男と女のラプソディー／燐花
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rinka_creation 2022年01月19日(水) 22:20:05履歴
嗚呼、憎らしき思い出よ。 
午後三時。昼食のラッシュが終わりエミールはやっと一息着こうと厨房で作った賄いを手に席を探していた。ふと同僚のヒギリが先に席に着き備え付けのテレビに釘付けになっているのが見え、ちょうど良いので彼女と同席しようと近付く。
「ヒギリさん、お疲れ様です」
「あ。エミールさん、お疲れ様」
「いやー…なかなか食券持った方が同じ時間に押し寄せてしまって大変でしたね」
「そうだねー…疲れちゃったなー…」
女性に弱く同僚のヒギリに対してでさえ朝は上がってしまうエミールだが、昼過ぎくらいには慣れて来ていてこの通り、普通に会話が出来る。
なのでじっと彼女を見つめる事も出来た為、エミールはヒギリの変化にすぐに気が付いた。
「ヒギリさん…？本当にお疲れですね…どこか具合悪かったりします？」
「あ…ああ、ううん」
「大丈夫ですか？」
「うん、ちょっと疲れてボーッとしちゃっただけ。こうやって美味しいご飯食べてテレビ観てれば元気になるよ」
何だかぽーっとしているヒギリに風邪の疑いを感じながらエミールは煮込まれたトマトを口に運んだ。
何だかこのトマトの色、今のヒギリさんの顔色みたいだ。
そんな事を考えながらエミールはヒギリを見つめるが、視線に気付かないのかヒギリは彼の方へ目を向けなかった。
「やっべぇ……」
そんなヒギリに熱い視線を送る男がここにも一人。テオフィルスは昼食のトレーを持ったまま呆けるヒギリを遠目に見ていた。彼女が呆けている理由に自分が少なからず関わっていたとしたらどうしようかと思案する。
テオフィルスは先日、完徹で回らない頭のままヒギリと接し、彼女にうっかり手を出そうとした。
タイガと言う友人が自分に居て、その友人が彼女に憧れていると言う事も分かっていたのに手を出そうとした。後から色々調べて知ったが、所謂「寝取り案件」と言うものは法整備されたこの地上でもやはり複雑で難しい問題事らしい。
勿論、岸壁街でも不倫や浮気と言う単語自体は存在する。だから元締めの女達にはなるべく手を出さない様に心がけていた。バレた場合相手も自分も殺されるからだ。イメージとして、まさか法整備された地上ではそんな事は起きないだろうと思っていたがどうやら地上は地上で「社会的な抹殺」と言うのは存在する様だ。
まあ、そう言うトラブルから地上で住めなくなって岸壁街に流れてくる人間は多かったから「社会的抹殺」がどれだけのダメージなのかは想像出来る。しかし、地上でもそうな様に岸壁街でも男女問わず「楽しみ方」の一つとしてそう言う状況に酔う事がある。人間とは愚かなもので、そんな目に遭った奴も裏切りが一番の潤滑油と言わんばかりに、火に油をくべる様に燃え上がるこの感覚に何度も溺れる奴は多い。
女は多かれ少なかれ男に求められる事に安心感を持ち自分の価値を見出す。それが当たり前の様に最下層ではマジョリティだったから、あの時一番の衝撃はヒギリが全くそう言った事に免疫が無かった上触れたところから焦って震え出してしまった事だった。
優しく触れていたつもりでも、そこからもっと深く甘く愛撫に移行しようとしていたつもりでも、ヒギリにはそれら全てが「ただ奪われる行為」に他ならず相当な驚きだったであろう事は間違いない。
自分の見て来た女達は日頃不特定多数の男を相手にするのが当たり前で、そんな中務めて優しくしてやれば喜んでくれる。だからそれで良いと思っていた。ヒギリの反応を見て、人が人に触れると言う事の感覚の違いを改めて理解した気がする。地上では相手を想うだけの余裕が生活にあるからか、岸壁街以上に人と人の心の距離は近く感じるものの物理的な距離は遠い。
電子掲示板で色々見聞きしても本を読み漁ってみても、実際目にしたからこそ掴めた感覚と言うのもある。結社で地上の人間と一緒に生きていく上ではまだまだ勉強する事はいっぱいだ。
そしてその過程でどうしてもやらなくてはいけない、避けて通れないのが「怖がらせたヒギリに謝る事」だろう。
結社に来てすぐ、ヒギリと同じ様に手を出した女が居たが彼女は抵抗無く受け入れるタイプだった。ほぼ体だけの関係なんて長くは続かなかったが、彼女はあまり嫌がらない方だった。しかし、抵抗の無い人間がいる様に当たり前に抵抗の強いタイプもいる。男娼として数々の女を悦ばせて来たつもりだが逆にそれで怖がらせてしまっていたのだとしたらテオフィルスとしては謝る事が筋でありそれをしないのはプライドが許さなかった。
だから謝る機会を探していたのだが、メンバーも増えて調達班の食材の仕入れも潤って来たのもあってかヒギリは忙しそうに動く様になってしまい叶わずここまで来てしまった。
やっと休憩中のヒギリを見付けて安堵したのだが、今彼女の傍にはエミールがいる。
色々考えた末ではあるが、意を決してテオフィルスは足を進める。義足がカチャカチャ音を立て、エミールが振り返った。
「おや？テオさん？」
「よ、よぉ！エミール！ヒギリちゃん…」
「………」
何も知らずにこやかなエミール。そして少し構える様にすんとした目でこちらを見るヒギリ。目を逸らしてはいけない、ここで目を逸らしたらどうやって彼女に誠意を伝えられるだろう？そう思ったテオフィルスは精一杯彼女を見返し、務めて優しい眼差しでにっこり微笑んだ。ヒギリはそんなテオフィルスの目を見て初めて「テオさん…」と口にした。
「あー…俺もここ座って良いか？」
絞り出した言葉にエミールは一瞬キョトンとしながら周りを見る。今の時間、席はガラガラだったから一瞬「何故空いている席に座らずわざわざ？」と思ったのだろう。
「うん、私は構わんよ。テオさん、一緒食べよ…？」
しかしテオフィルスにとっては意外な事に、ヒギリからそう口にしてくれたので同じ席に落ち着く事になった。
パーソナルスペースに入れてくれる。何だかヒギリに少し許され、受け入れられた様にテオフィルスは感じた。さあ、後はどうやってちゃんと謝るところまで持っていくか、だ。
「テオさんも今日赤スープですか。良いですねー、今日は私も赤スープでしたが、美味しいトマトが入ったので本当に美味しく仕上げられたんですよね」
「そ、そうなのか」
「ええ。そう言えばヒギリさんは…今日は白スープですか？」
「うん。お腹空いちゃったから、余ってたカブでちょっと嵩増ししたんだよ」
「良いですねー。それも美味しそうです」
料理トークになるとあまり突っ込んだ事は言えなくなるテオフィルス。ちらちらと落ち着き無くヒギリを盗み見ながらトマトを口に運ぶ。
エミールが席を離れた時に話をするならどうだろう？少し二人で話さないか、なんて口にしたら警戒されてしまいそうだし、それでも何とか一言彼女に言葉を伝えたいのだが、エミールの見ている前で「ごめん」などと口走ってエミールの耳に入れてしまうのは彼女が可哀想だ。それに、ノエにも「ここだけの話で」と念を押されたのだから周りには聞かれず、しかしすぐ傍に人がいる状況下で彼女に謝らないと彼女の心が休まらないだろう。
「あ、バラエティ番組やってますね」
不意にエミールが呟いたので備え付けのテレビに目をやる。
テレビの中ではお笑い芸人が男女問わず何人も出演し、面白トークを繰り広げていた。その内、一際身形に気を遣って居そうな男性芸人がカメラで抜かれる。その瞬間、視界の端でビクリと大きく体を震わせたヒギリは画面に釘付けになった。
「おや、この方最近売れてますねー。最初はアイドルばりのルックスの爽やかイケメンって売ってましたけど週刊誌で女性関係が報道されてからクズキャラに転身した方」
「エミール…お前俗っぽい事知ってんな…質実な坊様はこう言う奴嫌うもんだと思ってたぜ」
「あはは。人間、十人寄らば十通りの人生がある物ですし、それら全てに正誤があるわけでもありません」
「はみ出し者でも救う対象なのか？」
「欲に塗れる事は教えに反しておりそんな人生は誤りである、とある宗教では言いますが、人間と言う生き物を特別視せず自然の営みの一つとして置いたなら、欲のままに動くと言うのは生き物として今度正解となるのですとしか拙僧には言えません。全ての人が幸せになる為の教えですので、救うだとニュアンスが違うかもしれません」
「……じゃあ、見方を変えれば何とでもって事か…？」
「視点を変えるだけで色々なものが違って見えるのです。所詮、正誤なんてものは見ている人間の匙加減一つで決まるもの。その匙とは、決める人間の視野の広さに比例します。私は相手の限定された部分に目を奪われて全体を見ずに判断する様な事がない様にしたいと思っているのです。もしかしたらそれが誤りに繋がるかもしれませんし。こう言う方が目の前に現れた時、頭から否定せずに相手の価値観を自分なりに解釈出来たらと思うわけです」
「お前の寺ってお人好しが運営してる気がして来たな……」
「ふふふ、そうでもありませんよ。でもこの様な方、私は嫌いにはなれません。彼は今やクズキャラとして売れて居ますが、逆を言えばそれが出来るだけ人を誑し込む能力に長けていると言う事。何故かいるのですよ、周りの人が放って置けない、世話を焼きたいと思わせるタイプの人と言うのは。そう言う方はややもすると、相手を良い気持ちにさせる言動や行動の才能を持っているのです。それに、むしろこう言う欲望に忠実な方が教えを乞いたいとウチの門を叩く事も多いのですよ」
とどのつまりエミールは生臭っぽいのか？
そんな事を思いつつ、「まあ、人を受け入れないより受け入れるタイプの人間の方が一緒に居て気持ちが楽だ」と、彼が人を拒絶する人間では無くて良かったとそう思う。
するとゆらりと動いたヒギリがボソッと口にした。
「良い気持ちにさせる言動や行動……？そうだね…確かにあったよ…その才能……！！」
「ヒギリさん…？」
「この人……本当口ばっか上手いんよ……！！しかも何か、助けてあげたいと思わせるのも上手いんよ……！！」
「ヒギリちゃん…？」
テオフィルスはハッとする。そう言えばタイガにヒギリの正体が「ディーバ×クアエダム」のローズ・マリーだと聞かされた時、興味本位で彼女の事を調べたら酒に酔って芸人モノマネメドレーを繰り広げたと言う過去の週刊誌が出て来たのだ。それを暴露したと言われている男性芸人は確かこの男だったかその相方だったか。
「ヒギリちゃん…この芸人の恋愛ネタとか、何か知ってんの？」
ぼそりと小さい声でそう聞くと、ヒギリは真っ赤な顔をテレビから此方に向け直す。
「聞いてくれる…！？こ、これは私じゃなくて私の……昔勤めてたバイト先の同い年の女の子の話なんだけどさ……！」
絶対ヒギリ本人の話だ。
そうは思ったが、それは彼女をローズ・マリーと知っているテオフィルスだからそう思う事であってエミールは「バイト先の同い年の女の子」の話だと信じ込んでいる。
過去の話だし、もしかしたらタイガに何か有益な情報を持って帰れるかもしれない。そう思ったテオフィルスと、「聞いてくれる？」と言われたからと言う理由のエミール。二人はヒギリの話に静かに耳を傾けた。
「ヒギリさん、お疲れ様です」
「あ。エミールさん、お疲れ様」
「いやー…なかなか食券持った方が同じ時間に押し寄せてしまって大変でしたね」
「そうだねー…疲れちゃったなー…」
女性に弱く同僚のヒギリに対してでさえ朝は上がってしまうエミールだが、昼過ぎくらいには慣れて来ていてこの通り、普通に会話が出来る。
なのでじっと彼女を見つめる事も出来た為、エミールはヒギリの変化にすぐに気が付いた。
「ヒギリさん…？本当にお疲れですね…どこか具合悪かったりします？」
「あ…ああ、ううん」
「大丈夫ですか？」
「うん、ちょっと疲れてボーッとしちゃっただけ。こうやって美味しいご飯食べてテレビ観てれば元気になるよ」
何だかぽーっとしているヒギリに風邪の疑いを感じながらエミールは煮込まれたトマトを口に運んだ。
何だかこのトマトの色、今のヒギリさんの顔色みたいだ。
そんな事を考えながらエミールはヒギリを見つめるが、視線に気付かないのかヒギリは彼の方へ目を向けなかった。
「やっべぇ……」
そんなヒギリに熱い視線を送る男がここにも一人。テオフィルスは昼食のトレーを持ったまま呆けるヒギリを遠目に見ていた。彼女が呆けている理由に自分が少なからず関わっていたとしたらどうしようかと思案する。
テオフィルスは先日、完徹で回らない頭のままヒギリと接し、彼女にうっかり手を出そうとした。
タイガと言う友人が自分に居て、その友人が彼女に憧れていると言う事も分かっていたのに手を出そうとした。後から色々調べて知ったが、所謂「寝取り案件」と言うものは法整備されたこの地上でもやはり複雑で難しい問題事らしい。
勿論、岸壁街でも不倫や浮気と言う単語自体は存在する。だから元締めの女達にはなるべく手を出さない様に心がけていた。バレた場合相手も自分も殺されるからだ。イメージとして、まさか法整備された地上ではそんな事は起きないだろうと思っていたがどうやら地上は地上で「社会的な抹殺」と言うのは存在する様だ。
まあ、そう言うトラブルから地上で住めなくなって岸壁街に流れてくる人間は多かったから「社会的抹殺」がどれだけのダメージなのかは想像出来る。しかし、地上でもそうな様に岸壁街でも男女問わず「楽しみ方」の一つとしてそう言う状況に酔う事がある。人間とは愚かなもので、そんな目に遭った奴も裏切りが一番の潤滑油と言わんばかりに、火に油をくべる様に燃え上がるこの感覚に何度も溺れる奴は多い。
女は多かれ少なかれ男に求められる事に安心感を持ち自分の価値を見出す。それが当たり前の様に最下層ではマジョリティだったから、あの時一番の衝撃はヒギリが全くそう言った事に免疫が無かった上触れたところから焦って震え出してしまった事だった。
優しく触れていたつもりでも、そこからもっと深く甘く愛撫に移行しようとしていたつもりでも、ヒギリにはそれら全てが「ただ奪われる行為」に他ならず相当な驚きだったであろう事は間違いない。
自分の見て来た女達は日頃不特定多数の男を相手にするのが当たり前で、そんな中務めて優しくしてやれば喜んでくれる。だからそれで良いと思っていた。ヒギリの反応を見て、人が人に触れると言う事の感覚の違いを改めて理解した気がする。地上では相手を想うだけの余裕が生活にあるからか、岸壁街以上に人と人の心の距離は近く感じるものの物理的な距離は遠い。
電子掲示板で色々見聞きしても本を読み漁ってみても、実際目にしたからこそ掴めた感覚と言うのもある。結社で地上の人間と一緒に生きていく上ではまだまだ勉強する事はいっぱいだ。
そしてその過程でどうしてもやらなくてはいけない、避けて通れないのが「怖がらせたヒギリに謝る事」だろう。
結社に来てすぐ、ヒギリと同じ様に手を出した女が居たが彼女は抵抗無く受け入れるタイプだった。ほぼ体だけの関係なんて長くは続かなかったが、彼女はあまり嫌がらない方だった。しかし、抵抗の無い人間がいる様に当たり前に抵抗の強いタイプもいる。男娼として数々の女を悦ばせて来たつもりだが逆にそれで怖がらせてしまっていたのだとしたらテオフィルスとしては謝る事が筋でありそれをしないのはプライドが許さなかった。
だから謝る機会を探していたのだが、メンバーも増えて調達班の食材の仕入れも潤って来たのもあってかヒギリは忙しそうに動く様になってしまい叶わずここまで来てしまった。
やっと休憩中のヒギリを見付けて安堵したのだが、今彼女の傍にはエミールがいる。
色々考えた末ではあるが、意を決してテオフィルスは足を進める。義足がカチャカチャ音を立て、エミールが振り返った。
「おや？テオさん？」
「よ、よぉ！エミール！ヒギリちゃん…」
「………」
何も知らずにこやかなエミール。そして少し構える様にすんとした目でこちらを見るヒギリ。目を逸らしてはいけない、ここで目を逸らしたらどうやって彼女に誠意を伝えられるだろう？そう思ったテオフィルスは精一杯彼女を見返し、務めて優しい眼差しでにっこり微笑んだ。ヒギリはそんなテオフィルスの目を見て初めて「テオさん…」と口にした。
「あー…俺もここ座って良いか？」
絞り出した言葉にエミールは一瞬キョトンとしながら周りを見る。今の時間、席はガラガラだったから一瞬「何故空いている席に座らずわざわざ？」と思ったのだろう。
「うん、私は構わんよ。テオさん、一緒食べよ…？」
しかしテオフィルスにとっては意外な事に、ヒギリからそう口にしてくれたので同じ席に落ち着く事になった。
パーソナルスペースに入れてくれる。何だかヒギリに少し許され、受け入れられた様にテオフィルスは感じた。さあ、後はどうやってちゃんと謝るところまで持っていくか、だ。
「テオさんも今日赤スープですか。良いですねー、今日は私も赤スープでしたが、美味しいトマトが入ったので本当に美味しく仕上げられたんですよね」
「そ、そうなのか」
「ええ。そう言えばヒギリさんは…今日は白スープですか？」
「うん。お腹空いちゃったから、余ってたカブでちょっと嵩増ししたんだよ」
「良いですねー。それも美味しそうです」
料理トークになるとあまり突っ込んだ事は言えなくなるテオフィルス。ちらちらと落ち着き無くヒギリを盗み見ながらトマトを口に運ぶ。
エミールが席を離れた時に話をするならどうだろう？少し二人で話さないか、なんて口にしたら警戒されてしまいそうだし、それでも何とか一言彼女に言葉を伝えたいのだが、エミールの見ている前で「ごめん」などと口走ってエミールの耳に入れてしまうのは彼女が可哀想だ。それに、ノエにも「ここだけの話で」と念を押されたのだから周りには聞かれず、しかしすぐ傍に人がいる状況下で彼女に謝らないと彼女の心が休まらないだろう。
「あ、バラエティ番組やってますね」
不意にエミールが呟いたので備え付けのテレビに目をやる。
テレビの中ではお笑い芸人が男女問わず何人も出演し、面白トークを繰り広げていた。その内、一際身形に気を遣って居そうな男性芸人がカメラで抜かれる。その瞬間、視界の端でビクリと大きく体を震わせたヒギリは画面に釘付けになった。
「おや、この方最近売れてますねー。最初はアイドルばりのルックスの爽やかイケメンって売ってましたけど週刊誌で女性関係が報道されてからクズキャラに転身した方」
「エミール…お前俗っぽい事知ってんな…質実な坊様はこう言う奴嫌うもんだと思ってたぜ」
「あはは。人間、十人寄らば十通りの人生がある物ですし、それら全てに正誤があるわけでもありません」
「はみ出し者でも救う対象なのか？」
「欲に塗れる事は教えに反しておりそんな人生は誤りである、とある宗教では言いますが、人間と言う生き物を特別視せず自然の営みの一つとして置いたなら、欲のままに動くと言うのは生き物として今度正解となるのですとしか拙僧には言えません。全ての人が幸せになる為の教えですので、救うだとニュアンスが違うかもしれません」
「……じゃあ、見方を変えれば何とでもって事か…？」
「視点を変えるだけで色々なものが違って見えるのです。所詮、正誤なんてものは見ている人間の匙加減一つで決まるもの。その匙とは、決める人間の視野の広さに比例します。私は相手の限定された部分に目を奪われて全体を見ずに判断する様な事がない様にしたいと思っているのです。もしかしたらそれが誤りに繋がるかもしれませんし。こう言う方が目の前に現れた時、頭から否定せずに相手の価値観を自分なりに解釈出来たらと思うわけです」
「お前の寺ってお人好しが運営してる気がして来たな……」
「ふふふ、そうでもありませんよ。でもこの様な方、私は嫌いにはなれません。彼は今やクズキャラとして売れて居ますが、逆を言えばそれが出来るだけ人を誑し込む能力に長けていると言う事。何故かいるのですよ、周りの人が放って置けない、世話を焼きたいと思わせるタイプの人と言うのは。そう言う方はややもすると、相手を良い気持ちにさせる言動や行動の才能を持っているのです。それに、むしろこう言う欲望に忠実な方が教えを乞いたいとウチの門を叩く事も多いのですよ」
とどのつまりエミールは生臭っぽいのか？
そんな事を思いつつ、「まあ、人を受け入れないより受け入れるタイプの人間の方が一緒に居て気持ちが楽だ」と、彼が人を拒絶する人間では無くて良かったとそう思う。
するとゆらりと動いたヒギリがボソッと口にした。
「良い気持ちにさせる言動や行動……？そうだね…確かにあったよ…その才能……！！」
「ヒギリさん…？」
「この人……本当口ばっか上手いんよ……！！しかも何か、助けてあげたいと思わせるのも上手いんよ……！！」
「ヒギリちゃん…？」
テオフィルスはハッとする。そう言えばタイガにヒギリの正体が「ディーバ×クアエダム」のローズ・マリーだと聞かされた時、興味本位で彼女の事を調べたら酒に酔って芸人モノマネメドレーを繰り広げたと言う過去の週刊誌が出て来たのだ。それを暴露したと言われている男性芸人は確かこの男だったかその相方だったか。
「ヒギリちゃん…この芸人の恋愛ネタとか、何か知ってんの？」
ぼそりと小さい声でそう聞くと、ヒギリは真っ赤な顔をテレビから此方に向け直す。
「聞いてくれる…！？こ、これは私じゃなくて私の……昔勤めてたバイト先の同い年の女の子の話なんだけどさ……！」
絶対ヒギリ本人の話だ。
そうは思ったが、それは彼女をローズ・マリーと知っているテオフィルスだからそう思う事であってエミールは「バイト先の同い年の女の子」の話だと信じ込んでいる。
過去の話だし、もしかしたらタイガに何か有益な情報を持って帰れるかもしれない。そう思ったテオフィルスと、「聞いてくれる？」と言われたからと言う理由のエミール。二人はヒギリの話に静かに耳を傾けた。
あくまで「バイト先の同い年の女の子」の話
当時、ヒギリは十八歳目前。成人、つまり大人の仲間入りをするのだと少し楽しみにして居た。高い位置で結ぶツインテールに飽きて来たと言う、アイドルとして自分のキャラを否定するのはどうなのかと言う理由でイメチェンを検討しようとしていたそんな時、顔の売れていたソフィア以外のメンバーにネット番組の出演オファーが来たのだった。
「若手コメディアンが司会の体張ったバラエティ！？」
ヒギリは思わずマネージャーに食ってかかった。
「そうよ？ソフィア以外、貴女達暇でしょ？特にローズ」
「ひ、暇っちゃ暇だけど…！」
ヒギリはグループで出すシングルのソロパートも収録済み。やっと明日から好きなだけゲームセンターに入り浸れるぞとウキウキしていた矢先の名指しだった。
「じゃあローズ、決まりね。ローション滑り台とパイ投げ、熱湯風呂とロデオマシンがあるからよろしくね」
「ローション！？そ、それって…あのネバネバしたアレ…！？」
「嫌なら、マルバツ問題で失敗したら泥ってのもあるけど」
「どっちも嫌だよ！！落ちにくいんだから！！」
一度番組企画で食らった事のあるヒギリは液体を食らう事の恐ろしさを身を持って知っていた。しかもローションって、食らう人によってはちょっとえっちぃ感じで見られるやつじゃないか。
そう反論するヒギリにマネージャーは鼻で笑う。
「誰もそんな目で見やしないわよ、あんたセクシー担当でも何でもないもの。精々「オクラみたいな女の子がいるなー」くらいよ」
「嫁入り前の娘捕まえて「オクラみたい」とは何事か！？そんなにネバネバさせる気なの！？」
「ヒ、ヒギリ…！」
唯一ヒギリと名前で呼んでくれるマネージャーが青ざめた顔で彼女を宥める。まあ、他にやる事も無いし、他の子はまだリテイク食らっているなら自分がやるしか無い。
「何が悲しくてローション塗れを約束させられてるんだよぅ…」
話を終えて少しムシャクシャしたヒギリはゲームセンターでキャッチャーゲームと睨めっこしていた。
あのリョワリのぬいぐるみ、もう少しで落っこちそう。しかし、後一歩のところで硬貨が尽きてしまう。ヒギリは周りを見渡し、場所を取られないかじっくり確認してから両替機を使おうとキョロキョロしていた。
すると、ヒギリの視界の前ににょきっとコインを持った手が伸びて来た。
「はい、コインあげるわー。それやったら後三回も突きゃ落ちるやろ」
「へ…？」
「両替え。出来やんで困っててんやろ？」
ふわふわとした茶色の髪。人の良さそうな顔立ち。柔らかく笑う彼から発せられる言葉には独特な訛りがあり、いつもなら顔を顰めてしまうその距離の詰め方も彼になら「良いよ」と言えてしまう様な魔力があった。
「え…？でも…」
「お！ほら、もう乗ってるだけやん。これ角突くだけで行けるんとちゃう？」
「そ、そうですが…」
「ほれほれ、早よ取って安心したりよ」
「あ！ちょっと！」
ヒギリの静止も虚しく彼は自分の小銭を投入口に入れてゲームを起動させる。人のお金でゲームするなんて絶対成果を出さなきゃいけない感が半端でなくヒギリは焦り始める。何とか思い通りの場所をアームで小突くと、読み通りすぐにバランスを崩したリョワリのぬいぐるみは取り出し口に落ちて来てくれた。ほっとしたヒギリはぬいぐるみを取ると、彼に向き直り頭を下げる。彼はキョトンとした顔でそれを見ていた。
「す、すみません。ありがとうございます…今お金崩してくるんで、ちょっと待っててください」
「ああ、別に良えよアレっぽっち」
「良くないです…」
「…うーん。じゃあ、お姉さん暇？」
「これからお菓子作る材料買いに行きますが…」
「ほなボクも一緒して良え？」
「へ？」
「折角やし荷物持ちしたるよ」
いきなり現れて、お金が無いのを察してさり気なく渡してくれて、おまけに買い物に付き合うと言う。どんな親切であっても、それは踏み込み過ぎだ。
ヒギリは困惑した顔を向けると、一言「困ります」と呟いた。
「そこまでしてもらわなくて良い、です…今お金崩して来ますから、それは受け取ってください……」
ヒギリが絞り出す様にそう言うと、彼は焦った様に目を泳がせる。明らかに先程と様子が変わった。
「あー…あ、ごめんな。びっくりさせたよね？」
「………」
こくり。ヒギリが頷けば、彼は「あちゃー」と言いながらオーバーに手で顔を覆った。
「いや、ほんまにごめんね。ボク、友達作るの好きなんやけどたまに距離感バグるねん」
「そ、そうなんですか？」
「せや。ボクんとこの地元のオバチャンがやる距離感で行ってもうた。女の子やし、こんなして男に来られたらきっと怖いやんなー。ボクもオバチャン達にぐいぐい来られて怖かってん、忘れてもうたわ。せやけど聞いてや、オバチャン皆飴ちゃん持っててん。その飴ちゃんがまた美味いのよ。だから忘れててんなー。貰える飴ちゃんに釣られてボクすっかりこの距離の取り方がバグってるって忘れてもうて」
「ぷっ……」
どう言う理屈だ、と突っ込みたくなる様なことを言われヒギリは思わず笑ってしまう。やっと彼女が柔らかく笑った事で満足気に彼も微笑んだ。
「あのオバチャン達の飴、ほんまに美味いねんで？アレどこで用意してんねやろ？」
「ぷふっ…知りませんよ」
「アレ、絶対何かしらいけない成分入ってるわー。アレもらっただけでボク、オバチャンの距離感のバグり許したくなんねん。アレは狡いわー。絶対何か入ってるやん。狡いでーほんま。人をダメにする成分入ってんねん」
「ふふふっ……！そんなわけないじゃ無いですか…！」
ヒギリが耐え切れずくすくす笑い出したその顔を見て、彼は「可愛い」とぼそりと呟く。聞き漏らさなかったヒギリが驚きからまたキョトンとした顔になってしまうと、彼はそれすら嬉しそうににこりと笑った。
「ボク、エルッキ・マケラ。駆け出しのコメディアンやってます。だから笑ってくれるとほんま嬉しいです」
「わ、私……」
ここはヒギリ・モナルダと名乗るべきなのか、アイドルとしてはローズ・マリーと名乗るべきなのか。アイドルになってからこんな名乗り方をする事なんて無かったヒギリは数秒間考える為に止まってしまった。
「……ローズ・マリーって名前で、その…」
「え？お姉さんそれコードネームとちゃう？」
「ええええ！？何で！？」
「だって、ボクに名前言いた無くて考えまくって止まってたやん。お姉さんまさか特殊工作員とか何かだったりしやん？」
「違うもん！！」
びしっ！とツッコミの手を入れてしまうヒギリにエルッキは「手の角度、ナイスなツッコミやなー！」とまた笑い出す。その勢いでやっと彼女はすんなり自己紹介をする事が出来た。
「ローズ・マリーって名前で…一応アイドルやってるんだけど、本名はヒギリ・モナルダって言うの…」
「ヒギリちゃんか！そらお上品で綺麗な名前やなぁ！顔可愛い系やから余計魅力的やね！何や同業の人やん！良えなー、ボク芸名とか憧れるわー！基本芸人って格好良い芸名無いねんもんな。ボクもいっそ「三代目マケラブラザーズ兄〜マンマミーア！」とか付けたろかな？」
「それは方々に喧嘩売り過ぎだと思う」
「言うてボク一人っ子やねんけど」
「最早ブラザーズですら無いんよ！」
「ははは！ヒギリちゃん、バラエティー映えするやん！何やアイドルなのにそんな返せるとか嫉妬するわー」
「えへへ…そうかなぁ？」
「そやし、たまに出るそれは方言みたいな言い回し？」
「ああ…なのかなぁ？私にもよく分からんけど、ちょっと言葉短く言う時がある様な無い様な…」
「良えやん！それほんまキュートやで！」
その言葉は、少しだけバラエティーに出る事に弱気になっていたヒギリをやる気にさせるのに十分だった。恐ろしい程にエルッキは褒め上手だったのだ。
その後、すっかり打ち解けた二人はそのままカフェへ向かいお茶を飲みながら談笑する。二人ともまだまだ駆け出しと言うのもあってか話も合い、ヒギリは久しぶりに心から笑う事が出来た。そしてちょっと憧れた。もしもこの世界で彼氏が出来たら、こんな風に互いにあるあるな話に花を咲かせたり慰め合ったりとかして、そうやって仲を深めていけるのかなぁ？と。
数日後、何とかやる気を出してバラエティーの収録現場に向かうとそこには既に沢山の他のグループのアイドル達が待機していた。彼女達に混じって席に着くと、司会も込みの打ち合わせが始まる。現れたのはエルッキと彼の相方のピーター・アナセンだった。
「どうも！エルッキ・マケラですー。この度初めて司会なんて大役仰せつかってしまいましてね！皆さんの胸を借りるつもりで頑張ってくので慣れてる方、アシストよろしくお願いしますー。ほんま右見ても左見てもアイドルばっかで可愛い子多くて…！本当に胸を借りられたら良いなんてボクなんかは思うんですけどね」
「コラ！最近はセクハラうるさいねんぞ！お前出禁要素ばら撒くなや」
「はい、こっちのうるさいのが相方のピーター・アナセンですー。ボクら普段はね、イケメンとうるさいのとで漫才やらしてもらってんですけども」
「アホ、エルッキ とピーター のまあまあ凡々のコンビやないか」
「………などと供述しており！」
「誰が犯人やねん！そもそも何の犯人やねん！」
「何のってそら騒音事件の犯人やがな。引っ越ーし！引っ越ーし！言うて」
「お前しばくぞほんま」
「まあ普段からこんな感じで騒がしいんですけどね！ほな皆さんよろしゅう頼んます」
楽屋がにわかに笑いに包まれる中ヒギリも釣られて笑っていたが途端に驚愕の色に染まる。まさか先日運命的な出会いを果たしたエルッキとこんな仕事の場で再会すると思わなかったのだ。
緊張が解れて笑い始めた周りの女の子達は早速可愛い系で人懐こいエルッキと、少し頑固で取っ付きにくそうだが笑いに真面目でクールなピーターのどちらが魅力的かと色めきだつ。
どうしよう。どんな顔で彼と話そう。そう思いながら百面相をしていたヒギリの肩をつんつんと突いたのはエルッキだった。
「ローズちゃん、だっけ？」
「エ…エルッキさん…」
覚えてもらっては居たものの、やはりヒギリなんてわかりづらい方で無く耳障りの良いローズの方かと少しだけしゅんとなる。それでも、何の記憶にも残らないよりマシか。芸能人としても、一人の人間としても。
「一緒に共演する子の中に居ると思わんかったわー！あの時連絡先聞かれへんかったやん？ボク惜しい事したなー思ててん！」
「は、はぁ…」
「これ、ボクの連絡先！仕事始まる前に知り合えた子が居てくれてほんま頼もしいわー！ボクもうさっき緊張でゲボ出そうやってん」
「おい、お前女の子捕まえてゲボとか言うなや」
エルッキを連れ戻しにきたピーターが彼の首根っこを掴む。ヒギリが二人のやり取りに苦笑いを浮かべていると、「煩くてすまんな」とピーターは呟いた。
「一緒頑張ろなー！緊張してんの、ボクらも一緒やし大丈夫やでーヒギリ ちゃん！」
「おい、行くぞエルッキ」
「ピーターなんてさっきから良い歳してババちびりそうになってんねんて！」
「貴様大声で何晒しとんじゃダボがぁ！！」
女の子達の視線は痛い。痛いが、それよりもローズでなくヒギリの名を覚えていてくれた事がこんなにもドキドキするなんて。
ヒギリはぐっと握り拳を握ると、力強く前を向く。ローションでもロデオでも熱湯でも何でも来い。体張った笑いにうるさい東國由来の罰ゲーム、頑張って一身に受けてやろうじゃないか。
「若手コメディアンが司会の体張ったバラエティ！？」
ヒギリは思わずマネージャーに食ってかかった。
「そうよ？ソフィア以外、貴女達暇でしょ？特にローズ」
「ひ、暇っちゃ暇だけど…！」
ヒギリはグループで出すシングルのソロパートも収録済み。やっと明日から好きなだけゲームセンターに入り浸れるぞとウキウキしていた矢先の名指しだった。
「じゃあローズ、決まりね。ローション滑り台とパイ投げ、熱湯風呂とロデオマシンがあるからよろしくね」
「ローション！？そ、それって…あのネバネバしたアレ…！？」
「嫌なら、マルバツ問題で失敗したら泥ってのもあるけど」
「どっちも嫌だよ！！落ちにくいんだから！！」
一度番組企画で食らった事のあるヒギリは液体を食らう事の恐ろしさを身を持って知っていた。しかもローションって、食らう人によってはちょっとえっちぃ感じで見られるやつじゃないか。
そう反論するヒギリにマネージャーは鼻で笑う。
「誰もそんな目で見やしないわよ、あんたセクシー担当でも何でもないもの。精々「オクラみたいな女の子がいるなー」くらいよ」
「嫁入り前の娘捕まえて「オクラみたい」とは何事か！？そんなにネバネバさせる気なの！？」
「ヒ、ヒギリ…！」
唯一ヒギリと名前で呼んでくれるマネージャーが青ざめた顔で彼女を宥める。まあ、他にやる事も無いし、他の子はまだリテイク食らっているなら自分がやるしか無い。
「何が悲しくてローション塗れを約束させられてるんだよぅ…」
話を終えて少しムシャクシャしたヒギリはゲームセンターでキャッチャーゲームと睨めっこしていた。
あのリョワリのぬいぐるみ、もう少しで落っこちそう。しかし、後一歩のところで硬貨が尽きてしまう。ヒギリは周りを見渡し、場所を取られないかじっくり確認してから両替機を使おうとキョロキョロしていた。
すると、ヒギリの視界の前ににょきっとコインを持った手が伸びて来た。
「はい、コインあげるわー。それやったら後三回も突きゃ落ちるやろ」
「へ…？」
「両替え。出来やんで困っててんやろ？」
ふわふわとした茶色の髪。人の良さそうな顔立ち。柔らかく笑う彼から発せられる言葉には独特な訛りがあり、いつもなら顔を顰めてしまうその距離の詰め方も彼になら「良いよ」と言えてしまう様な魔力があった。
「え…？でも…」
「お！ほら、もう乗ってるだけやん。これ角突くだけで行けるんとちゃう？」
「そ、そうですが…」
「ほれほれ、早よ取って安心したりよ」
「あ！ちょっと！」
ヒギリの静止も虚しく彼は自分の小銭を投入口に入れてゲームを起動させる。人のお金でゲームするなんて絶対成果を出さなきゃいけない感が半端でなくヒギリは焦り始める。何とか思い通りの場所をアームで小突くと、読み通りすぐにバランスを崩したリョワリのぬいぐるみは取り出し口に落ちて来てくれた。ほっとしたヒギリはぬいぐるみを取ると、彼に向き直り頭を下げる。彼はキョトンとした顔でそれを見ていた。
「す、すみません。ありがとうございます…今お金崩してくるんで、ちょっと待っててください」
「ああ、別に良えよアレっぽっち」
「良くないです…」
「…うーん。じゃあ、お姉さん暇？」
「これからお菓子作る材料買いに行きますが…」
「ほなボクも一緒して良え？」
「へ？」
「折角やし荷物持ちしたるよ」
いきなり現れて、お金が無いのを察してさり気なく渡してくれて、おまけに買い物に付き合うと言う。どんな親切であっても、それは踏み込み過ぎだ。
ヒギリは困惑した顔を向けると、一言「困ります」と呟いた。
「そこまでしてもらわなくて良い、です…今お金崩して来ますから、それは受け取ってください……」
ヒギリが絞り出す様にそう言うと、彼は焦った様に目を泳がせる。明らかに先程と様子が変わった。
「あー…あ、ごめんな。びっくりさせたよね？」
「………」
こくり。ヒギリが頷けば、彼は「あちゃー」と言いながらオーバーに手で顔を覆った。
「いや、ほんまにごめんね。ボク、友達作るの好きなんやけどたまに距離感バグるねん」
「そ、そうなんですか？」
「せや。ボクんとこの地元のオバチャンがやる距離感で行ってもうた。女の子やし、こんなして男に来られたらきっと怖いやんなー。ボクもオバチャン達にぐいぐい来られて怖かってん、忘れてもうたわ。せやけど聞いてや、オバチャン皆飴ちゃん持っててん。その飴ちゃんがまた美味いのよ。だから忘れててんなー。貰える飴ちゃんに釣られてボクすっかりこの距離の取り方がバグってるって忘れてもうて」
「ぷっ……」
どう言う理屈だ、と突っ込みたくなる様なことを言われヒギリは思わず笑ってしまう。やっと彼女が柔らかく笑った事で満足気に彼も微笑んだ。
「あのオバチャン達の飴、ほんまに美味いねんで？アレどこで用意してんねやろ？」
「ぷふっ…知りませんよ」
「アレ、絶対何かしらいけない成分入ってるわー。アレもらっただけでボク、オバチャンの距離感のバグり許したくなんねん。アレは狡いわー。絶対何か入ってるやん。狡いでーほんま。人をダメにする成分入ってんねん」
「ふふふっ……！そんなわけないじゃ無いですか…！」
ヒギリが耐え切れずくすくす笑い出したその顔を見て、彼は「可愛い」とぼそりと呟く。聞き漏らさなかったヒギリが驚きからまたキョトンとした顔になってしまうと、彼はそれすら嬉しそうににこりと笑った。
「ボク、エルッキ・マケラ。駆け出しのコメディアンやってます。だから笑ってくれるとほんま嬉しいです」
「わ、私……」
ここはヒギリ・モナルダと名乗るべきなのか、アイドルとしてはローズ・マリーと名乗るべきなのか。アイドルになってからこんな名乗り方をする事なんて無かったヒギリは数秒間考える為に止まってしまった。
「……ローズ・マリーって名前で、その…」
「え？お姉さんそれコードネームとちゃう？」
「ええええ！？何で！？」
「だって、ボクに名前言いた無くて考えまくって止まってたやん。お姉さんまさか特殊工作員とか何かだったりしやん？」
「違うもん！！」
びしっ！とツッコミの手を入れてしまうヒギリにエルッキは「手の角度、ナイスなツッコミやなー！」とまた笑い出す。その勢いでやっと彼女はすんなり自己紹介をする事が出来た。
「ローズ・マリーって名前で…一応アイドルやってるんだけど、本名はヒギリ・モナルダって言うの…」
「ヒギリちゃんか！そらお上品で綺麗な名前やなぁ！顔可愛い系やから余計魅力的やね！何や同業の人やん！良えなー、ボク芸名とか憧れるわー！基本芸人って格好良い芸名無いねんもんな。ボクもいっそ「三代目マケラブラザーズ兄〜マンマミーア！」とか付けたろかな？」
「それは方々に喧嘩売り過ぎだと思う」
「言うてボク一人っ子やねんけど」
「最早ブラザーズですら無いんよ！」
「ははは！ヒギリちゃん、バラエティー映えするやん！何やアイドルなのにそんな返せるとか嫉妬するわー」
「えへへ…そうかなぁ？」
「そやし、たまに出るそれは方言みたいな言い回し？」
「ああ…なのかなぁ？私にもよく分からんけど、ちょっと言葉短く言う時がある様な無い様な…」
「良えやん！それほんまキュートやで！」
その言葉は、少しだけバラエティーに出る事に弱気になっていたヒギリをやる気にさせるのに十分だった。恐ろしい程にエルッキは褒め上手だったのだ。
その後、すっかり打ち解けた二人はそのままカフェへ向かいお茶を飲みながら談笑する。二人ともまだまだ駆け出しと言うのもあってか話も合い、ヒギリは久しぶりに心から笑う事が出来た。そしてちょっと憧れた。もしもこの世界で彼氏が出来たら、こんな風に互いにあるあるな話に花を咲かせたり慰め合ったりとかして、そうやって仲を深めていけるのかなぁ？と。
数日後、何とかやる気を出してバラエティーの収録現場に向かうとそこには既に沢山の他のグループのアイドル達が待機していた。彼女達に混じって席に着くと、司会も込みの打ち合わせが始まる。現れたのはエルッキと彼の相方のピーター・アナセンだった。
「どうも！エルッキ・マケラですー。この度初めて司会なんて大役仰せつかってしまいましてね！皆さんの胸を借りるつもりで頑張ってくので慣れてる方、アシストよろしくお願いしますー。ほんま右見ても左見てもアイドルばっかで可愛い子多くて…！本当に胸を借りられたら良いなんてボクなんかは思うんですけどね」
「コラ！最近はセクハラうるさいねんぞ！お前出禁要素ばら撒くなや」
「はい、こっちのうるさいのが相方のピーター・アナセンですー。ボクら普段はね、イケメンとうるさいのとで漫才やらしてもらってんですけども」
「アホ、
「………などと供述しており！」
「誰が犯人やねん！そもそも何の犯人やねん！」
「何のってそら騒音事件の犯人やがな。引っ越ーし！引っ越ーし！言うて」
「お前しばくぞほんま」
「まあ普段からこんな感じで騒がしいんですけどね！ほな皆さんよろしゅう頼んます」
楽屋がにわかに笑いに包まれる中ヒギリも釣られて笑っていたが途端に驚愕の色に染まる。まさか先日運命的な出会いを果たしたエルッキとこんな仕事の場で再会すると思わなかったのだ。
緊張が解れて笑い始めた周りの女の子達は早速可愛い系で人懐こいエルッキと、少し頑固で取っ付きにくそうだが笑いに真面目でクールなピーターのどちらが魅力的かと色めきだつ。
どうしよう。どんな顔で彼と話そう。そう思いながら百面相をしていたヒギリの肩をつんつんと突いたのはエルッキだった。
「ローズちゃん、だっけ？」
「エ…エルッキさん…」
覚えてもらっては居たものの、やはりヒギリなんてわかりづらい方で無く耳障りの良いローズの方かと少しだけしゅんとなる。それでも、何の記憶にも残らないよりマシか。芸能人としても、一人の人間としても。
「一緒に共演する子の中に居ると思わんかったわー！あの時連絡先聞かれへんかったやん？ボク惜しい事したなー思ててん！」
「は、はぁ…」
「これ、ボクの連絡先！仕事始まる前に知り合えた子が居てくれてほんま頼もしいわー！ボクもうさっき緊張でゲボ出そうやってん」
「おい、お前女の子捕まえてゲボとか言うなや」
エルッキを連れ戻しにきたピーターが彼の首根っこを掴む。ヒギリが二人のやり取りに苦笑いを浮かべていると、「煩くてすまんな」とピーターは呟いた。
「一緒頑張ろなー！緊張してんの、ボクらも一緒やし大丈夫やでー
「おい、行くぞエルッキ」
「ピーターなんてさっきから良い歳してババちびりそうになってんねんて！」
「貴様大声で何晒しとんじゃダボがぁ！！」
女の子達の視線は痛い。痛いが、それよりもローズでなくヒギリの名を覚えていてくれた事がこんなにもドキドキするなんて。
ヒギリはぐっと握り拳を握ると、力強く前を向く。ローションでもロデオでも熱湯でも何でも来い。体張った笑いにうるさい東國由来の罰ゲーム、頑張って一身に受けてやろうじゃないか。
だから私の話じゃないんだけどね！
ヒギリはセットの隅で蹲っていた。恥ずかしくて悔しくてこのまま消えてしまいたい。そんな気持ちで蹲っていた。
その事件は、ロデオマシンで起きてしまった。
同じチームの仲間がクイズに挑戦し、答えられなければロデオマシンが作動。ロデオマシンに座る担当になった女の子がぶんぶん振り回され落ちてしまうと言うところまでがオチ。
ヒギリはロデオマシンに乗った。そして、手が滑り、振り回されると言う美味しい見せ場を殆ど見せられぬまま落ちてしまった。しかしそこで奇跡が起きる。落ちる際ジャージの裾が何処かに引っ掛かったのか、振り落とされたヒギリはその勢いで豪快にジャージが脱げてしまったのである。一応こう言う時の為にと買っておいた「おっさんタヌキ」と言う変な柄の見せる用のパンツだったし、ロデオマシンで振り回されると言う成果は残念ながら得られなかったが、落ちた際に変なパンツが丸見えになると言うオチは回収できた。
しかし安心出来たのも束の間、ヒギリの次に回答したチームはそんな事では終わらなかった。グラビアもこなす女の子で今日は水着で来ていたのだが、必死に掴まってぶんぶん振り回された末にブラ紐が外れると言うオチを掻っ攫って行った。
ヒギリが必死な思いで掴んだパンツのオチなど勿論霞んでしまう。下手をしたら彼女がメインで自分はダイジェストでしか使われない可能性が高い。そう思ったら悔しくて、あんなもんで頑張ったと思い込んでいた自分が恥ずかしくて。
ブラ紐が外れた女の子に皆が寄ってケアをしてあげている中、ヒギリは一人分からぬ様端っこに寄り膝を抱えていた。
「おい、何しとん？」
上から急に声が降って来たので顔を上げると、ピーターがヒギリの傍にいた。少し長めの黒髪が邪魔なのかサラリと手で払うと彼は再度ヒギリの顔を覗き込んだ。
「ピーターさん…」
「ああ、さっきパンツ丸見えんなった……誰やったっけ？エルッキは何か二つ名前呼んでたやん」
「ローズ・マリーです…エルッキさんは本名も知ってくれてるんで、それで呼んだんだと思います…」
「それ芸名なん？じゃあ、ローズ。こんなとこで何しとん？どっか痛めたか？」
「え？痛くないですけど…？」
「何キョトン顔で『痛くないですけど？』とか言うてんの。俺心配してわざわざ来てんからそこは素直にありがとうやろ」
「ご、ごめんなさい…」
「……女の子としちゃ恥ずかしかったかもしれんけど、正直編集する側やったらオチちゃんとくれるんはありがたい思うで？」
「え…？」
ツッコミ担当と言う事で多少言葉に勢いのあるピーターが掛けてくれたまさかの労いの言葉。ヒギリの顔に少しだけ安堵が戻ったものの、ピーターの更に続いた言葉にまた落ち込む事になった。
「まあ、その後に巨乳のポロリが続いたんはもう無理や」
「ああ……」
「これはもう最大級のオチやん。二段オチで一番のオチやん。女の子はそう言う武器も使えるから狡いで。まあ最近は放送倫理とか何やうるさいし地上波じゃあかんかもやけど。でも少なくとも需要のあるオチやん。水着の女の子に暴れるマシーン、誰もが「こうなるかも」って予想くらいはするオチやん。それ実行する度胸も力量も見せられたらそらまあ、落ち込むわな」
「え？あれアクシデントじゃないんですか…？」
「自然やしアクシデントっぽく見えたけどな、俺にも分からん。下手したらオチ掻っ攫う為にわざと紐緩めにして乗りに来てたかもしれん。あの子ビキニの下にニップレス入れててんて。美術さんとメイクさんが言うてたわ。つまり、そのオチ目指して準備万全にしてたってこっちゃ。予想外に体張ったオチ実行してくれてそんな気概の若手が居てくれたってプロデューサー大喜びやでほんま」
ヒギリの瞳がじわりと熱くなり涙がポロポロ溢れてくる。自分の悔しさをピーターが理解してくれていたのが少しだけ救いだった。
「あんたも頑張ったやん、その…キモブサイクなオッサンのパンツ…」
「キモブサイクて。どっちもマイナスな意味なんよ。せめてキモカワイイにして欲しい。しかもこれ…オッサンじゃなくてメインはタヌキのキャラだもん…」
「え？嘘やん？「何やあいつ嘘みたいにブサイクなオッサンのパンツ履いて」思って見てたわ。え？どこで買うたん？あんなパンツ。俺その店避けるから教えてくれ」
「…ディスカウントショップのバラエティ雑貨コーナーです…」
「…ちょっともっかい見せてくれや」
ヒギリがジャージを少しずらすと腰の辺りにブサイクなオッサンだかタヌキだかのプリントが顔を出し、更にその顔の下には「おっさんタヌキ」のロゴがさもお洒落なハイブランドの様に細い字で書かれていた。
「…あかん、否定したけどちょっとハマりそうやな。何やねんこのおっさんのじわじわくる顔」
「ピーターさん店避けるって言ったもん」
「うーん、考えが変わりそうや。いや、まだ避けるつもりやけどな。でも見れば見るほどこれ、ちょっとオモロいやんけ」
「……本当？」
「おう。ローズ、ようこんなん選んだなぁ」
そんなやり取りをしていると、大きな声を上げながらエルッキがピーターに突っ込んできた。
「ピーター！女の子のパンツ覗き込んで何しとん！？ヒギリちゃん平気！？これ以上何もされてない！？」
「エルッキさん…」
「アホ。これ以上も何も俺何もしてないわ。俺がこんなちんちくりんに何するんや」
「私ちんちくりんじゃないもん！」
「ほんならお前は「おもしろパンツ」や」
ピーターのその言葉にまた少し救われた気持ちでいたヒギリ。それ以上にキラキラした目でエルッキはヒギリを見ると、彼女の頭にポンポンと手を置いた。
「そうや！おもしろパンツ！ヒギリちゃんあれ最高やん！ボク一応ボケ担やのに映像に合わせた追加のツッコミ今収録してきてんで！？」
「え…？」
「ダイジェストみたく短く一場面だけで済まされる事、多分無いよ。ヒギリちゃんの映像に合わせて今めっちゃトーク入れて来てんから。珍しいボクのツッコミふんだんに入れててんからこれは丸々使ってもらわな困るわー！」
エルッキは更にヒギリの頭を撫でると彼女の目の前でぐっと親指を立てた。
「良い仕事したんやで！ヒギリちゃん！」
短くカットされて終わりだと思っていたのに。しっかりやり切った、と言うよりかは「何とかオチは作れたかも」でしか無かったそんな自分が恥ずかしかったのに。しかもそのオチももっと練られたオチに持っていかれてしまい遣る瀬無さを感じていたのに。
エルッキはそれらを全てその一言で吹き飛ばしてしまった。
「まあ、慢心はあかんで、おもしろパンツ」
「ピーターさん、私の事「おもしろパンツ」って呼ぼうとしてない？」
「それ良えやんピーター！ヒギリちゃんに「おもしろパンツ」のキャラ付けたら良えかもしれんなぁ！さっきの巨乳の可愛い子の前準備みたいにさ！美術さんに頼んでもっと変なパンツとか用意してもうて…そしたら今度水濡れ系もいけるかもやで！」
「水濡れ系…」
「ヒギリちゃんの出番と仕事が増えるって事や！」
「出番と仕事…？」
「せやな！ヒギリちゃんにしか出来ない、ヒギリちゃんだけの仕事かもしれへんよ？」
私にしか出来ない。
私だけの仕事。
「………身体張り系しか無いってそれはそれで嫌だなぁー…」
「アホ。役回りもらえるだけ感謝や」
「あははは！せやなー！女の子やしアイドルやし、それしか無いって嫌やねんなー！」
「エルッキ、お前は女に甘いねん」
「ちゃうやろ、ピーターが男女問わず笑う事にストイック過ぎなんやて」
「俺ら笑かすプロやし当然やろ。それに笑いは大病まで退けんねんで？拘らんと」
「ね？奥さんどないです？こんな旦那モラハラになりそうやない？笑いを強要するハラスメント…笑ハラとかあるかもしれんて」
「何でもかんでも縮めて略すな」
「え？何々？ピーター・アナセン略してピーセンが何か言うとるやん？」
「ふふふ…！ピーナッツせんべいみたいで美味しそうだね」
「お前は頭ん中食欲か」
エルッキの屈託ない笑顔をヒギリはぽーっと頬を染めながら見つめる。運命的に出会った彼が同じ職場で、しかもこうして自分のフォローもしてくれる。元気付けてくれる。
それはヒギリにとって初めて出会ったタイプの男性で、自信無く仕事をしていた彼女を後押ししてくれた存在でもあったので好意が友人のそれよりも突き抜けてしまうのは当然と言えば当然だった。
そしてそんなヒギリを、今度は複雑そうな顔でピーターが見つめていた。
* * *
『ヒギリちゃんお疲れ！八月の終わりに行く予定の打ち上げのお店そろそろ決めるってスタッフさんから連絡あったよ！お酒飲める人だっけ？お返事待ってます！』
「あ…エルッキさん…」
収録に慣れて来た頃は大体終わり際。
そしてそんな頃には片想いは加熱しているもの。
打ち上げが事実上の告白ラストチャンスだと思っていたヒギリにエルッキから連絡が入る。お酒を飲めるタイプが多いかどうかで店を選ぶのだろうか。ふとカレンダーに目をやり、打ち上げに行く頃には成人している事に気が付いた。その日がおそらく事実上の初飲酒となる。
「えっと……『実は八月の頭に誕生日を迎えて成人するんです。だから打ち上げがお酒解禁日になるかもしれません』」
そう送るとすぐに既読が付き、エルッキから返事が返って来た。
『まじか！おめでとう！無理しない様に楽しく飲んでね！じゃあお酒飲めるとこで大丈夫かな？』
そんな言葉がすぐスッと出て来る人、好きだなぁと思ってしまう。エルッキと知り合って数ヶ月。気付けばどっぷり彼に惹かれていた。
『はい！倒れない様に注意しながら飲みます！』
『ボク実はお酒あんま得意やないねん。ヒギリちゃんも初お酒ならソフドリも充実してるとこ選んでもらうねー！』
『ありがとうございます！』
エルッキはお酒が得意じゃない。
何か一つ彼の事を知るたびに嬉しくってつい笑みが溢れる。それは些細な事でも何でも良い。
そんな気持ちでヒギリの胸はいっぱいで、想いは溢れてしまいそうで。
「私…もうその頃には大人なんだよな…事務所も恋愛解禁して良いって言ってたし…」
ソフィアのソロ活動を加速させたかった事務所とマネージャーにとって他メンバーの恋愛沙汰など痛くも痒くもなかった。皮肉にもそれで許可が出たと言う喜んで良いのか悲しんで良いのか分からない事態ではあるのだが、今のヒギリからしたら「良いって言ったからね！」と言質を鬼の首を取った様に掲げたい程の気分ではあった。
「わ、私…頑張る…！大人の階段、頑張って昇る！！」
耳年増なヒギリは先に彼氏の出来たメンバーの惚気話を聞いていたのもあってすっかりその気になっていた。
彼女からしたら恋愛と言うのはどんなものより人に作用する薬の様な気がしたのだ。同じグループで普段はソフィアに追い付けず苛々し、ちょっとした事で度々喧嘩を勃発させていたメンバーが、彼とデートに行った翌日はいつも怒りの沸点がかなり高くなっていたのだ。人によるのだろうが、恋愛は人に心の余裕を与える。一体何がそんなにも満たされた思いに繋がるのか。それをヒギリも身をもって体感してみたかった。
そしてその相手が優しいエルッキだと良い。そんな風に思ったのだった。
『あの、打ち上げの日にちょっとお話ししたい事があるんですけど、お時間あったら聞いてくれますか？』
これだけでももう心臓がバクバクしてしまう。この言い方だけで分かる人には伝わってしまう気がするからだ。
返事を待つヒギリはドキドキしながら画面を見つめる。既読は付いたものの、先程の様なスピーディーさは無くヒギリは少し不安になった。
「あれ…？」
一時間、二時間経っても返事がない。
先程まで既読が付けば瞬時に返って来た返事が眠る頃になっても来なくなってしまった。
次の日、朝起きると一件メッセージが入っておりヒギリは飛び起きながらそれを開く。
『良えよ。時間あったらなー』
一晩時間が空いたにも関わらず、急にそんな短い返事が届きヒギリは困惑した。
「あれ…？」
しかし、返事が来たのは素直に嬉しいのでそれにまた更に返事を返す。
『ありがとうございます！お酒も初体験だしエルッキさんにも会えるし、打ち上げ今から楽しみです！』
しかし、その後エルッキから返事が来ない。
次に彼から返事が来たのはヒギリが返事を返してから優に一週間は経ってからであり、内容は『ボクもやで！』と言うたった一言だけであった。
* * *
「それでは改めまして！皆さんお疲れ様ですー！本当いっぱい勉強させていただきまして、ボクら『ラウル』結成して初めての経験ばっかでした！こんな大役務まるかな？思てたんですけど、皆さんのおかげで無事成し遂げられました！ボクほんま嬉しいです！」
「………」
打ち上げ当日。ヒギリは少し離れたところから乾杯の音頭を取るエルッキを見ていた。彼の隣にはピーターが、反対隣にはプロデューサーやスタッフが囲っている。もしかしたら隣に座れたりしないかな？と思っていたが、かなり離れたところで他のグループの女の子達と飲む事になった。救いだったのが同じテーブルの子達が割と話が合うタイプの子達だったと言う事だ。
「ローズちゃん！最初に頼んでたのジュースだったよねー！私達とお酒一緒に飲もうよ！何飲みたい？」
「実は私、先日成人したばっかりで…何選んだら良いか分からなくて…」
「え！？もしかしてお酒初めて！？大人おめでとー！お酒解禁おめでとー！」
「あ、ありがとうございます！」
「じゃあ最初は無理ない程度にしよー！ローズちゃん牛乳好き？」
「大好きです！」
「じゃあカルーアミルクとかどうかな？美味しく飲めると思うよ！あ、でも美味しくても絶対ちびちび飲んでね！ジュースみたいでもお酒だし、酔っちゃうから！」
「はい！ありがとうございます！」
これはこれでとても楽しい。けど、打ち上げも終わったら一緒に仕事をしていた時程エルッキと会えなくなってしまう。だから今日くらい、出来たら隣で飲みたかったのにな。
しかし、彼と一緒に飲んでいるのは見ている限りプロデューサー含むスタッフばかり。とりあえず抜け駆け染みた女の子が居ない事にほっとしつつ、これからも売れて行こうと思ったらスタッフさんに気に入られる事って大事だよなと自分を納得させる。これも打ち上げでお酒が飲める楽しい場とは言え人によっては仕事の一環なのだと思った。
「おい、おもしろパンツ。何をシケたツラしとんねん」
首筋にピタッと冷たいグラスが当たりヒギリは思わず声を上げた。少し赤い顔をしてエルッキとお揃いの一張羅のスーツを着込んだピーターが結露に濡れるグラスを片手にヒギリの後ろに立っていた。
「ピーターさん！」
「今日会いたかったんです！一緒に飲みましょうよー！」
なるほど、同じ席の子達はピーター推しだったか。黄色い悲鳴を上げて騒ぐ女の子達と一言二言会話を交わすとピーターはヒギリの隣にどかりと音を立てて座った。
「…何かピーターさん、赤い顔してますよ？」
「そらそうやろ、酒飲んでんねんから」
「何飲んでんですか？」
「俺は焼酎が好きやねん。お前それ何や？」
「カルーアミルクです」
「は？えらい赤ちゃんみたいな酒飲んでんのぉ。お前それ、酔われへんやろ」
「良いんです酔わなくて。それに、私今日お酒デビューだったし…」
だからエルッキに隣にいて欲しかった。
そう言い掛けた言葉を飲み込み、ちびちびカルーアを口に運ぶ。居た堪れなそうな顔をしたピーターはナッツを口に放り込むとヒギリの方をチラリと見た。
「…何や元気無いのぉ」
「そんな事ないもん…」
「エルッキと何やあったんか」
その名前を聞き、へにょりと眉を情けなく下げるヒギリ。ピーターは「あのダボが…」と呟くと視線をエルッキの方に向けた。当の本人は相変わらずスタッフに囲まれ、彼らにお酒を注いだり注がれたりしていた。
「お前…エルッキの事好きなんか？」
「………はい…」
「マジかよ」
「でも…今日話したい事があるって言ったら…メッセージとか少なくなっちゃって…寂しくて…」
「…はぁ…またやん、アイツ……。なぁ、おもしろ…いや、ローズ…」
「はい…？」
「あのな、エルッキはやめとけ」
真っ直ぐな瞳でピーターはそう言った。
さて、これが少女漫画ならここでピーターが「あいつやめて俺にしろよ」と言う展開を期待してしまうだろう。
これを読んでいる誰もがその展開に行くのが王道だと思っている筈だろうがしかし、男女の問題とは得てして王道を歩んでくれない事がままあるのだ。
「あいつアホやねん」
「は？」
「あいつむっちゃ素直やねん」
「は？」
「あいつマジで距離感地元のオバハンやねん」
「は？」
「あいつの距離感それで正しいと思てて数年前からバグりっぱなしやねん」
「は？」
「あいつ地元に彼女おんねん」
「は？……はぁ！！？」
「それであのバグりっぷりやねん。せやけどあいつ、あれで下心ないねん。あいつ底無しに優しい奴やで。でもな、無節操な優しいって、つまりはそう言う事やねん」
無節操に優しい。そして素直でアホで、誰にでも可愛がられる。人の気持ちが分かり良い気分にさせてあげたいと思うから優しい言葉も掛けられる。笑わせたいとも思って和ませる雰囲気を作れる。人と距離を詰めるのも得意。良い言葉をかけてくれるから居心地が良くて皆彼に集まる。しかし、つまりそれは特別な人かどうか関係なく、誰に対してもしてしまうと言う事らしい。
「優しい、懐きやすい、懐かれやすい、人を呼びやすい、何故か打ち解ける能力が高い。あいつの最大の長所であり悲しいかな短所やねん。それ無くしたらあいつはあいつや無くなるから、治せってよう言えん短所やねん。片想いされてるって察した時、あいつ「そもそもとして相手に告白させない」しか方法知らんねん。でもそれはお前納得しやんやろ？だからそう言う事なら前にもあったから、一応言っとこう思ててん」
「え？え？ちょっと待ってよ。ピーターさん、分かってて何で止めてくれんのかね…？」
「いや、これで本当にエルッキもローズの事好きになったんならそれはそれで運命やと思ったから放置してん」
「え！？だって、彼女さんは！？」
「彼女おる、言うても正直もう惰性やねん。年上で大人の女の人でなー。こっちで女作ろうが何しようが構わんのやと。今は地元帰った時宿借りるくらいか？新しく女作るならそん時別れるってくらい今フランクやねんて」
「マジかよ」
「ちなみに地元でスナック経営してる三十七歳のお姉様や」
「マジかよ！！」
酒も回って呆ける頭では今の状況をうまく噛み砕くのが難しい。ヒギリはくらくらする頭を何とか奮うとやっと絞り出す様に口にした。
「ピーターさんはエルッキさんに何で「そもそもとして相手に告白させない」って方法以外を教えてやらんのかね…？」
「読み取るのがムズイねんな…女がエルッキに片想いしてて且つエルッキに脈がないなんて俺そいつら本人とちゃうし分かるわけないやろ」
なるほどそりゃそうだ。
「それに、俺もその方法以外女を諦めさせる方法知らんねん」
はぁ！？しれっと言うなよ恋愛偏差値Fランがぁぁぁぁぁぁあ！！
とは言えず。
しかしヒギリは段々モヤモヤして来た。
三十七歳の年上彼女、しかし惰性で帰郷時に宿借りる程度ってそれは最早保護者なんではなかろうか、そして色々言う割にはピーターはピーターでこれだけ色々見てる割に上手い立ち回り知らないし何だこの二人振り回されてる自分に段々腹が立って来た。
「……ちっ…」
アイドルらしからぬ舌打ちを一つ。ヒギリはピーターの手から焼酎のグラスをぶんどった。
「あ！お前何すんねん！」
「止めるなぁぁぁぁぁぁぁあっ！飲んでやるぅぅぅぅぅう！！」
「アホ！お前それ間接ちっすになるやないか！やめとけ！俺はそう言うの大事にするタイプやねんぞ！！」
「そんな情報知るか！！って言うかピーターさん「間接ちっす」って何！？何で言い方ちょっとおじさんくさいの！？」
そしてそのままの勢いでピーターの酒を一気に流し込んだのだった。
「って言うか、「俺はそう言うの大事にする」なんて私聞いてないから知らないもんね！一回でもそう言う事言った！？」
「番組やる時に簡単なプロフィール書かされたやんけ！お前あれ読んでへんな！？共演者のその辺把握せんとトークで魅せる仕事が務まるかいな！？」
「うわぁぁあ！ごめんなさぁぁあいっ！急に本職としての正論ぶつけないでよぉぉぉ！」
と、言いながら一応気になったのでグビグビと残ったカルーアミルクを最早水の様に飲みながら端末を起動、出演者のみ見られる共演者情報を開くとピーターのページを開いた。確かに彼のページには「大事にしたい事が多いのでプライベートで恋愛は意図的に奥手にしています。なので恋愛系のトークを振られても答えられないので返答がワンパターンになってしまいます」と丁寧に書かれていた。しかし、ヒギリが気になったのはその下の「悩んでいる事」の項目だった。
ピーター・アナセン。悩んでいる事は「二十三歳現在、まだ童貞な事」。
ピーター・アナセン。悩んでいる事は「二十三歳現在、まだ童貞な事」。
「拘りと悩みが歪な同居してるんよぉぉぉぉぉお！！！奥手で大事にしたいのか早く卒業したいのかどっちじゃい！！！？」
ぶんっ！！と音を立てて振りかぶり端末を野球ピッチャーの如く放り投げる。余談だがこの日ヒギリの端末は買い換えねばならない程のダメージを受けた。
「俺も板挟みで悩んどんねん！！」
「だから私が知るかってピーターさんのそんな事！！」
アホらしい。本当アホらしい。私何やってんだろ。ああーむしゃくしゃして来た。
気付くとヒギリは女の子達が引く中ジョッキで届けられた誰が頼んだか分からないビールまで勝手に飲み干し、赤く出来上がった顔のまま手を上げて高らかに宣言した。
「ヒギリ・モナルダ十八歳！今から芸人さんのモノマネメドレーやります！！」
その声にプロデューサー達は何だ何だとヒギリに注目する。結果としてヒギリの体を張ったモノマネはこの場でウケとドン引きと両方上手い事引き出したと言うのは言うまでもないが、同時にヒギリの中でこの出来事が「無理をしてでも忘れたい思い出」堂々の一位になったのも言うまでもない。
「お前芸名ローズ・マリーやんけ…」
ヒギリの飲み干した焼酎のグラスを行き場もなく手に待ち、じっと見つめながらピーターは珍しく静かにツッコミを入れた。
その後、誰がメディアで話し始めたかと言うとまあ十中八九一番ウケていたピーターだろうがそのせいでこの話は「ラウル」の持ちトークの鉄板話の一つになってしまう。「数年前某アイドルグループの子と飲み行ったんすよー」から始まるトーク、少し誇張されてはいるが概ね間違っていないのでこれはヒギリの事であるとされる。女の子の正体は誰だ？と言う見出しで週刊誌に載った上後にネットで流出した際話に尾鰭が付きまくり、おそらく「ディーヴァ×クアエダム」メンバーがやらかした騒動であると特定したソフィア過激派によって「その場に居たソフィアは皆が引きまくる中一人大爆笑でその子を持ち上げていた」とさも現場にソフィアが居たかの様なソフィアの性格の良さを持ち上げる噂として広められており詳しい真実は最早ヒギリのみぞ知る。
そしてヒギリはふわふわした明るい髪と黒髪ストレートにスーツな風貌に一時トラウマを持ったのだった。
その事件は、ロデオマシンで起きてしまった。
同じチームの仲間がクイズに挑戦し、答えられなければロデオマシンが作動。ロデオマシンに座る担当になった女の子がぶんぶん振り回され落ちてしまうと言うところまでがオチ。
ヒギリはロデオマシンに乗った。そして、手が滑り、振り回されると言う美味しい見せ場を殆ど見せられぬまま落ちてしまった。しかしそこで奇跡が起きる。落ちる際ジャージの裾が何処かに引っ掛かったのか、振り落とされたヒギリはその勢いで豪快にジャージが脱げてしまったのである。一応こう言う時の為にと買っておいた「おっさんタヌキ」と言う変な柄の見せる用のパンツだったし、ロデオマシンで振り回されると言う成果は残念ながら得られなかったが、落ちた際に変なパンツが丸見えになると言うオチは回収できた。
しかし安心出来たのも束の間、ヒギリの次に回答したチームはそんな事では終わらなかった。グラビアもこなす女の子で今日は水着で来ていたのだが、必死に掴まってぶんぶん振り回された末にブラ紐が外れると言うオチを掻っ攫って行った。
ヒギリが必死な思いで掴んだパンツのオチなど勿論霞んでしまう。下手をしたら彼女がメインで自分はダイジェストでしか使われない可能性が高い。そう思ったら悔しくて、あんなもんで頑張ったと思い込んでいた自分が恥ずかしくて。
ブラ紐が外れた女の子に皆が寄ってケアをしてあげている中、ヒギリは一人分からぬ様端っこに寄り膝を抱えていた。
「おい、何しとん？」
上から急に声が降って来たので顔を上げると、ピーターがヒギリの傍にいた。少し長めの黒髪が邪魔なのかサラリと手で払うと彼は再度ヒギリの顔を覗き込んだ。
「ピーターさん…」
「ああ、さっきパンツ丸見えんなった……誰やったっけ？エルッキは何か二つ名前呼んでたやん」
「ローズ・マリーです…エルッキさんは本名も知ってくれてるんで、それで呼んだんだと思います…」
「それ芸名なん？じゃあ、ローズ。こんなとこで何しとん？どっか痛めたか？」
「え？痛くないですけど…？」
「何キョトン顔で『痛くないですけど？』とか言うてんの。俺心配してわざわざ来てんからそこは素直にありがとうやろ」
「ご、ごめんなさい…」
「……女の子としちゃ恥ずかしかったかもしれんけど、正直編集する側やったらオチちゃんとくれるんはありがたい思うで？」
「え…？」
ツッコミ担当と言う事で多少言葉に勢いのあるピーターが掛けてくれたまさかの労いの言葉。ヒギリの顔に少しだけ安堵が戻ったものの、ピーターの更に続いた言葉にまた落ち込む事になった。
「まあ、その後に巨乳のポロリが続いたんはもう無理や」
「ああ……」
「これはもう最大級のオチやん。二段オチで一番のオチやん。女の子はそう言う武器も使えるから狡いで。まあ最近は放送倫理とか何やうるさいし地上波じゃあかんかもやけど。でも少なくとも需要のあるオチやん。水着の女の子に暴れるマシーン、誰もが「こうなるかも」って予想くらいはするオチやん。それ実行する度胸も力量も見せられたらそらまあ、落ち込むわな」
「え？あれアクシデントじゃないんですか…？」
「自然やしアクシデントっぽく見えたけどな、俺にも分からん。下手したらオチ掻っ攫う為にわざと紐緩めにして乗りに来てたかもしれん。あの子ビキニの下にニップレス入れててんて。美術さんとメイクさんが言うてたわ。つまり、そのオチ目指して準備万全にしてたってこっちゃ。予想外に体張ったオチ実行してくれてそんな気概の若手が居てくれたってプロデューサー大喜びやでほんま」
ヒギリの瞳がじわりと熱くなり涙がポロポロ溢れてくる。自分の悔しさをピーターが理解してくれていたのが少しだけ救いだった。
「あんたも頑張ったやん、その…キモブサイクなオッサンのパンツ…」
「キモブサイクて。どっちもマイナスな意味なんよ。せめてキモカワイイにして欲しい。しかもこれ…オッサンじゃなくてメインはタヌキのキャラだもん…」
「え？嘘やん？「何やあいつ嘘みたいにブサイクなオッサンのパンツ履いて」思って見てたわ。え？どこで買うたん？あんなパンツ。俺その店避けるから教えてくれ」
「…ディスカウントショップのバラエティ雑貨コーナーです…」
「…ちょっともっかい見せてくれや」
ヒギリがジャージを少しずらすと腰の辺りにブサイクなオッサンだかタヌキだかのプリントが顔を出し、更にその顔の下には「おっさんタヌキ」のロゴがさもお洒落なハイブランドの様に細い字で書かれていた。
「…あかん、否定したけどちょっとハマりそうやな。何やねんこのおっさんのじわじわくる顔」
「ピーターさん店避けるって言ったもん」
「うーん、考えが変わりそうや。いや、まだ避けるつもりやけどな。でも見れば見るほどこれ、ちょっとオモロいやんけ」
「……本当？」
「おう。ローズ、ようこんなん選んだなぁ」
そんなやり取りをしていると、大きな声を上げながらエルッキがピーターに突っ込んできた。
「ピーター！女の子のパンツ覗き込んで何しとん！？ヒギリちゃん平気！？これ以上何もされてない！？」
「エルッキさん…」
「アホ。これ以上も何も俺何もしてないわ。俺がこんなちんちくりんに何するんや」
「私ちんちくりんじゃないもん！」
「ほんならお前は「おもしろパンツ」や」
ピーターのその言葉にまた少し救われた気持ちでいたヒギリ。それ以上にキラキラした目でエルッキはヒギリを見ると、彼女の頭にポンポンと手を置いた。
「そうや！おもしろパンツ！ヒギリちゃんあれ最高やん！ボク一応ボケ担やのに映像に合わせた追加のツッコミ今収録してきてんで！？」
「え…？」
「ダイジェストみたく短く一場面だけで済まされる事、多分無いよ。ヒギリちゃんの映像に合わせて今めっちゃトーク入れて来てんから。珍しいボクのツッコミふんだんに入れててんからこれは丸々使ってもらわな困るわー！」
エルッキは更にヒギリの頭を撫でると彼女の目の前でぐっと親指を立てた。
「良い仕事したんやで！ヒギリちゃん！」
短くカットされて終わりだと思っていたのに。しっかりやり切った、と言うよりかは「何とかオチは作れたかも」でしか無かったそんな自分が恥ずかしかったのに。しかもそのオチももっと練られたオチに持っていかれてしまい遣る瀬無さを感じていたのに。
エルッキはそれらを全てその一言で吹き飛ばしてしまった。
「まあ、慢心はあかんで、おもしろパンツ」
「ピーターさん、私の事「おもしろパンツ」って呼ぼうとしてない？」
「それ良えやんピーター！ヒギリちゃんに「おもしろパンツ」のキャラ付けたら良えかもしれんなぁ！さっきの巨乳の可愛い子の前準備みたいにさ！美術さんに頼んでもっと変なパンツとか用意してもうて…そしたら今度水濡れ系もいけるかもやで！」
「水濡れ系…」
「ヒギリちゃんの出番と仕事が増えるって事や！」
「出番と仕事…？」
「せやな！ヒギリちゃんにしか出来ない、ヒギリちゃんだけの仕事かもしれへんよ？」
私にしか出来ない。
私だけの仕事。
「………身体張り系しか無いってそれはそれで嫌だなぁー…」
「アホ。役回りもらえるだけ感謝や」
「あははは！せやなー！女の子やしアイドルやし、それしか無いって嫌やねんなー！」
「エルッキ、お前は女に甘いねん」
「ちゃうやろ、ピーターが男女問わず笑う事にストイック過ぎなんやて」
「俺ら笑かすプロやし当然やろ。それに笑いは大病まで退けんねんで？拘らんと」
「ね？奥さんどないです？こんな旦那モラハラになりそうやない？笑いを強要するハラスメント…笑ハラとかあるかもしれんて」
「何でもかんでも縮めて略すな」
「え？何々？ピーター・アナセン略してピーセンが何か言うとるやん？」
「ふふふ…！ピーナッツせんべいみたいで美味しそうだね」
「お前は頭ん中食欲か」
エルッキの屈託ない笑顔をヒギリはぽーっと頬を染めながら見つめる。運命的に出会った彼が同じ職場で、しかもこうして自分のフォローもしてくれる。元気付けてくれる。
それはヒギリにとって初めて出会ったタイプの男性で、自信無く仕事をしていた彼女を後押ししてくれた存在でもあったので好意が友人のそれよりも突き抜けてしまうのは当然と言えば当然だった。
そしてそんなヒギリを、今度は複雑そうな顔でピーターが見つめていた。
* * *
『ヒギリちゃんお疲れ！八月の終わりに行く予定の打ち上げのお店そろそろ決めるってスタッフさんから連絡あったよ！お酒飲める人だっけ？お返事待ってます！』
「あ…エルッキさん…」
収録に慣れて来た頃は大体終わり際。
そしてそんな頃には片想いは加熱しているもの。
打ち上げが事実上の告白ラストチャンスだと思っていたヒギリにエルッキから連絡が入る。お酒を飲めるタイプが多いかどうかで店を選ぶのだろうか。ふとカレンダーに目をやり、打ち上げに行く頃には成人している事に気が付いた。その日がおそらく事実上の初飲酒となる。
「えっと……『実は八月の頭に誕生日を迎えて成人するんです。だから打ち上げがお酒解禁日になるかもしれません』」
そう送るとすぐに既読が付き、エルッキから返事が返って来た。
『まじか！おめでとう！無理しない様に楽しく飲んでね！じゃあお酒飲めるとこで大丈夫かな？』
そんな言葉がすぐスッと出て来る人、好きだなぁと思ってしまう。エルッキと知り合って数ヶ月。気付けばどっぷり彼に惹かれていた。
『はい！倒れない様に注意しながら飲みます！』
『ボク実はお酒あんま得意やないねん。ヒギリちゃんも初お酒ならソフドリも充実してるとこ選んでもらうねー！』
『ありがとうございます！』
エルッキはお酒が得意じゃない。
何か一つ彼の事を知るたびに嬉しくってつい笑みが溢れる。それは些細な事でも何でも良い。
そんな気持ちでヒギリの胸はいっぱいで、想いは溢れてしまいそうで。
「私…もうその頃には大人なんだよな…事務所も恋愛解禁して良いって言ってたし…」
ソフィアのソロ活動を加速させたかった事務所とマネージャーにとって他メンバーの恋愛沙汰など痛くも痒くもなかった。皮肉にもそれで許可が出たと言う喜んで良いのか悲しんで良いのか分からない事態ではあるのだが、今のヒギリからしたら「良いって言ったからね！」と言質を鬼の首を取った様に掲げたい程の気分ではあった。
「わ、私…頑張る…！大人の階段、頑張って昇る！！」
耳年増なヒギリは先に彼氏の出来たメンバーの惚気話を聞いていたのもあってすっかりその気になっていた。
彼女からしたら恋愛と言うのはどんなものより人に作用する薬の様な気がしたのだ。同じグループで普段はソフィアに追い付けず苛々し、ちょっとした事で度々喧嘩を勃発させていたメンバーが、彼とデートに行った翌日はいつも怒りの沸点がかなり高くなっていたのだ。人によるのだろうが、恋愛は人に心の余裕を与える。一体何がそんなにも満たされた思いに繋がるのか。それをヒギリも身をもって体感してみたかった。
そしてその相手が優しいエルッキだと良い。そんな風に思ったのだった。
『あの、打ち上げの日にちょっとお話ししたい事があるんですけど、お時間あったら聞いてくれますか？』
これだけでももう心臓がバクバクしてしまう。この言い方だけで分かる人には伝わってしまう気がするからだ。
返事を待つヒギリはドキドキしながら画面を見つめる。既読は付いたものの、先程の様なスピーディーさは無くヒギリは少し不安になった。
「あれ…？」
一時間、二時間経っても返事がない。
先程まで既読が付けば瞬時に返って来た返事が眠る頃になっても来なくなってしまった。
次の日、朝起きると一件メッセージが入っておりヒギリは飛び起きながらそれを開く。
『良えよ。時間あったらなー』
一晩時間が空いたにも関わらず、急にそんな短い返事が届きヒギリは困惑した。
「あれ…？」
しかし、返事が来たのは素直に嬉しいのでそれにまた更に返事を返す。
『ありがとうございます！お酒も初体験だしエルッキさんにも会えるし、打ち上げ今から楽しみです！』
しかし、その後エルッキから返事が来ない。
次に彼から返事が来たのはヒギリが返事を返してから優に一週間は経ってからであり、内容は『ボクもやで！』と言うたった一言だけであった。
* * *
「それでは改めまして！皆さんお疲れ様ですー！本当いっぱい勉強させていただきまして、ボクら『ラウル』結成して初めての経験ばっかでした！こんな大役務まるかな？思てたんですけど、皆さんのおかげで無事成し遂げられました！ボクほんま嬉しいです！」
「………」
打ち上げ当日。ヒギリは少し離れたところから乾杯の音頭を取るエルッキを見ていた。彼の隣にはピーターが、反対隣にはプロデューサーやスタッフが囲っている。もしかしたら隣に座れたりしないかな？と思っていたが、かなり離れたところで他のグループの女の子達と飲む事になった。救いだったのが同じテーブルの子達が割と話が合うタイプの子達だったと言う事だ。
「ローズちゃん！最初に頼んでたのジュースだったよねー！私達とお酒一緒に飲もうよ！何飲みたい？」
「実は私、先日成人したばっかりで…何選んだら良いか分からなくて…」
「え！？もしかしてお酒初めて！？大人おめでとー！お酒解禁おめでとー！」
「あ、ありがとうございます！」
「じゃあ最初は無理ない程度にしよー！ローズちゃん牛乳好き？」
「大好きです！」
「じゃあカルーアミルクとかどうかな？美味しく飲めると思うよ！あ、でも美味しくても絶対ちびちび飲んでね！ジュースみたいでもお酒だし、酔っちゃうから！」
「はい！ありがとうございます！」
これはこれでとても楽しい。けど、打ち上げも終わったら一緒に仕事をしていた時程エルッキと会えなくなってしまう。だから今日くらい、出来たら隣で飲みたかったのにな。
しかし、彼と一緒に飲んでいるのは見ている限りプロデューサー含むスタッフばかり。とりあえず抜け駆け染みた女の子が居ない事にほっとしつつ、これからも売れて行こうと思ったらスタッフさんに気に入られる事って大事だよなと自分を納得させる。これも打ち上げでお酒が飲める楽しい場とは言え人によっては仕事の一環なのだと思った。
「おい、おもしろパンツ。何をシケたツラしとんねん」
首筋にピタッと冷たいグラスが当たりヒギリは思わず声を上げた。少し赤い顔をしてエルッキとお揃いの一張羅のスーツを着込んだピーターが結露に濡れるグラスを片手にヒギリの後ろに立っていた。
「ピーターさん！」
「今日会いたかったんです！一緒に飲みましょうよー！」
なるほど、同じ席の子達はピーター推しだったか。黄色い悲鳴を上げて騒ぐ女の子達と一言二言会話を交わすとピーターはヒギリの隣にどかりと音を立てて座った。
「…何かピーターさん、赤い顔してますよ？」
「そらそうやろ、酒飲んでんねんから」
「何飲んでんですか？」
「俺は焼酎が好きやねん。お前それ何や？」
「カルーアミルクです」
「は？えらい赤ちゃんみたいな酒飲んでんのぉ。お前それ、酔われへんやろ」
「良いんです酔わなくて。それに、私今日お酒デビューだったし…」
だからエルッキに隣にいて欲しかった。
そう言い掛けた言葉を飲み込み、ちびちびカルーアを口に運ぶ。居た堪れなそうな顔をしたピーターはナッツを口に放り込むとヒギリの方をチラリと見た。
「…何や元気無いのぉ」
「そんな事ないもん…」
「エルッキと何やあったんか」
その名前を聞き、へにょりと眉を情けなく下げるヒギリ。ピーターは「あのダボが…」と呟くと視線をエルッキの方に向けた。当の本人は相変わらずスタッフに囲まれ、彼らにお酒を注いだり注がれたりしていた。
「お前…エルッキの事好きなんか？」
「………はい…」
「マジかよ」
「でも…今日話したい事があるって言ったら…メッセージとか少なくなっちゃって…寂しくて…」
「…はぁ…またやん、アイツ……。なぁ、おもしろ…いや、ローズ…」
「はい…？」
「あのな、エルッキはやめとけ」
真っ直ぐな瞳でピーターはそう言った。
さて、これが少女漫画ならここでピーターが「あいつやめて俺にしろよ」と言う展開を期待してしまうだろう。
これを読んでいる誰もがその展開に行くのが王道だと思っている筈だろうがしかし、男女の問題とは得てして王道を歩んでくれない事がままあるのだ。
「あいつアホやねん」
「は？」
「あいつむっちゃ素直やねん」
「は？」
「あいつマジで距離感地元のオバハンやねん」
「は？」
「あいつの距離感それで正しいと思てて数年前からバグりっぱなしやねん」
「は？」
「あいつ地元に彼女おんねん」
「は？……はぁ！！？」
「それであのバグりっぷりやねん。せやけどあいつ、あれで下心ないねん。あいつ底無しに優しい奴やで。でもな、無節操な優しいって、つまりはそう言う事やねん」
無節操に優しい。そして素直でアホで、誰にでも可愛がられる。人の気持ちが分かり良い気分にさせてあげたいと思うから優しい言葉も掛けられる。笑わせたいとも思って和ませる雰囲気を作れる。人と距離を詰めるのも得意。良い言葉をかけてくれるから居心地が良くて皆彼に集まる。しかし、つまりそれは特別な人かどうか関係なく、誰に対してもしてしまうと言う事らしい。
「優しい、懐きやすい、懐かれやすい、人を呼びやすい、何故か打ち解ける能力が高い。あいつの最大の長所であり悲しいかな短所やねん。それ無くしたらあいつはあいつや無くなるから、治せってよう言えん短所やねん。片想いされてるって察した時、あいつ「そもそもとして相手に告白させない」しか方法知らんねん。でもそれはお前納得しやんやろ？だからそう言う事なら前にもあったから、一応言っとこう思ててん」
「え？え？ちょっと待ってよ。ピーターさん、分かってて何で止めてくれんのかね…？」
「いや、これで本当にエルッキもローズの事好きになったんならそれはそれで運命やと思ったから放置してん」
「え！？だって、彼女さんは！？」
「彼女おる、言うても正直もう惰性やねん。年上で大人の女の人でなー。こっちで女作ろうが何しようが構わんのやと。今は地元帰った時宿借りるくらいか？新しく女作るならそん時別れるってくらい今フランクやねんて」
「マジかよ」
「ちなみに地元でスナック経営してる三十七歳のお姉様や」
「マジかよ！！」
酒も回って呆ける頭では今の状況をうまく噛み砕くのが難しい。ヒギリはくらくらする頭を何とか奮うとやっと絞り出す様に口にした。
「ピーターさんはエルッキさんに何で「そもそもとして相手に告白させない」って方法以外を教えてやらんのかね…？」
「読み取るのがムズイねんな…女がエルッキに片想いしてて且つエルッキに脈がないなんて俺そいつら本人とちゃうし分かるわけないやろ」
なるほどそりゃそうだ。
「それに、俺もその方法以外女を諦めさせる方法知らんねん」
はぁ！？しれっと言うなよ恋愛偏差値Fランがぁぁぁぁぁぁあ！！
とは言えず。
しかしヒギリは段々モヤモヤして来た。
三十七歳の年上彼女、しかし惰性で帰郷時に宿借りる程度ってそれは最早保護者なんではなかろうか、そして色々言う割にはピーターはピーターでこれだけ色々見てる割に上手い立ち回り知らないし何だこの二人振り回されてる自分に段々腹が立って来た。
「……ちっ…」
アイドルらしからぬ舌打ちを一つ。ヒギリはピーターの手から焼酎のグラスをぶんどった。
「あ！お前何すんねん！」
「止めるなぁぁぁぁぁぁぁあっ！飲んでやるぅぅぅぅぅう！！」
「アホ！お前それ間接ちっすになるやないか！やめとけ！俺はそう言うの大事にするタイプやねんぞ！！」
「そんな情報知るか！！って言うかピーターさん「間接ちっす」って何！？何で言い方ちょっとおじさんくさいの！？」
そしてそのままの勢いでピーターの酒を一気に流し込んだのだった。
「って言うか、「俺はそう言うの大事にする」なんて私聞いてないから知らないもんね！一回でもそう言う事言った！？」
「番組やる時に簡単なプロフィール書かされたやんけ！お前あれ読んでへんな！？共演者のその辺把握せんとトークで魅せる仕事が務まるかいな！？」
「うわぁぁあ！ごめんなさぁぁあいっ！急に本職としての正論ぶつけないでよぉぉぉ！」
と、言いながら一応気になったのでグビグビと残ったカルーアミルクを最早水の様に飲みながら端末を起動、出演者のみ見られる共演者情報を開くとピーターのページを開いた。確かに彼のページには「大事にしたい事が多いのでプライベートで恋愛は意図的に奥手にしています。なので恋愛系のトークを振られても答えられないので返答がワンパターンになってしまいます」と丁寧に書かれていた。しかし、ヒギリが気になったのはその下の「悩んでいる事」の項目だった。
ピーター・アナセン。悩んでいる事は「二十三歳現在、まだ童貞な事」。
ピーター・アナセン。悩んでいる事は「二十三歳現在、まだ童貞な事」。
「拘りと悩みが歪な同居してるんよぉぉぉぉぉお！！！奥手で大事にしたいのか早く卒業したいのかどっちじゃい！！！？」
ぶんっ！！と音を立てて振りかぶり端末を野球ピッチャーの如く放り投げる。余談だがこの日ヒギリの端末は買い換えねばならない程のダメージを受けた。
「俺も板挟みで悩んどんねん！！」
「だから私が知るかってピーターさんのそんな事！！」
アホらしい。本当アホらしい。私何やってんだろ。ああーむしゃくしゃして来た。
気付くとヒギリは女の子達が引く中ジョッキで届けられた誰が頼んだか分からないビールまで勝手に飲み干し、赤く出来上がった顔のまま手を上げて高らかに宣言した。
「ヒギリ・モナルダ十八歳！今から芸人さんのモノマネメドレーやります！！」
その声にプロデューサー達は何だ何だとヒギリに注目する。結果としてヒギリの体を張ったモノマネはこの場でウケとドン引きと両方上手い事引き出したと言うのは言うまでもないが、同時にヒギリの中でこの出来事が「無理をしてでも忘れたい思い出」堂々の一位になったのも言うまでもない。
「お前芸名ローズ・マリーやんけ…」
ヒギリの飲み干した焼酎のグラスを行き場もなく手に待ち、じっと見つめながらピーターは珍しく静かにツッコミを入れた。
その後、誰がメディアで話し始めたかと言うとまあ十中八九一番ウケていたピーターだろうがそのせいでこの話は「ラウル」の持ちトークの鉄板話の一つになってしまう。「数年前某アイドルグループの子と飲み行ったんすよー」から始まるトーク、少し誇張されてはいるが概ね間違っていないのでこれはヒギリの事であるとされる。女の子の正体は誰だ？と言う見出しで週刊誌に載った上後にネットで流出した際話に尾鰭が付きまくり、おそらく「ディーヴァ×クアエダム」メンバーがやらかした騒動であると特定したソフィア過激派によって「その場に居たソフィアは皆が引きまくる中一人大爆笑でその子を持ち上げていた」とさも現場にソフィアが居たかの様なソフィアの性格の良さを持ち上げる噂として広められており詳しい真実は最早ヒギリのみぞ知る。
そしてヒギリはふわふわした明るい髪と黒髪ストレートにスーツな風貌に一時トラウマを持ったのだった。
して、男性陣の反応は？
「うん……」
エミールは赤スープの最後の一口を飲み干すとかちゃりと音を立ててスプーンをトレーに置く。
そしてナプキンで口を拭うとにこりと微笑んだ。
「なるほど、男同士の友情を見せ付けられちゃったんですねぇー、いやぁ一本取られましたね」
「ねぇ何をどう好意的に見ればそんな話に見えるの！？エミールさん！！」
ヒギリの必死な顔とエミールの仏の笑みの温度差が激し過ぎてテオフィルスはガクンッとバランスを崩した。
しかし、申し訳ないが自分も男側から見た一意見としてあまりそのエルッキとやらを悪く言おうとは思えない。おそらくエルッキは本当に優しい奴なのだろう。取った行動としては大変不器用だし不義理を働いたなとは思う。しかし自分がその気もないのに変に相手に気を持たせた事が申し訳なくて、距離を空けて無かった事にするのが彼にとって一番最善でありそれしかやりようが無いのだろう。
彼はおそらく、面と向かって断る事でヒギリの傷付いた顔を見るのが嫌だったのだ。優しい奴が一番取りがちな残酷な行動。大手を振ってそのやり方が「正しい」とは勿論言えないが、おそらくこう言う心理から取ってしまった行動だと思うと「間違い」と責める事も難しい。
しかし、やられた側としては勿論たまったものじゃ無いのだろうとも思う。
「おそらく彼は、面と向かって断る事でヒギリさんのお友達さんの傷付いた顔を見るのが嫌だったのでしょうね。優しい方がよく取りがちな、間違いとも正解とも言いにくい判断です」
「でも、わた……そ、その子はすっごいやるせない気持ちになったって…」
「そうですね。しかし、しっかりお断りされてしまったと言う経験はせずに済んだと言う事もまたこの場合言えてしまうんです。私はお友達さんでは無いですし、お友達さんも結果としてその運命は避けられたわけですが本当にしっかりフラれていた場合どれだけショックを負うかは分かりませんからね。そのエルッキさんを見ていたピーターさんもエルッキさんの性質を愛して居るでしょうし、お仕事柄彼の優しさは必要でもあったのでしょう。そしてピーターさん自身が双方納得出来る様な対処法を知らなかった」
「うーん…」
「まあ、結局この状況を繰り返しているとなれば、彼らが詰めが甘くそう言う意味で未熟者であるとは言わざるをえませんね」
「だよね！？あのサルミアッキ野郎！！」
「けれど、もしかしたらこれが本当に最善かも分かりません。人の好意を受け入れずお返しすると言う状況で誰も傷付けずに話を終えるなんて事は出来ませんからね」
「うっ……」
チラリとヒギリの視線がテオフィルスの方を向いた。当たり前だがおそらくヒギリは傷付いた思い出に対する全肯定が欲しかったのだろう。完全な同意が欲しかったのだろう。しかし、男側の意見の仕方しか出せないテオフィルスも立場上どうしても中立を貫きたがるエミールも彼女を満足させる言葉を掛けることが出来なかった。
「あー…まさかそれでヒギリちゃん…」
納得した様にそう口にするテオフィルス。思い返せば、初めて自分達が顔を合わせた時、可愛らしくふわふわした印象のタイガに対して特に関心めいた目を向けなかったのは多分、タイガがエルッキに似ていたからであろう。その後、彼は諸々の偶然が重なり「モナちゃん」と呼べるまで距離を縮める事ができた訳だが、最初こそよそよそしかった理由がこれでは無いかと検討が付きテオフィルスは頷いた。
そう言えばロードと昼食の時間が被った時も傍で見ていたが、ヒギリは割と女性ウケの良い彼に対しても無関心な目を向けていた事を思い出した。
タイガはふわふわした感じがエルッキに、ロードは黒髪でスーツなところがピーターに各々似ていたのだろう。
しかし、そう言えば前線駆除班のエリックの名前はエルッキに少し似ている。そしてテオフィルスの女性に甘い面もヒギリは知っている。つまりエルッキを想起させるものが嫌と言うレベルでの嫌悪を今は持っていないので、ロードに対してもタイガに対しても最初は特に何も考えて居なかっただけなのだと分かる。
距離が縮んだ今なら、タイガにもチャンスが十二分にある様だと察したテオフィルスはそれを彼に伝える事で自分の中で芽生えた罪悪感を帳消しにしたいと思った。
「そう言や…こいつ何でクズキャラになってんだ？」
テレビの中で喋るエルッキを観ながらテオフィルスは呟く。どう見ても人の良さそうな、いや良すぎる男にしか思えなかったのだ。
「地元に彼女が居る事、相談にでも乗っていたのか女性タレントと一対一で会っていたのが同時期に複数件、そして彼自身に借金がある事、彼が程々にギャンブル好きである事が全く同じタイミングですっぱ抜かれたからでしょうね」
何故か詳しいエミールがそう答えた。
「一つ一つの事象は仮に理由があって独立していたとしても、連なって人目に触れたからでしょう。これらの出来事から総合的に彼を見る人の目が変わったのです。ヒギリさんのお友達含む、同じ様な思いを彼に抱いていた人が増えたから表に出たのだとしたら何とも因果めいた事ですね」
「なるほど…エルッキがクズであってくれた方が見てる側の都合が良かったってとこか？」
「その方が見てる側にとって面白いんですよ。人は常に刺激を求めていますからね」
「……この間エミールさんが何か良く分からない本見てたのも、あれも刺激？」
不意にヒギリから投げられたキラーパス。エミールはその言葉を聞くや否やビシッと音を立てる様に固まった。
「ヒギリちゃん…？何かよく分からない本って何だ…？」
「何かマゾ何たらのうんたらかんたらとか言う小説？」
「ほぼ覚えて無ぇな」
しかし、テオフィルスはマゾと言う言葉に一つ心当たりがあった。岸壁街で色事を仕事にしていれば、男も女もその辺の倒錯者はよくよく目に入るもので。
まさか？まさかこの目の前にいる清貧さがウリと言わんばかりのエミールにそんな趣味があると言うのか？流石にそんな事は無いだろうと思いたいが、先程から笑みを崩さず居る彼に妙な不自然さを感じテオフィルスはおそるおそる彼を見つめた。ふと、彼の耳たぶに穴が空いていることに気が付いた。
「ピアス穴…？」
「あ！そう言えば昨日良い茶葉が入ったので淹れてきますね！」
「え？エミール？」
「ではではお湯を沸かしてきます！茶葉を蒸らすので十数分戻りませんので帰って来たら別の話をしましょう！」
何と言う下手くそな話の逸らし方だ。
しかし、ヒギリからしたらむしろエミールの読んでる本がマゾ由来とかそんな事はどうでも良く、むしろ「帰って来たら別の話をしましょう」の一言で自分の話をあっさり流されたかの様なショックを受けたのだった。
「ひ、酷い…！！私……の友達の話なんて誰も聞いてくれないんだからー！！」
そう言って突っ伏してしまうヒギリ。調理場に去っていくエミール。しかし、テオフィルスにとってはこれはチャンスな気がした。今ならエミールが居ない、ヒギリと二人きり。先日の話をヒギリにするなら今がチャンスだ。
テオフィルスは席を立つと、机に突っ伏すヒギリの横の席にガチャガチャと義足の音を立てたながら移動する。音は聞こえているし人が隣に来ているのも分かるだろうに、ヒギリはピクリともしなかった。
「……なぁ、ヒギリちゃん…」
ズズズ、と椅子を引き摺りヒギリのすぐ横まで移動すると、テオフィルスは小声でボソリと名前を呼んだ。
「こ、この間はごめんな。びっくりしたよな？」
「………」
「多分…びっくりさせたし、怖がらせちゃったよな？ごめん…俺、完徹して頭回らなくて…」
「……」
「でも、ヒギリちゃんを怖がらせたくてやった訳じゃなくて…と言うか、軽蔑されるかもしれねぇけどヒギリちゃんが可愛かったからつい…」
「…ああ言う事…誰にでもするの…？」
突っ伏したまま小さな声でヒギリは呟く。彼女の顔は見えず、耳が少し朱色に染まっているのだけが見て取れるがそれでも目は逸らさずテオフィルスはヒギリの耳を見つめた。
「……流石に誰にでもってわけじゃないよ…」
仮にあの場に居たのがミサキなら彼女がそもそも幼過ぎるので好みでは無い上に恐怖症めいた男嫌いも知っているから絶対そんな事はしないし、クインはそんな事をしようものなら一体どんな毒舌を食らうか分からないから彼女も避けたい。だから本当に「誰でも」とは思っていない。あの日あの場であの瞬間、目の前に突如現れたのがヒギリだったから魔が差したと言うか。
「だからと言って、『ヒギリちゃんが可愛かったから』で許される事でも無いって言うのは流石に俺も分かってる…」
「………」
「ごめんな、嫌な事して…でも、その……男とそう言う触れ合い方するって言う事、嫌いにならないで欲しいな……」
もしも彼女が何かしらの形で恋を成就出来たとして、怖い思い出として残ってしまって居たらあまりにも可哀想だ。そしてその相手がもしもタイガだったら。そう思うとテオフィルスの一番の心配はそこだった。
「……男の人って、好きな人とじゃ無くても出来ちゃうって、本当…？」
尚突っ伏したままヒギリは続ける。もしかしたら、嘘で耳障りの良い事を言って上手く取り繕った方が賢いのかもしれない。しかし、テオフィルスは正直に行く事にした。
「……男は女の子よりそう言う奴は多いと思う…」
「…じゃあ、テオさんも…？」
「俺はどっちかって言うと出来るタイプだな……せ、性欲に負ける事はままあるよ…」
「……じゃあ、そう言う人が多いのに好かれてるって分かって断る事すらしないのは、本当に嫌いだったから……？」
少し涙ぐんで聞こえたそれは、先程の流れから自分では無くエルッキの事を言っているのだとテオフィルスはすぐに勘付いた。でもこれは彼の名誉を守るでもない、むしろヒギリに対して自分だったらを想像して口を開いた。
「…むしろ好きに寄り過ぎてたから、下手に傷付けたくなかったんだと思う。男ってプライドで生きてる様なとこ、あるからさ……フって今まで可愛い顔見せてくれてた女の子が悲しい顔になるのを見るのも、それをさせるのが自分だってのも認識するのはプライドが許さなかったってのはあると思う…」
「ふーん…」
「少なくとも適当な関係の子じゃ無いって思ってたからそう行動するしかなかったんじゃ無いかな…？」
テオフィルスはそう答えつつ、どう謝ればヒギリがまた前みたく笑顔を向けてくれるか考えていた。自分もエルッキと同じだ。同じで、彼と違い多少やらかしてしまった方だ。でもだからこそプライドがどうのと今は言っていられない。そんな事より女の子の笑顔を取り戻す方が彼にとっては重要だった。
「あのさ、ヒギリちゃん…どう言えば良いか…俺…」
突っ伏した姿勢は変わらず、顔だけを少し上げたヒギリの目と目が合う。いつもと違う少し色っぽい流し目にどきりとしたテオフィルスは一瞬言葉に詰まってしまった。彼が詰まらせた瞬間、ヒギリは腕を伸ばしテオフィルスのほっぺを指でぷにっと押した。
「うぉ……」
思わず声が出るくらい少し乱暴に伸ばされた指。
そんなテオフィルスの姿を見て満足そうにくすりと微笑むと、ヒギリは「テオさんのえっち」と呟いた。
「ヒギリちゃん…」
「もう。テオさんのえっち」
「わ、悪かったって…」
「テオさんのえっち」
「連呼されると流石に俺も恥ずいぜ」
「……きっとテオさんも優しいから、そうなんだろうなぁって思うよ…でも！あんまりその気もないのに女の子に気をもたせる様な事したらテオさんの事も陰で『サルミアッキ野郎』って呼んじゃうからねっ」
完全にエルッキをネタに出来ている。奇しくもヒギリは人に話した事で吹っ切れた様で、それに気付いたテオフィルスも安堵した。そしてテオフィルスの事も彼女なりに処理が出来た様で少しほっとする。
「……ありがとな、ヒギリちゃん。受け入れてくれて」
「構わんよ。次したらサルミアッキに昇格だもん」
「嫌だなぁ、それ」
互いに笑い合うテオフィルスとヒギリ。この件を経てヒギリはテオフィルスとの距離がまた少し縮まるのだが、ただの憧れでありファンの様だった少し前よりもその距離感は些か雑な友情を身に纏っており、横で見ていたタイガは「テオ君なのに危機感を感じないのは何でだ？」と不思議がったのだった。
エミールは赤スープの最後の一口を飲み干すとかちゃりと音を立ててスプーンをトレーに置く。
そしてナプキンで口を拭うとにこりと微笑んだ。
「なるほど、男同士の友情を見せ付けられちゃったんですねぇー、いやぁ一本取られましたね」
「ねぇ何をどう好意的に見ればそんな話に見えるの！？エミールさん！！」
ヒギリの必死な顔とエミールの仏の笑みの温度差が激し過ぎてテオフィルスはガクンッとバランスを崩した。
しかし、申し訳ないが自分も男側から見た一意見としてあまりそのエルッキとやらを悪く言おうとは思えない。おそらくエルッキは本当に優しい奴なのだろう。取った行動としては大変不器用だし不義理を働いたなとは思う。しかし自分がその気もないのに変に相手に気を持たせた事が申し訳なくて、距離を空けて無かった事にするのが彼にとって一番最善でありそれしかやりようが無いのだろう。
彼はおそらく、面と向かって断る事でヒギリの傷付いた顔を見るのが嫌だったのだ。優しい奴が一番取りがちな残酷な行動。大手を振ってそのやり方が「正しい」とは勿論言えないが、おそらくこう言う心理から取ってしまった行動だと思うと「間違い」と責める事も難しい。
しかし、やられた側としては勿論たまったものじゃ無いのだろうとも思う。
「おそらく彼は、面と向かって断る事でヒギリさんのお友達さんの傷付いた顔を見るのが嫌だったのでしょうね。優しい方がよく取りがちな、間違いとも正解とも言いにくい判断です」
「でも、わた……そ、その子はすっごいやるせない気持ちになったって…」
「そうですね。しかし、しっかりお断りされてしまったと言う経験はせずに済んだと言う事もまたこの場合言えてしまうんです。私はお友達さんでは無いですし、お友達さんも結果としてその運命は避けられたわけですが本当にしっかりフラれていた場合どれだけショックを負うかは分かりませんからね。そのエルッキさんを見ていたピーターさんもエルッキさんの性質を愛して居るでしょうし、お仕事柄彼の優しさは必要でもあったのでしょう。そしてピーターさん自身が双方納得出来る様な対処法を知らなかった」
「うーん…」
「まあ、結局この状況を繰り返しているとなれば、彼らが詰めが甘くそう言う意味で未熟者であるとは言わざるをえませんね」
「だよね！？あのサルミアッキ野郎！！」
「けれど、もしかしたらこれが本当に最善かも分かりません。人の好意を受け入れずお返しすると言う状況で誰も傷付けずに話を終えるなんて事は出来ませんからね」
「うっ……」
チラリとヒギリの視線がテオフィルスの方を向いた。当たり前だがおそらくヒギリは傷付いた思い出に対する全肯定が欲しかったのだろう。完全な同意が欲しかったのだろう。しかし、男側の意見の仕方しか出せないテオフィルスも立場上どうしても中立を貫きたがるエミールも彼女を満足させる言葉を掛けることが出来なかった。
「あー…まさかそれでヒギリちゃん…」
納得した様にそう口にするテオフィルス。思い返せば、初めて自分達が顔を合わせた時、可愛らしくふわふわした印象のタイガに対して特に関心めいた目を向けなかったのは多分、タイガがエルッキに似ていたからであろう。その後、彼は諸々の偶然が重なり「モナちゃん」と呼べるまで距離を縮める事ができた訳だが、最初こそよそよそしかった理由がこれでは無いかと検討が付きテオフィルスは頷いた。
そう言えばロードと昼食の時間が被った時も傍で見ていたが、ヒギリは割と女性ウケの良い彼に対しても無関心な目を向けていた事を思い出した。
タイガはふわふわした感じがエルッキに、ロードは黒髪でスーツなところがピーターに各々似ていたのだろう。
しかし、そう言えば前線駆除班のエリックの名前はエルッキに少し似ている。そしてテオフィルスの女性に甘い面もヒギリは知っている。つまりエルッキを想起させるものが嫌と言うレベルでの嫌悪を今は持っていないので、ロードに対してもタイガに対しても最初は特に何も考えて居なかっただけなのだと分かる。
距離が縮んだ今なら、タイガにもチャンスが十二分にある様だと察したテオフィルスはそれを彼に伝える事で自分の中で芽生えた罪悪感を帳消しにしたいと思った。
「そう言や…こいつ何でクズキャラになってんだ？」
テレビの中で喋るエルッキを観ながらテオフィルスは呟く。どう見ても人の良さそうな、いや良すぎる男にしか思えなかったのだ。
「地元に彼女が居る事、相談にでも乗っていたのか女性タレントと一対一で会っていたのが同時期に複数件、そして彼自身に借金がある事、彼が程々にギャンブル好きである事が全く同じタイミングですっぱ抜かれたからでしょうね」
何故か詳しいエミールがそう答えた。
「一つ一つの事象は仮に理由があって独立していたとしても、連なって人目に触れたからでしょう。これらの出来事から総合的に彼を見る人の目が変わったのです。ヒギリさんのお友達含む、同じ様な思いを彼に抱いていた人が増えたから表に出たのだとしたら何とも因果めいた事ですね」
「なるほど…エルッキがクズであってくれた方が見てる側の都合が良かったってとこか？」
「その方が見てる側にとって面白いんですよ。人は常に刺激を求めていますからね」
「……この間エミールさんが何か良く分からない本見てたのも、あれも刺激？」
不意にヒギリから投げられたキラーパス。エミールはその言葉を聞くや否やビシッと音を立てる様に固まった。
「ヒギリちゃん…？何かよく分からない本って何だ…？」
「何かマゾ何たらのうんたらかんたらとか言う小説？」
「ほぼ覚えて無ぇな」
しかし、テオフィルスはマゾと言う言葉に一つ心当たりがあった。岸壁街で色事を仕事にしていれば、男も女もその辺の倒錯者はよくよく目に入るもので。
まさか？まさかこの目の前にいる清貧さがウリと言わんばかりのエミールにそんな趣味があると言うのか？流石にそんな事は無いだろうと思いたいが、先程から笑みを崩さず居る彼に妙な不自然さを感じテオフィルスはおそるおそる彼を見つめた。ふと、彼の耳たぶに穴が空いていることに気が付いた。
「ピアス穴…？」
「あ！そう言えば昨日良い茶葉が入ったので淹れてきますね！」
「え？エミール？」
「ではではお湯を沸かしてきます！茶葉を蒸らすので十数分戻りませんので帰って来たら別の話をしましょう！」
何と言う下手くそな話の逸らし方だ。
しかし、ヒギリからしたらむしろエミールの読んでる本がマゾ由来とかそんな事はどうでも良く、むしろ「帰って来たら別の話をしましょう」の一言で自分の話をあっさり流されたかの様なショックを受けたのだった。
「ひ、酷い…！！私……の友達の話なんて誰も聞いてくれないんだからー！！」
そう言って突っ伏してしまうヒギリ。調理場に去っていくエミール。しかし、テオフィルスにとってはこれはチャンスな気がした。今ならエミールが居ない、ヒギリと二人きり。先日の話をヒギリにするなら今がチャンスだ。
テオフィルスは席を立つと、机に突っ伏すヒギリの横の席にガチャガチャと義足の音を立てたながら移動する。音は聞こえているし人が隣に来ているのも分かるだろうに、ヒギリはピクリともしなかった。
「……なぁ、ヒギリちゃん…」
ズズズ、と椅子を引き摺りヒギリのすぐ横まで移動すると、テオフィルスは小声でボソリと名前を呼んだ。
「こ、この間はごめんな。びっくりしたよな？」
「………」
「多分…びっくりさせたし、怖がらせちゃったよな？ごめん…俺、完徹して頭回らなくて…」
「……」
「でも、ヒギリちゃんを怖がらせたくてやった訳じゃなくて…と言うか、軽蔑されるかもしれねぇけどヒギリちゃんが可愛かったからつい…」
「…ああ言う事…誰にでもするの…？」
突っ伏したまま小さな声でヒギリは呟く。彼女の顔は見えず、耳が少し朱色に染まっているのだけが見て取れるがそれでも目は逸らさずテオフィルスはヒギリの耳を見つめた。
「……流石に誰にでもってわけじゃないよ…」
仮にあの場に居たのがミサキなら彼女がそもそも幼過ぎるので好みでは無い上に恐怖症めいた男嫌いも知っているから絶対そんな事はしないし、クインはそんな事をしようものなら一体どんな毒舌を食らうか分からないから彼女も避けたい。だから本当に「誰でも」とは思っていない。あの日あの場であの瞬間、目の前に突如現れたのがヒギリだったから魔が差したと言うか。
「だからと言って、『ヒギリちゃんが可愛かったから』で許される事でも無いって言うのは流石に俺も分かってる…」
「………」
「ごめんな、嫌な事して…でも、その……男とそう言う触れ合い方するって言う事、嫌いにならないで欲しいな……」
もしも彼女が何かしらの形で恋を成就出来たとして、怖い思い出として残ってしまって居たらあまりにも可哀想だ。そしてその相手がもしもタイガだったら。そう思うとテオフィルスの一番の心配はそこだった。
「……男の人って、好きな人とじゃ無くても出来ちゃうって、本当…？」
尚突っ伏したままヒギリは続ける。もしかしたら、嘘で耳障りの良い事を言って上手く取り繕った方が賢いのかもしれない。しかし、テオフィルスは正直に行く事にした。
「……男は女の子よりそう言う奴は多いと思う…」
「…じゃあ、テオさんも…？」
「俺はどっちかって言うと出来るタイプだな……せ、性欲に負ける事はままあるよ…」
「……じゃあ、そう言う人が多いのに好かれてるって分かって断る事すらしないのは、本当に嫌いだったから……？」
少し涙ぐんで聞こえたそれは、先程の流れから自分では無くエルッキの事を言っているのだとテオフィルスはすぐに勘付いた。でもこれは彼の名誉を守るでもない、むしろヒギリに対して自分だったらを想像して口を開いた。
「…むしろ好きに寄り過ぎてたから、下手に傷付けたくなかったんだと思う。男ってプライドで生きてる様なとこ、あるからさ……フって今まで可愛い顔見せてくれてた女の子が悲しい顔になるのを見るのも、それをさせるのが自分だってのも認識するのはプライドが許さなかったってのはあると思う…」
「ふーん…」
「少なくとも適当な関係の子じゃ無いって思ってたからそう行動するしかなかったんじゃ無いかな…？」
テオフィルスはそう答えつつ、どう謝ればヒギリがまた前みたく笑顔を向けてくれるか考えていた。自分もエルッキと同じだ。同じで、彼と違い多少やらかしてしまった方だ。でもだからこそプライドがどうのと今は言っていられない。そんな事より女の子の笑顔を取り戻す方が彼にとっては重要だった。
「あのさ、ヒギリちゃん…どう言えば良いか…俺…」
突っ伏した姿勢は変わらず、顔だけを少し上げたヒギリの目と目が合う。いつもと違う少し色っぽい流し目にどきりとしたテオフィルスは一瞬言葉に詰まってしまった。彼が詰まらせた瞬間、ヒギリは腕を伸ばしテオフィルスのほっぺを指でぷにっと押した。
「うぉ……」
思わず声が出るくらい少し乱暴に伸ばされた指。
そんなテオフィルスの姿を見て満足そうにくすりと微笑むと、ヒギリは「テオさんのえっち」と呟いた。
「ヒギリちゃん…」
「もう。テオさんのえっち」
「わ、悪かったって…」
「テオさんのえっち」
「連呼されると流石に俺も恥ずいぜ」
「……きっとテオさんも優しいから、そうなんだろうなぁって思うよ…でも！あんまりその気もないのに女の子に気をもたせる様な事したらテオさんの事も陰で『サルミアッキ野郎』って呼んじゃうからねっ」
完全にエルッキをネタに出来ている。奇しくもヒギリは人に話した事で吹っ切れた様で、それに気付いたテオフィルスも安堵した。そしてテオフィルスの事も彼女なりに処理が出来た様で少しほっとする。
「……ありがとな、ヒギリちゃん。受け入れてくれて」
「構わんよ。次したらサルミアッキに昇格だもん」
「嫌だなぁ、それ」
互いに笑い合うテオフィルスとヒギリ。この件を経てヒギリはテオフィルスとの距離がまた少し縮まるのだが、ただの憧れでありファンの様だった少し前よりもその距離感は些か雑な友情を身に纏っており、横で見ていたタイガは「テオ君なのに危機感を感じないのは何でだ？」と不思議がったのだった。
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