スカーフェイスは征野に呵う／べにざくろ

初陣

　ルーウィンはトラックの荷台に揺られていた。
　荷台は有蓋で軍警学校の訓練で幾度となく乗った荷台と遜色がなく、木製板張り折り畳み式の簡易的な座席の痛みに自分は未だに軍警学校の訓練中なのではないかという錯覚をルーウィンに起こさせた。
「緊張していますかぁ？」
　そんな彼の意識を現実に引き戻したのは間延びしたような女性の声だった。声を発したのは軍警学校には絶対にいない着物姿のセリカという名前の女性で、彼女は心配そうでいてルーウィンを安心させるように微笑みを浮かべて彼を見ていた。
　ルーウィンが車に揺られ向かっているのは軍警学校でもなければ訓練場でも無かった。これからトラックが向かう先にあるのは正真正銘の戦場だ。ギロク博士と名乗る者により機械汚染マス・ズギサされた機械人形マス・サーキュの掃討――それがマルフィ結社に入った今の彼の仕事だ。
　セリカの問いに、ルーウィンは内面に緊張を押し殺して精一杯の虚勢を張る。
「いや、別に平気っすね。この程度緊張しねーっす」
「初陣くらい震えていた方が可愛げがあるわよ、坊やマールィシュ」
　ルーウィンの回答に声を上げたのはセリカではなくルーウィンから見て前の助手席に座る別の女性だった。前を向いたままなので彼女の金色の髪しかルーウィンからは見えないが、彼女こそが荷台に乗るメンバーを統括する小隊長のエレオノーラ・ブリノヴァだ。別名をバーティゴという。
「小隊長。新兵いじめはそこまでです」
　そんなバーティゴを諌めるような声は運転席のクジマ・トルビンからかかる。涼やかなその声は女性と聞き違えそうな程であるが立派な男性であり、聞いたところによると、かつては衛生兵として軍に所属していたという経歴の持ち主でもあるらしい。
「あら、虐めてなんかいないわよ。緊張してても良いわよとの上官心じゃない」
「上官から言われたら余計に緊張すると思いますが」
　運転席と助手席の会話はテンポが良く、この状況下においてもルーウィンにテレビで観た「夫婦漫才」なるものを思い起こさせた。それを聞いていたら緊張は自然と解れていき、ルーウィンの顔には笑みすら浮かぶ。
　他のメンバーもそんなルーウィンの姿に気付いて安心したような顔を見せつつも優しく声をかけてくれるものだから、この班に配属になって良かったと思う。
　そんな中で、決してルーウィンに声をかけない人物が一人。
　否、正確には一体といった方が正しいであろう。
　荷台の隅に刀を抱えて座る彼にルーウィンは窺うように視線を向ける。
　セリカと同じような着物を見に纏った彼は、緑色という人間では有り得ない髪色を馬の尾のように結い上げている機械人形マス・サーキュだった。集中するかのように、はたまた他者を拒絶するかのように目を瞑っているが、それでも彼の造詣が美しいことは理解出来る。
　全ての機械人形が暴走し行方不明となった訳ではなく、何らかの理由で惨劇を引き起こすことを免れた機械人形がいるとは聞いていたが、其れをそのまま運用し続けるマルフィ結社というのはなかなか豪胆である。また、彼らが暴走する危険性は無いのであろうか。
　思わず茫と機械人形を見つめていると人間の視線に気付いたのか目を閉じていた機械人形が目を開いてルーウィンを見た。赤と白の目。赤は暴走した機械人形の目の色だと聞いたことがあったが、彼は元々赤い目の機械人形だったのであろうか。
　暫くルーウィンを見ていたアサギは飽きたのか用が済んだのか再び目を瞑る。もう少し彼を眺めていたいと思ったルーウィンはアサギに声をかけようとしたのだが。
「アレには近付くなよ」
　ルーウィンの隣に座っていた大男が、ルーウィンの見ていたものに気付いて囁く。茶色の髪に同色の目、大きな身体は熊を彷彿とさせる男だったが、中身は小心者であることをルーウィンはマルフィ結社に入る前・から知っていた。
「今更言われても遅いっすよ、ヴィドさん」
　ルーウィンも囁き返す。
　ヴィド――ヴィドクン・ビョルンソンは、ルーウィンの年上の幼馴染のようなものだった。彼の家もイコナに多い酪農を営んでおり、今回のテロによって働き手であった機械人形を失っている。ヴィドクンが結社にいて、しかも機械人形と戦う前線駆除リンツ・ルノース班にいるとは思わなかったが、その機械人形の損失を埋めるためだと聞いて納得した。彼の家はタイミング悪く新しく機械人形を買ったばかりだったから損失が大きい。マルフィ結社なる怪しい会社で手っ取り早く金を稼ごうというのだろう。
「さあ、お喋りは終わりよ」
　何処か歌うような響きを含んだバーティゴの声と共にトラックが止まる。周囲は戦場とは思えない程に静かだった。
　今回は既に暴走する機械人形がいるという事ではなく、機械人形の集団らしきものを見たという話を受けての出撃だから街が静かでもおかしくはない。機械人形なんて誤報だった。そうであって欲しいと思いながら、ルーウィンは仲間に続いて荷台から降りる。
「残念ながら奴等は居るわよ、坊やマールィシュ」
　視力の低い濁った白い目をルーウィンに向けたバーティゴが言った。
「居るって……見えるんすか、その目で？」
　思わず言ってしまったルーウィンの一言に班の空気が凍りついた。
　しかし、それを破るのは言われた張本人たるバーティゴの笑い声である。
「分かるのよ・・・・・。軍人の勘ってヤツかしら」
「すげーっすね、姐さん」
　ルーウィンは極々素直な感想を述べただけだった。それを聞いて顔を真っ青にするのは隣のヴィドクンだ。
「ルー！小隊長に向かって何て口を……」
「良いわよ、面白いじゃない。それに、此処で新兵がそれだけの口が叩けるなら安心だわ」
　ヴィドクンを手で制止して、バーティゴはそれはそれは愉しそうに笑った。

　*　*　*

　ルーウィンは緊張した面持ちで住宅街を歩いていた。手には銃。いつでも動けるようにと構えはとかない。
「小隊長にあんな口をきくから初陣で先陣任されたんだからな」
　その後ろをボヤきながら歩くのはヴィドクン。その隣をアサギが静かに付いてきている。
「べ、別に良いじゃないっすか。殿しんがりより先陣切る方がカッコいいし……」
「声震えてんぞ、お前」
「戦いに興奮してんすよっ。あー、機械人形どこっすかねぇ!?」
　ヤケクソのように言いながら角を曲がった瞬間、見えた人影に心臓が跳ねた。ヴィドクンが銃を構える。アサギは動かない。
「えっ、ちょっ、何すか!?」
　歳の頃はルーウィンと同じ頃、喋り方も似たような青年が青い顔で叫んだ。手にはコンビニの袋。髪色は何の変哲もない金色。人間だ。
「今、此処には機械人形の目撃情報が出ているんだ。何故君は外にいるんだ!?」
「目撃したかもって話っしょ？こんな所に機械人形が出るわけねーし」
　ヴィドクンの問いに青年はヘラヘラと笑った。確かにこの地域では最初に機械人形がいなくなった時以来、機械人形の暴走は無いからそう考えたとしてもおかしくはない。
「危険かもしれないし、家まで送るから」
「マジっすか？だったら女の子が居れば良かったのに……そっちの機械人形も男っしょ？惜しいっすねー」
　アサギは綺麗な顔であるが女性型でもなければ女性顔ではなく、青年は残念そうにというよりは揶揄うように笑っていた。あまりにも危機感のない青年にルーウィンはコイツなんて機械人形に襲われればいいとすら思う。
　四人に増えたルーウィン一行は他に人間の歩いていない街を歩く。中には家の中で息を潜めている人もいるのだろうが、人間の消えた街は静かで異常に思われて野良猫が前を横切っただけで空恐ろしい。
「なぁ、ルー」
「何すか？」
「今の……黒猫だったよな？」
「……そうっすね」
　移民が多く各国の迷信が入り混じるカンテ国の中では黒猫を不吉の象徴とする人達も少なくはない。そして、その人達にとっては黒猫が目の前を通り過ぎることは不幸の前兆といわれているのだ。ルーウィン自身は動物に不吉も何も無いと考えているため普段ならば一笑に付すところであるが、現在の状況ではヴィドクンの気持ちも分からなくもない。
「うっわー。黒猫とかマジ不吉なんすけどー！」
　言えば真実となりかねないためルーウィンやヴィドクンが口に出さなかったことを青年がヘラヘラと笑いながら口に出した。ルーウィンが思わず睨みつけるように青年を見ると「うち、親がトレベーネからの移民なんすよ」と別に聞きたくもなかった個人情報を漏らす。確かにトレベーネ共和国は世界的に見ても黒猫を不吉とするお国柄だが、青年自身は迷信の類は何も信じていないらしく「ウケるー」と何も楽しくないのに笑っていた。
　そんな青年の笑いが途切れた時だろうか。
　沈黙を貫いていたアサギが鯉口をくつろげた。鍔を指で押したことで刀身が鞘から少しだけ顔を覗かせ、日光を反射して煌めく。
「……マジっすか」
　刀を使ったことはないが、それが抜刀の前の動作であることをルーウィンは知識として理解していた。アサギが刀を抜こうとしている。それは即ち。
「ルー!!」
　ヴィドクンが青年を庇うように動き、ルーウィンの名を叫ぶ。
　ゲームならば最初の敵は弱くてお約束通り正面から一体で来る。しかし、これは現実。そんなお約束は何も通用しないことをルーウィンはその時、ようやく理解した。
　屋根の上から二体の機械人形が飛び掛ってくる。武器は無い。
　今日の空のような薄青の髪をした二体が真っ赤に目を光らせているのを、ルーウィンはどこか他人事のように見つめていた。銃を構えているのに引き金が指が震えて引けない。
　自分の死、という本来なら考えられないはずの感覚をルーウィンが感じている時、動いていたのはアサギだった。ルーウィンの目前に迫っていた一体の首の関節に突き技を決める。その機械人形の目から急速に光が失われていくのを最後まで見ることなく、アサギは更に身を返してもう一体へと迫った。
　銃声が響く。ヴィドクンが撃ったのだ。
　しかし、ルーウィンから見ても震えていることが分かるヴィドクンの弾が機械人形には当たることなかった。そして機械人形の凶器ともいえる手がヴィドクンと青年に迫る前に、機械人形の耳に吸い込まれるようにアサギの刃が刺さることでそれもまた行動を止める。
　機械人形が倒れる音で我に返ったのかヴィドクンが動いた。
「こちらアルファ！接敵せり、繰り返す接敵せり！」
　小隊長との連絡手段であるトランシーバーに向かって叫ぶ。
「ブリノヴァ小隊長！助けて下さいッ……!!」
　それは報告ではなく、もはや懇願の悲鳴のようであった。
　泣き出しそうな顔のヴィドクンに、青年へ、ルーウィンへ恐怖が伝播していく。
　唯一の恐怖が伝播しない存在であるアサギは恐慄く人間達をどこか冷めたような目で見ると刀を構え直した。アサギの視線の先には新たに現れた数体の機械人形。
「あ、アサギさん……俺も……」
「下がっていろ」
　アサギは歩きながらルーウィンを一瞥して声を発するが、それは人間の身を心配して出てきた優しい言葉でないことは明らかであった。
「邪魔だ」
　明確な拒絶。そして抜刀したままアサギは機械人形へと向かっていく。
「い、良いじゃないっすか……機械人形に任せましょうよ」
「そ、そ、そうだぞ、ルー。アサギに任せよう」
　青年とヴィドクンが抱き合うようにして恐怖に震える声でルーウィンに悪魔の囁きのように告げてくる。確かにアサギも機械人形。彼ならば傷を負っても――最悪、壊れても機械マス班が直してくれるが、人間ならばそうはいかない。

――アサギだって自分が行ったら「邪魔だ」と言っているじゃないか。アイツに任せれば全部終わるだろ？

　頭の中で自分の甘い部分が囁く。
　その甘さに身を委ねれば何と楽なことか。
　機械人形と戦うためにマルフィ結社に入ったとはいえ、それは死にたいからではない。死にたくないのだから、アサギに全てを任せてしまえばいいのではないか。大人しく何もせずに待っていればアサギが機械人形を倒してくれて、きっとヴィドクンの無線を受けたバーティゴ小隊長が誰かしらの応援を送ってくれる。
　アサギに任せれば。待っていれば。
　そんな甘い考えをルーウィンは頭を振って掻き消した。
　それでは駄目だ。
　何のために自分はここにいるのか。
「それでも、俺は行きます。ヴィドさんはソイツ守ってやってください」
　そう言ったルーウィンをヴィドクンは信じられないようなものを見るような目で見ていた。ヴィドクンが震える唇を開こうとする前に、その声を聞いて決心が鈍らないうちに、ルーウィンはヴィドクンと青年から目を逸らしてアサギへと目を向けた。
　すでにアサギは機械人形達と戦っていた。刀で丈夫な機械人形の身体を切断することは不可能なため、彼は機械人形の手を掻い潜り関節の隙間に刃を滑らせてコードを斬ることで行動停止に追い込む戦いを続けている。
　そんな中に銃を向けてアサギを誤射する訳にはいかないだろう。
　素早く判断したルーウィンは身に付けていたショルダーホルスターへ銃をしまうと、代わりに大振りなサバイバルナイフを手に取った。
　いきなり接近戦をする事になるとは思わなかったが、やるしかない。
　意を決してアサギの元へと走り寄るとアサギに群がっていた機械人形が全員こちらを向いた・・・・・・・・・。赤く光る目に怯みそうになるが想定内だったので勢いそのままに突っ込み、手近にいた機械人形の耳にナイフを差し込んだ。
　暴走した機械人形は人間を狙う。そんな機械人形の元へ人間が近付けば当然の如く奴等が狙うのはルーウィンだ。
「囮のつもりか」
　アサギの声がルーウィンの耳に届くが、それに答える余裕はルーウィンには無かった。ただひたすらに我武者羅にナイフを抜き、次の機械人形へと向かう。
　結果として機械人形の視線がルーウィンに全て向いたため、アサギの行動は格段に楽になっていた。後ろから首を斬れば良いだけの、もはや作業と言っても過言では無い。
　気付けば立っているのはルーウィンとアサギだけになっていた。
　周囲に転がるのは屍の如き機械人形だけだ。殆どがアサギの手によるものである。肩で息をするルーウィンに対して、機械であるアサギは当然のことながら息一つ乱していない。
　そんなアサギをボンヤリと見つめていると、人の近寄ってくる音がして再び機械人形が現れたのかとナイフを構え直したルーウィンだが、現れたのはクジマが率いる仲間達だった。
「途中、此方も襲撃があり遅れました」
「そうだったんすね……こっちはアサギさんのおかげで助かりました」
　ルーウィンとしてはアサギが機械人形の殆どを片付けてくれたのだから真実を言ったつもりだった。
　しかし、それを聞いたクジマの目に一瞬だけ何とも言えぬ光が宿ったような気がしたのは、はたしてルーウィンの気のせいだったのだろうか。

組手

　アサギは強かった。
　建造物の多い市中での戦闘で銃火器の類を無闇矢鱈に使えば建物に被害が出てしまうため、やむなく近距離武器の使用を強いられる。そんな中でのアサギの活躍は異常とも言える程に優秀だった。
　的確に機械人形マス・サーキュの稼働を停止させていく姿は剣鬼の如く。彼がいれば全ての機械人形が機能停止させられるのではないかと人々に錯覚させる程だった。
　しかし、そんなアサギにも問題があった。
　アサギは正常な機械人形故に機械人形法により人間を傷つけることは無い。ただ、彼自身は人間を傷つけることはなかったが間接的に傷付く人間は少なくなかった。それはアサギが周囲を顧みず振るった刀で吹き飛ばされた機械人形や建物の損壊による巻き込まれ事故だ。それを何度となく小隊長のバーティゴは諌めた。そんなバーティゴの言葉に対してのアサギの反応は「あいつらは弱いから負傷を最低限に抑えようと思ったら俺が一人で戦った方が早い」だ。
　マルフィ結社は軍隊ではない。民間人の寄せ集めだ。
　機械人形であるアサギが好き勝手に暴れていては己が遭った被害や「ミクリカの惨劇」「ケンズの悲劇」を思い出してしまう者もおり、バーティゴを通り越して人事部へ他班への転属願いや果てには退職を出す者もいる始末であった。
「ルー、お前また行くのか？」
「当然、行くに決まってんじゃないっすか。ヴィドさんは？」
「俺はパス」
　そんな中でルーウィンは異常者だった。彼は戦場では嬉々としてアサギに付き、結社に帰ってくればアサギに手合わせをせがむ。同郷のヴィドクンに止められても、そんなの何処吹く風だ。
「残念ですがアサギは機械マス班でメンテナンスですよ」
　アサギを探していわゆる待機部屋へ入ると、バーティゴの代わりに書類を読み上げつつ整理をしていたクジマに言われてしまい、ルーウィンは肩を落とす。今日は身体を動かしたい気分だったのにアサギがいなければ誰と手合わせをすればいいのか。
「組手の相手を探しているの？」
　そんな沈んだ様子のルーはバーティゴの目にも分かりやすかったのか彼女が笑いながら立ち上がる。それを少しだけ眉を顰めて「小隊長」と役職を呼んで諌めるクジマだったが、バーティゴは笑みを深めるばかりだった。
「良いじゃない。部下の育成も小隊長の仕事よ」
「えっ、姐さ……小隊長が相手っすか？」
　バーティゴの目が悪いことはルーウィンも知っていて思わず声を上げる。
　とはいえここにいる別の人間――見た目が女性的なクジマを相手にするのもやりにくいものがある。しかしながらバーティゴに至っては性別上、立派な女性であるし、第一、余り目の見えない彼女と組手をするのは流石に気が引けた。
　そんなルーウィンの心配が分かっているのだろうバーティゴは鼻で笑う。
「私は坊やマールィシュ程度の相手なら十分出来るわよ」
「じゃあ、俺が勝ったら『坊や』呼び禁止で良いっすか？」
　ルーウィンの言葉にバーティゴが思いがけないことを聞いたとばかりに眉を上げたが、それ以上はルーウィンには何も言わないで頷いた。
「それじゃ、クジマ。後は頼んだわね」
「はい、小隊長。後は此方で片付けておきます」
「助かるわ」
　ふんわりと柔らかく微笑んで頷くクジマと、ルーウィンに「行きましょう」と声をかけて颯爽と歩き出すバーティゴの姿にルーウィンは一瞬、気に入っている映画のキャラクターの姿を重ねて見ていた。『テリコ・エマ』というバイオレンスアクション映画の主人公のエマはバーティゴのようにキリッとした女性であり、その旦那はクジマに似ているのだ。
　バーティゴとクジマ、この２人も実は恋人同士だったりして。
　そんなことを思いながらバーティゴに付いて部屋を出るルーウィンなのであった。

　*　*　*

　練習場で組手をしようとしていたバーティゴは薄らとしか見えぬ目を思わず瞬いた。組手をすると言ったルーウィンは構える訳でもなく、ただその場に突っ立っているだけだからだ。
　しかし、それが彼の使う近接格闘技なのだとバーティゴは直ぐに判断する。一見、その場に立って何も構えることもしない戦闘スタイル――それはバーティゴの故郷の国であるスニェークの軍隊格闘技ルコパシヌイ・ボイの一種だ。
「スニェークに知り合いがいるの？」
「親父がスニェークで学んだらしくて、それをそのまま教わった感じっすねー」
　組手をするとは思えない雰囲気を保ったままルーウィンは言う。これは軍隊格闘技の特徴とかではなく、単純にルーウィンという青年の人間性であり、彼はヘラヘラと言葉を紡ぐ。
「さすがスニェーク語を使う姐さんっすね。よくこれ使うと『真面目にやれ』とか怒られるんで使わないんすけど……ちゃんと俺のやりたい事分かってくれるとかマジヤベーっす」
　ルーウィンが使おうとしている独自の呼吸法を用い自然体を旨とするその武術は、徹底した脱力と柔らかな動作が特徴的だ。故に知らない者が見れば、いつになっても構えずやる気のない人間に見えなくもない。見えなくもないが『真面目にやれ』と怒られるのはルーウィンの性格故だろう。
「私の『坊やマールィシュ』が通じているから、もしかしたらと思っただけよ」
　バーティゴも相手がそれを使うなら、と同じように拳を構えるのを止めた。その姿を見たルーウィンが途端に嫌な顔をすると、表情が見えている訳では無いのだろうが空気感が伝わったらしくバーティゴの唇が弧を描いた。
「あら、どうしたの？同じ格闘技を使う相手とやったことがない訳じゃないんでしょう？」
「そーなんすけど……親父としかやったことなかったんで、やりにくいっすね」
「尚更良いじゃない。可愛がってあげるわよ」
「……じゃ、宜しくお願いします」
　相手をしてもらうことに感謝をする気持ちが一応あったルーウィンはバーティゴに一度頭を下げる。
　そして顔を上げるやいなやバーティゴに走り寄ると彼女の首を狙うように右手で手刀を放つが、バーティゴの方が上手うわてだった。放たれたルーウィンの手首を義手の右手で掴むとそのまま身体を捻り、ルーウィンが気付いた時にはバーティゴの右手が生身の左手へ変わりルーウィンの身体は宙を舞っていた。
「ッ!?」
　小手返しの要領で軽くいなされて床に落ちる。驚いてバーティゴの顔を見ると、彼女は白濁した目をルーウィンへ向けて鼻でせせら笑った。
「この程度か」
　バーティゴは日常と戦場で話し方が変わる。
　これは、戦場のバーティゴだ。
　そんなバーティゴに萎縮するどころか、ルーウィンは楽しくなってくる。
　小隊長が真剣にルーウィンの相手をしてくれようというのだから、此方だって真剣に勝利を掴み取りにいかねばなるまい。
「まさか、そんな訳ねーっすよ！」
　掴まれたままの手を振り払うと身体を反転させ、バーティゴの腹を狙うように腰を跳ね上げながら押し出すような蹴りを放つ。ダウン状態の人間が攻撃に転じるならばリーチと威力のある蹴り技を使うのは当然のことで、見切っていたバーティゴの腹にルーウィンの足は僅かに当たるものの大したダメージになる前に彼女は素早く後退して距離をとってしまう。
　しかし、それで良い。
　体勢を崩していたルーウィンは無駄に追撃することなく、軽々と後転して立ち上がる。無理な姿勢からの攻撃を続けても相手に隙を与えるだけになるのだから後追いは必要ない。
　体勢と呼吸を整えて再びバーティゴへと走る。今度は左手でバーティゴの着ている服の胸倉を掴もうとするが、掴んだと思った瞬間に胸部をバーティゴの拳で強打されて思わず身体が曲がった。
「力を入れ過ぎだ」
　バーティゴが言った言葉はルーウィンの耳に届いていなかった。的確なバーティゴの強打によってルーウィンの耳は遠のき、視界が狭まっていたからだ。これが体内の酸素量が非常に少なくなったことによる状況であることを過去の父との組手の経験からルーウィンは知っていた。このまま何もしなければ、待っているのは失神という未来だけだ。
　最悪の未来を回避する為、たたらを踏みつつバーティゴから距離をとると小刻みに呼吸をして体内中に酸素を巡らせる。
　この独特の呼吸法により痛みを逃がす方法こそがスニェークの軍隊格闘技の特徴ともいえた。
「戦場で敵は待たない。今ので死んでいるな」
　意識が戻ってきたルーウィンにバーティゴの辛辣にも聞こえる言葉がかかるが、それは事実だ。特に今、ルーウィン達が相手にしているのは人間に似せた性格すら失った機械人形である。悠長に呼吸が整うのを待ってくれる機械人形なんぞいないだろう。
「それと、この格闘技を機械人形に使うのは止めろ。これは呼吸する人間だから使えるものだ」
「言われてみるとそれも、そーっすね……」
　バーティゴの言葉にルーウィンは頷く他ない。
　そんなルーウィンの素直さにバーティゴは笑みを浮かべた。それはとても綺麗で、比例するように嫌な予感を抱かせる笑みだった。その笑みを見た瞬間に身体が「逃げろ」と警鐘を鳴らしてくるが落ちかけていた意識を戻したばかりの身体が上手く動く筈もなく、呆気なくバーティゴに距離を詰められて足払いをかけられ尻餅をつくように転倒した。
「痛ッ……えっ、ちょっ!?」
　転倒させられて終わりかと思えばバーティゴに服の襟の首根っこ部分を捕まれて自由を奪われると俯せにされる。起き上がろうとルーウィンが床に手を付くと同時に、上から重みが背中にかかってルーウィンは一瞬息が止まった。
　どうにか身体を捻れるだけ捻り、背中へ目線を走らせるとバーティゴの肩までの金色の髪と女性にしては逞しい背中が見えた。つまり、バーティゴはルーウィンの足の方に顔を向けて彼の身体を跨いで座っている状態だったのだ。
「あー……えっと、『俺は女に乗られる趣味はねーぜ』ってやつっすかね」
　昔観た映画のモテる男が言っていたセリフを真似てみるとバーティゴが鼻で笑ったのが聞こえた。その笑われたという事実に怒るどころか、そういえばアレは男は仰向けで女は男の方に顔を向けて座っていたから今と状況が大分違う事にルーウィンは気付く。
　そんな事を考えているうちにバーティゴに足首を掴まれた。
　嫌な予感が再びした。
「あでででで!?」
　もはや「痛い」と叫ぶ事も出来ない痛みがルーウィンを襲ってきた。足首を思いきり関節技で締められているのだ。
「まっ、ますっ……」
「ん？どうした？」
　息も絶え絶えにルーウィンは叫ぶ。
「機械人形に関節技は効かねーっすよね!?」
「残念。それを考える余裕はあったのね」
　そう言って呆気なくルーウィンの足首を離すバーティゴ。開放されたものの足首は痛みを訴えてきた。捻挫や骨折という事態にはならない程度にバーティゴも加減していることだろうが、痛いものは痛い。
「じゃあ、どうしようかしら。いっそお尻百叩きの刑とかにしたら貴方、降参するかしらね」
　その言葉にバーティゴとしているのは「坊やマールィシュ呼び」を止めさせるという模擬試合だった事を思い出す。バーティゴに乗られたまま、軽くぺしぺしと尻を叩かれながらルーウィンは不敵に笑った。
「ケツ叩かれた位で降参なんかしねーっすよ？」
「あら」
　ルーウィンの上で身体を捻って振り返ったバーティゴは、再びそれはそれは綺麗に微笑んだ。
「パンツ脱がしての百叩きは痛いわよ？」
「すみません、俺が悪かったっす」
　あっという間にルーウィンは降参した。

食堂

「あの小隊長と組手やるとか、お前馬鹿なのか？」
　昼食時、ルーウィンから事のあらましを聞いたヴィドクンの口から飛び出したのはそんな呆れの色を含んだ声だった。「馬鹿」という言葉に若干の苛立ちを感じつつもルーウィンは否定の声を上げる。
「俺、馬鹿じゃねーし。それに姐さんとの組手も結構楽しかったっす。色々指導もしてくれたし」
「いやいやいやいや。絶対に楽しくないって」
　言いながら自分とバーティゴが組手をしている想像をしたのかヴィドクンの顔色は悪かった。それを見ながらルーウィンは赤スープを啜る。
『偉いわね。拳ダコが出来ているじゃない』
　ケツ百叩きを免れたルーウィンの手を触ったバーティゴは、そう言ってルーウィンを褒めてくれた。
　拳ダコは拳頭部位の皮膚を厚く硬くしたもので、拳頭を保護し、皮膚の損傷、中手骨の骨折等を防ぐ効果がある。“ 点 ”を突ける達人ならともかく、素人は“ 面 ”で突くものなので拳を強くすることは有効といえた。もちろん、そんな拳ダコは一朝一夕で出来るものではなく、バーティゴは拳からルーウィンの努力を読み取った上での発言だ。
　バーティゴは強い。
　本人は深く過去を語ろうとしないが軍人であったことは間違いなく、そんな彼女に褒められたことはルーウィンにとって大変に喜ばしいことなのだ。
　そんなことを思い出しニヤニヤとするルーウィンと正反対に、散々脳内で展開させた恐怖の組手妄想を落ち着かせようとしたのかヴィドクンも白スープを啜った。温かなスープで一息ついてから、彼は口を開く。
「まぁ、お前……昔から『強い女』好きだったもんな。もっとこうフワフワして守りたい感じの女の子が良いとか無い訳？」
「あー、ヴィドさんはそういう女好きっすもんね。でも、そんな女は牧場経営出来ねーっしょ」
「そうなんだよな……」
　ルーウィンの言葉にヴィドクンは露骨に肩を落とす。
　二人の故郷であるイコナは酪農の盛んな地で、例に漏れず二人の家も牧場を経営している。ヴィドクンが好む「フワフワして守りたい感じの女の子」は奇跡的に付き合えたとしても彼の実家を知れば離れていた。機械人形を投入することで労働力の穴埋めは出来ても、結局は家族となれば「やらなくていい」と言っても何だかんだと酪農をやらない訳にもいかないからだ。
　酪農に付き物だった臭気対策をしたり、労働力として機械人形を購入したりと酪農家達も色々と手は打っている。しかし、それでもイコナは万年後継者不足、子供不足が悩みの土地だ。
「お前ん家、今後は牛増やす予定あんの？」
　恋愛の話だったはずが牧場の話にすり変わっていた。
　しかし、恋愛の話よりもそちらの方が面白いルーウィンは気にせず口を開く。
「親父とお袋は今いる５０頭で手一杯みたいっすね。それこそ機械人形でも投入しねーと無理っしょ」
　ルーウィンの家はヴィドクンの家と違い『特別牛乳』という単価の高い牛乳を出荷しているため格段に牛の数が少ない小さな牧場であった。それ故に機械人形を労働力として使う必要がなく、今回のテロ騒ぎでも被害を受けることがなかったのは幸いと言うべきであるのだが。
　尚、余談ではあるがイコナで機械人形が暴れた際、ルーウィンの父親は昔の傭兵の血が騒いだのか獅子奮迅の活躍を見せていたらしい。其れを聞いて「親父に負けてられるか」とルーウィンが早々に戦えるマルフィ結社に入社を決めたのは先月のことである。
　タラのすり身のボールフィスキボールを口に運んで咀嚼したヴィドクンが言う。
「だったらアサギを貰っていけば良くね？アイツ、主人いないんだろ？」
「アサギさんを？」
　ヴィドクンの言葉にルーウィンは目を瞬く。
　マルフィ結社には様々な理由で汚染を免れた機械人形がいるが、彼等は汚染は免れても主人を喪っているものが多い。主人がいなければ動けない機械人形故に基本的には上層部が主人登録をして運営されている結社の機械人形であるが、必要に応じて一般の社員が主人になることも可能である。
　アサギの主人になる。
　それは酷くルーウィンには魅力的に聞こえて、思わず唇に笑みが乗る。
「良いっすね」
「だろ？」
「でも……」
　自分の予想に反して逆説の接続詞を口にしたルーウィンに思わずヴィドクンは身を乗り出した。ルーウィンの言葉を聞き漏らさないように、聞き間違えないように。
「アサギさんは剣を持つのが素敵なんであって、牛の世話をするアサギさんは見たくないっす」
　アサギは機械人形だ。酪農に必要な知識や技術をインストールさえすれば何の苦もなく仕事はこなしてくれることだろう。
　しかし、それはルーウィンの好きなアサギではない。
　酪農で作業をすることを考えれば、あの馬の尾のように長く結った髪も邪魔になるし東國の着物を着ている訳にもいくまい。あくまでも機械であるアサギは主人となったルーウィンの命令に従って髪を切る事も服を変えることも厭わないだろうが、ルーウィンにとって、そんなアサギはアサギではない。
　そんなことを語るとヴィドクンは呆れきった顔をした。彼にとっては機械人形はあくまでもいないと困る労働力であり、彼の設定された人格を矯正することに何の抵抗もないからだ。
「変な拘りあんのな、お前」
「縁があれば折角なんで別の機械人形貰っていきますけどね。アサギさんは駄目っす」
「そういうもんなのかねぇ……」
「そういうもんなんすよ」
「あ、ルー君とビョルンソンさん！こんにちは」
　その時、明るいというよりは些か現在の時勢的には能天気にも聞こえる少女の声が二人の名を呼んだ。顔を上げればニコニコと笑う既知の少女と無表情の見慣れぬ灰色髪の男性の姿がある。
「ミアちゃん、こんにちはー」
　途端に相貌を崩すかのように締まりのない顔でヴィドクンが少女――医療班のミア・フローレスへと挨拶を返した。それを見てルーウィンは密かにヴィドクンの言っていた「フワフワして守りたい感じの女の子」は、こういうタイプかと納得する。とはいえヴィドクンとミア、年齢が離れすぎていやしないだろうか。
　ミア・フローレスは保護した軍警によって結成早々のマルフィ結社へと送られてきた少女で、前線医療には従事しないものの医療班にいる関係で前線駆除班とは顔を合わせることが多かった。そんな見慣れた彼女よりもルーウィンが気になったのは隣の見慣れぬ静かに立っている男性だ。
「フローレス、そっちの人は？」
「えっ!? あ、こちらの方はネビロス・ファウストさん。昨日から医療班に配属になった方なの」
　そう言って何故か嬉しそうな顔をしてミアが笑い、隣のネビロスは静かに会釈をした。
　そんな分かりやすいミアの表情に、そういう関係の機微に疎いルーウィンでも直ぐに分かる。ミアはネビロスに惚れている。昨日の今日で、というのだから一目惚れというやつか。
　確かにネビロスは背も高く、長い前髪が些か邪魔をしているがその下から覗く顔は綺麗な方であると思う。しかし「生きる力」というのが全く見えない幽霊のような男だとルーウィンは彼を評し、自身が怪談嫌いであるが故に彼とは仲良く出来ないだろうと判断した。
　しかし、自身が仲良く出来ないであろう男と判断してもミアにとっては(推定)想い人。ネビロスを幽霊のようだとバカにすることはせず、ミアをからかう方に話を持っていく。
「何だよお前、青春してんじゃん。男と二人で飯食うなんてさ」
「ちっ、違うよ！」
　ルーウィンの言葉に赤スープのような顔をしたミアが首を横に振る。そんなに首を振ったら手にしたトレイの上に乗った昼食が吹っ飛ぶのではないかと心配したが、さすがにそんな事はなく杞憂に終わった。
「ほら、アキ先生とホロウさんと一緒！」
　ミアが視線を向けた先には医療班のアキヒロ・ロッシとヴォイド・ホロウが食堂の席に――反対側にミアとネビロスを迎えるためなのだろう――並んで座っている光景があった。暖かな雰囲気のアキヒロと、硝子玉のような感情の読めない目をしたヴォイドが並んで座っているのは何とも異質な雰囲気があり、昼時の食堂だというのにソコを中心に周辺のテーブルが空いている状態であった。
　ルーウィン達の視線に気付いたアキヒロは陽だまりのようと称される笑みを浮かべて此方へと会釈をするが、ヴォイドは一瞬視線を送るものの我関せずとばかりにさっさと挽麦クァ・バツを口へと運び始めていた。
「ホロウさん、ご飯食べるの早いですっ。待っててくださいっ！」
　それを見たミアが焦った声を上げる。
　しかし、聞こえているであろうがヴォイドはスプーンを運ぶ手を止めない。
　噂では彼女はあのミクリカの岸壁街というスラム街の生き残りであると囁かれていた。更に噂では、ヴォイドの魅惑的な肢体に彼女の前職を娼婦と断定した男達が彼女に迫り入社早々、退社を余儀なくされたとかいう。
　そんな彼女と一緒に食事をとろうとしているのだからミアは豪胆なのか、はたまた、ただのアホなのか。きっと後者だろうとルーウィンは思う。
「ファウストさん。俺、前線駆除班第三小隊のルーウィン・ジャヴァリーって言います。で、こっちが」
「同じくヴィドクン・ビョルンソン。宜しくな」
　ヴォイドに対して意識の行ってしまったミアを尻目に、ルーウィンとヴィドクンがネビロスに対して名乗るとネビロスからは感情のこもっていない「宜しくお願いします」との声が返ってくる。小さな声だが、聞きやすい良い声だ。顔も良ければ声も良いのだから、さぞや彼は女性にモテることだろう。
「ビョルンソンさん、ルー君ごめんなさい。また医療班に来てください……っていうのも変ですけど、今日は行きますね」
　このまま此処で喋っていたらヴォイドと食事が出来なくなると判断したであろうミアがそう言って２人に軽く頭を下げる。
「おう、またなー」
「バイバイ、ミアちゃん」
　申し訳なさそうにへにょりと眉を下げてミアはネビロスと去って行く。
　去っていくといっても先程からアキヒロとヴォイドが見えていたようにそんなに遠い訳では無いのだが。
　ミアとネビロスが２人に背を向けるように席に付いたのを見届けてルーウィンは後ろを見るために捻っていた身体を戻した。視線の先にいたのは凹みきった顔のヴィドクンだ。
「失恋っすか、ヴィドさん」
「いや、そりゃミアちゃん若いし、俺みたいなオッサン駄目だとは思ってたけどさぁ……多分、ファウストさんと俺は年齢大差ないよ」
　ブツブツ言いながらヤケクソのような勢いでヴィドクンは昼食を食べていく。
「年齢より見た目の問題じゃねーすか？」
「失礼だな!?」
「事実なんで」
　ルーウィンの言葉の刃物で一刀両断されたヴィドクンは「ならば機械班のアンちゃん……いやいや、それとも……」と新たな恋の相手を見つけようと呟いていたが、ルーウィンはそれに何を言うわけでもなく黙々と食事を続けた。ヴィドクンは昔から惚れ症だ。いちいち失恋を慰めていたら此方が疲れてしまう。
　ルーウィンがデザートの牛乳プリンに取り掛かろうとした頃、ようやくヴィドクンは今回の失恋のショックが癒えたらしい。それでも尚、ミアを名残惜しそうに見つめて呟く。
「本当、明るくて元気で良い子で……何か平和の象徴みたいだよなー、ミアちゃん」
　平和の象徴。
　随分とまた大きなことを言い出すものだ。
　そんな平和の象徴といえば「鳩」という鳥である。
　ルーウィンはヴィドクンの言葉に納得して頷いた。
「あいつ、鳥頭なところがソックリっすもんね」
「……お前、本当に失礼な奴だな」

幕間

「――と、以上がバッグの中身となります」
　コンパクトに納まったメディックバッグを手に微笑むクジマに、ルーウィンは感嘆しきりだった。
「今は医療班も居ますから以前よりは中身が少ないですけどね」
「すげーっすね。衛生兵って」
　支部の前線駆除班に与えられた部屋で待機をしていた中、ルーウィンはクジマにねだって彼のメディックバッグの中身を見せてもらっていた。衛生兵メディックはその名の通り戦場での医療に携わる兵士であり、そんな衛生兵の持つ医療器具が入った鞄は見た目に反して物が詰まっているものであった。止血帯やガーゼに包帯といった基本的なものから、エピペンや胸骨穿刺用点滴キットといったものまである。
　医療班が後方で待機しているマルフィ結社では前線駆除班が医療道具を持つ必要は薄いのかもしれないが、クジマは元衛生兵という経歴から最低限の医療道具を持って戦場へ臨んでいた。
「ルーウィン君は軍警学校で応急処置は学ばれてますよね」
「そうっすね。つっても俺、結構大雑把なんで成績良くなかったんすけど」
　もっと真剣に学んでおくべきだったと過去の自分を恥じらいながらルーウィンは指で頬を掻いた。そんなルーウィンに今日もクジマは優しく微笑む。
「雑なのはいけませんが迅速さは美徳ですよ」
「そー言ってくれんのはクジマさんだけっす。あ、そーだ。もし良ければクジマさん、俺に応急処置改めて教えてくんねーっすか？」
　ルーウィンの依頼に少し驚いたように髪と同じ麦穂のような色をした目を見開いたクジマだったが、やがてその目に柔らかなものを浮かべると頷く。
「ええ、私で良ければ」
「クジマさんに教われば真面目にやれる気がするんすよね。宜しくお願いします」
「戦術的戦傷救護ガイドラインの救護方法を覚えれば戦場での部隊の生存率が５．７パーセント上がります。良く覚えてお姉様・・・の為に頑張りましょうね」
　クジマの言葉に空気が止まった。
　ルーウィンの頭が悪くてクジマの言葉が理解出来なかったからでは無い。
　いや、ある意味では理解出来ない言葉があったからというべきではあるが。
「お姉様・・・……？」
　思わずルーウィンは、その言葉を驚きを隠せない顔で呟く。
　「お姉様」という言葉事態は何らおかしいことの無い年上の女性に対する敬称の一つだ。しかし、今の会話の流れからするとクジマの言う「お姉様」とは即ち小隊長のバーティゴに他ならない――ような気がする。クジマは日頃、バーティゴの事を「小隊長」と役職でしか呼んでいないはずであるが、一体どうしたことというのだろうか。
「あ……」
　失言に気付いたとばかりにクジマは手で口を抑えるような動作を見せたが、少し後に手を外す頃にはその唇には笑みが乗っていた。
「……ルーウィン君やセリカさんにつられてしまいましたね。皆さんが小隊長の事を姉と慕っているから、つい呼んでしまいました」
　そう言って、悪戯が見付かってしまった子供が小さく舌を出すような動作をしてみせるクジマの顔は何とも恥ずかしそうだった。
　おそらく今のクジマの「お姉様」発言は、小学校で教師をうっかり「お母さん」と呼んでしまう現象のようなものだったのだろう。確かにアレをやってしまう事は恥ずかしい事だなと考えたルーウィンは照れるクジマを安心させるように笑った。
「大丈夫っすよ。誰にも言わねーっす」
「お願いします。特に小隊長には絶対に機密事項にして下さいね」
　口の前に人差し指を立ててクジマがルーウィンに念を押す。
　普通の成人男性がやったなら気持ち悪い動作に見えただろうが、クジマは女性的にも見える容姿をしているため、却ってそれが似合って可愛らしくも見えた。
「了解っす」
　元々誰にも吹聴するつもりはなかったが、クジマに懇願されたのだから余計に誰にも言わないようにしようとルーウィンは固く誓い、壁際へと振り返った。
「アサギさんも今の会話、記録メモリから削除デリートしてくださいね」
　壁際には充電ボードに乗り、沈黙を保ったアサギがずっと居たのである。
　ルーウィンの声を聞いて反応するように瞑っていた目を一瞬開いてルーウィンを見たアサギだったが、他に何の反応をすることもなく再び目を閉じてしまう。しかしルーウィンの言葉を聞いて目を開いただけでも彼の耳にルーウィンの言葉が届いた証拠であり、ルーウィンは満足する。
　アサギは余計な口を叩くような真似はしない。
　聞こえたならば必ず言うことは守ってくれるという期待をルーウィンは勝手にアサギへと抱いていた。
「しっかし、動かねーアサギさんって機械人形って言うよりタダの人形みてーっすよね。警備用の人形っていうより、飾って鑑賞されてそうっていうか」
「とても綺麗ですよね」
　ルーウィンの何気なく言った言葉に、クジマが恍惚とした顔で同意している事をアサギを見ていたために気づかないままルーウィンは反駁する。
「いや、それでも俺は生き生きと動いてるアサギさんが好きっすね」

　*　*　*

へるるるる、ガチャ！
　ワンコール、遅くとも２回目のコールが終わるまでに取るのが支部の電話ルールだ。電話機の傍にいたセリカが素早く反応し受話器を耳に当てる。
「はい。こちら、第１支部駐在第三小隊です」
　硬い声でセリカが電話口で応対するのを聞きながら部屋にいたメンバーは各々腰を上げていた。支部の電話が鳴る時、それは出動の要請に他ならないからだ。
「では、失礼致します」
　電話を切ったセリカがバーティゴへ素早く電話の内容を伝え、バーティゴへクジマが支部内に命令を伝えるためのマイクを渡した。そのマイク越しにバーティゴは第三小隊のメンバーだけでなく共に戦場へと馳せ参じることになる別室で待機している医療班へも放送で的確な指示を飛ばす。
　それを聞きながら準備をしていたルーウィンはバーティゴの無駄のない指示に毎度の如く感動していた。目が見えているかのように――それどころか支部内全部を透視しているかの如く指示を飛ばせるバーティゴは本当に天才なのだと思う。
「行くぞ」
「了」
　あえて「了解」ではなく「了」というのはバーティゴが持ち込んだ軍隊規則だ。「了解」と「了」では１秒も違わないのであるが、そのほんのわずかな時間が任務に影響することもあるためだ。その１秒未満が生死を分けかねないのが戦場である。
「今日は激戦になりそうだな」
　移動するトラックの中、入ってきたデータを頭に叩き込んでいたバーティゴが硬い声で呟いたのが後部に座るメンバーへまで届き、彼等の緊張感は否応なしに高まらざる得ない。
　人間達の顔が多少の差はあれど固く青くなっていく中、顔色も表情も変わらないのは当然といえば当然ではあるが唯一の機械人形のアサギだった。
「アサギさんは緊張するっていう感情は入力インプットされてねーんすか？」
　アサギはルーウィンの愚問に応える必要は無いと判断したのか一切の反応を見せなかった。なおも問いかけようとするルーウィンの肩を掴んで止めたのは真っ青な顔をしたヴィドクンの大きな手である。
「止めろ、ルー。アイツには本当に血も涙もねぇんだから緊張なんてするはずねぇだろ」
　ヴィドクンの手は置かれたルーウィンが容易に気付ける程、小刻みに震えていた。彼はいつもこうだ。口では強がっているが、実際にはいつも恐怖に震えている。
「羨ましいっすよね」
　その手の震えに気付いても指摘することなく、ましてや茶化すことなくルーウィンは呟いた。初陣の時にルーウィンへ皆がやたらと声をかけてきたの新入りをからかっていた訳ではなく、本当にルーウィンが恐怖に負けないような気遣いだったのだと今なら分かる。
　戦場が怖くない人間なんていないのだから。
「そうだな。本当、羨ましいよ……」
　本心からそうと思っていることが伝わるくらい噛み締めるようにヴィドクンが呟く。
　車内を痛い程の沈黙が支配する中、外から喧騒の音が微かに聞こえてきた。人の叫ぶ声、泣いているような悲鳴のような声。
「小隊長、そろそろ現場が近いようです」
「そうだな。車を止めろ」
「了」
　バーティゴの指示に従ったクジマがトラックを停車させる。
　暴れている機械人形の場所まで車を横付けできてしまえば楽ではあるが、逃げる人間でパニックになっているであろう場所に車を寄せるのは様々な理由から危険だ。二次災害を起こしかねない。
　停車したトラックの荷台から第三小隊が次々と降りる。運転席のクジマと助手席のバーティゴはそのまま此処から指示を飛ばすために待機だ。
　トラックから降りてもバーティゴから特に指示は飛ばない。
　既に現場に到着する前に作戦指示は終わっており、各自が配置に付いていけばいいだけだからだ。
「外は、危険です！屋内へ、避難してください！」
　拡声器を使用した少しだけ低めに抑えられたセリカの声がカンテ語だけでなく藤語、ラシルム語と言語を変えて街に響く。
　それを聞きながらアサギの背を追ってルーウィンは走った。
　戦いの火蓋は既に機械人形によって切られている。
　ならば、その戦場という舞台へ土足で上がり込んで幕を下ろすのが前線駆除班に所属する者のやるべきことなのだ。

征野

　もし、これが人であったなら。
　頭部が吹き飛び、脳漿を撒き散らし、地面に叩きつけられた身体は電気信号の名残で痙攣していたのだろう。
　ルーウィンは地面に転がったソレを見ながら、映画で培った想像力で最悪の想像をして身体を身震いさせた。
　現実に地面に転がるのは機能停止させた機械人形だ。街のアスファルトに広がる長い桃色の髪が真紅の血液に見える気がしてルーウィンは慌てて目を逸らす。一度、悪い想像を始めると、なかなか想像は止まってはくれない。
「ルー、行くぞ！」
　ルーウィンにヴィドクンが怒号にも聞こえる声を掛ける。それは怒りの鍍金メッキをした恐怖の滲む声で、ルーウィンは「さーせん」と謝りつつ己の銃に装弾してから彼の元へと向かった。
「アサギさんは？」
「あっちだよ。相変わらず単独行動がお好きなことで」
　両手で銃を構えていたヴィドクンが顎で先を示す。
　一緒に行動していた筈のアサギは機械人形を薙ぎ倒し更に先を進んでいた。全てを「斬って」いては刀が刃こぼれしてしまうからか、時々体術を用いて機械人形を文字通り吹き飛ばしている。
「おー、すげー」
「凄いけどさ、ちょっと周囲に悪影響出すぎじゃねぇか？」
　素直に感嘆の声を上げるルーウィンに対してヴィドクンは渋い顔をする。
　確かにアサギが吹き飛ばした機械人形が塀に叩き付けられて塀にヒビが入ったり、塀のないオープン外構な家庭の花々が無残な姿になっているのが見える。ルーウィン達人間は付近への迷惑も多少は考えながら戦っているものだが、アサギには全くそういう気はないらしい。
「じゃ、アサギさんに任せすぎねーように俺達も行きましょう」
「マジか……本当、お前とアサギに付いてると命が幾つあっても足りない気がするよ俺は」
「それ、褒め言葉として受け取っておくんで。ヴィドさんは俺の援護してくれればいーんで行きますよ」
　ヴィドクンの方がルーウィンより歳上ではあるが彼は生粋の酪農家であり、銃の経験も精々野生動物を追い払う程度で戦闘経験はマルフィ結社に入るまでなかった。かたやルーウィンは学生とはいえ軍警としての知識と傭兵あがりの父親から叩き込まれた技術がある。そこに元々の性格の違いもあり、ルーウィンは常に先陣だった。
　人間の存在を嗅ぎつけたのか機械人形がアサギではなくルーウィン達へと向かってくる。ソレの頭を無慈悲にルーウィンは手にしたハンドガンで撃ち抜いた。彼が使うのは小柄な人間、女性や子どもが射撃をすると肩が外れるといわれるアサルトライフル並の威力を持つハンドガンだ。並の拳銃の弾が効かないとされる機械人形すら容易く撃ち抜くことができる。
　髪の色を除けば容姿の点では人間と遜色がない機械人形だが、暴走している機械人形は感情の機能を失っているおかげで何も考えずに撃つことが出来た。仮に彼等が命乞いをしてきたとしたらルーウィンは撃つことが出来るのだろうか。
「ルー!!」
　ヴィドクンの声で我に返る。ルーウィンの頭を潰そうとでもいうのか手を伸ばしてきていた機械人形の手を軽くいなし、その腕をとると身体を反転して腕を掴んだまま地面へと叩きつけるように投げ飛ばした。さすがの衝撃に動きの止まった機械人形の耳に汚染駆除班から支給されたUSBメモリを差し込むと、それは活動を停止する。
　安心したのも束の間、後ろに気配を感じたような気がしたルーウィンは振り返る。そこにいたのは目を赤く光らせた機械人形。攻撃も回避も、如何なる動作が間に合わない。
　青空に、首が、飛んだ。
　未だ日の高い青い空に、一片の夕焼け空。
　地面に落ちた夕焼けは、薄い橙色の髪をした機械人形の頭だった。
「アサギさん……」
　ルーウィンに迫っていた機械人形の首を真横に薙いだ刀で斬り飛ばしたのはアサギであった。ルーウィンの顔を見てもアサギは無事を喜び微笑むどころか不快そうに眉を顰める。
「お前達が来たせいでヤツらの動きが変わった」
　暴走する機械人形は人間を襲うようになっている為、ルーウィン達がアサギに近寄っていったことでアサギと交戦していた機械人形がルーウィン達に標的を変えていた。それがアサギには面白くないのだろう。
「効率が落ちる。邪魔だ」
「お前それでもボディーガード用の機械人形なのかよ!? 人間に対して『邪魔だ』ばっかり言いやがって！」
　堪忍袋の緒が切れたとはこういう状況を言うのだろうか、ヴィドクンがアサギに向かって怒鳴りつけるように口を開く。しかし、それを受け止めるアサギの表情は恐ろしい程に凪いだものであった。美しい人形のような顔で、アサギは言う。
「お前達は俺が護衛する対象として登録されていない。故にお前達の盾になる必要性は無い。尤も俺に護られたいというなら俺を機械班に連れて行って好きにデータを入力すればいいだろう」
　にべもない言葉にヴィドクンは押し黙るしか他ない。
　もし、これが人であったなら。
　性格が気に入らないとしても、それなりに折り合いをつけてやっていくしかない。しかし、アサギは彼の言うとおり機械人形であり性格が気に入らないというのならいくらでも性格を弄り矯正することができる。
「そんなのアサギさんじゃねーからダメっすよ」
　押し黙ったヴィドクンの代わりに、いたって軽い口調で口を開いたのはルーウィンだった。
「人間にだって個性とかいうモンがあって『尊重しましょう』とか言うんすから、機械人形の個性だって尊重しなきゃダメっす」
「機械人形の個性って……こいつらは機械だぞ？」
「機械だけど仲間じゃないっすか」
　平然とした顔のルーウィンにヴィドクンは更に何とも言えない顔になる。
「無駄話は終わりだ」
　そんな人間達を横目にアサギが刀を正眼に構えた。話を打ち切られた形になったヴィドクンが抗議の声を上げようと口を開きかけて、現れた機械人形達に口を噤む。
「200m先に工事現場がある」
「そこまで行けば良いんすね？」
　ルーウィン達がいるのは何の変哲もない住宅の間の道。
　そのような場よりも広い場所の方が戦いやすいのはルーウィン達も一緒で、ルーウィンがアサギに声をかけるが彼は返事をする事はなく横目でルーウィンを見ただけであった。しかしそれを肯定ととったルーウィンは構わず銃を構える。
　アサギが走る。
　前方から来た機械人形達を軽く斬り払うと、群れた機械人形達に強制的に道を作らせていく。その後ろをルーウィンとヴィドクンも駆けた。
「ッ!?」
　殿しんがりを走るルーウィンの左腕を機械人形が掴む。腕を潰される前に相手の首に銃を当て、跳弾も気にせずに弾を撃ち込んだ。関節の間を狙った弾は狙い通りに首を撃ち抜き、目から赤い光を失った機械人形が崩れ落ちる。それを最後まで見ることなくルーウィンはアサギとヴィドクンを追った。
　走り抜けた先にあったアサギの言った『工事現場』は鉄骨組みの終わった段階のビルが建つ場所であった。各地に資材は積まれているものの、それなりに場所があり、確かに住宅街の道路よりは戦いやすいだけの空間がある。
「ルー、腕は!?」
　走るのは得意ではないヴィドクンが肩で息をしつつ問い掛けてきた。ルーウィンは左腕を軽く回して動くことをアピールしつつ笑う。
「折れてはねーっす。痣くらいはなってるとは思いますけど」
　言いながらも後を追ってきた機械人形を撃つ。倒れる機械人形。しかし、その後ろからも次々と機械人形が姿を現していた。
　静かに、それでも疾くアサギが動いた。恐怖を知らぬアサギが無謀ともいえる状態で斬り込んでいくが、その後ろ姿にルーウィンは憧憬を抱く。
　自分は人間、アサギは機械人形。
　もちろんそれは分かっていることであるが、それでも格好良いものは格好良く自分も少しはあのような勇敢さを持ちたいと思う。
「おーい!!」
　その時、切羽詰まった様子の人の声が響き渡った。
　声の方向へと振り向けば、そこには明らかに現場作業員と思しき格好をした人間が手を振る姿があった。現場作業ともなれば服は汚れるものであろうが、仕事で汚れたとは違う汚れが――血液が付着しているように見える。
「何で避難していないんだ!?」
　アサギが一手に機械人形の相手をしているおかげで心に余裕のあるヴィドクンが駆け寄ってくる作業員の男性へと声を荒らげた。気弱ではあるが見た目は熊のようなヴィドクンの声に作業員は恐怖を感じで肩を跳ねさせるが、それでも気丈に声を上げる。
「現場に休憩所としてパイプテントを張っていたからそこに避難していたんだ！だけど柱が崩れて機械人形に襲われて……」
「怪我人は!?」
「凄い重症って訳じゃないが居るんだ！なぁ、アンタら戦ってる会社の人なら助けてくれよ!!」
　見た限り男性は怪我はなく血液は別の人間のもののようだった。
　ヴィドクンとルーウィンは視線を交わす。
　機械人形を倒すのは仕事であるが、人を助けるのは更に重要な仕事だ。
　ルーウィンは交戦中のアサギを見る。彼は危なげなく機械人形達を倒しているように見えた。
　アサギなら大丈夫。敵は彼に任せれば安心だろう。
「アサギさん！俺たち、救助に行きます!!」
　そんな彼の背中に向かって叫ぶと、ルーウィンとヴィドクンは作業員について走り出した。

　*　*　*

　ルーウィンの目に最初に飛び込んで来たのは薄緑の髪を地面に広げて転がっている機械人形だった。大きさからして子供の型だったと思われるそれは顔のスキンが半分剥がれ落ち、眼球が飛び出ており造形が想像も出来ない程になっている。
　着ている服は破けている部分もあるが上質なもので、子供型の機械人形がかつては誰かの家族として大事にされていたのではないかと思わせた。
「それ、どーしたんすか？」
「コイツが襲って来たんだよ！どうにか俺たちで倒したけどさ!!」
　作業員の男はそう言って機械人形を踏みつける。
　何処かで誰かの家族だった機械人形をモノのように。
「怪我人は!?」
　呆然として棒立ちになったルーウィンの胸の内に気付いたのかヴィドクンが先に動いた。その行動で今はそんなことを考えている場合ではないとルーウィンも我に返る。
「ああ、こっちだ」
　作業員の男が案内したのは建築中の鉄骨のみが組まれた建物だった。その下に不安な顔をした男達が５人程集まっており、一人の男性が脚を抑えている。
「止血帯ターニケットを使うぞ」
「了。クジマさんに習った甲斐があったすね」
「そうだな」
　ルーウィンが怪我をした作業員のズボンを許可を得てナイフで切り裂くと、ヴィドクンが緊張した面持ちで止血帯を巻いていく。
「なぁ、アンタ達。あの緑の髪の機械人形は大丈夫なんだよな？」
　止血帯を巻き終え仲間の命の危機が去ったことを察した男が声を上げる。それは最初に助けを求めに来た作業員の男だ。
「アサギさんすか？もちろん平気っすよ、結社で汚染がねーように検査されてるし」
「良く機械人形と一緒に居られるよな……」
「アサギさん、めっちゃ格好良いかっけーっすから」
　平然とした顔をしたルーウィンを作業員の男たちは変なものを見るような目で見てくるがルーウィンはそれを軽く受け流す。マルフィ結社の中では当たり前のように機械人形がギロク博士のテロ以前と同じように働いているために気にしていないが、結社の外の人間は今では機械人形を恐れている人間が多いようだ。
「こちらアルファ」
『こちら本部です、どうぞ』
　ヴィドクンの通信に答えたのはクジマの柔らかな声だった。
「逃げ遅れた民間人を６人発見。うち一名が負傷中です」
『怪我は緊急性がありますか？』
「いえ、応急処置を行い緊急性はありません」
　ヴィドクンはクジマとの通信を繰り返す。
　それを見つつ周囲を警戒していたルーウィンはそれに気付いて再び銃を抜いた。
「おっさん達、ココは屋内・・に入るんすかね？」
「建築物だが、建物にならないから屋外になる可能性がある。アイツらの『屋内』の定義が俺達には読めん」
　作業員のうちの一人が答える。
　最初のテロである「ミクリカの惨劇」と次の「ケンズの悲劇」では無差別に機械人形は殺戮と破壊を繰り返したが、その後のテロでは「屋内」にいる人間を襲わないとされており実際にその通りであった。
　しかし、そもそも「屋内」とは法律で定められているものではなく定義は曖昧だ。概ね「外気の流入が妨げられる場所として屋根がある建物であって且つ側壁が概ね半分以上覆われているものの」を「屋内」と呼ぶが、機械人形達は今回の作業員が避難に使ったようなパイプテントすら「屋内」と看做すらしく襲ってくることはない。
　ならば、現在ルーウィン達のいる鉄骨が組まれた状態の場所も「屋内」となってはくれないか。
　一縷の希望を抱いたルーウィンだが、それ等が――アサギのいる方向とは別の場所から現れた機械人形達が迷わず此方に向かってくることで己の希望が打ち砕かれたことを悟る。
「アサギさん、別方向からも機械人形っす。もし、そっちが片付いたら救援お願いしていいっすか？」
　ルーウィンの無線に対してアサギの返事は無い。
　それでもアサギが聞いてくれたことを願って、ルーウィンは機械人形に向かって引き金をひいた。

征野②

　人は何故、戦場で笑う生き物なのか。
　それは自分たちが危機的状況に陥っているということを認めず、自分は危なく無いと激しく否定しようとして笑いが出てくると考えられるからである。目の前にある危機を否定したり自身を慰めているのだ、と。
　軍警学校の座学で教師から聞いた言葉が脳裏を過ぎっていた。
　それでも、ルーウィンは笑うのを止められなかった。
　弾を込めひたすらに撃ち、７発の弾が切れれば空の弾倉マガジンを落としボックスマガジンを普段のスピードよりも早く装填して撃ち続ける。
　ヴィドクンのことも作業員のことも何も見えなかった。
　ルーウィンの目に映るのは人格を失った機械人形の赤く光る目だけだ。
　撃つ。倒れる。誰かの家族が。誰かの仲間が。
「上等じゃねーか」
　誰に言うでもなくルーウィンは呟く。
　機械人形と再びの共生を目指すマルフィ結社に所属しながら壊すのは誰かの家族だったモノ達。この中に結社の仲間が探す家族がいるかもしれないというのに、それをルーウィンは撃ち殺している。
　酷い矛盾だ。それでも最後に救いがあると信じて今は壊すしかないのだ。
　名字が体を表す猪が如く撃ち続ける。この時、ルーウィンは視野狭窄、聴覚抑制状態に陥っていた。集中しているといえば聞こえがいいが、アンノウン――敵味方不明者や、他の人間の動きに全く対応出来ない危険な状態ともいえた。
「おい、ルー!?」
　ルーウィンの補助のように猟銃で戦闘に参加していたヴィドクンの声も、彼の銃声もルーウィンには聞こえていない。
　見えるのは、機械人形の赤く光る目。
　聞こえるのは、己の銃声のみ。
　そんな危険なルーウィンの意識を呼び戻したのは。
「アサギさん……？」
　戦場に不釣り合いな程に美しい鮮やかな浅葱色だった。
　アサギがルーウィンと応戦していた機械人形へと向かっていくのを見て、ルーウィンは思わずアサギが先程まで戦っていた場所へと目を向ける。
　そして愕然とした。
「な……ッ!?」
　アレを一体で全部片付けたのか――それ程の数の機能停止をした機械人形が地に倒れ伏していた。これが主人を守るための用途で作られたアサギと、一般的な家庭での家事補助を担う機械人形達の格の差というものなのだろうか。彼が味方であって良かったと思う他ない。
　視線をアサギへと戻せば、疲労を感じることの無い彼は先程までと遜色のない戦いを続けている。しかし、アサギが相手にしている機械人形達の真の狙いは人間の命であって、アサギの斬撃を掻い潜りルーウィン達人間へと向かってこようとする者は後を絶たなかった。それをルーウィンやヴィドクンの狙い撃つ。
「数、多すぎだろ」
　戦場の中、ヴィドクンの絶望感に満ちて呟いた声は不思議とルーウィンの耳へと良く届いた。
「そーっすね。ヴィドさん、そっち弾あります？」
「は？もしや、お前……」
　新たなボックスマガジンを装填したルーウィンは戦場に似つかわしくなく、へらりと笑った。
「弾切れっす。これがラストっすね」
「マジかよ……」
　呟きながらもルーウィンが撃っていた数を思えばおかしいこともないかとヴィドクンは思い直し、猟銃を構えて機械人形を撃つ。しかし彼の腕は残念ながらルーウィンに劣る。
　アサギが斬り、ヴィドクンが撃つ。
　尚も討ち漏らした機械人形をルーウィンがナイフで斬る。
　じわり、じわりと、しかし確実に戦線は下がっていく。それでも敵の数は有限であり勝てるとの算段がルーウィン達にはあった。
　しかし、それは機械人形との戦場を経験した人間だからこそのものであり、第三者の目から見た彼等は機械人形に対して劣勢に立たされているようにしか見えなかった。第三者の目線である作業員達の目には危険な状態としか写らない。
　それ故に各個人が自分自身の安全を脅かす事態を避けようとして他者の安全を無視して行う非合理かつ無秩序な行動の集積――パニックが発生してしまった。
「うわぁぁあ!!!」
　今ならまだ逃げられると勝手な希望を抱いて蜘蛛の子を散らすように走り出す作業員達に戦場の動きが変わる。汚染された機械人形達にとって人間は攻撃対象。機械人形のアサギや武器を持って応戦するルーウィンやヴィドクンよりも破壊・・しやすい人間がいると判断すれば、彼等の攻撃対象は作業員達になる。
「い、行くな！」
　逃げ出した作業員達を守ろうと動こうとするルーウィン達の足を止めるのは、唯一逃げなかった、否、足を怪我しているために逃げるという行動のとれなかった作業員だった。仲間に見捨てられた彼は、更にルーウィン達にも見捨てられるのではないかという恐怖にかられて動こうとするルーウィン達を止めてくる。
「ヴィドさんはソイツ見ててください！」
　まずは一体、走る作業員へと迫りそうだった機械人形を撃ちながらルーウィンは叫ぶ。それからアサギに目をやると、案の定アサギと対峙していた機械人形達は走り出した作業員へと攻撃対象を変えて走り出しており、苛立った様子を見せたアサギが機械人形達を後ろから切り捨てていた。
　勝手な行動を見せた作業員達への苛立ちが無い訳ではない。
　しかし、それでも彼等を守る事がルーウィン達に与えられた使命だ。たまたま自分には機械人形と戦う力があるだけで、もしかしたら逃げ惑う作業員の姿は何か運命が違っていたら自分の姿であったかもしれないのだから一概に彼等を責める訳にはいかない。
「あ、馬鹿！そっちに行くな!!」
　ルーウィンが叫ぶが作業員の足は止まらない。
　作業員の一人がよりにもよってアサギの方向――アサギは汚染された機械人形を追っている――機械人形の方へと走っていた。もはや彼は恐慌状態で正常な判断が出来なくなっているのだろう。このまま鉢合わせれば人間なんぞ簡単に機械人形に切り裂かれてしまう。
「アサギさん！」
　アサギが機械人形に追いつくことを願うが、距離からして作業員と機械人形が出会う方が早い。
　仕方ない。
　ルーウィンは一か八か作業員に当たらない事を願い、機械人形へ向かって発砲する。長い桃色の髪を振り乱して走ってくる女性型機械人形へと当たる事を願った弾は、確かに機械人形へと当たった。しかしながら肩に当たっただけで機械人形の速度は一度落ちるものの止まることはない。
　しかし、その一瞬が彼女の命取りとなった。
　かろうじてアサギが追い付き、機械人形の首を掻っ切るように刃が滑る。
　赤い目から急速に光を失った女性型機械人形が機能を停止して地面へと崩れ落ちた。
　良かった。作業員は助かったと思った瞬間だった。
「機械人形めぇぇぇええ!!」
　助けてくれたアサギすら汚染された機械人形と同じものだと勘違いした作業員が雄叫びのような声を上げてアサギを壊そうと手にしていた鉄パイプを振りかざす。
　アサギが飛び退いて鉄パイプを躱し、鉄パイプが地面に当たり鈍い音を立てた。アサギが刀を正眼に構える。
　機械汚染されていないためアサギには機械人形法が適用される筈だ。
　作業員を斬ることは出来ない筈だ。だから人間の安全は保障される。
　しかし、アサギの安全は？
　ルーウィンの脳裏を過ぎるのは、先程見た作業員達が必死に倒したであろう子供型機械人形の哀れな姿だ。アサギが同じ姿になるのを見たくはない。
「その機械人形は味方っすよ!!」
　だから作業員へと声を上げると作業員が振り返り血走った目でルーウィンを見た。
「お前も！俺を！撃とうとしたな!? 俺を殺そうとしたんだろう!?」
　確かにルーウィンは作業員の後ろから銃を撃ったが、それは彼を救うためだ。とはいえ作業員に当たる可能性があった訳であり、咄嗟的に言い返すことが出来ない。その一瞬のルーウィンの沈黙を自分の問いへの「YES」と見なした作業員の男の行動は早かった。
「くたばれェ！」
　唸りを上げて振り下ろされる鉄パイプをアサギのように身軽に躱す事は出来なかった。左腕で受け止めると、骨に響く激痛が脳天へと突き抜ける。
　激痛に顔を歪めながらもルーウィンの目には走り寄るアサギが見えた。
　煌めく白刃。
　人間には当てられないものであるが、アサギはルーウィンへの攻撃を止めさせる為の作業員への威嚇のつもりで刃を振るったのだろう。しかし下から上へと斬り上げるような斬撃は、誰にも当たるはずもなかったそれは、火事場の馬鹿力を発揮した作業員に掴まれ突き飛ばされたルーウィンの顔を抉った。
　驚愕するアサギの赤と白の虹彩異色オッドアイが妙に綺麗に見えてルーウィンは思わず笑う。
　しかし、ルーウィンが笑っていられるのはそこまでだった。
　突き飛ばされた先にはぽかりと空いた穴。ビルを施行する為の基礎である地中梁の鉄筋が地面から突き出てルーウィンを待ち構えていた。
　身を捻り、鉄筋を躱そうとするが躱しきれるものではない。
　仰向けになったルーウィンの右脇腹からブチュッという生々しい刺さる音がするのを他人事のようにルーウィンは聞いた。
「あああああああああああぁぁぁ……」
　血塗れのルーウィンの姿に、ようやく自身のやった事に気付き我に返った作業員が穴の淵に膝を付いて慟哭する。彼を宥めてやりたいが、ルーウィンは身動きも取れず声を上げることが出来ない。
　作業員の隣に立ち、ルーウィンの惨状へ目を走らせていたアサギが身を翻す。まさか見捨てられたのかと思ったルーウィンだったが、聞こえてきた斬撃の音に新たな機械人形が現れたことを悟った。
　作業員の男は穴の淵で延々と泣くばかりで、新たに機械人形が現れたことにも気付いていないようだった。大人しく最初にいた場所へと戻っていてはくれないか。そう思うもののルーウィンの口から出るのは呼吸音のみで、彼に声をかけることは出来そうもない。
　そんな彼の後ろにアサギの攻撃を掻い潜ってきた機械人形が迫っていた。
　両手を振り上げて、作業員の頭を割ろうとする。
　次の瞬間、頭が吹き飛んだのは機械人形の方だった。
　猟銃かライフルか、そんなもので撃たれた機械人形が倒れる。
　今、この戦場で猟銃を持つのはヴィドクンであるが、まさか彼がやったとでも言うのだろうか。
　ルーウィンの疑問は現れた二つの影で解消する。
「クジマ、医療班をこっちに回すように指示を出せ」
「了」
　血でハッキリと見えない視線の中、ルーウィンが見たのはバーティゴとクジマの姿だった。
「随分と素敵な姿になったわね、坊やマールィシュ」
　クジマに指示を出したバーティゴがライフル片手に微笑む。バーティゴは目が悪いはずなのにライフルを撃ち、しかもそれを機械人形に当てたとでもいうのだろうか。
「ああ、これ？クジマに座標の指示をして貰えば私でも撃てるのよ」
　常人には無理なことを何でもないことのようにバーティゴは言い放つ。
「ところで坊やマールィシュ。あなた、呼吸・・を忘れてない？」
　バーティゴの言う呼吸・・は、ただの呼吸ではなく軍隊格闘技ルコパシヌイ・ボイの呼吸と気付く。緊急時には呼吸を乱さないことが危機回避にとって重要な条件であり、そのための呼吸ブリージングだ。そうやって学んだ筈なのに戦場の中ですっかり忘れてしまっていた。
　呼吸を安定させたルーウィンは傷口が気になって目線を下へと動かそうとする。それを止めたのはバーティゴの声だった。
「駄目よ、ルー。傷口を見ないで私を見なさい」
　「坊やマールィシュ」ではなく「ルー」と呼ばれてルーウィンの視線はバーティゴへと向く。この時、ルーウィンは気付くことはなかったが、それは戦闘の際に血管収縮を起こして出血を抑える状態になっていたルーウィンが傷口を見ることで怪我を理解し、血管拡張を起こして死亡しない為の言葉であった。
　やがて前線医療班の瑠璃色のスクラブがルーウィンの側へと降りてくる。それがスレイマン・アスランであったことにルーウィンは安堵した。医療班の医師の中でも救急医療の経験のあるスレイマンならば安心だ。
「俺より、他の人、診てやって、ください」
　自分なら大丈夫だから。もし、他に怪我をしている人間がいるならば他人を優先して欲しい。
　ルーウィンが絞るように吐き出した言葉にスレイマンは緑色の目を細めて微笑む。
「大丈夫だ。大きな怪我人は出なかったし、トルビンさん達が治療にあたってくれている。おれの仕事は君を助けることさ」

入院(余談)

　ルーウィンは状況が飲み込めていなかった。
　工事現場から鉄筋ごと救出されたルーウィンは前線医療班の持ち込んだ機材では処置が間に合わず病院へと搬送された。そして手術を受け術後の経過を見るために入院を余儀なくされた。それは良い。それは良いのだが。
「何で個室……？」
　入院している部屋は他の患者がいない個室だった。過去に入院経験のないルーウィンでも個室は大部屋と別の料金がかかることは知っていたし、結社の経理部がわざわざ個室費用を払ってくれるとも思わなかった。
　まさか怪我をして戦えないルーウィンに対しての嫌がらせで給料から差っ引かれるとでもいうのだろうか。ルーウィンは包帯の巻かれた下で顔を青くした。
「ご機嫌如何かしら？」
　その時、颯爽とヒールの音をたてて部屋へと入ってくる白衣の女性がいた。緩やかなウェーブを描く金の髪を背に流し強気な光を湛えた緑の目でルーウィンを見てくるこの女性は確かルーウィンの担当だと言っていた気がする。この数日、麻酔でボンヤリとしていたルーウィンの記憶は曖昧だった。
「あ、わりといい感じっす」
「あら、本当ね。昨日よりも受け答えがちゃんと出来るようになってるじゃない」
「そんな訳で大部屋に移して貰って良いっすか？」
　女医が目を瞬く。そういう顔をすると途端に幼い雰囲気に見える顔つきに、ルーウィンは誰かの面影を見たような気がした。
「そんな大きな図体して他に人がいないと寂しいの？」
「そんな訳ねーし！個室って金かかるから困るんすよ」
　思わず怒鳴るように声を上げてしまい、顔を顰める。顔面の傷は縫って塞がったものの完全に塞がったものではない。腹部の手術が優先されたために痕も残るようだ。
「お金なら心配しないで良いわよ。愚弟が払う約束だから」
　ぐてい。
　ルーウィンは言葉の意味が分からなかった。それを雰囲気で読み取ったのか女医が楽しそうに笑って胸にしていた名札をルーウィンに見せつけるようにする。
　名札に書かれているのは「マリー・ヴァテール」という名前。
　ふんわりとした金の髪、緑の目、ヴァテール。
「タイガの……姉ちゃん？」
　マリーがそれはそれは楽しそうに頷く。彼女は人事部のタイガ・ヴァテールの実姉だったのだ。
「あれ、でもタイガの姉ちゃんはまだ学生で……」
「そうよ。まだカンテ大の学生だけど、人手不足だから実地研修という形で勉強させて貰っているの」
　ギロク博士のテロ以降、医療現場は逼迫していた。医療崩壊を防ぐ為にとられた手段が医学生の現場投入だ。
「だけど個室なんて申し訳ねーっていうか、何でタイガが払うんすか？」
　年齢が近く友人といえる存在であるとはいえタイガにそこまでしてもらう程の恩を売った覚えもなければ、付き合いも長くない。
「大部屋はそれこそ病床稼働率が高いのよ。だから貴方を受け入れるなら個室の方が都合が良かったし、受入れ条件として院長がタイガに払わせるって決めたのだから仕方ないわ。むしろ、あの子にもっとお金があれば特室に出来たのに残念ね」
　ルーウィンは再び状況が飲み込めなくなっていた。
　何故、自分の受け入れ条件にタイガの名前が出てくるのか。
「もしかしてタイガ、言ってないの？この病院、うちが経営してるの」
「は!?」
　叫んで再び痛みに顔を歪める。
「だからうちで結社さんで処置しきれない患者さんの受け入れをしたりしてるのよ。それにしても貴方の処置をした方、とても綺麗な処置をしているわね」
「そーなんすか？」
　処置をしてくれたのは言わずもがなスレイマン・アスランである。マリーはルーウィンが理解しているかどうかなんてお構い無しに、その処置の完璧さを褒め称えていた。言っていることは良く分からないものの、とにかくスレイマンが凄いということは分かるので大人しく「そーなんすねー」と相槌を打っておく。
「ところで、この処置をした方は独身の若い男性だったりするのかしら!?」
「あー、まぁ、若くて独身の兄さんっすね」
　スレイマンを思い浮かべながらルーウィンが適当に頷くと肉食系女子の目をしたマリーがそこにはいた。
「ルーウィン君、紹介してくれない？駄目ならタイガに頼むけど」
　この瞬間、ルーウィンの脳内にポンッと浮かんだタイガが全力で首を何度も横に振った。第六感が「それは駄目だ」と警鐘を鳴らしていた。
「……残念なんすけどアスラン先生、将来を誓い合った仲の彼女さんいるみたいなんすよ」
　ルーウィンはスレイマンが同じ医療班のアペルピシア・セラピアと付き合っている事実を知らず、口から出まかせを言ったにすぎなかった。しかし、それは見事に真実だった。
「やっぱりそうよね。残念だわ」
　マリーは非常に残念そうに肩を竦めた。

療養

　メディカルカーテンが開け放した窓から入る風にひらめく。
　医療班の部屋に設けられた療養用のベッドの一角にルーウィンは居た。
　一度は都内の病院に搬送され治療を受けていたルーウィンだったが、後は結社でも処置が出来るという状態まで回復したため医療班に世話になる日々が始まっていたのだ。
「じゃあ、その顔の傷は自分でやってしまったっていうんだな？」
　ベッドの脇のパイプ椅子に座り、硬い表情でルーウィンに問いかけるのはスレイマン・アスランだ。その隣に座るバーティゴも厳しい表情でルーウィンを見つめる。
　その２人の視線を受けてもルーウィンは平然とした顔をしていた。
「そーなんすよ。やっちまったなーって感じっす」
　先日の機械人形との戦闘でルーウィンの顔には刃物での傷が出来ていた。
　かなり深いものであったものの通常の処置が行えていれば跡も残らず綺麗に治るはずのものであったが、ルーウィンは脇腹に３センチメートル程度の建築用の鉄筋が刺さっていた。そのためにスレイマンが緊急性を判断し、優先度の下がった顔の傷は止血を優先して荒く縫われることとなり、傷跡は一生残ることになるという。
　そして、その傷は何故負ったのかというのが今の問題点だった。
　ルーウィンの顔の傷は見事な切り口であり、鋭利な刃物が使用されていることはスレイマンにも分かっていた。そして、その鋭利な刃物が何・で誰・が持っていたのかも本当は分かっていた。
「自分の持っているナイフで転倒時に謝って傷付けてしまった、ということで良いんだな？」
「家族には『バカ』って散々言われたんすけど、それが事実っすね」
　ルーウィンはあくまでも「自分がやった」と言い張る。
　真実を言えばアサギが処分されてしまう可能性が高いと感じていたからだ。それに、あの時アサギは全く人間を傷付ける気はなかった。それでも結果として人間に傷を負わせることになってしまった機械人形の行く末なんて火を見るより明らかだ。
　スレイマンが最終決定を委ねるようにバーティゴへと視線を向けた。
「――ということだそうですが、どうしますか？」
　バーティゴの白濁した目とルーウィンの目が確かにその瞬間、合った。
　やがてルーウィンから視線をスレイマンへと動かしたバーティゴは一度何かに耐えるように目を瞑り、開いた時には表情を和らげる。
「本人がそう言うならそうなんでしょう」
　ルーウィンの言ったことを真実とする。
　それがバーティゴの答えだった。
　思いきりバーティゴに御礼を言いたくなり口を開きかけたルーウィンだったが、ここで礼を言ってしまえば何もかもが台無しになると思い直して「あ……」と言いかけて口を閉じる。そんなルーウィンの行動に気付かないわけの無いバーティゴとスレイマンは微笑みつつも何も聞かなかったことにした。
「それにしても貴方達の指示に従わなかった彼等は訴えたくもなるわね。いっそ結社に優秀な弁護士でも居れば良かったのに」
「それでも、うちはあくまでも結社であって法的な力は何も無いでしょう」
「分かっているわよ」
　バーティゴも本気で言っている訳ではないと分かっていながらスレイマンが口を挟む。だからこそ、肩を竦めてそれに答えるバーティゴの口調は至って軽い。
　なお、この時の会話がどこからか人事部へと伝わったのか、はたまた単なる神の悪戯なのか采配か。後に第三小隊には敏腕弁護士であったゼン・ファルクマンが配属されてくるのだが、それはまた別の話だ。
「ルー。貴方に一つ素敵な言葉を教えてあげるわ」
「何すか？」
「『顔で水飲む訳じゃなし』」
　バーティゴの言葉にルーウィンもスレイマンも目を瞬く。
　そんな二人の反応を空気感で読み取り、それは予想通りだったのだろうバーティゴは楽しそうな顔で言葉を続ける。
「外見の美しさに重きをおいて人を選ぶなっていうスニェークの諺よ。容貌の美醜には何の意味もないの。大切なのは心よ、心」
「……姐さんが言うと説得力が違うっすね。胸に留めとくっす」
　バーティゴの顔には酷い火傷の跡がある。そんな彼女が言うと、その言葉には慰めだけではない強い力があるように感じられた。
「ついでに姐さん、それうちの家族にも言ってくんねーっすか？親父はともかく、お袋と妹共がうるさくて」
「あら、どうして？」
「あいつら『顔にそんな傷作って嫁が来なくなったらどうする!?』って開口一番言いやがったんすよ」
「それはきっとルーウィンを心配して、わざと軽口を叩いたんじゃないのか？」
　スレイマンが優しくルーウィンに言うが、そんなスレイマンをルーウィンは睨むように座った目で見た。
「アスラン先生は、うちの家族知らねーからそんな優しいこと言えるんすよ。アイツらは、そんな優しさは持ち合わせてねーっす」
「そ、そうなのか……？」
「そうっす。だから姐さん言ってやってくださいよ」
「……貴方のご両親には私からも謝罪の連絡はしないととは思っているけれど、謝罪する側が其れを言ったら大変な事になるから無理ね」
　バーティゴはそう言って苦笑めいたものを浮かべた。
「謝罪って……姐さん、何も悪くねーっすよ」
「馬鹿ね、坊やマールィシュ。私は貴方達を纏める小隊長なのだから上司としての責任はあるのよ」
　前線駆除班という部署に所属する以上、怪我――最悪の場合、死すら――を覚悟しているものである。しかし彼等を率いる小隊長という立場である以上、バーティゴには責任がある。そして、バーティゴは責任逃れをするような矮小な人間ではなかった。
「迷惑かけてすんません」
「良いのよ。それにこの程度の事、何の迷惑にもならないわ」
　ルーウィンはバーティゴが自分の上に立つ人間で良かったとつくづく思った。単に許してくれたからという簡単な理由ではない。彼女の戦闘での技術、人間性全てに惚れ込んだ故に思ったことだ。
　なお、この後にバーディゴがルーウィンの両親に電話をした結果「うちの愚息が御迷惑をおかけしました」と逆にルーウィンの両親に謝罪され、大量のお詫び品として牛乳が届くことになるのであるが、これは全くの余談である。
「それじゃ、私は行くわ。後は先生、頼むわよ」
「お任せください」
　バーティゴはスレイマンに声を掛けると視力が低いことなんて感じさせない足取りで部屋を出ていく。
「ごめんな」
「へ？」
　二人きりとなった時、スレイマンの口から出たのは謝罪の言葉だった。
「顔の傷。もっと、おれが細かい処置をしてやれたら良かったんだが」
「何言ってんすか。腹の方がヤバかったし、アスラン先生の処置なかったら死んでたかもって病院の人も言ってたんで。むしろアスラン先生には感謝しかねーっす」
　そう言ってルーウィンが頭を下げ。
　再び上げた時、スレイマンは泣き笑いのようなルーウィンには表現出来ないような顔をしていた。
「アスラン先生……？」
「救えない命も多くてさ……今回は良かったと思えてなぁ」
　スレイマンのルーウィンを見つめる目はひたすらに優しい。それを見て、スレイマンの過去には色々とルーウィンの予想もつかないような人生経験があるのだろうと思う。尤もそれを好奇心だけで聞き出そうとするのは憚られたのでルーウィンは大人しく口を噤んでおいた。
「ま、暴れたい気分はあるだろうけど、暫くはここで療養していてくれ」
「了解っす。世話になります」
「おれがずっと付いてはいられないけど、簡単なことは別の子に頼んでおくから。歳が近いと良いと思って――」
　歳が近い。
　医療班でそう言われてピンと来る人間は一人しかいなかった。
「ルー君、よろしくね！」
　ひょっこりメディカルカーテンから顔を覗かせたのは予想通り脳天気な顔のミア・フローレスで。
「チェンジで」
　思わず死んだ魚のような目でルーウィンはそう言っていた。

　*　*　*

　ルーウィンの療養生活は動けないながらも、なかなかに騒がしいものだった。
「ルー君、傷にはチョコレートが良いらしいですよぅ」と『傷に良く効く食べ物』を何処かで調べたのかやたらと差し入れしたがるセリカがいたり、バーティゴはバーティゴで「ベッドでもできる筋トレがあるのよ」と何やら訓練の方法を指南しに来たり、クジマが「座学というのも大事なことですよ」と大量の本を置いていったり、タイガに至っては「うちの姉ちゃんに何言ったの!? オレ、結社のイケメンを紹介しないように出し渋ってるでしょってすっごい怒られたんだけど!?」と泣きつきに来た。最後のやつは無視した。そんなのルーウィンの知ったことでは無い。
「お前、暇なの？」
「ひ、暇じゃないよ！」
　ルーウィンはそう言ってベッド脇に持ってきたパイプ椅子に座っているミアを見た。彼女の手にはルーウィンの実家から送られてきた飲みきりサイズの牛乳瓶がお裾分けされている。当然、ルーウィンの手にも牛乳瓶だ。
「ルー君のお話相手になるのもお仕事なの！それにしても、この牛乳濃くておいしいね」
「うちの牛、普通の牛より小ぶりなんだけどその分濃厚さが売りの牛使ってんだよ」
「そうなんだ！凄いね！」
　ニコニコと笑うミアに、そういえばヴィドクンがミアを嫁に狙っていたということを思い出し、悪戯めいた笑みを浮かべる。
「お前、牧場の嫁とかなんねー？」
「えっ!?」
　ミアの顔が面白いくらいに林檎のように真っ赤になった。
「そんな、いきなり嫁とか……告白されても困るよ……」
「は？」
　ミアの赤面と困惑ぶりに困惑したのはルーウィンの方だ。
　自分はこんなに鳥頭っぽい能天気の嫁を貰いたい気持ちは微塵もない。出来るならば牧場経営をしっかり任せられるような優秀な嫁が欲しい。ルーウィンの顔に傷が残ってしまった以上、女性からは敬遠されてただでさえ厳しかったものが更に難しい希望になってしまったかもしれないが、それでもこんなアホそうな女ではなく冷静な判断が下せる嫁が良い。
　脳内でミアを散々こき下ろした後、ルーウィンは自分の口振りがそもそもミアを勘違いさせているものであった事に気付いた。馬鹿なのはミアではなく自分だ。
「フローレス、わりーな勘違いさせて。うちの地元は嫁不足だから、どっかの牧場の嫁はどうかって話だ。お前、来たくて此処に来た訳じゃないんだろ？」
「えっ!? あ、ああ、そういうことか。もうっ、驚かせないでよ！」
　ミアはぷくりと頬を膨らませるが、直ぐにルーウィンの質問の答えを考えるように天井へと視線を向けた。
「うーん。でも私はここでお姉ちゃんを探すって決めてるし、お花屋さんにもなりたいし、今はちょっと看護師にも憧れてるんだよねー」
「お前ん家、花屋だったんだっけ」
「うん。今は隣の家のポレットおばさんが家を管理してくれてるんだけど、お店は休業中なの」
　少しだけ寂しそうにミアは微笑む。
　彼女の両親は暴走した機械人形に殺されたのだとルーウィンはミア本人から聞かされて知っていた。だからこそ新天地を提案した訳なのだが、彼女はまだ家に未練があるようだ。両親も妹達も健在のルーウィンが何を言っても何の慰めにもならないのでルーウィンはあくまでも軽いノリで答えた。
「もし興味出たら言えよ？イコナは慢性人不足だ」
「うん。ありがとう」
　ミアが頷いたのを見て、ルーウィンは牛乳瓶を煽って中身を空にした。
「ごめんなさい、お話中に。来客よ」
　会話の切れるタイミングをはかっていたのだろう。ルーウィンとミアの会話が途切れたところで第三者の声がかかった。
　見れば、そこにいたのはアペルピシアとヴィドクンだった。別に彼が見舞いに来るのは初めてではないのだが、何となく彼の表情がいつもと違うような気がしてルーウィンは眉を顰める。
「じゃあ、私行くね！牛乳、ごちそうさま！」
　自分は邪魔になると判断したミアは立ち上がると、アペルピシアと共に去って行く。残ったのは気まずいような顔をした熊のような男だけだ。
「ヴィドさん、座ったらどうっすか？」
「あ、ああ……」
　歯切れの悪い返事をしてヴィドクンはミアの座っていたパイプ椅子に腰掛けた。その視線はルーウィンではなく床を見つめていて、彼が単に見舞いに来た訳では無いことは明らかだ。
「何かあったんすか？」
　ルーウィンの問いにもヴィドクンは口を開いては声を発することなく閉じるといったことを繰り返していて餌を求める水槽の魚のようだった。
　ヴィドクンはいつもこうだ。言い辛いことを言う時は吃ってなかなか言わなくなる。だからと言ってしつこく聞こうとすれば意固地になって余計に言わなくなるのを知っているルーウィンは大人しく自分の空になった牛乳瓶に貼られたデフォルメされたイノシシのマークのシールを指の腹で撫でていた。
　牛乳にイノシシとは何とも不思議な事だがイノシシはルーウィンの家のマークだ。先祖がイコナを開拓し牧場を作る際に巨大イノシシを倒したことで苗字を「イノシシジャヴァリー」にしたのだとも、強い獣の名前を冠することで他の野獣から家畜を守るためなのだとも言われているが真実は歴史の彼方だ。そんな事をルーウィンが呑気に思い出すくらいには何も言わないでいるヴィドクンの家は同じ理由で「クマビョルン」だった。
「俺さ……逃げたんだ……」
　熊が、否、ヴィドクンがようやく言葉を発した。
　何から逃げたのか。其れをルーウィンが問い掛ける前に更にヴィドクンが言葉を続ける。
「あの怪我した作業員見捨てて、逃げたんだよ……隊長とトルビンさんが来てくれたから助かったけど、間に合わなければ死んでいたかもしれない」
「何で……」
「何でって、そりゃ怖かったからに決まってるだろ」
　そう言うヴィドクンの顔は恐ろしい程に穏やかだった。凪いだ心そのままとばかりに恐怖心を語るヴィドクンは何処かチグハグな印象をルーウィンに与えたが、それは彼の心が異常をきたしている証拠とも言えてヴィトクンを責めるようなことを言わせる気をルーウィンから奪っていく。
「素人がさ、機械人形と戦おうなんてやっぱり無理だったんだよ。少なくとも俺には、もう出来ない」
　言葉の意味するところに気付いたルーウィンが目を丸くする。
「俺、結社を辞める。もう人事部とは話がついてるんだ。機械人形の代金はゆっくり返済していこうと思ってる」
　ヴィドクンは元々、牧場用に購入した機械人形の資金返済の為に結社に入った男だ。それすら諦めて故郷に帰ろうとする仲間を止めることはルーウィンには出来なかった。
「なぁ、ルー。お前も今回こんな怪我した訳だし一緒にイコナに帰らないか？」
　ルーウィンの腹部の怪我は全治一ヶ月の重症だった。結社に来てからの期間よりも療養期間の方が長期になるのではないかとばかりの酷い状況だ。
　それでもルーウィンは首を縦に振ることはしなかった。
「俺、まだ姐さんの下でやってみたいんで。姐さんから教われる事、たくさんあると思うんすよね」
　姐さん――バーティゴから戦闘だけでなく沢山のことを学びたかった。彼女から得られるものが沢山あるとルーウィンが根拠なく思うだけの、思わせるだけの魅力が彼女にはあった。
　ルーウィンの答えは予想通りのものだったのだろう。ヴィドクンは笑って「そうか」と言うだけだった。
「そーいや、ヴィドさん。帰るのは良いんすけど」
「ん？」
　この真面目な空気を、ヴィドクンの罪悪感に塗れた雰囲気を払拭するように努めて真面目にふざけてルーウィンは口を開いていた。
「嫁も得られず帰って平気っすか？」
「なっ……お前、俺が地味に気にしていたことを堂々と……」
　イコナは慢性的に後継者不足の町だ。
　若者に人気の街であるラシアスにほど近い立地もあり、農業や酪農をやりたくない若者は就職先を求めてラシアスに行ってしまう傾向があるためだ。
「ちなみにフローレスは今のところ牧場経営に興味はねーっす」
「何でお前そんな情報まで仕入れてんだよ!?」
「情報収集も戦略のうちってクジマさんのくれた本に書いてあったんで」
　ニヤリと笑うルーウィンにヴィドクンは肩の荷がおりたかのように安堵した顔を見せると呆れたように笑う。
「じゃあ――」
「リヴもメルもダメっすよ。ダブルスコアじゃねーっすか」
　リヴもメルもルーウィンの年の離れた妹だ。さすがにそれは冗談だったようでヴィドクンもおどけたように「残念だ」と言ってきたため、ルーウィンは内心で安堵する。妹達が自ら嫁に行きたいと言うなら止めないが、さすがに年齢が倍離れた男を兄から紹介するのは憚られる。
「……頑張ろうな」
「婚活をっすか？」
「馬鹿野郎」
　コツンと拳で軽く頭を叩かれた。
「冗談っすよ。頑張りましょーね」
　そう言ってルーウィンは左手の拳をヴィドクンへと突き出す。右手は銃の撃ちすぎでボロボロな為だ。
　ルーウィンの拳にヴィドクンが拳をぶつけるようにフィスト・バンプする。
　一生の別れではない。
　またイコナで直ぐに会うことになるのだからと、二人の別れに涙はなかった。

再生

　人事部のタイガからもたらされた一報は、未だ医療班のベッドを占拠していたルーウィンを驚かせるには十分すぎるものだった。
「クジマさんが辞めた……？何で？」
「事情は個人的なものだから明かせないし、詳しいことはオレの口からは言えない。第三小隊は先日ビョルンソンさんも退社してるから大幅なメンバーチェンジがあると思うよ」
　大きく溜息をついてからタイガはルーウィンを見つめた。
「ルーはどうする？今なら他隊に異動も可能だよ」
「他の人は？」
「ミカナギさんは絶対にブリノヴァさんの下でしか戦わないって言ってる。他は……異動希望を出している人もいるよ」
　異動どうしようかオレ達も困ってるんだよね、と愚痴を言ってタイガは唇を尖らせる。
「アサギさんも異動するんだよな？」
「うん。まだどうするかは決まってないんだけど、前々からブリノヴァさんはアサギさんに対して異を唱え続けてたし誰か別の小隊長に任せることになるんじゃないかな」
　鬼神の如く戦うアサギはルーウィンの目から見れば格好良いものであったが、個ではなく統率された集団での戦闘展開をするバーティゴからすれば独断的で扱いにくいものであったのだろうと思う。
「で、ルーはどうする？」
「俺は姐さんに付いてくって決めてるからな。異動願いはしねーよ」
　ルーウィンの言葉にタイガは彼らしくもなく真剣な顔を向けた。
「そんな死にそうな怪我しても？父さんと姉さんが言ってたよ、ルーの怪我はヤバかったって。アスラン先生の応急処置が良かったから助かっただけだって言ってたんだ。それなのに、まだ戦うにしてもブリノヴァさんに付いていくの？」
「当たり前だろ」
　即答したルーウィンにタイガの目が面白いくらいに丸くなった。
「第四のサオトメ先生は人当たりいいしオレ的にはオススメだったんだけど」
「あー、お前の剣道の先生な。まぁ、俺は話したことねーけどお前の話からすると良い人っぽいよな。あと良く食堂で誰かしらに何か礼言われてんの良く見るし」
「だったら」
「でも、俺は姐さんに付いてくって決めたしヴィドさんにも宣言した。俺は絶対に第三でやっていく」
　言い放つルーウィンに対してタイガは大きく息を吐いた。溜息にも似たそれを吐いたタイガは呆れた目でルーウィンを見る。
「良いんだね、それで。オレ達人事部はルーはそのまま第三でメンバー編成組むよ？」
「おう。男に二言はねーよ」
「了解」
　そう言ったタイガは笑っていた。あまりにも明るい笑顔にルーウィンは眉を顰める。
「何でそんなに笑ってんだ？」
「ん？」
　問い掛けられたタイガが柔らかな色を湛えた若草色の目を向ける。
「ブリノヴァさん、今回の件では凄く大変だったと思うからルーやミカナギさんみたいに絶対に付いてきてくれる部下がいるって凄く嬉しいと思うよ。それに部下がそれだけ付いて行くって思うってことは、良い人ってことでしょ？結社から追放しなかった上層の判断は間違ってないんだなって安心しただけ」
「お前も今度姐さんと話してみれば良ーじゃん」
「オレ、ああいう『The強い女』みたいな女の人苦手だから」
「ああ……」
　タイガの言葉に思わず頷くルーウィンの脳裏を過ぎるのは、病院で世話になったタイガの姉のマリーの顔だ。タイガとどことなく似た顔立ちなのに、性格は確かに強気な女のそれであった。ルーウィンには姉はいないがマリーのような姉が人生においてずっと居たならば、タイガと同じような気分になってバーティゴに付いて行こうとは思わなかったかもしれない。それもまた運命というやつか。
「ま、暫くはブリノヴァさんも色々と上層との面談があって戦場には出られないからさ、ルーもブリノヴァさんが戻った時には戻れるようにリハビリ含めて頑張ってね」
「おう、任せとけ」

　数週間の後、バーティゴは征野へと舞い戻る。
　メンバーの変わった第三小隊を引き連れるバーティゴは以前と変わりないように見えた。彼女の心中を誰も理解することはできない。バーティゴはバーティゴなりに何か思うことがあったかもしれないが、それを知るのは本人だけである。
　そして唯一の機械人形であるアサギが他隊へと異動した為に第三小隊は機械人形を有さない、マルフィ結社の中では稀有な存在の小隊へと変化していく。
　それがプラスに働くのか、はたまたマイナスとなるか。
　未来は誰にも分からない。

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