夕暮れの道をニコリネは今日も今日とてイケてないジャージ姿でもそもそと歩く。
手に提げているのはコンビニの袋。中身は本日発売のお菓子である。
マルフィ結社の周辺は、自分達にとって危険な場所と分かっているのか汚染された機械人形達も避けているようで事件が起きたことはない。それ故にニコリネのような非戦闘員でも楽しくコンビニへと行って帰ってくることができるのだ。
「今日も会えなかったな……」
周囲に誰もいないこともあって、誰に聞かれる訳では無いから良いやとばかりに呟く。
会えなかった。当然、機械人形とでは無い。
以前、急に小腹が空いて小腹が空いて居られなくなり夜も更けた時間にコンビニへ行ったニコリネは屯する若者に絡まれた事があった。
その時に助けてくれたのが、顔はフルフェイスのヘルメット、上半身はレザーのバイクウェア――ここまではなんら問題ない――何故か下半身は袴の様な着物らしき身なりの不思議な男だった。彼の名前をニコリネは知らない。助けて貰ったのに気が動転して名前を聞くという初歩的なことをし忘れたからだ。
『暴走族のあいつらだろ? 鉄パイプのシュ……シュ何とか言う奴!!』
ニコリネに絡む時は強気だったくせに若者たちは彼のバイクを見ただけで退散した。その時に若者が叫んでいた言葉から、ニコリネは助けてくれた男性のことを「鉄パイプのシュシュ」と勝手に名付けて呼んでいた。何とも髪を縛るには不便そうなシュシュであるが、真の呼び方を知らないのだからそれでいいのだ。
おそらくバイクを見ただけで若者たちが逃げ出すくらいなのだから鉄パイプのシュシュは有名人なのだろう。電子世界で調べれば直ぐに正体も分かることだろうが、ニコリネはあえて其れをしなかった。調べてみたことによって鉄パイプのシュシュが凄く怖い半グレ集団の頭だったり、反社会的勢力の組織の人間だったら嫌だからだ。
鉄パイプのシュシュはニコリネのヒーローのままでいて欲しい。
それにフルフェイスのヘルメットで顔は分からなかったが、鉄パイプのシュシュはあれだけ行動がイケメンだったのだから顔も凄く凄くイケメンに違いない。きっと彼はタッカー・ホークよりもジェームズ・ヴァーンよりもトーリ・クラヴィエよりも格好良くて、ニコリネみたいなスクールカースト下層の民が見たら目が潰れてしまう程のイケメンなのだ。尚、前述の俳優陣はマルフィ結社の中で流行中の「
大きなナラの木の下で」に登場する俳優の名前である。
「あらぁ、エークルンドさん。お買い物ですかぁ」
「ひぇっ!? はっ、はひっ? しょ、しょうでしゅ!」
ボンヤリと歩いていたら寮の方向から歩いてきた女性に急に声をかけられてニコリネは挙動不審極まりない声を上げてしまった。
ニコリネに声をかけてきたのは藍色のリブニットワンピースにベージュのスプリングコートを羽織った女性だ。上から下までフロントボタンが付いていて目線を縦に吸い寄せるので、思わずニコリネは下から上へと目線を走らせる。
「え……ミカナギさん?」
そして顔を見て思わず間の抜けた声が出た。名前を呼ばれたセリカ・ミカナギはニコリネの間抜けな顔を見つめて柔らかく微笑む。
「今晩和。お出掛けでしたか?」
「えっ、あああ、はい!こここコンビニへ行って参りました!」
ニコリネは汚染駆除班、セリカは前線駆除班。
それ故に二人は顔を合わせることがあり既知の間柄だった。しかしながら
今日のセリカはいつもと違う洋服姿で、ニコリネは思わずチラチラと何度もセリカの服装を見てしまう。そして、そんなチラチラとはいえ露骨な視線に気付かない程セリカも馬鹿ではなかった。
「ふふっ。今日はお休みで、これから大事なお出掛けなんですぅ」
「あ、そ、そうなんですね……」
悲しい哉。
ニコリネはコミュニケーションが苦手な人間である故に、ここで「もしかしてデートですか?」とか「素敵なお洋服ですね!お似合いですよ!」と言った気の利いた言葉をかける事が出来なかった。代わりに二人の間に流れるのは沈黙だ。
「……では、エークルンドさん。帰り道とはいえ気を付けてくださいねぇ」
「はっ、はいっ! みみみミカナギさんもお気をちゅけて!」
最後まで噛んで決まらなかったニコリネの声を背にセリカは駅に向かって楚々とした様で歩いて行く。その凛と伸びた背を見つめて、思わずニコリネも丸まって猫背になっている背を少しだけ伸ばしてみた。
「ふ、ふひっ」
少しだけセリカみたいになったような気分になって口から笑いが出る。
しかし、すぐに現実を思い出してスンッと真顔になった。
背筋だけ伸ばしたとしてもセリカと自分じゃ違いすぎて、自分が真似しようとしてるなんて道化もいいところだ。
自虐めいた笑みを浮かべつつ再び背を丸めたニコリネの目に自分のボサボサの髪が目に入る。セリカみたいな艶もなく枝毛だらけで手入れされてない髪が。
艶々の髪って、素敵だよね。
自分の髪をひと房摘んだニコリネはふと思う。
「しゃ、シャンプーとか変えてみようかな……」
ニコリネが使っているのは家族全員が使える大衆向けのお財布に優しい激安ジャンプーだ。世の中には何の成分の違いか良く分からないが、もっと高級なシャンプーがあるのは知っている。電子世界で調べればオススメが何か直ぐ分かるだろう。
いや、駄目だ。ニコリネは一人、首を横に振る。
折角だから、これを人との会話の糸口にするのだ。今度会った時にセリカに「何を使っているんですか?」と聞いてみるのも良いかもしれない。
「ニコリネさん?」
「はひっ!?」
道の真ん中でブツブツ呟いていた怪しいニコリネの背に可愛らしい女子の声がかかった。その声に聞き覚えがあって、ギギギ……という関節部が錆び付いた機械人形のような擬音でもさせそうな不自然な程に固い動きでニコリネは振り返る。
「もっ、もっ、モナルダさん……かっ、買い物ですか?」
そこに立っていたのは食堂のアイドル、ヒギリ・モナルダだった。食堂で仕事をしている時と違う愛らしいフリルの多い服装が愛らしい顔に良く似合っていて、彼女も何処かに買い物に行ってきたのか手には買い物袋が下がっている。但しニコリネのようにビニール袋ではなく、可愛らしい柄のエコバッグである辺りにニコリネとは違う女子力の高さを感じさせた。
お弁当だけでなく、たまには食堂を利用するようになったニコリネはヒギリのキラキラしたオーラに多少耐性が付いてきていたし、人懐っこいヒギリが話し掛けてくれるおかげで少しは彼女と会話ができるようになっていた。中学時代、ニコリネを虐めてくれたニコレッタよりも何倍も何百倍も可愛いのに性格まで可愛いとはヒギリ・モナルダ、恐ろしい女である。
「シャンプーが無くなっちゃって買いに行って来たんよ」
そう言って笑ったヒギリの言葉を聞いたニコリネは知識にある限りの神様と仏様に感謝した。これはきっと神様か仏様がニコリネに与えたもうたチャンスなのだ。
――さぁ、聞くのです。ニコリネ・エークルンド!
脳内で神様か仏様が言う。導かれるままにニコリネは口を開いて。
「ああああの! モニャルダさん!」
思い切り噛んだ。
人の名前すらマトモに発音できない自分への嫌悪感と羞恥でニコリネの顔は青くなったり赤くなったり忙しい。しかし、そんなニコリネのことを侮蔑する訳でもドン引きする訳でもなくヒギリはニコリネをニコニコとした顔で見つめている。天使か。
「しゃ、しゃん、しゃん、シャンプーは何を使ってますか!?」
「え?」
天使が紫色の宝石のような目を瞬いた。可愛い。
「別に普通のだけど……」
そう言ってエコバッグから出てきたのは確かに市販のシャンプーだ。
しかし、ニコリネが絶対に手を出さないドラッグストアで販売されているくせにお洒落オーラを出して棚に並んでいる銘柄であることをニコリネは知っていた。お値段だってニコリネが使っているお徳用が2本か3本買えるやつだ。
「なるほど……あ、あ、ありがとうございます」
しかし、値段はこの際無視だ。ヒギリにお礼を言って頭を下げる。
そして頭を上げると何とも言えない顔をしているヒギリの顔があって、ニコリネはある結論へと至った。
きっとヒギリは「お前程度が私と同じシャンプーを使おうなんて烏滸がましい。お前は身体と同じ石鹸で十分だ」と思っているのだ。そうだ、そうに決まっている。
「ももも申しわ……」
「ニコリネさん!」
ニコリネの謝罪の言葉をヒギリの声が遮った。
ただし、その声には嫌悪感といったものは一切含まれていない明るく元気ないつものヒギリの声だ。
「今から一緒にデラックスに行こう!」
「へ?」
デラックスとはマルフィ結社に程近いドラッグストアの名前である。
間違いなくヒギリはそこからの帰り道だろう。
「髪質によって合うシャンプーは違うんよ。私もそんなに詳しい訳じゃないけどシャンプーもトリートメントも一緒に買おう?」
ヒギリの言葉に今度はニコリネが磨かれてない泥団子のような目を瞬いた。可愛くはない。それは自分でよく分かっている。
「あ、あのー……つか、つかぬ事をお伺い致しますが……」
「うん?」
「トトトトリートメントとは何でござりましょう?」
頭を洗った時に使うのはシャンプーだけじゃないのか。
ニコリネは知らなかった。実家ではリンスインシャンプーというものを知らぬうちに使っており、マルフィ結社では値段だけで安いシャンプーを買っていたニコリネの辞書にトリートメントもリンスもコンディショナーも書かれていなかったのだ。「新発売の〇〇のシャンプー良いよね」と友人と語り合うような青春の日々はニコリネにはなかったため、彼女はこれまでそれらの事実を知らずに育ってきていたからだ。
そんなニコリネにヒギリは明るく微笑んだ。
「デラックスまでの道程で説明するから行こうよ」
「えええ、で、でもモナルダさんは行ってきた帰りなのにまた行って貰うなんて、も、申し訳ないでしゅし……」
「大丈夫! 私もヘアマスク買い忘れたからついでだよ!」
何て優しい嘘なんだろう。
ヒギリの言葉にニコリネは感動しながら「じゃ、じゃあお願いします……」と頭を下げた。
そして美少女と並んで歩くなんていう人生最大のイベントのような事をしながらも、ふと思う。
――ヘアマスクって何だろう?