日々の生活にときめきを／燐花
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rinka_creation 2021年09月25日(土) 15:21:52履歴
朝五時。アラームが鳴る前に目を覚ます。
エミールはゆっくり上半身を起こすと眠たそうに目を擦った。ベッドの傍に掛けてある厚手のガウンを手に取るとそれを羽織り、顔を洗って歯を磨くと爽やかな顔で部屋を出て行く。そして大きめの箒で寮の周辺をひとしきり掃いて回る。
エミールの朝は掃除から始まるのだ。
「ふふ…気持ちの良い朝ですね…」
掃除とは雑念を追い払うと言う事。エミールは雑念と煩悩塗れの頭を綺麗にするビジョンを浮かべながらしきりに箒を動かした。彼が毎日こうして掃除をするからかあまりゴミは落ちておらず、清掃部から「この周辺だけゴミ掃除が楽」と言うのはよく言われている。
葉っぱを掃いているともうしばらく帰っていない実家を思い出す。ルート、トリシャの兄妹三人で毎日の様に朝方に掃除をしていたものだ。双子の弟であるルートとは意見の違いから酷く対立して以来顔も見ていない。噂では、自分と似た風貌なのを嫌がって髪色を派手にしたり髪型を変えたりしているらしいと言う事だが、見ていないので定かではない。
一つ分かっているのは、妹のトリシャすらもうあの日以来ルートと会っていないと言う事。ルートは機械人形反対を通り越して嫌悪の気持ちすら抱いており、その事で仲違いして以来彼の顔を誰も見ていないのだ。誰にも連絡を入れず、家にすら帰っていない双子の片割れ。テロが起きるまでは仲が良く、常に行動を共にしていたし思い返せばグレるタイミングまで同じだったのに。
少し物悲しい気持ちもゴミと共に掃いてしまうと、元あった場所に箒を戻してエミールは部屋に帰った。
経典を取り出し部屋の真ん中で読経を始める。そうしてやっと朝のルーティンはひと段落付き、お腹も空いてきたので朝ご飯の準備に取り掛かる。慣れた手付きでさっと料理を作り、作り置きしたおかずを温め、手を合わせると食材に、食材となった命に感謝しそれらをいただく。
テレビも点けず、携帯端末もいじらず、エミールの心の中に雑念は無い。何と完璧な日だろう。
ここまでは。
* * *
「おはようございます」
給食部に顔を出すと、もう朝食担当のメンバーが忙しそうに配膳の準備に取り掛かっていた。その中でノエとネリネの機械人形特有の鮮やかな髪色を見付けエミールは駆け寄る。二人はエミールの姿を捉えると会釈した。特にノエは前職が前職だからか、優しい笑顔も添えて。
「おや、おはようございますエミールさん」
「おはようございますシュニーブリーさん」
「おはようございます。ノエさんとネリネさん、お二人は何か作業中ですか？」
するとネリネの薄紅の瞳が少し嫌そうに揺れ、ノエはやれやれと肩を竦めた。
「魚料理に関する情報交換をしていたのですよ。ネリネさんは魚を捌くのを苦手と考える様にインプットされていますので、ビニール袋や手袋を使って手のセンサーを鈍らせる方法を模索していたところです」
ネリネは前の主人にどう言うわけか「魚料理が嫌い」と思う様にインプットされている。機械人形が施される情報入力の力と言うのは人間の恐怖症の様なものなのか、本当に苦手らしいのでそう言うものがある度に協力して分担し、仕事をしているのだがどうしても人手が足りない時は策を講じながら何とかやってもらっている。
しかしそれにしても調理を目的とした機械人形で一定のジャンルの料理が嫌いと言うのはまた何の目的で入力したプログラムなのだろうか。
「煩悩です。シュニーブリーさんに分かりやすく言うと」
「なるほ…ど…？」
「分からなそうですね」
「んー…イメージがしづらいと言いますか…。すみません、私もまだまだ未熟ですね。精進します」
「いいえ、分からないならこんな感覚分からないで居てくれた方が安心です」
淡々とそう答えるネリネに少しざわざわしつつ、見た目が女性の機械人形である彼女とまともに話が出来ている事に変な自信を見せるエミール。
勝ったんじゃないか…！？今日こそ私は煩悩に打ち勝てたのではなかろうか！？確かに彼女は女性と言うよりどちらかと言うと少女の様だし、中学生くらいの子だったら前から普通に喋れていた様な気がしなくも無いが、それでも今のところ雑念に捉われて居ない今日の様な朝に最初に会えたのが彼女なら今日は勝てたと同義と言っても良いのでは無いか！？
そう思い心の中でガッツポーズを取るが、そんな彼の鼻っ柱をへし折る存在がすぐ近くまで迫っていた。
「あ！ノエさん、ネリネちゃん！おはよー！」
ヒギリが髪を嬉しそうにぴこぴこ弾ませながら部屋に入って来たのだった。
「あ、エミールさん！おはよう」
くりっとした目。接客業務もあるからかいつも程良く化粧を施された年齢の割にあどけない顔。まるで感情が乗り移っているのかと言いたくなるくらい彼女の機嫌に合わせてぴこぴこ動く綺麗に結われた髪。彼女の別の場所 は重力に影響されるだけの質量が足りないのか全くと言って良い程揺れないが、場所が違えどやはり動くものには目を引かれてしまうのかついつい視線が彼女を追ってしまう。そのよく通る声も決して煩くなく元気があって大変よろしい。顔立ちも可愛らしく声も可愛い、所作も可愛い彼女の奉仕 を間近で拝んだら惚れるなと言う方が無理な話で。
「お、お、お、おはおはおは…」
「へ？」
「お、おはようございますヒギリさん！」
噛み倒したエミールに一瞬「分からん」と言わんばかりの視線を向けたヒギリだが、彼に挨拶されすぐに微笑み返した。彼女の笑顔を見ただけでエミールの心の中を何かが高速で通過する。そしてそれは彼のハートをときめきと言う形でぶち抜いて行ったのだった。
「尊っ……！！！！」
「え？なんて？」
そんなエミールを見てノエは微笑み、ネリネは変な顔を見せる。二人はもう毎日の様にこの光景を見ていたからだ。
「シュニーブリーさん、毎朝モナルダさんに惚れてますよね。飽きないんでしょうか」
「私は良く分かりませんが、少なくともエミールさんに恋に飽く気持ちはないのでしょう」
エミール・シュニーブリー。彼は女性に対してあまりに免疫が無さ過ぎる人生を歩んだからか、ちょっとした事ですぐ相手を「良い」と思う気持ちが限界突破して「恋」に発展してしまう。この日も、もう何回目か分からないヒギリへの恋のときめきを感じながら始業した。
* * *
昼食時は給食部のメインの仕事場と言っても過言では無い。エミールは慣れた手付きで皿に食事を盛って行く。こう見えて実家の寺では料理人見習いとして修行をしていたし、テロがあってしばらくは炊き出しにも参加していて平等な量に盛ると言う作業は慣れっこだ。
雑念を一切排除し機械人形もびっくりな正確さで皿に盛り付ける。今日は白スープの盛り担当だ。一人前のベーコンの枚数もなるべく平等にするのが拘りである。
「ふぅ…我ながら良い盛り具合です。ん…？」
ふと受付に目をやると、ヒギリの横顔が目に入った。可愛らしい女性の横顔。何故だろう？憂いを込めた様にも見えるその瞳に朝以来忘れかけていたときめきが蘇って来た。
「ヒギリさん……」
その一見少女にも見えるあどけなさでふとした時に見せる哀愁漂う雰囲気の顔が何とも…っ！！
尊……っ！！
するとヒギリの顔から哀愁が消え、パァッと明るい表情に瞬時に切り替わる。何かを見付けたのか嬉しそうに顔を赤らめるヒギリ。彼女の前に現れたのは人事部のタイガ・ヴァテールと汚染駆除班のテオフィルス・メドラーだった。
「テオさん！タイガ君！」
「よ！ヒギリちゃん」
「こんにちは、モナルダさん」
エミールは瞬時にピンと来る。少なくともタイガは自分と同じ様な人間だ、と。おそらくヒギリに対して何某かの遠慮染みた距離の置き方を敢えてしているのだがヒギリ本人は気付いていない。
しかしそんな葛藤の横にいるテオフィルスはおそらく真逆の性質を持つ人間だ。彼はヒギリに好意を持たれたら持たれただけ素直に返せる人間なのだろう。いつも元気よく子犬の様なヒギリの頬を朱に染められる人間を見るのは珍しく、テオフィルスは数少ないその珍しい内の一人だった。
タイガとテオフィルスと、配膳の間楽しそうに談笑するヒギリ。それはエミールがまだ見た事のない女性の顔だった。
「…ヒギリさん…」
何だろう、このきゅっと胸を締める感じ。いや、正直給食部に配属になってからほぼ毎日味わっていると言っても過言ではないのだがその事実は横に置いておいて。
そうか、ヒギリはきっと好きなのだ。…タイガかテオフィルスのどっちかを、あるいは二人のどっちかに似ている誰かを。あるいはもう一人確か居た筈だ、あの黒髪の眼鏡の男性を…。あるいは──…。
と、こんなに間近で見ていて実は全くと言って良い程ヒギリの「懐いていて憧れている人がいっぱいいる」と言う乙女心に気付けておらず「取り敢えず誰かが好きなんだろう」と言う大変大雑把な予測をしたエミールは今日も「恋に破れた」と遠い目線を向けたのだった。そしてあろう事か今日は変に動揺したのか包丁で指を切り、近くに居たノエとネリネに断りを入れ医療班へ向かった。
「エミールさんはもう遠い目をしてらっしゃいましたね」
「今日の給食部での失恋は一時半でしたね。いつもは三時前くらいまで引っ張るのに」
「だから動揺してしまったのでしょうか…？珍しく包丁で指を切られるなんて…」
ノエは一瞬心配そうな顔を見せたのだが、何となく以前の主人を思い出す思い込みの激しさと言うか何と言うか、既視感 を感じる。そんなネリネはエミールの出て行ったドアを冷たい瞳で見つめていた。
「ゆ、指を切ってしまった…」
しかも結構ざっくりと。一瞬燃える様な熱い痛みが走ったと思ったが遅かった。切れてしまっていた。とりあえず絆創膏を貰おうと医療班へ向かい、ドアをノックする。昼時だし休憩時間ギリギリでは無いかと思い心配そうな顔をしていると、キィ…と音を立ててドアが開き、開けた本人であろう女性と目があった。
「あら。どうしたの？」
「あの、給食部で仕事中に包丁で指を切ってしまいまして…」
「え？指を？どれ…」
その女性は、猫の様なふわふわした茶色の髪の毛を耳に掛けるように掻き上げる。その仕草の何と色っぽく美しい事だろう。そもそもとして長い髪を掻き上げる仕草もまたフェチであったエミールは彼女の──アペルピシアの動きに見入ってしまっていた。それどころか、怪我をした指を見ようと彼女がエミールの手を取ったものだから、治療行為なのだからその動きは当然なのだが慣れない女性に手を触れられたエミールはその一瞬で胸をときめきが貫いて行くのを感じた。
「た……尊っ…」
ちなみに先程から漏れているこの心の声は物凄く小さな声で言っているので未だに聞かれた事が無いと言うのがエミールの惚れっぽさがそこまで公にならない要因と言えるだろう。
「痛む？んー…そこまで深くは無いから医療班の誰が治療しても大丈夫そうね。ごめんなさい、私はこれから昼休憩だから別の人に頼むわね。でも心配しなくて大丈夫よ」
そう言ってアペルピシアは近くに居た女性に声を掛ける。その女性は眠たそうな顔をしながら太めのお下げを揺らしやって来た。
「エル、どうしたの？」
「クイン、悪いのだけど彼の手当をお願い出来るかしら？包丁で指を切ってしまったんですって」
「あらあら大変」
こっち来て、と促され彼女の後ろをついて行く。てっきりお下げと言う髪型から幼い人なのかと想像していたが、緩いのはその髪型だけであり、「結構ざっくり行ってるから痛かったでしょ？」と此方を振り返ったその瞳は年相応に色々と経験したのであろう暗澹さを湛えており、ただの若い子には出せない色気があった。少し背が低く俯瞰で見る彼女の体のシルエットから程良く控えめなスタイルの女性である事も分かり、エミールはまた胸をときめきに貫かれた。
「とりあえず絆創膏…あら？絆創膏どこだったかしら…」
医療用の接着剤なんて珍しいものもあるのに何故か絆創膏がそこには無い。エミールは普段見ない医療班の仕事道具をまじまじと眺める。クインはその中から絆創膏を眠たそうな瞳で探していた。
「…一番使う絆創膏が無いなんて困るわね…先日備品のチェックをしたのは…ネビロス？全く変なとこ抜けてるのかしらねぇ？あの木偶の坊」
「でく…？」
何か聞こえた気がするが多分気の所為では無いのだろう。いやむしろ、この眠たそうな瞳と一見幼そうな風貌から発せられる少し棘も毒もある言葉達。この衝撃の何と大きい事だろう。
「毒舌とお下げ髪と眠たそうな目…尊……っ！」
「あれ？クイン先生？どうしたんですか？」
そこにやって来たのはミア・フローレスだった。まだまだあどけなさの残る彼女ならそんなに好意が限界突破しにくいだろうとエミールは少し安堵する。
「あれ！？エミールさんどうしたんですか！？」
「こんにちは、ミアさん。実は調理中に包丁でうっかり指を切ってしまって…」
「わわわ…痛そうですね…」
しゅんと縮こまるミアは年相応の可愛らしい少女であり、こんな子が大人に混じって医療の現場で働いているのだから立派なものだとエミールは思う。
「指を切ったと言うからとりあえず絆創膏を貼ろうと思ってんだけど、何故か絆創膏が見当たらないのよ。誰か使ったきり出しっ放しにしてるのか備品のチェックを怠ったのか…」
「あれ？どうしてかな…？あ、クイン先生！私の私物で良ければ使ってくれますか？」
そう言ってミアが取り出したのは可愛らしい動物のプリントされた絆創膏だった。保育部の子に人気なのだと嬉しそうにミアは笑う。なるほど確かに少し子供っぽいデザインだが、何とも可愛らしくミアによく似合うデザインだ。
「あらありがとう。助かるわ。そうだミア、直近で備品チェックした人にそれとなく伝えといてくれないかしら？絆創膏は一番多く使うからもう少しチェックを厳重にって。足りなそうなら調達班に追加注文しておいてって」
「はい！どなたに伝えたら良いですか？」
「ネビロスよ。ネビロス・ファウスト」
「え……」
ネビロスの名を聞いた瞬間にミアの頬が赤く染まる。それはネビロスに憧れているからなのだがそれを間近で見てしまったエミールには刺激が強すぎた。
少女の様なあどけなさが残ると言うかまだ未成年の筈だが、いつも通り普通に過ごしている彼女の愛らしい顔とはまた違う顔が目の前に広がっている。恋をする女の子の顔がこんなに魅力的に見えてしまうだなんて。いけないいけない、まだ未成年だからと言って油断していた。ミアは、彼女はあれだ。学生時代の荒れた青春で見たクラスのマドンナを彷彿とさせる。
「あ！と、とりあえずエミールさんに絆創膏貼りましょう！」
慌てたミアから絆創膏を受け取ると彼の手を取り指に貼るクイン。防水性はあまり期待出来ないから、今日は洗い物をするなら手袋で手を守りながらにしてねと一言残し、彼女は早々に二人の前から離れた。
いけないいけない。修行が足りないが故か、医療班はそもそととして魅力的な女性が多過ぎてすぐ雑念に支配される。まさかまだ未成年のミアにまでこんなにも容易にときめいてしまうとは。
「…ミ、ミアさんはネビロスさんと仲が良いのですか？」
「え！？」
「あ、いえ。先程クインさんは、ミアさんからネビロスさんに伝えておいて欲しいと言う口ぶりでお話されていたので…。お二人の仲の良さを見込んでお願いされていたのかと思いまして」
「わ、私がネビロスさんと…！？」
雑念を払う為、普通にミアと会話をしようとしたエミール。しかし、彼の話題のチョイスは結果として失敗であり、彼は次の瞬間ミアの顔を見てまた雑念だらけになったのであった。
「ネビロスさんと…仲良くなれたら良いなぁ…」
少し目を伏せながらそう呟くミアの頬の何と甘酸っぱそうな事か。いやいや、まだお若いとは言えご婦人の頬を味で例えるだなんていよいよ持って変態っぽい気がする。
「あの…ネビロスさんと仲良くなれると良いですね…」
きっとミアはネビロスに憧れを抱いているのだろう。ああ、男ならぐらりと来そうなその赤く染まった頬！可愛らしく伏せられた目！尊い…！！しかし同時に自分の恋は散った。
「お世話になりました。それでは私はこれで」
これ以上こんな魅力的な人達に囲まれていたら未熟な自分は雑念、煩悩だらけになってしまう。早々に部屋を出ようと前を見ずに足を進めたエミールは、ドアを乱雑に開け、足早に飛び出そうとしたまさにその瞬間誰かの手が腕に絡まった事に気が付いた。ガクンと後ろに引っ張られ思わず足を止める。
「ん…？」
「ねえ、危ない…今保育部の子供達がここ通るから、よそ見せずに早足で飛び出さないで」
自分のすぐ近くで、自分の腕に絡んでいたのはヴォイドだった。彼女に言われ目線を前に遣ればそこには引率の先生に連れられた保育部の子供達。ああ、成る程。この子達の為にわざわざ声を掛けてくれたのか。余所見をして何も考えずに飛び出していたら確かにそのままの勢いでぶつかってしまっていたかもしれない。
「すみません、周りをよく見て居ませんで…」
「お前は体大きいから良いけど、あの子達ぶつかったら危ないから。急に止まれない様なスピードで歩かないで」
「ええ。気を付けます」
はたと気付く。ヴォイドは普段下着の様な格好で居るから接触を避けていたが、今は仕事中なのでスクラブを着用している。しかし、医療班メンバーに支給されているスクラブでいつもは目立つその谷間が目視しにくいとは言え、目の前に広がるのは間違いなくカヌル山級の重量感である。エミールはこんな至近距離でこんなボリュームを拝んだ事が無く、腕に当たっているそれの正体に気付いた瞬間彼は茹でられた様に赤くなったのだった。
「お帰りなさい、シュニーブリーさん」
「た、ただいま戻りました…」
出迎えたネリネが見たのは、何があったのか両方の鼻の穴にティッシュを詰めた鼻声のエミールだった。何となく察した彼女はとりあえず切った指の治療がされている事に安堵すると、ふと彼に声を掛けた。
「シュニーブリーさん」
「はい？」
「行って戻ってくる間に何回ときめいて何回失恋したんです？」
動揺したエミールは、今度は反対の方の手の指を切った。
エミールはゆっくり上半身を起こすと眠たそうに目を擦った。ベッドの傍に掛けてある厚手のガウンを手に取るとそれを羽織り、顔を洗って歯を磨くと爽やかな顔で部屋を出て行く。そして大きめの箒で寮の周辺をひとしきり掃いて回る。
エミールの朝は掃除から始まるのだ。
「ふふ…気持ちの良い朝ですね…」
掃除とは雑念を追い払うと言う事。エミールは雑念と煩悩塗れの頭を綺麗にするビジョンを浮かべながらしきりに箒を動かした。彼が毎日こうして掃除をするからかあまりゴミは落ちておらず、清掃部から「この周辺だけゴミ掃除が楽」と言うのはよく言われている。
葉っぱを掃いているともうしばらく帰っていない実家を思い出す。ルート、トリシャの兄妹三人で毎日の様に朝方に掃除をしていたものだ。双子の弟であるルートとは意見の違いから酷く対立して以来顔も見ていない。噂では、自分と似た風貌なのを嫌がって髪色を派手にしたり髪型を変えたりしているらしいと言う事だが、見ていないので定かではない。
一つ分かっているのは、妹のトリシャすらもうあの日以来ルートと会っていないと言う事。ルートは機械人形反対を通り越して嫌悪の気持ちすら抱いており、その事で仲違いして以来彼の顔を誰も見ていないのだ。誰にも連絡を入れず、家にすら帰っていない双子の片割れ。テロが起きるまでは仲が良く、常に行動を共にしていたし思い返せばグレるタイミングまで同じだったのに。
少し物悲しい気持ちもゴミと共に掃いてしまうと、元あった場所に箒を戻してエミールは部屋に帰った。
経典を取り出し部屋の真ん中で読経を始める。そうしてやっと朝のルーティンはひと段落付き、お腹も空いてきたので朝ご飯の準備に取り掛かる。慣れた手付きでさっと料理を作り、作り置きしたおかずを温め、手を合わせると食材に、食材となった命に感謝しそれらをいただく。
テレビも点けず、携帯端末もいじらず、エミールの心の中に雑念は無い。何と完璧な日だろう。
ここまでは。
* * *
「おはようございます」
給食部に顔を出すと、もう朝食担当のメンバーが忙しそうに配膳の準備に取り掛かっていた。その中でノエとネリネの機械人形特有の鮮やかな髪色を見付けエミールは駆け寄る。二人はエミールの姿を捉えると会釈した。特にノエは前職が前職だからか、優しい笑顔も添えて。
「おや、おはようございますエミールさん」
「おはようございますシュニーブリーさん」
「おはようございます。ノエさんとネリネさん、お二人は何か作業中ですか？」
するとネリネの薄紅の瞳が少し嫌そうに揺れ、ノエはやれやれと肩を竦めた。
「魚料理に関する情報交換をしていたのですよ。ネリネさんは魚を捌くのを苦手と考える様にインプットされていますので、ビニール袋や手袋を使って手のセンサーを鈍らせる方法を模索していたところです」
ネリネは前の主人にどう言うわけか「魚料理が嫌い」と思う様にインプットされている。機械人形が施される情報入力の力と言うのは人間の恐怖症の様なものなのか、本当に苦手らしいのでそう言うものがある度に協力して分担し、仕事をしているのだがどうしても人手が足りない時は策を講じながら何とかやってもらっている。
しかしそれにしても調理を目的とした機械人形で一定のジャンルの料理が嫌いと言うのはまた何の目的で入力したプログラムなのだろうか。
「煩悩です。シュニーブリーさんに分かりやすく言うと」
「なるほ…ど…？」
「分からなそうですね」
「んー…イメージがしづらいと言いますか…。すみません、私もまだまだ未熟ですね。精進します」
「いいえ、分からないならこんな感覚分からないで居てくれた方が安心です」
淡々とそう答えるネリネに少しざわざわしつつ、見た目が女性の機械人形である彼女とまともに話が出来ている事に変な自信を見せるエミール。
勝ったんじゃないか…！？今日こそ私は煩悩に打ち勝てたのではなかろうか！？確かに彼女は女性と言うよりどちらかと言うと少女の様だし、中学生くらいの子だったら前から普通に喋れていた様な気がしなくも無いが、それでも今のところ雑念に捉われて居ない今日の様な朝に最初に会えたのが彼女なら今日は勝てたと同義と言っても良いのでは無いか！？
そう思い心の中でガッツポーズを取るが、そんな彼の鼻っ柱をへし折る存在がすぐ近くまで迫っていた。
「あ！ノエさん、ネリネちゃん！おはよー！」
ヒギリが髪を嬉しそうにぴこぴこ弾ませながら部屋に入って来たのだった。
「あ、エミールさん！おはよう」
くりっとした目。接客業務もあるからかいつも程良く化粧を施された年齢の割にあどけない顔。まるで感情が乗り移っているのかと言いたくなるくらい彼女の機嫌に合わせてぴこぴこ動く綺麗に結われた髪。彼女の
「お、お、お、おはおはおは…」
「へ？」
「お、おはようございますヒギリさん！」
噛み倒したエミールに一瞬「分からん」と言わんばかりの視線を向けたヒギリだが、彼に挨拶されすぐに微笑み返した。彼女の笑顔を見ただけでエミールの心の中を何かが高速で通過する。そしてそれは彼のハートをときめきと言う形でぶち抜いて行ったのだった。
「尊っ……！！！！」
「え？なんて？」
そんなエミールを見てノエは微笑み、ネリネは変な顔を見せる。二人はもう毎日の様にこの光景を見ていたからだ。
「シュニーブリーさん、毎朝モナルダさんに惚れてますよね。飽きないんでしょうか」
「私は良く分かりませんが、少なくともエミールさんに恋に飽く気持ちはないのでしょう」
エミール・シュニーブリー。彼は女性に対してあまりに免疫が無さ過ぎる人生を歩んだからか、ちょっとした事ですぐ相手を「良い」と思う気持ちが限界突破して「恋」に発展してしまう。この日も、もう何回目か分からないヒギリへの恋のときめきを感じながら始業した。
* * *
昼食時は給食部のメインの仕事場と言っても過言では無い。エミールは慣れた手付きで皿に食事を盛って行く。こう見えて実家の寺では料理人見習いとして修行をしていたし、テロがあってしばらくは炊き出しにも参加していて平等な量に盛ると言う作業は慣れっこだ。
雑念を一切排除し機械人形もびっくりな正確さで皿に盛り付ける。今日は白スープの盛り担当だ。一人前のベーコンの枚数もなるべく平等にするのが拘りである。
「ふぅ…我ながら良い盛り具合です。ん…？」
ふと受付に目をやると、ヒギリの横顔が目に入った。可愛らしい女性の横顔。何故だろう？憂いを込めた様にも見えるその瞳に朝以来忘れかけていたときめきが蘇って来た。
「ヒギリさん……」
その一見少女にも見えるあどけなさでふとした時に見せる哀愁漂う雰囲気の顔が何とも…っ！！
尊……っ！！
するとヒギリの顔から哀愁が消え、パァッと明るい表情に瞬時に切り替わる。何かを見付けたのか嬉しそうに顔を赤らめるヒギリ。彼女の前に現れたのは人事部のタイガ・ヴァテールと汚染駆除班のテオフィルス・メドラーだった。
「テオさん！タイガ君！」
「よ！ヒギリちゃん」
「こんにちは、モナルダさん」
エミールは瞬時にピンと来る。少なくともタイガは自分と同じ様な人間だ、と。おそらくヒギリに対して何某かの遠慮染みた距離の置き方を敢えてしているのだがヒギリ本人は気付いていない。
しかしそんな葛藤の横にいるテオフィルスはおそらく真逆の性質を持つ人間だ。彼はヒギリに好意を持たれたら持たれただけ素直に返せる人間なのだろう。いつも元気よく子犬の様なヒギリの頬を朱に染められる人間を見るのは珍しく、テオフィルスは数少ないその珍しい内の一人だった。
タイガとテオフィルスと、配膳の間楽しそうに談笑するヒギリ。それはエミールがまだ見た事のない女性の顔だった。
「…ヒギリさん…」
何だろう、このきゅっと胸を締める感じ。いや、正直給食部に配属になってからほぼ毎日味わっていると言っても過言ではないのだがその事実は横に置いておいて。
そうか、ヒギリはきっと好きなのだ。…タイガかテオフィルスのどっちかを、あるいは二人のどっちかに似ている誰かを。あるいはもう一人確か居た筈だ、あの黒髪の眼鏡の男性を…。あるいは──…。
と、こんなに間近で見ていて実は全くと言って良い程ヒギリの「懐いていて憧れている人がいっぱいいる」と言う乙女心に気付けておらず「取り敢えず誰かが好きなんだろう」と言う大変大雑把な予測をしたエミールは今日も「恋に破れた」と遠い目線を向けたのだった。そしてあろう事か今日は変に動揺したのか包丁で指を切り、近くに居たノエとネリネに断りを入れ医療班へ向かった。
「エミールさんはもう遠い目をしてらっしゃいましたね」
「今日の給食部での失恋は一時半でしたね。いつもは三時前くらいまで引っ張るのに」
「だから動揺してしまったのでしょうか…？珍しく包丁で指を切られるなんて…」
ノエは一瞬心配そうな顔を見せたのだが、何となく以前の主人を思い出す思い込みの激しさと言うか何と言うか、
「ゆ、指を切ってしまった…」
しかも結構ざっくりと。一瞬燃える様な熱い痛みが走ったと思ったが遅かった。切れてしまっていた。とりあえず絆創膏を貰おうと医療班へ向かい、ドアをノックする。昼時だし休憩時間ギリギリでは無いかと思い心配そうな顔をしていると、キィ…と音を立ててドアが開き、開けた本人であろう女性と目があった。
「あら。どうしたの？」
「あの、給食部で仕事中に包丁で指を切ってしまいまして…」
「え？指を？どれ…」
その女性は、猫の様なふわふわした茶色の髪の毛を耳に掛けるように掻き上げる。その仕草の何と色っぽく美しい事だろう。そもそもとして長い髪を掻き上げる仕草もまたフェチであったエミールは彼女の──アペルピシアの動きに見入ってしまっていた。それどころか、怪我をした指を見ようと彼女がエミールの手を取ったものだから、治療行為なのだからその動きは当然なのだが慣れない女性に手を触れられたエミールはその一瞬で胸をときめきが貫いて行くのを感じた。
「た……尊っ…」
ちなみに先程から漏れているこの心の声は物凄く小さな声で言っているので未だに聞かれた事が無いと言うのがエミールの惚れっぽさがそこまで公にならない要因と言えるだろう。
「痛む？んー…そこまで深くは無いから医療班の誰が治療しても大丈夫そうね。ごめんなさい、私はこれから昼休憩だから別の人に頼むわね。でも心配しなくて大丈夫よ」
そう言ってアペルピシアは近くに居た女性に声を掛ける。その女性は眠たそうな顔をしながら太めのお下げを揺らしやって来た。
「エル、どうしたの？」
「クイン、悪いのだけど彼の手当をお願い出来るかしら？包丁で指を切ってしまったんですって」
「あらあら大変」
こっち来て、と促され彼女の後ろをついて行く。てっきりお下げと言う髪型から幼い人なのかと想像していたが、緩いのはその髪型だけであり、「結構ざっくり行ってるから痛かったでしょ？」と此方を振り返ったその瞳は年相応に色々と経験したのであろう暗澹さを湛えており、ただの若い子には出せない色気があった。少し背が低く俯瞰で見る彼女の体のシルエットから程良く控えめなスタイルの女性である事も分かり、エミールはまた胸をときめきに貫かれた。
「とりあえず絆創膏…あら？絆創膏どこだったかしら…」
医療用の接着剤なんて珍しいものもあるのに何故か絆創膏がそこには無い。エミールは普段見ない医療班の仕事道具をまじまじと眺める。クインはその中から絆創膏を眠たそうな瞳で探していた。
「…一番使う絆創膏が無いなんて困るわね…先日備品のチェックをしたのは…ネビロス？全く変なとこ抜けてるのかしらねぇ？あの木偶の坊」
「でく…？」
何か聞こえた気がするが多分気の所為では無いのだろう。いやむしろ、この眠たそうな瞳と一見幼そうな風貌から発せられる少し棘も毒もある言葉達。この衝撃の何と大きい事だろう。
「毒舌とお下げ髪と眠たそうな目…尊……っ！」
「あれ？クイン先生？どうしたんですか？」
そこにやって来たのはミア・フローレスだった。まだまだあどけなさの残る彼女ならそんなに好意が限界突破しにくいだろうとエミールは少し安堵する。
「あれ！？エミールさんどうしたんですか！？」
「こんにちは、ミアさん。実は調理中に包丁でうっかり指を切ってしまって…」
「わわわ…痛そうですね…」
しゅんと縮こまるミアは年相応の可愛らしい少女であり、こんな子が大人に混じって医療の現場で働いているのだから立派なものだとエミールは思う。
「指を切ったと言うからとりあえず絆創膏を貼ろうと思ってんだけど、何故か絆創膏が見当たらないのよ。誰か使ったきり出しっ放しにしてるのか備品のチェックを怠ったのか…」
「あれ？どうしてかな…？あ、クイン先生！私の私物で良ければ使ってくれますか？」
そう言ってミアが取り出したのは可愛らしい動物のプリントされた絆創膏だった。保育部の子に人気なのだと嬉しそうにミアは笑う。なるほど確かに少し子供っぽいデザインだが、何とも可愛らしくミアによく似合うデザインだ。
「あらありがとう。助かるわ。そうだミア、直近で備品チェックした人にそれとなく伝えといてくれないかしら？絆創膏は一番多く使うからもう少しチェックを厳重にって。足りなそうなら調達班に追加注文しておいてって」
「はい！どなたに伝えたら良いですか？」
「ネビロスよ。ネビロス・ファウスト」
「え……」
ネビロスの名を聞いた瞬間にミアの頬が赤く染まる。それはネビロスに憧れているからなのだがそれを間近で見てしまったエミールには刺激が強すぎた。
少女の様なあどけなさが残ると言うかまだ未成年の筈だが、いつも通り普通に過ごしている彼女の愛らしい顔とはまた違う顔が目の前に広がっている。恋をする女の子の顔がこんなに魅力的に見えてしまうだなんて。いけないいけない、まだ未成年だからと言って油断していた。ミアは、彼女はあれだ。学生時代の荒れた青春で見たクラスのマドンナを彷彿とさせる。
「あ！と、とりあえずエミールさんに絆創膏貼りましょう！」
慌てたミアから絆創膏を受け取ると彼の手を取り指に貼るクイン。防水性はあまり期待出来ないから、今日は洗い物をするなら手袋で手を守りながらにしてねと一言残し、彼女は早々に二人の前から離れた。
いけないいけない。修行が足りないが故か、医療班はそもそととして魅力的な女性が多過ぎてすぐ雑念に支配される。まさかまだ未成年のミアにまでこんなにも容易にときめいてしまうとは。
「…ミ、ミアさんはネビロスさんと仲が良いのですか？」
「え！？」
「あ、いえ。先程クインさんは、ミアさんからネビロスさんに伝えておいて欲しいと言う口ぶりでお話されていたので…。お二人の仲の良さを見込んでお願いされていたのかと思いまして」
「わ、私がネビロスさんと…！？」
雑念を払う為、普通にミアと会話をしようとしたエミール。しかし、彼の話題のチョイスは結果として失敗であり、彼は次の瞬間ミアの顔を見てまた雑念だらけになったのであった。
「ネビロスさんと…仲良くなれたら良いなぁ…」
少し目を伏せながらそう呟くミアの頬の何と甘酸っぱそうな事か。いやいや、まだお若いとは言えご婦人の頬を味で例えるだなんていよいよ持って変態っぽい気がする。
「あの…ネビロスさんと仲良くなれると良いですね…」
きっとミアはネビロスに憧れを抱いているのだろう。ああ、男ならぐらりと来そうなその赤く染まった頬！可愛らしく伏せられた目！尊い…！！しかし同時に自分の恋は散った。
「お世話になりました。それでは私はこれで」
これ以上こんな魅力的な人達に囲まれていたら未熟な自分は雑念、煩悩だらけになってしまう。早々に部屋を出ようと前を見ずに足を進めたエミールは、ドアを乱雑に開け、足早に飛び出そうとしたまさにその瞬間誰かの手が腕に絡まった事に気が付いた。ガクンと後ろに引っ張られ思わず足を止める。
「ん…？」
「ねえ、危ない…今保育部の子供達がここ通るから、よそ見せずに早足で飛び出さないで」
自分のすぐ近くで、自分の腕に絡んでいたのはヴォイドだった。彼女に言われ目線を前に遣ればそこには引率の先生に連れられた保育部の子供達。ああ、成る程。この子達の為にわざわざ声を掛けてくれたのか。余所見をして何も考えずに飛び出していたら確かにそのままの勢いでぶつかってしまっていたかもしれない。
「すみません、周りをよく見て居ませんで…」
「お前は体大きいから良いけど、あの子達ぶつかったら危ないから。急に止まれない様なスピードで歩かないで」
「ええ。気を付けます」
はたと気付く。ヴォイドは普段下着の様な格好で居るから接触を避けていたが、今は仕事中なのでスクラブを着用している。しかし、医療班メンバーに支給されているスクラブでいつもは目立つその谷間が目視しにくいとは言え、目の前に広がるのは間違いなくカヌル山級の重量感である。エミールはこんな至近距離でこんなボリュームを拝んだ事が無く、腕に当たっているそれの正体に気付いた瞬間彼は茹でられた様に赤くなったのだった。
「お帰りなさい、シュニーブリーさん」
「た、ただいま戻りました…」
出迎えたネリネが見たのは、何があったのか両方の鼻の穴にティッシュを詰めた鼻声のエミールだった。何となく察した彼女はとりあえず切った指の治療がされている事に安堵すると、ふと彼に声を掛けた。
「シュニーブリーさん」
「はい？」
「行って戻ってくる間に何回ときめいて何回失恋したんです？」
動揺したエミールは、今度は反対の方の手の指を切った。
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