らねぇ…」
「え？」
「ンなもん、要らねぇ…」
青年は目を丸くする少女に冷たい言葉を浴びせる。しかし、その顔は言葉に反していやに寂しげで優しくて、少女は困惑した。
「良いね、アメ。お嬢ちゃんの目と同じ色じゃん」
「う、うん。だから…」
「そうだよなぁ、赤毛かもしれないけど…目も髪も、俺よりは『マシ』だよなぁ」
青年は表情は変えず、しかしその言葉は投げ捨てる様に発せられた。
「俺の目と髪、どう見えてる？こんな機械人形と間違われる様な薄い目と髪の色。ああ、お嬢ちゃんも赤毛だね。ヒヒッ、じゃあこの先『気に入らねぇ』なんて目ぇ付けられたら真っ先に的になるかもな。でも安心しな、俺みたいなもっと的にされやすい特徴持った奴もいるんだからよ。きっとこの先も定期的に入ってくるぜ。意外といるみてぇだからな、そう言う髪色、目の色の奴。まあ、そしたらお嬢ちゃんへのそう言うのは幾分かマシになる。ラッキーだったな。ああ、親切を分けてくれてどうも。良かったな、俺はそろそろこんなクソみてぇな場所出てくとこだったんだわ。だから本当良かったよ、俺もお嬢ちゃんに最後『良かった、アレよりはマシだ』って思わせられて」
少女は酷くショックを受けた顔を青年に向けた。そんなつもりで彼に声を掛けてなどいない。ただ一人で居る姿が凄く寂しそうに見えたから、自分だったらそのまま放っておかれたら嫌だと思ったから、だから声を掛けただけだった。
「だって…だってお兄さん…寂しそうに見えたから」
「だから？だから『可哀想』って思って声掛けてくれたの？ありがとねー、親切なお嬢ちゃんに教えてあげるよ。可哀想って言うのはさ、この世で一番酷い言葉だよ。相手を見下さなきゃ出てこない」
「そんな事ない！」
「じゃあ何？お嬢ちゃんは俺を見て、何を思って声掛けようと思ったの？それは、どう言う種類の憐れみ？」
残酷な青年の言葉。どんな刃物よりも鋭く痛い。ただただ、美味しいものを共有する相手を探していただけ。そこにたまたまその青年が居て、彼曰く「自分の方がまだマシと思える髪の色」を、綺麗だと思って近付いただけ。
全ては偶然。たまたまそこに居合わせたから交わっただけの縁。
しかし青年は少女を好きでも嫌いでも無かった。だから、いとも容易く差し伸べられた手を振り払った。
「酷い。酷い。酷い子だねー…。お嬢ちゃん」
青年はこの時の事を後に酷く後悔する。そして大人になった今思う。もし自分が彼女と会って同じ態度を取られたら。青年は時を経て街で彼女を見かけ、生きてきた中で一番恐怖した。
今更理解しても、きっと手遅れなのになぁ。
「あ、あわれみ…？」
「そうだよ。こんなところで一人で、気配を消して過ごさなきゃいけない俺に比べれば君は憐れじゃない。いじめられたりもしてないし不憫でもない、俺に比べれば。そう実感したくて俺の傍に寄るやつなんていっぱい居るんだよね」
「ち…違うよ！」
「違う？わざわざ髪褒めて施し持って近付いて、何がどう違うのさ？」
だけどこの時、青年は自分でも分かるくらい歪んでいて、そして自分でも分かるくらい心を閉ざしていた。
何でこの時、この女の子が「自分が悪い」って思って、俺は自分がした事を「悪い」とすぐ思えなかったんだろう。
今まで誰に何をされたってこの子に直接何かされた訳ではないのに、こんなの八つ当たりもいいところだ。
そしてそんな八つ当たりを受けたら、かつて虐めや迫害で俺が傷付いたみたいにこの子だって傷付くんだって、次は俺が傷付ける側になってしまっただなんて、そんな簡単な事をどうしてこの時気付けなかったんだろう。
どうしてこの子をこの瞬間悪者にしたかったんだろう。
ああ、そう言う奴であってくれないと、俺自身が困ると思ったからだ。
この子がそう言う下心とかそう言うの持っててくれないと、ただの親切なんかじゃ決してなく見栄とか何か汚く歪んだモノでも持っててくれないと。
俺自身が自分の汚さを自覚して困ると思ったからだ。
この子は、綺麗すぎるんだ。
「…で？どこまで着いて来ンだよ…？」
アンは半ば諦めた様に呟く。いつの間にやら荷物を半分持った男はアンの横にぴったりくっ付いてニコニコした。
「んー？お姉さんとゆっくりお話出来るまでかな！？」
「……あのな、世の中どうしたって叶わねェってモンもあンの知ってっか？」
年単位で待つ気か。そうアンが呟くと、それも良いかなー？と呑気に男は返す。アンは何となく男の雰囲気から諸々を察し、とは言え推測の域を出ない話ではあったが男に今一度言葉を掛けた。
「あーし、元々ここの出なんだよ。だからこの辺の脇道の治安の悪さはよく知ってる」
「なら尚更俺居た方が良くね？」
「だから、大丈夫なんだって。あーしはここの雰囲気にも慣れてるし、顔馴染みな奴もいる。…悪かったな、わざわざ心配してここまで着いてきた事に気付かなくてさ」
「……」
男は張り付いた笑顔のまま静かになった。図星。きっとそうだ。回りくどい奴だ。人に親切にするのに何かしら演じなければいけない奴。
とは言え、何もしない奴よりよっぽどマシだが。
「あらら…？いつから気付いてらして？」
「荷物まであーしの手から取って体でグイグイ大通りの方に押して誘導してくりゃナンパが目的だけじゃねェって嫌でも分かる。口では色々言う癖に、人の少ねェ脇道でなく人通りの多い方に押すからな」
「分かんねーよ？手使えなくてもお姉さんとくっ付きたいだけだったりしてー！？」
「そうかよ。でもとにかく、あーしは大丈夫だから」
何ならああ言う奴に同じ事してやれ。
アンが指差した先に居たのは、いかにもお上品な身なりの男。金色の、男性にしては少し長めの髪は高いシャンプーでも使っているのか質が良く、身に付けているものも服から時計からなかなかお高そうに見えてこんな場所では「どうぞ狙って下さい」と言っている様な物だった。
「……って、ギルバート！？」
「アン！？やっと見付けた…そ、その隣にぴったり寄り添っている彼は…？」
アンを探していたらしいギルバートはすぐ横にいる男を不躾にも指差した。その指が僅かに震えており、アンはギルバートがまた余計な勘違いを起こしていると察する。男もそれに気付いており、ヒヒヒッと楽しそうに笑うとわざとアンの肩を抱いた。
「え！？いやその、僕はアンの邪魔をしたいわけではないがその…」
涙目の様なギルバートの情け無い顔にアンは頭が痛くなった。
「…ったく、テメェいい加減にしろ、コイツを揶揄うな！」
「痛ぇっ！！」
荷物を持った事でアンの空いた手からの愛の拳を一発頭にお見舞いされる。そこコブあんのよ！？とぴーぴー言われるがアンの知った事ではなかった。
「テメェが揶揄うのが悪ィだろ」
「ア、アン…？その男性は…？」
「ナンパだナンパ。声掛けて来てずっと着いて来た奴。ただ…上手く言えねェが多分悪ィ奴じゃ無い」
「そ、そうなのか…？」
「それよりテメェこそどうしてここに？」
「いや…買い出しに出たら機械班のメンバーを見掛けて…アンも買い出しに出たと聞いたものだから何処かで落ち合えたら荷物持ちくらいは出来るだろうかと…」
「そんな事の為にわざわざ…暇か、テメェ」
「い、良いだろう別に…」
ハッとしたアンが男の方を見ると、男が垂らした前髪からちらりと覗かせる目はどう見てもニヤニヤしていたし、口元もどう見ても緩んでいる。
「ふーん…ヒヒヒッ、ふーん…」
「……ンだよ気持ち悪ィな」
「んー…良いじゃん、仲のよろしそうなこって」
「な、仲…っ！？」
アンより先にアン以上に顔を真っ赤にして狼狽えるギルバート。ちなみにアンは照れてすらいない。その二人の様子に思わず男は笑った。
「良いじゃん良いじゃん、こんな風に隣で馬鹿やってくれる奴って貴重よー？」
「…コイツぁこれで大真面目なんだよ」
「え？馬鹿って僕の事か？今馬鹿と言われたのは僕か？」
「……ほら見ろ、テメェのせいでまたコイツの全部本気で受け取るスイッチ入っちまったろ」
「今僕は会ってすぐの彼に馬鹿と認定されたのか…？」
「……どうすンだよ、コレ…」
「ヒーヒヒヒッ！！」
狼狽えるギルバート。アンの溜め息と男の奇妙な笑い声はしばらく路地裏に響き渡った。
でも俺は覚えてるんだよ、あまりにそれが悲しかったから。
俺と言う人間のした事が、あまりにもさもしくて悲しかったから。
だから強烈に君を覚えて居たんだよ。
どうしようもなく脳裏に焼き付いて、君の事を忘れられなかったんだよ。
ある夏の暑い日。岸壁街上層は中層、下層よりほんの少し太陽に近いからか茹だる様な暑さを催す事もある。
部屋の隅で小さくなり、一日をやり過ごそうとしていた青年は、もうそろそろ仕事も決まりこの施設を出て行こうとしていた。
自分一人でやって行ける。そう自信が胸を満たした。それでもやはり幼い頃からこの施設で得てしまった想いを塗り替える事は出来ず。幼い頃から「機械人形の様だ」と揶揄われ、何かあると暴力を加えられ、迫害の的になっていた。
施設から出るのは寂しい。そして不安もある。忘れたくない楽しい記憶だって勿論ある。同じくらい、忘れたくても忘れさせてくれない記憶もある。
青年は、まるで空気に溶け込むように、目立たない様にこの暑さの中フードを被って髪を隠し、部屋の隅で静かにして居た。
「わぁ…きれい…」
「…は……？」
「お兄さん、髪の毛綺麗ねー」
不意に小さな女の子が覗き込んでくる。正直放っておいて欲しいのだが。
「…ンだよ。何の用だっての…」
「お兄さん、一人？」
「あぁ？ナンパかよ」
「あのね、私アメ二つあるからね、一個お兄さんにあげようと思ったの」
コロンと差し出されたそれは、グレープ味なのだろう。やけに濃い紫が陽の光に当たってキラキラして居た。
* * *
「お姉さん、髪の毛良い色じゃん！可愛いねー！」
「……ンだよ、テメェさっきから…」
アンはうんざりしていた。ミクリカに用があり、少し工具を買いに出て来たらこのよく分からない男にさっきからずっと付き纏われているからだ。煩わしくて堪らないのだが、彼の髪の色、目の色がミサキに似ているからなのかどうしても強く振り切る事が出来ずに居た。
「どう言うつもりか知らねェけど、あーしは工具見に来ただけだからテメェとどっか行くつもりも何するつもりも無ェ！」
「えー、良いじゃんお話しよーよ。一人でしょ？」
「ナンパかよ、他当たれ！」
全く何なんだこの男。アンは変なモノに目を付けられたとげんなりした。ミサキによく似た髪の色、目の色はついつい情が移るのか無下に扱えない。そうこうしていたらこの調子乗りだ。荷物で両手も塞がっているし手で振り払う事も出来ずに居たアン。ただ、この男も口でこそぐいぐい来るが今のところ特に実害が無いのでやり過ごそうとも思った。
にしても、久しぶりにミクリカに来てこんなナンパ男に絡まれるなんてツイてない。
「良いじゃんよー…俺お姉さんの話聞きたいのよ。俺の店そこだからさ、ちょっとだけお茶しない？」
「何でテメェの店でテメェと茶ァしばかなきゃなンねェんだ！？ぼったくりバーの経営者かテメェ！？」
「そうそう、ビール一杯三万イリ。って何でやねーん！」
「何つまんねェノリツッコミ入れてんだ？」
「うわぁ、この子非常にキビシー…！あ、でもその蔑んだ様な顔ちょっと興奮すんね」
「知るかよ」
「ちなみに俺が一番好きなのは褒められる事だけどね！お姉さんに言われたら一番興奮する気がする！」
「尚更知るか！くだらねェ事言ってねェで退け！」
足でちょいと男の足を突く。勿論、意思表示程度の小突きだ。男はそれを見て、やけに寂しげににこりと微笑む。なんなんだ、調子狂う変な奴だなァ。
その微笑みを目にしてふと、何故か夏の暑さを記憶の片隅に見た。
* * *
「要らねぇ…」
「え？」
「ンなもん、要らねぇ…」
青年は目を丸くする少女に冷たい言葉を浴びせる。しかし、その顔は言葉に反していやに寂しげで優しくて、少女は困惑した。
「良いね、アメ。お嬢ちゃんの目と同じ色じゃん」
「う、うん。だから…」
「そうだよなぁ、赤毛かもしれないけど…目も髪も、俺よりは『マシ』だよなぁ」
青年は表情は変えず、しかしその言葉は投げ捨てる様に発せられた。
「俺の目と髪、どう見えてる？こんな機械人形と間違われる様な薄い目と髪の色。ああ、お嬢ちゃんも赤毛だね。ヒヒッ、じゃあこの先『気に入らねぇ』なんて目ぇ付けられたら真っ先に的になるかもな。でも安心しな、俺みたいなもっと的にされやすい特徴持った奴もいるんだからよ。きっとこの先も定期的に入ってくるぜ。意外といるみてぇだからな、そう言う髪色、目の色の奴。まあ、そしたらお嬢ちゃんへのそう言うのは幾分かマシになる。ラッキーだったな。ああ、親切を分けてくれてどうも。良かったな、俺はそろそろこんなクソみてぇな場所出てくとこだったんだわ。だから本当良かったよ、俺もお嬢ちゃんに最後『良かった、アレよりはマシだ』って思わせられて」
少女は酷くショックを受けた顔を青年に向けた。そんなつもりで彼に声を掛けてなどいない。ただ一人で居る姿が凄く寂しそうに見えたから、自分だったらそのまま放っておかれたら嫌だと思ったから、だから声を掛けただけだった。
「だって…だってお兄さん…寂しそうに見えたから」
「だから？だから『可哀想』って思って声掛けてくれたの？ありがとねー、親切なお嬢ちゃんに教えてあげるよ。可哀想って言うのはさ、この世で一番酷い言葉だよ。相手を見下さなきゃ出てこない」
「そんな事ない！」
「じゃあ何？お嬢ちゃんは俺を見て、何を思って声掛けようと思ったの？それは、どう言う種類の憐れみ？」
残酷な青年の言葉。どんな刃物よりも鋭く痛い。ただただ、美味しいものを共有する相手を探していただけ。そこにたまたまその青年が居て、彼曰く「自分の方がまだマシと思える髪の色」を、綺麗だと思って近付いただけ。
全ては偶然。たまたまそこに居合わせたから交わっただけの縁。
しかし青年は少女を好きでも嫌いでも無かった。だから、いとも容易く差し伸べられた手を振り払った。
「酷い。酷い。酷い子だねー…。お嬢ちゃん」
青年はこの時の事を後に酷く後悔する。そして大人になった今思う。もし自分が彼女と会って同じ態度を取られたら。青年は時を経て街で彼女を見かけ、生きてきた中で一番恐怖した。
今更理解しても、きっと手遅れなのになぁ。
「あ、あわれみ…？」
「そうだよ。こんなところで一人で、気配を消して過ごさなきゃいけない俺に比べれば君は憐れじゃない。いじめられたりもしてないし不憫でもない、俺に比べれば。そう実感したくて俺の傍に寄るやつなんていっぱい居るんだよね」
「ち…違うよ！」
「違う？わざわざ髪褒めて施し持って近付いて、何がどう違うのさ？」
だけどこの時、青年は自分でも分かるくらい歪んでいて、そして自分でも分かるくらい心を閉ざしていた。
何でこの時、この女の子が「自分が悪い」って思って、俺は自分がした事を「悪い」とすぐ思えなかったんだろう。
今まで誰に何をされたってこの子に直接何かされた訳ではないのに、こんなの八つ当たりもいいところだ。
そしてそんな八つ当たりを受けたら、かつて虐めや迫害で俺が傷付いたみたいにこの子だって傷付くんだって、次は俺が傷付ける側になってしまっただなんて、そんな簡単な事をどうしてこの時気付けなかったんだろう。
どうしてこの子をこの瞬間悪者にしたかったんだろう。
ああ、そう言う奴であってくれないと、俺自身が困ると思ったからだ。
この子がそう言う下心とかそう言うの持っててくれないと、ただの親切なんかじゃ決してなく見栄とか何か汚く歪んだモノでも持っててくれないと。
俺自身が自分の汚さを自覚して困ると思ったからだ。
この子は、綺麗すぎるんだ。
「…で？どこまで着いて来ンだよ…？」
アンは半ば諦めた様に呟く。いつの間にやら荷物を半分持った男はアンの横にぴったりくっ付いてニコニコした。
「んー？お姉さんとゆっくりお話出来るまでかな！？」
「……あのな、世の中どうしたって叶わねェってモンもあンの知ってっか？」
年単位で待つ気か。そうアンが呟くと、それも良いかなー？と呑気に男は返す。アンは何となく男の雰囲気から諸々を察し、とは言え推測の域を出ない話ではあったが男に今一度言葉を掛けた。
「あーし、元々ここの出なんだよ。だからこの辺の脇道の治安の悪さはよく知ってる」
「なら尚更俺居た方が良くね？」
「だから、大丈夫なんだって。あーしはここの雰囲気にも慣れてるし、顔馴染みな奴もいる。…悪かったな、わざわざ心配してここまで着いてきた事に気付かなくてさ」
「……」
男は張り付いた笑顔のまま静かになった。図星。きっとそうだ。回りくどい奴だ。人に親切にするのに何かしら演じなければいけない奴。
とは言え、何もしない奴よりよっぽどマシだが。
「あらら…？いつから気付いてらして？」
「荷物まであーしの手から取って体でグイグイ大通りの方に押して誘導してくりゃナンパが目的だけじゃねェって嫌でも分かる。口では色々言う癖に、人の少ねェ脇道でなく人通りの多い方に押すからな」
「分かんねーよ？手使えなくてもお姉さんとくっ付きたいだけだったりしてー！？」
「そうかよ。でもとにかく、あーしは大丈夫だから」
何ならああ言う奴に同じ事してやれ。
アンが指差した先に居たのは、いかにもお上品な身なりの男。金色の、男性にしては少し長めの髪は高いシャンプーでも使っているのか質が良く、身に付けているものも服から時計からなかなかお高そうに見えてこんな場所では「どうぞ狙って下さい」と言っている様な物だった。
「……って、ギルバート！？」
「アン！？やっと見付けた…そ、その隣にぴったり寄り添っている彼は…？」
アンを探していたらしいギルバートはすぐ横にいる男を不躾にも指差した。その指が僅かに震えており、アンはギルバートがまた余計な勘違いを起こしていると察する。男もそれに気付いており、ヒヒヒッと楽しそうに笑うとわざとアンの肩を抱いた。
「え！？いやその、僕はアンの邪魔をしたいわけではないがその…」
涙目の様なギルバートの情け無い顔にアンは頭が痛くなった。
「…ったく、テメェいい加減にしろ、コイツを揶揄うな！」
「痛ぇっ！！」
荷物を持った事でアンの空いた手からの愛の拳を一発頭にお見舞いされる。そこコブあんのよ！？とぴーぴー言われるがアンの知った事ではなかった。
「テメェが揶揄うのが悪ィだろ」
「ア、アン…？その男性は…？」
「ナンパだナンパ。声掛けて来てずっと着いて来た奴。ただ…上手く言えねェが多分悪ィ奴じゃ無い」
「そ、そうなのか…？」
「それよりテメェこそどうしてここに？」
「いや…買い出しに出たら機械班のメンバーを見掛けて…アンも買い出しに出たと聞いたものだから何処かで落ち合えたら荷物持ちくらいは出来るだろうかと…」
「そんな事の為にわざわざ…暇か、テメェ」
「い、良いだろう別に…」
ハッとしたアンが男の方を見ると、男が垂らした前髪からちらりと覗かせる目はどう見てもニヤニヤしていたし、口元もどう見ても緩んでいる。
「ふーん…ヒヒヒッ、ふーん…」
「……ンだよ気持ち悪ィな」
「んー…良いじゃん、仲のよろしそうなこって」
「な、仲…っ！？」
アンより先にアン以上に顔を真っ赤にして狼狽えるギルバート。ちなみにアンは照れてすらいない。その二人の様子に思わず男は笑った。
「良いじゃん良いじゃん、こんな風に隣で馬鹿やってくれる奴って貴重よー？」
「…コイツぁこれで大真面目なんだよ」
「え？馬鹿って僕の事か？今馬鹿と言われたのは僕か？」
「……ほら見ろ、テメェのせいでまたコイツの全部本気で受け取るスイッチ入っちまったろ」
「今僕は会ってすぐの彼に馬鹿と認定されたのか…？」
「……どうすンだよ、コレ…」
「ヒーヒヒヒッ！！」
狼狽えるギルバート。アンの溜め息と男の奇妙な笑い声はしばらく路地裏に響き渡った。
またね。俺の愛しいバイオレット。
ギルバート。きっと彼は貴族だろう。あの上品な身なり。障害も多いだろうに、アンに惚れ込むとは実は凄いタフな男だな？或いは鈍感過ぎるのか。茨の道だぜ？進もうとしてる道は。
ヤサカはアンとギルバートのやり取りを見ながらドキドキと忙しなく動く心臓に苦笑した。
らしくない。こんな事でホッとするなんて。けれど、何年も何年もこの事だけを考えて生きて来たのだから仕方がない。
ヤサカはアンの事を知っていた。
ヤサカとアンには実に十近く年齢の隔たりがある。彼女が孤児院に来た時、同じ孤児院に居たヤサカは年齢的に出て行く寸前だった。当時とても捻くれていたヤサカ。髪と目の色素の薄さから心ない言葉を浴びせられ、なにかと言うと的にされ。自分に自信など持てる筈もなく、自己肯定感も極端に低く、そしてそれ故驚く程に心に余裕が無かった。
だから、まだ希望を持つそのバイオレットの瞳を持つ少女、アンに冷たく当たった。
傷付けた。
彼女がただ偶然近くに居たから声を掛けたたったそれだけの事を、「自分を笑いに来た」「これよりはマシだと見下す為に来た」と穿った見方で見た上傷付けた。
今にして思えば恐ろしく愚かしい。
その愚かしさに気付けたのは、孤児院を出て調理場に勤務になってしばらくして、何だか随分と身なりだけは上品なのにやたらと言葉から下品な雰囲気を漂わせる青年に頭を下げられ料理の教えを乞われた時。
頭を下げつつ雰囲気は物語っていた。「本当はお前なんぞに頭など下げない」と。でも彼はそんな雰囲気を纏いつつも、どうしても美味しいものを食べさせてあげたい人がいるのだと言った。
彼はその誰かの為にプライドを捨てに来たのだとすぐに気付いた。ヤサカは彼の本当は実直な姿に絆され、何とかしてやりたいと思った。少しでも自分の持つ技術を共有出来れば、と。
その時、ヤサカは気付いた。これは彼を「可哀想」と見下す為に話に乗ったのか？否、単純に頼られる喜びも有ったが、自分が人に教える事で人と自分が同じ話題を共有出来る喜びを感じたかった。
あの子も、同じだった筈だ。
あの子と二人、美味しいねってただそれだけ口にしていれば。
あんな綺麗な子を、傷付けなくて済んだのに。
気付けばヤサカは、ジャンクショップやガラクタ市を周り、ビー玉を一つ買っていた。綺麗な綺麗な、紫色のビー玉。あの時受け取れなかった飴の様な色をしたビー玉を。
綺麗に日を透かすそれをぎゅっと握りしめる。そうして誰かに自分なりに親切に尽くせば、あの時の彼女を救う事は出来ないけど、自分は少しずつ許される様な気がした。
自分勝手で独り善がりの勝手な贖罪。
記憶力があり人の顔と名前を覚えるのが得意だからか、調べればすぐに彼女の情報は得られた。
アン・ファ・シン。特に目立った子では無かったのに、ミサキ・ケルンティアと行動を共にする様になり、彼女も凄惨ないじめに遭っていた。ミサキ・ケルンティアは俺と同じ様な目、髪を持った少女だった。
ほら、やっぱり君は優しい子だから。ほっとけば良いのに。他の汚い奴らに混じって、アレよりはマシと笑えば良かったのに。でも君はそれを許さなかったんだろうね。
同じ時期、土砂降りの日。
濁流に飲まれそうになっている人の遺体を発見した。…と、思ったらそいつは生きていて、よく見るといつものあの男だった。
「お、おい！お前どうしたんだよ！？」
「……」
男は辛うじて息はしていたが、顔は腫れ上がる程暴行を加えられていて腫れ瞼に圧され片目が開けられなかった。喉も潰されていて声も出せない。指も全部折られている。酷いリンチを受けたもんだ。随分と若い奴がやりそうな典型的な口封じのやり方だが、俺は何があったか何となく察した。
「…例の女の話…？」
「……」
男は痛む首を動かそうとしているが、この豪雨、体も冷え切っているしまず先に手当てをしないとどっち道こいつは死んでしまう。慌てて部屋に連れ込んで、そして思った。何故こいつを放っておかなかったんだ？どう考えても面倒事に巻き込まれている。
この事態が俺の予想通りなら、敢えてあの場で生かした事も考えられる。この男の協力者、交友関係を洗おうとあそこに放置した可能性も大いにありうる。
捨ててくるか？今更だけど。
こいつも暫く喋れない。この様子ならもう岸壁街にはいられない筈だ。これは足抜けの制裁にも近いから。ここでコイツを捨てても、多分面倒にはならない。後からコイツが報復に来る事もない。むしろ今が一番面倒だ。
しかし、俺には出来なかった。敢えて面倒事に首を突っ込む事にした。俺いつからこんなマゾになったわけ？
「乗りかかった船だしなー…」
俺は血反吐と泥に塗れた男を拾い上げる事にした。一応周りを確認して、顔をフードでよく覆って。
「ヒヒッ、災難だねー。喉潰されて指やられて、暫く声出す事も筆談も無理。それを狙ったんだろ？まあ、人間意外と頑丈だから不自由はそんな長くないだろうけど」
「……」
「何？臓器でもやられた？」
「……」
とりあえず体を綺麗にし、ベッドに寝かせる。男は黙っていたが、舌を二回ほど静かに出し入れした。これは、良くある「はいなら一回、いいえなら二回」ってやつか？やっぱり、この口止めした奴は随分幼稚なやり方を選んだもんだ。詰めが甘ぇ。
「ま、そう言うコミュニケーションが取れそうなら追々聞くよ」
連れ帰った男。こいつが結構わがままで、次の日から自由の利かない自分を連れて外に出せと言う。どこかに連れて行けと言わんばかり、全く面倒なと思いつつ差されるがままこいつをおぶって連れて行ったのはこの男がかつて住んでいたらしい家屋。そこにはまだあどけない顔をした、スタイルの良い吸い込まれる様な瞳をした少女が窓越しに見えた。
男が反応したのですぐに分かった。ほうほう、こんな可愛い子とずっと居たわけね？
少女は意外と平然と過ごしている。その日はそれだけ見て帰った。
さあ、これで十分だろ？そう思ったのだが、男は次の日もその次の日も、あそこに連れて行けと言った。何が悲しくて野郎おぶって連れてかなきゃなんねぇの。一週間が経った頃、彼女は少しだけ焦った様な顔をしていた。それを見て、今までに無い程男は動揺した。
「ヴォ…イド…」
「おい、おい落ち着けて」
まだしっかり治りきっていない、潰されて濁った声しか出せない喉から必死に絞り出した言葉。多分、あの子の名前。
何見せられてんだ、俺。
こんなさ、散々ボコボコにされて土砂降りの中ゴミよか惨い捨てられ方した癖にまだ人を求められる様な必死な奴見たらさ、本当は求めたかった筈なのに格好付けて傷付けて避けた俺ってアホみたいじゃん。
その次の日も、次の日も欠かさず彼女を見に来る。二週間目にはこいつも多少声が出せる様になり、一人になって頑張ったのか慣れた手付きで料理をする彼女を見て、微笑みながら「可愛い…」とぼそりと呟いた。
その後もそれは続き、通い始めて三週間。こいつも歩ける様になり二人で見に行った時、窓越しに見た彼女は泣いていた。声こそ聞こえなかったけれど、堰を切ったような泣き方ってやつだったのだと思う。
「…良いの？行かねーでさ」
「…今はまだ、行けません…」
「好きな女の子があんな泣き方してんのよ？行ってやっても良いんじゃね？」
「だからこそ行けないんです…まだ私は、真っ新ではないから…今行ったら…私が受けた制裁を、下手したら彼女が…」
「…じゃあ俺何で生かされてんの？」
ふと湧き上がった疑問。だが、男を殺す事が目的では無かったと思うと全て納得出来た。程々に痛め付けて、後の治療を第三者──つまり俺にやらせて生き永らえさせて、そこまではこいつの背後に居るデカい奴の手の内だと思えば全て繋がる。そしてそう言う流れなら、今あの子に会うのはあの子の身が危険過ぎる。
男を痛め付け、そして身体に教えた。悪戯するとここまで痛い目に遭わせるぞと。そして敢えて見放さないであろう俺に拾わせ治療をさせる。
お前は生かしておいてやる。が、次妙な動きしたらお前の一番大切なものを奪ってやる。
目の届くところにいるのに、近付けばお前と同じ目に遭わせてやると言わんばかりに大切なものにちらつかされる刃。そう言う悪い奴は人の追い詰め方をよく知ってる。大切なもの、家族とか恋人から囲って知らず知らず人質にする。
「ヴォイド…ヴォイド…！！」
抱き締めに行ってやりたいんだろうな。あんなに泣いて居る姿を見れば。こいつがした事が何であれ、俺は二人が一緒に居たと言う事しか知らない。まあ、実態は碌なもんじゃ無かったんだろうが、それでも今目の前に広がるのは、置いて行かれたのに絶望してか此方の涙腺まで誘われる程にずっと泣いている女の子。その子を今すぐ抱きに行きたくともどこで監視の目が光っているか分からず、今激情に突き動かされて行ったらその後の彼女の安全に保証なんてないと分かって居るからこそ動けず、血が出る程唇を噛み締めてる男。きっとコイツの言う真っ新な身の上なら、直ぐにでも抱き締めに行けたんだろうな。
羨ましいな。そんなに誰かを素直に思える様になれたなら。まだ俺の人助けの裏には勝手な贖罪しかねぇよ。
──ヤサカはポケットの中のビー玉を手で転がした。
何年か後、乗りかかった船だからと気付けばヤサカは掃除屋のコミュニティに属していた。そこにはあの女の子、ヴォイドが居たからだ。頼まれた訳じゃない。自分からやりたいと思って志願した。
ヴォイドは、あの男が執着する理由が分からなくは無いけどやっぱり分からない。そんな不思議なドライさを持った人間だった。でもあの男から散々惚気を聞いていたからかやはりどこか魅力的に見えて、俺は一緒に居る内にヴォイドを好きになった。だからこの子の手を汚させたくなくて初めて人を殺した。
終わった後、正直吐いた。遅かれ早かれ誰かに消される予定だった奴だとして、それをやるのって俺でなくても良くない？
そうは思ったが、何かやってしまった。岸壁街の奴って、こうやって知らず知らず手を汚していくんだろうな。
色々見ていたら、ふと中古機械人形業者でアンを見付けた。結構目敏いなー、俺。
アンは、初めて会った時とは打って変わって大人になっていた。何と言うか、誤解しないで聞いて欲しいのだが、やさぐれて見えた。或いは、いくつも死線を掻い潜った兵士の様な。つまり彼女は、苦労を経て歳を重ねた様なそんな険しい顔をしていたのだ。
ポケットの中のビー玉に手を伸ばす。俺の最後の記憶に在る君は、純粋で希望を信じてキラキラした目をしてたのになぁ。
自分なりに色々調べて、アンをいじめていた奴らも突き止めた。ある者はミクリカから出て真っ当な生活を送っていたが、大体碌なもんじゃねぇ。チンピラなり損ないのガキだった。そして幸か不幸か、その内何人かが運び屋紛いの事をやった上売り上げのちょろまかしなんてしたもんだから俺の仕事のリストに上がった。
「また、ヤサカがやるの？」
その日もヴォイドが不安気に聞いて来たので思わず彼女を抱き締める。不思議とこうしてると落ち着くんだよね。ああ、アイツがヴォイドに執着する理由何となく分かった気がする。
「…心配？」
「心配…とも違う様な…何か、釈然としない感じ」
「何それー」
「だって、その分私の取り分減るし」
「そっちねー、なるほど。でも今回は絶対、全部、俺がやるから」
俺の顔と名前への異様な記憶力を怨まないで欲しい。怨むんならそうだな、アンに手を出した日の自分を怨んでくれよ。
或いは、俺とアンが出会っちまった日、アンの優しさを突っ跳ねた俺を怨んでくれ。
仕事後、ポケットの中に入れていたビー玉を触るのが癖になって居た。そんな生活を続けて居たからか、その日ビー玉は取り出した瞬間どこからともなくヒビが入り、俺の目の前でパァンと割れてしまった。大きく二つに割れたビー玉。それぞれが反対方向に飛んで転がる。
俺はどちらを追う事も出来ず、後に残った小さなカケラを拾い集めた。
テロがあってもそのカケラだけは捨てられず、リカ・コスタも無事開業し、そこで俺は相変わらず贖罪の様な思い付く限りの善行を続けて居る。
俺のしてる事、何も報われないかもしれないけど、そうでもしてなきゃ俺自身がダメにやる。
でも昔より幾分俺は俺が好きだ。
あんな小さな女の子を悪者にしないと困る様な俺より、行き着く先がどうだか分からないけど人にとって善い事をしようと思えている自分の方がよっぽど好きだ。
そして街でアンに会ってしまった。今までそうした様に、知らんぷりをして離れりゃ良かったのに俺は君に声を掛けてしまった。もし昔の事を覚えていて、そして傷付いたと思うなら今からでも良いから俺を責めて欲しい。しかしいくら昔を思い出す様な事を言ってデジャヴを誘ってみたりしても、アンはまるで初対面と言う顔でしか俺を見なかった。
俺が悩みに悩んでずっと考えながら過ごした日々の中で、君は俺を呆気なく忘れた。
でも、忘れられたのがわかった事で、やっと俺は救われた気がしたんだ。もう君は俺に傷付けられた君からとうに乖離していた。
勝手過ぎる解釈なのは分かっている。でも、良いかな？もう俺も、君を傷付けた自責の念から離れて良いかい？
「……ほら見ろ、テメェのせいでまたコイツの全部本気で受け取るスイッチ入っちまったろ」
「今僕は会ってすぐの彼に馬鹿と認定されたのか…？」
「……どうすンだよ、コレ…」
「ヒーヒヒヒッ！！」
真面目過ぎるギルバートのボケだか本心だか分からない心配をアンは真顔で見つめた。そしてヤサカから荷物を取ると、ギルバートに手渡す。
「ほら、荷物持ち」
「あ、ああ…え！？これ重いな！？」
「嫌ならこっちのナンパ野郎に運んでもらうか…？」
「だ、大丈夫だ！僕に任せろ…！」
「と言う訳だ。あーしは大丈夫だから、もう変なちょっかい出すなよ」
そう言うアンを引き止める義理はもうヤサカには無かった。これ以上引き止めたらそれこそただの迷惑なナンパ者になってしまう。
「おー…。さっすが遣り手ねぇ」
「どう言う意味だテメェ」
「そりゃ惚れちゃうってお貴族様も！」
「なっ…！？何を言ってるんだ君はさっきから！！」
ごめんねギルバート。
ヤサカはアンの手を取りグッと引き寄せると彼女の長く垂らした前髪の分け目、露わになっている額にコツンと自分の額を重ねた。動揺しているギルバートからは、これまた良い感じにキスでもしている様に見える角度だった為そんな悪戯も込めて。
「…元気でね、アン」
「…？あれ？名前…名乗ってねェけど…？」
またね、俺の愛しいバイオレット。
昔の記憶にこびり付いてくれていた君のおかげで、ようやく人に対してちゃんと心から寄り添おうと思える余裕が生まれたよ。
まだまだ足りない部分は多いけど。
ごめんね、君があまりに変わってくれて、あまりに俺の馬鹿な部分をすっかり忘れてくれていたからついつい嬉しくなってしまった。
そうでなくても、今なら言えるけど。
反りが合わなくても食い違っても良いじゃないか。最初から君は君にしか無いものがあって、今となっては俺も俺にしか持てない物を持っている。あ、でもそれに気付く為にはやっぱりあれは必要なことだったかも。
それを持って、今強く生きられているから。
アンの優しさは尊い物だよね。
俺は、それを覚えていたから、今の俺を目指して足掻いたんだよ。
そしていつしか、誰かに必要とされたいと思える様になった。愛を信じたいと思った。
だから君も、君の抱える少し黒い色をしたその弱さ。怖がらずに隣にいる彼にぶつけたら良いのに。いつかそんな日が来る事を俺は遠くで祈り続けるよ。
ヤサカは店に戻る道中、ポケットに手を入れる。最後まで大事に取っておいたビー玉の欠片を取り出すと、突如吹き荒れた強風に煽られるのと同時に手を離す。
永らく抱えて来た彼女への罪悪感と共に、思い出のそれは何処かへ飛んでいった。
「風と共に去りぬ…なーんてね」
いや、上手く無い。さて、面白くない冗談飛び出したところで、今日も店を開けますか。
ミアちゃん、早く飲みに来てくれねーかな？そして俺を褒めてくれ。あ、でもその時はあの怖い顔の兄さん来るか。まだまだ浮かれてらんないね。
ヤサカはアンとギルバートのやり取りを見ながらドキドキと忙しなく動く心臓に苦笑した。
らしくない。こんな事でホッとするなんて。けれど、何年も何年もこの事だけを考えて生きて来たのだから仕方がない。
ヤサカはアンの事を知っていた。
ヤサカとアンには実に十近く年齢の隔たりがある。彼女が孤児院に来た時、同じ孤児院に居たヤサカは年齢的に出て行く寸前だった。当時とても捻くれていたヤサカ。髪と目の色素の薄さから心ない言葉を浴びせられ、なにかと言うと的にされ。自分に自信など持てる筈もなく、自己肯定感も極端に低く、そしてそれ故驚く程に心に余裕が無かった。
だから、まだ希望を持つそのバイオレットの瞳を持つ少女、アンに冷たく当たった。
傷付けた。
彼女がただ偶然近くに居たから声を掛けたたったそれだけの事を、「自分を笑いに来た」「これよりはマシだと見下す為に来た」と穿った見方で見た上傷付けた。
今にして思えば恐ろしく愚かしい。
その愚かしさに気付けたのは、孤児院を出て調理場に勤務になってしばらくして、何だか随分と身なりだけは上品なのにやたらと言葉から下品な雰囲気を漂わせる青年に頭を下げられ料理の教えを乞われた時。
頭を下げつつ雰囲気は物語っていた。「本当はお前なんぞに頭など下げない」と。でも彼はそんな雰囲気を纏いつつも、どうしても美味しいものを食べさせてあげたい人がいるのだと言った。
彼はその誰かの為にプライドを捨てに来たのだとすぐに気付いた。ヤサカは彼の本当は実直な姿に絆され、何とかしてやりたいと思った。少しでも自分の持つ技術を共有出来れば、と。
その時、ヤサカは気付いた。これは彼を「可哀想」と見下す為に話に乗ったのか？否、単純に頼られる喜びも有ったが、自分が人に教える事で人と自分が同じ話題を共有出来る喜びを感じたかった。
あの子も、同じだった筈だ。
あの子と二人、美味しいねってただそれだけ口にしていれば。
あんな綺麗な子を、傷付けなくて済んだのに。
気付けばヤサカは、ジャンクショップやガラクタ市を周り、ビー玉を一つ買っていた。綺麗な綺麗な、紫色のビー玉。あの時受け取れなかった飴の様な色をしたビー玉を。
綺麗に日を透かすそれをぎゅっと握りしめる。そうして誰かに自分なりに親切に尽くせば、あの時の彼女を救う事は出来ないけど、自分は少しずつ許される様な気がした。
自分勝手で独り善がりの勝手な贖罪。
記憶力があり人の顔と名前を覚えるのが得意だからか、調べればすぐに彼女の情報は得られた。
アン・ファ・シン。特に目立った子では無かったのに、ミサキ・ケルンティアと行動を共にする様になり、彼女も凄惨ないじめに遭っていた。ミサキ・ケルンティアは俺と同じ様な目、髪を持った少女だった。
ほら、やっぱり君は優しい子だから。ほっとけば良いのに。他の汚い奴らに混じって、アレよりはマシと笑えば良かったのに。でも君はそれを許さなかったんだろうね。
同じ時期、土砂降りの日。
濁流に飲まれそうになっている人の遺体を発見した。…と、思ったらそいつは生きていて、よく見るといつものあの男だった。
「お、おい！お前どうしたんだよ！？」
「……」
男は辛うじて息はしていたが、顔は腫れ上がる程暴行を加えられていて腫れ瞼に圧され片目が開けられなかった。喉も潰されていて声も出せない。指も全部折られている。酷いリンチを受けたもんだ。随分と若い奴がやりそうな典型的な口封じのやり方だが、俺は何があったか何となく察した。
「…例の女の話…？」
「……」
男は痛む首を動かそうとしているが、この豪雨、体も冷え切っているしまず先に手当てをしないとどっち道こいつは死んでしまう。慌てて部屋に連れ込んで、そして思った。何故こいつを放っておかなかったんだ？どう考えても面倒事に巻き込まれている。
この事態が俺の予想通りなら、敢えてあの場で生かした事も考えられる。この男の協力者、交友関係を洗おうとあそこに放置した可能性も大いにありうる。
捨ててくるか？今更だけど。
こいつも暫く喋れない。この様子ならもう岸壁街にはいられない筈だ。これは足抜けの制裁にも近いから。ここでコイツを捨てても、多分面倒にはならない。後からコイツが報復に来る事もない。むしろ今が一番面倒だ。
しかし、俺には出来なかった。敢えて面倒事に首を突っ込む事にした。俺いつからこんなマゾになったわけ？
「乗りかかった船だしなー…」
俺は血反吐と泥に塗れた男を拾い上げる事にした。一応周りを確認して、顔をフードでよく覆って。
「ヒヒッ、災難だねー。喉潰されて指やられて、暫く声出す事も筆談も無理。それを狙ったんだろ？まあ、人間意外と頑丈だから不自由はそんな長くないだろうけど」
「……」
「何？臓器でもやられた？」
「……」
とりあえず体を綺麗にし、ベッドに寝かせる。男は黙っていたが、舌を二回ほど静かに出し入れした。これは、良くある「はいなら一回、いいえなら二回」ってやつか？やっぱり、この口止めした奴は随分幼稚なやり方を選んだもんだ。詰めが甘ぇ。
「ま、そう言うコミュニケーションが取れそうなら追々聞くよ」
連れ帰った男。こいつが結構わがままで、次の日から自由の利かない自分を連れて外に出せと言う。どこかに連れて行けと言わんばかり、全く面倒なと思いつつ差されるがままこいつをおぶって連れて行ったのはこの男がかつて住んでいたらしい家屋。そこにはまだあどけない顔をした、スタイルの良い吸い込まれる様な瞳をした少女が窓越しに見えた。
男が反応したのですぐに分かった。ほうほう、こんな可愛い子とずっと居たわけね？
少女は意外と平然と過ごしている。その日はそれだけ見て帰った。
さあ、これで十分だろ？そう思ったのだが、男は次の日もその次の日も、あそこに連れて行けと言った。何が悲しくて野郎おぶって連れてかなきゃなんねぇの。一週間が経った頃、彼女は少しだけ焦った様な顔をしていた。それを見て、今までに無い程男は動揺した。
「ヴォ…イド…」
「おい、おい落ち着けて」
まだしっかり治りきっていない、潰されて濁った声しか出せない喉から必死に絞り出した言葉。多分、あの子の名前。
何見せられてんだ、俺。
こんなさ、散々ボコボコにされて土砂降りの中ゴミよか惨い捨てられ方した癖にまだ人を求められる様な必死な奴見たらさ、本当は求めたかった筈なのに格好付けて傷付けて避けた俺ってアホみたいじゃん。
その次の日も、次の日も欠かさず彼女を見に来る。二週間目にはこいつも多少声が出せる様になり、一人になって頑張ったのか慣れた手付きで料理をする彼女を見て、微笑みながら「可愛い…」とぼそりと呟いた。
その後もそれは続き、通い始めて三週間。こいつも歩ける様になり二人で見に行った時、窓越しに見た彼女は泣いていた。声こそ聞こえなかったけれど、堰を切ったような泣き方ってやつだったのだと思う。
「…良いの？行かねーでさ」
「…今はまだ、行けません…」
「好きな女の子があんな泣き方してんのよ？行ってやっても良いんじゃね？」
「だからこそ行けないんです…まだ私は、真っ新ではないから…今行ったら…私が受けた制裁を、下手したら彼女が…」
「…じゃあ俺何で生かされてんの？」
ふと湧き上がった疑問。だが、男を殺す事が目的では無かったと思うと全て納得出来た。程々に痛め付けて、後の治療を第三者──つまり俺にやらせて生き永らえさせて、そこまではこいつの背後に居るデカい奴の手の内だと思えば全て繋がる。そしてそう言う流れなら、今あの子に会うのはあの子の身が危険過ぎる。
男を痛め付け、そして身体に教えた。悪戯するとここまで痛い目に遭わせるぞと。そして敢えて見放さないであろう俺に拾わせ治療をさせる。
お前は生かしておいてやる。が、次妙な動きしたらお前の一番大切なものを奪ってやる。
目の届くところにいるのに、近付けばお前と同じ目に遭わせてやると言わんばかりに大切なものにちらつかされる刃。そう言う悪い奴は人の追い詰め方をよく知ってる。大切なもの、家族とか恋人から囲って知らず知らず人質にする。
「ヴォイド…ヴォイド…！！」
抱き締めに行ってやりたいんだろうな。あんなに泣いて居る姿を見れば。こいつがした事が何であれ、俺は二人が一緒に居たと言う事しか知らない。まあ、実態は碌なもんじゃ無かったんだろうが、それでも今目の前に広がるのは、置いて行かれたのに絶望してか此方の涙腺まで誘われる程にずっと泣いている女の子。その子を今すぐ抱きに行きたくともどこで監視の目が光っているか分からず、今激情に突き動かされて行ったらその後の彼女の安全に保証なんてないと分かって居るからこそ動けず、血が出る程唇を噛み締めてる男。きっとコイツの言う真っ新な身の上なら、直ぐにでも抱き締めに行けたんだろうな。
羨ましいな。そんなに誰かを素直に思える様になれたなら。まだ俺の人助けの裏には勝手な贖罪しかねぇよ。
──ヤサカはポケットの中のビー玉を手で転がした。
何年か後、乗りかかった船だからと気付けばヤサカは掃除屋のコミュニティに属していた。そこにはあの女の子、ヴォイドが居たからだ。頼まれた訳じゃない。自分からやりたいと思って志願した。
ヴォイドは、あの男が執着する理由が分からなくは無いけどやっぱり分からない。そんな不思議なドライさを持った人間だった。でもあの男から散々惚気を聞いていたからかやはりどこか魅力的に見えて、俺は一緒に居る内にヴォイドを好きになった。だからこの子の手を汚させたくなくて初めて人を殺した。
終わった後、正直吐いた。遅かれ早かれ誰かに消される予定だった奴だとして、それをやるのって俺でなくても良くない？
そうは思ったが、何かやってしまった。岸壁街の奴って、こうやって知らず知らず手を汚していくんだろうな。
色々見ていたら、ふと中古機械人形業者でアンを見付けた。結構目敏いなー、俺。
アンは、初めて会った時とは打って変わって大人になっていた。何と言うか、誤解しないで聞いて欲しいのだが、やさぐれて見えた。或いは、いくつも死線を掻い潜った兵士の様な。つまり彼女は、苦労を経て歳を重ねた様なそんな険しい顔をしていたのだ。
ポケットの中のビー玉に手を伸ばす。俺の最後の記憶に在る君は、純粋で希望を信じてキラキラした目をしてたのになぁ。
自分なりに色々調べて、アンをいじめていた奴らも突き止めた。ある者はミクリカから出て真っ当な生活を送っていたが、大体碌なもんじゃねぇ。チンピラなり損ないのガキだった。そして幸か不幸か、その内何人かが運び屋紛いの事をやった上売り上げのちょろまかしなんてしたもんだから俺の仕事のリストに上がった。
「また、ヤサカがやるの？」
その日もヴォイドが不安気に聞いて来たので思わず彼女を抱き締める。不思議とこうしてると落ち着くんだよね。ああ、アイツがヴォイドに執着する理由何となく分かった気がする。
「…心配？」
「心配…とも違う様な…何か、釈然としない感じ」
「何それー」
「だって、その分私の取り分減るし」
「そっちねー、なるほど。でも今回は絶対、全部、俺がやるから」
俺の顔と名前への異様な記憶力を怨まないで欲しい。怨むんならそうだな、アンに手を出した日の自分を怨んでくれよ。
或いは、俺とアンが出会っちまった日、アンの優しさを突っ跳ねた俺を怨んでくれ。
仕事後、ポケットの中に入れていたビー玉を触るのが癖になって居た。そんな生活を続けて居たからか、その日ビー玉は取り出した瞬間どこからともなくヒビが入り、俺の目の前でパァンと割れてしまった。大きく二つに割れたビー玉。それぞれが反対方向に飛んで転がる。
俺はどちらを追う事も出来ず、後に残った小さなカケラを拾い集めた。
テロがあってもそのカケラだけは捨てられず、リカ・コスタも無事開業し、そこで俺は相変わらず贖罪の様な思い付く限りの善行を続けて居る。
俺のしてる事、何も報われないかもしれないけど、そうでもしてなきゃ俺自身がダメにやる。
でも昔より幾分俺は俺が好きだ。
あんな小さな女の子を悪者にしないと困る様な俺より、行き着く先がどうだか分からないけど人にとって善い事をしようと思えている自分の方がよっぽど好きだ。
そして街でアンに会ってしまった。今までそうした様に、知らんぷりをして離れりゃ良かったのに俺は君に声を掛けてしまった。もし昔の事を覚えていて、そして傷付いたと思うなら今からでも良いから俺を責めて欲しい。しかしいくら昔を思い出す様な事を言ってデジャヴを誘ってみたりしても、アンはまるで初対面と言う顔でしか俺を見なかった。
俺が悩みに悩んでずっと考えながら過ごした日々の中で、君は俺を呆気なく忘れた。
でも、忘れられたのがわかった事で、やっと俺は救われた気がしたんだ。もう君は俺に傷付けられた君からとうに乖離していた。
勝手過ぎる解釈なのは分かっている。でも、良いかな？もう俺も、君を傷付けた自責の念から離れて良いかい？
「……ほら見ろ、テメェのせいでまたコイツの全部本気で受け取るスイッチ入っちまったろ」
「今僕は会ってすぐの彼に馬鹿と認定されたのか…？」
「……どうすンだよ、コレ…」
「ヒーヒヒヒッ！！」
真面目過ぎるギルバートのボケだか本心だか分からない心配をアンは真顔で見つめた。そしてヤサカから荷物を取ると、ギルバートに手渡す。
「ほら、荷物持ち」
「あ、ああ…え！？これ重いな！？」
「嫌ならこっちのナンパ野郎に運んでもらうか…？」
「だ、大丈夫だ！僕に任せろ…！」
「と言う訳だ。あーしは大丈夫だから、もう変なちょっかい出すなよ」
そう言うアンを引き止める義理はもうヤサカには無かった。これ以上引き止めたらそれこそただの迷惑なナンパ者になってしまう。
「おー…。さっすが遣り手ねぇ」
「どう言う意味だテメェ」
「そりゃ惚れちゃうってお貴族様も！」
「なっ…！？何を言ってるんだ君はさっきから！！」
ごめんねギルバート。
ヤサカはアンの手を取りグッと引き寄せると彼女の長く垂らした前髪の分け目、露わになっている額にコツンと自分の額を重ねた。動揺しているギルバートからは、これまた良い感じにキスでもしている様に見える角度だった為そんな悪戯も込めて。
「…元気でね、アン」
「…？あれ？名前…名乗ってねェけど…？」
またね、俺の愛しいバイオレット。
昔の記憶にこびり付いてくれていた君のおかげで、ようやく人に対してちゃんと心から寄り添おうと思える余裕が生まれたよ。
まだまだ足りない部分は多いけど。
ごめんね、君があまりに変わってくれて、あまりに俺の馬鹿な部分をすっかり忘れてくれていたからついつい嬉しくなってしまった。
そうでなくても、今なら言えるけど。
反りが合わなくても食い違っても良いじゃないか。最初から君は君にしか無いものがあって、今となっては俺も俺にしか持てない物を持っている。あ、でもそれに気付く為にはやっぱりあれは必要なことだったかも。
それを持って、今強く生きられているから。
アンの優しさは尊い物だよね。
俺は、それを覚えていたから、今の俺を目指して足掻いたんだよ。
そしていつしか、誰かに必要とされたいと思える様になった。愛を信じたいと思った。
だから君も、君の抱える少し黒い色をしたその弱さ。怖がらずに隣にいる彼にぶつけたら良いのに。いつかそんな日が来る事を俺は遠くで祈り続けるよ。
ヤサカは店に戻る道中、ポケットに手を入れる。最後まで大事に取っておいたビー玉の欠片を取り出すと、突如吹き荒れた強風に煽られるのと同時に手を離す。
永らく抱えて来た彼女への罪悪感と共に、思い出のそれは何処かへ飛んでいった。
「風と共に去りぬ…なーんてね」
いや、上手く無い。さて、面白くない冗談飛び出したところで、今日も店を開けますか。
ミアちゃん、早く飲みに来てくれねーかな？そして俺を褒めてくれ。あ、でもその時はあの怖い顔の兄さん来るか。まだまだ浮かれてらんないね。
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