ボックス／燐花
最終更新：
rinka_creation 2022年01月11日(火) 23:43:06履歴
「痛ててて…」
「おらジョン、立ちな。元軍人が聞いて呆れるわねぇ」
「あのな小隊長、おっさんに腕立て、スクワット、腹筋それぞれ三百回は課し過ぎだと思うぞ？」
ジョンがバーティゴを「若いな」と思う一番の瞬間はジムで筋トレをしている時である。自主トレで一人黙々とやれるならマイペースに出来るから良いが、間違って彼女と鉢合わせたら大変どころの騒ぎではない。「あら！一緒にやりましょうよ！」と人懐っこく来てくれるのでそう言うところは可愛らしいが、ヒートアップした彼女が課してくる筋トレメニューと言うのは大変可愛くない。
自分も相手も元軍人だから余計にそうやりたくなるのか、一番最初にやられたのは腕立て、腹筋、スクワットを各々五百回、しかも体の上に彼女を乗せた状態でと言うとんでもない注文だった。
俺の歳を考えろとその時は柄にもなく怒ってしまったが、よくよく考えたら矢張り女性とは言えこんな筋肉の塊（しかも義肢をつけていて余計重い）を乗せてそんなハードなメニューをこなしたらそれこそ戦場で使い物にならなくなってしまう。
だからその日以来彼女を避けて自主トレしていたのだが、この日は運が悪かった。
「そんなに言うならちゃんとこなすから飲み物買って来てくれよ」
「本当…？一人でやれんの？」
「やれるっつの、そんな宿題から何とか逃げようとする餓鬼じゃあるめぇし。あんたのチョイスで良いよ。俺は文句言わねぇから。後で金払うから買ってきてくれ」
「……サボるんじゃ無いわよ？」
サボりません。休むだけです。
その言葉を飲み込んで彼女を送り出した。彼女は義肢には慣れたものだがそれでも細かい作業は苦手だし、どうあったって生身の人間より動きにくそうなところがある。今頼んだおつかいもルーウィンやセリカと比べて彼女は少しばかり帰りが遅い。
だから彼女の姿が見えなくなるまでは一生懸命筋トレをして見えなくなったらサボる、もとい少し休む。帰って来そうな気配を察知したらまた筋トレを一生懸命始めれば、彼女の目には行きも帰りもきちんとノルマをこなしている自分の姿が映るとそう言うわけだ。
これは己の体力を見極めコントロールしているのだから、つまり戦術的休憩だ。断じてサボりでは無い、断じて。
「ふぅ…」
バーティゴの姿が見えなくなったのでジョンは緊張を解き、力を抜いた。昼寝をする様に手を枕にし、ごろりと横になってみる。
そう言えば経理部所属の兎頭国の兄ちゃんがよくこんな感じでサボっているよなと思い出す。あいつ、若い癖に惰眠を貪り過ぎじゃ無いだろうか。若い癖に覇気が無い。けれどまぁ、自分もこのぐうたら寝の魅力を知っている身なので抗えない気持ちも理解している。
何故班も違う経理部の若造の事を気にするか、と言うと偏に小隊長ことバーティゴが可愛がっているセリカと彼は仲が良く見えるからだ。実際仲が良いのだろう。いつもお淑やかで居て、どちらかと言うと静かに遠回しにチクチク注意するタイプかと思っていた彼女。自分も含めあまり人に対して烈火の如く怒る姿を見ていない、そんなセリカが彼に対しては結構プンスカ怒っている。
それはきっと距離が近く無いと見れない彼女の姿だろうし、それを引き出せるのだからあの若造は凄いのだろう。
自分とは違う武器を持ち、自分とは違う戦場を駆け抜けたであろう青年。しかし、彼は本当によく眠るな。夜遊びしているから昼間寝ているのか？あれだけ日中うとうとしている姿を確認して且つ夜も寝ているのだとしたら素晴らしい寝付きの良さだ。
歳を取ると人間は少しずつ眠りが浅くなると言う。俺も将来そうなる時が来るかもしれないとジョンは少しだけゾッとした。そしてこんなうららかな陽射し差し込む暖かい部屋から一歩外に出ると突き刺す様な寒さが沁みるのがカンテ国の冬だ。自分の誕生日があるから昔は好きだったが、誕生日に特別さを見出せなくなった今では寒い季節はただ億劫なだけ。いっそ冬場は眠るだけ眠って夢の中、気付いたら冬が過ぎて春になっていたなんて言う風に出来れば良いのに。
本当、何故人は冬眠しないのだろうか。熊だって、他の冬眠する小さな生き物たちに混じってあの巨大で冬は寝て過ごせるのに人間のこの小さな体が寝るに適さないなんて事あるわけ無いと思いたい。
サボる口実が見付かるでも無く、ただただ昼寝に想いを馳せているだけで数分が過ぎてしまったジョンの顔に影が掛かる。誰かが覗き込んでいる様だ。目を開けて影の主を確認すると、そこに居たのは第四小隊のユリィ・セントラルだった。
「その平均台、使いたいんだけど」
そう言えば自分の今寝ているところは平均台の前だった。それを思い出しジョンは軽く謝りながら体を起こす。その時、服の上から分かるユリィの見事な肉体美に気が付いた。
女性で特に何もして居なければ見た目に一番影響ある緩み方をしてくるのが上腕三頭筋。女性は皮下脂肪が付きやすいのでここが一番形として現れる。若い女性でも割とふっくらしやすい場所ではあるのだが、しかし彼女の腕はどちらかと言うと硬そうでそこには弛まぬ努力が見て取れた。よくよく見ると腕、首、肩とあらゆるところが薄ら筋張っており、それはジョンの感心する鍛錬の証だった。
「何…？うちの顔、何か付いてる？」
うら若いお嬢さんをまじまじ見てしまったと気付きまた軽く謝るが、同じ前線駆除班だし小隊長の都合で時折一緒に仕事をする事もある。せっかくなので話を膨らませる事にした。
「いや？悪かったなまじまじ見ちまって。それにしても良い筋肉だ」
「ありがとう。小さい頃から色々やってるから」
「色んな場所で色んな人間見て来たがなかなか見ない様な良い体してんな。何やってたのか教えてくれるか？」
「空手とかクンフーとかムエタイとか。アクション俳優が格好良いなって小さい頃から思ってて、似た様な事出来る様になりたかったの」
「格闘技…？そりゃあ良いね」
ジョンは少しだけワクワクしている自分に気が付いた。仕事は嫌いだが戦いは嫌いじゃ無い。それに、ただ一人黙々と筋トレして居たって面白くないが、たまにこうして誰かと組み手をするなら別だ。
「俺もキックボクシングなら多少心得あるんだ。ちょっとばかしスパーリングでもやらねぇか？」
「え？でもうち…キックボクシングは…」
「ムエタイならフォーム近いだろ？」
「でも心得程度だよ」
「何、俺のボクシングも心得程度だよ」
そう言うと、頷いたユリィは準備運動を始める。そして防具の準備を始めた。あまりに呆気なく承諾された事にジョンが呆けていると、「何してるの？やらないの？」と準備を終えたユリィがあっさり言い放った。
* * *
「悪かったわね、セリカ」
練習場へと戻る道を歩きながらバーティゴはそう呟く。セリカは彼女のその言葉に嬉しそうににこりと微笑んだ。
「いいえ。お姉様のお役に立てたなら嬉しいですぅ」
「しっかしまさかまさかだわ。自販機の中身一新したなんて…」
バーティゴにおつかいを頼むと中々戻らない理由。それは彼女の視力の悪さにあった。義肢を使っての歩行に関して特に問題無いが、彼女が人より少しハンデがある一番の部分はおそらく目である。
あらゆる死線を潜り抜けた彼女の視力はほぼ弱視のそれであり、商品を選んで買うと言う作業を難しくさせて居た。いつもなら決まったものを押して買っているので良かったが、たまたま練習場の近くの自販機が商品を入れ替えてしまった為に場所が分からず、バーティゴにとって買い物は難しい作業になって居た。
そこをたまたまセリカが通り掛かった為に事なきを得たのだが、一人だったら難しかったなぁと思うとバーティゴはつい眉間に皺を寄せてしまった。
「小隊長ともあろう人間がお使いの一つも出来やしない。まったく、情け無い話だわ」
「そんな事言わないでくださいよぅ。お姉様のそのハンデはお姉様が生き延びる為に欠けさせてしまったもの、つまり致し方ない事ではないですか。いざ戦場に出ればその経験から絶対皆が生きて帰る手段を取られる、そんなお姉様だからセリカは安心してついていけるんですぅ」
「……ありがと」
「だからこんな日常の事くらいセリカや周りの人間を頼ってくださいよぅ」
小脇にスポーツドリンクやコーヒーを抱え、セリカとバーティゴは一緒に練習場に入る。すると、自分がいた時には聞かなかった歓声を聞いた。
「行けー！姉ちゃんそこだー！踏み込め！」
「おっさんガード！！ガード！！やられんぞ！！」
「姉ちゃん前出ろ！！前！！」
何がどう言う歓声だこりゃ。
バーティゴは光と色が辛うじて分かる状態で何とか状況を把握しようとするがそれも叶わず、身を屈めるとセリカに顔を近付けた。
「……セリカ、セリカ」
「はい？」
「私の目の代わりに状況を説明してくれない？」
「えっとぉ…」
──スミスさんがプロテクターやヘッドギア、グローブを装着して女性とボクシングの試合してますぅ。
──何やってんのよ、アイツ。
──しかも白熱している様で、先程から聞こえる大き目の歓声は試合をしてるお二人に向けられたものですぅ。
──何を人気取ってんのよ、アイツ。
──あ、対戦相手の女性、誰かと思ったら第四小隊のセントラルさんでしたぁ。
──あの子はあの子で何やってんのよ。
「ボックス！！」
いつの間に誰がその役割を担う事になったのか、レフェリー役のメンバーの掛け声で再度殴り合いがスタートする。大きく湧き上がる歓声の中どちらも互角と言った感じで試合が進み、双方少しだけ繰り出すパンチが雑になったかと思う程に疲弊した頃、ユリィのパンチがジョンの顔を捉えた。だぁん！と大きな音を立て、ジョンは天を仰ぐ様にひっくり返る。すぐさまレフェリーが彼の顔まで身を屈め、耳元でカウントを取った。
「ワン！ツー！スリー！」
「…って言うか、レフェリーはどっから来たのよ」
「あ、よく見たらレフェリーやってる方、総務部のボロドゥリンさんですぅ。スミスさんのセコンドはレッヒェルンさんが、セントラルさんのセコンドはリーシェールさんが担当されてますぅ」
「また絶妙な面々じゃない」
「あ！スミスさんの様子を見てレッヒェルンさんがギブアップを宣言してますぅ」
「あら、負けちゃったの？」
「と、思ったらリーシェールさんがセコンドに気合を入れ過ぎたのかセントラルさんの横で腰を痛めてますぅ…」
「おい」
結局、リーシェールの魔女の一撃再発によりキックボクシングの試合はお開きとなった。担架でやって来たジークフリートとスレイマンが彼を寝かせ、ゆっくり医療班に運ぶ姿を見届けるとバーティゴはにこにこしながらジョンに近付く。
「ふふふ、随分楽しそうじゃない？ジョン」
「げっ…小隊長」
「アンタがあんなに格闘技に精通してると思わなかったわ」
「下手の横好きさ。ま、昔取った杵柄ってやつかな？」
「昔千里も今一里になってなければと思ったけど、なかなか良い動きだったわよ？」
「あ？見えたのか？」
「セリカに実況解説してもらった。しかし、ふふふ…ボクシングねぇ…ふふ…！」
バーティゴが喜んでいる。
ジョンは嫌な予感がした。
「決めた！次私とスパーリングやるわよ！」
「やっぱりな…勘弁してくれよ！連戦するつもり無かったから俺もうヘトヘトなんだぜ！？」
「何よ、こんな面白い事出来るなんて期待させて嫌な男ねぇ。じゃあ次！一週間後にまたこの時間に練習場来なさいよ？防具も準備するから私と闘りましょう、はい決まり」
「『はい決まり』じゃねぇよ！何勝手に決めてんだ！？」
「エレオノーラ・ブリノヴァとジョン・スミスでリング使うから貸し出しの予約入れといて」
「こら嬢ちゃん！俺の話聞けよ！」
「ふふふ…久々に楽しめるわぁ…」
何てこった。何でこんな事になってしまったんだ。ジョンはウキウキするバーティゴを尻目に頭を抱えた。
しかし、久しぶりに誰かと競う様に思い切り体を動かすのはやはり楽しかったりする。一人黙々と筋トレをするより、もしかしたら対人競技の方がやっていて楽しいかもしれない。
「待てよ…？となると少なくとも来週までは小隊長の地獄の筋トレはやらなくて良いってのは確約されたんだよな…？」
あ、じゃあ禍転じてって奴か。
ジョンがそんな事を黙々と考えていると、いつのまにかバーティゴとユリィが親しげに試合について語り合っていた。その日以降、ジョンは前より少しうきうきしながら練習場に顔を出すようになったし、バーティゴはユリィを気に入ったのか第三小隊が別小隊のメンバーを加えて任務に着く時は彼女の同伴が多くなった。
尚、約束の試合の日には今度はジョンが腰に魔女の一撃の様なものを食らってしまい、彼の腰を見たアキヒロは「安静にしてくださいねー」と優しい口調で強く言い放った。そんなジョンの状態を聞き、彼の部屋に乗り込んだバーティゴが珍しく身の回りの世話を甲斐甲斐しくしてくれた為そこでも彼は彼女の珍しい姿が見れた幸運を噛み締めたそうだ。
「おらジョン、立ちな。元軍人が聞いて呆れるわねぇ」
「あのな小隊長、おっさんに腕立て、スクワット、腹筋それぞれ三百回は課し過ぎだと思うぞ？」
ジョンがバーティゴを「若いな」と思う一番の瞬間はジムで筋トレをしている時である。自主トレで一人黙々とやれるならマイペースに出来るから良いが、間違って彼女と鉢合わせたら大変どころの騒ぎではない。「あら！一緒にやりましょうよ！」と人懐っこく来てくれるのでそう言うところは可愛らしいが、ヒートアップした彼女が課してくる筋トレメニューと言うのは大変可愛くない。
自分も相手も元軍人だから余計にそうやりたくなるのか、一番最初にやられたのは腕立て、腹筋、スクワットを各々五百回、しかも体の上に彼女を乗せた状態でと言うとんでもない注文だった。
俺の歳を考えろとその時は柄にもなく怒ってしまったが、よくよく考えたら矢張り女性とは言えこんな筋肉の塊（しかも義肢をつけていて余計重い）を乗せてそんなハードなメニューをこなしたらそれこそ戦場で使い物にならなくなってしまう。
だからその日以来彼女を避けて自主トレしていたのだが、この日は運が悪かった。
「そんなに言うならちゃんとこなすから飲み物買って来てくれよ」
「本当…？一人でやれんの？」
「やれるっつの、そんな宿題から何とか逃げようとする餓鬼じゃあるめぇし。あんたのチョイスで良いよ。俺は文句言わねぇから。後で金払うから買ってきてくれ」
「……サボるんじゃ無いわよ？」
サボりません。休むだけです。
その言葉を飲み込んで彼女を送り出した。彼女は義肢には慣れたものだがそれでも細かい作業は苦手だし、どうあったって生身の人間より動きにくそうなところがある。今頼んだおつかいもルーウィンやセリカと比べて彼女は少しばかり帰りが遅い。
だから彼女の姿が見えなくなるまでは一生懸命筋トレをして見えなくなったらサボる、もとい少し休む。帰って来そうな気配を察知したらまた筋トレを一生懸命始めれば、彼女の目には行きも帰りもきちんとノルマをこなしている自分の姿が映るとそう言うわけだ。
これは己の体力を見極めコントロールしているのだから、つまり戦術的休憩だ。断じてサボりでは無い、断じて。
「ふぅ…」
バーティゴの姿が見えなくなったのでジョンは緊張を解き、力を抜いた。昼寝をする様に手を枕にし、ごろりと横になってみる。
そう言えば経理部所属の兎頭国の兄ちゃんがよくこんな感じでサボっているよなと思い出す。あいつ、若い癖に惰眠を貪り過ぎじゃ無いだろうか。若い癖に覇気が無い。けれどまぁ、自分もこのぐうたら寝の魅力を知っている身なので抗えない気持ちも理解している。
何故班も違う経理部の若造の事を気にするか、と言うと偏に小隊長ことバーティゴが可愛がっているセリカと彼は仲が良く見えるからだ。実際仲が良いのだろう。いつもお淑やかで居て、どちらかと言うと静かに遠回しにチクチク注意するタイプかと思っていた彼女。自分も含めあまり人に対して烈火の如く怒る姿を見ていない、そんなセリカが彼に対しては結構プンスカ怒っている。
それはきっと距離が近く無いと見れない彼女の姿だろうし、それを引き出せるのだからあの若造は凄いのだろう。
自分とは違う武器を持ち、自分とは違う戦場を駆け抜けたであろう青年。しかし、彼は本当によく眠るな。夜遊びしているから昼間寝ているのか？あれだけ日中うとうとしている姿を確認して且つ夜も寝ているのだとしたら素晴らしい寝付きの良さだ。
歳を取ると人間は少しずつ眠りが浅くなると言う。俺も将来そうなる時が来るかもしれないとジョンは少しだけゾッとした。そしてこんなうららかな陽射し差し込む暖かい部屋から一歩外に出ると突き刺す様な寒さが沁みるのがカンテ国の冬だ。自分の誕生日があるから昔は好きだったが、誕生日に特別さを見出せなくなった今では寒い季節はただ億劫なだけ。いっそ冬場は眠るだけ眠って夢の中、気付いたら冬が過ぎて春になっていたなんて言う風に出来れば良いのに。
本当、何故人は冬眠しないのだろうか。熊だって、他の冬眠する小さな生き物たちに混じってあの巨大で冬は寝て過ごせるのに人間のこの小さな体が寝るに適さないなんて事あるわけ無いと思いたい。
サボる口実が見付かるでも無く、ただただ昼寝に想いを馳せているだけで数分が過ぎてしまったジョンの顔に影が掛かる。誰かが覗き込んでいる様だ。目を開けて影の主を確認すると、そこに居たのは第四小隊のユリィ・セントラルだった。
「その平均台、使いたいんだけど」
そう言えば自分の今寝ているところは平均台の前だった。それを思い出しジョンは軽く謝りながら体を起こす。その時、服の上から分かるユリィの見事な肉体美に気が付いた。
女性で特に何もして居なければ見た目に一番影響ある緩み方をしてくるのが上腕三頭筋。女性は皮下脂肪が付きやすいのでここが一番形として現れる。若い女性でも割とふっくらしやすい場所ではあるのだが、しかし彼女の腕はどちらかと言うと硬そうでそこには弛まぬ努力が見て取れた。よくよく見ると腕、首、肩とあらゆるところが薄ら筋張っており、それはジョンの感心する鍛錬の証だった。
「何…？うちの顔、何か付いてる？」
うら若いお嬢さんをまじまじ見てしまったと気付きまた軽く謝るが、同じ前線駆除班だし小隊長の都合で時折一緒に仕事をする事もある。せっかくなので話を膨らませる事にした。
「いや？悪かったなまじまじ見ちまって。それにしても良い筋肉だ」
「ありがとう。小さい頃から色々やってるから」
「色んな場所で色んな人間見て来たがなかなか見ない様な良い体してんな。何やってたのか教えてくれるか？」
「空手とかクンフーとかムエタイとか。アクション俳優が格好良いなって小さい頃から思ってて、似た様な事出来る様になりたかったの」
「格闘技…？そりゃあ良いね」
ジョンは少しだけワクワクしている自分に気が付いた。仕事は嫌いだが戦いは嫌いじゃ無い。それに、ただ一人黙々と筋トレして居たって面白くないが、たまにこうして誰かと組み手をするなら別だ。
「俺もキックボクシングなら多少心得あるんだ。ちょっとばかしスパーリングでもやらねぇか？」
「え？でもうち…キックボクシングは…」
「ムエタイならフォーム近いだろ？」
「でも心得程度だよ」
「何、俺のボクシングも心得程度だよ」
そう言うと、頷いたユリィは準備運動を始める。そして防具の準備を始めた。あまりに呆気なく承諾された事にジョンが呆けていると、「何してるの？やらないの？」と準備を終えたユリィがあっさり言い放った。
* * *
「悪かったわね、セリカ」
練習場へと戻る道を歩きながらバーティゴはそう呟く。セリカは彼女のその言葉に嬉しそうににこりと微笑んだ。
「いいえ。お姉様のお役に立てたなら嬉しいですぅ」
「しっかしまさかまさかだわ。自販機の中身一新したなんて…」
バーティゴにおつかいを頼むと中々戻らない理由。それは彼女の視力の悪さにあった。義肢を使っての歩行に関して特に問題無いが、彼女が人より少しハンデがある一番の部分はおそらく目である。
あらゆる死線を潜り抜けた彼女の視力はほぼ弱視のそれであり、商品を選んで買うと言う作業を難しくさせて居た。いつもなら決まったものを押して買っているので良かったが、たまたま練習場の近くの自販機が商品を入れ替えてしまった為に場所が分からず、バーティゴにとって買い物は難しい作業になって居た。
そこをたまたまセリカが通り掛かった為に事なきを得たのだが、一人だったら難しかったなぁと思うとバーティゴはつい眉間に皺を寄せてしまった。
「小隊長ともあろう人間がお使いの一つも出来やしない。まったく、情け無い話だわ」
「そんな事言わないでくださいよぅ。お姉様のそのハンデはお姉様が生き延びる為に欠けさせてしまったもの、つまり致し方ない事ではないですか。いざ戦場に出ればその経験から絶対皆が生きて帰る手段を取られる、そんなお姉様だからセリカは安心してついていけるんですぅ」
「……ありがと」
「だからこんな日常の事くらいセリカや周りの人間を頼ってくださいよぅ」
小脇にスポーツドリンクやコーヒーを抱え、セリカとバーティゴは一緒に練習場に入る。すると、自分がいた時には聞かなかった歓声を聞いた。
「行けー！姉ちゃんそこだー！踏み込め！」
「おっさんガード！！ガード！！やられんぞ！！」
「姉ちゃん前出ろ！！前！！」
何がどう言う歓声だこりゃ。
バーティゴは光と色が辛うじて分かる状態で何とか状況を把握しようとするがそれも叶わず、身を屈めるとセリカに顔を近付けた。
「……セリカ、セリカ」
「はい？」
「私の目の代わりに状況を説明してくれない？」
「えっとぉ…」
──スミスさんがプロテクターやヘッドギア、グローブを装着して女性とボクシングの試合してますぅ。
──何やってんのよ、アイツ。
──しかも白熱している様で、先程から聞こえる大き目の歓声は試合をしてるお二人に向けられたものですぅ。
──何を人気取ってんのよ、アイツ。
──あ、対戦相手の女性、誰かと思ったら第四小隊のセントラルさんでしたぁ。
──あの子はあの子で何やってんのよ。
「ボックス！！」
いつの間に誰がその役割を担う事になったのか、レフェリー役のメンバーの掛け声で再度殴り合いがスタートする。大きく湧き上がる歓声の中どちらも互角と言った感じで試合が進み、双方少しだけ繰り出すパンチが雑になったかと思う程に疲弊した頃、ユリィのパンチがジョンの顔を捉えた。だぁん！と大きな音を立て、ジョンは天を仰ぐ様にひっくり返る。すぐさまレフェリーが彼の顔まで身を屈め、耳元でカウントを取った。
「ワン！ツー！スリー！」
「…って言うか、レフェリーはどっから来たのよ」
「あ、よく見たらレフェリーやってる方、総務部のボロドゥリンさんですぅ。スミスさんのセコンドはレッヒェルンさんが、セントラルさんのセコンドはリーシェールさんが担当されてますぅ」
「また絶妙な面々じゃない」
「あ！スミスさんの様子を見てレッヒェルンさんがギブアップを宣言してますぅ」
「あら、負けちゃったの？」
「と、思ったらリーシェールさんがセコンドに気合を入れ過ぎたのかセントラルさんの横で腰を痛めてますぅ…」
「おい」
結局、リーシェールの魔女の一撃再発によりキックボクシングの試合はお開きとなった。担架でやって来たジークフリートとスレイマンが彼を寝かせ、ゆっくり医療班に運ぶ姿を見届けるとバーティゴはにこにこしながらジョンに近付く。
「ふふふ、随分楽しそうじゃない？ジョン」
「げっ…小隊長」
「アンタがあんなに格闘技に精通してると思わなかったわ」
「下手の横好きさ。ま、昔取った杵柄ってやつかな？」
「昔千里も今一里になってなければと思ったけど、なかなか良い動きだったわよ？」
「あ？見えたのか？」
「セリカに実況解説してもらった。しかし、ふふふ…ボクシングねぇ…ふふ…！」
バーティゴが喜んでいる。
ジョンは嫌な予感がした。
「決めた！次私とスパーリングやるわよ！」
「やっぱりな…勘弁してくれよ！連戦するつもり無かったから俺もうヘトヘトなんだぜ！？」
「何よ、こんな面白い事出来るなんて期待させて嫌な男ねぇ。じゃあ次！一週間後にまたこの時間に練習場来なさいよ？防具も準備するから私と闘りましょう、はい決まり」
「『はい決まり』じゃねぇよ！何勝手に決めてんだ！？」
「エレオノーラ・ブリノヴァとジョン・スミスでリング使うから貸し出しの予約入れといて」
「こら嬢ちゃん！俺の話聞けよ！」
「ふふふ…久々に楽しめるわぁ…」
何てこった。何でこんな事になってしまったんだ。ジョンはウキウキするバーティゴを尻目に頭を抱えた。
しかし、久しぶりに誰かと競う様に思い切り体を動かすのはやはり楽しかったりする。一人黙々と筋トレをするより、もしかしたら対人競技の方がやっていて楽しいかもしれない。
「待てよ…？となると少なくとも来週までは小隊長の地獄の筋トレはやらなくて良いってのは確約されたんだよな…？」
あ、じゃあ禍転じてって奴か。
ジョンがそんな事を黙々と考えていると、いつのまにかバーティゴとユリィが親しげに試合について語り合っていた。その日以降、ジョンは前より少しうきうきしながら練習場に顔を出すようになったし、バーティゴはユリィを気に入ったのか第三小隊が別小隊のメンバーを加えて任務に着く時は彼女の同伴が多くなった。
尚、約束の試合の日には今度はジョンが腰に魔女の一撃の様なものを食らってしまい、彼の腰を見たアキヒロは「安静にしてくださいねー」と優しい口調で強く言い放った。そんなジョンの状態を聞き、彼の部屋に乗り込んだバーティゴが珍しく身の回りの世話を甲斐甲斐しくしてくれた為そこでも彼は彼女の珍しい姿が見れた幸運を噛み締めたそうだ。
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