ミサキの年末年始 幕間！休日の医療班編
最終更新：
suzujiu_orichar 2020年09月19日(土) 13:15:53履歴
朝8時頃。
ぴぴぴぴぴ……と電子音が部屋に響く。
分厚い布団から細めの白い腕が伸びて乱暴に電子時計をはたき落とす。
しばらくゴロゴロしていた布団の主は、スヌーズの電子音がけたたましく鳴り出してからようやくベッドの中から這い出してきた。
柔らかい茶色の盛大な癖っ毛。何時間寝ようと眠そうなままの眼。
枕元に置いてあった細縁の丸眼鏡を掛けた姿はアペルピシア・セラピアだった。
顎が落ちそうなほどの大欠伸を一つ。覗く犬歯のせいか猫に見える。
アペルピシアは自分の名前が好きではない。
アペルピシアには絶望という意味があると知った日から嫌いになった。
それで先頭のapを取れば希望という意味になるので周囲の人にはエルと呼ばせている。
一つ伸びをしてからベッドを降り、仕事机に置いてある個人用電子端末のスリープモードを解除する。電子世界が使えようがどうだろうが、情報はやりとりせねばならない。
メールやSNSの代わりに電話回線でFAXのやりとりをするのが結社でも増えた。
個人用電子端末でもFAXの使える固定電話と繋げばデータが受け取れるし、紙の無駄が省ける。難点は文書しか送れない事、若干画像が荒い事、外出中は受け取れない事など色々あるが、文句は言えない。
「代行受信あり」と表示されたポップアップを開くと着信の中に今朝の駆除報告が入っていた。
ーーー
1月1日午前6時20分頃、第14地区にて汚染機械人形によるテロを確認。
前線駆除班、第4・第6連合小隊によって鎮圧成功。
一般の負傷者は出たが、いずれも軽傷。
前線医療部隊第2小隊によって治療済みである。
ーーー
1月1日、と日付を見たエルは呆然とした。
「……おかしいな、32回目の年明けなんて」
歳なんて取らなくていいのに、と一人愚痴る。
ふくれながら、ふと見た時計が9時を指しているのに気づき、スレイマンとの約束を思い出したエルは慌てて着替えに走った。
鏡の前で用心しながら癖っ毛を梳かすエル。
かなり強情な髪質で、ストレートパーマをかけてもすぐに落ちてしまうほどの髪にエルは毎朝悩まされていた。それが理由でいじめられた事はないし、逆に「パーマ代が浮いて羨ましい」と言われた事はまぁまぁあったエルだったが、「可愛い」とちゃんと言ってくれた人は片手に収まる数しかいなかった。
その中の一人がエルの今の恋人、スレイマンだった。
スレイマン・アスラン。エルと同じ医療班に所属している。元はNPOの救急医で、紛争地・貧困地で治療に当たっていた人。鉄壁のメンタルの持ち主で、エルの催眠術が効かない特殊体質でもある。
二人が出会ったのは医療関係者の合コンだった。
時間をかけて心と向き合う精神科医と一分一秒の命を争う救急医。
どことなく正反対の二人だと周囲は思っていたが、エルが以前救命救急センターにいた話から距離感が縮まったらしく、いつのまにか付き合う事になっていた。
お互い初の恋人では無いものの、今まで振られる側だったのは共通点だったらしい。
スレイマンに至っては「長期間、連絡が難しいのは無理」と振られてきたので、ふにゃりとしながら突き放したところのあるエルは丁度よかったのかもしれない。
「10時30分頃に寮の前に待ち合わせで」とスレイマンの指定の通り待つエル。
地面には薄っすら雪の跡がある。
少し前までスレイマンが支部の勤務だったのもあり、顔を合わせるのは久しぶりだった。
噂に聞いた着物会を無視したのは、スレイマンとの今を大事にしたかったからだ。
今日の服装は淡いグレーのビッグシルエットコートに、クリーム色のニットタートルトップス。ミモレ丈で臙脂のチェックスカート。寒さ対策に黒のブーツを履き、頭にはコートに合わせた色のベレー帽を被っている。ちなみに、見たよりも走りやすく、急斜面も登れるのがエルの密かなこだわりだ。
40分を少し超えた頃、ようやくスレイマンがマフラーをなびかせて駆け足で到着した。
「エル！遅れてごめん！」
「朝番、お疲れ様〜」
スレイマンにひらひら手を振るエル。
「朝から出動命令あったんでしょ、大丈夫だった？」
「なんとか。皮膚用接着剤がなくて深めの切創を縫合するハメになったけどね。」
「一般人でしょ？抜糸は？」
「近くの医療機関に行ってもらうしかないな。ウチだと継続的な治療はできないし。」
そりゃそうか、と頷くエル。
「立ち話より、とりあえず歩くか？エル？」
スレイマンの提案にそうだねとエルが返す。
特に行くあてを決めず、並んで歩く。
お互いの仕事柄、非番とはいえいつ呼ばれても大丈夫な距離までしか動けない。
これが平地の多い大陸なら自家用車や公共の車両で少し遠くまで行っても支障はないだろう。だが、カンテは斜面ばかりで大陸の国のようにはいかず、特にエルのいる寮の近辺は賑やかな場所から離れているのもあり、階段と坂道しかない。
1月1日というのもあり、移動圏内にデートでいけるお店もない。
普段の仕事は抜きにしてただ、歩いて駄弁る。
ガジュマルの水分量が難しいとか、給食部の限定ケーキが中々買えないとか。
FAXが意外なほど重宝されているのが面白いとか。
そのうち、階段公園まで来た。
ひょいひょいと階段を上りながらエルが聞く。
「階段公園、本当の名前ってなんだと思う？」
「あれ、通称だったんだ？」
「そうみたい。相談室に来た前線駆除班の人が階段の中にある公園だからそう呼ばれてるって言ってたけど、本当の名前は知らないって言ってたの。」
「なるほど……じゃ、中に看板があれば確認できるかな。」
さぁねぇ、と言いながら公園に入ると、エルとスレイマンの目に見覚えのある蜂蜜色の髪の人物が飛び込んできた。奥の遊具の影でしゃがんでいる。
「「アキ先生！？」」
驚いた二人に名前を呼ばれ、弾かれたように顔を向けたのは医務室で内勤のはずのアキヒロ・ロッシだった。さっと口元に人差し指を立て、静かにして、とアキヒロから合図を送られので不思議に思う二人だったが、次の瞬間理解した。
アキヒロの後ろから小さな人影がひょいと出てきたのだ。
「アキくん、みっけ」という声こそ聞こえなかったが、ゆれる青黒の髪でアキヒロの姪、
カヤがいるのは明白だった。
何事か話した後、カヤを抱っこしたアキヒロが二人の方へ近づいてきた。
「すいませんねぇ、かくれんぼの途中だったもので〜」
春の陽光のように微笑むアキヒロ。ちなみに、今は極寒の1月である。
「ほら、カヤ。スレイマン先生とエル先生にご挨拶は？」
「……こんにちは、エル先生、すぇーまん先生……」
アキヒロに促されてもごもご言ったものの、直ぐにカヤは二人から顔を背けてしまった。
「あれぇ、カヤ、それでいいのかなぁ？」
いやいや、と首を振ってアキヒロに張り付くカヤ。
「カヤちゃん、こんにちは。ご挨拶できて偉いね」とエルに話しかけられても何も答えないカヤにアキヒロは諦めることにした。
「すいませんねぇ、いつもと違うところで会うと照れちゃうみたいで〜」
あは、と困り笑いするアキヒロ。
「小さいうちは仕方ないですよね……ところでアキ先生、内勤じゃないんですか？」
スレイマンの問いに「カヤがねぇ……」という出だしでアキヒロが語ったのはこんな顛末だった。
今日の内勤担当は丸一日の予定だった。
年末年始は誤飲・誤嚥が多いので1日は丸々いた方がいいと判断したからだった。
ところが、最近長く一緒にいられなかった反動か、カヤが保育部の部屋から抜け出して医療班まで来てしまった。階も違うし、今日はお泊まり会もあるので何も心配していなかったのに、だ。廊下でテディベアを抱えて泣いていたところをフユが見つけて医療班の部屋に連れてくると、また泣いて張り付いてアキヒロから動かなくなってしまった。
保育部のオルヴォが連れ戻そうと来ても一向に動く気配が無く、「明日は休みだから、もうちょっと待ってね」「医療班の部屋は危ないから来ちゃだめなんだよ」と言い聞かせても嫌だと首を振るばかりで困り果てた。
無理やり引き剥がすのはまだカヤのショックが大きすぎるし、さてどうしようかと思ったら、見かねた医療班メンバーに「私たちもいますし、すぐ戻れる範囲の公園にでも連れて行ってあげたらどうですか」と背を押されて今ここにいる、というわけだった。
話に飽きたのか、いつのまにかカヤはアキヒロの腕の中で眠っていた。
「……緊急事態でしたね。カヤちゃんは自分の意見を強く言う子ではないですもんね。」
エルの言葉に深く頷くアキヒロ。
「いつもうるさい子なら叱れるんですけどねぇ……カヤが張り付いてぐずるなんて珍しいですから。こうなる前に気づいてあげられなかったのは本当に反省です。まだまだ僕もカヤの事をわかってないんだなって……」
すっと目を伏せ、カヤを見下ろすアキヒロ。
ふと腕時計を見ると思ったより時間が経っていた。
「あれ、そろそろ戻る時間だ。それじゃ、お二人さん、ごゆっくり〜」
小春日和な笑顔を残し、カヤを抱っこしたままアキヒロは去っていった。
「子供の精神的サポートは難しいわ。保育部で保護された子供たちと接してみて思う。」
「……カヤちゃんはまだ幸運な方だよな。」
「そうね。一概には言えないけど、サポートのできる身近な人がいるのは強みね。」
階段公園から海を見下ろす2人。アキヒロの背はもう見えなくなっていた。
「おれたちも幸運な方か……」
「そりゃそうね。自分の得意分野で仕事できてるし、とっくに大人だもの。」
公園の柵の雪を払い、寄りかかるエル。
「っていうかスレイマンがそんな話するの、面白いね。なんかあった？」
「……何にもないさ。世知辛いな、ってだけだよ。」
「本当？今、目が揺れたけど。」
エルに覗き込まれ、一瞬怯んだが直ぐにじっと見つめ返すスレイマン。
「まぁいいわ。治療じゃないし。」
そして興味なさそうに欠伸をするエル。
スレイマンの目元に苦笑が浮かぶ。
「本当に、そういうところエルなんだよなぁ」
「なんか言った？」
「エルは可愛いよな、って話さ。」
いきなり何を言うんだと怪訝な表情になるエル。
その顔が面白かったのか、スレイマンがいきなり吹き出した。
「何で笑うのよー！？」
エルの叫びは海風に溶けていった。
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ぴぴぴぴぴ……と電子音が部屋に響く。
分厚い布団から細めの白い腕が伸びて乱暴に電子時計をはたき落とす。
しばらくゴロゴロしていた布団の主は、スヌーズの電子音がけたたましく鳴り出してからようやくベッドの中から這い出してきた。
柔らかい茶色の盛大な癖っ毛。何時間寝ようと眠そうなままの眼。
枕元に置いてあった細縁の丸眼鏡を掛けた姿はアペルピシア・セラピアだった。
顎が落ちそうなほどの大欠伸を一つ。覗く犬歯のせいか猫に見える。
アペルピシアは自分の名前が好きではない。
アペルピシアには絶望という意味があると知った日から嫌いになった。
それで先頭のapを取れば希望という意味になるので周囲の人にはエルと呼ばせている。
一つ伸びをしてからベッドを降り、仕事机に置いてある個人用電子端末のスリープモードを解除する。電子世界が使えようがどうだろうが、情報はやりとりせねばならない。
メールやSNSの代わりに電話回線でFAXのやりとりをするのが結社でも増えた。
個人用電子端末でもFAXの使える固定電話と繋げばデータが受け取れるし、紙の無駄が省ける。難点は文書しか送れない事、若干画像が荒い事、外出中は受け取れない事など色々あるが、文句は言えない。
「代行受信あり」と表示されたポップアップを開くと着信の中に今朝の駆除報告が入っていた。
ーーー
1月1日午前6時20分頃、第14地区にて汚染機械人形によるテロを確認。
前線駆除班、第4・第6連合小隊によって鎮圧成功。
一般の負傷者は出たが、いずれも軽傷。
前線医療部隊第2小隊によって治療済みである。
ーーー
1月1日、と日付を見たエルは呆然とした。
「……おかしいな、32回目の年明けなんて」
歳なんて取らなくていいのに、と一人愚痴る。
ふくれながら、ふと見た時計が9時を指しているのに気づき、スレイマンとの約束を思い出したエルは慌てて着替えに走った。
鏡の前で用心しながら癖っ毛を梳かすエル。
かなり強情な髪質で、ストレートパーマをかけてもすぐに落ちてしまうほどの髪にエルは毎朝悩まされていた。それが理由でいじめられた事はないし、逆に「パーマ代が浮いて羨ましい」と言われた事はまぁまぁあったエルだったが、「可愛い」とちゃんと言ってくれた人は片手に収まる数しかいなかった。
その中の一人がエルの今の恋人、スレイマンだった。
スレイマン・アスラン。エルと同じ医療班に所属している。元はNPOの救急医で、紛争地・貧困地で治療に当たっていた人。鉄壁のメンタルの持ち主で、エルの催眠術が効かない特殊体質でもある。
二人が出会ったのは医療関係者の合コンだった。
時間をかけて心と向き合う精神科医と一分一秒の命を争う救急医。
どことなく正反対の二人だと周囲は思っていたが、エルが以前救命救急センターにいた話から距離感が縮まったらしく、いつのまにか付き合う事になっていた。
お互い初の恋人では無いものの、今まで振られる側だったのは共通点だったらしい。
スレイマンに至っては「長期間、連絡が難しいのは無理」と振られてきたので、ふにゃりとしながら突き放したところのあるエルは丁度よかったのかもしれない。
「10時30分頃に寮の前に待ち合わせで」とスレイマンの指定の通り待つエル。
地面には薄っすら雪の跡がある。
少し前までスレイマンが支部の勤務だったのもあり、顔を合わせるのは久しぶりだった。
噂に聞いた着物会を無視したのは、スレイマンとの今を大事にしたかったからだ。
今日の服装は淡いグレーのビッグシルエットコートに、クリーム色のニットタートルトップス。ミモレ丈で臙脂のチェックスカート。寒さ対策に黒のブーツを履き、頭にはコートに合わせた色のベレー帽を被っている。ちなみに、見たよりも走りやすく、急斜面も登れるのがエルの密かなこだわりだ。
40分を少し超えた頃、ようやくスレイマンがマフラーをなびかせて駆け足で到着した。
「エル！遅れてごめん！」
「朝番、お疲れ様〜」
スレイマンにひらひら手を振るエル。
「朝から出動命令あったんでしょ、大丈夫だった？」
「なんとか。皮膚用接着剤がなくて深めの切創を縫合するハメになったけどね。」
「一般人でしょ？抜糸は？」
「近くの医療機関に行ってもらうしかないな。ウチだと継続的な治療はできないし。」
そりゃそうか、と頷くエル。
「立ち話より、とりあえず歩くか？エル？」
スレイマンの提案にそうだねとエルが返す。
特に行くあてを決めず、並んで歩く。
お互いの仕事柄、非番とはいえいつ呼ばれても大丈夫な距離までしか動けない。
これが平地の多い大陸なら自家用車や公共の車両で少し遠くまで行っても支障はないだろう。だが、カンテは斜面ばかりで大陸の国のようにはいかず、特にエルのいる寮の近辺は賑やかな場所から離れているのもあり、階段と坂道しかない。
1月1日というのもあり、移動圏内にデートでいけるお店もない。
普段の仕事は抜きにしてただ、歩いて駄弁る。
ガジュマルの水分量が難しいとか、給食部の限定ケーキが中々買えないとか。
FAXが意外なほど重宝されているのが面白いとか。
そのうち、階段公園まで来た。
ひょいひょいと階段を上りながらエルが聞く。
「階段公園、本当の名前ってなんだと思う？」
「あれ、通称だったんだ？」
「そうみたい。相談室に来た前線駆除班の人が階段の中にある公園だからそう呼ばれてるって言ってたけど、本当の名前は知らないって言ってたの。」
「なるほど……じゃ、中に看板があれば確認できるかな。」
さぁねぇ、と言いながら公園に入ると、エルとスレイマンの目に見覚えのある蜂蜜色の髪の人物が飛び込んできた。奥の遊具の影でしゃがんでいる。
「「アキ先生！？」」
驚いた二人に名前を呼ばれ、弾かれたように顔を向けたのは医務室で内勤のはずのアキヒロ・ロッシだった。さっと口元に人差し指を立て、静かにして、とアキヒロから合図を送られので不思議に思う二人だったが、次の瞬間理解した。
アキヒロの後ろから小さな人影がひょいと出てきたのだ。
「アキくん、みっけ」という声こそ聞こえなかったが、ゆれる青黒の髪でアキヒロの姪、
カヤがいるのは明白だった。
何事か話した後、カヤを抱っこしたアキヒロが二人の方へ近づいてきた。
「すいませんねぇ、かくれんぼの途中だったもので〜」
春の陽光のように微笑むアキヒロ。ちなみに、今は極寒の1月である。
「ほら、カヤ。スレイマン先生とエル先生にご挨拶は？」
「……こんにちは、エル先生、すぇーまん先生……」
アキヒロに促されてもごもご言ったものの、直ぐにカヤは二人から顔を背けてしまった。
「あれぇ、カヤ、それでいいのかなぁ？」
いやいや、と首を振ってアキヒロに張り付くカヤ。
「カヤちゃん、こんにちは。ご挨拶できて偉いね」とエルに話しかけられても何も答えないカヤにアキヒロは諦めることにした。
「すいませんねぇ、いつもと違うところで会うと照れちゃうみたいで〜」
あは、と困り笑いするアキヒロ。
「小さいうちは仕方ないですよね……ところでアキ先生、内勤じゃないんですか？」
スレイマンの問いに「カヤがねぇ……」という出だしでアキヒロが語ったのはこんな顛末だった。
今日の内勤担当は丸一日の予定だった。
年末年始は誤飲・誤嚥が多いので1日は丸々いた方がいいと判断したからだった。
ところが、最近長く一緒にいられなかった反動か、カヤが保育部の部屋から抜け出して医療班まで来てしまった。階も違うし、今日はお泊まり会もあるので何も心配していなかったのに、だ。廊下でテディベアを抱えて泣いていたところをフユが見つけて医療班の部屋に連れてくると、また泣いて張り付いてアキヒロから動かなくなってしまった。
保育部のオルヴォが連れ戻そうと来ても一向に動く気配が無く、「明日は休みだから、もうちょっと待ってね」「医療班の部屋は危ないから来ちゃだめなんだよ」と言い聞かせても嫌だと首を振るばかりで困り果てた。
無理やり引き剥がすのはまだカヤのショックが大きすぎるし、さてどうしようかと思ったら、見かねた医療班メンバーに「私たちもいますし、すぐ戻れる範囲の公園にでも連れて行ってあげたらどうですか」と背を押されて今ここにいる、というわけだった。
話に飽きたのか、いつのまにかカヤはアキヒロの腕の中で眠っていた。
「……緊急事態でしたね。カヤちゃんは自分の意見を強く言う子ではないですもんね。」
エルの言葉に深く頷くアキヒロ。
「いつもうるさい子なら叱れるんですけどねぇ……カヤが張り付いてぐずるなんて珍しいですから。こうなる前に気づいてあげられなかったのは本当に反省です。まだまだ僕もカヤの事をわかってないんだなって……」
すっと目を伏せ、カヤを見下ろすアキヒロ。
ふと腕時計を見ると思ったより時間が経っていた。
「あれ、そろそろ戻る時間だ。それじゃ、お二人さん、ごゆっくり〜」
小春日和な笑顔を残し、カヤを抱っこしたままアキヒロは去っていった。
「子供の精神的サポートは難しいわ。保育部で保護された子供たちと接してみて思う。」
「……カヤちゃんはまだ幸運な方だよな。」
「そうね。一概には言えないけど、サポートのできる身近な人がいるのは強みね。」
階段公園から海を見下ろす2人。アキヒロの背はもう見えなくなっていた。
「おれたちも幸運な方か……」
「そりゃそうね。自分の得意分野で仕事できてるし、とっくに大人だもの。」
公園の柵の雪を払い、寄りかかるエル。
「っていうかスレイマンがそんな話するの、面白いね。なんかあった？」
「……何にもないさ。世知辛いな、ってだけだよ。」
「本当？今、目が揺れたけど。」
エルに覗き込まれ、一瞬怯んだが直ぐにじっと見つめ返すスレイマン。
「まぁいいわ。治療じゃないし。」
そして興味なさそうに欠伸をするエル。
スレイマンの目元に苦笑が浮かぶ。
「本当に、そういうところエルなんだよなぁ」
「なんか言った？」
「エルは可愛いよな、って話さ。」
いきなり何を言うんだと怪訝な表情になるエル。
その顔が面白かったのか、スレイマンがいきなり吹き出した。
「何で笑うのよー！？」
エルの叫びは海風に溶けていった。
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