incredibile！／燐花
最終更新：
rinka_creation 2022年02月08日(火) 01:20:11履歴
驚いた事 
マルフィ結社に来て驚いた事は色々あるが、その中でもなかなかセリカの驚きを誘ったのは男性の品定めの様なものを大っぴらにしている若い女性がいると言う事。
視力の弱いバーティゴの代わりに人事部に第三小隊の予定の確認に行ったセリカがその場に居たクロードウィッグに彼女用に予定表の拡大コピーも頼んだ瞬間そんな声が聞こえて来たのだった。
「うーん…私最初ワシレフスキーさんって良いなって思ってたんだけど、彼オタクっぽいじゃない。私、オタク趣味はパス！絶対趣味合わないから窮屈になりそうだし、窮屈にもしちゃいそう」
声の主は社内人事課のエーデル・カルンティだった。ワシレフスキーと言えば保育部の先生だろうか。セリカがあの歳の割に若々しく少し幼い顔立ちとふわふわした茶色い髪が可愛らしい男性を思い浮かべていると、次に同じく社内人事課のヴィーラ・シリッシュが口を開いた。
「そう言えば前線駆除班のユウヤミ・リーシェルさん知ってる？彼を狙ってる子達が言うには物凄く難易度高そうな人なんだって！」
「どう言う事？」
「何か…スッといなくなっちゃうらしいわよ？だから巷ではリーシェルさん、『雲隠れの魔術師 』とか『足早の黒猫 』とか呼ばれてるみたいなのよ！」
ユウヤミ・リーシェル。あの個性の暴力の様な第六小隊を纏める小隊長。立場的には小隊長の筈なのに、「小隊長って感じがしない」と言うシリルを始め何故か隊長と呼ばれる彼。ふとすると闇に溶けてしまいそうな彼は、確かに端正な顔立ちと少々病的であるが白い肌が美しい青年である。
「わ、私は一体何を…」
先程そんな風に品定めをしている女性達をどうだろう？と疑問視していたのに気付いたら自分もやってしまっている。そう思いつつ次の会話を待つ。何故セリカははしたないと思いつつ彼女達の話に耳を傾けてしまうかと言うと、偏に『ある人』の評価が気になってしまったからだ。
そのセリカが気になる『ある人』の名前を、とうとうシーリア・レイレントが口にした。
「あの人は？経理部のギャリー・ファンさん」
セリカは思わず聴力をシーリアの声に集中させる。彼女達はギャリーの事をどう思っているのだろう？別にどう思っていようが自分には関係無いしどうとでもしてくれて良いのだが、何故だかこんなにも気になってしまう。
もしも悪く言われたら、もしかしたら「それは違う」と言ってしまうかも。いや、それこそ自分には関係ないのだが、むしろ気になってしまうのは彼を変に良く言う子が居た場合な様な気がした。
ギャリーも彼女達くらい若い子が相手なら、好意を寄せられたらすぐにそちらに靡いてしまうような気がしたのだ。自分には関係ない、そう思うのに何故だか物凄く気になってしまう。シーリアの次の言葉を待ちながらコピーの終了も待っていると、先程「オタクだったらパス」と言っていたエーデルから声が上がった。
「……イケメンだけどぉ…あの人色んな子にナンパしてるわよね」
「あ、私もナンパされた」
「そう言えば私も」
「正直、あんな異文化イケメンにナンパされるって嬉しいわよ？彼褒め上手だし。だけど……うーん！私がナンパされてる、他の子もされてるって状態で浮気を疑わずに過ごすの無理！！それすら超えるくらいの信頼感が生まれてれば良いけど、生まれる前に疲れちゃう気がするんだもん！！」
「うん！この歳になったらもう色々心配するの嫌だし、モテ男より安心出来る人が良い！！」
その言葉にセリカはふぅっと溜息を吐いてしまう。二十五歳頃と言えば、まだまだ全然若いのに恋愛はとりあえず一区切りと言わんばかりに、恋愛には疲れた懲りたと言わんばかりに急に安定を求める子が何故か多くなるそんな年頃。皆さんまだまだお若いのだから安定なんて最初から言わず一人の方とじっくり向き合えば良いのにとは思うが、言ってギャリーに走られても嫌なのでセリカは口を噤む。そもそも彼女達とそんな話を共有できる間柄では無いし、言う筋合いもない。
「やっぱり一番は……！」
「そうよね一番は……！」
「絶対絶対一番は……！」
──ロード様！！
三人の声が見事にハモり、一人の男性の名前を挙げた。セリカは思わず部屋の中をキョロキョロ見回す。しかし、彼女達が思い切り口に出すのでまあ当たり前かとは思ったが、彼は部屋には居なかった。
ロード・マーシュの事を言っているのだろうが、彼も彼で普通にモテるタイプだと思うが。
そこで彼女達のこの会話は真剣に素敵な男性を挙げる目的ではなく、憧れの彼への想いの再確認であると確信する。
最終的に好きなのは？はい、ロード様です。
そんなお約束の様なやりとりをやりたいが為の流れなのだろうとセリカは察した。心配して損をしたと思ってしまったのは内緒だ。
「えーと、ミカナギさん…？終わったんですけど…」
クロードウィッグの控えめな声に気付き、セリカは笑顔を見せながらコピーをしてもらった第三小隊の予定表をメンバー分、そしてバーティゴ用の拡大された物があるかの確認を終えると礼を言いながらにこりと笑った。
「有難うございますぅ。確認終わりましたぁ」
「……後他に仕事あります？」
「いいえ、用事はこれだけでしたので」
「あ、そうですか…」
消え入りそうなクロードウィッグの声。集中せねば聞き漏らしてしまいそうな彼の声に少し困った笑顔を浮かべていると、ドアの開く音と共に三人が一瞬姦しい声を上げた。
「ただいま戻りました。おやミカナギさん、こんにちは」
「今日和ぁ、マーシュさん」
「先日は美味しい椎茸をありがとうございました。あそこまで肉厚だとシンプルな味付けでも満足感がありますね。塩でただ焼くだけ…簡単なのにハマりそうです」
「ふふ、ええ。シンプルな味付けで椎茸の味を堪能する食べ方が私も好きなんですぅ」
「東國のレシピを検索し、お吸い物も作ってみました。大変美味しいスープになると聞いていたのですが、本当に美味しかったので驚きです」
「椎茸は健康にも良いし美味しいし見た目も可愛らしい、素晴らしい食材ですよぉ」
ロード・マーシュは良い人である。何故ならきのこが好きだから。セリカは頭の中で彼をそうインプットしていた。新規勧誘課と言う所属と相俟って中々仕事で顔を合わせる事はないが、バーティゴが書類の提出や受け取り、事務的作業をセリカとキッカに任せている関係で結社で仕事をしている彼と人事部の部屋で顔を合わせる時はよく世間話もする。
結社以前から面倒を見ている子がいる関係なのか自炊もする様で彼から料理の情報をもらう事も多い。綺麗好きで香水の香りか、いつも少し甘い香りが仄かにするそんな男性だ。女性にも優しく適度に距離を取っている、セリカにとってはあまり見た事の無いタイプの男性だった。高圧的な男性しか見慣れていないセリカにとって物珍しい人間だった。
「うふふふ。お話するのは楽しくて本当に時間泥棒でいけませんね。そろそろ仕事に戻らなければ。ではミカナギさん、また」
「ええ、どうも」
きっと彼みたいな人を好意的に見る女の子なら色々と心配も少ないのだろうか。そう思いつつ今仲良く関係を築けている男性陣を思い浮かべる。
猪の様な猪突猛進さで突き進む、少しガサツなルーウィン。
仕事の面ではそれなりに信用出来るが、先日バーティゴにまで借金していた事がバレたジョン。
どこまでも優しいが好色漢なギャリー。
「うーん……」
まあ、別にまだ誰とも踏み込んだ間柄では無いし。少なくともルーウィンとジョンは仕事面でのパートナーとして見れば本当に恵まれていると思う程有能な男性達なのでプライベートまでどうこう言うつもりはない。
それよりも今日は楽しみがあるのだ。その楽しみの前には小さな引っ掛かりなんぞ霞んでしまう。
『お姉様、今日セリカはお洋服で行こうと思います。今夜楽しみにしていますね』
ハートの絵文字でもつけんばかりの勢いでセリカは携帯端末を操作する。今日は不定期に行われるバーティゴとの飲み会だ。本当は酒を嗜みたいセリカが結社以前の生活では我慢をしていたと聞いたバーティゴが彼女が気兼ねなく飲める様にと提案した会である。何故不定期かと言うと、この様な一対一の所謂サシ飲みを彼女は他メンバーとも交わしているからだ。
「楽しみですぅ……」
でも今日はセリカの番。第三小隊の待機室でお茶を交わしながらでは話せない、積もり積もった話をするのを楽しみに、コピーした予定表を抱えながらセリカは人事部を後にした。
視力の弱いバーティゴの代わりに人事部に第三小隊の予定の確認に行ったセリカがその場に居たクロードウィッグに彼女用に予定表の拡大コピーも頼んだ瞬間そんな声が聞こえて来たのだった。
「うーん…私最初ワシレフスキーさんって良いなって思ってたんだけど、彼オタクっぽいじゃない。私、オタク趣味はパス！絶対趣味合わないから窮屈になりそうだし、窮屈にもしちゃいそう」
声の主は社内人事課のエーデル・カルンティだった。ワシレフスキーと言えば保育部の先生だろうか。セリカがあの歳の割に若々しく少し幼い顔立ちとふわふわした茶色い髪が可愛らしい男性を思い浮かべていると、次に同じく社内人事課のヴィーラ・シリッシュが口を開いた。
「そう言えば前線駆除班のユウヤミ・リーシェルさん知ってる？彼を狙ってる子達が言うには物凄く難易度高そうな人なんだって！」
「どう言う事？」
「何か…スッといなくなっちゃうらしいわよ？だから巷ではリーシェルさん、『雲隠れの
ユウヤミ・リーシェル。あの個性の暴力の様な第六小隊を纏める小隊長。立場的には小隊長の筈なのに、「小隊長って感じがしない」と言うシリルを始め何故か隊長と呼ばれる彼。ふとすると闇に溶けてしまいそうな彼は、確かに端正な顔立ちと少々病的であるが白い肌が美しい青年である。
「わ、私は一体何を…」
先程そんな風に品定めをしている女性達をどうだろう？と疑問視していたのに気付いたら自分もやってしまっている。そう思いつつ次の会話を待つ。何故セリカははしたないと思いつつ彼女達の話に耳を傾けてしまうかと言うと、偏に『ある人』の評価が気になってしまったからだ。
そのセリカが気になる『ある人』の名前を、とうとうシーリア・レイレントが口にした。
「あの人は？経理部のギャリー・ファンさん」
セリカは思わず聴力をシーリアの声に集中させる。彼女達はギャリーの事をどう思っているのだろう？別にどう思っていようが自分には関係無いしどうとでもしてくれて良いのだが、何故だかこんなにも気になってしまう。
もしも悪く言われたら、もしかしたら「それは違う」と言ってしまうかも。いや、それこそ自分には関係ないのだが、むしろ気になってしまうのは彼を変に良く言う子が居た場合な様な気がした。
ギャリーも彼女達くらい若い子が相手なら、好意を寄せられたらすぐにそちらに靡いてしまうような気がしたのだ。自分には関係ない、そう思うのに何故だか物凄く気になってしまう。シーリアの次の言葉を待ちながらコピーの終了も待っていると、先程「オタクだったらパス」と言っていたエーデルから声が上がった。
「……イケメンだけどぉ…あの人色んな子にナンパしてるわよね」
「あ、私もナンパされた」
「そう言えば私も」
「正直、あんな異文化イケメンにナンパされるって嬉しいわよ？彼褒め上手だし。だけど……うーん！私がナンパされてる、他の子もされてるって状態で浮気を疑わずに過ごすの無理！！それすら超えるくらいの信頼感が生まれてれば良いけど、生まれる前に疲れちゃう気がするんだもん！！」
「うん！この歳になったらもう色々心配するの嫌だし、モテ男より安心出来る人が良い！！」
その言葉にセリカはふぅっと溜息を吐いてしまう。二十五歳頃と言えば、まだまだ全然若いのに恋愛はとりあえず一区切りと言わんばかりに、恋愛には疲れた懲りたと言わんばかりに急に安定を求める子が何故か多くなるそんな年頃。皆さんまだまだお若いのだから安定なんて最初から言わず一人の方とじっくり向き合えば良いのにとは思うが、言ってギャリーに走られても嫌なのでセリカは口を噤む。そもそも彼女達とそんな話を共有できる間柄では無いし、言う筋合いもない。
「やっぱり一番は……！」
「そうよね一番は……！」
「絶対絶対一番は……！」
──ロード様！！
三人の声が見事にハモり、一人の男性の名前を挙げた。セリカは思わず部屋の中をキョロキョロ見回す。しかし、彼女達が思い切り口に出すのでまあ当たり前かとは思ったが、彼は部屋には居なかった。
ロード・マーシュの事を言っているのだろうが、彼も彼で普通にモテるタイプだと思うが。
そこで彼女達のこの会話は真剣に素敵な男性を挙げる目的ではなく、憧れの彼への想いの再確認であると確信する。
最終的に好きなのは？はい、ロード様です。
そんなお約束の様なやりとりをやりたいが為の流れなのだろうとセリカは察した。心配して損をしたと思ってしまったのは内緒だ。
「えーと、ミカナギさん…？終わったんですけど…」
クロードウィッグの控えめな声に気付き、セリカは笑顔を見せながらコピーをしてもらった第三小隊の予定表をメンバー分、そしてバーティゴ用の拡大された物があるかの確認を終えると礼を言いながらにこりと笑った。
「有難うございますぅ。確認終わりましたぁ」
「……後他に仕事あります？」
「いいえ、用事はこれだけでしたので」
「あ、そうですか…」
消え入りそうなクロードウィッグの声。集中せねば聞き漏らしてしまいそうな彼の声に少し困った笑顔を浮かべていると、ドアの開く音と共に三人が一瞬姦しい声を上げた。
「ただいま戻りました。おやミカナギさん、こんにちは」
「今日和ぁ、マーシュさん」
「先日は美味しい椎茸をありがとうございました。あそこまで肉厚だとシンプルな味付けでも満足感がありますね。塩でただ焼くだけ…簡単なのにハマりそうです」
「ふふ、ええ。シンプルな味付けで椎茸の味を堪能する食べ方が私も好きなんですぅ」
「東國のレシピを検索し、お吸い物も作ってみました。大変美味しいスープになると聞いていたのですが、本当に美味しかったので驚きです」
「椎茸は健康にも良いし美味しいし見た目も可愛らしい、素晴らしい食材ですよぉ」
ロード・マーシュは良い人である。何故ならきのこが好きだから。セリカは頭の中で彼をそうインプットしていた。新規勧誘課と言う所属と相俟って中々仕事で顔を合わせる事はないが、バーティゴが書類の提出や受け取り、事務的作業をセリカとキッカに任せている関係で結社で仕事をしている彼と人事部の部屋で顔を合わせる時はよく世間話もする。
結社以前から面倒を見ている子がいる関係なのか自炊もする様で彼から料理の情報をもらう事も多い。綺麗好きで香水の香りか、いつも少し甘い香りが仄かにするそんな男性だ。女性にも優しく適度に距離を取っている、セリカにとってはあまり見た事の無いタイプの男性だった。高圧的な男性しか見慣れていないセリカにとって物珍しい人間だった。
「うふふふ。お話するのは楽しくて本当に時間泥棒でいけませんね。そろそろ仕事に戻らなければ。ではミカナギさん、また」
「ええ、どうも」
きっと彼みたいな人を好意的に見る女の子なら色々と心配も少ないのだろうか。そう思いつつ今仲良く関係を築けている男性陣を思い浮かべる。
猪の様な猪突猛進さで突き進む、少しガサツなルーウィン。
仕事の面ではそれなりに信用出来るが、先日バーティゴにまで借金していた事がバレたジョン。
どこまでも優しいが好色漢なギャリー。
「うーん……」
まあ、別にまだ誰とも踏み込んだ間柄では無いし。少なくともルーウィンとジョンは仕事面でのパートナーとして見れば本当に恵まれていると思う程有能な男性達なのでプライベートまでどうこう言うつもりはない。
それよりも今日は楽しみがあるのだ。その楽しみの前には小さな引っ掛かりなんぞ霞んでしまう。
『お姉様、今日セリカはお洋服で行こうと思います。今夜楽しみにしていますね』
ハートの絵文字でもつけんばかりの勢いでセリカは携帯端末を操作する。今日は不定期に行われるバーティゴとの飲み会だ。本当は酒を嗜みたいセリカが結社以前の生活では我慢をしていたと聞いたバーティゴが彼女が気兼ねなく飲める様にと提案した会である。何故不定期かと言うと、この様な一対一の所謂サシ飲みを彼女は他メンバーとも交わしているからだ。
「楽しみですぅ……」
でも今日はセリカの番。第三小隊の待機室でお茶を交わしながらでは話せない、積もり積もった話をするのを楽しみに、コピーした予定表を抱えながらセリカは人事部を後にした。
もっと驚いた事
普段の着物とは違う、この日のセリカはシャツワンピの上にパーカーベストと言う出立ちで街に出ていた。足元をスニーカーで飾ると言う動きやすい装いにしてしまうのは前線駆除班ならではだろうか。ラフだが上品な格好の上に羽織るのはこの日の為に買っておいたおろしたてのキルティングダウン。可愛いシルエットで暖かい。一体お姉様はどんな格好で来てくれるだろうかとワクワクしながらミクリカの待ち合わせ場所で待っていると、セリカの端末がメッセージの受信を告げた。
「え……？」
そこには、「ごめんなさいセリカ、今日行けなくなっちゃったの」と言うバーティゴからの謝罪が記されていた。
咄嗟に端末を起動し、バーティゴに電話を掛ける。何回かの呼び出し音の後、聞こえたのは男性の声だった。
『セリカさん？』
「あらぁ？ルー君？ん？お姉様…の端末で間違いないですかぁ？」
『ああ、すんません。俺が咄嗟に取りました。姐さんの端末で間違い無いっす』
「あの、お姉様は…！？」
『ああ、代わります？』
「お願いしますぅ…」
しばらくして、ガサガサと音が鳴りバーティゴの声が聞こえる。セリカはそれだけでホッと胸を撫で下ろした。
『セリカ。ごめんなさいね…急な話で』
「いきなりあの文だったので心配しましたぁ。あのぅ…どうされたんですかぁ…お姉様…」
『仕事終わりに準備しようと動き回ってたら義足の関節のネジが急に弾けたのよ…。曲がったきり動かなくなっちゃったからその場に居たジョンとルーにそのまま機械班に運んでもらったんだけど、そもそもスペアも機械班に出しちゃってたから今あるのは部屋で寛ぐ時に使ってる木製のやつだけになっちゃって。関節も無い曲がらないタイプで体支えたり短距離の移動程度しか出来ないから、ちょっと向かうの難しくなっちゃったの』
その時電話向こうの後ろの方からアンとロザリーの声が聞こえた。どうやらまだ機械班に居るらしい。
『ごめんなさいね。最初に転んだ時受け身は取ったんだけど、ジョンが念の為って医療班に運んでくれたもんだから連絡が遅くなっちゃって』
「…いいえ、ジョンさんの反応は正しいですよぅ。セリカが傍に居ても、きっと同じ事した筈ですぅ」
『ごめんねセリカ。もうミクリカにいるでしょう？』
「ええ。でも…でも大丈夫ですぅ。お姉様に何も無くて安心しましたぁ」
少しだけ、嘘をついた。この後どうしようかなんて何も考えていない。バーティゴの心配がそこだと言う事も気付いてしまっていたから、咄嗟に誤魔化しが口をついてしまった。
『…セリカ、確かにこのご時世危ないと言えば危ないわ。だけど、今時女一人で飲みに出ているなんて物珍しくも何も無ければ恥ずかしい事でも無いんだからね。いけなくて悪いんだけど、セリカ一人でも楽しんで来ても、誰も咎めないわ』
バーティゴからの言葉にセリカは小さく返事を返す。彼女には見抜かれていた。もともと上司であるバーティゴと一緒と言う大義名分があったから二人で飲みに行こうと出て来れたわけで、ミクリカに特に知り合いも居ないし勿体ないけれどもしかしたらこのまま今日は帰った方が無難なのかもしれないと思っていた事。
少し前まで、私がそんな行動を取ったら信じられないと言わんばかりに嫌がる人が傍に居たから。そんな事は「はしたない」って。
今は前よりもちょっとだけ自由になって、ちょっとだけ寂しくなった。だけど周りに仲間が居たからそこまで色々思い詰めなかった。けれど、こう言う時に上手く動けない自分はまだ新しい自分になりきれていないのかな？とふと思う。
せっかくだからお酒は飲みたい。新しいお洋服も着て来たし色々見て回りたい。しかし、それを一番許してくれる人が傍に居ないならどうしようかな？とも思う。
一人きりでふらふらとあてもなく彷徨う。うっかり人通りの少ない路地裏に入ってしまい急な静けさに驚いたものの、ふと目に入った建物のドアは東國に所縁のあるセリカにとって懐かしい引き戸だった。
あら？こんなところに畳屋さんでしょうか？とキョロキョロするも、風俗店の看板が見え想像と真逆の店だった事にセリカは思わず二度見した。
「あらぁ…」
ベンジーがこう言うところに出入りする人では無かったので今まであまり気にしなかったお店。実際、彼はある意味ではもっとタチが悪かったわけだが。ベンジーが生きていた頃、彼はこう言う店に興味はなくそしてセリカが物珍しく見る事も許さなかった。二人の視線を縫う様に店に入る男性が居れば彼は呆れた様にそれを見つめ、そしてセリカに言うのだ。
「こんなところに足繁く通う男は軽蔑する」
と。セリカは特に何も思わずそれに返事をしていた。
「旦那様がそんな風に思われるところなんですねぇ」
セリカのおっとりしたその返事にベンジーはふぅと溜息を吐くと更に続けた。
「……学友に趣味の合わない男が居てな」
「その方が、こう言うところがお好きだったんですかぁ？」
「理解し難い趣味だ。家で細君が待っている身ではないにしろ、不潔過ぎて理解に苦しむ。外のよく素性も知らぬ女に触れられて喜ぶなど迂闊の極みだな。腹の底が如何に黒いか、人間など解ったものじゃない」
──だから貴方は、家の中のよく知る無機物 、だったのでしょうか。
そんな言葉を掻き消すようにふるふると頭を振り、知らない世界に想いを寄せてみる。自分は何の興味も無いけれど、きっとここには自分とは真逆な性質の人が居て、どんな仕事だろうと仕事は仕事なので汗水垂らして労働をしている人がいるのは間違いない。仕事に優劣を付けるつもりも軽蔑をするつもりもない。だから、どんな人がここに入ろうが出て来ようが変な顔をしないでおこう。そう解釈していたセリカは懐かしの引き戸に少し後ろ髪を引かれつつ元来た道を戻ろうと足早に去ろうとした。
もうこの際、折角だから結社周りに売ってなさそうなお酒をいくつか買って寮で飲もう。
そう思ったその時、カラカラと音を立ててドアが開いた。
あ、懐かしいけどどこか安心する引き戸の音だ。
セリカは思わず振り返ってドアを見た。すると、男が一人、そしてその男に絡み付くようにくっ付いた女が一人。暗闇から顔を出した。
「ふふふ。マーシュさん、お客さんの中で一番好き」
「おやおや、それは嬉しいですねぇ」
「今度是非お友達も連れて来てね、紹介で指名料サービス出来るから。東國な雰囲気味わいたかったらここらじゃウチだけしかやってないから喜ぶ人いるわよ？」
「うふふ、ええ。またその内」
「…同じ東國テーマで他の店に浮気しないでよ？」
「そうですね。私はこれでも一途なので安心していただける…と…」
出て来た男とセリカの目が合う。
彼は「マーシュさん」と呼ばれていた。聞いた事のある苗字だなと思わず見ていたら、その彼は綺麗にセットした髪型で、見覚えのある上質なスーツ姿と言うビジュアルだった。
ああ、この綺麗に揃えた髪型。そしてオートクチュールなのかやたら質の良いスーツ。靴まで綺麗に手入れされている彼は結社でたまに話すロード・マーシュに似ている。
いや待て、むしろロード・マーシュその人の様だが。
「……マーシュ…さん…？」
セリカの絞る様な声に男は目を点にしたまましばらく無言で彼女を見つめた。その内彼女の顔をまじまじ見、そして視線を上へ下へと行ったり来たりさせると、やっと気付いた様に「ミカナギさん？」と口にした。
「なぁに？知り合い？もしかして彼女？」
少し気まずそうに女は口を挟むが、セリカも目の前の男──ロードもそれどころではなかった。
「あの……」
「あ、はい…その…」
「「どうも、今晩は……」」
二人は互いに体感した事のない気まずさを感じていた。
「え……？」
そこには、「ごめんなさいセリカ、今日行けなくなっちゃったの」と言うバーティゴからの謝罪が記されていた。
咄嗟に端末を起動し、バーティゴに電話を掛ける。何回かの呼び出し音の後、聞こえたのは男性の声だった。
『セリカさん？』
「あらぁ？ルー君？ん？お姉様…の端末で間違いないですかぁ？」
『ああ、すんません。俺が咄嗟に取りました。姐さんの端末で間違い無いっす』
「あの、お姉様は…！？」
『ああ、代わります？』
「お願いしますぅ…」
しばらくして、ガサガサと音が鳴りバーティゴの声が聞こえる。セリカはそれだけでホッと胸を撫で下ろした。
『セリカ。ごめんなさいね…急な話で』
「いきなりあの文だったので心配しましたぁ。あのぅ…どうされたんですかぁ…お姉様…」
『仕事終わりに準備しようと動き回ってたら義足の関節のネジが急に弾けたのよ…。曲がったきり動かなくなっちゃったからその場に居たジョンとルーにそのまま機械班に運んでもらったんだけど、そもそもスペアも機械班に出しちゃってたから今あるのは部屋で寛ぐ時に使ってる木製のやつだけになっちゃって。関節も無い曲がらないタイプで体支えたり短距離の移動程度しか出来ないから、ちょっと向かうの難しくなっちゃったの』
その時電話向こうの後ろの方からアンとロザリーの声が聞こえた。どうやらまだ機械班に居るらしい。
『ごめんなさいね。最初に転んだ時受け身は取ったんだけど、ジョンが念の為って医療班に運んでくれたもんだから連絡が遅くなっちゃって』
「…いいえ、ジョンさんの反応は正しいですよぅ。セリカが傍に居ても、きっと同じ事した筈ですぅ」
『ごめんねセリカ。もうミクリカにいるでしょう？』
「ええ。でも…でも大丈夫ですぅ。お姉様に何も無くて安心しましたぁ」
少しだけ、嘘をついた。この後どうしようかなんて何も考えていない。バーティゴの心配がそこだと言う事も気付いてしまっていたから、咄嗟に誤魔化しが口をついてしまった。
『…セリカ、確かにこのご時世危ないと言えば危ないわ。だけど、今時女一人で飲みに出ているなんて物珍しくも何も無ければ恥ずかしい事でも無いんだからね。いけなくて悪いんだけど、セリカ一人でも楽しんで来ても、誰も咎めないわ』
バーティゴからの言葉にセリカは小さく返事を返す。彼女には見抜かれていた。もともと上司であるバーティゴと一緒と言う大義名分があったから二人で飲みに行こうと出て来れたわけで、ミクリカに特に知り合いも居ないし勿体ないけれどもしかしたらこのまま今日は帰った方が無難なのかもしれないと思っていた事。
少し前まで、私がそんな行動を取ったら信じられないと言わんばかりに嫌がる人が傍に居たから。そんな事は「はしたない」って。
今は前よりもちょっとだけ自由になって、ちょっとだけ寂しくなった。だけど周りに仲間が居たからそこまで色々思い詰めなかった。けれど、こう言う時に上手く動けない自分はまだ新しい自分になりきれていないのかな？とふと思う。
せっかくだからお酒は飲みたい。新しいお洋服も着て来たし色々見て回りたい。しかし、それを一番許してくれる人が傍に居ないならどうしようかな？とも思う。
一人きりでふらふらとあてもなく彷徨う。うっかり人通りの少ない路地裏に入ってしまい急な静けさに驚いたものの、ふと目に入った建物のドアは東國に所縁のあるセリカにとって懐かしい引き戸だった。
あら？こんなところに畳屋さんでしょうか？とキョロキョロするも、風俗店の看板が見え想像と真逆の店だった事にセリカは思わず二度見した。
「あらぁ…」
ベンジーがこう言うところに出入りする人では無かったので今まであまり気にしなかったお店。実際、彼はある意味ではもっとタチが悪かったわけだが。ベンジーが生きていた頃、彼はこう言う店に興味はなくそしてセリカが物珍しく見る事も許さなかった。二人の視線を縫う様に店に入る男性が居れば彼は呆れた様にそれを見つめ、そしてセリカに言うのだ。
「こんなところに足繁く通う男は軽蔑する」
と。セリカは特に何も思わずそれに返事をしていた。
「旦那様がそんな風に思われるところなんですねぇ」
セリカのおっとりしたその返事にベンジーはふぅと溜息を吐くと更に続けた。
「……学友に趣味の合わない男が居てな」
「その方が、こう言うところがお好きだったんですかぁ？」
「理解し難い趣味だ。家で細君が待っている身ではないにしろ、不潔過ぎて理解に苦しむ。外のよく素性も知らぬ女に触れられて喜ぶなど迂闊の極みだな。腹の底が如何に黒いか、人間など解ったものじゃない」
──だから貴方は、家の中のよく知る
そんな言葉を掻き消すようにふるふると頭を振り、知らない世界に想いを寄せてみる。自分は何の興味も無いけれど、きっとここには自分とは真逆な性質の人が居て、どんな仕事だろうと仕事は仕事なので汗水垂らして労働をしている人がいるのは間違いない。仕事に優劣を付けるつもりも軽蔑をするつもりもない。だから、どんな人がここに入ろうが出て来ようが変な顔をしないでおこう。そう解釈していたセリカは懐かしの引き戸に少し後ろ髪を引かれつつ元来た道を戻ろうと足早に去ろうとした。
もうこの際、折角だから結社周りに売ってなさそうなお酒をいくつか買って寮で飲もう。
そう思ったその時、カラカラと音を立ててドアが開いた。
あ、懐かしいけどどこか安心する引き戸の音だ。
セリカは思わず振り返ってドアを見た。すると、男が一人、そしてその男に絡み付くようにくっ付いた女が一人。暗闇から顔を出した。
「ふふふ。マーシュさん、お客さんの中で一番好き」
「おやおや、それは嬉しいですねぇ」
「今度是非お友達も連れて来てね、紹介で指名料サービス出来るから。東國な雰囲気味わいたかったらここらじゃウチだけしかやってないから喜ぶ人いるわよ？」
「うふふ、ええ。またその内」
「…同じ東國テーマで他の店に浮気しないでよ？」
「そうですね。私はこれでも一途なので安心していただける…と…」
出て来た男とセリカの目が合う。
彼は「マーシュさん」と呼ばれていた。聞いた事のある苗字だなと思わず見ていたら、その彼は綺麗にセットした髪型で、見覚えのある上質なスーツ姿と言うビジュアルだった。
ああ、この綺麗に揃えた髪型。そしてオートクチュールなのかやたら質の良いスーツ。靴まで綺麗に手入れされている彼は結社でたまに話すロード・マーシュに似ている。
いや待て、むしろロード・マーシュその人の様だが。
「……マーシュ…さん…？」
セリカの絞る様な声に男は目を点にしたまましばらく無言で彼女を見つめた。その内彼女の顔をまじまじ見、そして視線を上へ下へと行ったり来たりさせると、やっと気付いた様に「ミカナギさん？」と口にした。
「なぁに？知り合い？もしかして彼女？」
少し気まずそうに女は口を挟むが、セリカも目の前の男──ロードもそれどころではなかった。
「あの……」
「あ、はい…その…」
「「どうも、今晩は……」」
二人は互いに体感した事のない気まずさを感じていた。
驚き過ぎてこれは夢か
前にも街で不思議な出会い方をした事がある。兎頭国のポピュラーな格好の青年と一時だが楽しい時間を過ごした、少しだけはしたないを忘れてしまったそんな時間。もしもこの洋装の時に、運良く運命的にまたあの彼に会えたなら。そんな淡い期待をしてしまうくらいには乙女なセリカはうっかり迷い込んでしまった裏路地でうっかり大人なお店の前に行ってしまい、そしてうっかり同僚である男性と会ってしまった。しかも、普段の姿からはこんな店に来る事がなかなか想像出来ない男性と。
セリカは固まったままロードを見つめる。見つめられたロードも同様に固まっており、自分の腕に絡み付いていた女がそっと離れて店に戻った事すら気付いて居ない様子だった。
「あ、あの…ミカナギさん、洋装もされるんですねぇ…」
「え、ええ…持っていない事はない、ですぅ…」
「ああ……」
「えっと……」
しばらく自然界での動物の睨み合いの様な硬直の仕方をしていた二人だが、その内ふぅと肩の力を抜いたロードが髪をくしゃくしゃと乱し始めた。
「……いや、変な誤魔化しはやめましょう。もしも仮に『今の女性は私の妹で、ここは妹の職場なんです』と言ったところで嘘にしか見えませんもんねぇ？」
「え、ええ、まぁ…流石に苦しい誤魔化しですかねぇ。でも…安心してくださいな。確かに驚きましたけどぉ…セリカは職場の一同僚さんのプライベートに突っ込んで嫌な事言う人間では無いつもりですぅ」
「うふふ。ミカナギさんと言い私のお会いする上品な方は皆さんこの状況を飲み込むだけの度胸までお有りな様で」
そう言うロードが遠くを見つめながら思い浮かべたのは赤みがかった黒い髪に、黒い瞳の女性だった。サリアヌ・ナシェリも彼が上品な仮面を被っているだけの人間であると知る女性の一人ではあるが、セリカは知らないので特に思うところもなく聞き流す。
「ところで…ミカナギさんはその…こんなところで何を？」
そう言いながらロードはチラリと周りに目を向ける。彼の目はすぐ近くにあったホテルを捉えており、まさかセリカが誰かと逢瀬でも重ねる為にこんな路地裏に入って来たのだろうかと、今正に「職場の一同僚のプライベートに突っ込んで嫌な事を言う人間では無い」とフォローをしては貰ったが、自分こそ彼女の為に静かに立ち去るべきでは無いかとロードは思った。
「私、誰かと会うのに邪魔…とかでは無いです？」
ロードが何を気にしているのかセリカは分からず、しかしバーティゴの事を思い出して少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
「いいえ…むしろ、会う予定だったのが駄目になってしまったので…」
「え？どなたと？」
「お姉様ですぅ。第三小隊小隊長のエレオノーラ・ブリノヴァさん。今日はエレオノーラさんと二人で飲みに行く予定で…」
残念ですぅ、と口にするセリカにロードは心底ほっとした顔をする。これで彼女が土壇場にキャンセルを食らった相手が男だったら由々しき事だ。こんな女性一人こんなところに放り出すなんてと思ったが、どうやら色々と行き違いがあっただけだったらしい。
「お姉様との飲み会は…本当にお酒が好きだけど一人で飲みに行く勇気も機会もなかったセリカを気遣ってのものだと思いますぅ。その度に二人きりで色んな込み入った話もさせてもらっていたのでそれが楽しくて…だから、お喋りが出来なかったのは残念ですぅ」
「それは残念ですね…そうすると、ミカナギさんはこの後どうしようと？」
「…お姉様に背中を押してもらったのでほんの少しだけ、一人でもお酒を飲んでみようかな？と思ったんですぅ。でも、考え事して歩き回って此処まで来て、その内に勇気は何処かへ行ってしまいました」
お酒は飲みたい。けど、今日一番誰と来たかったか。その人が居ないとなると全てが無価値に思えてしまう。
一人でお酒を飲んでもきっと楽しくない。そもそも一人でお店に入ってお酒を飲むだなんて、価値観がまるで違う様な行動を取る勇気もないし、取れるだけの気力も無い。だから帰ります。
そう言って少し残念そうに溜息を吐くセリカ。ロードは何を思ったか、彼女にちょいちょいと手招きした。
「ミカナギさん。ならば私の飲みに付き合ってくださいませんか？」
「マーシュさんと…？」
「…やはりこんなところに女性を一人置いていくのも…と言いますか何と言いますか…」
「……」
素直に『お酒奢りますから店から出て来た事は黙っててください』と言えば良いのに。
と、少し捻くれた見方をしてしまったが本当にロードがそんな風に考えているかは分からないのでそこまでは口に出さず、セリカはただ黙って考え込んでしまった。ロードはにこりと笑うと、少し茶目っ気を交えながら「そんなにお可愛らしい格好をしてどこにも行かないと言うのも損じゃありません？」と微笑んだ。
「ミカナギさん、これはチャンスじゃ無いですかね？いつも和装の貴女が洋装で、そして普段なら特定の女性と二人で、或いは同じ班のメンバーと飲みに行くところ全然違う人間と赴いてみる。所謂、『自分の殻を破る』と言う体験が出来ますよ？いかがです？」
「何かセールスマンの方みたいな謳い文句ですねぇ…」
「うふふ、ええ。そんな様なものですよ。私は此処で一緒に酒を酌み交わす事でより親近感を抱かせ、さっきの店から出て来たところを見られたと言うハプニングに噤んでいただく口の重さをより強固にしたいと企んでおります」
「あらぁ、『お酒奢りますから黙っててください』を本当に思われていたなんて。マーシュさんて意外と発言で驚かせに来るタイプなんですねぇ」
「ええ。時に素直に言った方が理解して頂きやすいと言う事も色々経た人間関係、熟知しておりますので。冗談を言える場所、言わずにおいた方が良い場所、心得てはおりますよ。そしてミカナギさんは冗談を言っても微笑んで流してくれる懐の広い女性とお見受けしました」
「ふふ、ありがとうございますぅ。マーシュさんこそ、セリカの頭の中のマーシュさんと先程のお店の御婦人とは結び付きませんもの。本当に時と所と場所を弁えていらっしゃるんでしょうねぇ。だからこそ、セリカは本当にプライベートな部分を突っつくつもりは最初からありませんでしたが…」
「そこも素直な気持ちです。ミカナギさんのお洒落な格好が見られるなんて得した気分になりましたので。そのまま帰してしまうのも勿体ないのでは無いかなぁ？と…」
そう言われ、セリカは少しだけぴくりと体を揺らす。まさか、これは自惚れ過ぎて有り得ない事だからと頭から除外していたが、もしかしてロードは自分の事を女として狙っている…とかあるのだろうか。あわよくば…と言う感じで済し崩しにしようとしているとか…？
普段の彼ならばそんな思いは抱かないが、何分先程あの『いかがわしいお店』から出て来たところを見てしまった彼だ。その警戒が通じたのか、ロードはまたもにこりと微笑むと「下心は無いです」と呟いた。
「一人を除いて結社の女性には手を出さない、と決めているんで安心してください」
「あらぁ、そうなんですかぁ？…一人を除いて？」
「ええ。もう長い事片思いしている方がたまたま結社にいるんですよ、私。ミカナギさんもきっとよく知っている方だと思いますよ」
普段なら気にしないのに、急激に彼を知ったからか少しだけその話の詳細が知りたくて、はしたないと思いつつうずうずしてしまう。ロードはそんなセリカを見るとまたも意地の悪い笑みを浮かべ、「普段と違う人間と酒を酌み交わしたらもう何も怖くなくなるんじゃありません？」と呟いた。
「確かに、吹っ切れそうですねぇ」
「吹っ切れのお手伝いついでに、私の恋路の話でもどうでしょう？ブリノヴァさんに土産としてみるのは？」
「ふふ、マーシュさんも本当疑り深いですぅ。先程も言った通りセリカはマーシュさんのプライベートに口を挟むつもりは毛頭ありません。男性の…マーシュさんの下心の無さをセリカは信じます。だからマーシュさんもセリカの口の堅さを信じてくださいません？」
ヤマトナデシコなセリカが男性の劣情の無さを信じる、と言うのは相当な覚悟の上の物言いだと言うのは良く分かる。それと同列に言われてしまっては信じなければ失礼というもの。
「うふふ。ええ、そうですね。では、信じてもらえた以上は私も信じさせていただきます」
「ええ、お願いしますぅ」
「改めて、私に『吹っ切れ』のお手伝いをさせてくださいませんか？」
「ふふふ。ええ、喜んで」
馴染みの店があると言うロードと共に、セリカはミクリカの路地裏を行く。「吹っ切れのお手伝いを」とは言え、ロードの後ろを三歩引いた距離で歩く彼女を見て「何だからしい なぁ」と思うロードであった。
* * *
「い、いらっしゃいませ…！何名様でしょうか…！？」
「え？」
店のドアを開けた瞬間パタパタとやって来た女性。『客の人数を聞く』などと言う当たり前の様な光景に何故か目を丸くして驚くロード。
「おーい、そんないきなり飛んでくなってー。もしアイツだったらどうすん…」
そして店の奥から現れた男性は、そんな風に目を丸くして驚くロードと隣にいるセリカを見て逆にその暖簾の様な厚い前髪に隠れた目を丸くすると、口に咥えていたタバコをぽとりと落とした。
「えー…ロードお前、とうとうこの店にセフレ連れて来ちゃった系…？ぐえっ」
「こらこら、彼女は職場の同僚ですよ？一等上品な方なので品の無い発言は謹んでいただけますかねぇ？」
そう言いながら瞬時に男性に近付き、彼の着ているフードに付いた紐を締める様に引っ張る。何て子供の様な幼稚な絡み方だろう。普段見る事のない珍しいロードの姿にセリカは呆気に取られた。
「締まってる…！締まってるってば…！！」
「そりゃ締めてますから。貴方こそ、そちらの女性はどうしたんです？今更ようやく彼女ですか？四人のオトモダチとはどうやって平和に縁を切られたんでしょう？暴れん坊の異名を持つ節度のない下半身がやっと落ち着きを取り戻し人間並みになりましたかねぇ？」
「うるせぇな、そっちはまだ現役じゃい。っつーか色々言う割に下品はどっちだよタコ。この子はアレだよ、俺が今匿い中の子」
「匿い中？」
「そ。色々と大変な子。それより、お前が連れて来たのは？同僚って言った？マルフィ結社の子？」
「ええ。噤んでいただく口をより強固にする為に来ていただきました。前線駆除班のセリカ・ミカナギさんです」
そんな調子のロードを本当に意外そうな目でセリカは見つめると、彼女の視線から言わんとしている事を男性も察したのかヒヒヒッと独特な笑いを浮かべた。
「ふーん…セリちゃん…セリちゃんねぇ」
「あ…初めまして、セリカ・ミカナギと申しますぅ」
「うーん…なかなかお上品で良い匂いしそう……俺、ここでマスターやってるヤサカね、よろしく！ちなみにロードとは何だかんだ若い頃からの付き合いでね、俺がずっと面倒見てやってきた感じかね！」
「ふふ、そうなんですかぁ。昔からのマーシュさんのお友達さんなんですねぇ、よろしくお願いしますぅ」
そんなセリカの横からぬっと顔を出すと、ロードはヤサカの耳元でボソリと呟いた。
「ちなみに、ミカナギさんは先のテロでご主人を亡くされています。不用意な発言は慎む様に」
「おぉ…マジ…？」
「いつもの調子でちょっかい出さないでくださいね」
そう言われ、ヤサカはセリカを見る。セリカは少しだけ困った様に微笑んだのだが、その笑顔からはヤサカのよく見る「人を喪った悲しみだけを背負っている人」の影は見えなかった。と言う事はつまり、どうやらロードの取り越し苦労かもしれないなとは思ったものの、やはりこれだけ上品な人にいつもの下品な調子で口説きに掛かるのは失礼かと思ったのかとりあえず今日のところは楽しんで飲んでもらおうとヤサカはいつもの営業スマイルを見せた。
「…とりあえずまずは二人とも席座ってー！ロードはいつものカウンターで良いな？セリちゃんはとりあえず今日はロードの隣で良い？」
「あ、大丈夫ですぅ」
「よし！じゃあケイト ！席まで案内なー！」
ケイト。その名前にセリカはピクリと反応してしまった。二度と聞きたくないと思っていた名前だ。まさかとは思ったが、その呼び掛けに応える様に来たのは人間離れした蛍光色の髪色では無く、普通に人間らしい茶髪の女性だった。
「あ、あの…こちらどうぞ…」
「ケイトさん、と仰るので？しかしヤサカなんぞの所に転がり込まれるとは…」
「本名はキャサリンって言うんです…それに、ヤサカさんは優しい人です…こんな私なんかに…手を差し伸べてくれて──」
「ケイト！身の上話は皆座って落ち着いてからなー！ほら！セリちゃん女性だよ！？良いコート着てるんだから、なるべくメシの匂いのつかない方のクローゼットに持ってく！」
「は、はいっ！！」
ロードはケイトとヤサカを呆気に取られながら見ていた。あのヤサカが女性に対しちゃんと上司然としているのも珍しい。
「あ、あの！セリナ さん上着お借りします！」
「有難う御座いますぅ、セリカですぅ」
「はい！セリナさん！」
「セリカですぅ…」
ケイトが居た事でセリカも少しだけ緊張の糸が解れた心地だった。
とは言え彼女は何者で、一体何故ここに居るやら。それを聞けたのは、全員が席に着き乾杯の音頭を取り、一口目を味わった時だった。
「ケイトはさぁ、そもそもこの子の旦那が俺の知り合いだったのよ」
本名はキャサリンでありその愛称だと知った事でやっと「ケイト」の名に慣れたセリカはうんうんと頷きながらペース良くヴォートカを飲み進めた。
彼女とヤサカが知り合う前、この店には常連が居た。彼は後にケイトの旦那になる男だ。ヤサカともそれなりに仲良くなって行ったある日、男は女性を伴って来店する。それがケイトだった。
「俺達今度結婚するんだ」と嬉しそうに男は呟く。その横でケイトも少し恥ずかしそうに笑った。では友の門出の為、友の愛する人の為、自分にできる祝福の仕方をとヤサカは酒も料理も振る舞った。本当に二人は幸せそうだった。
様子がおかしくなったのはそれからしばらくして、テロが起きて彼の勤め先である機械人形工場が経済的に大ダメージを受けた時だった。機械人形の職人として仕事をして居た彼は会社に発注が入らない事で実質無職になり、看護師をしていたケイトを頼りにせねば家計が回らなかった。
ケイトは朝から晩まで仕事に当たり、ミクリカでは被害が大きく何日も帰れない様な日が続いた。彼は、一瞬にして仕事を失った悔しさからか、その頃から家でただ酒を煽るだけの日々を送る様になり、ケイトは仕事から帰ると休む間もなく家事をすると言うどうしようもなく余裕の無い生活を送って居た。そんな最中、彼の様子はどんどんおかしくなる。
仕事で帰れないケイトの浮気を疑い、彼女を家で無視する様になった。声を掛けてもあからさまに無視。精神的にも肉体的にも追い詰められたケイトがベッドで休む事もままならずリビングで寝てしまえば、次の日異様な光景が覚めた目に飛び込んで来た。「どけよ」と言いたかったのか「こんなところで寝てるな」と言いたかったのか、彼女の寝て居たソファの前に置いてあったテーブルにマーカーペンで「お前は売女だ」といくつも書き込まれて居た。隙間無く埋める様に机に刻まれた中傷。常軌を逸したその行動にゾッとしたケイトは恐ろしがりながらも彼との対話を試みた。
「あなた、あの…お酒飲むのは良いけど少し控えて…？後、その服いつから着替えてないの？そろそろ替えよう？」
まずは日常会話から。大人だからと思い生活の面で口を出した事は無かったが、今の彼は酒を飲んでいる以外の姿を見ていなかったので流石のケイトも心配になる。だからそう言って声を掛けたケイトだったが、彼はそれに対しこう言った。「お前、俺を見下してるのか？」と。
途端にテーブルへの落書きと言う異常性を思い出しゾッとした顔を見せると、それをめざとく見ていた彼はとうとうケイトを殴り付けた。
ケイトはケイトであまり周りに助けを求められる方では無かった。しかも、このご時世なので機械人形から怪我を負わされたのではないか？と判断され、彼女の体の傷の本当の理由に触れてくれる者は無かった。ケイトは殴られた事があまりにショックでどんどん気を病んで行き、職場を離れざるをえなくなった。
残念な事にテロの惨状を間近で見、気を病んだ看護師は多かった為、辞める際も詳しく理由を聞いてくれる者は無かった。しかし、家で彼と二人になったらどうなるか分からない。今の彼と一緒にいたらもっと酷い事をされるかも。むしろ自分しか稼げないのに辞めたら明日はどうなってしまうのか。
家にも帰れずどこにも行けず、当てもなくフラフラしていたケイトにある男が声を掛けた。
「あれ？お嫁ちゃん…ケイトちゃんだっけ？俺だよ俺！リカ・コスタのヤサカ！」
その顔を見るや否や優しかった頃の旦那の顔を思い出し、ケイトは気が付くとヤサカに飛び付き、普段の彼女からは想像が出来ない程の大きな声で「お願いです！助けてください！！」と叫んでいた。
「ほう…なるほど…」
ロードは二杯目に蜂蜜酒をロックで頼むとそれを一口、こくりと喉を動かしちらりとケイトを、そしてヤサカを見た。
「それはお辛かったですね…で？ヤサカ、この後どうするんです？その彼は、彼女がここに居る事を知ってるんで？」
「おう。一応ここにいる事は伝えてる。ただし、その前にそう言う女の子を支援する団体に連絡してな」
「…居場所を報せて大丈夫なんですか？」
「まあまあ。アイツは俺の裏の顔も知ってるから、俺が人より無茶が出来る 事も知ってる。だから怖がってこれ以上はして来ねぇよ」
セリカはケイトを見てハッとした。先程まで気付かなかったが、彼女の手にはよく見ると治り切っていない傷がある。これは打撲の跡か、と思った時、セリカの胸にふつふつと怒りの念が湧いた。
「一応俺が間に入って店に来たあいつの応対したんだぜ？その都度『悪い事をした。ケイトに会いたい』っつぅから」
「ヤサカさん…会わせてしまったんですかぁ？」
「いや？俺の昔からの知り合いは確かに男の方だ。けど、プレッシャーや弱さに押し潰されてテメェの女キズにする様な野郎と、後から知り合ったとは言えそいつの傷付いた嫁さんどっちの肩持つかっつったら分かるよねぇ？ただ、俺もそいつにチャンスはやるつもりだったから言ったんだ。『お前は今心を病んでるのは確かだ。ちゃんと医者に行ってちゃんと相談して、ちゃんと診てもらうって事をここで証明しろ。じゃないとケイトを安心して帰せねぇよ』って。だけどそいつ、返事は一丁前なんだがな。まだみみっちぃプライドが邪魔すんのか未だに診断書も何も持って来やがらねぇ。持ってこいっつっても『ケイトが帰って来たらその日に行くつもりだ』とか抜かしやがる。だから今着々と暴力受けた女の子を匿う為のシェルターの空き待ちをここでしてるわけ」
「…なるほど。で、勿論彼女がシェルターに移動したらその行先は伝えず、と言うわけですね」
「当たり前じゃん。だから今はある意味執行猶予期間だよ。世にある依存症から抜け出すには家族の協力が不可欠だ。だが、本人が最初の一歩を踏み出さなきゃ治るもんも治らねぇ。それは本人が『自分が要治療な状態だと認めて向き合う事』だ。その最初の一歩が出せるか出せねぇかが重要だ。その気があるのか無いのかを見るまではケイトも納得いかねぇしな」
ヤサカはちらりとケイトを見る。その顔は呆れている様な、しかし微笑んでいる様な、何とも言えない顔をしていた。
「…まだびっくりする程ケイトは旦那の事好きなんだよ」
「そんな目に遭っても、ですか？」
「は、はい…彼は弱い人なんだと思います。でも、だからこそ今私が見放したらこの人どうなるんだろう？って…。そんな事言ったら、また『見下してるのか』って言われてしまいそう…だけど、いつか私のその言葉を、『心配してくれて有難う』って捉えてくれる様になったら、そしたら今度こそ何でも乗り越えられる気がするんです…」
ロードもセリカも『信じられない』と言わんばかりの目をケイトに向けた。「共依存みたいな感じだよ」とヤサカは今度こそ呆れ気味に呟いた。
「ケイトはな、びっくりするくらい自己肯定感が低いんだ」
「だ、だって、私なんかと結婚してくれたのって彼だけだったから…」
「『なんか』なんて思わなくても良い女なんだけどなー…」
ヤサカは溜息混じりにそう呟き、「どうしたもんかね？全く」と続けた。セリカは何となくケイトの気持ちが分かってしまった。最初は名前にドキドキしたものだが、彼女の境遇、そして彼女の思いはセリカにとって共感出来るものだった。
自分もベンジーに同じ様なことをされた事を思い出す。ベンジーは妻 ではなく違う女 を愛し、それも機械だからと言ってさも不貞でも裏切りでも無い様な顔をずっとしていた。しかし、徐々に愛の重さはケートに傾いて行き、最後にはどちらが正妻だか分からない様な状況になってしまった。セリカではなくケートを想い過ぎたベンジーに手を出された思い出もある。あの時の愛も憎も絶望も無関心すらも全て混ぜ込んだあのやるせない感情と言ったら。
ケイトの夫は、不貞こそ働かなかったものの感情の浮沈に任せて彼女に嫌がらせの様な事をした。そしてそれをエスカレートさせ、彼女が身の危険を感じるまでになってしまった。
ただそれでも、愛だけで無い色んな情で繋がるのが男と女であり、そして何よりそこに法的な結び付きがあるのが夫婦だ。
別れて終わり、には確かになかなかすっぱり行かない。
「あの…私も色々話を聞いたり、見たりしていたことがあるんですぅ…だから、ケイトさんに『早く旦那様を嫌いになれば良いのに』とは言えません。だってそれでも愛した方、ですものねぇ」
「あ…はい…愛してる、んです…」
「だからこれだけは間違わないで欲しいんですぅ。ケイトさんは『なんか』ではないですし、今回の件もケイトさんは一切悪く無いんですぅ。パートナーから暴力を震われる事案は、何故か被害に遭った方が『自分が怒らせたから』と御自分を責める事が多いです。でもそんな事実は一切無くて、結局手を出したら出した人が宜しくないんですよぅ…どんな理由があっても。だから絶対に御自分の幸せは貪欲に掴んで下さい。それがヤサカさんへの恩返しにもなりますぅ」
セリカのその言葉にケイトはハッとした顔を見せ、そしてヤサカの顔を見た。ヤサカは微笑んでみせると、「俺の言いたかった事全部セリちゃんが言ってくれた」と嬉しそうに呟いた。
「ヤサカさん…」
「ケイト…ケイトが自分の幸せを諦めないでくれるなら俺はケイトが何選んでもそれは正解の道だと思うぜ？人生ってのは一発勝負で何か起きてもそこから引けねぇ。故に正解ってのは無い。ただ、自分の人生で主役の自分と、大切な人が幸せになる道を考えて選んだんならそれほど正解に近いモンもねぇだろ」
ヤサカの言葉にケイトは目に涙を溜め、コクリと頷くと強い瞳で宣言した。
「…次、彼がもし診断書を持って来なかったらその時は一度心を鬼にして彼から離れます。そこで私は今の状態から一区切り付けます！」
それを見たロードもセリカも、そしてヤサカも彼女の中で何かが動いたと確信した。そしてそれがきっと良い方向に向かうのだろうと言う事も。
「セリカ さん、ありがとうございます…！」
「はい。ケイトさんが良き方向に向かわれる事をお祈りしておりますねぇ」
* * *
「いやぁ…申し訳ありませんでした…」
リカ・コスタを出て開口一番ロードが口にしたのは謝罪の言葉だった。訳が分からずキョトンとしていると、ロードは更にセリカに続けた。
「私が知る中で一番下品な店に私と今日向かったなら以降どんな店に行くにも一人でも怖く無くなるのではないかな、と思ったんですよ。今日みたいな事があっても一人でも気軽に飲みに行けたり、或いはブリノヴァさん以外の方との飲みの敷居も低くなるかもしれません。それがまさか、ヤサカがあんな重たい事案抱えているとは思わずですね…」
「ああ、そんな事…」
「すみません、なかなかミカナギさんの様な方があんな店に行く事すら勇気のいる事でしたでしょうに…あんな抱え方をしている方を匿っていると思わず…」
「そんな申し訳なさそうな顔なさらないでください、マーシュさん…」
「うふふ、この事がブリノヴァさんに知れたら怒られそうですねぇ」
「いいえ、むしろ『良くやった、セリカには良い荒療治よ』とか仰ったりするかもしれませんよぉ」
冬の冷たい空気に包まれて、酒で少し上気した頬だけ熱い。
セリカはクスリと笑うと、いつもより大胆な事を口走るのだった。
「セリカはまたリカ・コスタでお酒を飲みたいと思いましたぁ」
「……連れてった私が言うのもなんですが、あの男は本当にただの変態ですよ」
「でもお優しい方じゃ無いですかぁ」
「それにあの男は性欲の権化です。女性の敵ですよ女性の敵」
「ふふ、でもセリカには魅力的な男性に見えましたよぉ？勿論、マーシュさんも」
セリカのその言葉に何故かギョッとした様な顔を見せるロード。自分の本性を見せて褒められた経験が皆無に等しい彼、この瞬間何事かと一瞬背筋の凍る思いをしたらしい。
「結社で見せてるお上品な立ち振る舞いも勿論素敵ですぅ。でも、あれがマーシュさんの全部でしたら今日セリカはヤサカさんやケイトさんとの出会いもありませんでしたし、リカ・コスタが良いお店だと言う事もきっと気付かず終わっていました。マーシュさんにお茶目な面があったからこそ見えたものってあると思いますぅ。そしてそう言うの全部引っ括めて、セリカは『とても楽しい』と思えたんですよぅ」
それに、ケイトの件がどうなるのかも妙な親近感を持ってしまった以上気になってしまうし、何より今日の話でセリカに感謝したヤサカから「今度店に来てくれたらセリちゃんの為にとっておきの清酒用意して待ってるからね！」とまで言われた。そこまでもてなしてくれると言った彼の好意を受け入れないのも悪い気がした。
「それに、ケイトさんの話でマーシュさんの恋のお話、聞きそびれてしまいましたからねぇ」
「お、覚えてたんです？」
「ええ。今度はマーシュさんの片想いしてらっしゃる結社の女性の話、聞きたいですねぇ」
「……うふふ、ええ。覚えられてちゃ話さない訳にはいきませんねぇ。私がブリノヴァさんへの土産話にどうだ？なんて誘い文句で連れてったんですもんねぇ」
「ふふ、セリカに是非マーシュさんの恋のお話を聞かせて下さいな」
ふとしたところで奇妙な友情が育まれつつある。そんな妙な感覚に少しこそばゆい感じがするセリカとロード。翌日、二人は顔を合わせたら相変わらずキノコ料理の話に花を咲かせていた。表面上はいつもと変わらない二人。しかし、そこには昨日までは無かった友情による距離の近さが生まれていた。
「……何っか距離近くねぇ？セリカちゃんとロード…」
ギャリーが彼に似合わない様な眉間に深く深く皺を刻んだ顔でロードを睨む。タイガは少しキョトンとしながら「いや、昨日も椎茸の話で盛り上がってましたけど？」と言いながら「椎茸と言えば」で盛大に腹を壊した事を思い出して少し胃が痛んだ。
「いやいや、俺昨日だってセリカちゃんとロードが話してんの見たけどさ…何だろう？こんなぞわぞわしなかったし…」
「ゾワゾワって何ですか？」
「よくわかんねぇけどぞわぞわはぞわぞわだよ」
そんな事を心配するギャリーの目線の先、セリカは楽しそうに椎茸の料理の話で微笑んでいる。
椎茸の素焼きとかバター炒めとかにんにく醤油焼きとかチーズ焼きとかなんだかもう色々だ。あまりにも内容が美味しそうでギャリーの腹の虫が音を立てた。
「くっ…！！俺たまにセリカちゃんからスッゲェ冷めた目で見られるのに何でロードの奴、あんな笑顔ばっか見せられてんだよ…！？」
「ファンさん、嫉妬するのかお腹空かせるのかどっちかにしないと疲れませんか？」
「え？チミ は分かってねぇなぁタイガ君。俺は器用だから嫉妬しながら腹空かせるなんて同時進行も出来んだよ」
「あはは、何か浮気癖のある男が開き直った時みたいな事言いますね！」
「……タイガ、その例えセリカちゃんの前で出したらぶっ飛ばすからな」
セリカは固まったままロードを見つめる。見つめられたロードも同様に固まっており、自分の腕に絡み付いていた女がそっと離れて店に戻った事すら気付いて居ない様子だった。
「あ、あの…ミカナギさん、洋装もされるんですねぇ…」
「え、ええ…持っていない事はない、ですぅ…」
「ああ……」
「えっと……」
しばらく自然界での動物の睨み合いの様な硬直の仕方をしていた二人だが、その内ふぅと肩の力を抜いたロードが髪をくしゃくしゃと乱し始めた。
「……いや、変な誤魔化しはやめましょう。もしも仮に『今の女性は私の妹で、ここは妹の職場なんです』と言ったところで嘘にしか見えませんもんねぇ？」
「え、ええ、まぁ…流石に苦しい誤魔化しですかねぇ。でも…安心してくださいな。確かに驚きましたけどぉ…セリカは職場の一同僚さんのプライベートに突っ込んで嫌な事言う人間では無いつもりですぅ」
「うふふ。ミカナギさんと言い私のお会いする上品な方は皆さんこの状況を飲み込むだけの度胸までお有りな様で」
そう言うロードが遠くを見つめながら思い浮かべたのは赤みがかった黒い髪に、黒い瞳の女性だった。サリアヌ・ナシェリも彼が上品な仮面を被っているだけの人間であると知る女性の一人ではあるが、セリカは知らないので特に思うところもなく聞き流す。
「ところで…ミカナギさんはその…こんなところで何を？」
そう言いながらロードはチラリと周りに目を向ける。彼の目はすぐ近くにあったホテルを捉えており、まさかセリカが誰かと逢瀬でも重ねる為にこんな路地裏に入って来たのだろうかと、今正に「職場の一同僚のプライベートに突っ込んで嫌な事を言う人間では無い」とフォローをしては貰ったが、自分こそ彼女の為に静かに立ち去るべきでは無いかとロードは思った。
「私、誰かと会うのに邪魔…とかでは無いです？」
ロードが何を気にしているのかセリカは分からず、しかしバーティゴの事を思い出して少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
「いいえ…むしろ、会う予定だったのが駄目になってしまったので…」
「え？どなたと？」
「お姉様ですぅ。第三小隊小隊長のエレオノーラ・ブリノヴァさん。今日はエレオノーラさんと二人で飲みに行く予定で…」
残念ですぅ、と口にするセリカにロードは心底ほっとした顔をする。これで彼女が土壇場にキャンセルを食らった相手が男だったら由々しき事だ。こんな女性一人こんなところに放り出すなんてと思ったが、どうやら色々と行き違いがあっただけだったらしい。
「お姉様との飲み会は…本当にお酒が好きだけど一人で飲みに行く勇気も機会もなかったセリカを気遣ってのものだと思いますぅ。その度に二人きりで色んな込み入った話もさせてもらっていたのでそれが楽しくて…だから、お喋りが出来なかったのは残念ですぅ」
「それは残念ですね…そうすると、ミカナギさんはこの後どうしようと？」
「…お姉様に背中を押してもらったのでほんの少しだけ、一人でもお酒を飲んでみようかな？と思ったんですぅ。でも、考え事して歩き回って此処まで来て、その内に勇気は何処かへ行ってしまいました」
お酒は飲みたい。けど、今日一番誰と来たかったか。その人が居ないとなると全てが無価値に思えてしまう。
一人でお酒を飲んでもきっと楽しくない。そもそも一人でお店に入ってお酒を飲むだなんて、価値観がまるで違う様な行動を取る勇気もないし、取れるだけの気力も無い。だから帰ります。
そう言って少し残念そうに溜息を吐くセリカ。ロードは何を思ったか、彼女にちょいちょいと手招きした。
「ミカナギさん。ならば私の飲みに付き合ってくださいませんか？」
「マーシュさんと…？」
「…やはりこんなところに女性を一人置いていくのも…と言いますか何と言いますか…」
「……」
素直に『お酒奢りますから店から出て来た事は黙っててください』と言えば良いのに。
と、少し捻くれた見方をしてしまったが本当にロードがそんな風に考えているかは分からないのでそこまでは口に出さず、セリカはただ黙って考え込んでしまった。ロードはにこりと笑うと、少し茶目っ気を交えながら「そんなにお可愛らしい格好をしてどこにも行かないと言うのも損じゃありません？」と微笑んだ。
「ミカナギさん、これはチャンスじゃ無いですかね？いつも和装の貴女が洋装で、そして普段なら特定の女性と二人で、或いは同じ班のメンバーと飲みに行くところ全然違う人間と赴いてみる。所謂、『自分の殻を破る』と言う体験が出来ますよ？いかがです？」
「何かセールスマンの方みたいな謳い文句ですねぇ…」
「うふふ、ええ。そんな様なものですよ。私は此処で一緒に酒を酌み交わす事でより親近感を抱かせ、さっきの店から出て来たところを見られたと言うハプニングに噤んでいただく口の重さをより強固にしたいと企んでおります」
「あらぁ、『お酒奢りますから黙っててください』を本当に思われていたなんて。マーシュさんて意外と発言で驚かせに来るタイプなんですねぇ」
「ええ。時に素直に言った方が理解して頂きやすいと言う事も色々経た人間関係、熟知しておりますので。冗談を言える場所、言わずにおいた方が良い場所、心得てはおりますよ。そしてミカナギさんは冗談を言っても微笑んで流してくれる懐の広い女性とお見受けしました」
「ふふ、ありがとうございますぅ。マーシュさんこそ、セリカの頭の中のマーシュさんと先程のお店の御婦人とは結び付きませんもの。本当に時と所と場所を弁えていらっしゃるんでしょうねぇ。だからこそ、セリカは本当にプライベートな部分を突っつくつもりは最初からありませんでしたが…」
「そこも素直な気持ちです。ミカナギさんのお洒落な格好が見られるなんて得した気分になりましたので。そのまま帰してしまうのも勿体ないのでは無いかなぁ？と…」
そう言われ、セリカは少しだけぴくりと体を揺らす。まさか、これは自惚れ過ぎて有り得ない事だからと頭から除外していたが、もしかしてロードは自分の事を女として狙っている…とかあるのだろうか。あわよくば…と言う感じで済し崩しにしようとしているとか…？
普段の彼ならばそんな思いは抱かないが、何分先程あの『いかがわしいお店』から出て来たところを見てしまった彼だ。その警戒が通じたのか、ロードはまたもにこりと微笑むと「下心は無いです」と呟いた。
「一人を除いて結社の女性には手を出さない、と決めているんで安心してください」
「あらぁ、そうなんですかぁ？…一人を除いて？」
「ええ。もう長い事片思いしている方がたまたま結社にいるんですよ、私。ミカナギさんもきっとよく知っている方だと思いますよ」
普段なら気にしないのに、急激に彼を知ったからか少しだけその話の詳細が知りたくて、はしたないと思いつつうずうずしてしまう。ロードはそんなセリカを見るとまたも意地の悪い笑みを浮かべ、「普段と違う人間と酒を酌み交わしたらもう何も怖くなくなるんじゃありません？」と呟いた。
「確かに、吹っ切れそうですねぇ」
「吹っ切れのお手伝いついでに、私の恋路の話でもどうでしょう？ブリノヴァさんに土産としてみるのは？」
「ふふ、マーシュさんも本当疑り深いですぅ。先程も言った通りセリカはマーシュさんのプライベートに口を挟むつもりは毛頭ありません。男性の…マーシュさんの下心の無さをセリカは信じます。だからマーシュさんもセリカの口の堅さを信じてくださいません？」
ヤマトナデシコなセリカが男性の劣情の無さを信じる、と言うのは相当な覚悟の上の物言いだと言うのは良く分かる。それと同列に言われてしまっては信じなければ失礼というもの。
「うふふ。ええ、そうですね。では、信じてもらえた以上は私も信じさせていただきます」
「ええ、お願いしますぅ」
「改めて、私に『吹っ切れ』のお手伝いをさせてくださいませんか？」
「ふふふ。ええ、喜んで」
馴染みの店があると言うロードと共に、セリカはミクリカの路地裏を行く。「吹っ切れのお手伝いを」とは言え、ロードの後ろを三歩引いた距離で歩く彼女を見て「何だか
* * *
「い、いらっしゃいませ…！何名様でしょうか…！？」
「え？」
店のドアを開けた瞬間パタパタとやって来た女性。『客の人数を聞く』などと言う当たり前の様な光景に何故か目を丸くして驚くロード。
「おーい、そんないきなり飛んでくなってー。もしアイツだったらどうすん…」
そして店の奥から現れた男性は、そんな風に目を丸くして驚くロードと隣にいるセリカを見て逆にその暖簾の様な厚い前髪に隠れた目を丸くすると、口に咥えていたタバコをぽとりと落とした。
「えー…ロードお前、とうとうこの店にセフレ連れて来ちゃった系…？ぐえっ」
「こらこら、彼女は職場の同僚ですよ？一等上品な方なので品の無い発言は謹んでいただけますかねぇ？」
そう言いながら瞬時に男性に近付き、彼の着ているフードに付いた紐を締める様に引っ張る。何て子供の様な幼稚な絡み方だろう。普段見る事のない珍しいロードの姿にセリカは呆気に取られた。
「締まってる…！締まってるってば…！！」
「そりゃ締めてますから。貴方こそ、そちらの女性はどうしたんです？今更ようやく彼女ですか？四人のオトモダチとはどうやって平和に縁を切られたんでしょう？暴れん坊の異名を持つ節度のない下半身がやっと落ち着きを取り戻し人間並みになりましたかねぇ？」
「うるせぇな、そっちはまだ現役じゃい。っつーか色々言う割に下品はどっちだよタコ。この子はアレだよ、俺が今匿い中の子」
「匿い中？」
「そ。色々と大変な子。それより、お前が連れて来たのは？同僚って言った？マルフィ結社の子？」
「ええ。噤んでいただく口をより強固にする為に来ていただきました。前線駆除班のセリカ・ミカナギさんです」
そんな調子のロードを本当に意外そうな目でセリカは見つめると、彼女の視線から言わんとしている事を男性も察したのかヒヒヒッと独特な笑いを浮かべた。
「ふーん…セリちゃん…セリちゃんねぇ」
「あ…初めまして、セリカ・ミカナギと申しますぅ」
「うーん…なかなかお上品で良い匂いしそう……俺、ここでマスターやってるヤサカね、よろしく！ちなみにロードとは何だかんだ若い頃からの付き合いでね、俺がずっと面倒見てやってきた感じかね！」
「ふふ、そうなんですかぁ。昔からのマーシュさんのお友達さんなんですねぇ、よろしくお願いしますぅ」
そんなセリカの横からぬっと顔を出すと、ロードはヤサカの耳元でボソリと呟いた。
「ちなみに、ミカナギさんは先のテロでご主人を亡くされています。不用意な発言は慎む様に」
「おぉ…マジ…？」
「いつもの調子でちょっかい出さないでくださいね」
そう言われ、ヤサカはセリカを見る。セリカは少しだけ困った様に微笑んだのだが、その笑顔からはヤサカのよく見る「人を喪った悲しみだけを背負っている人」の影は見えなかった。と言う事はつまり、どうやらロードの取り越し苦労かもしれないなとは思ったものの、やはりこれだけ上品な人にいつもの下品な調子で口説きに掛かるのは失礼かと思ったのかとりあえず今日のところは楽しんで飲んでもらおうとヤサカはいつもの営業スマイルを見せた。
「…とりあえずまずは二人とも席座ってー！ロードはいつものカウンターで良いな？セリちゃんはとりあえず今日はロードの隣で良い？」
「あ、大丈夫ですぅ」
「よし！じゃあ
ケイト。その名前にセリカはピクリと反応してしまった。二度と聞きたくないと思っていた名前だ。まさかとは思ったが、その呼び掛けに応える様に来たのは人間離れした蛍光色の髪色では無く、普通に人間らしい茶髪の女性だった。
「あ、あの…こちらどうぞ…」
「ケイトさん、と仰るので？しかしヤサカなんぞの所に転がり込まれるとは…」
「本名はキャサリンって言うんです…それに、ヤサカさんは優しい人です…こんな私なんかに…手を差し伸べてくれて──」
「ケイト！身の上話は皆座って落ち着いてからなー！ほら！セリちゃん女性だよ！？良いコート着てるんだから、なるべくメシの匂いのつかない方のクローゼットに持ってく！」
「は、はいっ！！」
ロードはケイトとヤサカを呆気に取られながら見ていた。あのヤサカが女性に対しちゃんと上司然としているのも珍しい。
「あ、あの！
「有難う御座いますぅ、セリカですぅ」
「はい！セリナさん！」
「セリカですぅ…」
ケイトが居た事でセリカも少しだけ緊張の糸が解れた心地だった。
とは言え彼女は何者で、一体何故ここに居るやら。それを聞けたのは、全員が席に着き乾杯の音頭を取り、一口目を味わった時だった。
「ケイトはさぁ、そもそもこの子の旦那が俺の知り合いだったのよ」
本名はキャサリンでありその愛称だと知った事でやっと「ケイト」の名に慣れたセリカはうんうんと頷きながらペース良くヴォートカを飲み進めた。
彼女とヤサカが知り合う前、この店には常連が居た。彼は後にケイトの旦那になる男だ。ヤサカともそれなりに仲良くなって行ったある日、男は女性を伴って来店する。それがケイトだった。
「俺達今度結婚するんだ」と嬉しそうに男は呟く。その横でケイトも少し恥ずかしそうに笑った。では友の門出の為、友の愛する人の為、自分にできる祝福の仕方をとヤサカは酒も料理も振る舞った。本当に二人は幸せそうだった。
様子がおかしくなったのはそれからしばらくして、テロが起きて彼の勤め先である機械人形工場が経済的に大ダメージを受けた時だった。機械人形の職人として仕事をして居た彼は会社に発注が入らない事で実質無職になり、看護師をしていたケイトを頼りにせねば家計が回らなかった。
ケイトは朝から晩まで仕事に当たり、ミクリカでは被害が大きく何日も帰れない様な日が続いた。彼は、一瞬にして仕事を失った悔しさからか、その頃から家でただ酒を煽るだけの日々を送る様になり、ケイトは仕事から帰ると休む間もなく家事をすると言うどうしようもなく余裕の無い生活を送って居た。そんな最中、彼の様子はどんどんおかしくなる。
仕事で帰れないケイトの浮気を疑い、彼女を家で無視する様になった。声を掛けてもあからさまに無視。精神的にも肉体的にも追い詰められたケイトがベッドで休む事もままならずリビングで寝てしまえば、次の日異様な光景が覚めた目に飛び込んで来た。「どけよ」と言いたかったのか「こんなところで寝てるな」と言いたかったのか、彼女の寝て居たソファの前に置いてあったテーブルにマーカーペンで「お前は売女だ」といくつも書き込まれて居た。隙間無く埋める様に机に刻まれた中傷。常軌を逸したその行動にゾッとしたケイトは恐ろしがりながらも彼との対話を試みた。
「あなた、あの…お酒飲むのは良いけど少し控えて…？後、その服いつから着替えてないの？そろそろ替えよう？」
まずは日常会話から。大人だからと思い生活の面で口を出した事は無かったが、今の彼は酒を飲んでいる以外の姿を見ていなかったので流石のケイトも心配になる。だからそう言って声を掛けたケイトだったが、彼はそれに対しこう言った。「お前、俺を見下してるのか？」と。
途端にテーブルへの落書きと言う異常性を思い出しゾッとした顔を見せると、それをめざとく見ていた彼はとうとうケイトを殴り付けた。
ケイトはケイトであまり周りに助けを求められる方では無かった。しかも、このご時世なので機械人形から怪我を負わされたのではないか？と判断され、彼女の体の傷の本当の理由に触れてくれる者は無かった。ケイトは殴られた事があまりにショックでどんどん気を病んで行き、職場を離れざるをえなくなった。
残念な事にテロの惨状を間近で見、気を病んだ看護師は多かった為、辞める際も詳しく理由を聞いてくれる者は無かった。しかし、家で彼と二人になったらどうなるか分からない。今の彼と一緒にいたらもっと酷い事をされるかも。むしろ自分しか稼げないのに辞めたら明日はどうなってしまうのか。
家にも帰れずどこにも行けず、当てもなくフラフラしていたケイトにある男が声を掛けた。
「あれ？お嫁ちゃん…ケイトちゃんだっけ？俺だよ俺！リカ・コスタのヤサカ！」
その顔を見るや否や優しかった頃の旦那の顔を思い出し、ケイトは気が付くとヤサカに飛び付き、普段の彼女からは想像が出来ない程の大きな声で「お願いです！助けてください！！」と叫んでいた。
「ほう…なるほど…」
ロードは二杯目に蜂蜜酒をロックで頼むとそれを一口、こくりと喉を動かしちらりとケイトを、そしてヤサカを見た。
「それはお辛かったですね…で？ヤサカ、この後どうするんです？その彼は、彼女がここに居る事を知ってるんで？」
「おう。一応ここにいる事は伝えてる。ただし、その前にそう言う女の子を支援する団体に連絡してな」
「…居場所を報せて大丈夫なんですか？」
「まあまあ。アイツは俺の裏の顔も知ってるから、俺が
セリカはケイトを見てハッとした。先程まで気付かなかったが、彼女の手にはよく見ると治り切っていない傷がある。これは打撲の跡か、と思った時、セリカの胸にふつふつと怒りの念が湧いた。
「一応俺が間に入って店に来たあいつの応対したんだぜ？その都度『悪い事をした。ケイトに会いたい』っつぅから」
「ヤサカさん…会わせてしまったんですかぁ？」
「いや？俺の昔からの知り合いは確かに男の方だ。けど、プレッシャーや弱さに押し潰されてテメェの女キズにする様な野郎と、後から知り合ったとは言えそいつの傷付いた嫁さんどっちの肩持つかっつったら分かるよねぇ？ただ、俺もそいつにチャンスはやるつもりだったから言ったんだ。『お前は今心を病んでるのは確かだ。ちゃんと医者に行ってちゃんと相談して、ちゃんと診てもらうって事をここで証明しろ。じゃないとケイトを安心して帰せねぇよ』って。だけどそいつ、返事は一丁前なんだがな。まだみみっちぃプライドが邪魔すんのか未だに診断書も何も持って来やがらねぇ。持ってこいっつっても『ケイトが帰って来たらその日に行くつもりだ』とか抜かしやがる。だから今着々と暴力受けた女の子を匿う為のシェルターの空き待ちをここでしてるわけ」
「…なるほど。で、勿論彼女がシェルターに移動したらその行先は伝えず、と言うわけですね」
「当たり前じゃん。だから今はある意味執行猶予期間だよ。世にある依存症から抜け出すには家族の協力が不可欠だ。だが、本人が最初の一歩を踏み出さなきゃ治るもんも治らねぇ。それは本人が『自分が要治療な状態だと認めて向き合う事』だ。その最初の一歩が出せるか出せねぇかが重要だ。その気があるのか無いのかを見るまではケイトも納得いかねぇしな」
ヤサカはちらりとケイトを見る。その顔は呆れている様な、しかし微笑んでいる様な、何とも言えない顔をしていた。
「…まだびっくりする程ケイトは旦那の事好きなんだよ」
「そんな目に遭っても、ですか？」
「は、はい…彼は弱い人なんだと思います。でも、だからこそ今私が見放したらこの人どうなるんだろう？って…。そんな事言ったら、また『見下してるのか』って言われてしまいそう…だけど、いつか私のその言葉を、『心配してくれて有難う』って捉えてくれる様になったら、そしたら今度こそ何でも乗り越えられる気がするんです…」
ロードもセリカも『信じられない』と言わんばかりの目をケイトに向けた。「共依存みたいな感じだよ」とヤサカは今度こそ呆れ気味に呟いた。
「ケイトはな、びっくりするくらい自己肯定感が低いんだ」
「だ、だって、私なんかと結婚してくれたのって彼だけだったから…」
「『なんか』なんて思わなくても良い女なんだけどなー…」
ヤサカは溜息混じりにそう呟き、「どうしたもんかね？全く」と続けた。セリカは何となくケイトの気持ちが分かってしまった。最初は名前にドキドキしたものだが、彼女の境遇、そして彼女の思いはセリカにとって共感出来るものだった。
自分もベンジーに同じ様なことをされた事を思い出す。ベンジーは
ケイトの夫は、不貞こそ働かなかったものの感情の浮沈に任せて彼女に嫌がらせの様な事をした。そしてそれをエスカレートさせ、彼女が身の危険を感じるまでになってしまった。
ただそれでも、愛だけで無い色んな情で繋がるのが男と女であり、そして何よりそこに法的な結び付きがあるのが夫婦だ。
別れて終わり、には確かになかなかすっぱり行かない。
「あの…私も色々話を聞いたり、見たりしていたことがあるんですぅ…だから、ケイトさんに『早く旦那様を嫌いになれば良いのに』とは言えません。だってそれでも愛した方、ですものねぇ」
「あ…はい…愛してる、んです…」
「だからこれだけは間違わないで欲しいんですぅ。ケイトさんは『なんか』ではないですし、今回の件もケイトさんは一切悪く無いんですぅ。パートナーから暴力を震われる事案は、何故か被害に遭った方が『自分が怒らせたから』と御自分を責める事が多いです。でもそんな事実は一切無くて、結局手を出したら出した人が宜しくないんですよぅ…どんな理由があっても。だから絶対に御自分の幸せは貪欲に掴んで下さい。それがヤサカさんへの恩返しにもなりますぅ」
セリカのその言葉にケイトはハッとした顔を見せ、そしてヤサカの顔を見た。ヤサカは微笑んでみせると、「俺の言いたかった事全部セリちゃんが言ってくれた」と嬉しそうに呟いた。
「ヤサカさん…」
「ケイト…ケイトが自分の幸せを諦めないでくれるなら俺はケイトが何選んでもそれは正解の道だと思うぜ？人生ってのは一発勝負で何か起きてもそこから引けねぇ。故に正解ってのは無い。ただ、自分の人生で主役の自分と、大切な人が幸せになる道を考えて選んだんならそれほど正解に近いモンもねぇだろ」
ヤサカの言葉にケイトは目に涙を溜め、コクリと頷くと強い瞳で宣言した。
「…次、彼がもし診断書を持って来なかったらその時は一度心を鬼にして彼から離れます。そこで私は今の状態から一区切り付けます！」
それを見たロードもセリカも、そしてヤサカも彼女の中で何かが動いたと確信した。そしてそれがきっと良い方向に向かうのだろうと言う事も。
「
「はい。ケイトさんが良き方向に向かわれる事をお祈りしておりますねぇ」
* * *
「いやぁ…申し訳ありませんでした…」
リカ・コスタを出て開口一番ロードが口にしたのは謝罪の言葉だった。訳が分からずキョトンとしていると、ロードは更にセリカに続けた。
「私が知る中で一番下品な店に私と今日向かったなら以降どんな店に行くにも一人でも怖く無くなるのではないかな、と思ったんですよ。今日みたいな事があっても一人でも気軽に飲みに行けたり、或いはブリノヴァさん以外の方との飲みの敷居も低くなるかもしれません。それがまさか、ヤサカがあんな重たい事案抱えているとは思わずですね…」
「ああ、そんな事…」
「すみません、なかなかミカナギさんの様な方があんな店に行く事すら勇気のいる事でしたでしょうに…あんな抱え方をしている方を匿っていると思わず…」
「そんな申し訳なさそうな顔なさらないでください、マーシュさん…」
「うふふ、この事がブリノヴァさんに知れたら怒られそうですねぇ」
「いいえ、むしろ『良くやった、セリカには良い荒療治よ』とか仰ったりするかもしれませんよぉ」
冬の冷たい空気に包まれて、酒で少し上気した頬だけ熱い。
セリカはクスリと笑うと、いつもより大胆な事を口走るのだった。
「セリカはまたリカ・コスタでお酒を飲みたいと思いましたぁ」
「……連れてった私が言うのもなんですが、あの男は本当にただの変態ですよ」
「でもお優しい方じゃ無いですかぁ」
「それにあの男は性欲の権化です。女性の敵ですよ女性の敵」
「ふふ、でもセリカには魅力的な男性に見えましたよぉ？勿論、マーシュさんも」
セリカのその言葉に何故かギョッとした様な顔を見せるロード。自分の本性を見せて褒められた経験が皆無に等しい彼、この瞬間何事かと一瞬背筋の凍る思いをしたらしい。
「結社で見せてるお上品な立ち振る舞いも勿論素敵ですぅ。でも、あれがマーシュさんの全部でしたら今日セリカはヤサカさんやケイトさんとの出会いもありませんでしたし、リカ・コスタが良いお店だと言う事もきっと気付かず終わっていました。マーシュさんにお茶目な面があったからこそ見えたものってあると思いますぅ。そしてそう言うの全部引っ括めて、セリカは『とても楽しい』と思えたんですよぅ」
それに、ケイトの件がどうなるのかも妙な親近感を持ってしまった以上気になってしまうし、何より今日の話でセリカに感謝したヤサカから「今度店に来てくれたらセリちゃんの為にとっておきの清酒用意して待ってるからね！」とまで言われた。そこまでもてなしてくれると言った彼の好意を受け入れないのも悪い気がした。
「それに、ケイトさんの話でマーシュさんの恋のお話、聞きそびれてしまいましたからねぇ」
「お、覚えてたんです？」
「ええ。今度はマーシュさんの片想いしてらっしゃる結社の女性の話、聞きたいですねぇ」
「……うふふ、ええ。覚えられてちゃ話さない訳にはいきませんねぇ。私がブリノヴァさんへの土産話にどうだ？なんて誘い文句で連れてったんですもんねぇ」
「ふふ、セリカに是非マーシュさんの恋のお話を聞かせて下さいな」
ふとしたところで奇妙な友情が育まれつつある。そんな妙な感覚に少しこそばゆい感じがするセリカとロード。翌日、二人は顔を合わせたら相変わらずキノコ料理の話に花を咲かせていた。表面上はいつもと変わらない二人。しかし、そこには昨日までは無かった友情による距離の近さが生まれていた。
「……何っか距離近くねぇ？セリカちゃんとロード…」
ギャリーが彼に似合わない様な眉間に深く深く皺を刻んだ顔でロードを睨む。タイガは少しキョトンとしながら「いや、昨日も椎茸の話で盛り上がってましたけど？」と言いながら「椎茸と言えば」で盛大に腹を壊した事を思い出して少し胃が痛んだ。
「いやいや、俺昨日だってセリカちゃんとロードが話してんの見たけどさ…何だろう？こんなぞわぞわしなかったし…」
「ゾワゾワって何ですか？」
「よくわかんねぇけどぞわぞわはぞわぞわだよ」
そんな事を心配するギャリーの目線の先、セリカは楽しそうに椎茸の料理の話で微笑んでいる。
椎茸の素焼きとかバター炒めとかにんにく醤油焼きとかチーズ焼きとかなんだかもう色々だ。あまりにも内容が美味しそうでギャリーの腹の虫が音を立てた。
「くっ…！！俺たまにセリカちゃんからスッゲェ冷めた目で見られるのに何でロードの奴、あんな笑顔ばっか見せられてんだよ…！？」
「ファンさん、嫉妬するのかお腹空かせるのかどっちかにしないと疲れませんか？」
「え？
「あはは、何か浮気癖のある男が開き直った時みたいな事言いますね！」
「……タイガ、その例えセリカちゃんの前で出したらぶっ飛ばすからな」
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