積もり積もった思い／涼風慈雨
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suzujiu_orichar 2020年09月19日(土) 13:34:42履歴
「……桁がおかしい。」
総務班経理部。その一角にて機械班から提出された領収書を確認していたギルバートは不審な金額を見つけ、眉間にシワを寄せていた。
提出者はベルナール・エルナー。
奔放な妻のロザリーに比べて随分堅実な性格をしているのは皆の知るところだ。彼が無駄遣いをするとは思えない。だが、全部信頼して処理していい問題ではない。実際に会って確かめなければ、と領収書を握り機械班の事務所へ向かう事にした。
機械班でもしかしたらあの人に会えるかもしれないなと思うと自然に足取りが軽くなる。
経理部と中が悪く、あの手この手で経費を使おうとするロザリーに会うのは気分が下がるが、それよりもあの人に会える事の嬉しさが上回っていた。
アン・ファ・シン。
以前から岸壁街で機械人形整備士をして生計を立てていた、働く女性。
初めて会った頃は何かいけ好かず、同じ位置のホクロにも悩んだ。だが、いつに間にか嫌だと思っていたところは尊敬に変わっていき、強さが眩しくなった。
どこでも育つ雑草のように強くたくましい彼女の姿は、今まで見てきた貴族の女性達と一線を画す何かがあった。きっと誰かに頼らず、自分で仕事をして生活しているからだろう。
「麗しの雑草」。そんな表現が似合う人だ。
機械班の事務所の扉をノックもそこそこに大きく開ける。
「邪魔するぞ！経理部だ……」
扉を開けた瞬間、異様な空気を感じた。肌を刺すような緊張と僕を見た人から出る安堵。
いつもザワザワと騒がしい機械班の事務所が、大きな声を出すのも憚られるような空気に変わっていた。
原因が気になったが、まずは仕事だと思い直しベルナールを探して領収書の確認を取った。
「ここまで来て貰ってすまないね」と言いながらベルナールは桁が間違っていた事を認め、相手先に領収書の再発行を依頼すると約束した。
この異様な空気の原因もついでにベルナールに聞いてみると、「そういう時もあるのだろうさ」と言いつつ事務所の隅の人影に目をやった。
こちら側に背を向けて何やら作業をしている赤い髪をツインテールにした人物。
あの猫背は間違いなくアンだった。
今まで見た事がないほど機嫌が悪いのが背中だけでわかる。
「アン・ファはさっきまであの空気を背負ったままうろうろしていたからね。ようやく落ち着いてくれたんだよ。機嫌の悪い女性はそっと見守るに限る。」
やれやれという様にデスクに向き直るベルナールに少しだけイラつきを覚えながらアンの方に足を向ける。
機嫌が悪いと言う事は何かで困っていると言う事だ。
平民が困っているならどうにかして助けるのは貴族の義務。
いつも冷静な判断力のあるアンが困っているなら尚更だ。
どうやらネイルガンの修理をしているらしい。
これでも工具の種類はかなり覚えたんだと言いたいなと思いつつ近付く。
近づいてくる気配に気がついたのか、のそりとアンが頭を回してこちらを見た。
パチンと視線がぶつかった瞬間、アンがゆらりと立ち上がった。
周囲の緊張が極限まで上がり、肌が痛い。多数の視線も感じる。
近づいてくるアンはと言うと、虚な左目に凄絶な光、憎しみに近い何かが揺らめいている。
何かを耐えるように硬く結ばれた口元から感情は読めなかった。
明らかにいつもと違う。胸の底から湧き上がったのは恐怖だった。
自分が何かやったかもしれない、と全力で今までの記憶をあさったが何も思い当たる節はなかった。
「どうし……グアッ！？」
眼前まで来たアンが僕の胸元のリボンを勢いよく下に引っ張り、首がゴキュッと妙な音を立てた。こんなに腕の力があるとは思わず、この状況で感心してしまう。
……いや、かなり痛いのだが。
アンの目的が全く分からず、息を詰めて戸惑いつつアンと視線を合わせる。
「テメェはよォ」
一つ大きく息を吸うアン。
「テメェはよォ、んな時まで暑そうな格好すン……」
最後まで言い終わらず、いきなりアンのバランスが崩れ、リボンから手が離れた。
操り人形の糸が切れるかの如く、すっと力が抜けたようだった。
とっさに床に倒れる前に抱き留めたので頭は打たなかったがアンの意識がない。
「おい、おい！アン！？」
ぺしぺしと頬を叩くが、何も言わない。
この後どうすればいいのだろうかと頭がパニックになっている後ろで乱暴に扉が開いた。
バネのように振り返ると、肩で息をしながら咳き込んでいる色素の薄い小柄な少女がいた。
「……ミサキ」
「ケホッ……間に合わなかった……」
咳が収まってから上げた顔はかなり厳しい顔付きだった。
意識のないアンを睨みつけると、さっと機械班の事務所を見回すミサキ。
「ギルバート、アンは医務室に連れて行く。」
運ぶより呼んだ方が確実では、としびれたようになった頭の底で考える。
「早く！！」
ミサキの迫力に気圧され、横抱きにアンを抱える。
「ちゃんと気道を確保して」「その角度は負担がかかる、ちょっとずらして」と飛んでくるミサキの指示になんとか応えながら廊下を急いで歩く。
馬術の為に鍛えた筋力にこれほど感謝した事は今までなかった気がする。
力の抜けた人間はかなり重いと聞いていたが、想像以上だった。
その思考を見透かしたように先を歩くミサキが「アンの筋肉量はカンテ人女性の平均をかなり超えてるから」と投げやりに言った。
「医療班を呼ばない理由はなんだ？ミサキ。」
「煩い。しのごの言わずに足、動かして。」
焦り。アンがこのまま目覚めなかったらとつい悪い方へ考えてしまう。
それでも、間近にアンの顔がある。
アンの全体重がこの両腕に掛かっている。
妙に胸が痛いのはパニックと早歩きのせいだけではない、気がした。
ミサキがノックもそこそこに医務室へ飛び込んだのに続いて部屋に入る。
今回の常勤医師は薄い茶色の癖っ毛がなびいている、アペルピシア・セラピアだった。
「汚染駆除班のミサキ・ケルンティア。機械班のアン・ファ・シンが倒れた。処置を。」
案内されたベッドの上にまだ意識が戻らないアンを横たえる。
医務室まで連れてこられた安心感か、少し落ち着いてアンを見る。
よく見ると肌荒れがひどかった。髪も枝毛だらけでちゃんとした手入れはされていない。
化粧気のない蒼白になった顔の中でメイクではない疲労のクマが存在感を放っていた。
「呼吸が浅くて手足も冷たい……ただの失神か……なら理由は……？」
髪を耳にかけながら手早く瞳孔と脈の確認をしていくアペルピシア。
その横で静かな湖面のような瞳でアンを見つめるミサキ。
意識のないアンを前にしてあまりにも冷静な二人が空恐ろしく思えた。
声が出ない。呆然として見つめることしかできなかった。
視界に白い火花が点々と散って、頭が痛かった。
診察するから出て行けとアペルピシアに追い出され、ミサキがカーテンを引いた。
所在なく立っているうちに、目が覚めたらしいアンの声と丁寧に質問するアペルピシアの声がカーテンの向こうから聞こえた。一安心だ。でも、動けるのだろうか。
起きようとしたのか、まだ寝ていなさいと叱る声が聞こえる。
医務室にいた他のメンバーが心配そうにアンのいるベッドの方を見ていた。
やがて、先にミサキだけ出てきた。
「ミサキ、アンは？」
「目は覚めたけど、無理に起きようとする。一時的に催眠術で眠らせるから出て行けって」
カーテンの向こうから戻ってきたアペルピシアは大きなあくびを一つした。
ここであくびなんて悠長な事だと思う。
「差し迫った危機は無さそうだけど、失神した人をここまで運ぶなんて無茶するのね？ミサキちゃん？」
片眉を上げてミサキに聞くアペルピシア。
「意識のあるアンはここに来ない。」
頭を振りながら答えるミサキ。
「ここ数日の間に頭はぶつけてないし、立ちくらみもない。原因も見当がつく。」
「あら、そう？」
「イブプロフェン入りの鎮痛薬はある？」
「……なるほどね。血管迷走神経反射性失神がPMSで起きたと？でも、動かすのが無茶に違いはないわ。他の理由の時だってある。素人判断する前に医療班まで連絡しなさい。」
「前も同じ事があった。いっそ点滴すれば諦めて大人しくなるだろうけど。」
「ミサキちゃん、話聞いてる？前あったからってまた同じだとは限らないのよ？後は医療班の私たちに任せなさい。あ、状況説明はしてもらうけど。そっちのあなたから聞いた方が良さそうね。」
不意にアペルピシアが僕の方へ視線を投げた。
「抱えていたのはあなたでしょう？汚染駆除班がその場にいたよりも、経理部がその場にいたと考える方が自然だもの。」
そういうものだろうかと若干不思議に思いつつ、わかる範囲のことを伝えた。
記憶が混乱して少し話が前後した気はしたが、自分が機械班に行く前には既に機嫌がもの凄く悪かったところから始まり、医務室に来るまでを全部話した。
「それで、アンは絶対大丈夫なのか？」
食い気味にそう聞いた僕にアペルピシアは真顔を向けた。
「差し迫った危機は今のところ見当たらないけど、今後の事ははっきり言えないわ。」
「医者だろう！？」
「人に絶対はないのよ。私だって間違えるし、あなただって間違える。誰一人、全く同じ身体を持つ人もいない。だから、医者は絶対とは言えないの。今のところで分かる範囲の事しか言えない。」
言葉に詰まった。何かがそうじゃないと言っているのに、言葉にならない。
言いたい事が形にならず、掴めなかった。
「でも、あなたの話が前兆であると仮定すれば、血管迷走神経反射性失神だと思う。激烈な痛みとか精神的なショックが引き金のね。そういう事なら命の危険はないわ。ただ、不整脈の疑いはまだ晴れてない。この医務室は診療所レベルの医療機器なのよ。精密検査がしたいなら大きな病院へ行ってもらわないとね。」
他の人の邪魔になるし、今は私たちに任せて帰りなさいと今度はミサキと一緒に医務室から追い出された。
さっき二人が何を話しているのかよくわからなかったが、痛みに耐えられずに失神したであろう事と、やはり勝手に動かすのは危険だったというのだけはわかる。
気を失うほどの痛みがなんなのか。
いつも冷静なアンが豹変するほどの何があったのか。
この後は大丈夫なのか。
呟きながら不安を紛らわすようにぐるぐる歩き回ってしまう。
「痛みってなんだ……？」
「煩い」
「一体何が……？」
「黙れ」
「どうすれば……」
「煩いって言ってるでしょ」
静かに怒気を含んだミサキの声にハッと我に帰る。
壁に寄りかかり、腕組みをしているミサキは見るものを凍りつかせるような迫力があった。
絶対零度の視線ーーそんな言葉が思い浮かんだ。
「ここで騒いでも状況は一切変わらない。今後の対策を考える。」
「だから今考えて……！」
「黙れ、思考の邪魔。」
ここまで邪険に払われては仕方ない。ミサキの邪魔をしないように口を噤む。
「……根性がある事と、辛いと言えないのは別物。」
何事かを真剣に長く考えていたミサキが不意に口を開いた。
「アンはどっちだと思う。」
「根性がある方だろう」と答えようとしたが、痛みで失神したアンを思い出し言い淀んだ。
荒れた肌と濃いクマ。冷え切った腕。倒れる直前の虚無と憎しみの混じった瞳。
本当は根性だけではないのだろうか。
「……14年。」
ポツリと呟くミサキの目には冷たく、暗い光があった。
「アンが私に会うまで一人でいた時間。」
「14年も！？」
長い孤独の時間は想像出来なかった。アンの静けさの理由はそこかもしれない。
「岸壁街の孤児院で何事もなく生きるには存在感を消し、痛みに耐えるのが一番楽な道だと5歳の私にアンは言っていた。」
「5歳の子供に言う事じゃないな。」
僕の言葉にすっと視線を一瞬向けたミサキからは絶対零度の恐怖は消えていた。
「そして、誰にも期待しない事。期待がなければ傷付く事もない。」
反論しようとしたところに被せてミサキが言葉を繋いだ。
「親に捨てられて、社会的にも捨てられて。自分の存在価値を疑う人間がどうなるかわかる？」
嫌な予感が脳裏に閃いた。寒々しくて考えるのも忍びないような事だった。
「アンがまだ生きているのは、岸壁街では死ぬより生きる方が難しいから。」
服の袖をまくり上げたミサキが左腕をいきなり、目の前に突きつけた。
小さな膨れた火傷痕のようなものがいくつもあった。
ホクロというには黒すぎる小さな点も無数にあった。
「根性焼きと鉛筆の芯。当時仲の悪かった職員に影でよくやられたし、孤児院の不良兄貴たちにもやられた。」
仲間が仲間ではない感覚は薄っすら理解できた。
同じ貴族の中ですら家同士でけなしあったり出し抜こうとしたりはあるものだ。
それでも、この数の火傷も鉛筆の芯も酷すぎて目を逸らしてしまう。
「逸らさないで。上にある者が現実を見ずにどうするの？」
淡々とした口調の中に嗤うような響きが混じっていた。
「私よりは少ないけど、アンにも同じ傷跡がある」
ミサキの語るアンの姿と僕の見ていたアンの姿。見えていない部分が多すぎる。
雑草の生命力とは意味が違うらしい、とぽつんと胸の奥で思った。
「貴方が見ているアンは本当にアンなの？」
いつの間にか就業時間を超え、チャイムが廊下の天井から流れた。
唐突にくるりと背を向けて歩き出すミサキに「何処へ行くんだ？」と聞く。
「今日のアンの様子じゃマジュといられない。マジュの迎えに行く。」
落ち着いて考えれば至極当然の事。
あれだけ話して尚、淡々としたままのミサキにも何かあるのかもしれない。
遠のく小さな背中に何か言わなければと思ったが気持ちだけ先走って言葉にならない。
そのうちに角をついっと曲がってミサキは見えなくなってしまった。
自分の不甲斐なさが悔しかった。
ふと、ポケットに入れたままになった領収書を思い出し、他の領収書の確認は明日に回すしかないなと一人、口の中で呟いた。
＊＊＊
迂闊だった。以前の時みたいな失神がまた起きるなんて。
頭に手を当てながら私は廊下を進んだ。マジュの待つ保育部へ。
薄々、アンがおかしいのは気がついていた。
アンの作ったおかずの味が何か変だとマジュが言っていたからだ。
ストレスが溜まっているのもわかっていた。
少し前まで支部勤務だったのに、帰ってきたら何日か連続で経理部とロザリーの喧嘩の仲裁もしていた。ベルナールが席を外している時ばかり来る経理部にも苛ついていただろう。
そこにPMS(月経前困難症候群)だ。
いつもなら愛用の鎮痛薬を常備しているし、仮に忘れても周囲に誰かしら持っているから貰えばいいと言っていた。いざとなれば、まだ使っていない私も常備している。
だから、大丈夫のはずだった。
私なら勘付いてアンに薬を渡せるーーその考えが甘かった。
到着時には既に失神していたし、周囲に同じ製薬会社の同じ銘柄を持っている人はいなかった。
もう少し耐えれば就業時間が終わるーーそう考えてなんとか耐えていたはずだ。
痛い、辛いと声に出来ず周囲に迷惑をかけないようにじっと耐える。
もしかしたら、ストレスの影響でPMDD(月経前不快気分障害)も出ていたかもしれない。
荒れ狂う己の内側を押さえつつ、痛みにも耐える。
正直に言えば、馬鹿らしい。
何か理由をつけて薬を取りに戻るとか、体調不良でさっさと早退すればいいだけだ。
医療班に近付かずにできる対処は他にもあったはずなのに。
本当に馬鹿らしい。
「ラストは煩いギルバートか……」
小さくその名を呟いた時、一つの可能性に気がついた。
彼にとっては嬉しいかもしれないが、私にとってはあまり嬉しいものではない。
まぁいい。彼には一晩、消化する時間を与えよう。
＊＊＊
翌朝。
いつも通りに経理部へ出勤し、昨日の積み残しになった領収書を片付けていると汚染駆除班のミサキが訪れ、「5分以内に終わらせるから廊下に来て」と呼び出された。
「一応報告。アンは大丈夫だった。とりあえず今日1日は大人しく寝てろって私と機械班と医療班で説得した。」
「そうか、休めるなら一安心だな！」
昨日から続いていた緊張がゆっくりと解けていく気がした。
「一つ、伝え忘れてた。」
静かな湖面の瞳がひたりと僕を見据えていた。
「アンは誰かに本気で怒る事はほとんどない。他人にも自分にも期待がないから。私もマジュも数える回数しか本気で怒られた事はない。似たような条件で前も失神しているけど、わかりやすく私たちに手をあげた事はなかった。」
昨日、いきなりリボンを掴まれた時に鳴った首筋が小さく痛んだ。
あの剣幕を思い出し、ミサキの言葉に違和感を感じた。
「気を遣わなくていい相手。認めたくないけど、貴方はアンにとってそうなんだと思う。」
「気を遣わなくていいと言う事は本音を聞いたという事か？」
「そう思いたいならそう思えばいい。」
投げやりなミサキの言葉に少し落ち込む。
「あと、『迷惑かけたから今度謝りたい』って言ってた。」
言いたい事は終わったとばかりにくるりと背を向けて去って行くミサキ。
何か気の利いた事を言わなければと息を吸い込んだが、結局形にならず思いは霧散した。
「自分の存在価値の疑問」か。考えた事もなかった。
望まれて生まれ、望まれて生きるのが当たり前。期待に応えるのが当然の恩返し。
何もない人がいるなんて思わなかったし、それが辛い事だというのも知らなかった。
僕にできるのはなんだろう。
恵まれた立場ゆえに彼女を助けなければいけない。
昨日と今日でわかったのは、彼女の持つタイプの強さは、自己犠牲にも近いという事だ。
それならば。
もし彼女が自身を犠牲にするのなら、僕が引き上げよう。
何を言われようと、僕は彼女の持つあの空気に惹かれたのだから。
彼女の居ない世界は無酸素も良いところだろう？
彼女の抱える問題を共に抱えたとして面倒だと思うことは無いだろう。
立ち向かう彼女をより慕うだけだ。こればかりは理屈じゃない。
同じ位置にある口元のホクロをそっと撫で、アンへの決意を胸に秘めた。
総務班経理部。その一角にて機械班から提出された領収書を確認していたギルバートは不審な金額を見つけ、眉間にシワを寄せていた。
提出者はベルナール・エルナー。
奔放な妻のロザリーに比べて随分堅実な性格をしているのは皆の知るところだ。彼が無駄遣いをするとは思えない。だが、全部信頼して処理していい問題ではない。実際に会って確かめなければ、と領収書を握り機械班の事務所へ向かう事にした。
機械班でもしかしたらあの人に会えるかもしれないなと思うと自然に足取りが軽くなる。
経理部と中が悪く、あの手この手で経費を使おうとするロザリーに会うのは気分が下がるが、それよりもあの人に会える事の嬉しさが上回っていた。
アン・ファ・シン。
以前から岸壁街で機械人形整備士をして生計を立てていた、働く女性。
初めて会った頃は何かいけ好かず、同じ位置のホクロにも悩んだ。だが、いつに間にか嫌だと思っていたところは尊敬に変わっていき、強さが眩しくなった。
どこでも育つ雑草のように強くたくましい彼女の姿は、今まで見てきた貴族の女性達と一線を画す何かがあった。きっと誰かに頼らず、自分で仕事をして生活しているからだろう。
「麗しの雑草」。そんな表現が似合う人だ。
機械班の事務所の扉をノックもそこそこに大きく開ける。
「邪魔するぞ！経理部だ……」
扉を開けた瞬間、異様な空気を感じた。肌を刺すような緊張と僕を見た人から出る安堵。
いつもザワザワと騒がしい機械班の事務所が、大きな声を出すのも憚られるような空気に変わっていた。
原因が気になったが、まずは仕事だと思い直しベルナールを探して領収書の確認を取った。
「ここまで来て貰ってすまないね」と言いながらベルナールは桁が間違っていた事を認め、相手先に領収書の再発行を依頼すると約束した。
この異様な空気の原因もついでにベルナールに聞いてみると、「そういう時もあるのだろうさ」と言いつつ事務所の隅の人影に目をやった。
こちら側に背を向けて何やら作業をしている赤い髪をツインテールにした人物。
あの猫背は間違いなくアンだった。
今まで見た事がないほど機嫌が悪いのが背中だけでわかる。
「アン・ファはさっきまであの空気を背負ったままうろうろしていたからね。ようやく落ち着いてくれたんだよ。機嫌の悪い女性はそっと見守るに限る。」
やれやれという様にデスクに向き直るベルナールに少しだけイラつきを覚えながらアンの方に足を向ける。
機嫌が悪いと言う事は何かで困っていると言う事だ。
平民が困っているならどうにかして助けるのは貴族の義務。
いつも冷静な判断力のあるアンが困っているなら尚更だ。
どうやらネイルガンの修理をしているらしい。
これでも工具の種類はかなり覚えたんだと言いたいなと思いつつ近付く。
近づいてくる気配に気がついたのか、のそりとアンが頭を回してこちらを見た。
パチンと視線がぶつかった瞬間、アンがゆらりと立ち上がった。
周囲の緊張が極限まで上がり、肌が痛い。多数の視線も感じる。
近づいてくるアンはと言うと、虚な左目に凄絶な光、憎しみに近い何かが揺らめいている。
何かを耐えるように硬く結ばれた口元から感情は読めなかった。
明らかにいつもと違う。胸の底から湧き上がったのは恐怖だった。
自分が何かやったかもしれない、と全力で今までの記憶をあさったが何も思い当たる節はなかった。
「どうし……グアッ！？」
眼前まで来たアンが僕の胸元のリボンを勢いよく下に引っ張り、首がゴキュッと妙な音を立てた。こんなに腕の力があるとは思わず、この状況で感心してしまう。
……いや、かなり痛いのだが。
アンの目的が全く分からず、息を詰めて戸惑いつつアンと視線を合わせる。
「テメェはよォ」
一つ大きく息を吸うアン。
「テメェはよォ、んな時まで暑そうな格好すン……」
最後まで言い終わらず、いきなりアンのバランスが崩れ、リボンから手が離れた。
操り人形の糸が切れるかの如く、すっと力が抜けたようだった。
とっさに床に倒れる前に抱き留めたので頭は打たなかったがアンの意識がない。
「おい、おい！アン！？」
ぺしぺしと頬を叩くが、何も言わない。
この後どうすればいいのだろうかと頭がパニックになっている後ろで乱暴に扉が開いた。
バネのように振り返ると、肩で息をしながら咳き込んでいる色素の薄い小柄な少女がいた。
「……ミサキ」
「ケホッ……間に合わなかった……」
咳が収まってから上げた顔はかなり厳しい顔付きだった。
意識のないアンを睨みつけると、さっと機械班の事務所を見回すミサキ。
「ギルバート、アンは医務室に連れて行く。」
運ぶより呼んだ方が確実では、としびれたようになった頭の底で考える。
「早く！！」
ミサキの迫力に気圧され、横抱きにアンを抱える。
「ちゃんと気道を確保して」「その角度は負担がかかる、ちょっとずらして」と飛んでくるミサキの指示になんとか応えながら廊下を急いで歩く。
馬術の為に鍛えた筋力にこれほど感謝した事は今までなかった気がする。
力の抜けた人間はかなり重いと聞いていたが、想像以上だった。
その思考を見透かしたように先を歩くミサキが「アンの筋肉量はカンテ人女性の平均をかなり超えてるから」と投げやりに言った。
「医療班を呼ばない理由はなんだ？ミサキ。」
「煩い。しのごの言わずに足、動かして。」
焦り。アンがこのまま目覚めなかったらとつい悪い方へ考えてしまう。
それでも、間近にアンの顔がある。
アンの全体重がこの両腕に掛かっている。
妙に胸が痛いのはパニックと早歩きのせいだけではない、気がした。
ミサキがノックもそこそこに医務室へ飛び込んだのに続いて部屋に入る。
今回の常勤医師は薄い茶色の癖っ毛がなびいている、アペルピシア・セラピアだった。
「汚染駆除班のミサキ・ケルンティア。機械班のアン・ファ・シンが倒れた。処置を。」
案内されたベッドの上にまだ意識が戻らないアンを横たえる。
医務室まで連れてこられた安心感か、少し落ち着いてアンを見る。
よく見ると肌荒れがひどかった。髪も枝毛だらけでちゃんとした手入れはされていない。
化粧気のない蒼白になった顔の中でメイクではない疲労のクマが存在感を放っていた。
「呼吸が浅くて手足も冷たい……ただの失神か……なら理由は……？」
髪を耳にかけながら手早く瞳孔と脈の確認をしていくアペルピシア。
その横で静かな湖面のような瞳でアンを見つめるミサキ。
意識のないアンを前にしてあまりにも冷静な二人が空恐ろしく思えた。
声が出ない。呆然として見つめることしかできなかった。
視界に白い火花が点々と散って、頭が痛かった。
診察するから出て行けとアペルピシアに追い出され、ミサキがカーテンを引いた。
所在なく立っているうちに、目が覚めたらしいアンの声と丁寧に質問するアペルピシアの声がカーテンの向こうから聞こえた。一安心だ。でも、動けるのだろうか。
起きようとしたのか、まだ寝ていなさいと叱る声が聞こえる。
医務室にいた他のメンバーが心配そうにアンのいるベッドの方を見ていた。
やがて、先にミサキだけ出てきた。
「ミサキ、アンは？」
「目は覚めたけど、無理に起きようとする。一時的に催眠術で眠らせるから出て行けって」
カーテンの向こうから戻ってきたアペルピシアは大きなあくびを一つした。
ここであくびなんて悠長な事だと思う。
「差し迫った危機は無さそうだけど、失神した人をここまで運ぶなんて無茶するのね？ミサキちゃん？」
片眉を上げてミサキに聞くアペルピシア。
「意識のあるアンはここに来ない。」
頭を振りながら答えるミサキ。
「ここ数日の間に頭はぶつけてないし、立ちくらみもない。原因も見当がつく。」
「あら、そう？」
「イブプロフェン入りの鎮痛薬はある？」
「……なるほどね。血管迷走神経反射性失神がPMSで起きたと？でも、動かすのが無茶に違いはないわ。他の理由の時だってある。素人判断する前に医療班まで連絡しなさい。」
「前も同じ事があった。いっそ点滴すれば諦めて大人しくなるだろうけど。」
「ミサキちゃん、話聞いてる？前あったからってまた同じだとは限らないのよ？後は医療班の私たちに任せなさい。あ、状況説明はしてもらうけど。そっちのあなたから聞いた方が良さそうね。」
不意にアペルピシアが僕の方へ視線を投げた。
「抱えていたのはあなたでしょう？汚染駆除班がその場にいたよりも、経理部がその場にいたと考える方が自然だもの。」
そういうものだろうかと若干不思議に思いつつ、わかる範囲のことを伝えた。
記憶が混乱して少し話が前後した気はしたが、自分が機械班に行く前には既に機嫌がもの凄く悪かったところから始まり、医務室に来るまでを全部話した。
「それで、アンは絶対大丈夫なのか？」
食い気味にそう聞いた僕にアペルピシアは真顔を向けた。
「差し迫った危機は今のところ見当たらないけど、今後の事ははっきり言えないわ。」
「医者だろう！？」
「人に絶対はないのよ。私だって間違えるし、あなただって間違える。誰一人、全く同じ身体を持つ人もいない。だから、医者は絶対とは言えないの。今のところで分かる範囲の事しか言えない。」
言葉に詰まった。何かがそうじゃないと言っているのに、言葉にならない。
言いたい事が形にならず、掴めなかった。
「でも、あなたの話が前兆であると仮定すれば、血管迷走神経反射性失神だと思う。激烈な痛みとか精神的なショックが引き金のね。そういう事なら命の危険はないわ。ただ、不整脈の疑いはまだ晴れてない。この医務室は診療所レベルの医療機器なのよ。精密検査がしたいなら大きな病院へ行ってもらわないとね。」
他の人の邪魔になるし、今は私たちに任せて帰りなさいと今度はミサキと一緒に医務室から追い出された。
さっき二人が何を話しているのかよくわからなかったが、痛みに耐えられずに失神したであろう事と、やはり勝手に動かすのは危険だったというのだけはわかる。
気を失うほどの痛みがなんなのか。
いつも冷静なアンが豹変するほどの何があったのか。
この後は大丈夫なのか。
呟きながら不安を紛らわすようにぐるぐる歩き回ってしまう。
「痛みってなんだ……？」
「煩い」
「一体何が……？」
「黙れ」
「どうすれば……」
「煩いって言ってるでしょ」
静かに怒気を含んだミサキの声にハッと我に帰る。
壁に寄りかかり、腕組みをしているミサキは見るものを凍りつかせるような迫力があった。
絶対零度の視線ーーそんな言葉が思い浮かんだ。
「ここで騒いでも状況は一切変わらない。今後の対策を考える。」
「だから今考えて……！」
「黙れ、思考の邪魔。」
ここまで邪険に払われては仕方ない。ミサキの邪魔をしないように口を噤む。
「……根性がある事と、辛いと言えないのは別物。」
何事かを真剣に長く考えていたミサキが不意に口を開いた。
「アンはどっちだと思う。」
「根性がある方だろう」と答えようとしたが、痛みで失神したアンを思い出し言い淀んだ。
荒れた肌と濃いクマ。冷え切った腕。倒れる直前の虚無と憎しみの混じった瞳。
本当は根性だけではないのだろうか。
「……14年。」
ポツリと呟くミサキの目には冷たく、暗い光があった。
「アンが私に会うまで一人でいた時間。」
「14年も！？」
長い孤独の時間は想像出来なかった。アンの静けさの理由はそこかもしれない。
「岸壁街の孤児院で何事もなく生きるには存在感を消し、痛みに耐えるのが一番楽な道だと5歳の私にアンは言っていた。」
「5歳の子供に言う事じゃないな。」
僕の言葉にすっと視線を一瞬向けたミサキからは絶対零度の恐怖は消えていた。
「そして、誰にも期待しない事。期待がなければ傷付く事もない。」
反論しようとしたところに被せてミサキが言葉を繋いだ。
「親に捨てられて、社会的にも捨てられて。自分の存在価値を疑う人間がどうなるかわかる？」
嫌な予感が脳裏に閃いた。寒々しくて考えるのも忍びないような事だった。
「アンがまだ生きているのは、岸壁街では死ぬより生きる方が難しいから。」
服の袖をまくり上げたミサキが左腕をいきなり、目の前に突きつけた。
小さな膨れた火傷痕のようなものがいくつもあった。
ホクロというには黒すぎる小さな点も無数にあった。
「根性焼きと鉛筆の芯。当時仲の悪かった職員に影でよくやられたし、孤児院の不良兄貴たちにもやられた。」
仲間が仲間ではない感覚は薄っすら理解できた。
同じ貴族の中ですら家同士でけなしあったり出し抜こうとしたりはあるものだ。
それでも、この数の火傷も鉛筆の芯も酷すぎて目を逸らしてしまう。
「逸らさないで。上にある者が現実を見ずにどうするの？」
淡々とした口調の中に嗤うような響きが混じっていた。
「私よりは少ないけど、アンにも同じ傷跡がある」
ミサキの語るアンの姿と僕の見ていたアンの姿。見えていない部分が多すぎる。
雑草の生命力とは意味が違うらしい、とぽつんと胸の奥で思った。
「貴方が見ているアンは本当にアンなの？」
いつの間にか就業時間を超え、チャイムが廊下の天井から流れた。
唐突にくるりと背を向けて歩き出すミサキに「何処へ行くんだ？」と聞く。
「今日のアンの様子じゃマジュといられない。マジュの迎えに行く。」
落ち着いて考えれば至極当然の事。
あれだけ話して尚、淡々としたままのミサキにも何かあるのかもしれない。
遠のく小さな背中に何か言わなければと思ったが気持ちだけ先走って言葉にならない。
そのうちに角をついっと曲がってミサキは見えなくなってしまった。
自分の不甲斐なさが悔しかった。
ふと、ポケットに入れたままになった領収書を思い出し、他の領収書の確認は明日に回すしかないなと一人、口の中で呟いた。
＊＊＊
迂闊だった。以前の時みたいな失神がまた起きるなんて。
頭に手を当てながら私は廊下を進んだ。マジュの待つ保育部へ。
薄々、アンがおかしいのは気がついていた。
アンの作ったおかずの味が何か変だとマジュが言っていたからだ。
ストレスが溜まっているのもわかっていた。
少し前まで支部勤務だったのに、帰ってきたら何日か連続で経理部とロザリーの喧嘩の仲裁もしていた。ベルナールが席を外している時ばかり来る経理部にも苛ついていただろう。
そこにPMS(月経前困難症候群)だ。
いつもなら愛用の鎮痛薬を常備しているし、仮に忘れても周囲に誰かしら持っているから貰えばいいと言っていた。いざとなれば、まだ使っていない私も常備している。
だから、大丈夫のはずだった。
私なら勘付いてアンに薬を渡せるーーその考えが甘かった。
到着時には既に失神していたし、周囲に同じ製薬会社の同じ銘柄を持っている人はいなかった。
もう少し耐えれば就業時間が終わるーーそう考えてなんとか耐えていたはずだ。
痛い、辛いと声に出来ず周囲に迷惑をかけないようにじっと耐える。
もしかしたら、ストレスの影響でPMDD(月経前不快気分障害)も出ていたかもしれない。
荒れ狂う己の内側を押さえつつ、痛みにも耐える。
正直に言えば、馬鹿らしい。
何か理由をつけて薬を取りに戻るとか、体調不良でさっさと早退すればいいだけだ。
医療班に近付かずにできる対処は他にもあったはずなのに。
本当に馬鹿らしい。
「ラストは煩いギルバートか……」
小さくその名を呟いた時、一つの可能性に気がついた。
彼にとっては嬉しいかもしれないが、私にとってはあまり嬉しいものではない。
まぁいい。彼には一晩、消化する時間を与えよう。
＊＊＊
翌朝。
いつも通りに経理部へ出勤し、昨日の積み残しになった領収書を片付けていると汚染駆除班のミサキが訪れ、「5分以内に終わらせるから廊下に来て」と呼び出された。
「一応報告。アンは大丈夫だった。とりあえず今日1日は大人しく寝てろって私と機械班と医療班で説得した。」
「そうか、休めるなら一安心だな！」
昨日から続いていた緊張がゆっくりと解けていく気がした。
「一つ、伝え忘れてた。」
静かな湖面の瞳がひたりと僕を見据えていた。
「アンは誰かに本気で怒る事はほとんどない。他人にも自分にも期待がないから。私もマジュも数える回数しか本気で怒られた事はない。似たような条件で前も失神しているけど、わかりやすく私たちに手をあげた事はなかった。」
昨日、いきなりリボンを掴まれた時に鳴った首筋が小さく痛んだ。
あの剣幕を思い出し、ミサキの言葉に違和感を感じた。
「気を遣わなくていい相手。認めたくないけど、貴方はアンにとってそうなんだと思う。」
「気を遣わなくていいと言う事は本音を聞いたという事か？」
「そう思いたいならそう思えばいい。」
投げやりなミサキの言葉に少し落ち込む。
「あと、『迷惑かけたから今度謝りたい』って言ってた。」
言いたい事は終わったとばかりにくるりと背を向けて去って行くミサキ。
何か気の利いた事を言わなければと息を吸い込んだが、結局形にならず思いは霧散した。
「自分の存在価値の疑問」か。考えた事もなかった。
望まれて生まれ、望まれて生きるのが当たり前。期待に応えるのが当然の恩返し。
何もない人がいるなんて思わなかったし、それが辛い事だというのも知らなかった。
僕にできるのはなんだろう。
恵まれた立場ゆえに彼女を助けなければいけない。
昨日と今日でわかったのは、彼女の持つタイプの強さは、自己犠牲にも近いという事だ。
それならば。
もし彼女が自身を犠牲にするのなら、僕が引き上げよう。
何を言われようと、僕は彼女の持つあの空気に惹かれたのだから。
彼女の居ない世界は無酸素も良いところだろう？
彼女の抱える問題を共に抱えたとして面倒だと思うことは無いだろう。
立ち向かう彼女をより慕うだけだ。こればかりは理屈じゃない。
同じ位置にある口元のホクロをそっと撫で、アンへの決意を胸に秘めた。
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