幼馴染に御用心！／燐花

幼馴染エマージェンシー

幼馴染とはいやらしき混乱を極める哉

　夏。それは人によっては穏やかな思い出の季節であり、人によっては背伸びをして先へ進むそんな季節。女の子が大人の階段を昇るとしたら、きっとこんな季節。
「せ、先輩…」
　サークル合宿の最中、夜だから分かりづらいとは言え誰かに見つかったらすぐ噂になってしまうのに。向かい合った先輩の視線が熱くて、絡まったらもう解けない。
「…昔みたいに名前で呼んでくれないの？」
「だ、だって、私達幼馴染だけど…今は先輩と後輩だから…」
「じゃあ、先輩と後輩じゃなくなったらまた呼んでくれる？」
　先輩の手が優しく頬に伸びてくる──。
　そんな先輩（おーいあんなに言われたんだから名前で呼んだれや。それともこれツッコミどころだろうか）の手に自分の手を重ねると（俺も同じタイミングでティッシュ箱に手を伸ばしたけどね。画面と同じタイミングで女の子の手の代わりにティッシュが包み込んでくれただろってやかましいわ）先輩は優しくキスしてくれた（え…女性向けのこの手のものって女の子のブロージョブからハイスピードに始まるもんじゃねぇんだ。ああ、俺がそういう展開のもの好んで観てただけ？）。
「へぇ…」
　ギャリーは携帯端末を見つめたまま息を吐く様にそう呟いた。何を思ったか急に幼馴染と言うものに強烈に興味を引かれた彼だが、理由は簡単。数日前、総務部のリアムと前線駆除班のセリカのそんな会話を耳にしたからである。
　セリカとリアムが特別仲が良い、と聞いたわけでは無い。結社メンバーの大人同士に相応しい礼儀正しい対応の仕方と言えなくも無い。でも、内容こそ覚えていないが二人の会話の中には「二人にしか分からない」そんな景色を想像させる言葉が含まれていた。二人とも同郷では無いのかと言ってしまえばそれまでだが、そう言う事ではなく何と言うか、子供の頃二人揃って同じものを見ていたのでは無いかと思うくらいのものだった。
　そしてそんな二人に少し嫉妬してしまった。
　それから幼馴染と言うシチュエーションに興味を抱き、動画漁りを始めたところ何を間違ったか女性向けの十八禁に辿り着き今に至る。女性向けだし、普通のエロ動画と違ってあんまり激しく無さそうだし満足できるかな？と思いつつ何だかんだストーリーが面白くて気付けばしっかり観てしまっていた。
　そしてふと昔に思いを馳せていた。
　ギャリーに幼馴染は居ない。少なくとも同じ年頃の女の子が居た記憶は無い。兎頭国は妙湯、胡徐地区の外れで生まれたギャリーはその更に外れた田舎な地域で幼少期を過ごす。当時仲が良かったと言えば、病弱で体も細く女の子の様でありいつも小綺麗な服を着ていた「お向かいのゲンちゃん」、汚れた顔にヨレヨレと伸び切ったランニングシャツ、継ぎ接ぎで穴を誤魔化したパンツで喧嘩の強いガキ大将「お隣のゲンちゃん」、そのお隣のゲンちゃんの腰巾着でいつも金魚の糞みたくくっ付いて居た「駄菓子屋のゲンちゃん」、くねくねした態度で優柔不断にいつもしどろもどろ喋る、自動車修理を生業とする李夏オートの長男「リカちゃん」。ちなみに彼の本名から考えたら本来は「ゲンちゃん」となる筈だったが、この近辺やたらゲンちゃんが多かったので会社名からもじったあだ名を付けて居た。彼には妹が居てその名前が「リカナ」だった為彼の両親に妹の面倒まで頼まれた時は本当ごちゃごちゃした、全くもって子供の頭でよく処理していたなぁと感心するそんな思い出だ。「リカちゃん」と呼ぶともれなく兄妹揃って振り向くんだもの。その度に「あ、妹の…」「あ、お兄ちゃんの…」と二度手間で、最終的にこの兄妹と出掛ける際は「お兄ちゃんのリカちゃん」「妹のリカちゃん」と余計な枕詞がよく付いた。
　正直記憶に残る「ゲンちゃん」が多過ぎてもうどのゲンちゃんの本名が何だったかなんて思い出せない。何故自分だけ唯一のギャリーだったのかと思う程に唯一のギャリーだった。名前の漢字の読みからか「ガリちゃん」と呼ばれていたその頃を思い出してノスタルジックな思いに浸るがそんな感情はすぐどこかに飛んで行った。何故なら画面の中で先程の先輩と後輩がとうとうおっ始めたからだ。
「うわぁ、えっろ…」
　観てるものは普段と変わらない気がするのに、むしろ濡れ場過多とは言えドラマを観ている様な気分だし普段求めている激しさも無く眠たくなりそうなのに何故だろう？途中からこの言い様の無い心地の良い背徳感。幼馴染と言う響きがいかんのか。それとも先輩後輩と言う関係がいかんのか。どっちもあるからいかんのか。実にけしからん。本当にけしからん。
　この幼馴染後輩役の女優の子の呼び方が先輩から彼の本名に変わって敬語が取れた瞬間不覚にも胸がきゅんとする。そこまで距離が戻ったか！と二人の距離感の回復と身も心も結ばれた現状に何故か拍手をしたくなった。
　が、すぐにすんっとした顔にもなる。結社のメンバーであり良い年齢の大人。そう言う枷と言うか、囲いがセリカとリアムにもある。セリカもリアムも今は敬称をつけて大人な応対をしているが昔はそうでは無かった筈だ。だからもしも、もしもその囲いが取り払われてしまったら？昔を懐かしんで、子供だった頃を思い出して、そしてこんな風に一気に距離が縮んでしまったら？
　ただでさえセリカの子供の頃の姿を知っているのかもと言うだけでリアムに苛々を募らせていたのだが、言い様のない危機感まで少し感じてしまった。
「にしてもこの子…良いおっぱいしてんなぁ…」
　思考があっちこっちに飛んで忙しい。
　動画の二人は当たり前の如く無事に結ばれてハッピーエンド。幼馴染ってこうあるべきだよなぁとその展開に納得しつつも、自分にはそんな存在がおらずどうしても近くにいる幼馴染同士に投影してしまう。
　幼馴染が結ばれるって素晴らしい事じゃないか。セリカとリアムならシチュエーションも完璧だ。テロで夫を失った悲劇の未亡人と、親一人子一人で支え合って生きて来た父親。二人は幼少期に初めて顔を合わせ大人になるにつれ疎遠に。それぞれ違う人生を歩み悲しい事件がきっかけで再会する。悲しさを埋めるのに思い出と言うのは重要だ。それが二人で共有したものならば、そこには積もる話もあると言うもの。
「駄目だぁ…俺勝ち目無いさや…」
　実はリアムとセリカは本当に幼馴染だが、その実二人は過去を知るが故・・・・・・・に互いに牽制し合う仲であり、ギャリーの危惧する様な関係になるのは難しい間柄。しかしそんな事を知らないギャリーは心配そうに眉根を寄せる。
「よし、明日リアムに探り入れてみっか…」
　その前にいつも通り着物の若奥様モノを観て満足してから寝よう。今度は普通に男性向けを観る。男性向けはいつもながら何と言うか粗暴で、女性が乱れる姿がメインで映し出されている。女性をいやらしく魅せるのが目的の物なので基本的に女性の反応がオーバーだ。生身の女の子と体を重ねればいかにこんな反応が珍しいものかと言うのが分かる。つまり普通に恋人同士でする行為とは違うと言う認識だ。これは創作、ファンタジー。
　だから余計に、さっきの女性向けの幼馴染が展開もやってる事もあまりにも普通な事に見えて。観るだけの立場として刺激を受けるならば物足りないがそれを現実にいる二人に置き換えたら何だか成就しそうに思えてしまった。それだけ現実に近い事の運びに見えたからだ。
「……寝よ…」
　満足した様な不安が増えた様な。モヤモヤした気持ちを抱えたままギャリーは眠りに就いた。
　その日、制服と着物を妙な形でブレンドした様な、そう言うアニメのコスチュームを着ている様なセリカが夢に出て来た。彼女は何の脈絡もなく「旦那様？」と声を上げる。
「いや、セリカちゃん。そもそもとしてその服は何？」
　ツッコミを入れたのだが何故かその夢の中でギャリーは声は出せるがその場から動く事が出来なかった。しかし、彼のすぐ傍から突然現れたリアムがこれまた制服の様なスーツの様な格好で「セリカさん」と一声。リアムの姿を見るなり安心した様に「先輩」と声を上げたセリカはギャリーなど居ないかの様にリアムの元へ飛んでいく。
　は？おい、待て待てこの展開は…！？
「…昔みたいに名前で呼んでくれないのか？」
「それは、私達は幼馴染ですけどぉ…今は先輩と後輩ですから…」
「では、先輩と後輩じゃなくなったらまた呼んでくれるか…？」
　あのＡＶ先輩後輩モノのワンシーンじゃねぇか！！
　その内、リアムの手がするりとセリカの制服の襟元を──
「確かに動画は観たし二人がダブって見えたけど俺はセリカちゃんが他の男と絡むとこが観たいなんて思ってない！！」
　翌朝、自分の声で目が覚めたギャリー。悪夢からの寝覚めは本当に悪く、汗だくで起きて気持ち悪いのでこれからシャワーを浴びて朝ご飯を食べて──とやるべき事を頭の中で整理するも、早々また眠りたくなったしもうサボりたくなった。

幼馴染とは君が思うのと少し違うかな

　リアムは困惑した。何故なら普段あまり接点が無い筈の経理部のギャリー・ファンに丸々としたフォルムの何だか艶々してほこほこと湯気を上げている良い匂いの食べ物を突き付けられているからだ。昔何かで読んだ事がある。これは確か包子パオズとか言う食べ物だった。兎頭国人の彼が好んで食べると言うのならそれは納得だとリアムは思う。解せないのは「何故それを自分に突き付けているのか？」と言う事だ。しかも総務部の部屋の前で待ち伏せされて。
「…おい」
「よぉリアム。これ俺のお気に入りの包子。まあ、あがっとくれや」
「…こんなものを貰う謂れは無いが。一体何を企んでいる…？」
　じっ…とリアムがギャリーを睨む。しかしそんな目線に怯む事なく、むしろどう言う訳か同じ様な目線を返した上でギャリーは包子を半分に割った。
「ほーれ、熱々だよ？あ、猫舌？フーフーしてあげようか？」
「やめろ気持ちが悪い」
「全く猫舌のみならぬ気紛れなところまで猫っぽいの？とんだ子猫ちゃんだなぁ…これは熱っちぃからこそ美味ぇんだよ…」
「人の話を聞け。私は熱いか熱くないかなんて問題にしていない。そして私は猫舌ではない、子猫ちゃん呼びを即座に辞めろ」
「何だ？リアム。お前、俺がせっかくお前の為だけに用意した包子を断ろうっての？場所と身分を弁えろよこの下僕が。ま、お前のそう言うところが好きなんだけどな」
「王子様系の恋愛小説でも読んでるのか？急に情緒不安定になって何なんだお前は」
　ギャリーの名誉の為に言うと、彼は決して好きな人に振り向いてもらえないからと言って男性に興味を向けた訳でも無ければ本来の男性との距離の取り方を忘れた訳でもないし女性へのアプローチの仕方にこんなとち狂ったものを用いている訳でもない。では何故甘えさせる様な態度、子猫ちゃん呼び、急な王子様系恋愛小説の拗らせた後の様な姿を見せたかと言うとそこには理由があった。
「いやいや、悪ぃね。俺さ、ただただリアムと仲良くなりたくて」
「…仲良くなりたい人間の態度だとは思わなかったがな」
「本当だよ。本当なんだよ。ところでリアム。リアムはどんな女の子がタイプ？」
　その理由。それは、ただ単にギャリー自身が少しとち狂っただけだった。
「は…？」
「リアムの好みのタイプ？聞いときたいなーと思ってさ」
「何故…？」
「今度風俗行こうぜ」
「行くか！！！」
　さり気なく、と言う言葉はギャリーに一番似合わないと言っても過言では無い。今だって話の流れでさり気なく聞こうとして失敗したのだ。店に行こうと言ったのは結局聞けなかったので口を突いて出たただの誤魔化しである。
　ギャリーがリアムに確認したかったのは偏に「セリカとリアムはどう言う関係か」と言う事。「幼馴染」の枠を飛び出す可能性があるのか無いのか、と言う事。これが強面の男達相手のイカサマならいつも躊躇いなく簡単にやってしまうのに、恋愛絡みで線の細い彼の様な男を相手にするのは何だか調子が狂ってしまう。聞きたい事が山程あり過ぎてどれから上手く処理して良いか分からなくなってしまうからだ。
　イカサマならば手数は違えど目的は同じ。頭を使い、手段をフルに活用して上手く誘導してやれば良いのだ。「その瞬間完全に騙す」と言う方向に。そして勝てば良い。
　だが、好きな人とまだどう言う関係なのかも分からない人間に取るべき次の一手なぞ何通りあると言うのだ。
　それが顔に出てたのか、ムスッとするギャリーを少しだけ居た堪れない顔で見るリアム。彼はキョロキョロと周りを見、人が居ないのを確認するとギャリーの耳元でこそりと囁いた。
「…あのな、私には今リリが居るしあの子を置いてそんな女性と遊ぶ為の店にうつつを抜かすわけには行かないんだ。そもそも興味が無いし、そんな店に誘うくらいなら可愛い子供服を一着でも安く買える店を教えてくれ」
「……え？何の話してんの？」
「…あのな、君が風俗に行こう等と宣ったんだろう？」
「あーあ…リアムから話聞きたかったんだけど…へぇ残念さやぁ…」
　何も考えずに話を始めたが為、自分が直前に言った事を忘れて呆けるギャリー。しかし本来の目的は当然覚えていたので、上手くセリカの事を聞き出せずに少しだけ残念そうに呟いた。ころころころころと話を転がすギャリーに若干呆れの色を見せつつ、リアムは頭を抱えながら射る様に彼を見つめた。
「一つ教えてやる」
　少し高圧的に呟くリアム。ギャリーが覇気のない瞳で見つめると、彼は一際強い瞳でギャリーを見返した。
「私は大人しくて声を荒らげたりしない優しい女性に惹かれる事が多い」
「え？じゃあやっぱり──」
　セリカちゃんが好きなんじゃん。
　そう彼女の名前を口にしようとしたギャリーの言葉をリアムは遮る。
「だから君が心配している様な事は起こり得ない」
「はぁ…？」
「私は大人しくて声を荒らげたりしない優しい女性が好きだ。だから君の想定する最悪は起こらない。そう言ってる」
「い、意味が分からねぇ…」
　リアムは苦い顔をすると「私だって言って良いなら言ってしまいたいが…」と口にする。偏に彼の良心がそれを良しとしないのだ。
　セリカは幼馴染だ。だからこそ彼女の知りたくもない事まで知っている。知っている身としては彼女の今の姿がどんなに似非感漂っている事か、彼女の本当の姿は一体どれだけお転婆のガキ大将だったのか。言ってしまいたい。言ってしまいたいがそれはやはり長い付き合いの友として躊躇われる。ギャリーがセリカに友人以上の好意を持っているのは明白で、セリカも結社で誰かと話すところを見たが彼に対する態度以上の男性を見た事がない。二人して互いに憎からず思っている様だから特に心配しなくても大丈夫だ、とリアムは言ってやりたかった。
　ただ、セリカの事は知っていてもギャリーの事をリアムは知らない。もしかしたらセリカのヤマトナデシコな部分に惚れ込んでいるだけかもしれないし、それを否定する情報を敢えて自分が垂れ流すのは意地が悪いにも程がある。
　それに、彼女の知りたくもない事まで知っていると言うだけじゃない。自分の知られたくない事も彼女は知っている。だからもしここで自分が迂闊にばらしでもしたらセリカにどんな報復措置を取られるか分かったものじゃないのだ。
「とにかく、私はセリカさんとどうなるつもりも無いしなる予定も無い」
「……だってリアムの好みのタイプど真ん中じゃん、セリカちゃん」
「君には彼女がそう・・見えているのか？おめでたい事だな、と言っておこう」
　だからこれがリアムに出来る精一杯の悪足掻きであった。
「まあ、君が彼女に好意を寄せていると知って伝えられるのはこのくらいだな」
「いや、ありがとね。まだよく意味が分かんないけど。お礼に包子あげるから食べようぜ」
「君も食べるのか？」
「半分に割っちゃったし」
　割った分も含めてくれれば良いのにとは思ったものの、一個は確かに多過ぎるしこのくらいがちょうど良い。この日、似た者同士で包子を頬張った。たまたま保育部の皆と結社内を散歩していたリリアナに「パパ！」と呼ばれ二人して振り返ると嬉しそうな顔をしたリリアナに「パパとギャリーおにーさんよく似てるわね！」と言われ、二人は顔を見合わせた。確かに雰囲気が似てるなぁと思いちょっと複雑な気持ちになる二人だった。

幼馴染クライシス

美しい人

　真剣な顔でキチキチ音を立てながらギャリーはカッターの刃を伸ばす。そしてその刃先をそっと添えると、綺麗に切る為にそろりそろりと滑らせていく。
「おい」
　ギルバートが暗澹を称えた闇深い目でギャリーを見つめてくるが、ギャリーは特に気にせずそれよりも目の前の刃先へと意識を研ぎ澄ました。
　線に合わせてゆっくりと刃を当てる。そして、決して紙が引っ張られないくらいある程度勢いを付けて、しかし勢い余ってなんて事が無い様に、まるでこれは大手術だと言わんばかりにカッターを動かした。
「おい…！」
「………はい」
　本音を言えば無視したいところだが、そうするとただただギルバートは煩くなるだけなので一応念の為返事をしておく。
「ま、まだ休憩時間中だし良くない…？ダメ…？」
「ああ、休憩時間中だ。確かに君は休憩時間中だがな…」
　そしてむしろ煩い、迷惑と言ったら、の代名詞の様な声を毎回上げるのはギルバートの方だ、とギャリーは心の中で文句を垂れた。
「場所を考えてそれを開け！！！」
　しかし、そうは思っても今日に限ってはギャリーも負けていない。何故なら今自分は取り込み中なのだから。
「だってカッターここにしかないんだもんさ！！」
「だからって君、それを大っぴらに広げるな！！」
　ギャリーが大っぴらに広げた「それ」。それは彼が先程の休憩時間中に買った週刊誌であり、彼が切り開こうとしているのはその中に収まっている袋とじであった。カッターが経理部の備品しか持っていないからと言う理由で、いつもは時間いっぱい──いやむしろ少しオーバーしながら休憩をしていたギャリーだが、この日は休憩時間を前倒して自分の仕事机に戻り、綴じている部分を開けようとしていたのだ。
　目敏いギルバートは珍しく早い時間に雑誌を持って帰って来たギャリーの様子を伺っていた。すると彼が最初のページには目も暮れず、黒い背景に、少なくとも慣れないギルバートには直視出来ない様ないかがわしい文言が並ぶページを開いたのを見てピンと来た。
　これはいかがわしい雑誌の中でも殊更いかがわしいページに違いない…！！と。
「だってさー…カッター持ち出すなんてなったら貸し出しの申請から何から書かなきゃいけねぇじゃん、刃物だし…」
「だからってこんなところで広げるな」
「切って開けたらまたちょっと席外すから」
「ん？まあ、休憩時間内ではあるが…あまり聞きたくはないが、どこに行くんだ？」
「ん？どこって…部屋だよ？だって、ムラムラしても部屋じゃなきゃ落ち着いて出来な──」
「待て！良い！言わなくて良い！」
　言いながらギルバートはちらりと雑誌を見る。もう殆ど綺麗に切れているその袋とじの表紙部分には黒髪の女性が大胆な格好とポーズで堂々と写っている。表情と格好からイメージとは少し違う気がするが、何故かギルバートにはその女性が前線駆除班のセリカ・ミカナギに見えた。
　雑誌の女性は艶やかな黒髪を長く伸ばしているが、前髪はセリカと同じ様に綺麗に切り揃えられていた。目はセリカの様に明るい色では無いが髪の色や綺麗な前髪の形がそう思わせるのか全体の雰囲気がどこか彼女を彷彿とさせる容姿の女性。袋とじの表紙には「今話題のエキゾチッククールビューティ、ディルラバがついにフルヌード披露！」とある。兎頭国を題材にした物語で出て来た羽衣をイメージさせる薄い素材の着衣で体を覆っているからエキゾチックとはそう言う事なのだろうか。それにしても彼女のこの名前は芸名か？ディルラバとはまた聞き馴染みの無い様な少々珍しい名前である。
　と、思ってふと考える。このディルラバと言う名前、聞き馴染みがないと思いつつどこかで聞いた様な見た様な…。
「おーい、ギルバート」
　不意にギャリーに声を掛けられギルバートはぴくりと反応した。そう言えば今いる場所は経理部だと言う事を思い出し、ちらりとギャリーを見る。ギャリーはニヤニヤしながらギルバートを見ていた。
「ギルバート…色々言う割には、実は何だかんだ結構好きだよねぇ…？」
「え…？」
　言われてからやっとギルバートはギャリーに何を見せつけられていたか思い出し、顔を真っ赤に染め上げて怒り狂ったのであった。

　*　*　*

　彼女が歩く度によく手入れされた長い黒髪がサラサラと揺れる。その髪の艶は一朝一夕に得られるものでなく、女性なら誰しも彼女の日々行き届いた髪への気遣いに気付くだろう。彼女はそんな羨望の眼差しを向けて来る女性達に好意的に笑みを浮かべ会釈した。
「あ、あの…ディルラバさん、ですよね…？」
　その内、意を決した様に女性が二人彼女に近寄って来る。
「ええ、そうよ」
「うわぁ…！本物だ…！？」
「あ、あの…私ディルラバさんに憧れて髪の毛のケア頑張ってるんです…！」
「私は、肌のケアから始めようと思って！」
　まだ学生だろうか。若い女性が憧れから自分を真似たとわざわざ伝えに来てくれる。努力が形になった様な髪や肌を携えてやって来た二人に彼女は──ディルラバは嬉しそうに微笑むと自身がプロデュースに携わったケア用品のサンプルを取り出した。
「ありがとう。とっても嬉しいわ。貴女は髪の毛が、貴女は肌が特に綺麗ね。他人に憧れたのが始まりとは言え、それをきちんと継続して手に入れられたのは貴女達の努力の賜物だから大事にしてね。何かの縁だしこれ、貴女達にあげるわ。若い人向けにと思ってプロデュースしてるから、良かったら事務所に使った感想でも送ってくれたら嬉しいわ」
　そしてそれを彼女達に手渡すと、二人は受け取った瞬間嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ここに居る私を遠くから見ている人は大勢いるわ。だけど、声を掛けに来たのは貴女達だけよ。そう言う勇気が出せるのもきっと貴女達の強みなのね。そう言う思い出を大事にして、好きな自分で居てね」
「はい！あの…サインって貰っても良いですか…？」
「ええ、勿論喜んで」
　サラサラと慣れた様にサインを書く。そして最後に写真を撮ってやると、手を振り女性達を見送った。
「ディルラバさん、次来る電車はマルフィ結社の最寄りの駅に着きますよ。後五分です」
「ありがとう」
　マネージャーが結社に電話を入れ始めたので、ディルラバは彼の目を盗み手帳からそっと写真を取り出す。ボロボロになったそこには、男女問わず子供達が笑顔で写っている。その中の一人、茶色で少し長めの髪をした男の子を指で愛おしそうになぞった。
「今から会いに行くから待っててね、ガリ・・ちゃん」

　*　*　*

　何とかギルバートから雑誌を取り返したギャリーは片手に持ち、それを読みながら廊下を歩いていた。予想以上にギルバートのお説教が長引き時間が押してしまったので一分一秒も惜しかったのだ。何故なら袋綴じで特集されていたディルラバのグラビアも見たかったが、彼の目当ては専ら読者投稿のページだったから。風俗店でとんでもない嬢と遭遇しただの、記憶に残る程鮮烈な厭らしい夢を寝ている間に見ただの、少し刺激的な体験談が投稿されている読み物ページ。これがなかなか、一投稿者一読者と言えど侮るなかれ、時折物凄い語彙力と文才の持ち主が居るから面白い。ギャリーは、ペンネーム「崖に置いたササカマ」のファンだった。
　彼は一体どんな人間なのだろう？男性的な物の目線の書き方と、男性にしか分からない痛いネタも小気味良いテンポと「あるある」と頷きたくなる緻密さで面白おかしく書いていたから性別だけは男性と分かる。投稿頻度が中々多く、面白い文の書き方で体験談を書いているのだが、どうも体験相手がいつも店の嬢ではなく一般人の様なのだ。しかも都度違う女性。こんなに女性を引っ掛けられる男と言うのは中々お目に掛かった事はないのだが。ナンパにコツがあるなら教えて欲しい。
　読みながらそろそろ廊下を歩くギャリー。彼とすれ違う男性は彼が手に持つ雑誌の表紙を二度見したし、たまたまギャリーの横を通ったアンは一緒に歩いているマジュがそちらを見ない様にと涼しい顔ですっと手で防御した。そんな周囲の視線も少しだけ気にしつつ区切りの良いところまで読んだギャリーが前を向くと、廊下の先にセリカの姿があった。
「セリカちゃん…？」
　声を掛けようと目を凝らすと、彼女は誰かと手を繋いで歩いていた。それは小さく可愛いシルエット。いつもと格好が違うので一瞬誰か分からなかったが、どうやらリリアナの様だった。金色の綺麗な髪を三つ編みに結い、アップに纏めた髪型から覗くうなじが珍しく着用している浴衣の襟元も相俟って五歳ながら立派なレディの空気を醸し出している。
「へぇー。可愛いー…」
　可愛らしいレディを見付けたなら素直に言葉に乗せて伝えねば。ギャリーは雑誌の表紙をリリアナに見せない様に丸めると、後ろ手にそれを持ち直し二人の元へ足を早めた。
「セリカちゃん、リリアナちゃん」
「あ！ギャリーおにーさん！」
「ギャ…ファンさん…」
　相変わらず名前をぎこちなさそうに訂正するセリカに特別感を感じながら少しにやりと笑うとギャリーはリリアナと目線を合わせる様にしゃがみ込んだ。
「リリアナちゃん、浴衣それどうしたの？」
「セリカおねーさんみたいにしたのよ！髪もね、おねーさんがやってくれたの！」
「へー。可愛いじゃん」
　そう言って髪に手を伸ばし少しだけ後れ毛を指で弄ぶと、「いじっちゃダメ！」と一喝されたのでギャリーは悪戯したい気持ちを抑えながら優しくリリアナの頭を撫でた。
「セリカちゃんがこんな可愛いちびっ子用の浴衣持ってるなんてねぇ。何？お古か何か？」
「あ、実は…それ調達班の方々から頂きましてぇ…」
「え？調達班？何でまた？」
「パパったらうっかりさんだったの！」
　話が読めないギャリーはリリアナの少し背伸びした主張に耳を傾ける。彼女の歳の割に大人びているがそれでも少したどたどしい説明を要約すると、総務部の仕事が立て込んでしまいリリアナの面倒が見れないリアムに代わって旧知の仲のセリカが彼女を一晩預かる事になったのは良いが、いざ預ける日にあろう事か次の日の着替えを持たせ忘れたらしい。
　下着とパジャマはあったものの、翌日着る為の服はリュックを見ても入っておらず、かと言ってリリアナに次の日も同じ服を着せるのは可哀想だからこれからリネン室で洗濯機を回そうかどうしようかと考えていると、たまたま仕事帰りのシキ、テディ、ユーシンと鉢合わせたのでこれを相談。一瞬テディに着せ替え人形にされ掛けたものの、可愛くて珍しいものを着たいと言うリリアナの要望で浴衣に決まった。
「で、和装にしてみたんですぅ」
　ねー。と顔を見合わせるセリカとリリアナ。ギャリーは微笑ましげに頷きながらその様子を見ていたが、その内何かに気付いたのかセリカを穴が空くほど見つめ始めた。
「え？ってかセリカちゃん、お風呂上がりにシャンプーの良い匂いさせてあの思春期真っ只中達に会ったの…？」
「……何か言い方に含みがありそうな気がするのですがぁ？」
「だってさぁ…風呂上がりって、どんな格好でいたのさ」
「もう寝るだけですからその日はパジャマと羽織りものでしたが…？」
「おぉっほぅ……」
　ギャリーは片手で顔を覆うと天を仰ぎ一考。そしてセリカの方に向き直るとにこりと微笑んだ。
「存在が罪ギルティ」
「……はい？」
「俺そんなセリカちゃん見たら興奮して寝られないって…」
「な、何を言われるかと思ったら…ギャリーさん、リリアナちゃんの前でこれ以上変な事言うのダメですよぉ…？」
　しかし幸いな事にリリアナは聞いていなかった。何故なら、話に夢中になっていたギャリーの手元が緩まりそこから丸められた雑誌が落ちそうになっていてそれに気を取られていたからだ。リリアナはギャリーに気付かれないように彼の持っている筒状のそれを抜き取り、「ほら！落ちる前に拾ってあげたのよ！」を実行しようとしていた。結果としてそれは遂行され、リリアナは文字は今ひとつしっかり読めないが雑誌の表紙写真をまじまじと見た。何だか表紙に写っているお姉さんがセリカに似ている気がしたのだ。
「──あら？リ、リリアナちゃん？何を見てらっしゃいますかぁ？」
　そんな水着のお姉さんの写真の載った雑誌をリリアナがまじまじと見ていたのだからセリカは顔を赤くしながら動揺した。
「ギャリーおにーさんの絵本よ！」
「え？あ！いつのまに！」
「落ちそうだったから落ちる前に拾ってあげたのよ！」
「へぇそうかや。ありがとねリリアナちゃん。でもその本、ちょっとリリアナちゃんには読むの早いで俺に返してくれや」
　ギャリーも大変動揺したのか方言を全面に出しながら、変にパラパラ中身を捲られる前に雑誌を回収しようとリリアナに手を伸ばす。しかしリリアナは一枚の写真をまじまじと見、そして何故かセリカを見、そしてまた写真を見、不思議そうに首を傾げた。
「セリカおねーさんの胸は大っきいのにどうしてお着物着ると違って見えるの？」
「リリアナちゃん？急にどうしたんですかぁ？」
「だってこのおねーさん、セリカおねーさんに似てるもの。セリカおねーさんのお風呂の時に似てるの！でもお着物だと違って見えるんだもの」
　そう言われギャリーは慌てて雑誌を覗き込む。リリアナの指差す先には先程袋綴じでお世話になったディルラバの姿があった。確かに彼女の髪型はセリカをロングヘアにした様で大変好みのものだがまさかセリカ本人のスタイルがここまで良いものだと子供の口から出ると思わなかったのでギャリーは思わず雑誌の彼女とセリカを交互に見た。
　着物と言うのはどうも体型が分かりづらいが…？まさか…？本当にこのグラビアタレント並みの立派な山・・・・をセリカはお持ちだと言うのか…？いやしかし基本こう言う事で子供は嘘を吐かない。
「ほう…お風呂に入るとねぇ…？着物脱ぐとテナ山かぁ…ふふふ…」
「ギャリーさん…？あの、全部口に出ている上に鼻の下伸びてるんですが…？」
「え？ふふふふ…。リリアナちゃん、セリカおねーさんとお風呂一緒したの？」
「うん！セリカおねーさんと一緒にお風呂楽しかったよ！」
「そうかそうか！…で？どんな感じだったかおにーさんに教えてくれる？」
「ギャ、ギャリーさん…！？」
　最早セリカは顔を真っ赤にしていたが、更に追い討ちをかけたのは子供の無邪気さだった。
「どんな感じ…？んー…？よく分からないわ…あ！ギャリーおにーさんも今度一緒に入れば良いのよ！」
「リリアナちゃん！？」
「え？おにーさんも一緒に？入って良いの？」
「うん！ギャリーおにーさんとセリカおねーさんとわたしで一緒に入ったらきっと楽しいと思うの！」
「そうかそうか、じゃあリリアナちゃんの為にお風呂用の魔法を準備しとこうかな？」
「まほう？」
「そう、お風呂のお湯をピンクにしたり青くしたり宇宙みたく出来る魔法だよ。まあ、バスボムって言う入浴剤なんだけどね」
「にゅーよくざい！たのしそうね…！」
「よーしよし、じゃあリリアナちゃんとお風呂入る時はおにーさんがリリアナちゃんの好きな色のバスボムを持ってきてあげよう！何色が良いかな？」
「えっと、えっと…迷うわ…一つだけ？」
「いや、一つじゃ無くても良いよ？ただし、一回に使うのは一個の色の方が良いかな」
「じ、じゃあ最初はミーナみたいなピンクが良い！次入る時はオルカみたいな青！その次はー…」
「あはは！えらいいっぱい選ぶじゃん？分かった分かった！おにーさん、一緒に入るまでに用意しておくからね。楽しみにしててくれや」
　楽しそうに笑って子供と話すギャリー。そんな彼の姿をセリカは少し遠くを見る様に眺めていた。何だかギャリーと出会って男性に対する価値観が変わりそうだ。こんなに諸々の距離が近い男性と言うのも初めてだが、だからこそ一人の男性の色んな面をこんな速さで知るのも初めてだ。
　ちゃんと仕事をする時はきちんとしている、そんな真面目な顔。女の子を遠目に見て少しデレデレしている時のちょっと崩れた顔。女の子に包子をあげてそれを頬張る姿を満足げに眺めている時のふにゃけた顔。相手がどんな人であってもいつだって対等に見ている目。
　冗談なのか本気なのか、それも分からないそんな軽口すらその瞬間は自分だけを求めてくれている様な気もしなくも無い。そんな事で喜ぶなんてはしたないなぁとそう思うのに。「あの人」が今の私を見たら「随分はしたない女になったものだ」と文句を言うだろうか。ふとそんな事を思っていたらギャリーと目が合って、セリカは思わず彼を見つめてしまった。ギャリーはそんなセリカを見るとただただにこりと微笑んだ。
「あ！」
「ど、どうしたんですか？リリアナちゃん」
　ただでさえ動揺していたセリカはリリアナが突然上げた声に驚いて上擦った声で返事をしてしまった。リリアナにはそんな事よりも今気付いた事の方が重大そうで、赤い顔でわなわな震えていた。
「や、やっぱりダメよ…」
「リリアナちゃん？どうしただ？」
「やっぱりダメよ。ギャリーおにーさん」
「何が？」
「だって…わたしこどもじゃないもん、レレイだもん…だから、ギャリーおにーさんとお風呂入っちゃだめなんだもん…」
　思い出した様に真っ赤な顔でそう口にするリリアナ。ギャリーとセリカは顔を合わせると彼女の可愛い主張にくすりと微笑んだ。
「そっかぁ、残念だなぁ。俺リリアナちゃんとお風呂入りたかったんだけどなー」
「で、でも…」
「じゃあ、バスボムは持ってきてあげるからパパと入る時にそれ使いなね」
「…いいの？」
「勿論。リリアナちゃんが楽しんでくれたら俺は嬉しいよ」
　そう言ってリリアナの頭を撫でるギャリー。セリカはそんな彼の横顔を少しだけ眩しそうに見つめた。
「ギャリーおにーさんかわいそうだから、セリカおねーさんと入っていいよ」
　しかし、リリアナのその爆弾発言に再度顔を真っ赤に染めて大慌てになるセリカだった。

再会の人

「あ！ギャリー君！おーい！」
　総務部で目下仕事中のリアムを癒す為リリアナの浴衣姿を披露しに向かっていた三人は急にギャリーに掛けられた声の主を見るべく一斉に横を向く。目線の先に居たのは慌てた様子で巨大を揺らす人事部のベン・レッヒェルンだった。新規勧誘課で接点が無さそうに見えるが、生来気さくな彼はギャリーともセリカとも、果てはリリアナとも顔馴染みだった。「ベンのハニーハント」でも大変有名な彼だが、ギャリーはそれ以上に「ベンが来る時は仕事も一緒」と認知していた為失礼とは思いつつ途端に嫌な顔になった。
「ベンおにーさん！！」
「あれ！？リリアナちゃん可愛いなー！どうしたのその格好！？」
「良いでしょ？パパに見せるのよ！」
「ははっ！こんな可愛いリリアナちゃん見たらパパきっと疲れぶっ飛ぶぞー！あ、そうそうギャリー君！お願いがあるんだけど！」
　可愛いリリアナに気を取られていたならそのまま気を取られていて欲しかった。
　そうは言えずベンに釣られてにっこり微笑むギャリー。ベンの笑顔には有無を言わさぬ力がある気がする。
「今さ、お客様が来てるんだよ！悪いんだけど、ギャリー君付き人してくれないかな！？海外のお客様でさ！数日滞在して結社の様子も見たいんだって！だからその方が滞在してる間、身の周りの世話とか結社の案内とか諸々頼みたいんだよ！特別手当て付くから！」
　特別手当ては確かに美味しい。しかし、ギャリーにとって大事なのは余裕のある、ちょっと時にサボれる日々の暮らしだった。付き人なんて客ありきな話は荷が重い。客に悪い印象を与えない様にと思ったら常に気を張っていなきゃいけないしいつもの様にサボれないじゃ無いか。
「え…！？あ、アルヴィかギルバートは…？ってか何で俺…？俺じゃなくても…同じ経理部ならもっとマメな奴いるぜ？」
「頼むよ！もう君しかいないんだ！それに君、前職接客業だったろ？」
「い、いやいや俺パス！自信無ぇもんそんな海外のお客さん相手にするなんてさ！」
「あの、ファン・・・さん。接客業をなさってたなら、お客様のお相手は得意なんじゃ無いですかぁ？」
　セリカもまさかのベンの側で援護射撃を強めてしまうので、ギャリーは青い顔で二人相手に辞退の意向を示す。ギャリーにとって恐ろしいのは、当然の如くこの二人には全く悪気も悪意も無いことだ。
「だって…めちゃくちゃ神経使うんだよ！？相手が何求めて来てるかとか、相手の纏ってる空気とか見た目とかから楽しんでもらえる話題引き出したりさ！アレ楽しいけど疲れんだもん…」
「まぁ…お仕事でそんな努力なさってたんですねぇ…ファンさんって凄い方なんですねぇ」
「……え？…そ、そう？」
　男ギャリー・ファン。美女の誉め殺しには弱い。
「そうですよファンさん。ファンさんのお仕事の才能ってきっと唯一無二ですぅ」
「そ、そうかや…？何かセリカちゃんに言われたら俺調子乗りそうだよ」
「調子乗りついでに頼むよギャリー君！！」
　そして調子に乗ってベンの存在を忘れていた。仕事に対して好意的な見せ方なんてすれば即座に彼が向かってくるに決まっていると言うのに。すっかり忘れていた。
「い…や…でも！でもやっぱ俺、自信ちょっと無いかなー？ってさ…ヘマこいても良くねぇし？それに、人事部にだってタイガとかロードとか、そもそも総務部にユリアちゃんとかフィオナちゃんとか、人当たりに関しては適任いるだろ？何で経理部だよ…」
「はっきり言うと、芸能人の方とのコラボ企画って感じなんだよ！その人にさ、結社の広告塔になってもらうって話が出ててね！その契約の関係でプロデュースされてるケア用品を結社メンバーは社員割引の価格で使える様仕入れさせて貰うって感じで！」
「へぇ…」
「で！その方が兎頭国人だって言うんだよ！だからウチにも兎頭国人いるって言ったら、滞在の間是非お願いしたいって言うからさ！」
「ベン余計な事言ったな…！つまり最初から俺以外に頼むつもりなかったワケね…」
「そゆこと！」
　ギャリーは逃げ切れない今の状況に溜息を吐いた。セリカは少しそんなギャリーを心配そうに見つめるものの、相手の人間が兎頭国人と聞いてどちらにせよギャリーが行くべきだろうなとも思う。誰だって共通のお故郷くにの話題で盛り上がれたら嬉しい。そしてその話をするならやはり接客経験もあるギャリーが向いていると思うからだ。
「ファンさん、お仕事だお仕事だと思わず、同郷の方をおもてなしする事だけを考えたらいかがですかぁ？」
「おもてなし？」
「そうですぅ。今どこに住んで何を見ていたって、故郷を同じくする方と昔の事を思いながら共通の話をするのはそれだけで嬉しいものですぅ。同じ兎頭国の友人に喜んでもらえる様な事を考え、その方と同じ話題で気持ちを和やかに。特別な事を考えずとも共通の話題が少しあるだけで大変喜んでくれると思いますよぉ」
　セリカの言葉にギャリーは参った様な困った様な、しかし満更でもない顔で微笑み返す。
　そうか、ギャリーがその気になる様な情報を提供すれば彼も気持ち良く仕事をしてくれるか。確かに急に決まった話だし彼も困惑するところはあるだろうな。
　そう思ってベンもセリカの説得を後押しする様に声を上げた。
「ちなみに今日から来るお客さん、今カンテ国でも人気のグラビアタレントさんでめっちゃ美人でセクシーな女性だよ！」
「やる！！！」
「だから…え？今なんて？」
「やる！！俺がやる！その仕事！」
　間髪入れず返事を返すギャリー。アレだけ渋っていたが決定打はセクシーな美人と言うところだった。そしてそのやり取りを見て、今度は少しだけセリカがむくれた様な顔になる。
「ねぇ、セリカおねーさん。男ってたんじゅんなのよ」
　それはリリアナにとってあまり思い出したくない母からの受け売りだろうか。おませな事を言う彼女に驚きつつセリカは「はい…」と丁寧に返事を返していた。
「あ！後セリカさんもお願い！第三小隊長さんにはちゃんと話すから！」
「は、はい？」
　だから急に自分に話題を振られてセリカは困惑した。前線駆除班だなんて機械人形と闘う為の部署の自分がまさか客人のもてなしに当てられると思わなかったのだ。どうもその客人、兎頭国人だが最近着物も好きな様で、それを着ている人間が結社にいると聞くや否や「是非会ってみたい」と。ロナ・サオトメも候補に上がったが、タイミング悪くアサギが民家の大黒柱を破壊して家を一軒倒壊させた直後だったので彼は後始末に追われ多忙で胃を痛めているらしい。
「よくよく考えたら多分、同じ女性が居てくれた方がありがたいだろうからさ！」
「そ、そうかもしれませんがぁ…」
「もしセリカさんに断られちゃったらそのお客さん来てる間ギャリー君しかまともに当てられる人居なくてさぁ…実は結構困ってて…」
　自分が断れば、その間ギャリーと客人──しかもグラビアタレントを生業とする程魅力的な女性が二人きり。仕事と言えばそれまでだが、共通の話題で話が出来る事の距離の詰め方は強い。それはセリカも知っている。だからセリカはどうにもそこに危機感を感じてしまった。先程客人がセクシーな女性と聞いてからギャリーがあまりにも浮かれ調子でいるからだ。
「わ、分かりました…私も一緒にお仕事させてください…」
「本当！？ありがとうセリカさん！正直お客さんの要望次第で仕事内容変わるけど、いつもの仕事より辛いって事はないからさ！」
　結局ベンの口車に乗せられ上手い事仕事に割り当てられた感は否めないが、斯くして二人は客人と対面する事になったのだった。

「男はたんじゅんで、こいするレレイもたんじゅんにできてるからいっしょにいられるってえらい人が言ってたわ」
「リリアナ…！？可憐な格好で何を急に言い出すんだ…！？」
　状況の飲み込めないリアムは、リリアナの言葉に酷く動揺した。

　*　*　*

　応接室に向かうセリカは緊張した面持ちで一歩一歩踏み出す。ギャリーは先程の駄々を捏ねた姿から打って変わり、余裕そうな表情でそんなセリカの肩をポンと叩いた。
「大丈夫大丈夫。緊張しなんで」
「は、はい…」
「まあ、同じ兎頭国人みたいだし、俺が中心に世間話でもするよ。社割の商品増やすとかまあ経理部が絡むのも納得だし、多分その値段設定の交渉もしてもらいたいんだろうよ、結社側としては。セリカちゃんは客の要望に巻き込まれただけなところあるからさ。俺に任せて、そんなに固くならないでね」
「ありがとう…ございます…」
　こう言う時の頼り甲斐のありそうな横顔はちょっと憎い。
　セリカは熱くなった頬を隠す様に少し下を向くと、ギャリーの後ろに付いて足を進めた。応接室が見えて来た頃、近くに居た総務部の社員にギャリーは耳打ちされる。どうやら誰が来ているのかやっとここで聞かされたらしいが、名前を聞いた彼はカッと目を見開いた。
「……まじ？」
「…本当です」
「え？まじのまじ？」
「まじのまじです」
「やっべぇな…」
　話の読めないセリカが「どなたがいらっしゃるんです？」と聞くと、赤い顔をポリポリ掻いたギャリーは少し言いづらそうに口を開いた。
「あー…グラビアタレントのディルラバさんだって…」
「ディルラバさん…？その方、兎頭国の方なんですかぁ？」
「多分芸名だろうね。本名何なんだろうなぁ…？今知ったんだけど、オーロラ出版社ってあるじゃん？アレが主催のミスコンでミス・ナチュラル賞取った結構凄い人だってさ」
「そうなんですかぁ……ん？ディルラバさん？ディルラバさん…どこかで…？」
「……さっき俺が見てた雑誌で袋綴じ飾ってた女性デス……」
「………」
　セリカのすんっとした冷静な目に射抜かれている様な気がしてギャリーは口を閉じる。これ以上何か言っても彼女の気分を損ねる気しかしない。普段なら余計な事もベラベラと喋れるのに彼女を前にするとどうも上手く喋れない。ギャリーはセリカに対して言い訳だけは今後も上手く出来ないだろう事を身をもって実感した。
　そして終始無言のまま、ピリリとした緊張感漂う空気だけを纏いながら応接室の扉を開ける。そしてそのまま部屋の奥に進むと、艶々した黒髪の後ろ姿が見えた。
「あら、来てくれたの？」
　立ち上がり、振り返った彼女は美人だった。少し猫目な三白眼だが、きりりとした美しさがある。セリカは先程雑誌で少し見えた彼女が目の前にいる事が信じられず、少しだけ慌ててしまった。客人を前に慌てふためくなんてはしたない事だと深呼吸をし自身を落ち着かせたものの、先程ギャリーが慌ててリリアナから隠した雑誌に彼女の綺麗な裸体が載っていた事を思い出してしまう。
　この女性があの美しい体をした人。細い体に豊満な胸、すらりと伸びた長い手足の美しい体の人。そう思い出しついついまた慌てふためいてしまった。
　ギャリーはそんなセリカに気が付くと、ディルラバの目の前で彼女に向かって跪き、拳を手で組み挨拶のジェスチャーを見せる。兎頭国の服を着たギャリーのその所作はとても絵になり、一度慌てたセリカもそれに見入ってしまった。ディルラバは不思議そうな目線をセリカに向けていたが、彼のジェスチャーに気付くとすぐに嬉しそうにギャリーを見た。
「あ！懐かしい！拱手が見れるなんて！」
「ディルラバさんが兎頭国人とお聞きして。私も兎頭国の出身なんですよ。国を出てからこの挨拶をしなくなっていたので私も懐かしいです」
「嬉しいわ！ああ、そんなに恭しくしないでちょうだい。私なんて一介のタレントだし、『男の膝には黄金が埋まってる』でしょ？」
「いえいえ、これだけ美しい女性の前でそんな迷信ちっぽけなものですよ。ようこそディルラバさん。此方の女性はマルフィ結社前線駆除班のセリカ・ミカナギさん、私は経理部のギャリー・ファンと申します」
「本当に兎頭国の人と着物の女性が来てくれたのね。嬉しいわ。改めて私はディルラバ、よろしくねセリカさん」
　きりりとした美しさ。しかし、その笑顔はまるで少女の様でセリカは思わず赤い頬を緩めながらお辞儀をした。同時に、「やっぱり二人きりにしなくて良かったかも」と変な考えが頭を過り、セリカは小さく溜息を吐いた。雑誌で見た時は自分とは縁の無い妖艶な女性と思っていたが、実際会った彼女は屈託ない少女の様だった。
「それから、ギャリーさん？」
「ええ、よろしくお願いします。ところで、カンテの挨拶の中にキスやハグもあるのですが？」
　彼らしい場の和ませ方とは思いつつセリカはやれやれと目を伏せる。ディルラバはそれが面白いのかくすくす笑っていた。
「ふふふ、貴方がしたいならいくらでも。もうカンテの挨拶にも慣れてらっしゃるの？」
「いいえ、流石にこんな美しい女性と交わすのは緊張します」
「ふふ、相変わらずお上手ね」

　相変わらず？
　セリカはディルラバの言葉にハッとし、不思議そうにギャリーを見た。二人は顔馴染みなのかと思い見た彼の顔もその一言で困惑に染まっており、ギャリー自身もその言葉に戸惑っている事を悟る。彼の反応からも二人が初めて会うのは間違いないだろうに、ディルラバはまるで以前にも会った事があるかの様な口ぶりで話した。
　置いてきぼりを食らった様な様子でキョトンとしている二人を見てディルラバはぷっと噴き出す様に笑う。横で見ていた彼女のマネージャーは、「ディルラバさん、失礼ですよ」と彼女を諌めた。
「あのー…どこかでお会いしましたっけ…？こんな美人と会ったら忘れないと思うんだけどなぁー…」
「ふふふっ、もうやだおかしい。でもそうよね、こんなに時間空いたら私だなんて気付かないわよね」
　そう言ってディルラバは切り揃えられた前髪を手でぐっと持ち上げる。露わになった額には昔怪我をしたのか少し大きめの痛々しい縫い痕があり、前髪で隠れて見えないもののいざ露わにされると同じ女性であるセリカは思わずその顔の傷に目を細めてしまった。
「覚えてない？ガリ・・ちゃん」
「ガリちゃん…って？ギャリーさん、あだ名か何かあったのですかぁ…？」
　ガリちゃん、額の傷。この二つはギャリーの昔の記憶を呼び起こすのに十分だった。
「……え？ええええええ！？嘘ずら！？へぇその頭の傷…あん時のかや！？えええ！？嘘ずら！？」
「ふふふっ！懐かしいでしょ、ガリちゃん」
　ギャリーの故郷の言葉全開の雄叫びと、ディルラバの悪戯を成功させた様な無邪気な笑い声は応接室の外まで響いた。
　セリカは訳が分からなかった。

思い出の人

「お前、生意気なんだよ！」
「そーだそーだ！」
「一丁前に男と遊んでるなら同じだけの事してみろよ！女だからやらなくて良いなんて思ってるのは男女差別って言うんだぞ！」
「そーだそーだ！」
　見るからに悪ガキと言う感じの少年に小突かれ、とうとう我慢の限界だ。悔しいけど耐え切れず泣いてしまいそうになった。彼らも別に本当に生意気だと思った訳では無い。ただ、覚えたての言葉を使って相手を責めるのに私は全ての条件を満たす都合の良い存在だったのだ。だから私は的にされた。
「ど、どうしよう？ゲンちゃん…！」
「でも、あいつらいつも一緒に遊んでる子じゃ無いもん、隣町の年上の奴らじゃん…だから無理に言いなりにならなくても…」
「だからって今放っておくの…！？友達なのに…！」
「でも…！」
　いつも通り皆で遊んでいたところ割り込む様に入って来た隣町の年上の悪ガキ達。いきなり絡まれ、この遊び場を明け渡せと言う。拒むと度胸試しとして橋から川への飛び降りを求められ、それも拒んだら生意気だと私だけ罵られたのはおそらく私が女だったから。
　イレギュラーなトラブルに子供なら慌てふためいて当たり前。大人になった今ならそう思う。それでもこの当時、どうしてこう言う時に限って誰も助けに来てくれないの？と言う絶望に駆られたのは間違いない。
　だから、この時声を上げた彼がどうしようもなく英雄に見えて、その姿は大人になっても素敵で頼もしい恋の相手として記憶に残ったのだ。
「こらお前ら！！その子女の子なんだぞ！！俺が相手してやるからその子に色々言うな！！」
　そう声を上げたのは、体はそんなに大きくない男の子。焦茶色の少し長い髪を一つに纏めた可愛らしい顔立ちの男の子、ガリちゃんことギャリーだった。
「何だよ！？お前も『生意気』だな！！」
「なぁ、コイツあれだよ。母ちゃんにも父ちゃんにも捨てられたギャリーだよ」
「知ってる！俺の母ちゃんが言ってた！」
　彼が護ろうとしてくれた。だから私も護ろうと声を上げた。
　ガリちゃんは捨てられた子じゃない。大好きなお祖母ちゃん達がお家で待っているんだと。
　彼の状況を全肯定出来る自分でありたかった。しかし、悪口を言い始めた彼らにとっては、ガリちゃんが傍目に祖父母に惜しみなく愛されて育っている事実などどうでも良かった。
「お前のお母さん、お前の事大事じゃなかったんだ！だって俺の母ちゃん言ってるもん！俺の事が大事だからどこにも置いて行かないって！」
「お前が大事じゃなかったからお前は置いてかれたんだ！」
　不自由無い生活の彼等の母親は「子供が大事だから置いて行かない」と言った。だからそれが全てだ。その主張に当て嵌めれば、どんな想いで、どんないざこざがあって彼を置いて行く事になったかも知れぬギャリーの母も父も、「子供が大事じゃ無いから置いて行った」事になる。
　子供の内は残酷な程視野が狭い。特に幸せに身を置く内は、少し特殊な子の生い立ちが分からず自分の尺度で常識を測る時もある。そして攻撃もする。言ってはいけない事の区別も時に付かない。
　ギャリーはそれを聞くと眉間に皺を寄せ、悪口を言っているその子達の内一人に掴みかかると、暴れるその子を力任せに橋の中腹まで引っ張った。もう無我夢中だ。それなりに背は高い癖に手すりが設置されていないその橋の真ん中まで来た時、掴まれた子は何をされるか気付いた様で震え上がった。
「おりゃっ！！」
　大声を上げ、渾身の力で男の子を背負うと川へ投げ込む。頭から落ちたその子は川に落とされた事に驚いたのか、顔を水面に出した途端に大泣きした。
「うわぁぁぁぁあん！！ママぁぁぁあ！！」
「ばーか！！ざまーみろ！！」
　しかし、私は気付いてしまった。そんな彼の仇討ちとばかりに少し体格の大きい男の子がギャリーの後ろに迫っていた。
「ガリちゃん！！後ろ！」
　その声に瞬時に反応し、反射的に身を翻すギャリー。後ろからその体格を武器に迫った子の繰り出した拳は空振りに終わり、バランスを崩して彼も橋の下の川面に落っこちて行った。
「びしょ濡れだ！母ちゃんに怒られるー！！」
　そう言って泣き喚く男の子。偶然とは言え二人目も落としたギャリーは少し震えた体でガッツポーズを取った。
「お前が一番の生意気だな、ギャリー」
「ンだよ。もう友達二人も落としたぜ？お前も落としてやろうか？」
　その時、相手グループのリーダー格である男の子が後ろに仲間の金魚の糞を連れてジリジリとギャリーに迫った。その手にはヘビ花火とライターを持って。
「お前ら汚いぞ！！大人が居ないとライターなんて使っちゃ駄目なんだからな！」
「そうだそうだ！ガリちゃんは良い子だからそんなもの持ってないぞ！」
「お母さんに言い付けるぞ！！」
　こちらの必死な援護射撃などどこ吹く風。ヘビ花火を咎められた少年は誇らしげににやりと笑うと「これは俺の兄ちゃんがこっそりくれたんだ！」と大声でそう言った。この頃、少年少女問わず年上のお兄ちゃんお姉ちゃんへの憧れと言うのは大変大きく、特に男の子は兄ちゃんからの入れ知恵で色んな悪いことを覚えていくと言っても過言ではない。
「兄ちゃんが言っていた」情報に絶大な信頼を寄せ、「兄ちゃんがやっていた」事を真似しようとし、そして「兄ちゃんがくれた」ものはもれなく彼らにとって最上のリーサル・ウェポン最終兵器となるのだ。
「ここでこのヘビ花火に火を点けてやる！ヘビ花火が橋を丸焦げにするぞ！お前も水の中にドボンだ！！」
「ずるいぞ！子供がライター持ち歩くのは駄目ずら！？」
　慌てるギャリーを見てリーダー格の少年は更に気を良くしたのか笑みを深める。
「俺は兄ちゃんから貰ったから良いんだ！ここで使う！！ヘビ花火食らえ！！」
「ガリちゃん！！」
　この時の度胸は一体どこから湧いたのか。私はギャリーに抱き付く様に体当たりすると、花火に着火される前に心中する勢いで彼と二人、水面に落ちて行った。少なくとも、ここで花火に焼かれるくらいなら一緒に飛び込んでやる！くらいの豪胆さはあった。
　実際はヘビ花火は橋の上で地味に点火され地味に煙を上げて地味に燃えカスを伸ばしただけで終わり、何の脅威にもならなかった。
　これがネズミ花火ならもう少し騒がれた事だろう。しかし、さてはお兄ちゃん・・・・・、過去に自分が持ち出して怒られた事があるのか弟には比較的子供も楽しめるヘビ花火を渡していた様だ。
「何か、犬のうんこみてぇ」
　病弱で女の子の様に線が細く、小綺麗な格好をしているお向かいのゲンちゃんから意外な言葉が飛び出す。大好きなお兄ちゃんから貰った最上のリーサル・ウェポン最終兵器を「犬のうんこ」と馬鹿にされた事で隣町の悪ガキは真っ赤な顔で泣く程怒った。またしても一触即発な空気になったが、煙に気が付き何事かと村の大人が駆け付けて来た。
「おい！お前らへぇ何やってるだ！？」
「あ！お前こないだも悪戯こいてったごたくそずら！？」
「火なんか子供が使っちゃいけねぇ！！」
　大人達に怒られてるあの悪ガキどもはいい気味だった。しかし、私は素直に喜ぶ元気が無かった。一緒に飛び込んだ筈のガリちゃんがどこにも居ない。それどころか、私は頭がとても痛い。頭からすーっと冷えて行く様な感覚は子供心にまずいと思った。
「ねぇおじちゃんおばちゃん！コイツらのせいでさっきガリちゃん達橋から落ちちゃったんだよ！」
「何だって！？」
「このごたどもしばらくお外で遊ぶの禁止にするからね！！」
　大人の怒声が、しばらくして悲鳴に変わった。私が動かず水に身を任せ浮いていた周辺が血の色に染まっていたから当たり前だ。私はギャリーと共に飛び込もうとした際、バランスを崩し橋から出っ張り尖っていた岩と接触した。頭がスパッと切れる感覚を感じたものの、直後に水に落ちた衝撃で痛みはよく分からなかった。しかし私がすぐに大人に引き上げられ病院に運ばれた事で、その場に居た子供達は皆大事になったと悟った。隣町からあの悪ガキどもの親も駆け付け、大人は皆互いにペコペコ頭を下げていた。悪ガキもいつもの皆も、こうなったら皆怒られて泣くしかない。
「ねぇ、母ちゃん…ガリちゃんは…？」
「え？ギャリー？ちゃんと居たよ。川に落ちる途中でズボンとパンツがどっか引っかかってたみたいでね、尻出しながら宙ぶらりんになってぐったりしてたよ」
「宙ぶらりん…」
「あの後中途半端な高さに居たギャリーを引き上げるの大変だったんだからね。貴女もこんな顔に傷付けて…女の子なのに…」
　このいざこざは子供同士の話で終わるいつものものと違ってしまった。大人も巻き込み、心配を掛け、そして私は傷の経過観察で通院している時から皆と会えなくなってしまった。結局傷は深いもので額だったのもあり二十針近く縫う事になった。やっと傷口の抜糸を終えた時にはもう、両親の仕事の都合で共に街を出ねばならなかった。
　皆と楽しく遊んだ思い出は、痛々しく危険な思い出で幕を閉じてしまう。それでも皆は見送りに来てくれ、私はそこでギャリーが好きだったのだと幼い恋心を自覚した。
「ねぇガリちゃん。大きくなったらお嫁さんにしてくれる…？」
　自分を女の子として扱ってくれた彼に勇気を持って言った言葉。それだけが美しい思い出として今も胸の内に残っている。残ってしまった傷痕を見るたび、ギャリーの顔を思い出した。

　*　*　*

「いやぁ、あの時はおどけたよ！いきなりタックルされて川落ちそうになってさ！」
「私だって必死だったんだからね！？ガリちゃん強気な事言ってるのにあの悪ガキの前でガクガク体震えてたから逃がしてやらなきゃ可哀想かと思って」
「逃すにしたってやり方考えてよ！いきなりガクンってパンツもズボンも腹に食い込んで来て吐きそうになるわその後自重で傾いて尻丸出しのまま放置されなきゃいけないわでアレはトラウマになったってこと」
「え！？トラウマ！？あははっ！そんな大事になってたのね！？」
「おう、お陰様でね…。あれ以来今に至るまで喧嘩とか一切出来ないもん俺。痛いのヤダ」
「え？意外ー。ずっと変わらずヤンチャしてるかと思ったわ」
「いや、大々的に変わったのはそっちでしょ…俺はある意味ではヤンチャだけどね。でも今更喧嘩はしたくないよ。どうせ負けるし、この歳になってまたフルチンで橋に引っ掛けられたらたまんねぇって」
「あははははっ！嫌だもう！」
　セリカはキョトンとした顔で楽しそうな二人を見つめた。確かに兎頭国人同士なら話も弾むのでは無いかとは自分も思ったが、この二人にはそれ以上の何かがある様な気がして仕方がない。横で聞いている限り二人は幼馴染だったりするのか、やけに小さい頃の話が飛び出して付いて行けなくなったセリカは少し離れたところで愛想笑いを浮かべながら誤魔化していた。
　そんなセリカに気付いたギャリーは、エスコートする様にディルラバの手を取りセリカの元へ一歩近付く。そして先程自己紹介をした様に今度はセリカにディルラバを紹介した。
「セリカちゃん、全然気付かなかったんだけど、まさかのこの子故郷の幼馴染だったわ」
「え？幼馴染？そんな偶然あるんですねぇ…！」
「運命ってあるかもしれないわよ？ところでセリカさん、この写真見てくれる？」
　ずいっと差し出された一枚の少し色褪せた写真。焼けてしまったのか少しセピアがかったそれには子供が六人写っている。内一人は焦茶色の髪の毛に焦茶色の目、カンフースーツを着用しており、その風貌に見覚えのあったセリカはもしかしてとギャリーに目を向けた。
　しかし、ギャリーとセリカの目が合う前にディルラバが口を開いた。
「問題！この中で私はどれでしょう？」
「え！？」
　セリカはいきなりそう言われ少し慌てながら写真の子供の特徴を見つめる。
　体が細く、上質でお育ちが良さそうなのが見て取れるこの服を着ている子だろうか…？いや、ケンズにいた時近所の夫婦がお子さんに着せていた気がするがこれは男の子の子供の居る親に人気のブランドだった様な。その隣にはよれたランニングシャツにパンツを履いた見るからにガキ大将でぽっちゃりしている子供。流石にここからこうなったのは考えにくいのでこの子はおそらく違うだろう。そのガキ大将の隣に居るのも多分男の子だろうな…と言うのも、この子が実は女の子で大きくなって化粧をしたら彼女になりました、と言うのは難しいんじゃないかレベルで顔が違う。となるとその隣に居る二人の内どちらかだろうか？兄妹の様だから、安直に考えてこの一人だけ居る女の子が彼女なのではないか。
「あの…この子、ですかぁ？」
　写真の女の子に指を指すとギャリーとディルラバは一瞬見つめ合い、そしてぷっと吹き出すように笑った。
「ふふふ！やっぱりそう思うよね！？セリカさんあのね、私この子だったの」
　ディルラバの細い指がすっと六人の内一人を指差す。彼女の手入れされた綺麗な指先が示したのは、先程深く考えず候補から外したランニングシャツのガキ大将だった。
「………え？」
「だからね、私当時こんな感じだったの」
　視線の先にはぽちゃっとした体型を薄汚れたランニングシャツで包むガキ大将。目の前には妖艶な女性。写真の中にいるのは穴の空いたパンツを平気な顔して履いているガキ大将。目の前には女性のセリカでもどきりとするくらい胸元のシルエットが綺麗な女性。
「…ええっ！？」
「やっぱびっくりするわな…このビフォーアフター…」
「あははは！何回やっても写真と見比べて驚いた顔されるところ見るのは気分が良いわね！」
　セリカは普段大人しい彼女が珍しく溢れるのでは無いかと言うくらい目を見開き、唖然として写真を見つめた。このぽっちゃりガキ大将ちゃんが大人になるとこうなるの？そう言いたげな目を向けてしまっていたのか、ディルラバは腹を抱えて笑っていた。
「あー、おっかしー…改めましてよろしくねセリカさん。私の本名はゲンジ・ディルラバって言うの。子供の頃は『お隣のゲンちゃん』って呼ばれてたわ。今も確かに芸名プッシュしてるけど本名非公開にしてるわけじゃ無いのよ？最近カンテ国で知名度出て来たからガリちゃんならどっかで気付いてくれると思ってたのに」
　そう言えば雑誌を持ったままセリカとリリアナに会い、雑誌を持ったまま応接室に来ていた事を思い出す。応接室に入ってすぐの本棚に急遽置いて隠しておいたのだが少なくとも彼女のグラビアを眺めていた事は本人に筒抜けの様だった。
　そう言われ見つめられたギャリーは恥ずかしそうに顔を掻いて誤魔化す。まさかグラビアに夢中になって本人の情報収集を怠っていました、とは言えない。しかしそれをお見通しと言わんばかりに彼女──ゲンジはにやりと笑った。
「ガリちゃん、私の袋綴じ載った雑誌買ってくれたんでしょ？」
「あ、ああうん、まあね…」
「ふふっ、嬉しい…どう？ガリちゃんああ言う着物みたいな衣装で撮った感じの写真好き？」
「うん、まあ…着物は好き…」
「じゃあチラリズムとガッツリ見えてるの、どっちが好き？」
「俺はガッツリの方が…ってか俺は幼馴染に何を言わされてんの…？」
「ふふ、次の参考になるかもしれない感想ありがとう。ところでガリちゃん、雑誌越しで満足？…生で見たくならない？」
　それは彼に迫ったゲンジがあくまでギャリーに言った言葉だが、何故か横で聞いていたセリカが先に言葉の意味を理解して真っ赤になってしまった。遅れたギャリーもその言葉の意味を理解し満更では無い顔になったところでマネージャーから待ったが入る。
　スラリと背が高く、スーツの似合う優男風な男性マネージャーだ。緩やかなパーマを掛けた長い髪を靡かせてゲンジとギャリーの間に割り込む様に入ると彼女の肩に手を置いた。
「失礼。ディルラバさん、そろそろ仕事の話に入りませんか？」
「あ、マネージャー。そんなよそ行きの顔しなくて良いわよ？自然体で居なきゃ貴方も疲れるでしょ？」
「しかし…」
「そんなんで仕事を選ぶ様な人達じゃないから大丈夫よ」
　自然体で。そう言われたマネージャーはふぅと呼吸を整える。そして前髪を手でくしゃりと掻き上げると口を開いた。
「『あ、マネージャー』じゃないわよ。何いきなり変な誘惑かましてんのよアンタ。仕事で来てるのよ！？一応仕事してるフリだけでもしてくれなきゃモヤモヤするわ！全く、結社に着いてから付き人に兎頭国の人と着物の女とかいきなり指名するから何かと思ったら…アンタここに幼馴染が居るのわかってて妙な注文付けたでしょ！？」
「しょうがないじゃ無い。黙ってぶっつけ本番で言わないとマネージャー止めに入るでしょ？」
「当たり前よおバカさん」
　え。まさかのオネェ…！？
　先程のゲンジがギャリーの幼馴染だと言う暴露と同じくらいかそれ以上の衝撃を受けセリカもギャリーも固まる。別にだからと言ってどうと言う事もないが、『よそ行きの顔』と『自然体』の差が凄過ぎて二人とも目が点になった。
「き、キャラ濃っ…！！」
　ギャリーの言葉にセリカも珍しく無言で頷く。
　ゲンジの過去の暴露とマネージャーの自己紹介一つ、たったそれだけで物凄い衝撃を受けた二人はしばし唖然としていた。

揺れ動く人

　流石と言うのか何と言うのか、仕事の話となるとギャリーもゲンジも果てはマネージャーも真剣な空気を纏い、先程の和気藹々とした雰囲気はどこへやら。ギャリーは経理部から渡された書類を見、ゲンジ側から提案された企画書を見、現状と見比べ双方損のないようにと折衷案を提案する。ゲンジもプライベートと仕事は切り離し、先程ギャリーに見せた甘い少女の顔が嘘の様に初めて対面した時のイメージ通り、キリリとした目力の強い女性としてそこに居た。マネージャーは慣れた様子で二人の間を取り持つ様に（勿論どちらかと言うと商談と言う関係上ゲンジの肩を持つ様には見えるが）上手く溶け込んでいる。
　セリカは所属先が前線駆除班と言う事もあり、経理はギャリーの仕事なので邪魔をしない様にお茶淹れに徹した。すらすらとよく喋るギャリーとゲンジに呆気に取られつつお湯を沸かしにいく。流石に話している二人は喉が渇くのかお茶の消費量が多い。セリカは部署が違うし部屋を出されてしまうかとも思ったが、お茶汲みと言う形で役に立てるのが嬉しかった。
　ギャリーの三杯目のお茶が半分程失くなったのを見ると、セリカは静かに席を立ち隣接している給湯室に向かう。お湯が沸くのを待ちながら、つい今し方怒涛の様に起きた事を思い出していた。
　彼女──ゲンジは最初からギャリーに会えると分かっていて結社に来た。マルフィ結社に彼が居ると分かっていて仕事の話を持ち掛けてきた。彼に会う事を確実なものにする為に、兎頭国の人間を宛てる事を人事部に頼んで来た。そして待望の彼が現れた時、彼女は自分が彼をどう見ているかその気持ちを惜しげもなくぶつけた。
　ギャリーが先程好んで見ていた雑誌のモデルと言うだけでも複雑なのに、二人が歳が近く昔よく遊んでいた幼馴染と言う事実も相俟って大変モヤモヤする。自分に置き換えて考えてみようにも身近な幼馴染は総務部のリアム・シュミットしか居ない。彼に対してそんな気持ちを持った事がないから自分にはよく分からないが、あの目を見るに少なくともゲンジはギャリーに対して本気なのだろう。
　歳も自分より若い、自信に満ち溢れスタイルの良い女性。おまけに彼女は彼の事が目に見えて分かるくらいに好き。
　そこに首を突っ込む気力も張り合う意地もセリカは自分に備わって居ない気がして虚しくなった。もう傷付きたくないから、せめて胸がちくちくするくらいの『今』の状態で引いてしまおうかとネガティヴな考えに引っ張られていく。その時、ふわりと温かい手がセリカの肩に触れた。
「セリカちゃん？」
「ギャリー…さん…？」
　振り返ると、応接室で白熱して仕事の話をしていた筈のギャリーがすぐ後ろに居た。
「大丈夫？元気ない顔してるけど…」
「い、いえ…私は別に…あ、すみません。お茶お代わりですかぁ？」
「それもあるけどね。疲れたから小休止も兼ねて抜け出してきた。仕事の話は白熱するけど疲れていけねぇや」
　ふわぁ、と気の抜けた欠伸をするギャリーにセリカはくすりと微笑む。さっきまで真剣な顔で仕事に向き合って居た人とは大違い。そう口にすれば、ギャリーはいつも怒ってばかりの貴族の青年を探す様に目をキョロキョロさせながら「俺は仕事に対する持久力あんま持ってねぇの」と彼が聞いたらまた激怒するであろう言葉を小声で口にした。
「ふふふ、でも何だかギャリーさんらしいですぅ」
「仕事はね。仕事は持久力無いけど恋愛と夜に関してはそれなりに体力あると自負しております」
「ふふ、是非そっちで有り余ってる分を仕事に回してください」
　恋愛に持久力がある、なんて言われるとネガティヴに引っ張られたセリカはいつもと違う事を考えてしまう。持久力が本当にあるなら幼い恋を再認識して再出発させるだけの馬力もあるのではないかと。再会したことで加速する想いもあるのではないかと。
　そう思うとまたほんの少しだけ寂しくなった。分からない様に静かに目を伏せたセリカだが、それを見逃さないのかギャリーは肩に置いて居た手を背中に回し、彼女の空いた肩にコツンと額を乗せた。
「…セリカちゃんがこうして傍に居てくれるから俺はそっちに体力残せんだよ」
「ギャリーさん…あの、ここ給湯室で…」
「…分かってる。セリカちゃんの嫌がる事はしないから、今だけちょっと充電させて」
「充電って…機械人形マス・サーキュじゃ無いんですからぁ…」
　背中に回されている手が温かい。肩にとんと頭を乗せられてはいるが、決して近付き過ぎないくらいの距離感を保っている。セリカのパーソナルスペースを尊重しつつ、頭を擦り寄せ甘えてきてくれている様に彼女には見えた。
　もしここで受け入れる様に彼の頭を抱き寄せたら彼はどう反応してくれる？驚く？それとも喜んでくれる？いや、女の身でそんな事をするなんてはしたない事だ。
「……セリカちゃん、いい匂いがする」
「……！！」
「安心する…俺の好きな匂い…」
　ギャリーは少しだけ頭を動かし、鼻先をセリカの首筋に少し近付ける。同時に、体も寄せてセリカと自分の距離を少し狭めた。
「あ、あのぅ…」
「嫌じゃない？俺が近付いて…」
「そ、それは全然嫌じゃ無いですけど…」
「なら良かった…」
　更にぐっと身を寄せてセリカに近付くギャリー。気付けばほぼ抱き締められているかのような距離になっておりセリカは慌てた。目の前にはギャリー、背後には壁。今までも戯れに彼が迫って来る事はあったが、今日は何だか雰囲気が違う。凄く切実で切なくて、そして熱い。
　このままだとはしたない女になってしまいそう。
　セリカの頭にそんな言葉が過り、羞恥からきゅっと目を瞑る。同時に、お湯の沸いた音が聞こえた。
「あ、お湯が…お湯が沸きましたねぇ。どうします？お茶っ葉替えましょうか？」
　努めて動揺を表に出さない様にそう言い、するりと彼から逃げる様に体を離し茶筒を取り出しにシンクに向かう。顔の熱を誤魔化す様にギャリーを背にして急須に残った茶っ葉を丁寧に出して捨てていると、無言のまま背後に迫ったギャリーはまたセリカの首筋に顔を寄せた。
　その時、首筋に唇の様な柔らかい感触が当たった。
「ひゃっ…！」
　無防備で居たセリカの喉から空気と共に声が漏れた。そしてつるっと手を滑らせてしまい、その瞬間シンクの中に勢いよく落ちた急須がガンっと大きな音を立てる。
　セリカもギャリーもびくりと肩を震わせる。一瞬二人は硬直したが、何となくそれにより空気が変わった事を察した。やがて大きく深呼吸をしたギャリーは先程までの熱っぽい瞳と違う、いつも通りに目を細めると優しい声を発した。
「…急須落ちちゃったね。怪我してない？」
「は、はい…」
「割れちゃいないっぽいし洗えば問題無さそうだな。セリカちゃん、洗っとくからお茶っ葉お願いして良い？」
「はい…」
　ドキドキする気持ちを抑えつつ棚に向かう。誰にも見られて居ないだろうかとキョロキョロすると視線の先、少し離れたところにゲンジが居た。
「ディルラバさん…」
「ゲンジで良いわよ、セリカさん」
「あの、ゲンジ…さんもお茶お代わりですかぁ？」
「ええ、そうね。上手い事煮詰まらないし、このままじゃ疲れちゃうから休憩したくなって。休憩も取らずに根性で仕事しようなんて思っちゃダメなのよ。少なくとも私はね。最高のパフォーマンスは自分を愛さないと発揮されないもの」
　根性論を身近に感じていたセリカは、なるほど此れがジェネレーションギャップ、此れが次世代の働くスタンスか？と思いながら「それも良いかもしれない」と少し顔を綻ばせる。同じ部隊で言うならバーティゴもジョンもルーウィンも普段の仕事ぶりから考えるにどちらかと言えば根性論の方が身近だっただろうし、キッカだけは器用な人だから休憩を挟みつつ仕事するやり方を会得しているかもしれないが、身近な三人が体力のある限り進み続けるダンプカーの様な人達だから時にはそう言うやり方で仕事をしてもらっても良いかもしれない。休憩の時の為にきのこいっぱいのキッシュを作ろうかと考えて、バーティゴは食べられないから無難にほうれん草とベーコンのキッシュにしようかと考える。
　するといつのまに近付いたのか、ゲンジがすぐ目の前まで迫って居た。
「ひぃっ…！？」
　失礼かと思いつつ驚きでうっかり変な声が上がってしまった。ゲンジはそのきりっとした目でしばらくセリカを見つめると、髪や肌や唇に目を遣り、そしてまた先程の屈託ない少女の様な顔でセリカを見た。
「決めた！仕事の話再開する前に買い物に行くわよ！」
「え…？そ、それは良いんですかぁ？」
　するとセリカに返事をする様に後ろからマネージャーが現れ間髪入れずノーを出す。気付けば狭い給湯室に全員集合してしまい、お湯を準備したギャリーは「何でここに全員居るの！？」といつもの調子で驚いた。
「ちょっと。ちょっとゲンジ。何考えてんのよ？買い物に行く前にやらなきゃいけない事あるでしょ！？」
「あらマネージャー。ただの買い物じゃ無いわよ？結社内も少し見て歩いてメンバーの人達の職場環境も見つつよ。買い物はついで」
「冗談じゃないわよ！全く、惚れた男を此処にいる間の付き人にしたってだけでスキャンダル過ぎてドキドキしてるアタシの気持ちにもなってちょうだい！」
「あら？私は今の状況、ドラマチックでドキドキしてるわよ？」
　惚れた男。ゲンジにとってのそれはギャリーの事だろう。そして彼女はそれをもう誰にも隠す気がない。自分の気持ちはどうだろう？そう考えようとしたセリカの思考は、次の瞬間握られたゲンジの手によって遮られる。
「セリカさん」
「はい？」
「そう言うわけで私、外を出歩くなら貴女と同じ和装をしたいわ！」
「…はい？」
「だから着付け、お願いして良いかしら？」
　わくわくと嬉しそうな顔をされてはセリカも断る事が出来ず、頷くとゲンジはパァッと明るい顔を見せた。
「だ、駄目よ！買い物なんて駄目！！アンタ仕事しなさいよゲンジ！！」
「…まあ、カリカリしなんでよマネージャーさん。ゲンちゃんの目的考えたら結社見て回るのも仕事の内でしょ？止める理由ねぇと思うがねぇ」
「そ…そうだけど…！」
「ねぇゲンちゃん。セリカちゃんはこの通り着付けもお上手だよ。やってもらいましょ」
「そうよね！！善は急げだわ！仕事の話し合いは後！まずは着物デートと買い物よ！さ！セリカさん、着付けしてちょうだい！」
「ひ、引っ張らないでくださいぃぃ…」
　パワフルな彼女の姿は、ちょっとだけ先程の写真のガキ大将と重なって見えた。人間簡単に性質が変わることは無いらしい。
　男子禁制と断りを入れておき、マネージャーもギャリーも外で待って貰った状態でセリカの自室にゲンジと二人で入る。クローゼットを開けて着物を選んでいると、ゲンジはうっとりした様にセリカの指先を見つめた。
　そんなゲンジをセリカも見つめる。自分とそんなに背格好は変わらないし自分の持っている着物でおそらく大丈夫だろう。胸の大きさ自体はあまり変わらない気もするがゲンジの方が日夜厳しく絞っている分ウエストやヒップが細そうに感じる。補正下着と、もしかしたらタオルも必要だろうか？髪の毛は長く艶やかな黒髪を手付かずにしておくのも良いが、もしかしたら一つ緩く三つ編みにするのもまた大人っぽくて綺麗かもしれない。
　その時セリカは思った。彼女をより美しくしてどうしよう？と。綺麗な女性をより綺麗にするのはワクワクする。和装させて貰えるなら尚更だ。しかし、その姿はきっとギャリーも目にする。
　今は懐かしさで昔話に花を咲かせているだけだとして、『着物好き』だと言っていた彼が彼女の魅力に気付いてしまったらどうしよう？
　自分のこの行動が悪手になってしまったとしたら、どうしよう？

　*　*　*

　マルフィ結社は所属している女性の年齢の幅が広い。そして彼女達は常に多忙だ。その姿を見たゲンジは彼女達の為にも今回仕事で提携し、マルフィ結社が社内販売として取り扱える化粧品の数を増やそうとそう思った。
　そのやる気に満ち満ちた顔を見、マネージャーは頭を抱える。ほら見なさい、やっぱり止めた方が良かったじゃないの。そう顔に書いてある。そしてギャリーとセリカを恨めしそうに睨んだ。ギャリーはニヤリと不敵に笑って返した。
「……ンもぅっ！これだから色男の企み顔って嫌なのよっ！！こっちの思惑と違う事されたのは事実なのに、ついつい許しちゃうわっ！！」
　キィっ！！と声を上げて歯を食いしばる彼の姿を見てギャリーは愉快そうに笑った。結社内を練り歩いた事によってゲンジの中の「日々働く結社メンバーの為に」と言う気持ちは大層刺激され、今回用意する予定だった以上の化粧品の用意を約束させた。取引の値段も少し下がった。結果としてマルフィ結社は良い広告塔とメンバーのケア用品を予算よりも安値で手に入れたのだ。勿論最初から最後まで双方損をしない値段設定だったのは間違いない。ただ、テロ後のこのご時世少しでも切り詰められるところは切り詰めたいと思うのが金の管理をする人間の思惑だ。一銭だって安くなるならありがたい。
　それはマネージャーもギャリーも同じだった。
そして今回はギャリーに軍配が上がった訳だ。
「ガリちゃん！あっち！あの棚にあるビタミンC誘導体取って来て！」
「お、おう…」
「アンタ！！ペース配分考えなさいよおたんちん！！荷物全部アタシに持たせて次から次へと買うんじゃ無いわよ！！」
「お、おたんちんを口に出す方は初めて見ましたぁ…」
　アスには大きなデパートがある。ゲンジの目的はそこの化粧品売り場や薬局だった。四人で向かい、デパートに着くや否や彼女の怒涛の商品開発名目のお買い物が炸裂する。セリカは「化粧水の後にこれを付けると良い」等おすすめを教えてもらえるから楽しいが、関心があるとは言えそこまでではないギャリーとこの怒涛の買い物に振り回される事の多いマネージャーは早くも疲れた顔を見せていた。
　接すれば接する程セリカの中でゲンジのイメージが塗り替えられていく。最初はクールで大人な女性かと思っていたが、今はパワフルにマネージャーをこき使い目的に向かって情熱の赴くまま突き進んでいる姿が目立つ。彼女に対して悪い印象は無い。無いけれど、だからかギャリーがどんな目で彼女を見ているのか怖くて知れない。だからネガティブに引っ張られて悪い印象の無い彼女をモヤモヤした気持ちで見てしまう。胸の奥にドロドロと嫉妬が溜まっていく度「はしたない女」と言う言葉が波の様に寄せては返し、セリカは呑まれそうになった。
「本当…まさかゲンちゃんがこんなになるなんてなぁ…」
「アタシもびっくりよ。この子数年前までカンテ国でなかず飛ばずだったのよ？」
　マネージャーとギャリーがどちらともなくゲンジについて話し始めてしまい、セリカはそこに首を突っ込むわけにも行かずかと言ってその場から離れる事も出来ず、ただただ立ち竦んでいるしか無かった。
「俺より早くこっちに居たのか…」
「その時は髪も黒くなかったし今と雰囲気違う路線で売ってたわ。いきなりだったのよ？エスニックな雰囲気にする！って髪も黒くして、鬼の様にケアを始めて。苦労はしたわね。でもおかげで売れた」
「お隣のゲンちゃんからモデルに変身して、そこからまた今のゲンちゃんに変身したわけね…」
「……さっきはああ言ったし、今がスキャンダルな状態だって事も何一つ変わってないわよ。だけどね、アタシ別にあの子の事止めるつもりも無いの。恋をしてもっと綺麗なゲンジ・ディルラバを皆に見てもらえるならその方が良いと思ってる。そしてその為に、きっと必要なのはアナタよ」
　マネージャーがギャリーに何を伝えたいか瞬時に理解してしまった。ギャリーが返事を返す前にセリカは気配を消して足音を消す様に歩いてその場から離れる。ギャリーに明確な気持ちは示していないから彼が誰の傍に行ってしまおうと関係は無い。無いけれど。見届けるのは辛いと思った。
　彼が彼女を選ぶのなら、その瞬間は見たくない。そう思ってしまう度、いつから自分はこんなはしたない女になってしまったのだろう？と苦悩する。何の関係にもなっていないギャリーにこんな一方的な思いを抱くだなんて。
「セリカちゃん？どこ行くだ？」
　どのくらいそうしていただろうか。気付けばギャリーがセリカの顔を覗き込んでいる。果たして彼はマネージャーの言葉に何と返したのだろうか。心なしか彼の笑顔が満更でもなさそうな顔に見えてしまいセリカはぷくっと頬を膨らませた。
「私が居ても居なくても困らないんじゃないですかぁ？ファン・・・さん」
「え？何で？」
「…あんなに若くて綺麗な方が幼馴染さんで良かったじゃないですかぁ。むしろ私が居たらお二人の邪魔になってしまいますぅ」
　精一杯強がった結果嫌味みたくなってしまった。ギャリーもギャリーで「邪魔になんてならないよ」とは言ってくれるが、その真意は読めない。
「ガリちゃん！ちょっと来て！」
　その時、満面の笑みでゲンジがギャリーを呼ぶ。我ながら見立てた着物は彼女によく似合っており緩く編んだ三つ編みに飾られた髪飾りも大変可愛らしい。大人な印象のある仕上がりにしたが、彼女の本来持つ気質と相俟っていやらしさがなく上品な大人っぽさに包まれていた。
　勝てないじゃないか。ただでさえ芸能人なんて華やかな仕事をしている彼女。知名度もそれなりに、彼女を想うファンもいる。そんな女性と同じ人に片想いしているだなんて、勝ち目なんてないじゃないか。
　彼女は自分よりどう見ても年下で、彼と同じくらい。自分は彼よりも彼女よりも年上。
　自分は先のテロで失ったとは言え旦那がいた身。おまけに、その旦那の寵愛を機械人形に奪われた記憶もある。ただでさえ次の恋愛に進みにくい立場で現れた恋の好敵手が彼の昔を知る幼馴染、そして芸能人。夫を亡くした未亡人と芸能人で幼馴染の彼女。どちらが彼の心を射止めるかなど、誰に聞いても彼女ゲンジと答えるだろう。
「…何だよー。今度は何取って来いって？」
　先程からあっちこっち走らされているからか少々面倒くさそうにギャリーは答える。するとゲンジは嬉しそうに笑い、「見て！あれ！」と指差した。彼女の指差す先にあるのは屋外の売店で目立つところに鎮座し、可愛いCMソングを流している赤い看板のお店。そこには「ほっぺ饅」と書かれている。
「……包子パオズ！？」
「兎頭国からの直輸入のタネが自慢のお店よ！最近カンテ国にも出店し始めたらしいのよ！生地に拘って作られてるから名前の通りほっぺたみたいにモチモチしてて美味しいの！」
「すげぇ！こっちじゃ殆ど見れなかったターニップがメニューにある！！」
「ガリちゃん、休憩がてら買いに行きましょうよ！」
「おう！セリカちゃん、一緒買いに行く？」
　ギャリーはそう聞いてくれたものの、セリカは気持ちが追いつかなかった。なので反射的にその申し出を断ってしまう。するとギャリーは少し寂しそうに笑顔を見せ、セリカの頭を撫でた。
「…じゃあ、セリカちゃんが好きそうなの二人で買ってくるから待っててくれや」
「…はい…」
「俺がセリカちゃんに食べて欲しいと思ったもの、で良い？」
「ありがとうございます…」
　私はぎこちなくでも笑えていただろうか。
　セリカは楽しそうに店に向かうギャリーとゲンジを見送る。兎頭の名物、懐かしい味を同郷の知人と買いに行く。そんな楽しそうな二人の間に割って入るだけの理由も、止めて良いだけの権利も自分は持っていない。だって自分は彼とまだ何にもなって居ないから。
　もしかしたら彼だって、ベンジーの様に明日ふと居なくなってしまうかもしれない。その明日が今日かもしれない。
　そこまで考えて喪失の恐怖に襲われたセリカはハッとした顔でギャリーの背を見つめる。しかし、彼を止める理由も言葉も見付からず、伸ばし掛けた手は誰にも気付かれぬまま切なそうに空を切った。

愛する人

　アタシの名前はセドリック・シュエメイ。兎頭国人よ。今は同じ兎頭国出身のじゃじゃ馬娘もといタレントのゲンジ・ディルラバのマネージャーをやってるわ。好みのタイプは…そうね、マルフィ結社の子で言うなら汚染駆除班のヤンチャそうな砂色の三つ編みの男の子かしら？後、前線駆除班のでっかいお兄さんも良いわね。短髪に髭って最高過ぎない！？それに、ガチムチを押さえるのは基本でしょ？ああ、同じ前線駆除班と言えばあの色黒のちょっと枯れてそうなおじ様も。枯れ専ってわけじゃないけど、ダンディーなおじ様は好き。
　これでも昔は普通に女と付き合ってたし女とヤってたし、アタシ普通にノンケだったのよ。ちょっとね…女と揉めて色々とどん底に居た時優しい言葉で巧みに誘い、新たな扉開いてくれた悪い男が居たのよ…。本当今思い返しても悪い男…。
　おかげでアタシはすっかり今の感じで開き直ったってワケ。
　アタシもね、これでも元モデルだったの。メンズモデルから色々あってマネージャー業に移行した時出会ったのがまだそれなりの体型でカリスマ性も何も無いゲンジ。当時のあの子はもうほぼ今と同じだけの体を造り上げていたけど、それじゃ足りないのよ。体だけ良い女ならこんな業界ごまんといるわ。
　頭一つ抜きん出た魅力が無いのよ。それを掴めるか掴めないかが明暗を分ける。人を惹きつけるってそう言う事よ。ただ相手を受け入れて肯定するだけのイエスマンなら馬鹿でもできるわ。でもそんなの足りないのよ。あの子には、自分の魅力を最大限引き出す術を掴んで上へ上がって欲しかったの。
　まあ、こうしてノンケからゲイになってモデルから裏方に徹する様になって、アタシの人生掌返しが多過ぎて目ぇ回りそうよ腱鞘炎になるわ。
　でもそんなアタシだからオンナの気持ちもオトコの気持ちもそれなりに理解しているつもり。人より早く気付けているつもりよ。
　なのに今回、ゲンジの初恋の相手とやらの関係は見抜けなかったわ。まさかマルフィ結社に居るのを分かっていて提携持ちかけたなんて、上手い事隠したもんよやってくれるじゃない小娘。おかげでこんなスキャンダルな状況を傍で見守ってなきゃいけないなんてストレスでお肌荒れちゃうわ。普段の給料じゃ足りないわよボーナスにはブランドのバッグと毛皮のコート付けてちょうだい。
　おまけに、会ってすぐ気付いたわ。ゲンジのすっとこどっこい、これっていわゆる三角関係になってるわよね？ただでさえ「初恋の彼を求め仕事先へ！」みたいなパパラッチが喜びそうな状況に加えて三角関係ですって！？冗談じゃ無いわよ。
　アンタ達恋愛偏差値お子ちゃまレベルの色恋なんて、アタシには丸見えなんだからね。

店に並んだ僅かな間

　ギャリーとゲンジは包子を買う列に並んだ。やはり兎頭国の食を扱う企業は人気があるのか並ぶ人は多い。これは大分待たされそうだなとセリカを気にして彼が後ろを振り返ると、切なそうに眉根を寄せたゲンジと目が合いどきりとする。相手がどんな子であっても、そんな表情をした女の子の顔を視界に捉えてしまえば流石のギャリーも少しどぎまぎした。それが美女なら尚更。
「あー…ゲンちゃんってさ、今まで彼氏とか居たの？」
　緊張して全く気の利いた会話が出来ない。気の強い彼女の事だから「女の子はちゃんと楽しませなきゃダメでしょ！？」とどやされるかとも思ったが、彼女は少し照れた顔で俯いたままだった。むしろどやされた方が気まずく無くて良いのだが、それは此方の都合なので多くは望めない。
「も、もしかしてマネージャーと付き合ってたりするかや？ほら、俺ああ言う雑誌たまに読むんだけどさ、今も昔もアイドルとマネージャーの関係ってロマン感じるって言うかさー…」
「私、マネージャーとなんか付き合ってないわよ」
「え？あ、そう…？」
　出す話題出す話題悉く不発。包子を買う列が妙に長く感じる。居た堪れなくなった二人の間に妙な空気が漂う。騒がしく聞こえる車の音もほっぺ饅のCMソングも包子をねだる子供の声も、現実の一つ向こう側の次元で起きている話の様で。ともすると静寂に包まれそうな空気の漂う中でやっと口を開いたのはゲンジの方だった。
「ガリちゃん、私、どうしてこの格好になったと思う？」
「この格好…？」
「黒髪にして、前髪切り揃えて。今日なんて着物まで着ちゃったわよ」
「ああ、うん…綺麗だよね…」
　少し口元をだらしなくして微笑み返すギャリー。ゲンジはそんなギャリーを見て今度こそ分かりやすく切ない顔をした。
「そう言えばね、ウチの親少し前に妙湯に帰ったの」
　切ない顔をしたと思ったらいきなり田舎の家族に話が変わったので急な方向転換にギャリーは一瞬目を丸くした。しかし、懐かしい話なので耳を傾けて相槌を打つ。
「仕事の都合で真都に越したけど、やっぱり都会より慣れ親しんだ田舎が一番だって言って。それでね、少し前に実家に電話したら、たまたまガリちゃんのお祖母ちゃんがウチに遊びに来てくれてて喋ったわ」
「へぇー…」
「ウチの子は二十五歳越えてもまだ逐一電話して来てくれて、何だかんだ心配してくれる自慢の孫だって、そう言ってた」
「そう…」
　懐かしい話を聞きリラックスして来たので少し喉が渇いた。手に持っていたブレンドティーをくっと勢いよく口にする。懐かしい兎頭国の話、懐かしい包子の匂い、懐かしいお茶の味、目の前には幼馴染。何だか一瞬だけ故郷に帰った心地になる。
「でも彼女の話は全然してくれないし、やっと女の子の話をしたと思ったら『道案内した人妻が物凄く好みだった』なんて話だったからこれはまだ結婚は無理だなって諦めたって言ってたわ」
「ぶっ！！」
　ギャリーは飲んでいた飲み物を噴いた。
　人の口に戸は立てられぬと言うが、それがお喋りなおばばの場合戸を立てる間も無く猛スピードで拡散されるから今後話す内容はよくよく精査せねばならない。下手したら伝説の如く町中の人間の周知の事実になってしまうのだ。
　そしてふと気付く。実はギャリーは『ディルラバ』としてのゲンジを過去にも雑誌で見た事があったのだと。そう、ちょうど彼女がイメージチェンジをしたと少し話題になっていた頃だ。この一年足らずで躍進した彼女がまだ今みたく化粧品のプロデュースや女性向けのコンテンツに広く顔を出しておらずただただ男ウケしそうな大和撫子な風貌が話題になっていた頃。自分が『射干玉の君』と街で出会って彼女の雰囲気に惹かれてすぐの頃。
　街で出会い、心奪われた『射干玉の君』に似ていたから気になって雑誌を立ち読みした記憶があった。あれは確かにゲンジだった。
「もしかして…」
「──そう。だから私、この姿でやっていこうって決めたの。ガリちゃんのお祖母ちゃんから教えてもらったガリちゃんの好みのタイプの人みたくなれたら、そしたら私の事ちゃんと見てくれるんじゃないかって思って。本当はね、売れて自信が付いたらガリちゃんのお祖母ちゃんにお願いして連絡先聞こうと思ってたの。でもその前に仕事の都合でこうして会えたから、運命かと思ったわ」
「ゲンちゃん…」
　ゲンジは人目と慣れない着物の裾を気にしながらギャリーの耳元に唇を寄せる。そして呆けたままの彼を更に揺さぶる様な言葉を掛けた。
「ガリちゃん、私さっき聞いたわよね？『雑誌越しで満足？』って、『生で見たくならない？』って」
　脳裏に雑誌で見た彼女の美しい裸体が物凄い速さで蘇って来た。あの雑誌で見ていた本人が目の前に居るのだと思うとギャリーはついつい目をあちこちに泳がせる。
「う、うん…言ってたわな」
「…あれ、冗談じゃ無いわよ？全部本気よ？私、今まで会えなかった分ガリちゃんに色んなことして欲しい。色んなところ触って欲しい。ちゃんと私が此処に居るって確かめて欲しい。私の事で怒ったり喜んだり、偶に困ったりして欲しい」
「………ゲンちゃん…」
「…ガリちゃんになら何されても良いよ。私の体一つで出来る事なら、どんな事にも応えてあげる。今日も喜んでもらいたくて着物を着てみたくなったの。思い出としてはあんなよその子との喧嘩と痛い思いだけ残して終わってしまったかもしれないけど、それでもガリちゃんの事忘れた事無かった。だって私、ずっと好きなの。ガリちゃんの事──…」
　不意に、少し前に見た女性向けのアダルトビデオの内容を思い出しどきりと心臓が高鳴った。幼馴染、再会、そして自覚する恋心だなんてあの作品と思い切り似たところを感じる。まさか「ちょっと良いな」と思ったそのシチュエーションの当事者になれるなんて思ってもみなかったし、何より雑誌で見た時は性的な目で彼女を見ていたが、幼馴染だと気付いた今、改めて向き合うと懐かしさを共有できる空気感がまた心地良くもあり、やはり相変わらず強い彼女の瞳は綺麗だった。額に付いたまま消えないその傷すら魅力の様な気がする。
　吸い込まれそうな程に綺麗な彼女の瞳に映るのは目の前の自分だけ。そこから目を逸らせずいるし美女からの思わぬ申し出に生唾を呑んだ。

　そうだ、幼馴染が結ばれるって王道じゃないか。素晴らしい事じゃないか。

　唇を重ねようと伸ばされるゲンジの手にぴくりと体を震わせる。しかし、それでも既のところでギャリーを思い留まらせ、ゲンジの手を取らせなかったのは一人の女性だった。
　何でそんなに彼女に惹かれるのか分からない。今まで見た事ないくらい真面目そうだったから？少し前に一目惚れした人に雰囲気が似ていたから？見た目が好みだったと言うのは充分にあるだろう。
　それでも思い返す彼女はいつだって恥ずかしそうに笑っていて。やっと名前を呼んでくれたのがとても嬉しくて。年上なのに偶にいじけた時にわざとらしく名前呼びを止める様な子供っぽく意地っ張りなところもどうしようもなく可愛くて、愛おしい。
　どんな顔も全部、愛おしい。
　気付けばギャリーは、制止するようにゲンジの体に優しく手を置いていた。それが拒否を意味する事にゲンジはすぐ気付いてしまった。
「ゲンちゃん…俺…」
　ギャリーが口を開いたその時、背後からまるで何かが崩れた様なガシャンと言う音が響く。慌てて音のする方へ視線を向ければ、少し離れたところに目元までローブを被った見るからに怪しい風貌の誰かと、その誰かに殴り飛ばされるセリカの姿が見えた。

瞬きする僅かな間

　ここが屋外だと言う事を失念していたのは怠慢だ。
　セリカはほんの一瞬の間の思考で己を叱責した。そしてすぐに手に持っていた刀を鞘ごと盾にし、飛んで来た拳を受け止める。しかし相手の力が想像以上に強いのもあり、押し飛ばされたセリカの体は一瞬宙に浮き背中から着地した。帯から着地したのもあり崩れてしまったが直している暇はない。「それ」がすぐ近くに居た子供を視界に捉えたのを見てセリカは立ち上がる。母親から少し離れたところに居た子供は足がすくんで動けない様だった。
　よれた帯を完全に外し、小股で素早く「それ」と子供の間に身を滑り込ませる。子供を避難させねば戦うに戦えない。とは言え守らなければ、「それ」は子供だろうと容赦無く手に掛ける。
　突如として目の前に現れたローブの女。セリカは瞬間的に捉えたその姿に妙なデジャヴを感じた。その女が人間には自然に生えない淡いピンクの髪色をしていたからと言うのもある。その淡いピンクの髪色に異常発光の様な赤い瞳。それはまるでピンカートン家でテロにより暴走した機械人形、ケートに再会した様だった。
「オマエ、邪魔ダッ！！」
　力任せに伸ばされる腕。セリカは必死で子供の体を抱き締め盾になる。子供も居るから危なくて刀を抜き身に出来ない。鞘に収めたままの刀で弾く様に伸ばされる腕をいなす。どうやら機械人形は戦闘特化のものでは無いらしく、バーティゴの下で刀を奮っていたアサギの動きをよく覚えていたセリカにとっていなす事自体は然程難しくはなかった。
　しかし、胸の中に居る子供を気にしながら闘うセリカの眉間に徐々に険しい皺が入る。緊張から汗が頬を伝いぽたりと垂れた。この子を守りながら何とか反撃をしないと、この機械人形の活動を止めないと。しかしセリカと違い容赦が無く、彼女よりも力のある機械人形は無常にもセリカの手から刀を弾き飛ばした。じんじんと熱く痛む手首にセリカは絶望を感じた。
　しかし、戦闘特化でも無い身で無理な動かし方をした体はオーバーヒートでも起こしたのか、クールダウンを求めた一瞬だけ機械人形の動きが止まる。本当はここでとどめを刺した方が戦術としては正しいのだが、セリカは子供の事を思った。自分達の目的は機械人形と共に生きる世界を取り戻す事。子供達はこれからもきっと友の様な兄弟の様な、そんな関係を機械人形達と築いていく筈だ。そんな子供達の前で救う為とはいえ機械人形を破壊する様を見せてはいけない。
　セリカは子供を抱き抱えると辺りを見回し、混乱している人間の中から一際顔をぐしゃぐしゃにして泣いている女性を見つけそこに子供を連れて行く。女性は子供の母親だったらしくセリカに泣きながらお礼を言った。
「良かった…！！良かった…！！ありがとうございます！本当に本当にありがとう…！！」
「いいえ…早くお子さんが安心してお空の下で歩き回れる世の中が来ると良いですねぇ。さあ、早く屋内へ…！」
　その時、女性はセリカを見て恐怖に顔を青ざめた。正確には、セリカの後ろを見て。
「あ…」
セリカも振り返り思わず声を漏らす。気付けば目の前まで機械人形が迫っていた。僅かに遅れて反応したセリカの刀を抜くのが早いか、この腕に貫かれるのが早いか五分五分だと思った。
　そんな時に限って思い出は走馬灯の様に流れ始め、世界がスローモーションになった様だった。
　どうしよう。こんな事ならいっそ一度くらいはしたない女になってみても良かったかも。それが彼に想いを伝えると言う事ならば。断られるかもとか迷惑かもとか思わずに、言えば良かったのかも。死ぬかもしれないそんな想いをしている正にその時にそんな事を考えてしまうなんて間が悪いにも程がある。
「呀やあっ！！」
　その時、らしくない声を上げたのか、少し上擦った様なしかし荒々しい掛け声と共に誰かが飛び込んでくる姿が見え、そして機械人形と共に横に吹っ飛んでいった。
「ギャリーさん！！」
　セリカに接近していた機械人形。ケートに良く似た彼女を思い出ごと掻き消す勢いで目の前から吹き飛ばしたのはギャリーだった。蹴りのモーションを入れたもののほぼ体当たりに近い勢いでぶつかったのか、地面に転がった彼は蹴りを繰り出した方の足を痛そうに庇いながら立ち上がる。しかし、その体は震えていた。自分の様に心得があるわけでも無いのに無理に飛び込んで来たのだとセリカはすぐに気が付いた。
「痛てて…やっぱ球蹴ってただけじゃ実戦には使えねぇか…！！」
　大人になってもストリートで蹴球を楽しんだ記憶があるギャリーだったが、力の入れ方も違えばその目的も蹴る対象にも如実に差がある。足首を痛めたのか、立ち姿から既に庇う様に体の重心が傾いている。斜めに傾きながら小刻みに震えるギャリー。その時セリカは、彼がゲンジとの会話で喧嘩にトラウマがあると話していた事を思い出した。
「ギャリーさん…！ギャリーさん良いから早く逃げてください！」
「ギロク様…ギロク様…オ掃除、ヲ…きチんと、オ掃除ヲ…！！」
「ギャリーさん！」
　体勢を立て直した機械人形がセリカに向かって突進する。しかしギャリーはそれよりも早く震える体で、痛めた足で必死に走り、セリカの盾になる様に彼女の体を抱き締めた。
「させるかよ…！！セリカちゃんに触んじゃねぇ！！」
　折れそうな程強く自分を抱き締め、庇おうとするギャリーにセリカは目を見開く。守らなきゃ。そう思っていたのに、抱き締めてくる彼の腕を振り解く事はセリカには出来なかった。
　機械人形がまた目の前まで迫ってくる。しかし、その手は抱き合う二人に届く事はなく、何かの衝撃でゴキっと音を立て在らぬ方向へ曲がった。
「…人の恋路を邪魔する奴は、腕を曲げられ壊れちまえって思った。うちが。今」
「…ユリィ。良いアイディアで良い名言だけどそれ既に先人が似た様な事言ってたですの」
「あれ？うちがオリジナルじゃ無い？道理で聞いた事ある感じにしっくり来ると思った」
　先人は偉大だね。そう言いながら現れたのはしなやかな体をコキコキ鳴らしているユリィと、近くにいる人間を避難させているヘレナだった。
「姉ちゃん、うちが引き付けるから早く避難させて」
「了解ですの！！」
　涼しげな顔で機械人形と対峙するユリィ。その背中を預かったヘレナは携帯端末でどこかに連絡すると、駆け付けたデパートの警備員に事情を話し、テキパキと客をデパート内誘導の手筈を整える。そして震えながらぎゅうっ、とセリカを抱き締めたままのギャリーに近付いた。
「だ、大丈夫ですの？」
　その声にやっとギャリーの手が緩まる。彼の力が抜けた事でまともに呼吸が出来たセリカは新鮮な空気で肺を満たそうと息を荒げながらヘレナを見た。
「マシマさん…如何して此方に…？」
「非番だったからユリィと買い物に来たですの！そうしたらいきなり近くで悲鳴が上がったから駆け付けたですの」
「…申し訳ありません…遅れを取って…お休みだったマシマさんとセントラルさんのお手を煩わせてしまいましたぁ…」
「あたしもたまたま運良く処理が出来ただけですの。それに、先にお子さんを守ってくれてたおかげでユリィの不意打ちキックが良い感じに発揮されたですの！」
「うちのキックはそんな名前じゃ無い」
　機械人形の攻撃をいなしながらちゃっかり会話に参加するユリィ。彼女が戦闘をしながらも会話に参加した意図を汲んだヘレナは辺りを見回し「オーケーですの！」とユリィに伝える。
　一般人の避難を終え、子供の目に触れづらくなったのを認識したユリィはその瞬間カッと目を見開き、地面を滑り込む様に機械人形に近付く。そしてすぐ様ヘッドロックを掛けると渾身の力を込めて地面に叩き付ける。その衝撃で弱っていた内部のコードが切れたのか、機械人形は動かなくなった。念の為右耳に指を入れリセットボタンを押し、大人しくなったところでようやくユリィの顔に一仕事終えた様な安堵が戻った。
「椿、怪我はない？えっと…兎頭の人は？」
　ユリィはセリカとギャリーに近付くと心配そうにそう呟く。その手には先程セリカの手から離れた刀が握られていた。セリカは礼を言いながらそれを受け取ると、自分の胸元に顔を埋めているギャリーを見つめた。
「あの…ギャリーさん？」
「………」
「大丈夫…ですかぁ…？」
「セリカちゃん……俺…」
「はい…」
「…やっぱ喧嘩はだめどぉ…腰抜けちまった…」
　そう言って全体重を預ける様に脱力するギャリーの体を支えながらセリカもようやく気の抜けた笑いを見せる事が出来た。実際に足を挫いたのか少し捻挫していた為、肩を貸してやる事にした。
　時間にして僅か数分の出来事。その間に機械人形と対峙して、そして明日をも知れぬ思いをして、彼の必死な顔を見て、仲間に助けられて。
　兎にも角にも、誰一人犠牲にならない今日を迎えられた事にセリカは安堵の笑みを溢した。
　数分後、ヘレナの電話を受け結社から派遣された前線駆除班が到着し、機械人形も回収され事態は収束に向かったのだった。

乗り越えるまでの僅かな間

　ゲンジの手を振り解く様に走って行ったギャリー、結構格好良かったじゃない。アタシ、基本ガチムチっぽい男臭いのが好きだから線の細い女みたいなタイプって好みじゃないんだけど、ちょっと惚れそうになったわ。
　喧嘩がトラウマになったと言っていたのに、痛いのは嫌だと言っていたのに身を挺して好きな女を庇いに行くなんて見直した。
　さて、そうなるともう完全敗北じゃないのよゲンジ。嫌な記憶持ってても気にせず好きな子助けに行けちゃうなんてそんなところ見せつけられたら。全く、本当に可哀想なコ。
「…マネージャー…」
「…何か距離感じるわねー…アンタだっていつもみたいに『シュエメイ』って呼んで良いわよ」
　アタシ達が仲良さそうにしていると商談で二対一になる様な圧を掛けてしまう。「味方と共に臨んでいる」と思わせる姿勢は相手にどんな印象を与えるか分からない。そんな理由でいつもの呼び方を封じていたゲンジ。自分はアタシに自然体で居て良いとか言った癖にね。
　どんな時でも、それこそヌードを撮るなんてなっても恥ずかしいとか嫌だとか言わず、むしろ誰に見せても恥ずかしくない自信の持てる体作りから始めようと厳しいトレーニングに明け暮れたゲンジ。その甲斐あって堂々とフルヌードを飾った彼女には女性ファンも多い。そんな強さを秘めたこの子が、今アタシに見せているのはどこに見せて良いか困るくらい悲しみでぐしゃぐしゃに歪めた顔だった。
「…なんて顔してんのよ」
「だって…」
「なら無理にでも奪えば良かったじゃない」
「…何言ってるの！？それこそ無理に決まってるじゃない！」
「…それに最初から気付いていたなら、もう今日こうして無事フラれただけ良かったと思うしかないじゃない」
　少し前、ゲンジは急にイメージチェンジをすると言い出した。確かに化粧品のプロデュース等で少しずつ話題にはなっていたけれど、ここぞと言うところで今一つ押しが足りないと感じて居たのでその提案もすんなり受け入れられた。
　でもまさか金髪から黒髪にしておまけに前髪まで切り揃え始めると思わなかったからもうびっくりよ。そんな「粛々と」なんて言葉が似合う姿になるなんて思わなかったから。予想に反してゲンジの自信が養われて行ったから何を目指したのかと思ったら、「私の好きな人がこの間一目惚れしたって言う人の特徴を聞いてイメチェンした」ですって。
　馬鹿よ。馬鹿でしょ？最初からそんな負け戦に向かう姿勢でどうするの？しかし現に彼女は売れたし仕事も増えた。予想外だったのは、その仕事の中でゲンジがモデルにした女に出会ってしまった事。
　前髪が綺麗に切り揃えられたショートヘア。射干玉の黒髪に品の良い着物と出立ち。ゲンジの言う特徴にも当て嵌り過ぎているし、やっぱりあくまでモデルにしただけで彼女は彼女の、ゲンジにはゲンジの良さがあるとアタシは思ったわ。けど、どう見ても意中の彼の心はゲンジでは満足しなかったみたいだけど。「恋をしてもっと綺麗なゲンジ・ディルラバを皆に見てもらえるならその方が良いと思ってる。そしてその為に、きっと必要なのはアナタよ」なんて柄にもないお節介をしてしまう程あの子が不利に見えた。
　でも、そうね。例え叶わなかったとしても、やっぱり無駄じゃ無いのよね。この子にとっては、諸々全てが。
　イメージチェンジの為に別の女を参考にした事、でもそれ故に自信を持てた事、好きだった人にフラれた事も、それらを経て今のこの子が居るんだから。無駄な思い出ってきっと何一つない。この子はこれからももっともっと魅力的になれる。
　けれど、その前に。
「…しょうがないわね。アタシの胸貸してあげる。言っとくけど普段は高いわよ？」
「高いならやめるわよ…」
「おバカね。人の好意は素直に受け取るもんよ？」
　吹っ切れるまでは、優しくしてあげても良いかなって思ったわ。全く、好きな男に会いに行くみたく仕事選んでぶつかってフラれて落ち込んで。普段だったら反省文だけどね。
　事態が収まっても何だかんだ理由を付けて彼女を抱き締める手をなかなか離したがらないギャリー。とうとう恥じらったセリカに離せと言わんばかりに頬をつねられる彼を遠目に見ながらアタシはアタシで宥める様にゲンジを抱き締めてやる。本当にもう、報われないコなんだから。
　泣け泣け。吹っ切れるまで泣きなさい。しばらく撮影も何も入ってないからいくらでも目ぇ腫らして良いわよ。

育む人

「なるほど…やっぱり機械人形のオイルって肌には良くないのね…」
「まぁどんなものもそうだろ？水だって付けたまま放置すりゃ潤うどころか過度に乾燥する。いくら人の体から出たものだっつったって人の血も着けたまま放置すりゃァそっから雑菌は沸くし衛生的じゃないのと感覚的には同じ様なモンだ」
　季節的なものもあるのか、少し荒れたアンの手を見ながらゲンジはうんうん頷き、納得した。自分は兎頭国で過ごした時間の方が長いし、感覚的にもカンテ国はやはり「他国」の認識が強い。そしてその「他国」であるカンテ国の人は驚く程機械人形と距離が密接であると言う事は、ここ数日で彼女が学んだ事だった。マルフィ結社を散策すればどこかしこで機械人形は同じ様に働いているし、出先ではセリカが機械人形と対峙したところも間近で見た。それ程までに機械人形と密接なカンテ国。ならばそれを整備する人間の意見を聞かず何とする。
　結社には無法地帯と言われる岸壁街から身を寄せる人間も実力さえあればメンバーとして多く受け入れていると聞き一瞬身構えたゲンジだったが、いざ岸壁街出身のアンと対面してみると口こそ悪いものの意外な程彼女は普通の感性の女性だった。
「あーしは化粧とか興味無ェんだ。正直に言うと」
「あら、勿体無いわ」
「…それはな、そう言う事を楽しめる余裕があるやつのセリフだ。兎に角、あーしは少なくとも体のケアが簡単に出来るならそれはそれで嬉しいんだよ。特に今は手かな…。寒くなると赤切れが酷くなっていけないんだよ」
「なるほどなるほど…分かったわ！貴重な意見どうもね。赤切れは、お洒落とか関係無く痛痒くて嫌だものね」
　アンに礼を言い、部屋を出るゲンジ。そんなゲンジを見たマネージャーは、少し遠い目を向けながら微笑んだ。
「アンタ、大人になったわねー。昔あの子みたいな事言うタイプの子と大喧嘩した事あったじゃない。ちょっと家が貧しい生まれとか何かの子」
「そうかしら？気のせいじゃ無い？」
「え？そうだったわよ？」
「…アレはその子の言い方が悪かったわ。そう言う事に金掛けられるお気楽な余裕があって良いわね、なんて嫌味以外の何物でも無い言葉掛けられたら怒るわよ」
「私が身体を磨くのは遊びじゃ無いって、勝手に余裕な人間にカテゴライズするなって。アンタはアンタで努力の子だったから、ああ言う生まれから既に違う子の価値観を理解出来なくてよく噛み付いてたでしょ」
「今は大人なのよ、私も」
　少しムスッとした様に踵を返すゲンジの肩に手を置くマネージャー。労る様な手付きにゲンジが不可解な顔をしていると、「我慢してるのも大人の自覚があるからかしら？」と彼が呟くのでゲンジは嫌そうに顔を顰めた。
「良いの？ギャリーの事」
「…今は良いの！仕事してる方が気も紛れるわよ」
　そんなゲンジにマネージャーは溜息混じりに呆れた顔を見せた。
　つい昨日、ギャリーとセリカと四人で出掛けたゲンジは思いの丈をギャリーにぶつけた。しかし、ギャリーはゲンジへの返しもそこそこに、彼女の手を解きセリカの元へ向かってしまった。そして足を怪我した彼は結社に着いてすぐ医療班に向かったので今日は顔を出していない。セリカもすぐに前線駆除班メンバーとして呼ばれてから顔を合わせていないので、ゲンジは今日一人で機械班に赴きアンに話を聞いていた。正直昨日の今日で二人と顔を合わせたら少し辛い気もする。大人だし仕事もあるのでそうも言っていられないとも思うが。
　誤魔化す様にずんずん廊下を進み、曲がり角を曲がろうとしてゲンジは誰かにぶつかる。「痛っ」と小さくだが声を上げる程ぶつかってしまったので、マネージャーも慌てて駆け寄って来た。
「す、すみませんうちのディルラバが…！あら？」
「よぉ…」
　痛そうに鼻を押さえて現れたのは渦中のその人、ギャリーだった。
「…あらヤダ、色男のご帰還じゃない。アンタどうなの？足の具合は」
「ああ、ちょっと捻っただけ。いつもと違うところに変な力の入れ方入ったから少し痛めただけってさ」
　そう言いながらも少し誇らしげな様子のギャリーを見てマネージャーからまた溜息が溢れる。
　駄目だわ、どうしようもないくらい報われないのよ。そう言いたげなマネージャーをゲンジが見つめていたので、彼は何かを察すると無言のまま少しその場を離れた。
　昨日のゲンジから想いを告げられて以来、会っていなかった二人。慣れない空気にギャリーが目をキョロキョロさせると、先にゲンジが口を開いた。
「ガリちゃん、私…昨日の事本気よ」
「うん…ありがとう」
「でも、でもねガリちゃん…だからと言って私、別に気にしてたりなんてしてないから。ほら、だってそもそも発端は子供の頃の憧れよ？それが再会して一時的にドラマみたく盛り上がっちゃっただけで──」
「──俺さ、女の子にこんな話するのどうかと思うんだけど…こ、この間所謂女の子向けのAV観てさ…」
　被せる様に口を開いたと思ったら本当にどうかと思う内容で、離れてそれを聞いていたマネージャーは先程とは違う溜息を吐いた。
「そ、それが幼馴染モノだったわけで…」
「…うん、それで？」
「……うん、結構興奮した。…じゃなくて、最初はちょっと良いなーって思ったんだよ。俺にもこんな幼馴染居て、そんな甘い展開になったら夢だよなーなんて。幼馴染が結ばれるって王道で素晴らしい事じゃないかって。そしたらさ、ゲンちゃんとこんな形で再会した」
　ギャリーの言葉でゲンジは泣きそうな顔を彼に向ける。ギャリーは懐かしむ様に優しい顔で、しかし困った様に微笑んでいた。
「…正直、楽しかった。昔の楽しい思い出を共有できる人がいるって、嬉しかった。あんな事あった、こんな事あったよなぁって言い合える人が傍に居てくれるって本当に本当に幸せな事だよなって思ったんだ。俺には母ちゃんも父ちゃんも居ないし、祖父ちゃん達とはどうあったって両親と過ごすより残された顔合わせられる時間って少ないじゃんか。俺と祖父ちゃん祖母ちゃんが作れる思い出は普通の子が両親と作れるそれより短い。そう思ったらさ、これから先そう振り返られる思い出を、俺は一体誰と作って行きたいんだ？って、急に自覚した。将来死ぬかもしれないって時に誰に傍にいて欲しいんだ？って」
　ゲンジはそれを聞き堪え切れず我慢していた涙を溢れさせる。しかし、同時に「ギャリーがそれを強烈に自覚してくれて良かった」とも思う。自分は彼を好きだったけど、正直今も好きだけれど、昔自分を助けてくれた彼と重なって人を庇いに行った姿を見てもっと好きになってしまったけれど、幼馴染として彼の幸せを願って居るのもまた事実だったのだから。
　──例えそれを叶えるのが自分では無かったとしても。

「俺、セリカちゃんが好きだ」

　現実としてそれを突きつけられるのが辛くて、自分の事を拒絶しない彼の優しさが余計に辛い。

「知ってるよ。そんな事」

　だから意地を張った。強がった。貴方と彼女の仲を壊す様な真似はしないから、今くらいはこんな態度も許して、と。
　そう想いを乗せて諦めも乗せて、ゲンジは淡々とそう告げた。もう知ってるよ、と。だって、二人で一緒に部屋に入って来た瞬間から、給湯室で彼女に迫る彼を見てしまった時だって、彼の目に自分が映る可能性が低い事なんて、目に見えていたから。
　それでも、近くまで迫って来たギャリーに頭を撫でられてその強がりは崩壊する。ゲンジが彼の胸に飛び込み声を上げて泣くと、ギャリーは少し躊躇った後彼女の頭だけ自分の方へ抱き寄せた。
「ガリちゃん…！ガリちゃん…！」
「うん…」
「大好き…！大好き…っ！」
　この涙が止まるまでは私だけのガリちゃんで居て欲しい。今この瞬間だけ、最初で最後の私だけのガリちゃんはそんな短い幻の様な時間だけで良いから。

　*　*　*

「セリカさんどう？このハンドクリーム」
「流石ゲンジさん、良いもの選ばれますねぇ。私も炊事をしていてこの時期は手の荒れが気になって来ていたので、基礎化粧品だけも良いですが手や体のケアが出来るものをゲンジさんが出されるなら私も使わせていただきたいですぅ」
「やった！やっぱりセリカさん、話が分かるわ！で？で？好みの使用感とかどうかしら？」
「うーん…これは塗った後浸透するまでの少しの間、ベタ付く感じがするのが気になりますぅ…もう少しサラッとしていたらもっと万人受けするかもしれませんねぇ」
「なるほど！じゃあこっちの商品は！？」
「あ、これ香りも使用感もとても好みですぅ」
　更に二日後。結社では意外にも仲の良さそうなゲンジとセリカの姿がよく見掛けられた。この日、アンのアイディアからハンドクリームやボディクリームの類も着手しようとしたゲンジは自分が愛用している他社の製品を色々と購入し、オリジナル製品開発の為に結社の女性達の意見を第一にしようと考え、先ずはセリカの好みの確認をしていたのだ。
　セリカはクラヴェジーナと言う化粧ブランドのクリームの香りやテクスチャーが好みだとゲンジは知った。何となく彼女らしくて見ていたゲンジは微笑んだ。
「──ねぇ、セリカさん。ちょっと内緒の話しても良い？」
「はい？内緒…ですかぁ？」
「そう、内緒の話…」
　ゲンジは意を決した様にセリカの目を見ると、少し重そうに口を開いた。
「私ね、少し前はこんな黒髪で雅やかな髪型にしてなかったの。金髪だったのよ。その前、デビューしたての頃は茶髪。昔のガリちゃんの写真見て、近い色にしたくて染めたの。こんな黒髪にしたのはね、ガリちゃんのお祖母ちゃんと久しぶりにお話しした時。お祖母ちゃんから、ガリちゃんがカンテ国で一目惚れした人が居たらしいって聞いて。その人がね、黒髪だったんですって」
「は、はぁ…」
　いきなり何の話かとセリカはキョトンとした顔を見せる。と言うかゲンジは金髪だったのか。しかもその前はギャリーと同じ色に染めていただなんて、そんな前から彼を想っていたのかと少しだけちくりと胸が痛んだ。しかしそんなセリカの事など知らんと言わんばかりにゲンジは続ける。
「黒髪でシンプルな服を着た人。そう聞いて、私も黒髪にしたの。でもただ黒く染めただけでシンプルな服装でなんてそんな目立たない格好じゃ職業柄映えないでしょ？だからどうせ黒髪にするならって前髪も切り揃えて思いっきり東國を意識したエキゾチックな雰囲気に方向転換したの。そうしたらね、テロのすぐ後またお祖母ちゃんと話した時教えてもらえたわ。ギャリーは最近仲が良い女性が居るみたいでって。その人の特徴も。どんな人か分かる？切り揃えられた黒い髪に着物の東國っぽい雰囲気の人だって。それ、セリカさんだったのよ。私は黒髪にキャラ付けする為だけに東國を意識したイメージに変えたけど、功を奏したと思ったわ。おかげでガリちゃんの身近に居る女性と近しい雰囲気になれたから再会できた時に彼の心象良いんじゃないかって」
「そ、それは…本当ですか…？本当に、彼がお祖母様に私の事を？」
　自分の知らぬ間にそんなに自分の事を祖母に話していたのかと思うと嬉しいやら少し恥ずかしいやら。しかし、すぐにゲンジの言いたい事はそれとは違うと言う事に気付いてハッとする。ゲンジはぷくっと頬を膨らますと少し潤んだ瞳でセリカを見た。
「でも、会ってみて分かったわ。私が・・そんな格好をしてもきっと意味がないの。格好云々じゃなくて、貴女・・だったからガリちゃんの好きな格好が着物になったのよ」
「そんな事は…」
「無いって言い切れる？今まで本当にガリちゃんが貴女に恋愛感情一切抜きで接してたなんて思ってるの？ガリちゃんって小さい頃から女好きのスケベだったけど、その気も無いのに気紛れでアプローチ掛ける様な事してるなんて思えないわ」
　もう彼の気持ちを聞いているゲンジは言えないもどかしさを抱えながら精一杯言える範囲でそう口にする。セリカはセリカでそれを聞きつい二、三日前のギャリーを思い出していた。給湯室で急に迫って来た彼に驚いた事。そして喧嘩がトラウマだと言っていたのに、自分のところに震えた体で駆け付けてくれた事。
　頬を赤らめたセリカの顔を見逃さず、ゲンジは「思い当たる事あるんじゃない」と呟いた。セリカは益々顔を赤くした。
「分かるのに知らんぷりは人が悪いわ」
「ですが…直接は何も…ギャ──ファンさんは誰にでもお優しい方ですし…それに私は…」
　ゲンジの方がお似合いだったんじゃ無いかと思っていた。そう言おうとしてやっぱり口に出すのは憚られた。言って、彼女が本気でアタックしたら勝ち目なんてやっぱり無いのかも。そう思うと不安だった。
　しかし、本気でアタックして玉砕したゲンジは分かりやすく溜息を吐くとセリカにとって天地がひっくり返る程の衝撃的な言葉を口にした。
「セリカさん、もっと自分をアピールしちゃいなさいよ。はしたないなんて思わずに。あのねぇ、普通の男はそのくらいのアピール引かないわ。セリカさんの思うヤマトナデシコ好きな男のイメージに当て嵌まる奴ってもれなく地雷案件よ」
「うぅっ……！？」
　自分の過去を知らないはずのゲンジにそう言われ何だか傷口を抉られている気分になりながら少し涙目で彼女をじっとり見る。見られたゲンジは嬉しそうにケラケラ笑った。
「ほら、その気になればそんな顔出来るんじゃない」
「そ、そんな顔ってどんな顔ですかぁ？」
「ふふ、挑発的でびっくりするくらい誘ってる様なそんな顔」
　わざと煽る様な言い方をされセリカはまた顔を赤くする。逃れる様にゲンジから目を逸らすと彼女が音もなく目の前まで迫って来て焦ってしまった。兎頭国人って、気配を消して懐に近付く事が得意な人が多いのだろうか？
「ゲ、ゲンジさん…」
「そんな良い体してるのに隠すなんてナンセンスよ？」
　そう言いながら彼女に腕を触られびくりとする。「ほら、肌がこんなに綺麗」と着物に隠れていない部分を触られてセリカは驚きでぱくぱく口を開けていた。
「私はそんな大胆な事出来ないですよぅ…ただはしたないだけになってしまいますぅ…」
「はしたないって言葉、一回頭の辞書から消しちゃえば？」
「む、難しいですぅ…」
「全くもう…」
　景気づけに、と言わんばかりに。ゲンジは着物の上からセリカの胸元を鷲掴んだのだった。
「ほらほらほら！アピールをしなさいアピールを！出しなさい！存分に出しなさい！たまにはセリカさんからモーション掛けて相手を揺さぶってみなさいよ！」
「きゃぁぁぁあっ！ゲンジさん、堪忍してくださいぃ…！」
「その気になれば人を魅了出来る魔性のプロポーションしておいて！！勿体ぶって出し惜しみなんて生意気よ！！」
「勿体ぶってないですぅ！」
「たまには気持ちの赴くまま誘惑してみなさいよ！」
「ゲンジさん！？話が散らかり過ぎて目的がわからなくなってますぅ！」
　ハンドクリーム塗ってて何で急に乳鷲掴んでんのよあの子。
　そう言いたげにマネージャーが冷めた目でゲンジを見た。大方、動きの緩そうなセリカとギャリーを見て余計なお節介焼いたのだろうと思うがその果てに暴走してこんな事になったな、と。
　そして自分の横で包子の入った紙袋を持ちながら現れ共にその様子を見ていたと思ったら片膝立ちでしゃがみ込んだまま動けなくなったギャリーを更に冷めた目で見た。
「で？アンタはそんなところで蹲ってどうしたわけ？」
「……男なら理由分かろうに」
「大方セリカちゃんの『堪忍してください』で余計な事想像したんでしょ。バカねー…アンタ何で今日に限って薄手で目立ちそうな材質の服着てんのよ…」
「い、良いでしょ…？服は趣味だっつの…」
「…それにしても。最初はどうなる事かと思ってたけどアンタとセリカちゃんに担当してもらって正解だったわ。ゲンジあの子がこんなにリラックスした顔で仕事が出来るなんて思わなかった」
「……そりゃ良かった。俺も、大事な友達には笑ってて欲しいよ」
「……そうね…」
　ギャリーは少し恥ずかしそうに「普段はこんな風にならないんだけどなー」と呟きながら立ち上がると優しい目できゃあきゃあ戯れている二人を──正確にはセリカを見つめる。
　まさかひとしきりセリカと戯れ終えたゲンジが自分の昔の恥ずかしい話をありったけ彼女に横流ししているなどとは露知らず。
「──で、私この写真の通り髪は短いし太ってたし、ランニングシャツと汚れたズボンだったから本当男の子にしか見られなかったのよ」
「聞けば聞く程意外ですぅ…」
「それにね、私田舎育ちで親の仕事の都合とかあってよく祖母ちゃんの家預けられたりしてたから一人称まで『俺』だったのよ」
「え！？」
「あら？昔は結構いたのよ。お年寄りとかでそうなる人多いのよ？でも、見た目や喋り方はそうでもちゃんと女の子だったから、その『下半身丸出し事件』の後ガリちゃんの事本気で大好きになっちゃって」
「その名前で浸透させて良いのかご本人の名誉を思うと迷いますねぇ…」
「大丈夫、ガリちゃんのお祖母ちゃんお喋りだから逆にあの村でこの話知らない人は居ないわ」
「…何が大丈夫なのかよく分かりませんが…ギャリーさんお可哀想に、とは思いましたぁ…」
　こんな事を思っていいのかとついセリカは考えてしまうが、ゲンジのギャリーに対する「大好き」の言い方がライトになった気がして少しだけほっとした。
「街から出る時お見送りに来てくれたから私ときめいて思わず聞いちゃったのよ。大きくなったらお嫁さんにしてくれる？って。そしたらガリちゃん何て言ったと思う？」
「…何て仰ったんです？」
「『いや、俺結婚するならおっぱい大きいお姉さんが良い』だって！馬鹿でしょ！？空気なんて読めたもんじゃないし今思い返すとクソガキ・オブ・クソガキよね！？」
「らしい、と言えばらしい答えな気がしますねぇ」
　ギャリーが今まで幼馴染の存在を匂わせなかったのは割と本気でゲンジを男の子だと記憶していたのでは無いかとセリカは考えた。実際それは当たりで、ギャリーは朧げな記憶を辿って昔に帰った時「自分には女の子の幼馴染は居なかった」と思い込んでしまったのだ。果たしてその認識が無ければゲンジが彼の横を歩いていた事もあったのかと考えたが、彼女がセリカに対して口にしたのは「どっちにしろ私の事なんて眼中に無かったのよ」だった。そんな事ないですよ、とも軽はずみに言えずセリカは困ってしまう。
「ねぇ、セリカさん。ガリちゃん、ちゃんと人を拒否する事も出来るわ。好意を持たれたからって、相手が傷付いたら可哀想だからって受け入れる程いい加減じゃ無いし」
「それは…知ってますよぅ…」
「良かった…セリカさん、ちゃんとガリちゃんの良いところ、知っては居てくれてるのね。ガリちゃんの事優しいって思うなら、それはセリカさんだからかもしれないってもう少し自信持って良いのよ？」
　そう言ってゲンジは満足げに笑う。すると、二人の背後から遠慮がちにギャリーが声を掛けた。
「あのー…そろそろ休憩とかどう？俺ほっぺ饅買って来たけど」
「やった！流石ガリちゃん！私カスタードが良いわ！」
　そう言ってセリカの目には区別の付かない、どれもつるんっとした皮のほっぺ饅から迷う事なく一つを手に取り口に運ぶゲンジ。流石にこれにはギャリーも驚いた様で、ゲンジのほっぺ饅ファンの度合いに舌を巻いた。
「はい、セリカちゃんにはコレね」
　すっと取り出されるほっぺ饅。セリカが受け取ろうと手を伸ばすとギャリーはそんなセリカの手から逃げる様にすいっとほっぺ饅を持つ手を動かした。
「ギャリーさん…？」
「いや、だって手にハンドクリーム付いてるでしょ？」
「あ。そ…そうでしたぁ…びっくりしましたよぅ…意地悪されたかと思っちゃいましたぁ…」
　そう言って少し頬を赤らめるセリカを見てにやりといやらしい笑みを浮かべ「そうそうあくまで親切です」と言わんばかりにギャリーはセリカの口元にほっぺ饅を運ぶ。
「俺は親切しかしないでな。ほれ、セリカちゃん。はい、あーんっ」
「………」
「ほれ茸だよー、セリカちゃんのだーい好きな茸だよー。俺が食べさせてあげるからお口開けて？」
　何だか含みを持たせた言い方だし、公衆の面前で「あーん」をさせるなんてセリカにとっては羞恥プレイ以外の何物でも無く変な悪戯をするギャリーに少しだけムッとする。
「私、手を洗って来ますぅ」
「嘘ですごめんなさいおしぼりありますどうぞ好きなだけお食べください」
　怒りを「手を洗って来ます」の言葉に遠回しに込めてやると意外な程ギャリーに効いた。意思の疎通が図れたことが嬉しくて「少しの無礼ならまあ許してやろうか」とセリカも思った。
　黙々とカスタードを口に運びながらそんなギャリーとセリカを見てゲンジは吹く様に笑う。ずっとずっと昔のガリちゃんが好きだったけど、今の少し間抜けなガリちゃんはもっと好き。そしてそんな彼を引き出してくれたのって、悔しいけどセリカさんなのよね。
　やっぱり悔しい程二人の距離って近いじゃない、と。

　*　*　*

　滞在の期間はあっという間で、気付けば結社での仕事は今日が最終だ。最後に各部署に挨拶で回っていたゲンジは、少し躊躇いながら経理部のドアを開ける。一番最初に目に着いたのは、手入れの行き届いた金髪に緑色の瞳だった。
「ん…？貴女は…？」
　長い睫毛を瞬かせキョトンとした顔で此方を見る彼。ゲンジはハッとして挨拶で回っていると言う旨を伝えた。
「ああ…貴女がディルラバさん…わざわざご丁寧にありがとうございます。すみません、仕事が立て込んでいて一度もご挨拶に伺えず…」
「いいえ、私もきちんと結社の皆さんのお顔を見ておきたいと思って…驚いたわ…随分綺麗なお髪でいらっしゃるのね」
「え？実家から送られて来たシャンプーを適当に使っているだけですが…ところで、ウチのギャリーは貴女の傍に居て失礼をしていなければ良いのですが…」
　ゲンジはその一言でピンと来た。彼はおそらくギャリーの言っていた「口煩いギルバート」じゃ無いだろうか。名前を聞いてみると彼はギルバート・ホレス・ベネットと名乗り、すぐにギャリーから聞いたのかと確認した。そうだと答えるとギルバートは少し眉間に皺を寄せ「どうせ碌でもない説明でもしたのだろうな」と分かりきった溜息を吐いた。
　彼はギャリーのそう言う面を見ている上でそれを許容してくれている間柄なのか。そう思うとゲンジは少し安心した。ギャリーを赦してくれる人間がセリカ以外にも結社に居てくれる事がゲンジは嬉しかった。
「ふふ。貴方みたいな人が彼の傍に居てくれるなんて心強いわ」
「一時期は本当に水と油みたいな関係だったがな…そこに座っているアルヴィ・マルムフェのおかげで少し冷静になれたんだ。まあ、それでもよく目を凝らして見ればギャリーは僕が持ち得ない良さを持っている人間ではあったから…」
「それで仲良く仕事してるのね。凄い事だわ」
「少なくとも仲良くは無いな。彼がサボって僕が怒りまくっているのが未だに名物の如く言われるくらいには。ところで、ディルラバさんと言ったか？貴女は…先日雑誌で名前を見かけた時から気になっていたのだが…もしかして、オーロラ出版社主催のミスコンでミス・ナチュラル賞取られていた方か？」
　そう言われ、思わずギルバートの顔を見つめてしまったゲンジ。ギルバートは「ああ」と声を上げるとまた口を開いた。
「あの時オーロラ出版社の関係に僕の親戚が居てな。ツテがあって客席に僕も座らせてもらっていたんだ。その時珍しい名前だったから驚いた。兎頭国人は名を自分で付けると聞いてもっと驚いたが」
「貴方…あの時いたの…？じゃあ、今となってはお見苦しいもの見せちゃったわね。まだ色々と荒削りで垢抜けなかったと思うから…」
「荒削り？いや、君は当時から充分美しかったと思うぞ？」
　真っ直ぐな瞳で「何を言ってるんだ？」と言わんばかりに迷いなくそう言われ、ゲンジは言葉に詰まってしまった。
「そ、そうかしら？」
「ああ。今くらいの髪色だったよな？懐かしい。あの時少し慣れない感じで…しかし堂々とされていた君は美しかった。当時僕はまだ十代でああ言う大人の多い場所は苦手でな…そ、それに水着の女性ばかりで目の遣り場に困ったと言うか…何で呼ばれたのだろう？とか、早く帰りたいとか思ったものだが、真剣に臨む君を見て考えを改めたよ。受賞された後しばらくは兎頭国とカンテ国を行ったり来たりされていたよな？カンテ国に拠点を移したのは最近か？どうだ？カンテ国は」
　意外と話しやすくぐいぐい来るギルバートに少し圧倒されながらもゲンジの顔に浮かぶ笑顔は増えて行き、気が付けば十五分は二人で色んな事を話していた。時間の経過に気付いたのはマネージャーに声を掛けられた時だった。
「ディルラバさん、そろそろ…」
「え？もうそんなに経ったの？」
「ええ。他にも挨拶に回るならば切り上げないと」
「残念だわ…もっとお話ししたかったのに」
「僕も残念だ。でも、あの時僕の意識を変えてくれた君にまた会えて良かったよ、ディルラバ」
「私もよ。あ、今度から私の事はゲンジって呼んで？」
「ゲンジ？兎頭国人にはあだ名を呼ぶのが礼儀と聞いたが？」
「そうだけど。だって、貴方と私が出会ったここはカンテ国でしょ？」
　名残惜しそうにギルバートから離れるとゲンジはマネージャーにくっ付いて次の場所に向かった。マネージャーはゲンジからギルバートと話が盛り上がった理由を聞くと大層驚いたのか、何とも気の抜けた声を上げた。
「…アラ、あんな小綺麗な坊ちゃんも袋とじなんて開けるのね」
　ゲンジがここ最近で名前を載せた雑誌は週刊誌、しかも袋とじでフルヌードを飾っていた。ギルバートは「先日雑誌で名前を見かけた」と言っていた。となるとおそらく、彼が見ていたのはグラビアを載せた雑誌だと容易に想像出来てしまい、マネージャーもゲンジも意外そうな顔をした。
「ふふ、可愛かったわよね。あのお貴族君…」
「アンタ、ギャリーにフラれたからってあの坊やに乗り換えるの？趣味悪いわー…」
「何でよ。シュエメイの趣味なんて聞いてないでしょ？」
「にしてもあのやわそうなのは無いわよ」
「そんな事ないわよ、意外と強いわよああ言うタイプ」
　実際にはギルバートは雑誌を読んでいなかったわけだが。しかし過去の自分を知る人に会い笑顔の戻ったゲンジにとってはその辺りの真偽はどうでも良かった。
　それよりも、少し未熟だと思っていた過去の自分を受け入れてくれる人に会えた事が嬉しかったのだ。それこそ彼女を失恋の痛手から立ち直らせる程には。
「ギルバート、彼フリーかしら？」
「やっぱ趣味悪いわよアンタ」
「シュエメイはガチムチ以外認めない悪い癖捨てた方が良いわ」

仄かに灯る新たな灯り

　電車の窓から此方を見、手を振るゲンジにセリカも振り返す。彼女が結社から出て行く日、ギャリーと一緒に見送りに来たセリカは嵐の立ち去りにひと段落付いた安堵の顔を見せた。
　ゲンジとは思った以上に仲良くなり、最終的に連絡先まで交換した。今まで接した事の無い珍しいタイプの彼女と仲良くなれると思っていなかったのでそれは素直に嬉しかった。ギャリーはゲンジとマネージャーを乗せた電車が見えなくなるまでそちらを見つめていた。何となく、結社にいる数日の内に二人の間に何かあった様な気がするが、セリカはそれを上手く聞けなかった。
　何も言わないがその代わり、電車を見届けたギャリーは振り返るとすっと手を差し出してくる。思わず首を傾げると、彼は苦笑しながらセリカの手を取り指を絡めた。
「ギャリーさん…」
「さ、帰ろっか」
「あの…」
「やっと二人っきりになれたし、手ぇ繋いで帰らない？」
　断る理由も無いので頷くと、ギャリーは嬉しそうに微笑んで繋いだ手に力を込めた。他愛もない会話をしていると結社までの道も何だか早く感じてしまう。もう少しで本部の建物が見えて来る、と言うところまで来た時、ギャリーは「ああ、そうそう」と言いながらごく自然にセリカと繋いだ手をするりと解いた。そして懐をゴソゴソ漁り始める。
「じゃーん！見てこれ」
　ギャリーが取り出したのはパステルなピンクや水色の球体だった。
「あ、もしかしてそれは…」
「そう、バスボム。俺が作った」
「え？手作りなんですかぁ？」
「へへっ。ゲンちゃん達と買い物行った時さ、実は買ってたんだよね。重曹とかクエン酸とか。意外と可愛く出来たかな？って俺は思ってんだけど」
　作ったそれをギャリーはセリカに手渡そうとするが、セリカはやんわり首を振った。リリアナに渡すなら、あの子にも直接お礼を言うと言う経験をさせた方が良いと思ったのだ。それに、これだけ一生懸命作った可愛いバスボムだ。リリアナがどれだけ喜ぶか作った本人が間近で見ていた方が良い。
「それはギャリーさんが渡してください。リリアナちゃんもお兄ちゃんに直接お礼を言いたいだろうし、リリアナちゃんがどれだけ喜んでくれるかギャリーさんに見てもらいたいですぅ」
「あー…それもそうさな…うん、じゃあこのままリリアナちゃんとこ向かうか。どう？意外と器用なもんでしょ？」
「ふふ、ええ。工作お得意なんですねぇ」
「試しに一個水張った洗面器の中で使ってみたんだけどね、女の子こう言うの好きなんだろうなって思ったわ。しゅわしゅわーって炭酸が弾けてカラフルな色が広がって、きっとお風呂がアイスクリームみたいな色になるよ」
「ふふふ、お風呂がアイスクリームみたいな色になるなんて素敵ですぅ」
　そう言いながら、セリカはギャリーの服の袖を指で摘んだ。バスボムの話題で上手くそらされてしまったけど、分かっている。このまま手を繋いで行ったら自分が恥ずかしがると分かっていて結社が見えた瞬間それとなく手を解いてくれた事。
　ゲンジがギャリーの昔からあるこう言う優しさを好きになったと言うのなら、それは自分もすぐ分かってしまう彼の良さだった。
「セリカちゃん…？」
「あの…ギャリーさん…」
「何…？」
「も、もう少し…もう少しだけ、そのぅ…」

　手を繋いで帰りませんか？なんて、はしたなくて言えないと思っていたのに。
　この人ならそれも受け入れてくれるかもなんて、そんな事を思ってしまうなんて。

「…まだ、手ぇ繋いでて良いの？」
「は、はい…」
　ギャリーは嬉しそうにセリカと手を繋ぎ直すと、「じゃあもう少しだけ」と笑った。今までにないくらい嬉しそうに笑っていた。
　結社本部のドアの前まで近付いた時、今度こそ手を解いたギャリーにセリカは不思議な感情を抱いていた。ゲンジにそう言われたから余計に意識してしまうのだろうか？
　──ギャリーが優しいのは、相手がセリカ自分だから──
　そんな恥知らずな事を思って良いのだろうか？
　でも、そうだったら良いなと思う程には彼の事を好意的に見ている事は自覚してしまった。
　そんな感情を引き出して行くなんて、やっぱりゲンジさんは侮れない。
　密かにそんな事を考えながら、いつもより近い距離のままセリカはギャリーと共にドアを開けた。

「一週間お疲れ様」

　その言葉はどちらともなく出たもので、セリカもギャリーも台風の様に振り回して行ったゲンジを思い出してくすりと笑った。

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