月が綺麗な夜に／燐花
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rinka_creation 2021年05月26日(水) 00:09:14履歴
一日歩き回り疲労も溜まったそんな夜。ロードはナウム通りの喫茶店「コクシネル」に足を運ぶと加入希望者のデータを貰い受けると共にコーヒーを注文する。店主であり人事部新規勧誘課で実質ロードの同僚でもあるジェレミー・エストレは注文を繰り返すと「本当に良いのかい？」と付け足した。
「夜にコーヒーか。人によっては寝れなくなるからって避けるのにね」
「うふふふ。今日は一日歩き回って足が棒の様になる程疲れたので、関係無く眠れるかと」
「そうか。そんなお疲れのお兄さんにハッとする事を教えてあげよう。コーヒーを淹れている間、窓から外を見ると良いよ」
言われるがまま席を立ち、窓から外を見る。この日は月がいつもより強い光を放ち、いつもより近くに迫って来ている様だった。
「きっと歩くのに夢中で気付かなかったんじゃないかなと思ってね。今日は月が綺麗な夜だよ」
「……そうですね…」
一見すると、ロードが岸壁街で長く生活をしていた人間だと言うのを見極めるのは難しい。彼は彼なりに恐ろしい経験を、人生を歩み、そして普通に生活をしていたら経験しなくて良い辱めを受け、自分も大事な人に一度間違った愛を向け、離れざるをえなくなったその時に過ちに気付きもう一度彼女に心から触れたくなって、それは叶わずそうして今まで生きてきた。そしてそれを隠す様にさも最初から、岸壁を這う様に出来上がった有象無象等無縁ですと言わんばかりに振る舞っている。
上品な振る舞い、上品な言葉遣い。
そうして上品な人間の皮を被る。
それでも珍しい光を放つ月の前では全て見透かされている気がした。
「コーヒー、淹れたよ」
「…あ、はい」
声を掛けられ一瞬びくりと肩を震わせる。ジェレミーはロードが何故そんなに驚いたかは分からなかったが、努めて優しく声を掛けた。
「月が珍しいのかい？なんてね」
「ま、まあ…これだけ光の強い月はなかなかお目に掛かれませんから…」
「…ん？あまり空を見上げないタイプかな？」
「結社に来る前…いいえ、来てから暫くも仕事に忙殺されてましたから」
「若いのに仕事に食われる生活は勿体ないな」
「ええ、まあ…でもここに来た事でテレビドラマを語れる人にも出会えましたし悪い事ばかりじゃないですね。前の職場ではそんな知人居ませんでしたから」
「ドラマか…何を観るんだい？」
「『大きなナラの木の下で』です」
「ああ、数年前に流行ったアレか。意外だね、恋愛モノ観るなんて」
「うふふふ。こう見えて絶賛片想い中でして」
「へぇ…それも意外だね。てっきり選び放題の御身分かと思ったんだけど」
確かに、ある意味では。
遊ぶ相手は基本選り好んでしまうからそう言う意味では選び放題ではあるのだが。数日前立ち寄ったバーで話し込んだ女性がヴォイドに少し似ていた事、しかし一向に本命である彼女に振り向いて貰えない事実を思い出しロードは少し苦い笑みを浮かべた。
「…コーヒーが苦いですねぇ…」
「コーヒーは苦いものだよ？」
月が綺麗だ。彼女も同じ月を見ているのだろうか。崖に作られたバラックが長い時間世界の全てだった彼女も、今は月の美しさを楽しめているのだろうか。
少し物思いに耽りながらコーヒーを口に運ぶ。
コーヒーの苦い香りの奥に柔らかく懐かしい匂いを感じた気がした。異臭腐臭の立ち込めるこの世の地獄の様な世界でたった二人きりだった時、貪る様に噛み付いた彼女の首筋から確かに香ったその香り。
本能が掻き立てられる様な、体が熱くなる様な。何年経っても決して忘れる事は無い彼女の香り。
「うふふ…苦いですねぇ…」
いつもより余計に苦く感じるコーヒーを味わいながら、いつか彼女の横で夜を過ごせたらと思いを馳せる。そんなロードの気持ちを知ってか知らずか、ジェレミーは何を言うでも無く静かに音源を取り出すと店内に響かせた。
「おや…クラシックですか…」
「良いものでしょ？コーヒーとクラシック」
「うふふ、流石良い仕事をなさる…」
あなたは私の魂、私の心、私の無上の喜び、私の痛み──…。
「夜にコーヒーか。人によっては寝れなくなるからって避けるのにね」
「うふふふ。今日は一日歩き回って足が棒の様になる程疲れたので、関係無く眠れるかと」
「そうか。そんなお疲れのお兄さんにハッとする事を教えてあげよう。コーヒーを淹れている間、窓から外を見ると良いよ」
言われるがまま席を立ち、窓から外を見る。この日は月がいつもより強い光を放ち、いつもより近くに迫って来ている様だった。
「きっと歩くのに夢中で気付かなかったんじゃないかなと思ってね。今日は月が綺麗な夜だよ」
「……そうですね…」
一見すると、ロードが岸壁街で長く生活をしていた人間だと言うのを見極めるのは難しい。彼は彼なりに恐ろしい経験を、人生を歩み、そして普通に生活をしていたら経験しなくて良い辱めを受け、自分も大事な人に一度間違った愛を向け、離れざるをえなくなったその時に過ちに気付きもう一度彼女に心から触れたくなって、それは叶わずそうして今まで生きてきた。そしてそれを隠す様にさも最初から、岸壁を這う様に出来上がった有象無象等無縁ですと言わんばかりに振る舞っている。
上品な振る舞い、上品な言葉遣い。
そうして上品な人間の皮を被る。
それでも珍しい光を放つ月の前では全て見透かされている気がした。
「コーヒー、淹れたよ」
「…あ、はい」
声を掛けられ一瞬びくりと肩を震わせる。ジェレミーはロードが何故そんなに驚いたかは分からなかったが、努めて優しく声を掛けた。
「月が珍しいのかい？なんてね」
「ま、まあ…これだけ光の強い月はなかなかお目に掛かれませんから…」
「…ん？あまり空を見上げないタイプかな？」
「結社に来る前…いいえ、来てから暫くも仕事に忙殺されてましたから」
「若いのに仕事に食われる生活は勿体ないな」
「ええ、まあ…でもここに来た事でテレビドラマを語れる人にも出会えましたし悪い事ばかりじゃないですね。前の職場ではそんな知人居ませんでしたから」
「ドラマか…何を観るんだい？」
「『大きなナラの木の下で』です」
「ああ、数年前に流行ったアレか。意外だね、恋愛モノ観るなんて」
「うふふふ。こう見えて絶賛片想い中でして」
「へぇ…それも意外だね。てっきり選び放題の御身分かと思ったんだけど」
確かに、ある意味では。
遊ぶ相手は基本選り好んでしまうからそう言う意味では選び放題ではあるのだが。数日前立ち寄ったバーで話し込んだ女性がヴォイドに少し似ていた事、しかし一向に本命である彼女に振り向いて貰えない事実を思い出しロードは少し苦い笑みを浮かべた。
「…コーヒーが苦いですねぇ…」
「コーヒーは苦いものだよ？」
月が綺麗だ。彼女も同じ月を見ているのだろうか。崖に作られたバラックが長い時間世界の全てだった彼女も、今は月の美しさを楽しめているのだろうか。
少し物思いに耽りながらコーヒーを口に運ぶ。
コーヒーの苦い香りの奥に柔らかく懐かしい匂いを感じた気がした。異臭腐臭の立ち込めるこの世の地獄の様な世界でたった二人きりだった時、貪る様に噛み付いた彼女の首筋から確かに香ったその香り。
本能が掻き立てられる様な、体が熱くなる様な。何年経っても決して忘れる事は無い彼女の香り。
「うふふ…苦いですねぇ…」
いつもより余計に苦く感じるコーヒーを味わいながら、いつか彼女の横で夜を過ごせたらと思いを馳せる。そんなロードの気持ちを知ってか知らずか、ジェレミーは何を言うでも無く静かに音源を取り出すと店内に響かせた。
「おや…クラシックですか…」
「良いものでしょ？コーヒーとクラシック」
「うふふ、流石良い仕事をなさる…」
あなたは私の魂、私の心、私の無上の喜び、私の痛み──…。
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