薄明のカンテ - Y'a d'la joie/燐花

Si vous croyez

「では、お休みなさい」
「はい!お休みなさいネビロスさん!」
 ベッドに潜り込み、キスを一つ二つ交わすと電気が落ちて部屋の中が真っ暗になる。暗がりでもはっきりと、少なくともミアには分かる愛しい人の顔。格好良くて、大人で、優しい顔立ちの大好きな人。
 ミアはうっとりと目の前で眠る恋人の顔を見つめた。何度見ても初めて会った時の様に胸がどきりと跳ねる。私はきっと、一生彼に恋した瞬間を忘れないんだろうな。そう確信する程に彼を愛しているのだと先の騒動でミアは実感した。
「ネビロスさん……」
 呼び掛けると、ネビロスは目をゆっくりと開いてミアを見た。
 我が子との思い出を大切にしているネビロスは今でも目にコンタクトを入れている。自分の目よりも薄い同系統の色のカラーコンタクト。子供代わりであった機械人形のルーチェが「友達と仲良くなれない」と口にした時、彼女と同じ色素の薄い目にする事で鼓舞しようと、或いは彼なりの慰めのつもりであった。
 この暗い部屋の中では彼の裸眼は極めて昏い色に見える。吸い込まれそうな深い色で見つめて数秒、ネビロスは口を開いた。
「どうしました?眠れませんか…?」
 心配そうに、しかしどこかあやす様にそう口にする。ミアはゆっくり控えめに首を横に振ると、もう一度ネビロスとどちらからともなく唇を重ねた。
 啄む様に唇を重ねる。ちゅ、ちゅ、と響く音に照れる暇はミアには無く、キスはどんどん激しさを増していく。舌を絡める音が部屋に響く程の激しい口付けを交わし、離れる頃にはミアは蒸気した真っ赤な顔でネビロスを見つめた。
「では、お休みなさい」
「は、はい…お休みなさい…」
 しかしネビロスはそんなミアを見てにこりと微笑むと、すっと目を閉じてすぅすぅ規則正しく寝息を立て始める。
「……ふぅ……」
 ミアはそんな彼を見て今度は思わず溜息を吐いてしまう。
 優しい彼に何か不満があるかと言うとそんな事はない。先日、薬が終わった時にもう一度顔を出す様に言われて婦人科を再受診した際、当事者としてネビロスもミアと共に顔を出したしその際婦人科医に彼女の前で怒られてしまったのだがそれも甘んじて受け入れて居た。その後も変わらず優しいネビロスにミアは安心したし、彼の愛情も感じながら過ごしたこの数日は満ち足りたものだった。
 しかし、ネビロスの休職から早二週間が経つ今。ほんの少しのモヤがミアの胸中を覆っていた。
ミアさえ良ければ……近い内に『やり直し』ても良いですか…?
 ネビロスは確かにそう言っていた。なのに今現在少しもそんな素振りは見せて来ない。
 彼の言う「やり直し」が何を指すかは子供ではないしもう分かっている。だからミアも生半可な覚悟で返事を返したわけではない。
 だから、と言うわけではないけれど。ミアは何だかとても寂しさを感じていた。
「やり直し…したくないのかなぁ…ネビロスさん…」
 きゅっと目を瞑るといつの間にか夢の中に入ってしまう。ミアはそのまますやすやと朝まで眠り続けたが、睡眠のリズムがまだしっかり整って居ないネビロスは数時間後に一度目を覚ました。水を飲みに行き、ベッドに戻るとミアの寝顔を見て幸せそうに微笑む。
 少しだけ彼女の頬を、首を、胸を、腕を、撫でる様に手を這わせるが熟睡しきっているミアはそんな刺激では目を覚さない。ネビロスは安心して眠っている彼女に嬉しさと、男として警戒されているか分からない感覚に少しだけ苦い気持ちも覚えながら自分も布団に入る。
 ミアの頬にキスをすると、また微睡み始めそのまま眠りの世界に落ちていった。

 * * *

「はぁ?ネビロス氏が手を出してくれない?」
「く、クロエちゃん!!しーっ!!」
 翌日。ネビロスにも一人の時間が必要だろうとミアはクロエと昼食を摂る事にした。彼の時間を確保してあげると言うのも勿論目的ではあるが、今日に限っては悩みを聞いてもらうと言う事が一番の理由だったかもしれない。
 クロエは同い年ながら大人びた視点から物事を見れる女性であったし、ミアは常日頃彼女の意見を頼りにして居たからだ。
「だ、ダメだよぅ…!大きい声出しちゃ…!!」
「あぁはいはいすみません。で?何がどうしてどこが不満なので?」
「不満とかじゃないんだけどね…」
 クロエ相手にはむしろ変に誤魔化したりしない方が良い。そう知っているミアはしどろもどろになりながら彼女に自分の気持ちを吐露して行く。
 クロエは黙ってそれを聞いていたが、大きな牛乳のパックを煽る様に豪快に飲むとさも当たり前の様に口を開いた。
「じゃあネビロス氏にそう言ってみたら良いじゃないですか」
「えっ!?」
「どう考えても、ネビロス氏が怖気付いてる理由はミアに一度乱暴な事をした罪悪感からでしょうよ」
「で、でも…!でもぉ…」
「…何か問題が?」
「うん……は、恥ずかしい子って思われそうだし…それに…正直なところ、私も良さとか何かまだ全然分からなくて…しなくて良いならそれでも良いかな?って思ったりも……一緒にいれるだけで幸せだから本当に傍に居てくれるだけで何もしなくても幸せなんだけど!」
「あぁ…なるほど」
「でもああ言ってくれたからには待ちたいって言うか……ネビロスさんが求めてくれたら嬉しいって言うか……!」
「はい」
「うぅ…ごめんなさい、私の複雑な乙女心と言う名のワガママです……」
 クロエは相変わらずの淡白な返事だが、顔色をコロコロ変えながら悩みを吐露するミアは至って真剣で、彼女のその悩みを聞いていたクロエは頭の中で「したり顔」をしているロードが浮かび何だか嫌な気持ちになった。
 彼女の頭の中の妄想のロードは『そう言う時こそ私の出番でしょう?』と嫌に自信たっぷりの顔で恋愛玄人かの様な風で居る。
 おそらくそんな奇天烈な妄想をしてしまうのも、自分が恋愛と言う常にニーズの高いジャンルにおける理解度が低い事がコンプレックスだからであると言う事はクロエ自身認めてはいた。しかし、これは大事な親友の悩み事。ある程度適任であろう事は分かっているが、なるべくなら自分の力でどうにかしたい。
「……したくないのならしなければ良いのでは?」
 だが結局、搾りに搾った回答はこれだった。したくないのならしなければ良い、何て普段の彼女らしいシンプルな回答だ。
「し、したくないわけじゃないんだよぉー!自分から別に言い出す事じゃ無いかな?とは思ってるけど、ネビロスさんに言ってもらえたら嬉しいなって……!」
「じゃあ、そう言えば良いのでは…?」
「そうなんだけど…そうじゃなくてぇ……」
 うるうると涙目になるミアを見てクロエは心の中で白旗を上げた。
 今回はダメだ。まるで歯が立ちそうに無い。しかし、だからと言ってロードに頼んでネビロスをけしかけてもらうのも違うし、他の人間に聞こうにも恋愛沙汰に詳しい候補が居なかった。クロエは彼女にしては珍しく『悔しい』と言う感情をあからさまに表に出しながら牛乳を煽った。
「……やっぱり、ネビロスさんの気持ちを待とうかなぁ…?」
 ミアの溢す言葉にクロエは否定も肯定も出来ない。きっとただただ無責任に「頑張れ」と言う事しか出来ない。しかしそれはクロエの一番嫌いな行為なのでそれも出来ずに無言を貫くしかなかった。

Tout vient à point à qui sait attendre.

「では、そろそろ寝ましょうか」
 パタンと本を閉じる音が聞こえる。ネビロスは速読の特技があるので大抵の本は日を跨がず読み切ってしまうのだが、何故か読了した本に栞を挟む癖があった。全然読み途中でも何でもない本の中間ページを狙って開き、そこに栞を挟む。ミアが前に理由を聞くと、『その方が読んだ達成感が分かりやすいし、眠る前に読む習慣もあって本を閉じる音をスイッチに体を眠る方面に移行しやすい気がする』とも言っていた。
 ネビロスさん、眠たいだろうに申し訳ないなと心の中で少し謝りながら、それでもミアは彼と今日こそ話をしたかった。
「あの…ネビロスさん……」
「何でしょう?」
 名前を呼ぶと優しい目をミアに向けるネビロス。ミアは嬉しくなって口を開き掛けたが、眠いのか少し赤い目をしょぼしょぼさせる珍しいネビロスの姿が目に入りミアはぐっと言葉を詰まらせる。
 規則正しく、しっかり眠る時間を取る事が彼の心の症状の改善の道だと。せっかく休職して少しずつネビロスが眠れる様になって来た今、それに水を差すような事を一番身近にいる自分が言って良いのだろうか?
「あ、あの……」
 言いたい気持ちと言って良いのか?と言う疑問のせめぎ合い。ミアがもにょもにょと言葉を迷っていると、ネビロスの顔は見る見る不安に染まっていった。
「……も、申し訳ないです。もしかして私はまた…ミアの意見や気持ちを置いてきぼりにしたところがありましたか?」
「え?」
「今、『寝ましょうか』とは言いましたけど…本当はミアは起きていたいとか…そもそも私の眠るリズムに付き合わせる事も無かったですよね…すみません」
 今のネビロスは前よりも悲観せずに自分とミアとの関わりを受け入れる事が出来ていた。そうなると過去にクインに言われた『綺麗な事言ってるつもりだろうけど、要は彼女の気持ちはさして考えず全部自分が決めますって事でしょう?どこまで自分本位なの?』と言う言葉が余計に突き刺さる。
 未来を恐れる気持ちは消えない。それでも前を向こうと思った。ならば愛する人との立場は対等が良い。先の自分が居なくなってしまった事件でミアが自分が思うよりもしっかりとした女性だったと気付けた今、変に保護者ぶるのも控えようと思っていたネビロスはミアの目には少しだけ遠慮がちに見えたし、クインが見たら「卑屈だ」と言いそうな程にはおどおどしていた。
 ミアは一瞬だけネビロスの雰囲気に引っ張られ、何も言わずに彼といつも通り寝入ってしまおうかと思う。そうだよ、その方がネビロスさんだって余計な事考えなくて良いんだし、私だって色々考えて悩まなくて良いんだし。
 自分から言うのは恥ずかしいしいっそこのままでも──
『ダメです!今こそネビロス・ファウスト氏に思いの丈をぶつけるべきです!』
 ──その時、不意に頭の中で声が聞こえた気がした。声の主は、議長兼司会・進行役ファシリテーターのミア・フローレスだ。言葉を発する度にミアのカイゼル髭がほよんと揺れる。
『今まではネビロス氏に先を行ってもらい、色々手を引っ張って貰って来ましたが私だってもう成人したのです!先日の事件だって、大人な対応をしたと思うし、ネビロスさんも大人だって認めてくれた筈です!だからミアがどうしたいって意思を伝えても何の問題も無い筈です!』
『そうだよ!今のネビロスさんだったら押せ押せで行けちゃうよ!』
 議長の援護射撃を行うのは小さな角と蝙蝠の羽を携えたセクシーな悪魔ミアだ。しかしベースがミアなので彼女の提案はまるで子供のソレではあったのだが、それでもミアをドキドキさせるのには十分だった。
『ネビロスさんに素直に『寂しかったの』って言ったら良いんだよ!それで、いっぱいやり直し?してくださいっておねだりすれば良いの!いっぱい、いーっぱい!してくださいって!』
『そうだよそうだよ!』
『やっぱり本人に言うべきだよ!』
『でもでもやっぱり恥ずかしいよ!』
 もはや傍聴者オブザーバー達もてんやわんやの大騒ぎだ。
『静粛に!!』
 議長ミアの叩く木槌ガベルの音が鳴り響こうと、脳内会議は静まらない。だってミア自身が現状を変えたいと思っているからだ。ミアが口では良い子の様であろうと聞き分けの良い事を口にしても、本心では真逆の事を考えていると言うのは静まらない脳内会議の中のミア達の騒ぎが物語っている。
『議長!発言をお許しください!』
 その時、一際色素の薄いミアが荒々しく口を開いた。彼女は数ある脳内ミア達の中でも一際知的なミアである。分厚い眼鏡をくいっと持ち上げるポーズを取るのは、ミアがそのポーズを『頭の良い人の取るポーズの代名詞』だと思っているからだ。ただし、眼鏡持ちに限るのだが。
 普段は冷静に、理知的に、順序正しく手を上げ発言許可を得てそうして声を上げるインテリ風ミアだが、この日は違った。いつもならしない、許可が出る前に自分の主張を口にしたのだ。
『言うのです!ちゃんと伝えるのです!ミア!お付き合いをすると言う事は、『嫌な気持ちにならないでくれれば』と気遣いこそすれ、決して相手の言いなりになる事ではないと学習したじゃないですか!!』
 一番理知的なミアのこの言葉に、傍聴者オブザーバーのミア達も納得の言葉を口にする。
『ネビロス・ファウスト氏が大好きな気持ちは変わりません!でも、お付き合いは彼一人がいて成立するのではありません!ミアだって何か言わないと!いつまでも彼に全部委ねて全部任せて、全部責任を持ってもらうのなんて疲れさせてしまいます!!』
『そうだよそうだよ!』
『やっぱり何も言わないのは良くないよ!』
『決めてもらう事って、決めてもらう側は楽で良いでしょう!?でも決める側は色々考えなきゃいけない事もたくさんあるかもしれないんです!だから私も、ちゃんと自分の気持ちを言わなければ!』
『そうだよそうだよ!』
 ミアの脳内会議のメンバーは満場一致で意見を纏めた。後はミアが実際に口にするだけだ。
 ミアは覚悟を決めた様にぎゅっと目を瞑る。そして二、三深呼吸をすると、ゆっくりと目を開けネビロスの瞳を見つめた。
 あれから休職を願い出て、少し休む事に全力を注いでいるネビロス。よくよく彼の顔を見れば、彼の顔色はとても良く今まで見た事が無かったくらいに目も澄んでいた。
 そんな彼の姿に安心したミアは、今度こそ決意を固めて声を発した。
「あ、あの…ネビロスさん……『やり直し』っていつ出来ますか……?」

L’acte le plus courageux demeur le fait de penser pour soi-meme. À voix haute.

 荒い息遣いが部屋の中に充満する。
 ミアは自分の喉から絞る様に出て来る声が恥ずかしくて思わず口を覆ってしまう。しかし、喉から出る隠し切れない声音は恥じらいを増幅させるだけで、同時にネビロスの余裕無さげな笑みが色濃くなるだけだ。
 ここまでは、以前彼に触れられた時と同じ。
 前回と違うのは、ネビロスがミアの様子を注意深く見ながら彼女に触れている事と、それによりミアも前回とは違う痛み以外の感覚に強く気付き始めている事。
「……ミア」
「あ…!ネビ、ロスさん…、手…取らないで……」
「何故…?せっかく可愛い声を出しているのですから…全部私に聞かせてください…」
 ネビロスが舌を器用に動かす度にくすぐったさの先にある様な不思議な感覚に身震いして腰がずりずりと引けてしまう。同時に発した事のない声が喉から飛び出し、その度にまた恥ずかしくなる。
 余裕の持てない行為の中で、ふとミアの頭は一瞬の冷静さを生み出した。
 ネビロスと初めて体を重ねた時は体が本当に痛くて、彼が自分を見ている様で見ていない様な顔をするのを目にする度に心も痛くて。だけど同時に彼に触れられるのが嬉しくて、でもそれが自分だけかもしれないと思うと切なくて。
 そんな素直に喜べない状況にモヤモヤしてしまっていたミアはクロエにもそう言った様に自分自身が一番『良さが分からない』と思っていた。
 キャベツ畑の話で周りから凄く心配され、このままではいけないと改めて保健の教科書を開くも先ずは羞恥心との闘いでミアは何度も挫けそうになった。
 けれど、大人なんだし医療班なんだし!と自分を鼓舞しながら少しずつ勉強を進めた結果、それは人間も動物も当たり前に行う事なんだと羞恥心と知識とを分けた見方をしてみたら少しだけ飲み込みが早くなった。同時に学校に通っていた頃を思い返し、マセたクラスメイトのぼかした様な話し方はこの事・・・を指していたのかなぁ?と少しだけ大人になった気もした。
 しかし、動物も当たり前に行う事と結論付けると今度は分からなくなる。動物は繁殖期があってそこで集中的に子孫を増やすと言う効率の良いやり方をするのに、何故人間はそう言う周期が無いどころか『子供が出来ない様に』と予防をしてまでそう言った行為に及ぼうとするのだろう?
 そんな風に思っていたのに、この日の『やり直し』でミアは気付いてしまった。
 自分に触れる愛しい人の優しい手。
 時に意地悪く触れた時の見た事のない嬉しそうな顔。
 彼に触れられたところ全てが溶ける様で、彼の見せる顔全てが自分しか見れないもので、それがどうしようもなく幸せで。
 ──そっか、これも好きな人同士の大事なコミュニケーションなんだね。だからなるべく乱暴にしないで、優しくしようと思うんだね。そしてそうやって触れようとしてくれてるって肌で感じるから嬉しくなるし、もっとして欲しいって思うんだ。大事にしてくれているって言うのがとても分かりやすいから。
 あの時がイレギュラーな事で今が本来彼がしたかった『初めて』の形なのだと思ったらそれはとても幸せな事で、気付くとミアは目の前がチカチカする様な感覚と共に一層激しく息を荒げていた。同時に、どんな思い出でもそれが彼とのものならば良いと思ってしまうくらいに彼の事を愛しているのだと強く自覚してしまった。
 もう冷静さは戻らない。後はただひたすらに彼と溶け合いたい気持ちが膨らむばかりだ。
「ネ…ネビロスさん…!好き…です…!大好きですっ」
「…私も、愛してます…ミア……もう、良いですか…?」
 こくりと頷くと、余裕無さげながらも遠慮がちなネビロスがミアの足の間に割って入る。ミアは一回目の時とは違う、痛みではない感覚に頭を支配される中、手放すまいとする様に彼の首に腕を回した。その内ネビロスの影がミアに覆う様にぴったりと重なる。壁に写し出された影の自分達は、一つに溶け合っている様だった。
 ミアは初めて、分からないと思っていた『良さ』をこの時肌身で感じた気がした。

 * * *

「私は、意気地無しになっていましたね…」
 まだ上がる息に火照った体、それを鎮める様に布団の中で二人で横になりながら不意にネビロスがそう呟く。ミアがどう声を掛けて良いか悩んでいると、ネビロスは優しくミアの額にキスをした。
「……一度傷付けるやり方をしてしまったので…ミアに触れて良いものかと思うと二の足を踏んでしまっていました……ミアに私を求める様な事まで言わせてしまって申し訳なかったです……」
 そう言いつつ、申し訳ないと言うよりはむしろ嬉しさを隠しきれない顔をしているネビロスにミアの頭は沸騰寸前まで茹で上がった。
「は、恥ずかしかったんですよぉ…!本当に…!」
「ふふ、そうですよね」
 ミアの発した「『やり直し』っていつ出来ますか?」の言葉に反応したネビロスがまず見せたのは、その灰色の目を文字通り丸くした顔だった。
 アシューアに古くからある諺に「鳩が豆鉄砲を食ったよう」と言うものがある。これは大層驚いた時の様子を表すものだが、言い得て妙だと思った。
(あ、本当に驚いた鳩さんみたいな顔してる)
 ミアがこっそりそんな事を考えていると、途端にネビロスの顔が血色の良い色に染まっていった。
「そ…それは……」
「恥ずかしい子でごめんなさい……それに、本当の事を言うと、まだ良さとかも全然分からないんです……なのに、ネビロスさんに触れて欲しいって気持ちはずっとあって……私、変ですか…?」
 ネビロスは頭を抱えながら一瞬何かを考える。そんな彼の口からは「情けない…」と言葉が漏れていたのをミアは聞き逃さなかった。
「な、情けない子でごめんなさい……」
 自分に言われたのかと思いしょんぼりしてしまう。そんなミアの勘違いを否定する様に、ネビロスは彼女の体を優しく抱き締めた。
「いいえ、ミアに言ったのではありません」
「……本当…?」
「ええ。むしろ、ミアに言わせてしまった私自身がそう思ったのです」
 視線が交わった瞬間、どちらからともなく唇を重ねる。珍しく軽めに重ねただけで一度顔を離したネビロスは真面目な顔でミアに向き合った。
「……痛そうに見えたらすぐに止める様、頑張りますから…」
「ネビロスさん…」
「もし止まらなかったら……殴るでも蹴るでも、噛み付くでも何でもしてください。ミアは拒絶の仕方が優し過ぎるので」
「拒絶…?私一回もネビロスさんの事、拒絶したいと思った事ないです…ネビロスさんに痛い事も、私したくないです……」
「……ありがとう、ミア」
 そうしてネビロスを受け入れたミアの「やり直し」は、ネビロスの心配をよそに終始幸せに満ち溢れていたのだった。
「ネビロスさん…?」
 気付けばネビロスは、気絶する様に寝入ってしまっていた。いつから眠っていたのだろう?と思いつつ時計を目にしてミアは納得する。いつもなら彼は眠っている時間だ。ついでに言うと自分も眠っている時間で、こんなに時間が飛んだ様に感じると言う事はどうやらピロートークの最中に自分も意識を手放していたらしい。
 初めて経験する事象に苦笑いしながら洗面所に向かう。磨き忘れていたので歯を磨いて、乱れた髪を軽くブラッシングすると再びベッドに潜り込んだ。
「おやすみなさい、ネビロスさん」
 幸せを噛み締めながら微睡む。
 大丈夫、きっとネビロスさんはもうどこにも行かない。

 翌朝。ミアは目が覚めてすぐ、あれよあれよと言う間に隣にいたネビロスに組み敷かれてしまったミアは全く未経験だった自分とは違う、年の功とも言うべきか経験者だからこその彼の「嫌と言わせない」技量に感服する事になった。
 クロエの言っていた「……朝方の男の理性の消え方はヤバいらしいですよ」の意味を体感しながら、でもそんな事を知れたのも彼の傍に居るからで。この何気ない日常をこれからも彼と過ごせるのかと思うと幸せに笑みが溢れる。
 そして昨日よりまた一つ大人になれた様な気がして、満ち足りた顔でミアは一日を過ごすのだった。