歪んで捻れてラメンタービレ／べにざくろ

　愛の日の浮かれた空気も薄れ始めた頃、テオフィルスは美しい女性――ではなく汚染駆除ズギサ・ルノース班に設置された個人用電子端末と仲良く一晩を過ごしていた。キーボードを叩く手は難関曲を奏でるピアニストの如く動き、ディスプレイを見つめる蒼玉サファイア色の目は瞬きする時間すら惜しむかの様に凝視を続けている。
　ディスプレイに表示されているのは無駄のないプログラム構文だ。
　しかし、それはテオフィルスの書いたものではなく汚染駆除ズギサ・ルノース班のお姫様ことミサキ・ケルンティアの書いたものである。
　ミサキ・ケルンティアの書くコードは美しい。
　コードが効率的で無駄が無く十分に構造化されており、あの年齢でコレだけのプログラムが組めてしまうなんて将来が楽しみであり恐ろしい少女である。
　しかし、彼女の書くものは美しすぎる・・・・・のだ。
　まず、コードに対してコメントが無い。そして、プログラムの仕様書が無い。
　他人が動作させる事に対しての意識が欠落しているのか、見れば分かるとでも言うのか。その点においてミサキのプログラムは簡潔すぎた。それでは万が一バグが出たり、仕様を変更する為に他人がプログラムを弄った際に滅茶苦茶にされて美しかったコードがクソコードへと変貌を遂げる可能性がある。綺麗なものが汚される未来が分かっていて見て見ぬふりを出来る程、テオフィルスは薄情な人間ではなかった。
　そして、それが今の残業へと繋がっているのである。ミサキのプログラムに( ミサキに内緒で )手を加える作業を通常業務の時間に行う訳にも行かず、今日は楽しく徹夜になることだろう。
　先に帰ったイオにもエフゲーニにもトニィにも今日の仕事が終わらないのかと勘違いされて哀れみの目を向けられたが、テオフィルスは甘んじてそれを受け入れた。自分の自尊心プライドより美しいプログラムコードを守る事を選んだ結果である。
　それでもコメントを書き足していくことでミサキの、テオフィルスとしては可読性の高いプログラムの整ったコード構文は汚れていくように見えて手を止めずとも苦笑を浮かべる。ミサキがUIユーザーインターフェースやUXユーザーエクスペリエンスを意識してくれるようになれば、このような手間がなくなって良いのだが、彼女の性格的に難しいことだろう。
「 ……懐かしいな」
　誰に言うでもなくテオフィルスは呟く。
　テオフィルスもプログラマーとして駆け出しの頃、このような他人が使用する事を考えないプログラムを組んで元締めに渡したことがあった。自信満々にテオフィルスが提出したプログラムを見た元締めは、一目見てそれに気付いていただろうにワザと他のメンバーにプログラムを回した。そして、あっという間にテオフィルスのプログラムは動いているのも不思議なクソコードのプログラムへと変貌を遂げたのだ。あれはショックだった。なお、クソコードと化したプログラムを見て絶句するテオフィルスに元締めは腹を抱えて笑っていた事は言うまでもない。
　それからはテオフィルスはUIユーザーインターフェースを意識して誰にでも分かるようにプログラムを書くようになった。あの衝撃を可愛い可愛いミサキに与えたくない。
「ナンネル、このコードの…… 」
　ふと自分で呟いた言葉に驚き、テオフィルスの手が止まる。
　此処はマルフィ結社汚染駆除ズギサ・ルノース班の部屋であって岸壁街の自分の家ではないし、名前を呼んでしまった機械人形マス・サーキュのナンネルはその家と一緒に潰れて今は瓦礫の下だ。どうやら独りで作業をする事が久し振りすぎて無意識に岸壁街の家に居るつもりになっていたらしい。あれから半年以上経つのにナンネルの名前を呼んでしまったのは、愛の日の夜に見たヴォイドとナンネルと暮らすというアホらしい夢で久し振りにナンネルに会ったからだろうか。
「馬鹿か、俺は」
　自嘲めいた笑みを浮かべてポケットに入れていた電子タバコを咥えるとスイッチを入れる。誰もいない部屋なのだから吸ったところで誰にも文句は言われないし、数時間もすれば臭いは消えてしまうから出勤してきた汚染駆除ズギサ・ルノース班のメンバーには気付かれはしないだろう。
　鼻に抜けるメンソールに清涼感と強い刺激を感じながら蒸気の煙を吐き出せば、懐かしさに浸ろうとしていた己を強制的に現実へと引き戻してくれる。
　集中が途切れたついでに身体を伸ばして筋肉の緊張を解すと、テオフィルスは再びディスプレイを見つめてキーボードを叩き始めたのであった。

　*　*　*

「おはようござ……え、完徹っすか？」
　出勤してきたトニィが上げた声にテオフィルスは我に返る。あれから一度も集中力を途切れさせなかったので気付いていなかったが、部屋には汚染駆除ズギサ・ルノース班のメンバーがいて個人用電子端末の端に表示されている日付は変わっていた。つまりは、まさかのトニィの言った通りのことを自分はしていたということだ。
「おう……そう、だな…… 」
「え、まさか無意識の完徹ってことっすか？仕事中毒ワーカーホリックにしてもやべぇっすね」
　トニィはテオフィルスが徹夜で仕事をしていたことに本気で引いているようだったが、当の本人たるテオフィルスも自分にドン引きしていた。今日も仕事の為、そこそこやって帰ろうと思っていた筈なのに完徹とは、どういうことなのだ。やはり、コメントの配置が気に入らなかったりして直していたのが悪かったのだろうか。
「メドラーさん、臭いです」
「あぁ？」
　いきなり人の事を「臭い」呼ばわりしてきた男を睨みつけると、黒いマスクが印象的なエフゲーニがテオフィルスの恫喝めいた顔にも負けずに肩を竦めた。
「タバコです。汚染駆除ズギサ・ルノース班の部屋は禁煙ですよ」
　エフゲーニの言葉にテオフィルスの顔に焦りが浮かぶ。確かに冷静になってみると、時間なんて考えずにリキッドが無くなるまで吸っていた電子タバコのメンソールの匂いが周囲に漂っている。
「やべぇ。今日は…… 」
「ケルンティアさんはお休みですので、ご安心を」
　ミサキは休日であると知ってテオフィルスは安堵する。
　汚染駆除ズギサ・ルノース班のお姫様はタバコが嫌いだ。一般的なタバコと違い、ニコチンやタールの入っていないタバコだから問題ないと言ってみたこともあるが聞く耳を持ってくれなかった。
　我らが汚染駆除ズギサ・ルノース班のお姫様は繊細なのだ。
　ミサキは精巧な硝子細工のように脆くて儚い少女なのだと常々思っていて他人にも言っているのだが、テオフィルスの周囲には今のところ同意してくれる人間はいない。他人には絶対零度の視線も、辛辣な言葉もテオフィルスが受け取れば仔猫の威嚇のような可愛いものだ。
「ミサキちゃんいないんじゃ、俺ちょっと休憩してくるから後よろしくな」
　思考の海に沈んでいたせいで昨日の夜から何も食べていない。一食や二食抜くのは岸壁街の貧しい生活では当たり前のことであったが、今はもう食べないといけない気分になってしまっていた。慣れとは恐ろしく、あの生活に戻ることがあると酷く苦しいもののように感じることだろう。
　食堂は時間的に無理だろうが購買に行けば何か買えるだろうと思いながら汚染駆除ズギサ・ルノース班の部屋を出ようと扉に手をかけると、丁度扉が開いてイオが出勤してきた。扉の前に立っていたテオフィルスに驚いて異極鉱ヘミモルファイトを彷彿とさせる綺麗な青の目が丸く見開かれた後、テオフィルスを睨ねめ付けるように射った。透明で鮮やかな空の青を切り取った筈の目が濁って見えるのはテオフィルスの穿ち過ぎだろうか。
　異極鉱ヘミモルファイトと蒼玉サファイアがぶつかり合う。
　先に目を逸らしたのは異極鉱ヘミモルファイトだった。テオフィルスに道を空けるようにイオが退く。
「悪ぃな」
　そう言ってみるもののイオは他人を遮断するようにイヤホンをしていて、視線はいつもの様に下に向いているからテオフィルスの声なんて聞こえるはずもないし口の動きに気付くはずもない。そんな彼に「前を向いて明るく生きようぜ！」と訴える情熱もなければ別に男の一人や二人がグジグジウジウジしていても興味のないテオフィルスは、そのまま部屋を出ていった。

　*　*　*

　購買へと向かうはずのテオフィルスだったが、休憩所のベンチに座った瞬間から動けなくなっていた。目を覚まそうとコーヒーを買って飲んだはずが、座ってしまったせいでコーヒーのカフェインにも勝る疲労の方が出てきたらしい。
「あー……くそッ…… 」
　岸壁街で仕事をしていた頃は文字通り命を賭けてやっていたようなものなので眠気に負けるなんてことは無かった。元締めは「気の良いオッサン」の皮を被った悪魔で、仕事が出来ない無能な人間や裏切った人間は容赦なく海神の元へ送っている人間だった。「裏切れば、お前もこうなるぞ」の意味もあったのだろうがテオフィルスも何度となく手伝わされていて、最初は怯えたものだが最後は自ら片付けを率先して手伝っていた。
　血の絵画ごっこ、楽しかったなぁ。
　「血の絵画事件」は2158年に世間を騒がせた少年の起こした事件だ。シュエリオ大陸戦後最悪と言われる少年事件であったとされ、その事件は岸壁街にも届く程だった。しかし、届いたところで岸壁街の人間は凄惨さに眉を顰めたりしない。元締めに至っては「餓鬼のお前がやるのに、おあつらえ向きじゃないか」と嬉々としてテオフィルスにやらせた。やり方は情報として伝わって来なかった為、取り敢えず血が出れば良いとばかりの壁に相手を叩き付けるだけのものであり、犯人であるアルセーヌ・ラプラスが見れば「美しくない」と眉を顰めたことだろう。
　人の中身の肉は暗い桃色で案外綺麗なもので、切れば腹からすぐにはみ出してくる腸は赤黒いというよりは灰色の不思議な色だったことが記憶に残っている。テオフィルスとしては血よりも肉の塊と化したモノの方に興味があった。アルセーヌ・ラプラスがどこかで生きているのならば、その辺に関して語り合ってみたいものである。
　と、つらつらと関係ないことを考えるくらい疲労と眠気でテオフィルスの意識は混濁していた。
　まだ始業開始直後の時間であり休憩所に休憩をしようとする人間もおらず、休憩所は自動販売機の稼働するブーンという音以外は静かであった。
　瞼が重い。身体が重い。自動販売機の圧縮機コンプレッサーが動く音すら騒音ではなく子守唄にすら聞こえてくる。
「テオさん？」
　そんなテオフィルスの耳に可憐な声が届く。耳触りの良い女の声だ。
　目を開いてみるものの目の前に人がいるのは分かるが、脳が彼女の貌かたちを認識してくれない為に誰だか分からない。
　それでも女を見たら抱かねばならないと本能が告げてくるので、テオフィルスは重い身体を動かして目の前の彼女を抱き寄せた。すっぽりとテオフィルスの腕の中に収まる小さな身体だ。
「えっ、えっ、えっ!? 」
　困惑するような彼女の声が耳元で聞こえたような気がするが、きっと幻聴の類だろう。都合良く解釈したテオフィルスは腰の辺りに回していた手を彼女の背骨に沿って優しく指で下から上へ撫でるように動かす。
「ひいっ!? 」
　しかし快楽ではなく完全に困惑しきった声が女から上がり、ようやくテオフィルスは何かが違うことに気付いた。
　今、抱き締めている女は客・の女では無い？
　そもそも此処は何処だ……？岸壁街では無い……？
「お、お触りはいかんよテオさん！」
　脳に女の子の声が突き刺さる。
　それに、この良く通る声に独特の喋り方には何だか聞き覚えがある。
「誰だ？」
　背中をなぞっていた手を前に回し、彼女の顎に手を添えて軽く引くと顔を自分に向けさせる。そして、彼女の魅惑する宝石チャロアイトのような目と自身の蒼玉サファイアがぶつかり合い、ようやく意識が少しだけ覚醒した。
　女の顔に見覚えがあった。もちろん、名前も知っている。
「ヒギリちゃん？」
　テオフィルスが抱き締めて顎クイをしている相手は、食堂のアイドルであるヒギリ・モナルダだった。女の正体に気付いたのだから止めればいいのだけれど、ヒギリの困惑と恥じらいと色々と混じり合った顔でテオフィルスを見上げる顔は加虐嗜好心を大変に煽るもので、テオフィルスは下唇を軽く舐めて手の中にいる可愛い獲物に手を出すことにした。
「そうです私がヒギリ・モナルダです」
　混乱の極みにあって変な言い方になっているヒギリの唇をツイと顎に添えていた手の指でなぞると、ヒギリが固まって動かなくなった。それだけで緊張しているヒギリを見ていると10代をアイドルグループで過ごした彼女は男性経験がないのかもしれないと思う。
「ヒギリちゃん、かわいいな」
　色気を含むように掠れさせて囁けばヒギリの顔は彼女の髪に入ったメッシュの色よりも更に真っ赤に染まった。テオフィルスの言ったことは口からの出任せではなく本心からの言葉であり、そんな初心うぶな姿は本当に愛らしい。
　それに彼女は愛の日に『あ、あのテオさん！ファンです！もらってください!! 』と手作りのベリーのガトーショコラを贈って来た訳だからテオフィルスのことを嫌いではない訳で、ここで彼女を食べてしまっても何の問題もないだろう。
　ここがマルフィ結社の休憩所で誰かが来るかもしれないとか、ヒギリがテオフィルスの友人的存在のタイガの好きな人であるという事実は、今のテオフィルスの手を止める理由にはならなかった。そんな倫理観は残念ながら岸壁街育ちのテオフィルスは持ち合わせていない。
「シていいよな？」
「いやっ、ちょっと、テオさん落ち着こう!? 」
「こーんな可愛い子を前に落ち着く男はいないと思うけどな」
　昨夜、ナンネルを思い出したからだろうか。
　クラッカー集団に所属していた時のことを思い出したからだろうか。
　一度、ヒギリを客の女だと勘違いしたからだろうか。
　テオフィルスの意識は完全に岸壁街での狂って爛れた倫理観に引っ張られていた。可愛い女の子が自分に多少なりとも好意を向けてくれるなら、それに身体で応えてやるのが男というものだろうという歪んだ意識に支配されていた。
　しかし、テオフィルスの暴走はそこまでだった。
「そこまでです、メドラーさん」
　歳を重ねた男性の声が休憩所に響き渡ったかと思うとヒギリを引き離される。そしてヒギリを自分の後ろに隠してテオフィルスを冷え冷えとした目で見下ろすのは機械人形マス・サーキュのノエだった。
「公共の場で婦女子を膝に乗せる行為は如何かと思いますが。それとも、これはヒギリさんも同意の上の行為でしたでしょうか？」
　ノエが振り返り問い掛けると、ヒギリは首を必死に横に振った。勢い良く首を振るものだから、彼女の二つに分けて結われた髪がブンブンと揺れる。
「 ……悪い。徹夜明けでどうかしてたわ、俺」
「お戯れが過ぎますよ」
「ごめんな、ヒギリちゃん」
　ノエの長身の後ろに隠れているヒギリに謝罪すると、今度はヒギリの髪が縦に揺れた。顔をノエの背に隠しているので怒っているのか泣いているのか照れているのか表情が読み取ることが出来ないが、無理に近付いてはいけないと判断してテオフィルスはヒギリの表情を覗きに行くことは止めておく。
「本件は此処だけの話に。お二方、宜しいですね？」
　ノエの問いにテオフィルスとヒギリは揃って頷いた。２人が頷いた事でノエはようやく安心したのか厳しい顔を止めてテオフィルスを見つめた。
「どうやら本当にお疲れのようですね。メドラーさんが体調を崩したなんてなるとうちの主人マキールが悲しみますから、くれぐれも無理はなさらぬように……ヒギリさん、行きましょう」
「うん」
　ヒギリがノエに肩を抱かれて休憩所を出て行く。
　再び誰もいなくなった休憩所で、テオフィルスは大きく溜息をついて頭を抱えた。
「 ……やっちまった」
　上手く岸壁街の外と馴染めてきたと思っていたが自惚れだったようだ。
　こんなことをしてしまって次に会った時にヒギリは今までのような輝く明るい笑顔を向けてくれるだろうか。それに、今更になってタイガへの罪悪感が生まれてくる。最悪だ。
　自分のやった事の罪悪感で胸がいっぱいになり、もはや食事をとる気もなくしたテオフィルスは立ち上がる。
　そして、来た時以上の疲労感を抱いたまま通常業務に戻るために汚染駆除ズギサ・ルノース班の部屋に戻って行った。

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