薄明のカンテ - Smaklig maltid!/べにざくろ
Smaklig måltid
瑞典語で「召し上がれ」の意味。


 ミール・リプレースメント

 お昼時、ミサキとは違う小さな女性の姿が見えずテオフィルスは首を傾げていた。
「どうしたんすか? 何かエラーでも出ました?」
 何やら悩んだ様子を見せているテオフィルスにトニィが問いかけてテオフィルスの前のディスプレイを覗き込むが、至って平常なコード文が並んでいるだけだ。どうやら悩んでいる理由は仕事の事ではなかったらしい。そんなトニィに「違ぇよ」と言ってテオフィルスは更に口を開く。
「ニコリネちゃんってお昼になると消えるよな」
「……そうっすかね?」
 汚染駆除ズギサ・ルノース班の部屋にいても大人しくて目立たないニコリネなので、トニィは特に彼女の行方について気にしたこともなかった。今、はじめて言われてみると同じタイミングで昼休憩に入っても食堂で見掛けたことすら無かったかもしれない、とようやく思うくらいだ。
 そんな影の薄いニコリネのことすら「性別が女だから」という理由だけで気にしているテオフィルスに薄気持ち悪さを感じつつも、トニィは顔に浮かべた笑みを崩しはしなかった。
 何故なら全人類を拒絶してそうなミサキに絡みに行くだけでも十分、テオフィルスは変人なのだから今更こんなことでドン引きはしない。
「何処に行ってんのかな、ニコリネちゃん……」
 テオフィルスの誰にも答えられない疑問の声が虚しく汚染駆除ズギサ・ルノース班の部屋に響いて消えた。

 * * *

 そんなテオフィルスに気にされていることなんて微塵も知らないニコリネは、誰もいない誰も来ない廊下の隅に観葉植物に隠れて蹲るように座っていた。
 ニコリネの手には一つのパン。
 人から隠れるようにしてニコリネが黙々と食べるのは完全栄養食とされているパンだ。1日に必要な栄養素の3分の1を全てとることができる食品であり、座るニコリネの隣に置いてあるボトルの中身はこれまた完全食のジュースである。
 中学校生活で人間関係に躓いたニコリネは昼食の時間が苦痛だった。学校という場は昼食を教室で独りで食べると周りの視線が痛い。こちらの事なんて気にしないでいてくれればいいのに、何故か群れている人間は群れていない人間を目敏く見つけて弄りたがる。「アイツ、昼食を一緒に食べる友達もいないんだ」という嘲笑を浮かべたり、憐憫を装いながらも仲間には決して入れてくれない同級生達の視線は、気にしない振りをしても気になるものであるし辛くて辛くて堪らなくなる。
 だからニコリネは母親が作ってくれたお弁当は早々に止めて手早く食べられる食べ物を好むようになった。味なんて二の次で、行動するのに必要な栄養価が摂取できればそれでいい。
 黙々とパンを咀嚼して、ジュースで嚥下して、ニコリネの今日の昼食も終了だ。毎日毎日同じパンとジュース。たまには味が変わる時もあるが、同じもので全て終わりにする。
 辛い学校での生活はニコリネから食事の楽しみも奪っていったのである。
 食事なんて栄養を身体に入れるための人間が生きるための義務のようなものだ。ただ、それだけだ。
「ふぅ……」
 たいして大きくもなく硬くもないパンだったが相変わらず「噛む」という行為はなかなかに顎が疲れる。食事に満腹感ではなく疲労感を得たニコリネは、携帯型端末を手にして電子世界ユレイル・イリュに没頭し始める。特にハマっているものがあるという訳ではないが、残ったお昼休みの時間潰しには電子世界ユレイル・イリュは最適だ。
 電子世界ユレイル・イリュの虚実入り交じった情報を取り入れていると、ふと頭上から影が差して怪訝に思ったニコリネは、顔を上げて目を見開いた。
「ひいっ……」
 思わず口から悲鳴のような悲鳴でない情けない声も出る。
 ニコリネを覗き込んでいたのは一体の機械人形マス・サーキュだった。肩に触れる長さのサラサラのピーチピンクの髪に無感情なペールパープルの目をした機械人形マス・サーキュは、確かサンという名前の清掃班の機械人形マス・サーキュであるはずだ。
 サンは手にモップを持っていることからして、この廊下を掃除しに来たのだろう。
「ごごごごめんなさいっ! 私の存在が邪魔でしたよね!」
 慌てて立ち上がるニコリネに、サンは表情を変えずモップを持っていない左手を差し出した。しかしながらニコリネはとっくに立ち上がっているので彼女は立ち上がるために手を差し出してくれた訳ではないようで、ニコリネはサンの行動の意図が読めない。
 大抵の機械人形マス・サーキュは人間に親しみをもってもらうために感情豊かな設定がなされていることが多いが、サンは無表情で無言で手を差し出したままニコリネを見つめるだけだ。
 まさかニコリネの携帯型端末を没収しようとでもいうのか。教師か。
 いや、昼休みに端末を使うのは自由だ。となると他にニコリネの持っているものといえば食べ終えたパンの袋と飲み終えたジュースのボトルだけ。
「も、もひかして」
 ニコリネは一つの仮説に行きつき、それをサンに確認しようとしたのだが緊張して噛んでしまった。それでもサンは笑うことなくニコリネを見つめている。
「ゴミ、捨ててくださるとかですか?」
 ニコリネの問いにサンは首を縦に振って「YES」と示す。それならそうと言ってくれても良いのだが、サンには発声機能が備わってないのだろうか。そんなことを考えながらニコリネはサンに昼食のゴミを手渡した。何であれ捨てて貰えるなら有難いことだ。
「あ、ありがとうございます。いひっ……」
 御礼を言いながら精一杯微笑もうとするのだが、ニコリネの表情筋は固く歪な可愛くない笑みしか作れない。そんな可愛くないニコリネの笑みを見てもサンの表情はピクリとも変わらなかった。今はそれが逆にニコリネの安心感を誘う。
 なるほど、機械人形マス・サーキュは感情豊かに設定しなくても十分良いし、小柄なタイプも悪くない。これは将来、自分で購入する時の参考にしよう。ニコリネはマジマジとサンを見つめて将来への思いを馳せる。
「サン! どうしたんだい!?」
「ひえっ!?」
 のんびり和んだ目でサンを見つめていたニコリネの耳に中年女性の大きな声が飛び込んできて肩が跳ねた。観葉植物に隠れながら声をした方向を見ると声の持ち主らしい恰幅の良い女性が此方へと近付いてくる。ニコリネの存在は上手いこと観葉植物に隠れていて彼女には見えていないようだ。
 ニコリネは、ああいう「The・おばちゃん」的人物は苦手だ。
 家にヒキコモリで居た時、たまに外に出てあのような人物に見付かると「あらっ、こんな昼間からそんな格好でー。お仕事は?」だの言われて心苦しい思いをさせられてきたからだ。それに、ああいうおばさんは「あそこの家のお嬢さん、働きもしないで家にいるらしいわよー」とかご近所の井戸端会議でニコリネのことを好き勝手に語り出すに違いないのだ。
「ふひひっ。ででででは! 私はこれで失礼つかまつりました!」
 君子カルティア危うきに近寄らず。
 そう判断したニコリネはサンに頭を下げると、おばちゃんことザラが近寄ってくる前に脱兎の如く逃げ出した。

 トマトクリーム・ジュ・バツ

 何がどうしてこうなった。
 ニコリネは死んだ魚のような目で愛想笑いを浮かべていた。
 時刻はお昼過ぎ。今日も変わらない昼食の予定だったのに、それが変わったのは夜に来たタイガからのメッセージだった。
 タイガはニコリネの弟であるクルトの友人であり、ニコリネがマルフィ結社に入社するキッカケを作ってくれた人物であるともいえる。
 そしてタイガとニコリネは入社時に連絡先を交換していた。このご時世、何があるか分からないし一応は知人であるので交換しておいて悪いことはないだろう。

――ニコリネさん、明日お昼ご飯を一緒に食堂でとろうよ。

 交換しても連絡なんて来ないだろう。
 そんなことを思っていたニコリネにタイガから連絡が来たのだ。
 驚いて何回も読み直したが、文字が勝手に変わることもなければカンテ語以外の言語の意味はなく正に文字通りの意味だった。
「食堂か……」
 ニコリネはマルフィ結社に来てから一度も食堂を使ったことはない。一度だけ挑戦しようと思い食堂の様子を覗いたことがあるのだが、受付らしき女の子の可愛さとキラキラとした笑顔に敗けた。あのアイドルのように可愛らしい女の子の紫色の目に自分のようなゴミが映るのは申し訳なさすぎると諦めたのだ。
 あんな可愛い子の視界にニコリネが映ろうものなら『え、こんな地味でダサい女が結社にいるの? マジ、ありえないんですけど』と笑われるに決まってる。予想という名の被害妄想はニコリネの得意とするところだ。
 そんな食堂も、あの能天気陽キャのタイガとなら利用出来るかもしれない。
 ニコリネはそう考えて『うん。一緒に食べよう』と返事をタイガに返したのだが。
「入社される時にヴァテールさんとお話をしているのをお見掛け致しましたが、既知の友人だったのですね」
「あ、い、いえっ。あの、お、弟がですねっ、タイガ君とどどど同級生で……」
 緊張しきりのニコリネの前に座るのはサリアヌ・ナシェリ。カンテ国で「ナシェリ」という苗字を持つのは貴族のナシェリ家しかなく、間違いなくニコリネの前にいるのは貴族のサリアヌ・ナシェリだ。身分制度というものは存在していないとはいえ「貴族」と聞けば自分達庶民とは違う生き物のように見えて、ニコリネは可愛くない笑顔でも笑顔を崩さないように必死だった。
 お昼ご飯をタイガと一緒に食べるだけのつもりだったニコリネだったが、タイガは平然と仲間を連れてきた。それが目の前の貴族のサリアヌと、サリアヌの隣に座り正面のタイガと和やかに会話を交わす黒髪に黒スーツの男だ。
 彼――ロード・マーシュも人事部の人なのだと最初にタイガに紹介されたが、サリアヌといいロードといい只者ではない大人な雰囲気が漂っていて何でこんな立派な人達がタイガと仲が良いのだろうとニコリネが内心で首を傾げたのは言うまでもない。もしかしたらタイガが一方的に懐いていて「はいはい、仕方ないですね」と付き合ってくれているのかもしれないが。あ、どちらかといえばその方が真実っぽいかも。ニコリネはタイガには失礼な結論を生み出して勝手に納得した。
 その時、ニコリネの視線に気付いていたロードがタイガとの話が一段落したタイミングでニコリネを見た。整った顔立ちのロードに見つめられて心臓が跳ねるが、それと同時に「貴方の様な綺麗な人の視界に映って申し訳御座いません」という罪悪感がニコリネを襲う。そんなニコリネの内心に気付いているのかいないのか分からないが、柔和ではあるけれど掴み所のないような不思議な笑みを浮かべたロードが口を開く。
「うふっ……何かありましたか?」
 タイガ君とどんな関係なんですか? いや、違う。ロードに問い掛けられてしまったので何か答えなくてはいけないとニコリネは焦りに焦った。
 そこでピンと思いついたのが隣のサリアヌとの関係性だ。
 サリアヌという貴族のお嬢様の隣に黒スーツのロード。そうとなれば2人の関係は決まっている。
「えっ、あのっ、ふひっ……ま、マーシュさんは、ナシェリさんの護衛の方でありますでしょうか!?」
 ニコリネの問いにロードとサリアヌは顔を見合わせ、タイガは口に含んでいたトマトクリーム汁麦ジュ・バツを噴き出しそうになって堪えて噎せていた。そんなタイガを気遣うようにコップに入れた水を渡したロードが微笑む。
「お分かりになってしまいましたか? 実は私はナシェリ家に雇われた護衛兼執事なのですよ」
「ややややっぱり!」
 暇なヒキコモリ生活の中で電子世界ユレイル・イリュから購入した電子書籍の少女漫画の中に「有能な執事とお嬢様の恋の話」は沢山あった。きっとサリアヌとロードもそういう関係に違いないと、少女漫画の世界が現実になったことにニコリネは普段は澱んでいる瞳を輝かせていた。
「マーシュさんたら冗談はおよしになって」
 しかしニコリネのローサリ(即席でニコリネが考えたロードとサリアヌのカップリング名だ)は、やんわりとしたサリアヌの言葉に打ち砕かれてしまった。
「うふふ、申し訳御座いません」
 ロードはそう言ってサリアヌに軽い謝罪をすると、茶目っ気を含んだような笑みをニコリネに向けた。その顔を見ればロードが言ったことが冗談であったと嫌でも分かる。
「え、じょ、冗談……?」
 それでも認めたくないのがニコリネだ。
 折角夢のようなカップリングを見つけたと思ったのに、それが一瞬で砕かれてしまうなんて世の中は厳しすぎやしないだろうか。
「マーシュさんがサリアヌさんの執事みたいってオレ達も良く言ってるけど、違うからね?」
 水を飲んでようやく落ち着いたタイガに念を押されて、ニコリネはガッカリする。やはり現実世界はニコリネに厳しい。そうだ、ひきこもろう。
 後ろ向きな発言を思うニコリネの前でロードとサリアヌは和やかな会話を続けていた。その雰囲気は「執事とお嬢様」ではなかったけれど、大人な雰囲気が漂っていて大変に良い感じだ。これはまだローサリを諦めなくても良いのではないのだろうか。ニコリネの胸に小さな希望の灯が宿る。
「ニコリネさん」
 そんなニコリネの名前を呼んだタイガが、ニコリネの肩をつついて自分に注意を向けさせると小さな声で呟く。
「マーシュさんは好きな人がちゃんといるから好きになっちゃダメだよ」
「な、な、何を言ってるのタイガ君。私はそんな目でまままマーシュさんを見てないし」
「……それなら良いけど。何か熱心に見ている気がしたから」
 カップリングを推して人を愛でる、というオタク的な考えは陽キャのタイガにはないのだろう。ニコリネが熱心にロードを見つめているような気がしたので、てっきりロードに恋をしてしまったのかと心配していたタイガはそう言って肩を竦める。
 そんなタイガにニコリネも最初から疑問に思っていたことを問い掛けることにした。
「何で2人を連れて来たの?」
「2人は人で態度を変える人じゃないし、ニコリネさんも話しやすいかなって思ったからかな」
 タイガの言葉にニコリネは虚をつかれたような気持ちになった。何も考えずに同僚を連れて来ただけなのかと思っていたが、タイガなりに気を遣った人選だったらしい。だからといって貴族を連れてくるのはどうかと思うが、貴族であることを鼻にかける様子の見えないサリアヌは物腰の柔らかいお姉様といった感じであり、確かにこちらが相手が貴族と緊張しなければ話しやすい人かもしれない。
「エークルンドさん」
「ははははいっ!?」
 唐突にロードに呼ばれてニコリネは焦って返事をするが、彼はにこやかに微笑むばかりでそこには蔑むような色は無い。
 確かにサリアヌもロードも食堂の前で初めて会った時から一度もオドオドとするニコリネを馬鹿にする素振りもなかった。
 世の中は――少なくともこの2人は――怖くない。
 少しだけ安心したニコリネは落ち着いて2人と会話を始めていく。
 初めて食べた食堂のトマトクリーム汁麦ジュ・バツは他人との楽しい会話という最高のスパイスが加えられて、最高に美味しくて優しい味がした。

 * * *

「お、お、おおお昼、ありがとうございました……」
 汚染駆除ズギサ・ルノース班の部屋に戻ってきたニコリネは、いつもの調子でメンバーに声を掛けていた。
 声を掛けられたメンバーの一人にいたテオフィルスはニコリネの顔を見ると片眉を上げる。
「ニコリネちゃん」
「はっ、はははいっ!? 何か違いましたでしょうか!?」
 昼食前に組んだコード構文が何か間違っていてテオフィルスに迷惑をかけてしまったのではないかと焦るニコリネだったが、そんなニコリネにテオフィルスは「違うな」と笑う。笑うテオフィルスと対称的にニコリネの顔は、やはり何か間違ってしまっていたのかと真っ青だ。
「昼の前より楽しそうな顔してるな。何かあった?」
「へ? そ、そそそうですか!? 」
 どうやら違ったのは仕事ではなくて自分だったようだ。
 自分では分からないが素敵な出会いのおかげで浮かれた雰囲気でも出てしまっていたのだろうか。両頬を手で抑えてみるが、自分では表情の違いは分からない。
「し、しし知り合いが増えて嬉しいからですかね……」
「そっか。良かったな」
「はいっ」
 テオフィルスの言葉に、ニコリネは素直に笑って頷くと自席へと戻っていく。
 そんな彼女の後ろ姿にテオフィルスは思わず呟く。
「ニコリネちゃん。あんな風にも笑えるじゃん……」