赤い悪夢と白い月／涼風慈雨
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g_a3b2c3o12 2021年01月31日(日) 23:00:31履歴
背中が霧に消える。
「待って！行かないで！」
叫んだ声はその背中に届かず消えていく。追いかけようとした足元には無数の手が伸び、行かせないように掴んでいる。引き剥がそうにも握力の強い手は離れてくれない。
伸びてくる手は次第に全身を包み込み、口を塞ぎ、漆黒の闇に引きずり込んだ。
縛った髪を力任せに掴まれた衝撃と痛みで息が詰まる。目を開けても、何も見えない。
『おい、このチビが新入りだってよ』
『なんだコイツ？赤毛じゃねーか』
『赤毛は怒りん坊のシルシなんだってなー！？』
揶揄う笑い声が闇に響く。ぼんやり見えた声の主達の輪郭は子供のようだった。
『おい、怒れよ』
『そーだ、そーだ！怒ってみせろよ！』
『やーい、にんじん頭ー！』
喉元まで競り上がった怒りで気持ち悪い。でも、どんな抵抗をしたって此奴らを喜ばせるだけだ、怒っても仕方ない。仕方ないんだ。
『さっきセンセーが言ってたけど、コイツ、名前が3つあるんだって』
『はぁ？』
『スカした奴だな。3つとか贅沢じゃねーか』
『“オキゾクサマ”ってヤツかもなー！』
『こんなとこにいるわけねーだろー』
また、嘲笑する声が響く。相変わらず濃い闇のままで、いる場所も相手の様子も何もわからない。
“オキゾクサマ”。お貴族様。この国のてっぺんに君臨するエリート集団。関わりなんて端からない。
『なんか言えよ！』
腹に鈍痛が響いた。
『つまんねぇヤツだな、“オキゾクサマ”って奴はよぉ！』
頬に鮮烈な痛みが響いた。口の中に鉄の味が広がる。
『コイツの根性、試してみよーぜ？』
火の臭い。熱せられた灰。押さえつけられる腕。
答えるな。応えるな。何も言わずに耐えていればそのうち飽きて離れていく。だから、黙って耐えなければ。無感覚に。何も考えなければ、痛くない。辛くない。急所さえ気をつけていれば。
そのはずだった。
『弱いもの虐め？』
冷たいミサキの声が響いた。俯いた顔を声の方へ向ける。
なんで、ここにいる？早く、逃げて。離れて。自分の事はいいから、逃げて。ミサキじゃ殺される。そう言おうとしても声が出ない。踵が鳩尾に食い込んでいる。その間に足音は近づいてくる。
『んだよ、マセガキ！てめぇも殴られてぇのか！？』
『拳でしか考えられない低脳』
ミサキ、それ以上言うな！火に油を注ぐことを言うな！とにかく逃げろ！
必死に念じても届かない。暗闇の中でもミサキが相手を睨みつけているのが容易に想像できた。そして、殴られて吹き飛ばされたところまで。
隣にミサキが蹴られて転がされ、頭から血が流れているのが何故かわかった。
ミサキに手を出すなら話は別だ。押さえつけている相手の足を渾身の力で払うと、ミサキを抱き抱える。だが、体温を感じなかった。
絶望。
『まとめて海神の子にしてやる！』
荒々しい大声と共に、凄まじい衝撃が全身にのしかかる。
金属片が床に落ちる涼しい音が響いた。
「……ぇ！アン姐！」
肩を激しく揺らされた衝撃で目が覚めた。腹の上でマジュが馬乗りになっている。
「うぷ……重い、マジュ」
「アン姐、起きた！良かった！」
腹の上から滑り落ちたマジュが首にかじりつく。時計を見ると夜明けにもならない時間だった。喉が痛い。心臓の鼓動が速くて苦しい。
「マ、ジュ……何か、あッたのか？」
「あのね、アン姐ずっとうなされてたんだよ。それでね、なんか息がうるさいなって思ったから起こしてみようって」
夢、だったのか……それにしてはやたら生々しかった。本当に殴られたわけではないのに、まだ鳩尾が痛む。
「アン姐〜！」
半分に泣き声になったマジュが不思議なほど縋りついてきた。
「悪ィな。心配、かけちまッて」
息を整えながらマジュの頭をそっと撫でる。半身を起こし、マジュを毛布ですっぽり覆って抱きしめる。
「あーしは大丈夫だから。マジュは寝ろ。明日もあンだろ？」
「アン姐……」
頭を撫でている間に涙の白いスジを残し、腕の中でマジュの瞼が落ちた。起こさないようにマジュのベッドにそっと寝かせる。
悪夢の残り香は凄まじく後を引き、寝る気分にすらなれなかった。
「マジュに心配されるほど、うなされていたのか……」
灯りはつけず、上着を羽織って1人で窓から白い月を見上げる。
「外も、壁も、大差ねェな……」
岸壁街が崩壊した後、避難所から結社に拾われて。仕事ができて、マジュを食わせてやれるならなんでもいいと最初は思っていたが、段々同僚の嫌なところも目に入るようになった。
岸壁街出身者というだけで差別的な視線を受けるのは元から覚悟していた。当然だ。生まれながらの負け組をすんなり受け入れられたらその方が戸惑う。何を言われても、孤児院で受けた仕打ちに比べればなんてことはない。本当の事を言われたまでだ。誤解があるならゆっくり解いていけばいい。
そう、孤児院に比べれば。なんてこと、ない。なんてこと。
生物としての生存欲求が強ければ、受ける暴力の理由もまだ理解できる。だが、衣食住がそれなりに保証された場合に次に求めるのは社会的承認だ。親に捨てられ、社会的にも捨てられた子供達は愛情に飢えて共喰いを始める。
その中で、自分は食われるのが嫌だから誰かに求めるのをやめた。何も言わず、ただ黙って耐えれば大抵の事はいつか過ぎ去っていく。過ぎ去れば痛みも忘れられる。だから、諦めで全部蓋をした。辛くても、痛くても。最初は違和感があっても、次第に慣れていく。
自分にデートを申し込んだ彼奴はきっと、愛情も生も平等に存在するものだと勘違いしていたのだろう。マジュとミサキが無事なら自分はそれ以上はなにも要らない。それ以上は、高望みだ。煤まみれの自分なんかじゃなくて、別の誰かに向けて欲しい。けど、あの後で何やらごねて辞職されたのは流石に後味が悪い。もっと、傷つかない方法があったか……どうだか。
「……悪ィけど、後悔はしてねェ」
人はいつか死ぬ。それが今日か明日か数年先か、誰にもわからない事だ。昨日笑ってた子供が翌日には骸になる。明日の希望を語っていた奴が消えている。ただ長生きすれば偉いかと言えばそんな事もなく、立派な夢を掲げて早死にすれば偉いかと言えばそんな事はない。生は不平等で、死は誰にでも平等だ。だから、誰かを不必要に持ち上げる意味がわからない。刹那主義というわけでも無いが、明日死んでも後悔しない道を選びたい。それだけだ。
気付けば、首から下げた金属片を掴んでいた。何が書いてあったのかもうわからないが、孤児院に入った時からの唯一の持ち物だ。何か豪華な花が掘り込まれていたと記憶しているが、もうわからない。人の記憶も同じだろう。風化して消えていく。嫌だった事も嬉しかった事も、いつか溶け合って消えていく。
「月が見えンだなァ……」
ふと、マジュのお守りで月見会に出た事を思い出した。その時、人の多いところに珍しくギルバートがいた事も。
『本当に……月が綺麗だな』
なるほど、そうか。そうだな。淡くて冷たい月光は確かに煤けた自分を浄化してくれるような気がする。
「本当に、月が綺麗だ」
「待って！行かないで！」
叫んだ声はその背中に届かず消えていく。追いかけようとした足元には無数の手が伸び、行かせないように掴んでいる。引き剥がそうにも握力の強い手は離れてくれない。
伸びてくる手は次第に全身を包み込み、口を塞ぎ、漆黒の闇に引きずり込んだ。
縛った髪を力任せに掴まれた衝撃と痛みで息が詰まる。目を開けても、何も見えない。
『おい、このチビが新入りだってよ』
『なんだコイツ？赤毛じゃねーか』
『赤毛は怒りん坊のシルシなんだってなー！？』
揶揄う笑い声が闇に響く。ぼんやり見えた声の主達の輪郭は子供のようだった。
『おい、怒れよ』
『そーだ、そーだ！怒ってみせろよ！』
『やーい、にんじん頭ー！』
喉元まで競り上がった怒りで気持ち悪い。でも、どんな抵抗をしたって此奴らを喜ばせるだけだ、怒っても仕方ない。仕方ないんだ。
『さっきセンセーが言ってたけど、コイツ、名前が3つあるんだって』
『はぁ？』
『スカした奴だな。3つとか贅沢じゃねーか』
『“オキゾクサマ”ってヤツかもなー！』
『こんなとこにいるわけねーだろー』
また、嘲笑する声が響く。相変わらず濃い闇のままで、いる場所も相手の様子も何もわからない。
“オキゾクサマ”。お貴族様。この国のてっぺんに君臨するエリート集団。関わりなんて端からない。
『なんか言えよ！』
腹に鈍痛が響いた。
『つまんねぇヤツだな、“オキゾクサマ”って奴はよぉ！』
頬に鮮烈な痛みが響いた。口の中に鉄の味が広がる。
『コイツの根性、試してみよーぜ？』
火の臭い。熱せられた灰。押さえつけられる腕。
答えるな。応えるな。何も言わずに耐えていればそのうち飽きて離れていく。だから、黙って耐えなければ。無感覚に。何も考えなければ、痛くない。辛くない。急所さえ気をつけていれば。
そのはずだった。
『弱いもの虐め？』
冷たいミサキの声が響いた。俯いた顔を声の方へ向ける。
なんで、ここにいる？早く、逃げて。離れて。自分の事はいいから、逃げて。ミサキじゃ殺される。そう言おうとしても声が出ない。踵が鳩尾に食い込んでいる。その間に足音は近づいてくる。
『んだよ、マセガキ！てめぇも殴られてぇのか！？』
『拳でしか考えられない低脳』
ミサキ、それ以上言うな！火に油を注ぐことを言うな！とにかく逃げろ！
必死に念じても届かない。暗闇の中でもミサキが相手を睨みつけているのが容易に想像できた。そして、殴られて吹き飛ばされたところまで。
隣にミサキが蹴られて転がされ、頭から血が流れているのが何故かわかった。
ミサキに手を出すなら話は別だ。押さえつけている相手の足を渾身の力で払うと、ミサキを抱き抱える。だが、体温を感じなかった。
絶望。
『まとめて海神の子にしてやる！』
荒々しい大声と共に、凄まじい衝撃が全身にのしかかる。
金属片が床に落ちる涼しい音が響いた。
「……ぇ！アン姐！」
肩を激しく揺らされた衝撃で目が覚めた。腹の上でマジュが馬乗りになっている。
「うぷ……重い、マジュ」
「アン姐、起きた！良かった！」
腹の上から滑り落ちたマジュが首にかじりつく。時計を見ると夜明けにもならない時間だった。喉が痛い。心臓の鼓動が速くて苦しい。
「マ、ジュ……何か、あッたのか？」
「あのね、アン姐ずっとうなされてたんだよ。それでね、なんか息がうるさいなって思ったから起こしてみようって」
夢、だったのか……それにしてはやたら生々しかった。本当に殴られたわけではないのに、まだ鳩尾が痛む。
「アン姐〜！」
半分に泣き声になったマジュが不思議なほど縋りついてきた。
「悪ィな。心配、かけちまッて」
息を整えながらマジュの頭をそっと撫でる。半身を起こし、マジュを毛布ですっぽり覆って抱きしめる。
「あーしは大丈夫だから。マジュは寝ろ。明日もあンだろ？」
「アン姐……」
頭を撫でている間に涙の白いスジを残し、腕の中でマジュの瞼が落ちた。起こさないようにマジュのベッドにそっと寝かせる。
悪夢の残り香は凄まじく後を引き、寝る気分にすらなれなかった。
「マジュに心配されるほど、うなされていたのか……」
灯りはつけず、上着を羽織って1人で窓から白い月を見上げる。
「外も、壁も、大差ねェな……」
岸壁街が崩壊した後、避難所から結社に拾われて。仕事ができて、マジュを食わせてやれるならなんでもいいと最初は思っていたが、段々同僚の嫌なところも目に入るようになった。
岸壁街出身者というだけで差別的な視線を受けるのは元から覚悟していた。当然だ。生まれながらの負け組をすんなり受け入れられたらその方が戸惑う。何を言われても、孤児院で受けた仕打ちに比べればなんてことはない。本当の事を言われたまでだ。誤解があるならゆっくり解いていけばいい。
そう、孤児院に比べれば。なんてこと、ない。なんてこと。
生物としての生存欲求が強ければ、受ける暴力の理由もまだ理解できる。だが、衣食住がそれなりに保証された場合に次に求めるのは社会的承認だ。親に捨てられ、社会的にも捨てられた子供達は愛情に飢えて共喰いを始める。
その中で、自分は食われるのが嫌だから誰かに求めるのをやめた。何も言わず、ただ黙って耐えれば大抵の事はいつか過ぎ去っていく。過ぎ去れば痛みも忘れられる。だから、諦めで全部蓋をした。辛くても、痛くても。最初は違和感があっても、次第に慣れていく。
自分にデートを申し込んだ彼奴はきっと、愛情も生も平等に存在するものだと勘違いしていたのだろう。マジュとミサキが無事なら自分はそれ以上はなにも要らない。それ以上は、高望みだ。煤まみれの自分なんかじゃなくて、別の誰かに向けて欲しい。けど、あの後で何やらごねて辞職されたのは流石に後味が悪い。もっと、傷つかない方法があったか……どうだか。
「……悪ィけど、後悔はしてねェ」
人はいつか死ぬ。それが今日か明日か数年先か、誰にもわからない事だ。昨日笑ってた子供が翌日には骸になる。明日の希望を語っていた奴が消えている。ただ長生きすれば偉いかと言えばそんな事もなく、立派な夢を掲げて早死にすれば偉いかと言えばそんな事はない。生は不平等で、死は誰にでも平等だ。だから、誰かを不必要に持ち上げる意味がわからない。刹那主義というわけでも無いが、明日死んでも後悔しない道を選びたい。それだけだ。
気付けば、首から下げた金属片を掴んでいた。何が書いてあったのかもうわからないが、孤児院に入った時からの唯一の持ち物だ。何か豪華な花が掘り込まれていたと記憶しているが、もうわからない。人の記憶も同じだろう。風化して消えていく。嫌だった事も嬉しかった事も、いつか溶け合って消えていく。
「月が見えンだなァ……」
ふと、マジュのお守りで月見会に出た事を思い出した。その時、人の多いところに珍しくギルバートがいた事も。
『本当に……月が綺麗だな』
なるほど、そうか。そうだな。淡くて冷たい月光は確かに煤けた自分を浄化してくれるような気がする。
「本当に、月が綺麗だ」
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