薄明のカンテ - Smaklig maltid!2/べにざくろ
 あ、これはマズイ。
 立ち上がった瞬間、ニコリネは己の身体の異変に気付いた。
 しかし、気付いたからといってもはや何も出来ることはなく。
 地球が自転スピードを早めたのかと言いたいくらいのスピードで回転して見えて。
 身体が自分の意思に反して動かなくなったと思えば床が見えて。
 その床に思いきり吸い寄せられて、ぶつかった衝撃が痛いと思って。
「ニコリネちゃん!?」
 テオフィルスの驚いた声が聞こえたと思ったら。

――ニコリネの意識は暗転ドロップアウトする。

 * * *

「頭頚部に受傷も無いし、このまま寝かせておいて問題はないわ」
 聞きなれない女性の声がする。声に導かれるようにして、ぼんやりとニコリネが目を開くと、医療用の間仕切りカーテンに覆われたベッドに自分が寝かされていることに気付く。声はカーテンの向こうからしていたので、ニコリネは勇気を持って声の主に声をかける。
「あ、あああ、あの……」
 ニコリネの声にカーテンの向こうが沈黙した。そして、カーテンが容赦なく開け放たれると蛍光灯の眩しさに思わずニコリネは目を細める。
「目が覚めたかしら?」
 声の持ち主は薄い茶色の癖っ毛をなびかせたアペルピシア・セラピアだ。
 彼女のスクラブ姿を見て、ニコリネは自分のいる場所が医療ドレイル班であると確証を得る。
「私……」
「鉄欠乏性貧血による失神を起こしたといったところね。ああ、無理に起き上がらないで寝ていていいわ。ところで、あなた、ちゃんと食事はしているのかしら?」
「は、はい。もちろん……」
 頷くニコリネにアペルピシアはジットリとした目を向ける。あからさまにニコリネの言葉を疑う態度のアペルピシアの表情に苛立ちを覚えたニコリネは、彼女にしては力強く口を開いた。
「お昼には1食で1日に必要な栄養の3分の1を摂取できる完全栄養食のパンを食べましたから」
「朝は?」
「当然、朝もです」
「……確認するけど昨日の夜は?」
「同じパンです」
 自信満々なニコリネに対してアペルピシアは溜息をつく。
「全く……汚染駆除ズギサ・ルノース班は栄養素は数値があれば安心する人間ばかりね」
 そう言ったアペルピシアはニコリネではなく振り向いてカーテンの裏を見ていた。そういえばニコリネが目を覚ます直前、アペルピシアは誰かと話をしている様子だったから誰かいるのだろう。それを示すように、カーテンにも小さなシルエットが映っている。
「問題無い。食事摂取基準は越えている」
「問題があるから、こうして倒れている人がいるのよ? あなたも気を付けなさい」
 カーテンの先に見えた色素の薄い金髪にニコリネは目を丸くする。
「け、ける、け、ケルンティアさん?」
 そこに居たのは汚染駆除ズギサ・ルノース班の若き天才であるミサキ・ケルンティアだった。ミサキは果てしなく薄い水色の目を何の感情も含ませないでニコリネに向ける。
「エフ」
「あ、そ、そうですか」
「後は休み」
 言葉少なにそれだけを告げるとミサキは踵を返した。
「あ、あのっ。ケルンティアさんっ、付き添ってくれてありがとうございました!」
 小さな背中に向かってニコリネは声をかけるが、ミサキは何も言わず、振り向くこともせず行ってしまった。それでもニコリネとしては、ちゃんとお礼がミサキに言えて満足である。
「意味が分かるの?」
「あっ、はい……医療ドレイル班まで私を運んでくれたのはエフ……ラシャさんで、今日は一日休暇をとってくれたってことなので」
 ミサキは必要最低限しか口を開かない。彼女の優秀な頭の中では、他人に物事を伝えるにはそれだけを言えば良いと判断されているのだろう。一を聞いて十を知るというやつだ。最初はミサキの端的過ぎる言葉に何を言われているのか理解出来なかったニコリネも、数ヶ月一緒に働いていればある程度の事を察することは出来るようになっていた。
「それにしてもケルンティアさんが私なんぞを心配してくれたなんて……」
 わざわざ医療ドレイル班の部屋まで付いてきてニコリネが目を覚めるまで待っていてくれたとは、優しい子である。ニコリネは感動していた。
 そんなニコリネを見ながらアペルピシアは機械マス班のアン・ファ・シンが業務中に倒れて、経理部のギルバート・ホレス・ベネットに担ぎ込まれてきていた時のことを思い出していた。
 あの日も常勤医師としてアペルピシアがアンを診たのだ。失神の理由は違えど、あの時もミサキが居た。おそらくミサキは、部屋で倒れたニコリネとアンを重ねて見ていたのだろうと思う。
 あくまでも大事なのはアン。たまたま状況が似てたから付き添っただけ。
 そう思われるが、今後のミサキの人間関係やニコリネの精神状態を考えると黙っている方が良いと判断して、アペルピシアは別の話題でニコリネに声をかける。
「完全栄養食に頼りきった食事は危険よ。自炊が苦手なら食堂を利用することをオススメするわ」
「しょ、しょ、食堂……?」
 有罪判決を告げられた被告人のような顔をしてニコリネはアペルピシアを見た。その顔を見て、彼女は何らかの理由で食堂を避けているのだとアペルピシアは素早く悟る。
 そんなニコリネがマルフィ結社に来て食堂を利用したのは一度しかない。
 既知のタイガに誘われて昼食を食べた時だけだ。あの時はタイガが人事部のサリアヌ・ナシェリとロード・マーシュを連れてきて焦ったが、二人共とても良い人で楽しい時間を過ごすことが出来た。
 しかし、それと食堂を一人で利用出来るかは別の話である。あの受付と配膳をしてくれる可愛い可愛いアイドルのような女の子のキラキラした紫色の目に自分のようなゴミが映るのは申し訳なさすぎるとニコリネは未だに考えているからだ。
「食堂は、あの、えっと……リア充が使う場所で……私なんぞが利用するのは烏滸がましいといいますか……」
「食堂行きたく無いなら、せめてお弁当配達にしてもらいなさい。じゃなきゃ自炊しないと体が保たないわよ?」
 アペルピシアの言葉は青天の霹靂だった。
「え、お弁当配達もアリなんですか?」
「ええ。給食部に依頼する必要はあるけど」
 依頼ならば1回、依頼をしに行くために頑張ればどうにかなる。
 ニコリネのご飯生活に一筋の光明が差した瞬間だった。

 * * *

 いや、やっぱり無理でした帰らせてくださいごめんなさい。
 食堂の前でニコリネは泣き出しそうだった。
 医療ドレイル班の部屋で十分な休息をとらせてもらい今日の仕事は休みとなったニコリネは意気揚々と食堂部に向かったものの、食堂にいたのは「可愛い可愛いアイドルのような容姿の紫色の目をした女の子」だった。
 ニコリネのおいしい食堂お弁当計画のためには、結局は彼女に話しかけなければいけないのかもしれない。しかしそれはニコリネにとってやはりハードルが高すぎる。
 食堂の中は昼食には遅く夕食には早い時間のため、あまり人はいない。
 だからこそ行くならば今だと思うのに、ニコリネの足は縫い付けられたように動かなかった。
「何か用ですか?」
「ひいっ!?」
 動けないでいたニコリネの背後から女の声がかかり、ニコリネは口から心臓が飛び出したような気がした。それくらい驚いてから恐る恐る振り向くと、ニコリネを見上げるメイド服姿の機械人形マス・サーキュが立っていた。耳が魚のヒレを彷彿とさせる形になっている変わった耳をした機械人形だ。
「あ、あの……わ、私……ふひっ」
 取り繕った笑みを浮かべようとしてニコリネが「ふひひ」と笑うと、機械人形は機械人形らしからぬ心底嫌そうな歪んだ顔をした。
「バルドヴィーノのような笑い方をする人間が他にもいるとは思いもよりませんでした……ああ、失礼致しました。独り言です」
「はぁ……」
 頭を下げてくる機械人形に、ニコリネは思わず力の抜けた返事をしてしまう。「バルドヴィーノって誰だ?」と思うものの、ツッコミを入れる気力はない。尚、バルドヴィーノとは機械人形――ネリネの元主人マキールのバルドヴィーノ・ケレンリーのことである。オタク気質なバルドヴィーノは「ふひひっ、ネリネたん!」とネリネに擦り寄るタイプの主人であったのだ。
「ネリネさん、おかえりなさい」
 そんなネリネの声が聞こえたのか、食堂から柔らかな笑みを浮かべた男性が出て来た。その浮かべた微笑みと同じように物腰も柔らくて優しそうな男性だ。
「シュニーブリーさん、戻りました」
「バターはご希望の量が調達ナリル班にありましたか?」
「ええ。これだけあれば十分でしょう」
 会話をするネリネの両手には随分と大きなバッグが下げられ、肩にも同じものが下げられていた。アレの中身が全部バターだと思わず、ニコリネは想像しただけで胸焼けがしそうになる。
「えーと……ところで、貴方は?」
 そんなネリネと一緒にいた見知らぬ人間が気になったのだろう。ニコリネは男性に声をかけられて肩を跳ねさせた。
「ひうっ!? あ、えっと、その……」
 言い淀むニコリネを優しく見つめる「シュニーブリーさん」は、なかなか声を発せないでいるニコリネに苛立つ様子も見せず静かにニコリネが口を開くのを待っていた。おかげで、ニコリネはようやく言いたいことを言える。
「しょ、食堂で……その、えっと、おおお願いすれば……おおおおおお弁当ををぉぉお……」
 とはいえ口ごもりすぎて、やたらと「お」を連発してしまった。もはや怨霊が何か呪いの言葉を口に出しているかのようだ、と自分で自分の言葉が嫌になる。
「お弁当の依頼でしょうか?」
 それでも「シュニーブリーさん」には伝わったらしく彼がそう言ってくれるものだから、ニコリネは首を何度も縦に振って頷いた。
「それならばモナルダさんが取りまとめているので、モナルダさんに言っていただいた方がスムーズにお受けできるかと」
 ネリネがニコリネを見つめて言う。その視線に機械人形らしからぬニコリネに対する呆れた色が浮かんで見えるのは、ニコリネの被害妄想だろうか。
「ああ、モナルダさんにお願いした方が早いですね。ネリネさん、お願いできますか?」
「シュニーブリーさんが……」
 「案内した方が良いのではないですか?」と言いかけてネリネは口を噤んだ。というのも初対面らしきニコリネは気付いていないだろうが、エミール・シュニーブリーが「モナルダさん」と言った瞬間、表情が微かに翳り、遠い目になっていたことを見逃していなかったからだ。
 エミールが遠い目をしている。
 そして、時刻はただ今三時半。
 いつもなら三時前にエミールはこの顔になることをネリネは学習していた。
 何故ならエミールは惚れっぽい性格で日課のようにヒギリ・モナルダに惚れているからだ。今日の分のヒギリ・モナルダへの「恋は破れた」のだろう。毎日毎日、飽きないことだ。
 それにしても女性を前にすると心拍数の上昇と、僅かな発汗が見られるエミールであるはずだが、今ネリネの隣にいるニコリネを見てもその兆候は全く見られない。ジャージ姿にボサボサ髪の彼女をエミールは女性として認識していないのだろうか、とネリネは分析すると同時にニコリネへ少々同情した。
「分かりました。コチラへどうぞ」
「はははははい!」
 ネリネに案内されてニコリネは左手と左足を同時に出すというベタベタな動きをしながらも、ようやく食堂へと足を踏み入れる。
 そしてネリネが「モナルダさん」を呼んだことで、「モナルダさん」がずっと話しかけられないでいた「可愛い可愛いアイドルのような容姿の紫色の目をした女の子」であることを知り、「結局、彼女と話すんかい!?」と思わず白目を剥くニコリネがいたのだった。