友情は「臭い」から始まった／燐花
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rinka_creation 2023年05月20日(土) 00:37:27履歴
清々しい朝の空気。これは、給食部に配属されて早番も仕事に組まれたからこそ体感出来たに他ならない。
早起きは本来そんなに得意ではないから、アイドルをやっていたトゲトゲしていた頃の自分では朝の空気をこんなに有り難がる事はなかっただろうとヒギリは思う。結社に来てまだ慣れない事も多いけれど、ヒギリはこの空気を胸いっぱいに吸うのが好きだった。
よし、今日も一日頑張るぞ！と気持ちをシャキッと引き締めて食堂に向かう。朝だからあまり大き過ぎない声で挨拶をすると、フル充電をして元気そうなノエとネリネがそこに居た。機械人形は充電と稼働予定時刻の設定次第でどんな時でも万全の状態で居られるのだから羨ましい限りだ。
「あ！エミールさん！おはよう！」
もう一人ヒギリにとって羨ましい人間がいる。それは同じくらいの年頃のエミール・シュニーブリーだ。彼はヒギリにとっては馴染みがなくよく分からないものだが「僧侶」と言うものだそうで、朝に修行があると言う事でこの時間に起きるのも苦では無い様だ。
「あ…お、おはおはおはおは…」
「へ？」
「お、お、おはよう…ございますっ…」
しかし、残念ながら嫌われているのか避けられているのか、彼はなかなかまともに挨拶を返してくれないので詳しい事はヒギリは知らなかった。
「おはよう皆！今日も頑張りましょう！」
元気よくそう声を上げて部屋に入るのはモリー・リーシェール。明るく溌剌としたお母さんの様な彼女はいつだって朝から元気だ。しかし結社に入ってしばらく経った今、この『溌剌としたお母さん』の顔を曇らせる人間達が居た。
「さて！確認事項なんだけども…えーっと……とりあえず今日も『Ｑ』に関しては別のグループで席を使ってもらうと言う事で…」
モリーがそう言って困った様に表情を曇らせた為、ヒギリは少しだけムッと顔を顰める。今出て来た『Ｑ』と言うのは『岸壁街出身者』の隠語だ。
総務班給食部。おそらくどの部署よりも色々な人間と顔を合わせる機会の多いここで、メンバーは問題を抱えていた。
テロ以前、普通に生活をしていたら関わり合いは少ないであろう『岸壁街の人間』。大きなテロのあったミクリカの街の中でも違法建築の上に生活が成り立っていた岸壁街の被害は大きく、違法建築ゆえに機械人形の暴走に耐え切れず家屋の倒壊も激しくなりそこで何人もの死者を出した。
彼らの実態は分からない。犯罪組織と密接な関わりがあるだとか、攻撃的でそもそもとして暴力沙汰や窃盗被害は日常茶飯事だとか。それらはきっと、『岸壁街』と言う単語から想起されるただのイメージでしか無いのだとも思う。
しかし、今ここには分かりやすい実害があった。
「……リーシェールさん、普通に生活して行く内にまともになると思います？」
メンバーの一人がそう不満を口にする。モリーは強い否定も肯定も出来ずに力無く笑った。
「多分…多分大丈夫よ。清掃部の人達の頑張りが無駄になるとは思わないわ」
「でも、強く言えないじゃ無いですか。その間私達みたく『初めから出来てた人間』は我慢して彼等に寄り添えって話ですもんね」
「よく考えたら不公平な話よね…家も家族も喪って本当に生活が悪く変わってここに来た人も居れば…岸壁街みたく文字通り崖っぷち な暮らししてたのに、テロのおかげで衣食住の確保された生活になる人も居るなんて……」
「よく考えたら岸壁街の住人 、テロのおかげでむしろまともな生活になってるんだよな……」
「もしかして──……」
カンテ国でテロを引き起こしたのはギロク博士では無く、そうする事で自警団が動き、家を失くした彼等の存在が明るみになる事で国が補償の為に動かなければならないと踏んでいた岸壁街の住人達である！！
そう、力強く主張する陰謀論系動画配信者がこの頃「誰のせいにしたいか」合戦を各々行なっていた。岸壁街の住人のせいになったり、或いは反機械人形派の人間のせいになったり自然派を主張する人間のせいになったり、兎にも角にも「表向きの主犯はギロクと言われているが、実は──！！」と言う謳い文句は娯楽を求めた人々の軽薄な部分に強く刺さった。
そんな事を思うくらいには人々に余裕は無かったし、あまりにも事態が重過ぎた。しかしこれは、これから生活を立て直そうと思う考えとは真逆の分断を生む恐れのある考え方であり、こう言った陰謀を論じる事を嫌う人間もまた多かった。
「……やめてちょうだい。結社も発足したばかり、まだ何もかもが試験段階で確信の得られるものなど何も無いのだから。もしまた問題が起きたらその都度考えてそれに対応して行けば良いだけの事。生きていく上、何だってそうよ？プログラム通りに進むものなんて無いわ。子育てだってそうだった もの」
卑怯かもしれない。そう思いながらモリーは「子育て」を引き合いに出した。少しでも早く「岸壁街出身」と言うだけで誰かが嫌な目を向けられる事から意識を逸らす為だ。案の定、テロで我が子を亡くしたと近しい人に話していた彼女の口から出た言葉に重みを感じた面々は皆一様に口を閉じると、それ以上悪く言う者は居なかった。
モリーはほっと胸を撫で下ろすと手をぱんぱんと叩き皆を激励する。
「さぁ！準備しましょう！さっきも言ったけど、『Ｑ』は様子見しつつ決して不当に扱わない事！そしたら後は一生懸命働きましょう！」
にこにこと笑うモリーにつられて皆もぎこちなく笑みを見せた。ヒギリはそんな中、少し納得行かなそうな顔をする。
「ねぇ、リーシェールさん……大丈夫…？」
事態を治める為とは言え、亡くなった子供の話をするのは辛くないのか？とヒギリはこそりと耳打ちする。モリーは気に掛けられて少し目頭が熱くなるのを感じながらもそれを悟られない様に少しオーバーに動きながらヒギリの頭を撫でた。
「大丈夫！大丈夫よ！もー、ヒギリちゃんったら良い子なんだから！！」
「はわわわわわわわわ」
「ね！ね！エミール君！ヒギリちゃんって良い子よね！」
無理矢理な流れで話に加えられたエミールは少し驚いた顔を見せたものの、モリーとならまともに受け答えをしてくれるらしく彼女の目をきちんと見てうんうんと頷いた。
「そうですね」
微笑みながらそう言う彼を見、「そんな顔も出来るしまともな受け答えだって出来なく無いのに何で普段あんなに慌ててるんだろう？」とヒギリの謎はますます深まった。
* * *
「ふぁぁあー……」
昼時は一番忙しい時間だが、それが過ぎれば少し眠くもなってきてしまうもの。ヒギリが皿洗いをしながら少しあくびを噛み締めていると、先程「岸壁街の人間の脅威」を心配していた女性が訝しげな顔をした。
「え、あくび…？」
「うん。あくびだよ…？」
「何？モナルダさん眠いの？」
自分の体調を心配してくれているのか？と思ったヒギリはそれに感動しつつ心配を掛けまいと努めて笑顔を見せた。岸壁街の人に対して厳しいけど、それでも立場違えばこんなに優しいところもあるんじゃないかと嬉しく思い、「ちょっとね！でも大丈夫、元気だよ！」と返事を返す。しかし女性はさして興味無さそうに、ヒギリの笑顔をスンとした顔で見つめるとすぐにそっぽを向いた。
「あっそ…良いけど、間違って異物混入とかくしゃみやあくびで唾入ったとかやめてよね。給食部でトラブルなんてシャレになんないし」
「………」
違う、この人ただ単に性格が悪いんだ。
用件だけ伝えるとそれきり喋らなくなった女性にヒギリは思わずムカムカする。そう言えばアイドル時代、何故か自分を年上と認めず小馬鹿にしてきたメンバーが居たが、彼女からも何故かこんな態度をよく取られた。
「全くもう……私が何をしたって言うんだよぅ……」
唇を尖らせて独りごちる。結社に入社してまだほんの少し、やっと仕事に慣れやっと身の回りのメンバーを把握したくらいだがヒギリは既に疲れていた。
惨劇の後。結社の理念に近いと思しき人間が集まった組織。色んな出自の人間も居て、皆が皆同じ価値観では勿論ない。故に、今まで関わった事もない人と接するのが疲れると言うのは本音だった。
そんな風に心が荒み掛けたヒギリはふと席に妙な偏りがある事に気が付いた。窓際の陽の当たる席に一人誰か座っているがその周りには誰もおらず、他の人間はその人物をまるで避ける様に席に着いている。中にはあからさまに迷惑そうな顔を向ける者もいた。
「え？何…？」
まじまじと見てヒギリはギョッとする。その人物は女性で白衣を羽織っていたので一瞬「医療班の人かな？」と思ったのだが、ちらりと見えた白衣の下はいくら夏だとは言えどう見ても下着と思しき布しか着用していない。
どこの痴女だ、とツッコミを入れたくなる程には不適切な格好だった。そして彼女に近付こうと足を進め、それ に気付いたヒギリは思わず声を上げてしまった。
「……クサッ！！！」
正直、世間一般の基準で見てまあ美しい人だとは思った。しかしその彼女の見た目からはおよそ想像が付かない様な異様な臭いが漂ってくる。生乾きの洗濯物の様な、いやもっと酷いかもしれない、ドブの様な臭いだ。汗等の体臭と言うよりかは服にこびり付いた環境の臭いだろうか。
そこまで考えてヒギリは、岸壁街は中層以下は浮浪者が多く生活しており、下層以下に至っては何があるか分からない場所である事を思い出した。彼女がもし岸壁街の出であるならば拠点を岸壁街から結社に移してまだ一ヶ月足らず、その臭いがこびり付いていると言うのも頷ける。
しかし今のヒギリの心持ちとしてはとてもじゃないが「そっかそっか、来たばっかりだし仕方ないよね」等と言える状態じゃなかった。むしろ先程の同僚に雑な扱いを受けた事ですっかり荒んでいた。
「あの！！」
強く言葉を発したヒギリに少し警戒気味に目を動かす女性。青と緑の海の様な綺麗な瞳に一瞬心動かされたヒギリだったが、それはそれこれはこれ以前に荒み切った心が勝ってしまい、ヒギリはキッと目を細めると言葉より先に指を外に向けた。
「……テラス席で食べてもらえます…？」
「何で」
「何でって……まだご飯食べれてない人で混んでるのに今皆ここの席座れないんです」
「…別に座れば良いじゃん」
「座れないんです！！」
「だから、何で」
「もぅー……はっきり言って良いですか。貴女、凄い臭うんです。それはもう周りで落ち着いてご飯食べれるレベルじゃないんです！」
「……」
女性は無感情だった瞳を丸くしながら首を傾げる。どうやら自分ではその臭いに気付いていない様だ。傷付けてしまっているかも、と言うのは後から気付いた事だが、この時ヒギリは止まらなかった。
「テラス席なら風通しも良いしあまり気にしなくて良いです！でも、部屋の中だと臭いが分かりやす過ぎるんです！！皆ご飯食べられないんです！！だから外出て！！」
女性はぱちくりと目を見開くと周りを見回す。そして頭の中で色々と考えたのか、意外にもあっさり席を立った。
「テラス席でなら良いんだね？」
「え……？」
「テラス席でなら、良いんでしょ」
「あ、はい……」
「じゃあそっち行く。そんな臭い一つで衣食住の保証手放すなんて馬鹿みたいだし」
トレーを手に取り、外へ向かう女性。
放心状態になりながら念の為アルコールで椅子やテーブルを拭き、様子を伺っていたメンバーに席を譲りなっていたヒギリは裏に戻ると頭を抱えた。
「あぁぁぁぁぁぁあーーーーっ！！！！！」
やってしまった。やってしまった。
リーシェールさんがあれだけ「不当に扱わず穏便に」と言っていたのに。おそらく彼女は『Ｑ』だ。それもかなり下層の方の。
だけど、一体どう言う扱いが不当でどう言う扱いが正当だと言うのだろう？
彼女に何も言わず放置しておくのが彼女に対する『正当』？おそらく彼女の立場からしたらそうだろうが、それを許したら大多数の臭いを気にする人が使えなくなるから大多数からしたら『不当』になるだろう。しかし、じゃあ彼女に席を動いてもらった今、彼女が訴え出たら『差別』として罷り通ってしまう？でもそんな事突き詰めて行ったら堂々巡りだ。
皆が皆幸せな判断なんて世の中早々無いんじゃないだろうか。
そうは思うものの、彼女をこのまま放置しておくのも忍びなかった。
「あ！！そうだ！！」
そしてヒギリは考えた。先程「凄い臭う」と失礼を言ってしまった事も謝りたいし、そもそもそう言う若干言いづらいところにどうやって触れたら良いか。
そうだ、仲良くなっちゃえば良いんだ。そして『友達』の『アドバイス』として横から物を言えばまだ角が立たずに言える筈。
かくして、�狎萃�の非礼�瓩鯱佑咾覦戞△修靴童紂洪А晃世い笋垢�する為にヒギリは女性の下へ足を進める。
女性はテラス席で遠くを見つめながらサンドウィッチを頬張っていた。
「まだ何か用…？」
ヒギリの姿を視界に捉え、当たり前に警戒する女性。しかしヒギリはニコニコしながら手製のラズベリージャムを差し出すと笑顔を崩さず言った。
「わ、私ヒギリ・モナルダ！！」
「ヒギリ…？変な名前……」
「変な…！？しょうがないじゃん…！お母さんが東國人なんだよ……だから私の名前にも漢字が使われて…そ、そんな事よりお姉さんは！？」
「は？」
「お姉さんの！！名前！！」
「ああ…ヴォイド・ホロウ…」
「そっか！！よろしくね！ヴォイ姐！！」
「…変なあだ名…」
こうして変なテンションで近付いたヒギリだったが、ヴォイドとの邂逅で色々と得る物が多かった。
先ず、岸壁街の出とは言えヴォイドが特別臭いだけで他の出身者は大して気にならない程度だったと言う事。そして彼女の唯一のまともな服と言って良い医療班のスクラブを着ると彼女の匂いも目立たなくなると言う事。
そして彼女のスタイルが抜群で、上手くすれば（特に男性から）かなりの支持を得られる存在となり得るだろう事。
ちょうど良い、せっかくだからここで人をプロデュースして良い感じに周囲と馴染ませられたらそれはそれで自分の実績と言えるかも。
そんな下心込みで近付いたヒギリだったが、きっかけはどうあれヴォイドとの不思議な友情は形はともあれ後々本物になっていく。
入社当時を振り返り、「あの時ヴォイ姐に勇気を持って声掛けて良かった」とこの事を思い出す度ヒギリは嬉しそうに笑うのだった。
早起きは本来そんなに得意ではないから、アイドルをやっていたトゲトゲしていた頃の自分では朝の空気をこんなに有り難がる事はなかっただろうとヒギリは思う。結社に来てまだ慣れない事も多いけれど、ヒギリはこの空気を胸いっぱいに吸うのが好きだった。
よし、今日も一日頑張るぞ！と気持ちをシャキッと引き締めて食堂に向かう。朝だからあまり大き過ぎない声で挨拶をすると、フル充電をして元気そうなノエとネリネがそこに居た。機械人形は充電と稼働予定時刻の設定次第でどんな時でも万全の状態で居られるのだから羨ましい限りだ。
「あ！エミールさん！おはよう！」
もう一人ヒギリにとって羨ましい人間がいる。それは同じくらいの年頃のエミール・シュニーブリーだ。彼はヒギリにとっては馴染みがなくよく分からないものだが「僧侶」と言うものだそうで、朝に修行があると言う事でこの時間に起きるのも苦では無い様だ。
「あ…お、おはおはおはおは…」
「へ？」
「お、お、おはよう…ございますっ…」
しかし、残念ながら嫌われているのか避けられているのか、彼はなかなかまともに挨拶を返してくれないので詳しい事はヒギリは知らなかった。
「おはよう皆！今日も頑張りましょう！」
元気よくそう声を上げて部屋に入るのはモリー・リーシェール。明るく溌剌としたお母さんの様な彼女はいつだって朝から元気だ。しかし結社に入ってしばらく経った今、この『溌剌としたお母さん』の顔を曇らせる人間達が居た。
「さて！確認事項なんだけども…えーっと……とりあえず今日も『Ｑ』に関しては別のグループで席を使ってもらうと言う事で…」
モリーがそう言って困った様に表情を曇らせた為、ヒギリは少しだけムッと顔を顰める。今出て来た『Ｑ』と言うのは『岸壁街出身者』の隠語だ。
総務班給食部。おそらくどの部署よりも色々な人間と顔を合わせる機会の多いここで、メンバーは問題を抱えていた。
テロ以前、普通に生活をしていたら関わり合いは少ないであろう『岸壁街の人間』。大きなテロのあったミクリカの街の中でも違法建築の上に生活が成り立っていた岸壁街の被害は大きく、違法建築ゆえに機械人形の暴走に耐え切れず家屋の倒壊も激しくなりそこで何人もの死者を出した。
彼らの実態は分からない。犯罪組織と密接な関わりがあるだとか、攻撃的でそもそもとして暴力沙汰や窃盗被害は日常茶飯事だとか。それらはきっと、『岸壁街』と言う単語から想起されるただのイメージでしか無いのだとも思う。
しかし、今ここには分かりやすい実害があった。
「……リーシェールさん、普通に生活して行く内にまともになると思います？」
メンバーの一人がそう不満を口にする。モリーは強い否定も肯定も出来ずに力無く笑った。
「多分…多分大丈夫よ。清掃部の人達の頑張りが無駄になるとは思わないわ」
「でも、強く言えないじゃ無いですか。その間私達みたく『初めから出来てた人間』は我慢して彼等に寄り添えって話ですもんね」
「よく考えたら不公平な話よね…家も家族も喪って本当に生活が悪く変わってここに来た人も居れば…岸壁街みたく文字通り
「よく考えたら
「もしかして──……」
カンテ国でテロを引き起こしたのはギロク博士では無く、そうする事で自警団が動き、家を失くした彼等の存在が明るみになる事で国が補償の為に動かなければならないと踏んでいた岸壁街の住人達である！！
そう、力強く主張する陰謀論系動画配信者がこの頃「誰のせいにしたいか」合戦を各々行なっていた。岸壁街の住人のせいになったり、或いは反機械人形派の人間のせいになったり自然派を主張する人間のせいになったり、兎にも角にも「表向きの主犯はギロクと言われているが、実は──！！」と言う謳い文句は娯楽を求めた人々の軽薄な部分に強く刺さった。
そんな事を思うくらいには人々に余裕は無かったし、あまりにも事態が重過ぎた。しかしこれは、これから生活を立て直そうと思う考えとは真逆の分断を生む恐れのある考え方であり、こう言った陰謀を論じる事を嫌う人間もまた多かった。
「……やめてちょうだい。結社も発足したばかり、まだ何もかもが試験段階で確信の得られるものなど何も無いのだから。もしまた問題が起きたらその都度考えてそれに対応して行けば良いだけの事。生きていく上、何だってそうよ？プログラム通りに進むものなんて無いわ。子育てだってそう
卑怯かもしれない。そう思いながらモリーは「子育て」を引き合いに出した。少しでも早く「岸壁街出身」と言うだけで誰かが嫌な目を向けられる事から意識を逸らす為だ。案の定、テロで我が子を亡くしたと近しい人に話していた彼女の口から出た言葉に重みを感じた面々は皆一様に口を閉じると、それ以上悪く言う者は居なかった。
モリーはほっと胸を撫で下ろすと手をぱんぱんと叩き皆を激励する。
「さぁ！準備しましょう！さっきも言ったけど、『Ｑ』は様子見しつつ決して不当に扱わない事！そしたら後は一生懸命働きましょう！」
にこにこと笑うモリーにつられて皆もぎこちなく笑みを見せた。ヒギリはそんな中、少し納得行かなそうな顔をする。
「ねぇ、リーシェールさん……大丈夫…？」
事態を治める為とは言え、亡くなった子供の話をするのは辛くないのか？とヒギリはこそりと耳打ちする。モリーは気に掛けられて少し目頭が熱くなるのを感じながらもそれを悟られない様に少しオーバーに動きながらヒギリの頭を撫でた。
「大丈夫！大丈夫よ！もー、ヒギリちゃんったら良い子なんだから！！」
「はわわわわわわわわ」
「ね！ね！エミール君！ヒギリちゃんって良い子よね！」
無理矢理な流れで話に加えられたエミールは少し驚いた顔を見せたものの、モリーとならまともに受け答えをしてくれるらしく彼女の目をきちんと見てうんうんと頷いた。
「そうですね」
微笑みながらそう言う彼を見、「そんな顔も出来るしまともな受け答えだって出来なく無いのに何で普段あんなに慌ててるんだろう？」とヒギリの謎はますます深まった。
* * *
「ふぁぁあー……」
昼時は一番忙しい時間だが、それが過ぎれば少し眠くもなってきてしまうもの。ヒギリが皿洗いをしながら少しあくびを噛み締めていると、先程「岸壁街の人間の脅威」を心配していた女性が訝しげな顔をした。
「え、あくび…？」
「うん。あくびだよ…？」
「何？モナルダさん眠いの？」
自分の体調を心配してくれているのか？と思ったヒギリはそれに感動しつつ心配を掛けまいと努めて笑顔を見せた。岸壁街の人に対して厳しいけど、それでも立場違えばこんなに優しいところもあるんじゃないかと嬉しく思い、「ちょっとね！でも大丈夫、元気だよ！」と返事を返す。しかし女性はさして興味無さそうに、ヒギリの笑顔をスンとした顔で見つめるとすぐにそっぽを向いた。
「あっそ…良いけど、間違って異物混入とかくしゃみやあくびで唾入ったとかやめてよね。給食部でトラブルなんてシャレになんないし」
「………」
違う、この人ただ単に性格が悪いんだ。
用件だけ伝えるとそれきり喋らなくなった女性にヒギリは思わずムカムカする。そう言えばアイドル時代、何故か自分を年上と認めず小馬鹿にしてきたメンバーが居たが、彼女からも何故かこんな態度をよく取られた。
「全くもう……私が何をしたって言うんだよぅ……」
唇を尖らせて独りごちる。結社に入社してまだほんの少し、やっと仕事に慣れやっと身の回りのメンバーを把握したくらいだがヒギリは既に疲れていた。
惨劇の後。結社の理念に近いと思しき人間が集まった組織。色んな出自の人間も居て、皆が皆同じ価値観では勿論ない。故に、今まで関わった事もない人と接するのが疲れると言うのは本音だった。
そんな風に心が荒み掛けたヒギリはふと席に妙な偏りがある事に気が付いた。窓際の陽の当たる席に一人誰か座っているがその周りには誰もおらず、他の人間はその人物をまるで避ける様に席に着いている。中にはあからさまに迷惑そうな顔を向ける者もいた。
「え？何…？」
まじまじと見てヒギリはギョッとする。その人物は女性で白衣を羽織っていたので一瞬「医療班の人かな？」と思ったのだが、ちらりと見えた白衣の下はいくら夏だとは言えどう見ても下着と思しき布しか着用していない。
どこの痴女だ、とツッコミを入れたくなる程には不適切な格好だった。そして彼女に近付こうと足を進め、
「……クサッ！！！」
正直、世間一般の基準で見てまあ美しい人だとは思った。しかしその彼女の見た目からはおよそ想像が付かない様な異様な臭いが漂ってくる。生乾きの洗濯物の様な、いやもっと酷いかもしれない、ドブの様な臭いだ。汗等の体臭と言うよりかは服にこびり付いた環境の臭いだろうか。
そこまで考えてヒギリは、岸壁街は中層以下は浮浪者が多く生活しており、下層以下に至っては何があるか分からない場所である事を思い出した。彼女がもし岸壁街の出であるならば拠点を岸壁街から結社に移してまだ一ヶ月足らず、その臭いがこびり付いていると言うのも頷ける。
しかし今のヒギリの心持ちとしてはとてもじゃないが「そっかそっか、来たばっかりだし仕方ないよね」等と言える状態じゃなかった。むしろ先程の同僚に雑な扱いを受けた事ですっかり荒んでいた。
「あの！！」
強く言葉を発したヒギリに少し警戒気味に目を動かす女性。青と緑の海の様な綺麗な瞳に一瞬心動かされたヒギリだったが、それはそれこれはこれ以前に荒み切った心が勝ってしまい、ヒギリはキッと目を細めると言葉より先に指を外に向けた。
「……テラス席で食べてもらえます…？」
「何で」
「何でって……まだご飯食べれてない人で混んでるのに今皆ここの席座れないんです」
「…別に座れば良いじゃん」
「座れないんです！！」
「だから、何で」
「もぅー……はっきり言って良いですか。貴女、凄い臭うんです。それはもう周りで落ち着いてご飯食べれるレベルじゃないんです！」
「……」
女性は無感情だった瞳を丸くしながら首を傾げる。どうやら自分ではその臭いに気付いていない様だ。傷付けてしまっているかも、と言うのは後から気付いた事だが、この時ヒギリは止まらなかった。
「テラス席なら風通しも良いしあまり気にしなくて良いです！でも、部屋の中だと臭いが分かりやす過ぎるんです！！皆ご飯食べられないんです！！だから外出て！！」
女性はぱちくりと目を見開くと周りを見回す。そして頭の中で色々と考えたのか、意外にもあっさり席を立った。
「テラス席でなら良いんだね？」
「え……？」
「テラス席でなら、良いんでしょ」
「あ、はい……」
「じゃあそっち行く。そんな臭い一つで衣食住の保証手放すなんて馬鹿みたいだし」
トレーを手に取り、外へ向かう女性。
放心状態になりながら念の為アルコールで椅子やテーブルを拭き、様子を伺っていたメンバーに席を譲りなっていたヒギリは裏に戻ると頭を抱えた。
「あぁぁぁぁぁぁあーーーーっ！！！！！」
やってしまった。やってしまった。
リーシェールさんがあれだけ「不当に扱わず穏便に」と言っていたのに。おそらく彼女は『Ｑ』だ。それもかなり下層の方の。
だけど、一体どう言う扱いが不当でどう言う扱いが正当だと言うのだろう？
彼女に何も言わず放置しておくのが彼女に対する『正当』？おそらく彼女の立場からしたらそうだろうが、それを許したら大多数の臭いを気にする人が使えなくなるから大多数からしたら『不当』になるだろう。しかし、じゃあ彼女に席を動いてもらった今、彼女が訴え出たら『差別』として罷り通ってしまう？でもそんな事突き詰めて行ったら堂々巡りだ。
皆が皆幸せな判断なんて世の中早々無いんじゃないだろうか。
そうは思うものの、彼女をこのまま放置しておくのも忍びなかった。
「あ！！そうだ！！」
そしてヒギリは考えた。先程「凄い臭う」と失礼を言ってしまった事も謝りたいし、そもそもそう言う若干言いづらいところにどうやって触れたら良いか。
そうだ、仲良くなっちゃえば良いんだ。そして『友達』の『アドバイス』として横から物を言えばまだ角が立たずに言える筈。
かくして、�狎萃�の非礼�瓩鯱佑咾覦戞△修靴童紂洪А晃世い笋垢�する為にヒギリは女性の下へ足を進める。
女性はテラス席で遠くを見つめながらサンドウィッチを頬張っていた。
「まだ何か用…？」
ヒギリの姿を視界に捉え、当たり前に警戒する女性。しかしヒギリはニコニコしながら手製のラズベリージャムを差し出すと笑顔を崩さず言った。
「わ、私ヒギリ・モナルダ！！」
「ヒギリ…？変な名前……」
「変な…！？しょうがないじゃん…！お母さんが東國人なんだよ……だから私の名前にも漢字が使われて…そ、そんな事よりお姉さんは！？」
「は？」
「お姉さんの！！名前！！」
「ああ…ヴォイド・ホロウ…」
「そっか！！よろしくね！ヴォイ姐！！」
「…変なあだ名…」
こうして変なテンションで近付いたヒギリだったが、ヴォイドとの邂逅で色々と得る物が多かった。
先ず、岸壁街の出とは言えヴォイドが特別臭いだけで他の出身者は大して気にならない程度だったと言う事。そして彼女の唯一のまともな服と言って良い医療班のスクラブを着ると彼女の匂いも目立たなくなると言う事。
そして彼女のスタイルが抜群で、上手くすれば（特に男性から）かなりの支持を得られる存在となり得るだろう事。
ちょうど良い、せっかくだからここで人をプロデュースして良い感じに周囲と馴染ませられたらそれはそれで自分の実績と言えるかも。
そんな下心込みで近付いたヒギリだったが、きっかけはどうあれヴォイドとの不思議な友情は形はともあれ後々本物になっていく。
入社当時を振り返り、「あの時ヴォイ姐に勇気を持って声掛けて良かった」とこの事を思い出す度ヒギリは嬉しそうに笑うのだった。
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