桂男の如き君にぞありける／べにざくろ

月の光に導かれ

　満月シカリチュプに照らされた結社の廊下をウルリッカは独り歩いていた。
　今日はウルリッカの所属する前線駆除リンツ・ルノース班第六小隊は昼の支部勤務の日であった。予定ではもっと早く結社に戻って来られるはずだったのだが、小隊長のユウヤミ・リーシェルがポツリと「今日は時間通りに帰れない気がするねぇ」と呟いた通りに機械汚染マス・ズギサされた機械人形マス・サーキュが現れて事後処理で遅くなってしまったのだ。
　第六小隊にはウルリッカの兄であるアルヴィを主人マキールと登録した機械人形のシリルが所属していて「ワタシはウルちゃんのお目付け役よ」と言いながらいつも付いて歩いているのだが今はいない。先の機械人形との戦いの中で少々暴れすぎたようでメンテナンスが必要となり機械マス班行きになったからだ。
　だから、月明かりだけの廊下をウルリッカは独り進む。しかし暗くて怖いとか独りが怖いという感情はウルリッカにはなかった。そんな感情を抱いていてはマタギとして山になんて篭れないし猟なんて出来ないからだ。
　恐怖心の代わりにウルリッカの心を占めているのは空腹感だった。
　遅くなってしまったせいで食堂は使用出来ないし、アルヴィの所で夕ご飯を作って貰おうとしたがシリルが居ないせいで兄と２人きりになるので却下した。そして、さすがに家族以外の赤の他人に「ご飯ちょうだい」と迫る程の図々しさはウルリッカも持ち合わせておらず、部屋に何か食材の備蓄はあっただろうかと頭を悩ます。
　その時、何かしらの声が聞こえた気がして思わず立ち止まった。
　何を話しているかまでは距離があるらしく分からないが、それは男女の声のような気がする。
　猟に出た時に獣の声を拾おうとする時のようにウルリッカは聴力に集中しながら再び歩き始めた。元々向かおうとしていた方向から声が聞こえているような気がしたので空耳だったとしても損は無い。
　やがて近付くにつけて声が明瞭になり、声の主が誰だか判別がつくようになってくるとウルリッカの足は自然と早まった。早歩きが小走りへと変わる。
　声が聞こえてきていたのは電気の点いた休憩所だ。そこに飛び込むように入りながら、期待の意味を込めて彼の名前を呼ぶ。
「ギャリー！」
「おどけたぁ……ウルちゃんか」
　言葉通り驚いた様子を見せながらウルリッカを見つめたのは予想通りの人物であるギャリー・ファンだった。そんなギャリーの隣には少し距離を空けてセリカが微笑んで座っている。長椅子の端と端に座るようにしている２人の間にあるのは、ウルリッカがギャリーなら必ず持っていると期待しているもの――食べ物が置かれていた。
「今晩和、マルムフェさん。支部勤務お疲れ様ですぅ」
　所属する小隊が違うとはいえ同じ前線駆除リンツ・ルノース班のセリカは他隊のシフトも頭に入っているらしい。そんなセリカがいつも以上に柔らかい表情を浮かべているのは周囲に漂う匂いから察するに手にしている酒のせいか、はたまた他の理由があるのだろうか。
「こんばんは、セリカ。今やっと帰って来れたの」
「そうだったんですねぇ」
　セリカと会話をしながらもウルリッカの目は２人の間にある食べ物が入っているらしき袋に釘付けだった。読めないけれど兎頭国の字が書いてある袋で、そこからは酒の匂いに負けない美味しそうな匂いが漂ってきているのだ。
　そして、そんな目線に気付かないほどギャリーは鈍感な男ではない。笑みを浮かべると袋を持ち上げてウルリッカに見せるようにして口を開く。
「ということは夕飯まだでしょ？あがっとくれや」
「うん！」
　ウルリッカの期待通り、ギャリーは食べ物を持っていたし分けてもくれた。近寄っていって袋を覗き込めば包子パオズ達がウルリッカに食べられるためにそこに居た。
　ギャリー曰く、その包子パオズは『兎頭国からの直輸入のタネが自慢の“ ほっぺ饅 ”という名前のお店のもので、名前の通りほっぺたみたいにモチモチしてて美味しい』らしい。それを大人しく聞いていたセリカがギャリーに向かって揶揄うように微笑む。
「あらぁ？何方どなたかからの受け売りのような言葉ですねぇ、ファンさん？」
「セリカちゃん……茸は残しておくから許して」
「許すも何も私は怒ってませんよぅ」
　ギャリーとセリカの会話の意味はウルリッカには分からなかったが、２人とは別の椅子に座ってターニップの入った包子パオズのモチモチ感を楽しむ方が忙しいので何かを言うことは止めた。何とか喧嘩は犬も食わない、と言うし第六の猟犬・としては、それを食うより包子パオズが食べたい。
　ギャリーの先程までの「ほっぺ饅」の説明は、初めて「ほっぺ饅」の店を見つけた時に彼女・・がギャリーに言っていたものと同じだったことをセリカは聞き逃していなかった。モヤモヤとする思いを吹き飛ばすように手にしている杯の酒を一息に呷る。
　着物姿のセリカが飲んでいる酒となれば清酒が似合うだろうが、此処はカンテ国。ヴォートカ・ベルトのお国柄に相応しく、フレーバード・ヴォートカだ。酒自体を滅多に飲まず、集落コタンの実家では爺様婆様が飲む稗酒トノトなどしか見たことの無いウルリッカの目に、そのヴォートカは新鮮に映った。
「セリカ、それ何？」
「“ ル・オランジェ ”ですぅ。オレンジの入ったヴォートカですよぅ」
　柑橘の芳醇な香りが包子パオズを食べ終えたウルリッカの鼻を擽る。黒目がちな目で其れをじっと見つめているウルリッカに、セリカは自分の杯を差し出した。
「飲みますかぁ？」
「うん」
　セリカから杯を受け取って一口飲んでみると、柑橘の香りとヴォートカの焼けるような感覚がウルリッカを襲った。初めてのヴォートカだが、柑橘のおかげで飲みやすく悪くない。
「……おいしい」
「良ければもう少しどうぞぉ」
　セリカに薦められるまま、もう一杯。もう、一杯。
「どうしてココでお酒飲んでるの？」
　何杯目かのヴォートカを口に運んだ後、ウルリッカは２人に疑問をぶつけた。包子パオズを食べさせて貰いお酒を飲んだ事で空腹感が少し紛れて、ようやく食糧以外のことに意識が向くようになったのだ。
「俺とセリカちゃんは、ゲン……ディルラバの相手をしてたからお疲れ様会的なものかな」
　ウルリッカの疑問にギャリーが答える。支部勤務が続いていたために『ディルラバ』に会うことのなかったウルリッカだったが、たまたま本部に戻る用事があってディルラバを見かけたというエドゥアルトが「ディルラバを見た！すっごい美人だった！マンフレートに自慢しよう！」と浮かれていた事を思い出した。なお、マンフレートとはエドゥアルトの大学時代の友人である。
「そんなに疲れる人だった？」
「いいえ、とても素敵な人でしたよぉ」
　今度のウルリッカの質問を笑いながら否定したのはセリカだった。それを聞いたギャリーが何だか自分が褒められた時のように嬉しそうな顔をしているように見えたのは、酔い始めてきたウルリッカの気の所為だろうか。
　そんな嬉しそうな顔をしているギャリーはショットグラスに何やらセリカが飲んでいるものとは別のものを注いでいた。茶色っぽいソレは、ウルリッカの食欲をそそらない匂いをしている。
「ギャリー、何それ」
「ん？木天蓼ムー・ティアン・リャオのお酒だよ」
「むーてぃあん？」
　ギャリーから聞き慣れない響きの言葉が聞けた時は兎頭国の言葉だ。カンテ国の言葉では何と言うのだろう。よくよく思い出してみれば、この匂いを集落コタンで嗅いだことがあるような気がするが稗酒トノトではない酒というと――。
「マタタムブ！」
「木天蓼マタタビですねぇ」
　ウルリッカとセリカが同時に同じものを違う名前で呼んだ。ウルリッカは集落コタンでの言葉、セリカはカンテ語で言ったものであり、結局は同じ意味である。
　マタタビ酒は苦味、渋味、甘味が一体となった妙ちきりんな味がするものだと、かつて爺様婆様から分けてもらい舐めて知っていたウルリッカは味を思い出して渋い顔をした。爺様婆様は「疲労回復、滋養強壮」に良い酒だと笑っていたけれど、あの味はウルリッカは好んで飲みたいものではない。
「それ、集落コタンで爺様達が好んで飲んでたやつだ」
　そう言うとギャリーが目を丸くしてから、酷く精神的ダメージを受けたような顔をした。
「えええ……爺様達が……」
「うん。爺様達しか飲まないお酒」
　ウルリッカが断言するとギャリーは肩を落としつつ、それでもマタタビ酒を呷った。
「何を精神的打撃を受けてるんですかぁ？」
　そんなギャリーを見てセリカが楽しそうに笑っている。そんなセリカの様子に、もしかしたら彼女は少し酒に酔っているのかもしれないとウルリッカは思った。それくらい今のセリカは何やら楽しそうだ。
「セリカ。いつもより楽しそう」
　ウルリッカが思わず呟くとセリカが「そうですかぁ？」と言いながら微笑みを深くする。その顔がとても幸せそうに見えて、ウルリッカも思わず微笑み返したのだった。

思考回路はショート寸前

　ふとギャリーが気付いた時には、ウルリッカは長椅子でスヤスヤと寝息をたてていた。
「あらぁ、マルムフェさん。寝てしまいましたねぇ」
　起こさないようにと気を使ったセリカが小声で呟く。ウルリッカへ勧めつつ、かなりの量のヴォートカを口に運んでいるセリカだが彼女は酒に強く相変わらず目元がほんのり赤いくらいだ。
　そんな彼女を横目に携帯型端末を取り出したギャリーはウルリッカの兄へ「今何してる？」とメッセージを送る。自分が寝てしまったウルリッカを送っても良いが、ギャリーはまだセリカとのお疲れ様会をお開きにしたくはなかった。
　数分の後、ギャリーの端末が着信を告げる。
　それはウルリッカの兄でありギャリーの経理部仲間であるアルヴィ・マルムフェからの返信に他ならなかった。他ならなかったのだが。

――AV鑑賞中です。どうかしましたか？

　酒を飲みながら、または食べ物を口に入れながら端末を見なかった数秒前の自分を誉めてあげたいとギャリーは画面を見つめて思った。口に何か入っていたら噴き出すか、はたまた口をポカンと開けて中身をぶちまけてしまっていただろうから。

あのアルヴィが。

AV鑑賞中。

しかも、それを堂々と同僚ギャリーに言い放つオープンエロっぷりだ。

「ギャリーさん？どうかなさいましたかぁ？」
　端末を見つめながら表情を強ばらせて動きを止めたギャリーを訝しがるセリカの声が掛かるが、ギャリーは咄嗟的に上手い言い訳が出てこなかった。それ程までにアルヴィからのメッセージは衝撃的だったのだ。
　しかし返事がないことで端末の画面を覗き込もうとしたセリカに見えないように、さり気なく画面を傾ける。これは女性に見せてはいけないとギャリーは本能的に理解していたし、同僚の他人からの評価を下げることをしたくなかったという彼なりの優しさであった。
「あー……大丈夫みたいだから、ちょっと電話してみるね」
　セリカに見られないうちに早々にメッセージ画面を消したギャリーはアルヴィに電話をしてみることにした。しかし『発信』ボタンを押してコール音がしてから「これで背後からAVの音が聞こえてきたら嫌だな」という事に気付いたが、切る前に案外普通のテンションのアルヴィが「はい」と出てしまった。
「……お取り込み中、大変申し訳御座いません」
　思わずビジネス的なカンテ語がギャリーの口から飛び出て、それを聞いたセリカが目を丸くしてこちらを見ていた。しかし今のギャリーの神経は電話の向こうに集中していて、そんなセリカの様子には気付いていない。
「えっ、ファンさん。どうかなされましたか？ひょっとして酔ってらっしゃいます？」
　ギャリーの言葉に狼狽したのは電話の向こうのアルヴィも一緒で、彼はギャリーに問いかけてきた。いや、おかしいのは堂々とAV鑑賞中と言い放てるお前だ。言いたいけれど、さすがにギャリーもツッコミ辛い。
　幸いにもアルヴィの後ろから女の喘ぎ声が聞こえることは無かった。とりあえず一時停止中か停止はしてくれているようだ。
　一安心しながら、ギャリーは本来の用件を伝えることにした。
「俺は酔ってないけどウルちゃんが……」
「ウルが？」
　あっという間にアルヴィの声がワントーン落ちて氷点下の色を帯びる。
　それでもアルヴィはAV鑑賞中の男なんだよな、と妙に冷静な頭で受け止めたギャリーは怯むこともなく言葉を続けようとして携帯型端末が手から離れて宙に浮いたので驚いた。
　宙に浮いたギャリーの携帯型端末を手にしていたのは、当然ながらこの場で起きている人物であるセリカである。
「セリ……」
「今晩和、マルムフェさん。前線駆除リンツ・ルノース班のセリカ・ミカナギですぅ」
　セリカの名前を呼んで止めようとしたギャリーの行動を微笑みの視線で封じ込めて、セリカはアルヴィと通話を始めていた。
　確かにギャリーと二人きりでウルリッカが酒を飲んでいて寝てしまったとなればアルヴィは怒るであろうが、セリカがいれば事情は別だろう。彼女もそのように考えて電話を変わってくれたに違いない。ギャリーはそう判断してセリカに電話を任せることにして、酒を口に運びながら聞き耳をたてていた。
「ええ、ではお迎えを宜しくお願い致しますぅ」
　場所を告げてセリカはアルヴィとの電話を締め括ると、通話を切った携帯型端末をギャリーへと差し出す。それを受け取ったギャリーはアルヴィがウルリッカを迎えに来てくれることに安堵しつつも、どんな顔をしてアルヴィを迎えたら良いのか静かに内心で悩むのであった。

　*　*　*

「愚妹が大変申し訳御座いませんでした！」
　ギャリー達が思っていた以上に早く休憩所に到着したアルヴィは開口一番にそう言うと深々と頭を下げた。
「此方こちらこそ、妹さんに沢山呑ませてしまい申し訳有りませんでしたぁ」
　そんなアルヴィが頭を上げたところでセリカが今度は頭を下げる。
　東國の人はそうやって良く頭を下げあっているとかいう文化があるというけれど、と思いつつギャリーはそれを見守っていた。セリカと東國式謝罪合戦を繰り広げているアルヴィはギャリーの目から見ていつも通りの姿に見える。とてもではないがAV鑑賞中だった人間には見えない。それともそういうコトを隠すのが上手いのか。
「アルヴィ」
　謝罪合戦の合間を見計らってギャリーはアルヴィの名前を呼んで彼に近付いた。そのまま彼の肩に手を回すと、セリカから自分達の表情が見えないように反転して有無を言わさず入口近くまで歩く。
「……デートの邪魔をして申し訳無かったです」
　アルヴィはそういう理由でギャリーが怒っているのだと思っているようだった。しかしギャリーは怒っている訳では無く、むしろアルヴィの「デート発言」に気を良くしていた。そして今は純粋にセリカには聞かれたくない質問がしたいだけだったのである。
「何観てたの？」
「はい？」
「題名。AVの」
　聞いておいて何だが、アルヴィが観ていたモノが「兄妹モノ」でないことをギャリーは切に願った。それだけは駄目だ。明日から真面目に一緒に仕事が出来る気がしなくなる。
「はぁ……ファンさんは興味無いジャンルだと思いますが」
　ギャリーの問い掛けにアルヴィは怪訝な顔をした。
　その言葉に、アルヴィの考える「女と見れば口説くのが礼儀だと考えるトレベーネ男子のようなギャリー・ファンの興味無いジャンル」は何だろうという好奇心を抱きながらギャリーは先を促す。
「可愛い子が出るんでしょ？」
「ええ、まあ。足が太くて毛深いところが可愛いですよ」
　なるほど。アルヴィの女性の趣味はなかなかニッチな感じらしい、とギャリーは考えた。「ムチムチしててかわいいぽっちゃり女子」はそれなりに需要が高いが、そこに「毛深い」が付いてくるとはなかなかアルヴィの趣味は限定的だ。
「ちなみに、そのAVの題名は？」
　うきうきした軽薄な口調でギャリーは尋ねた。アルヴィにこんな面白い趣味があるのなら、もっと早く聞けば良かったと後悔しながら。
「『知られざるカンテの自然～カヌル山をリンクスが駆ける～』ですけど？」
　カヌル山と聞いてギャリーの脳裏には医療ドレイル班のヴォイド・ホロウの身体のたわわな一パーツが浮かぶが、それにしては題名がお堅い。これでは、まるでドキュメンタリー番組のようではないか。
「カンテリンクス……別名ではカンテオオヤマネコともいうんですけど、シュエリオオオヤマネコとも違うカンテの固有種なんですよ」
　自分の得意な分野になるとオタクが急に饒舌になるとは言うが、正にアルヴィはそれであるかのようにペラペラとカンテリンクスについて語る、語る、語る。
　それに適当に相槌を打っていたギャリーの脳内にいたヴォイドはカンテリンクスの前に掻き消えた。一瞬、猫耳のついたヴォイドが想像された気がしたが、それと同時に何故か脳内に人事部のロード・マーシュが浮かんで彼によって猫耳ヴォイドは掻き消されていた。
　AVえーぶいといえば性行為を主とする「アダルトビデオ」と想像していたギャリーだったが、アルヴィがいうAVえーぶいはさしずめ「アニマルビデオ」といったところだろうか。
　確かに動物なら毛深いものが可愛いだろう。もふもふ最高。気持ちは分からないでもない。分からないでもないが、AVが想像と違ってギャリーは内心で血の涙が流れそうだった。
「あのぅ、殿達で盛り上がるのは結構なんですけどぉ……」
　そんな傷心？のギャリーを現実に戻したのは放っておかれていたセリカの声だった。その声に現実に戻ったのはアルヴィも一緒であったようで、アルヴィは慌てて未だに良く眠る妹のウルリッカの元へと向かって行く。
「ウル、ウルちゃん」
　名前を呼びながらアルヴィがウルリッカを揺さぶってみるが、ウルリッカは「んー」と唸って眉間に皺を寄せるだけで目覚める気配はない。
「……仕方ない。ミカナギさん、申し訳ないのですが僕の背にウルを乗せる手伝いをして貰っても宜しいですか？」
「はい。構いませんよ」
「セリカちゃんがやらなくても俺が……」
「嫌だなぁ、ファンさん」
　手伝おうとしたギャリーをアルヴィが笑顔で止めた。
「僕の可愛い妹に異性が触れるなんて……兄としては介助とはいえ許せる行為では無いんですよ」
　そう言って微笑まれればギャリーが手を貸す訳にはいかなくなり、セリカによってウルリッカがアルヴィに背負われていく。
「あのぅ、大丈夫ですかぁ？」
「ええ、もちろん。手伝っていただき、ありがとうございました」
　小さいとはいえ成人女性を背負ったアルヴィを見ていると、ギャリーはアルヴィが無事にウルリッカを背負って行けるか心配になった。結社のその辺の廊下で力尽きて倒れているアルヴィと、その上でスヤスヤ眠り続けるであろうウルリッカが容易に想像ができてしまう。
　そんな想像をギャリーがしていたのが表情から伝わったのかアルヴィが苦笑いを浮かべた。
「大丈夫ですよ。妹一人背負えない程、軟弱な兄のつもりはありませんから」
　そう言ってウルリッカを背負って歩き出すアルヴィの足取りは発言の通り、ふらつきもなく安定したものだった。それが今だけの見栄で無いことを願いながらギャリーとセリカはアルヴィが休憩所を出ていくのを見送る。
「あ、そうだ」
　出ていく直前で何かを思い出したアルヴィが振り返ってギャリーを見た。
「今度、可愛い子が沢山出ている僕のオススメAVお貸ししますね」
　そして平然とした顔で第三者が聞いたら勘違いするに決まっている爆弾発言を残すと、今度こそマルムフェ兄妹は休憩所から去っていった。
　アルヴィの足音が廊下から聞こえなくなった頃、セリカがポツリと呟く。
「……ファンさんとマルムフェさん、２人で何を楽しくお話していたのかと思えばそんなお話でしたかぁ」
「セリカちゃん、それは誤解だから！」
　こうしてギャリーは冷たい目をしたセリカの誤解を解くために苦戦することになるのであった。

ゴメンね素直じゃなくて

「セリちゃん、危ないよー……」
　情けない泣きそうなリアムの声を下・に聞きながら、セリカはスルスルとミカナギ家の庭にある木を登っていた。
　セリカ・ミカナギ４歳、リアム・シュミット３歳の時である。
　１歳下の気弱で身体の小さなリアムを自分の子分か何かのようにしていた当時のセリカは、その日、子分に良いところを見せようと木登りに励んでいたのだ。
　じゃじゃ馬、お転婆、跳ね返り娘。
　その言葉は当時のセリカの為にあるような言葉だった。
「男の子のくせに情けないんだから！」
　そう言ってドヤ顔でリアムのいる下を見た時、瞬時にセリカの顔は引き攣った。いつの間にか調子に乗りすぎて予想していたよりも随分と高く登ってしまっていたのだ。
　一度、恐怖にとらわれるとそれを払拭するのは難しくセリカの足は震えるばかりだ。
「早く戻って来てよー」
　泣きべそをかきながらリアムがセリカを呼ぶが、泣きたいのはセリカの方だった。しかし子分の手前、泣くことは子供ながらに持っている自尊心プライドが許さなかった。だから、リアムに助けを呼びに行ってもらうこともできず、動くこともできず、セリカは二進にっちも三進さっちも行かないでいた。
　正に万事休すの状態のセリカだったが、そこに通りすがったのがセリカの家が営む剣道教室の昼稽古を終えて帰るところであった高校生のベンジーだった。
「どうしたんだ？」
　木の下で泣きべそをかいているリアムにベンジーが声をかけるが「親分たるセリカが傍にいない」状況で「知らないお兄さん」に声をかけられたリアムは驚いて余計に涙の量を増やすばかりだった。それでもどうにかリアムが木の上を指さしたことで、ベンジーは幼い子供が登るにしては高い場所にいるセリカを見つける。
「降りられないのか？」
「おっ、降りられるっ！」
　本当は降りられなくなっていたセリカだったが余計な見栄を張ってしまった。リアムはベンジーの傍にいるし「知らないお兄さん」に格好悪いところを見せたくなかったからだ。
　セリカの答えにベンジーは少し驚いたような顔を見せた後、思案すると手にしていた竹刀袋と剣道具を置いて両手を広げた。その動きに、登って助けに来てくれる訳では無いらしいとセリカは思う。
「降りられるならジャンプ出来るな？こっちに飛び降りて」
　このお兄さん、むちゃくちゃなことを言っている。
　セリカは幼い頭でそう思ったことを覚えている。地面よりもお兄さんに向かって飛んだ方が距離は短いけれど、それだってセリカにとって充分すぎる恐怖だった。
「おいで。受け止めてあげるから」
　だけど、セリカはベンジーのこの言葉を信じて次の瞬間には跳んでいたのだ。跳ぶ時に、ぎゅっと瞑っていた目をおそるおそる開けばセリカはベンジーの腕の中に着地していた。
　制汗剤の爽やかな匂いと、その奥に微かに感じる防具の臭い。
「稽古後だから汗臭くてすまないな」
　そう言って笑うとベンジーはセリカを地面へと下ろした。
「セリちゃん！」
　未だに飛び降りたショックで呆然としているセリカに顔をぐしゃぐしゃにしたリアムが飛び付いてくる。そしてセリカの分も泣きじゃくるようにわんわんと泣いてしまったので、セリカの出ようとしていた涙はビックリして引っ込んでしまった。
「……あれ？」
　気付けばセリカが「ありがとう」とお礼も言わないうちにベンジーはその場を立ち去ってしまっていた。それでも彼が剣道教室の生徒であることはセリカにも理解出来ていたので、次の練習の時に見つければ良いと考える。
　こうしてセリカはベンジーと出会ったのだ。
　そして懐いていくうちに成長とともに恋というものを覚えて、ベンジーが読んでいた本に出てきた「ヤマトナデシコ」が好きだというからお転婆娘は態度を改めて今の自分セリカが出来上がった。
　そうやって出来上がった自分をセリカは嫌いではない。男の三歩後ろに下がって静かに歩くようなヤマトナデシコも悪くは無いと思う。
　だって、ヤマトナデシコでいればベンジーが喜んでくれるから。

「セリカさんの思うヤマトナデシコ好きな男のイメージに当て嵌まる奴ってもれなく地雷案件よ」

　そんなセリカの意識を断ち切るように、とある女性の声が脳裏に甦った。
　彼女の名前はゲンジ・ディルラバ。兎頭国出身のモデルでタレントで――ギャリーの幼馴染だ。
「……ん、セリカちゃん！」
「……はい？」
　ギャリーの声で我に返ったセリカは金瞳を瞬いた。目の前には困った顔をしたギャリーがいる。
　自分はギャリーと休憩所で「ディルラバの付き人お疲れ様会」という名目でお酒を呑んでいる最中だということを徐々に思い出してきていた。途中でウルリッカが乱入して更には眠ってしまったのでアルヴィが迎えに来て。そしたらアルヴィとギャリーがＡＶいかがわしいものの話で盛り上がっていて。だけど、それはセリカの勘違いだったという訳で(というかアルヴィの言い方が悪いだけだ)。
「まだ機嫌直して貰えない？」
　しょげた様子を見せているギャリーを見て、自分が随分とギャリーを無視して放心していたことに気付いた。セリカの夫であったベンジーは酒を好まない人物だったので、こんな風に男性とお酒を飲むのは初めてだと考えているうちに過去に思いを馳せすぎていたらしい。表情と言葉から察するに、おそらくギャリーはセリカがＡＶいかがわしいものの件で未だに怒っているのだと思っているのだろう。
「いいえ。少し考え事をしていただけですぅ……申し訳御座いません」
「怒ってない？」
「はい」
　セリカが笑みを浮かべて頷くと、ほっとした様子を見せたギャリーは自分の手にしていたグラスを空にするとベンチに置いた。両手を空けたギャリーが次に手に取ったのは袋に最後に一つ残っていたほっぺ饅である。
「時間が経っちゃったけど……はい、あーんっ」
　「はい、あーん」の言葉通りギャリーはほっぺ饅をセリカの口元へと運んでいた。セリカがほっぺ饅のつるんとした皮を見つめ、再びギャリーに目をやると彼は悪戯めいた笑みを浮かべていた。
「この前はゲンちゃんの前だったけど今は誰もいないから良いよね？」
「でもぉ……」
「だめ？」
　困ったような笑みを浮かべるギャリーを前にしてセリカは逡巡を巡らせていた。「あーん」なんて、はしたない。でも。

「はしたないって言葉、一回頭の辞書から消しちゃえば？」

　再びゲンジの言葉が甦る。
　今、セリカの前にいるのは「はしたない事は止めなさい」と眉を顰めるベンジーでは無い。面白くて、ちょっと好色漢なところもあるけれど、どこまでも優しいギャリーだ。
　彼から差し出してきたのだから、セリカはそれを受け入れてみることにする。少しだけ、自分を変えてみたいと思ったのだ。

「ガリちゃんの事優しいって思うなら、それはセリカさんだからかもしれないってもう少し自信持って良いのよ？」

　そう言って微笑んでいたゲンジ。彼女はギャリーの事が好きで、わざわざ彼と再会する為にマルフィ結社にやって来る程の愛情を見せていた。そんな彼女の言葉に背中を押されてみるのも良いのではないだろうか。
「いただきます」
　だから、セリカは勇気を出してギャリーの差し出したほっぺ饅に口をつけた。出来たてのほかほかのほっぺ饅では無くなってしまっていたけれど、美味しいものは美味しい。これがギャリーやゲンジが生まれ育った兎頭国の味なのだと思うと余計に美味しいような気がした。
　ほっぺ饅に口をつけた時から恥ずかしくてギャリーの顔は見れなかったが、味わって咀嚼してから恐る恐る上目遣いでギャリーを見上げてみる。
「ギャリーさん？」
　ギャリーは差し出しておいてセリカが本当に食べるとは思わなかったとばかりの驚きに彩られた顔をしていた。そんなに驚かれるとは思ってもいなかったセリカだが、そのギャリーの顔を見ていたら羞恥心の代わりに悪戯心が湧いてくる。
「もう、そんなに驚かないでくださいよぅ」
「わ、わりぃね……」
　そんな会話しながらセリカはギャリーの手からほっぺ饅をとると、自分が口をつけていない場所を一口大にちぎった。そして今度は其れをギャリーの口元に運ぶ。
「な、何？」
「お返しですよ、ギャリーさん」
　にこやかに微笑めば、ギャリーはセリカから目線を逸らして「存在が罪ギルティ……」と呟いた。その言葉の意味を分かっていないセリカは、矢張り自分が「あーん」なんてはしたない真似をする事は良くなかったのだろうかと眉尻を下げる。
「駄目でしたよねぇ……調子に乗って申し訳ありませんでした」
「いやっ、食べるから！セリカちゃんがそんな事してくれるって思わなくておどけただけだでね！」
「そうですかぁ……？では、改めまして」
　今度は「はい、あーん」とギャリーの言葉を真似して言ってみると、ギャリーが思った以上に真剣な顔をしてセリカを見つめてきたのでセリカの方が心臓が高鳴ってしまう。
　ドキドキした心臓の音がギャリーに伝わらないように願いながらセリカは開いて待っててくれるギャリーの口に、ちぎったほっぺ饅を入れる。
　ギャリーの口にちゃんと入ったことを確認して、セリカはほっぺ饅から手を離して引こうとしたのだが、ギャリーが口を閉じるのがほんの少し早くて彼の唇がセリカの指に触れた。
「ふぁっ!?」
　唇の感触に驚いたセリカは声を上げて身体を跳ねさせる。勢いそのままに引こうとしたセリカの手首をギャリーの手が掴み、ギャリーの長くて綺麗な指がセリカの手の甲を滑る。指先で手をなぞられただけなのに、そこに官能的な香りが籠っているように感じられてセリカは羞恥で硬直する他ない。
　翻弄するのは自分の予定だったのに、あっという間に形勢が逆転してしまった。しかもセリカの得意では無い方向性で。
「んん……」
　もう一度、ギャリーの指がセリカの手の甲を滑った時、思わず吐息と共に声が漏れる。そんなセリカを見て、ギャリーは心底楽しそうに微笑んだ。
　崖に追い詰められた草食動物エモノを前にした肉食獣のような爛々とした光を湛えたギャリーの焦茶色の目にセリカ自分が映っているのを、セリカは確かに見た。その光がセリカに近付いてくる。
　ためらう素振りを見せないでギャリーが顔を近づけてきたので、セリカの心臓は飛び跳ねた。
「だ、駄目ですぅ！」
　寸前で、二人の唇の間に手――正確には手に持っていた二口減っていたほっぺ饅――をかざす。ほっぺ饅という力の抜けるアイテムをかざしたことで、休憩所内に先程まで漂っていた空気は霧散していた。
　邪魔をしたほっぺ饅をセリカの手からギャリーが取り上げる。二人を隔てるものはなくなったけれどギャリーはそれ以上セリカに迫ることもせず、大人しく、しかしどこか不貞腐れたような顔をしてほっぺ饅を食べ始めていた。
「……怒りましたかぁ？」
「ちっとばか行けるかなーって期待しただけ」
「ふふっ、申し訳御座いません」
　接吻をする勇気は無いセリカはそう言って、ギャリーの肩にセリカはそっと頭を凭れさせる。
　自分が出来る精一杯の事はこれだけだ。
　それでも珍しいセリカの行動にギャリーが驚いたような、それでも満更でもないような笑みを浮かべる。
「セリカちゃん、酔ってるの……？」
「そうですぅ」
　本当は酒に酔ってなんかいないけれど、全部全部はしたない事は酒のせいにして。
　セリカは口元を綻ばせてギャリーに身を擦り寄せた。

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