薄明のカンテ - Jalnic Moroaica/燐花

4月29日、4月30日

 うららかな陽射しの温かさにユウヤミは目を細めた。窓の外で鳥が飛ぶのが見える度、脳裏には彼女・・の顔が過ぎる。お腹も満たされているので余計にそんな事を考えてしまうのであろう。出された昼食は病院食らしく味付けが控えめで少し物足りなかったが、元よりそこまで食に対する貪欲さが無かったユウヤミは然程困らなかった。
 ──あ、でもホロウ君は物足りなさそうだな。
 ふとそんな事を思う。先程鳥に重ねて見ていた、無事に還って来た彼女の事を。
主人マキール、呆けていないで早く書類に目を通してください」
「無粋だねぇヨダカ。もう私専属のマネージャーとしてその名をもらって丸二年以上経つのだからもうちょっと人間らしい情緒を覚えてくれないと面白くないのだよねぇ」
「私は貴方専属のマネージャーではなく貴方の監視役です。仮に前者であれ後者であれ業務に情緒は不要ですが」
「いやいや、それだと面白くないのだよ。仮にも公的には主人としているのだからそんな主人の要望に少しくらい努力してくれても良いのでは無いのかい?」
「私の主人マキールは厳密には貴方ではありません。それに私は貴方を止める為に存在しておりますので…」
 馴れ合いの様な行為は致しません。
 そう言いたげに言葉を切るヨダカにユウヤミは肩を竦める。再び視線を窓の外に向けるが、今度こそヨダカの容赦ない手によって顔ごと机に向けられた。
「痛ててててて!ヨダカ、私怪我人だよ!?怪我人!」
「怪我をしたのは足だけなのですから無傷な首は早く書類に向けてください」
「本当に全く……主人遣いの荒い機械人形だなぁ」
 そう言いながらユウヤミは書類の端にサインを書く。ヨダカが人間で言うならば「怪訝そうな目」を向けてくるが、彼の質問よりも早くユウヤミは応答した。
「読んだよ。私の入院及び取り調べでの不在の間、ウーデット君を小隊長代理に任ずるって話だろう?良いじゃないか。どれもこれも、経験として彼の身になるよ。いつまでもサオトメ君にあっちもこっちも頼むと言うのは申し訳ないし、ガート君やシリル君が居る以上機械人形嫌いのブリノヴァ君には断られるのは目に見えている。ならば、ここらで彼に一皮剥けてもらっても良いんじゃないかい?」
 ヨダカはしばらく黙って書類を見つめていたが、曲がりなりにもユウヤミが・・・・・言うのだからとこれに納得し懐に仕舞い込んだ。
「正直私は反対ですが。エドゥにはまだ幼子の様な未熟な面があり、責任を負う立場に置くには危ういです。前線駆除班と言う戦闘を生業とする組織に身を置く以上、隊の存続が第一ですから。エドゥの土壇場でのパニック耐性が未知数な今、メンバーを無傷で帰らせる確率は極めて低い」
「おやおや?『後進育成』って言葉を知らないのかい?」
「『後進育成』とは『ノウハウを伝えながら育成していく手法』を指します。教官たる貴方が居ない以上、そこに赤子同然のエドゥを据えるのは単なるタチの悪い賭け事です」
「……ヨダカは余程ウーデット君の実力を浅く見ているらしい」
「日頃の戦闘データと彼の経歴から判断をしたつもりですが」
「とすると?納得して受け取った様で心根は彼を推す私の思考を信用していない訳だ。機械人形に心根と言うものがあるかは不明だけれど、だとしたらそれなりに情緒が身に付いているじゃないか」
 ニヤニヤと意地悪く笑うユウヤミの顔をいつもの表情で見つめるヨダカ。特に何を言うでも無く、ただ書類を纏めると一礼して病室の出口へ向かう。
「では、上に提出して参ります。私は貴方の頭脳を世の為に活かすのが仕事ですので」
「最終的には私の頭脳に全幅の信頼を寄せてくれるヨダカで嬉しいよ」
「貴方のその頭脳だけ・・は何物にも代え難いと思っていますから。では明日、第四との合同パトロールを終えたらロナ・サオトメ及び第四小隊からの管理を解き、こちらを基にエドゥをリーダーに据え第六小隊として仕事を始めます」
 そう機械的に言って部屋を出て行くヨダカにユウヤミは溜息を吐きながら窓の外を眺めた。彼とのやりとりも辛辣な言葉もいつもの事だ。
「全く…何の悪気も無く『お前は頭脳以外無い』って口にするのだよねぇ…機械人形ヨダカって」
 まぁ、自分でもそう思っているしむしろ幼少期に持っていた行動力は大人になった今レベルに削がれないと真っ当な人間として溶け込みながら生きて行くには釣り合わないと言うのは分かっているのでそう言われるのも問題無かった。
 しかしユウヤミにも懸念はある。エドゥアルトの純真さを思い出し、推したは良いがもしもの事も考えておく。しかしそれを踏まえても、こんな機会だし彼にもいつもと違う景色を見てもらっても良いのではないか。ユウヤミが抱えたそれは親心にも良く似ていた。

 * * *

「えーっと……!リ、リーシェル小隊長より大役を仰せつかりました第六小隊エドゥアルト・ウーデットです!小隊長代理として精一杯努めますので何卒よろし──」
「カタいカタいカタい!!カタいねんエドゥちゃん!!おのれは焼き過ぎた挽麦クァ・バツクッキーか!!」
「うるっさいなぁ!焼き過ぎたクッキーってもはや砕けるやつじゃん!」
 燃える様な夕焼けに照らされ一層顔に赤みの増した様に見えるエドゥ。開幕早々始まった彼とガートとの漫才の様なやり取りにウルリッカが小さく笑う。機械人形であるが人の感性を理解し、寄り添う事を求められているシリルの方が大袈裟に笑っている気がする。ヨダカはそんなシリルを見て「なるほど、これが情緒か…」と密かに人対人の表情の作り方をアップデートしたし、一方派手にカタめの挨拶を投下したエドゥアルトはシリルの豪快な笑いにほっと胸を撫で下ろした。
 新歓コンパの時もそうだったが、人前で声を上げると言うのは緊張するものだ。そう言えば先日、タイガと話した時に彼が『緊張からか挨拶が校長先生の様になる』と吐露した時は他人事だと思って大笑い出来たが蓋を開けたらこれである。タイガの事を笑えないなぁと思いつつ、今日の仕事の確認を行なった。
「えっと……今せんぱ…リーシェル小隊長がお留守なので…」
「あ、良いよエドゥ。エドゥにとって隊長は先輩。いつも通り言いやすい様に言えば良いんだよ」
「そうよそうよ!堅苦しい言い方なんて必要ないわ!この中にマナー講師なんていないものね!」
「私達、いつもの感じでエドゥの言いたい事伝わるから。平気」
 頑張って代理を務めようとするあまり挨拶一つすら身構え、いつもより余計な労力を使ってしまう。そんなエドゥアルトを見抜いていたウルリッカもシリルも、彼の過度に入り過ぎた肩の力を軽くさせてくれた。そんな二人に感謝しつつエドゥアルトは書類に目を通す。
 やはりと言うか、簡単な仕事しか振られていない感じは否めなかった。
「えっと…今日の仕事なんですけど、その前に一点ありまして。先輩が入院や取り調べ等あって動けないってのは皆さん知ってますよね。そうでなくても休養が必要と言うことで、それに伴ってヨダカさんもしばらくお休みとなります」
「え?何で?隊長が動けないのは分かるけど、何でヨダカも?」
「私が機械汚染マス・ズギサを免れたのは、主人マキールが常に私のネットワーク通信を切っていて且つ電隣も切っていたからです。探偵として仕事を行う際、目の前の事象の計算にだけ集中する様に都度必要な情報だけをインストールさせられて来ましたので。そしてそのスタイルは結社に来た今も変わらず、故に主人マキールが前線に居ない以上私は仕事の度に彼に内容の説明をしに部屋に向かい、インプットを待って現場に向かわなければならないと言う手間が生じます。現状、国内における機械人形の単独での行動は禁止されていますので結社から現場へ常に人間による送迎が必要になります。何より、それらの理由から決定事項では無いですが、機械人形より人間の割合が少なくなるのは好ましくないとする見方もあります。現状どの部隊も機械人形の頭数の方が人間より少ないものばかりですから、我々もそれに則った方が良いのかと」
「そっかぁ。残念だね」
 ウルリッカは素直に残念がるしエドゥアルトもそれを受け入れているのだが、これは表向きの理由に過ぎない。実際は、やはりヨダカは監視対象であるユウヤミから離れられないと言うのが大きい。しかし今挙げたものが理由として最たるものというのもまた事実なので嘘はついていない。
「と言うわけで、申し訳ないですが私は今日からしばらくお休みをいただきます。エドゥの働きぶりは毎日の報告と、ガートの記録を見させていただきますので」
「はいはーい。全く、こない録画機能使われる思たらもうちょいレンズ磨いててんけど」
 ガートの冗談に場が和んだところでエドゥアルトは話の続きを始める。
 大丈夫。これは憧れの先輩の様になるにはどうしたら良いかを自分なりに模索するチャンスだ。先輩のリーダーシップ、カリスマ度、判断力…憧れるところは色々あるけれど、どんな先輩に自分なりに一番近付けるかを見る良い機会だと思おう。
 エドゥアルトは一つ深呼吸をすると「話を仕事内容に戻しますね」と一言呟く。ヨダカの休養も、『機械人形と人間のバディが組めている状況である以上、第六小隊の総人数が奇数にならない方が良い』と言うユウヤミのお達しだと言うと皆飲み込みが早かったので、本当に彼のこの班における発言の信頼度は高いのだ。そんな偉大な先輩ユウヤミに改めて尊敬の念を抱きつつエドゥアルトは紙とペンを取り出した。
「えっと、オレ達の今回の任務なんですが…ざっと説明すると聖ミクリカ教会の瓦礫撤去です」
「は!?掃除やないけ!!」
「お掃除なんだ……」
「そうです!聖ミクリカ教会はテロで建物崩落まで引き起こし一番人手を必要としている場所です。でも瓦礫の下が不明瞭なので人間だけで作業を進めるのは危険で、そこでオレ達の出番って感じです」
 エドゥアルトはテキパキと説明し、どう指示を出すか頭の中で考える。
 先ずは庭に散乱したゴミの片付けから始める。スペースの確保が出来たら、倒壊した建物の瓦礫を撤去する。ただそれだけなのだが、厄介な事が一つだけあった。それは、教会には地下室があった事、そしてそこが瓦礫で埋まっている今その地下室に汚染された機械人形が居るかどうかと言う懸念だ。
「汚染された機械人形が倒壊で塞がった地下室を『屋内』と判断するか否か、それは主人マキールにも読めません。エドゥ達が瓦礫を除けている間もずっと地下から暴れる音が響くかもしれませんし、もし『屋内』と判断していた場合はその瞬間までは大人しくスリープ状態になっていて、空が見えた瞬間に『屋外』と判断し起動するかも分からないのです。故に、簡単な作業に思えますが何にも所属しておらず対機械人形の訓練を微塵も受けていない一般人にこの作業を行うのは不可能です。そこでマルフィ結社に白羽の矢が立ちました」
「…なるほど……さながらこれは一般人の代わりになってワタシ達がジャック・イン・ザ・ボックスびっくり箱を開ける作業をするって事ね。いや、むしろそんなモノじゃなくて、もっと分かりやすく爆弾処理班とか地雷処理班とか言うものかしら?」
「どうとでも解釈していただければ。少なくとも、市民の代わりに危険を犯す為に我々マルフィ結社が存在するのです」
 シリルとヨダカのやり取りにエドゥアルトとウルリッカは言葉を失う。覚悟はして来てはいたが、やはり前線に所属するとは危険を伴うと言う事だ。
 しかし、ウルリッカは『それでアルヴィが危険な目に遭わないなら』と決意を新たにしたし、エドゥアルトも目指すべき先輩ユウヤミの姿を思い浮かべ己を鼓舞する。各々胸に秘めながら改めて任務に向き合った。
「……では、オレとガートで崩れず残った二階層、三階層含む屋内の見回りを瓦礫の撤去をしながら進めます。ウルさんとシリルは二人で庭に散乱したゴミや瓦礫を退かすところからお願いします。とりあえず、それを初日の目標にしましょう」
「…良いけど、そんな遅いペースで良いの?もう少し色々出来ないのかな?」
「危険を伴うのもあって、日の出ている時間帯に余裕を持って作業をすると言うのが安全面を考えて出されたルールなんですよ。幸いカンテ国は日に日に日没まで時間が延びて居ますが、近隣住民への騒音トラブルを防ぐ意味合いからも朝から六時くらいの作業を予定していますね」
「そっか…少人数だし一日に出来ることって限られちゃうんだね」
「そう言う事です。って訳で、明日の予定はそう言う事で!明日以降は作業の進み具合からまた都度判断します」
「ええ。じゃあ今日はとりあえず解散ね。さて、新米リーダーの為にも明日は頑張るわよー!!腕が鳴るわね、ウルちゃん!」
「そうだね」
「おいエドゥちゃん。自分、ヘタレたら承知せんど。どつき回したるからなぁー、覚悟せいやワレぇ」
「ちょっとガート!心にもないとは思うけど本当にやられそうなそれっぽい冗談やめてくれない!?」
 いつもの調子でいる四人の横で何を思うでもなくヨダカが佇む。
 ユウヤミが何故彼に肩入れするのか、彼とユウヤミの朝からぬ因縁を知っているヨダカはふとユウヤミに抱いた事のない疑念を持った。
 彼の出自が、自分との浅からぬ因縁が、ユウヤミの判断力を曇らせている可能性は無いのだろうかと。
 エドゥアルトを頭に据える事でウルリッカやシリル、ガートを危険に晒さない保証はどこから算出しているのだろうか。
 ヨダカは人間では無いから、人間の持つ底力や胆力は分からない。分からないが故に、ユウヤミの判断すら疑いの眼差しで見てしまうのだ。
 もし彼が親心の様な感情からエドゥアルトの能力を見誤ったのなら。
 もし彼が判断した「エドゥアルトを頭に据えて大丈夫」と言うものが上手く機能せず怪我人が多数出たとしたら。
 ──その時は、ヨダカはヨダカの仕事を遂行せねばならない。頭脳だけを生かされた様なユウヤミにその価値が無くなった時、その後に待つのは『処分』の二文字しか無いのだから。

5月1日

 迷う事なくエドゥアルトは階段を昇る。たまに壁に背をもたれて奥を覗き込む様な動きをしているのは第三小隊小隊長であるバーティゴ直伝の動きだ。彼女との不思議な縁は、第三小隊のセリカ・ミカナギによって紡がれたものだった。
 他隊とは言え剣術を主とするセリカに剣技の指導をよく受けていたエドゥアルトは、彼女からはよくよく『お姉様』の話を聞かされていた。その『お姉様』は機械人形反対派では無いらしいが存在を好ましく思わない人だそうで、自分とは相容れない価値観だと思っていた。
 とは言え自分には主人登録をしている機械人形が居るが、だからと言って機械人形を嫌う人間を蔑みの目で見る事はない。国を揺るがすあんなテロが起きれば嫌いになる人間もいるのは仕方ないからだ。事実マルフィ結社にも、今の汚染された機械人形を嫌い、安全性の高まった未来の機械人形との生活を夢見る人間はちらほら居る。人が十人寄るならば機械人形への思いは十通りだ。
 セリカも機械人形にはあまり好感触な反応を示さなかった。ガートに、と言うわけではない。むしろ彼女はガートには興味が無さそうな感じだった。エドゥアルトは『好き』の反対は『嫌い』ではなく『無』であると知っていたのできっとセリカもそうなのだろうと思った。だが彼女の慕う『お姉様』の機械人形への反応はエドゥアルトの想像以上だった。彼女はアサギと悶着があったとは噂になっていたが、ガートの事も基本無視を貫いた。最低限の会話以上のやり取りはしないとそう語っていた。
「別に、機械人形は機械人形。坊やマールィシュ坊やマールィシュとして見るわよ。アンタはセリカの練習相手にもなってくれてる一人みたいだし、あの小隊長の下ならくたばる様な心配はなさそうだけど基本の動きくらいは身に付けなさいな」
 そう言う彼女から一番最初に教わった事は「地形を利用しろ」だった。壁があるのなら、まず背中はそれで守れと彼女はそう言った。ほかにも色々教わったが、いざ実践してみようと思うと一朝一夕では身に付いていたものが如何に少ないかを痛感した。
 気を張り、用心しながら階段を昇る。二階層にも三階層にもエドゥアルトの想像した最悪の光景・・・・・は無くほっと胸を撫で下ろしながら、とうとうガートとエドゥアルトは鐘楼まで上り詰めた。小さな教会とは言え鐘楼はそれなりに背が高く、思ったよりも見晴らしが良い。
「……とりあえず屋内の安全確認は良し、かなぁ」
「そやねぇ。しかし良かったなぁエドゥちゃん。死体転がってなくて」
 エドゥアルトの想像した最悪の光景・・・・・が広がらなかった事にガートも言及する。エドゥアルトは苦笑いを浮かべながら、鐘楼に散らばっていた煉瓦のかけらや三階層部分に散乱した窓ガラスの破片を掃除して回った。思ったよりも細々したゴミが多く、この掃除だけで昼過ぎまで要してしまった。
『こちらシリル、こちらシリル。そろそろウルちゃんがお腹空き始めちゃったわ。一旦休憩にしない?オーバー』
『こちらエドゥ、こちらエドゥ。了解です。三階層のゴミだけ片したらオレ達も戻るので先にご飯行っててください、オーバー』
 シリルからそんな連絡も入り、ちょうど良いので休憩に入る事にする。エドゥアルトは腰を曲げながら瓦礫を纏め、重さに悲鳴を上げながら階段を降りていく。瓦礫、ガラス。これらのゴミを抱えながらの階段の登り降りは本当に修行のそれで、やっとの思いで降りた時エドゥアルトは「ガートと役割逆にすれば良かった」と後悔した。
 女の子だから重い荷物の運びは自分がと、彼女にはゴミを纏める作業を頼んだものの、女性である男性である以前にガートは機械人形なのだ。
 失敗したと嘆くエドゥアルトがやっとの思いで外にゴミを持って出て行くと庭は来る前より散乱しており、ウルリッカとシリルがとりあえず諸々広げるだけ広げてくれたのだが本腰を入れて掃除に入る前にご飯を食べに行った事が分かった。このご時世、機械人形は単独行動をさせられないし連れて歩くにも色々制限がある。
 一人でも人間が多い方が色々と得な部分があると思うのだが、ウルリッカは強い女性だ。どうやらシリルを連れて一人で食べ物屋に行ってしまったらしい。
「……レストランは嫌だなぁ。何か出店かテイクアウトみたいなのにしようかな」
 少し前、ガートを連れて一人で店に入った時の事だ。エドゥアルトは「機械人形を連れている」とただそれだけの理由で絡まれ、危うく喧嘩に発展しそうになった事がある。その時以来トラブルを気にして以降美味しい店を知っていてもあまり店内には入らなくなったのだが、ウルリッカは一人でもそう言う事は気にしない様だ。
「………」
 嫌な思い出を思い出す様なそんな時でさえ、頬を撫でる初夏のミクリカの風は心地良い。ガートを待ってゆっくり買いに行こうと彼女の降りてくるのを待つエドゥアルトの視界の端で、黒い何かが揺れた。
「ん…?」
 いつからそこにいたのだろう?
 よくあるシスターの着る修道着の様なワンピース、顔はおろか髪の毛まですっかりベールの様なもので覆ってしまったその人は、倒壊した建物の方に体を向けて立っていた。
 服装的に関係者…しかも、いわゆるシスターと言う立場の人だろうか?しかし、だとして一般人である事に変わりはない。片付けとは言え、瓦礫の撤去もある現場は危険なので話をしに行かねばとエドゥアルトが一歩足を踏み出す。
 声を掛けようとしたその時、顔を覆っているベールごとその人はぐりんと勢い良く彼の方へ首を向けた。
「わっ!」
「あら……」
「あ…す、すみません驚かせて。オレその、結社……あ、マルフィ結社前線駆除班のエドゥアルト・ウーデットって言うんですけど……あの、そこの第六小隊のメンバーで…」
「マルフィ結社?第六小隊?はい…」
「えっと……あの、もしかして聖ミクリカ教会の関係の方…だったりしますか?」
 もしも誰かに出会った時、頭の中のシミュレートではしっかり元気よく『マルフィ結社前線駆除班第六小隊小隊長代理を務めます、エドゥアルト・ウーデットです!』と発していたエドゥアルト。敬愛する先輩の様に知的な感じを醸し出す事は出来なくとも、せめて第四の小隊長ロナ・サオトメの様な柔らかい感じを出せればと思っていたのだがシミュレート通りに行かず挙動不審な応対になってしまう。
 一人「失敗したぁぁぁぁぁあ!!」とこの場で頭を抱えたくなる衝動を何とか抑え、何とかへらりと笑顔を浮かべてみる。一連の流れが『人当たりの良い人』と言うよりは『いきなり現れた不審者』の様でエドゥアルトは泣きたくなった。
「はい…わたくしはテロ当時まで此処に置かせていただいた者です」
 しかし、幸いにも顔は見えないが目の前の女性はそんな『いきなり現れた不審者』風の人間を拒絶する様な人では無くエドゥアルトはほっと胸を撫で下ろすと同時に堅苦しい挨拶の事を一旦忘れ、本来の人懐こい彼の気質にスイッチを切り替えた。
「え!?此処にいた方なんですか!?よく無事でいてくれましたね!この度は本当にお気の毒で……」
「……申し訳ございません。こう言う時に何とお返事をして良いか、わたくしはまだ勉強不足で…。申し遅れました、わたくしはイングリドと申します。ご主人様を喪くして路頭を迷っていたところを此処のシスターに拾っていただいたのです」
「そうだったんですか…」
「……テロ当時、わたくしの目の前に突如として赤い目の機械人形が荒々しく現れ、わたくしの顔を抉りました。その衝撃で一度目の前が暗転し、次に明転した時には教会は瓦礫の山となっていてわたくしは庭で倒れており顔の一部を損傷していたのです。今わたくしの左目は、殆ど機能しておりません」
「あぁ…それでそのベールを……」
「お見苦しくて申し訳ないです。なのでこのベールは外せないのです」
「い、いいえ!そんな事はお気になさらず!シスター・・・・イングリド!」
 ここで「大事なお顔を傷付けられて一番気に病んだのはご自身でしょうし」と言う言葉がすっと出てくるのならきっと自分はロナ・サオトメの様に、あるいは敬愛する先輩の様になれたかもしれないのに。
 しかし、残念ながらエドゥアルトの対人瞬発力は彼の期待程は無く、『顔が見えなくても気にしないよ』と言う意思表示に留まった。
「ところで、エドゥアルト様。ここ・・にわたくしは入ってはいけないのでしょうか?」
「え!?ここって、ここ・・ですか!?だ、駄目です駄目です!!まだ安全が確保されていないので!!」
 イングリドの指差す『ここ』とは教会の瓦礫に埋もれた地下であり、エドゥアルトは入りたいと言う彼女に首を千切れんばかりに振ってそれを拒否した。まだまだこれから安全面を確保しつつ自分達が切り拓くつもりなのだ。一般人なぞ、ましてこんな非力そうな女性を入れられるわけがない。
 しかし、イングリドの様な関係者だからこそ「中を確かめたい」と言う気持ちは痛い程分かる。テロで家族を喪くした人間を何人も見ていたエドゥアルトは、行方知れずになった家族の帰りを待つ人のやるせなさも知っていた。
「……ですが、わたくしは知りたいのです。わたくしを拾ってくださったシスターの安否を…」
「そ、その気持ちは…まぁ……」
「お願いしますエドゥアルト様。わたくしは明日もここで待っておりますので、良ければわたくしにもお手伝いさせてくださいませ」
 ぎゅっと手を握られ、エドゥアルトはどきりと心臓を跳ねさせた。あまり触れる機会のない女性に手を取られたと言うのもあるが、まだ今ひとつ気温が上がらないのにこんな薄着で居るからか、彼女の手は驚く程冷たかったからだ。
 すっと手を離して去ってしまう彼女に声も掛けられずに居たエドゥアルトだったが、やっと心臓がうるさくなくなった頃にようやく「……とりあえず明日はもう少し厚着で来てください……」と呟いた。
「エドゥちゃん、何を一人でぶつくさしとんねん」
「わぁっ!!!ガート!?」
「はいはい、アンタの大事なガートちゃんがやっと戻って来るくらい手間取ってんで?もうちょい嬉しそうにしたらどうや?」
「う、嬉しいよ!うん!嬉しいなー!おかえり!」
「ざぁとらしいねん」
 ガートを迎えてすぐに振り返ったもの、もうイングリドの姿はそこには無かった。何だか不思議な人だったなぁと思いつつ、お腹が空いたので食事をテイクアウトしに店に向かう。ご飯を食べ、帰って来たウルリッカとシリルを迎えて午後の作業に当たったが、思う様に作業は進まず想定した以上の遅れを取りながらこの日は帰宅する事になった。
 先輩なら「ここまで出来るだろう」と想定した範囲を越えた事はないのに。
 悔しさを滲ませたエドゥアルトは、この日珍しく眠れない夜を過ごした。

5月2日

 この日、エドゥアルトは目の下に濃いくま・・を作っていた。鏡を見ても分かる、疲れた顔の自分。
 昨日の話だと、もしかすると今日もイングリドがやってくるかもしれないのだ。外部の人と話す機会があるかもしれないのにこんな疲れた顔をしていて良いのかとエドゥアルトは少しだけ眠れなかった事を後悔した。
「あら?どうしたの?随分疲れた顔してるわね」
「シリル……分かる…?」
「あららら…声にまで覇気がないじゃない…どうしちゃったの?エドゥったら」
「昨日眠れなかったんだ……なのにもしかしたら今日外部の人に会うかもしれなくて…こんな顔じゃ失礼だよね……」
「失礼かどうかはワタシには分からないけど…単純に心配にはなるわよね」
「やっぱり?やっぱりオレに『先輩の代わりが務まるのか』って、こんな顔見てたら心配にもなるよね……」
「……ち、違うわよエドゥ!アナタの体が心配になるのよ!?」
 これは人間的に比喩するならば『重症』だ。シリルはすぐにそう理解した。きっとエドゥアルトは昨日から思い悩んでいたのだ。普段あっけらかんとしている彼が、全てにおいてネガティブな思考回路に陥るくらいには。
「ねぇ、エドゥ。何かあったらワタシ達の事だって頼ってくれて良いのよ?同じ部隊の仲間でしょ?」
 シリルは精一杯エドゥアルトを慰める様にそう口にした。返事の代わりにエドゥアルトが浮かべた笑みはどうしようもない程に頼りなく、シリルは機械人形ながら人間の感情の機微を見分けるのが得意だからか一目見て彼のその笑顔が『問題解決』を示していないと言う事に気付いてしまった。
 そしてそれを解決出来るのは他でも無いエドゥアルト本人で、自分達に出来る最適解は今のところ無いと言う事もシリルの培ったデータと照らし合わせた結果導き出したのだった。
「わ!エドゥちゃん、何や目の下真っ黒やで!?」
「やっぱり…?やっぱり目に見えて分かる?」
「分かる分かる!何や病人みたいやなぁ!」
「こ、こらガート!!」
 おそらく人の心の機微に疎い造りのガートが笑いながら理解したままに口にする。シリルはさっと止めに入ると彼女の声のボリュームを下げようとするが、スピーカーを抑えようとした結果傍目に後ろから首を絞める様に見えるポーズになってしまい、今度は後からやってきてそれを見たウルリッカと、この後軍警の捜査立ち合いに協力するユウヤミと合流予定のヨダカが現れ異様な目で見ると言う状況を生み出した。
「シリル…!?何やってるの…!?」
「あ、ウルちゃん!これはね…えっと」
「……なるほど。現状、隊にまとまりが無く個性がバラけていると理解しました。一応念の為この状況を主人マキールへ報告しておきますか」
 機械人形故に、『悪気』が一切ないヨダカがそう呟く。それがエドゥアルトにとってトドメだったらしく、彼の姿は文字通りどんどん萎れていく。きっとここにミアが居たら彼女は慌てて「水をやらなきゃ!」と如雨露を持ってくるだろう。そのくらいにはエドゥアルトは昨日の元気はどこへやら、何と言うか干からびていた。

 * * *

「えっと…じゃあ昨日の続きでお願いします…俺とガートは教会内部の安全面も見つつ建物内のゴミの撤去。ウルさんとシリルは、悪戯に入って来る人が無いか見張りつつ庭や畑等に敷地内屋外に散乱した瓦礫やゴミの撤去をお願いします」
「了解。私達は今日も外だね」
「了解よ。頑張りましょうね!ウルちゃん!」
「うん」
 現場に着いて早々にミーティングも終え、それぞれが持ち場に向かう。エドゥアルトの胸には昨日満足に作業が進まなかった事が引っ掛かっていた。
 それに、ミーティングの短さも。先輩なら、ユウヤミ・リーシェルなら。きちんとした考え──むしろ超推理とも言うべきか、思慮深さ故淡白にはならない。ある程度の時間をいつも必要としている。それに比べて自分中心のミーティングの淡白な事。
 エドゥアルトは小さく溜息を吐くと作業に当たる。今日も凄惨な結果を見る事がありませんようにと念じながら作業をしたからか、エドゥアルトの想定する『最悪』な光景は見ずに済んだ。
 気付けば昨日と同じ、時間は進んでお昼だ。とりあえず一度一階層に戻る。今日もまた屋台で昼ご飯だろう。何を食べようかと少しだけワクワクしながら思考を巡らせていると、そんなエドゥアルトの顔を見て「エドゥちゃんはそんな顔だけしとったらええねん」とガートが呟いた。
「エドゥちゃん、さっきウルちゃんから無線で連絡あってんけど、昨日より進んだって言うてたで?」
「え?あ、そうなの?」
「せやねん。結果としてエドゥちゃんの最初想定した進み具合で進んどるて」
「……え……?」
「あのなぁ、いつまでもぐじぐじしとってから、ほんまに。もっと自信持ちや、自分。ウチの主人マキールになってんなら尚更や。ウチ、辛気臭い顔嫌いやねん。こんなん無機物やのにその内カビ生えてまうー言うて」
「ガート……」
「はぁ。ウチはもっかい鐘のとこまで昇ってくるわ。ついでに金具外れ掛けてて危なかった鐘外して来たる。数百キロなら何とかなるやろ。ウチはウルちゃんと違って『女の子』やのうて『機械人形ウルトラスーパーガール』やからな」
何だそれ
「せやから『機械人形ウルトラスーパーガール』として扱ったったらええねん。生身の人間とちゃうけど生身の人間みたいな見た目してんねから、人間と似た動きの出来る『機械人形ウルトラスーパーガール』やで?この見た目で数百キロのモノ持てんねやで?お得やわー、活用しない手は無いわー」
 今日の落ち込むエドゥアルトを完全に否定する様なガートの言葉。これがガートなりの気遣いだとエドゥアルトが気付いたのは、この次の彼女の言葉だった。
「……ユウちゃんは、ウチガートウチ機械人形として扱う。ほんま冷酷やで。偶に『人の心無いんか!?』思うくらいに。いやええけど」
「………」
「エドゥちゃんは、優し過ぎんねん。せやけどユウちゃんみたくなりたいんやったらそれは、仕事の中には要らんねん。シリルにも、気ぃ遣い過ぎや」
「…でも……」
「もしその『優しさ』を入れんと落ち着かん言うなら、逆にとことん自分自身のやり方突き詰めたらええやろ。ユウちゃんはユウちゃんにしかやれないやり方で隊長やってんねん。でもエドゥちゃんは、全部が全部ユウちゃんの真似せんでもええ」
「……ガート…」
「それでやってみて出来なかった事ぐじぐじぐじぐじ落ち込むんなら潔く辞めたったらええねーん!エドゥちゃんがユウちゃんの余裕、頭のキレ、海藻要素を受け継げるワケ無いんやから」
「おいィィィィィ!!容姿を論うのはコンプラ違反だぞ!?世間は最近煩いんだぞ!?」
「うわ、やかまし」
 それだけ言ってガートはくるりとエドゥアルトに背を向ける。エドゥアルトが彼女の背に向かって一言「ありがと」と呟くと、彼女は背を向けたままぐっと親指を立てサムズアップする。そしてそのまま段差も何のその、ひょいと階段を登り始めその内見えなくなった。
 時折、エドゥアルトにはガートがいわゆる「空気の読めない性質」の友達に思える事がある。今朝方悪気なく彼の傷を抉ったヨダカも実は平等に。それは偏に二人が機械人形だからであり、どんなに似ていると思ってもやはり根本的なところが人間では無い。
 一見「空気の読めない」様に見えるのは、彼等に人間らしい情緒や心の機微が無いからであり、備わっているであろうシリルは「人間ではないか」と見紛う事があるが、そう言う「人間では無い」と言うどこまでも混じり合えない感じを嫌がる人は少なからず居るのだ。
 機械人形はどこまで行っても機械人形。彼らに感情は無くて、プログラムされたデータを元に個々でその時の最適解を弾き出し、応対しているだけ。
 でも、それって人間だって一緒じゃ無いのか?人間って、機械人形って、この二つを別つ差は?根本的に違うけど、事象一つ一つを紐解いていったら何が違うか具体的に言えない。
 そんな長考に耽っていると、ついつい大学の頃まで思い出してしまう。テロの影響で休校が続き、果ては辞めてしまったが授業風景は何となく記憶の片隅にあった。
 哲学の教授が機械人形推進派で、彼が講義の最中にした雑談で一つ記憶に残っているのがまさに今考えたその話だ。
『機械人形には感情が無い。彼らの持つ個性もプログラム上の物であり、彼らの反応は彼らのプログラムに準じて搭載されたMeltyOSがその場に応じた最適解を叩き出しているだけであると。ではここで人間の感情の仕組みだ。私は専門家では無いので大雑把な話しか出来ないが、私達の持つ脳が感情をコントロールしている。個性をプログラム、脳をMeltyOSと置き換えると、私は機械人形と人間を切り離す目線を失ってしまうんだ。人間が、魂や記憶と言うエネルギーをどこに内蔵しているか分からない物で、機械人形は記憶がMeltyOSにあると明確に分かる物に思えてしまうんだよ。生身であるとか、造られ方がどうだとか、そこに違いがあるだけで突き詰めれば仕組みは双方同じではないか?と思えてならないんだ』
 そう言われると、「いや、機械人形と人間は全然違うじゃん」と言いたくなるのだが、結局自分が退学するまで誰一人としてこの教授に人間と機械人形の違いを明確に示した者はいなかった。理系でも無いから体の作りを説明出来る者が居なかったのもあるだろうし、そもそもとして機械人形と人間が違うのなんて当たり前だと思っているからそれを具体的に説明しようなんて事は誰も興味が無かったのだろう。
 教授はテロの日、機械人形と人間の境を失った末に皆が逃げる最中にも逃げ出さず、為すすべ無く亡くなったらしいと聞いた。
 その話を聞いて「行き着くところまで行った感じだな」とぼんやり思っていたが、先程ガートに「仕事の中には要らない優しさ」を指摘された今、自分も実は境を失っていたのでは無いかと思い始めていた。
「あの……」
「え?あ!シスターイングリド!!」
「こんにちは。今日もいらしていたんですねエドゥアルト様」
 物思いに耽るエドゥアルトの背後にまるで鈴を転がす音の様な声が降る。シスターと言う立場だからなのか昨日と全く格好の同じイングリドがそこにいた。
 相変わらずベールで顔は分からないが、優しく上品な佇まいだった。
「あぁ…また寒そうな格好……」
「はい?」
「シスターイングリド、いくらこれから夏に向かうとは言えまだまだ肌寒いです。その…今その格好って寒く無いんですか?」
「ご心配ありがとうございます。わたくしは気温の変化に強いので平気ですよ」
「そ、そうですか……」
 見てるこっちが寒いんだけどな、と思いつつ、そう言えばイングリドが来た時間が昨日とほぼ同じな事に気が付いた。随分と規則正しい事だなぁと思いつつ、そう言えば彼女はどこから来ているのかが気になった。
 しかしその事を尋ねるより先に、エドゥアルトにとって少々難しい提案をして来たのはイングリドだった。
「あの……エドゥアルト様…わたくしはお手伝いをしてはいけませんか?」
「……え!?」
 正に昨日断ったばかりだが。
 エドゥアルトは考える間もなく首を横に振る。イングリドはベールで顔こそ見えないが、やはり落胆しているのでは無いだろうか。
「……やはり、なりませんか?」
「ええ。危険を伴いますので」
「でも…わたくしは身の頑丈さなら自信があります……寒さも平気ですし…」
「これは寒さを感じる、感じないなんてレベルじゃ無い話なんですよ、シスターイングリド」
 話の分からないイングリドについ言葉が強くなるエドゥアルト。やはり顔が見えないと言うのが何とももどかしい。泣きそうな顔の一つでも見てしまえばきっともう少しブレーキが掛かった気がするのにとまるで責任転嫁の様ではあるが悔やむ気持ち以上に、彼女のあまりにも分かってくれない様子に苛立ちを覚えた。
 しかし、ふとエドゥアルトは考えてしまう。やはり当事者である彼女が安否の知れない人々や倒壊してしまった住処を想うのは当たり前と言えば当たり前だ。それに、たまたま顔を合わせたのが昨日からと言うだけでもしかしたらもっと以前からここに通っていたのかもしれない。
 先輩なら彼女をどう扱うか。
 一瞬そう思案したが、長考する時間は無い。先輩なら、ではなく「自分なら」を考えた結果、エドゥアルトはぼそりと「仕方ないなぁ…」と呟いていた。
「……じゃあ、せめてオレの見える範囲に居てください。オレの目の届くところで、下手したらオレが作業してるところただ見ててもらうだけになるかもしれません。それでも良ければ、良いです……」
 根負け。そう言うに等しい気がする。
 語尾を窄めながらそう呟くと、イングリドの白い手がエドゥアルトの手を取った。やはりそれはとても冷たく、エドゥアルトの体に鳥肌が立つ。
「ありがとうございます、エドゥアルト様」
「うぅ…でも本当、オレが『ここは無理です!』って言ったらちゃんと下がってくださいね!?シスターイングリド、貴女を守りながらトラブルをこなすと言うのが難しい時もあるかもしれませんから!」
「はい、心得ております」
 何だか調子が狂う。天然とでも言うのだろうか、少し自分の観点とズレのある彼女にいささか振り回されている気がしてならない。
 だけど、それでも彼女の美しい声で名前を呼ばれるとつい絆されてしまう。魔性の魅力の様なものを感じつつ彼女の格好が聖職者なのもあって背徳感が増してしまい、エドゥアルトは大学時代連んでいた友人であるマンフレートのベッドの下にあったエロ本を思い出していた。ウブなエドゥアルトにとってはマンフレートのエロ本そのものが背徳的なのだ。
 結局そんな話をしてすぐに「今日はもう帰らないと」と一言残してイングリドは帰ってしまい、彼女の奔放な振る舞いにどっと疲れたエドゥアルトだった。

 * * *

「それさー…奔放とか天然って言うよりかは若干『空気読めてない人』って感じが否めないって言うか……」
「やっぱりタイガもそう思う?」
「会った事ない人に対して失礼な感想だと思うけどね。でも、ちょっとズレてるって言うか。面白いけど」
 食堂で一緒になり、珍しく同じテーブルを囲んだタイガはエドゥアルトの今日の仕事の話を聞き素直にそうイングリドを評す。
 天然、奔放、しかし空気を読めていない気もすると。
「オレも会って二日だから何とも言えないけど…まぁでも、多分悪い人じゃないとは思ってる」
「んー…たまに居るらしいよね。こっちの意図する事がなかなか伝わらなかったりする人。良い人が悪い人かはさて置き、意思の疎通の難しい人って。生まれ持った人の特性みたいなのでもさ、そう言う距離感掴めなかったりちょっとズレた事言っちゃうから集団生活に馴染めないところが多くてそう言うコツみたいなのを掴める様になるまで結構苦労するみたいだしね」
 自らもスーパーレコグナイザーの特性を持つタイガが言うと『特性』と言う言葉により説得力が増すなぁと思いつつエドゥアルトは魚のつくね焼きを口に運ぶ。
 自分の注意を意に介さないところはきっと本人に悪気は無い。悪気は無いからこそ対応する方は余計に難しい。タイガは少し遠い目をしながら口を開いた。
「まぁ、こんなご時世でまだ行方不明のまま見付かってない人も居て……正に行方不明の知人を探してる様な人に『他人と話すのに気遣いを忘れずに!』なんてのを求めるのは酷だとは思うけど」
「あ、タイガ。オレ別に最初からシスターイングリドを批難してるわけじゃ無いからね?」
「分かってるよ、エドゥの反応からもそうじゃないってのは。むしろそう言うマイナスな感じとは……逆なモノ感じ取ったけど?」
 ニヤニヤしながらこちらを覗くタイガの悪い顔ときたら。エドゥアルトは頭の中で『いつからこんな顔する様になったんだ?』と悪態つきながらその悪い顔を見つめ返した。
「き、緊張しただけだからぁ!って言うか、まだそこまで気温上がらないのにいつもあんな寒そうな格好してて案の定手ぇ包まれたら冷たくって…!!」
 そうだ。とても冷たかった。ちょっとおかしいくらいに。
 エドゥアルトは一瞬にして冷静になる。そのくらい、彼女の手の冷たさは気になるところだった。
「……そうだよ…冷たくて、驚いたんだ、オレ…あんなに冷たい手に触ったの初めてだったから……」
「そんなに…?でも女性って多いじゃん?冷え症とか…。オレにも姉が居るんだけど、例に漏れず冷えには悩まされてるみたいだから…」
「でもさ、自分が冷えるタイプって分かってるなら普通もっと着込まない?正直昨日も今日も、シスターらしいっちゃらしいけど…あんな薄いワンピースが普通…?」
「うーん…案外表面が冷えてるだけで、体の内側は暑がりだったりとかは?実は隠れたところは汗をかきやすいタイプとか。何にせよ、本人が寒さに強いって言うなら本当にそうなんじゃ無いの?それか……」
「『それか』?」
「ゆ……幽霊とか、言う……?」
 この場にルーウィンが居ればフォークもスープも全てひっくり返していたに違いない。普段ならその様にして怖がるルーウィンを微笑ましい目で眺めるタイガだが、そんな余裕もない程には自らの立てた仮説に説得力を感じてしまった。背中に悪寒が走り、室内だから寒くも無い筈なのに何故かゾッと肌が泡立つ感じがする。
 まるで誰かがそっと背中に触れて、小さな声で「バレちゃったね」と耳元で呟くような事があったとしてもその流れが自然だと思ってしまう程に言いようの無い不気味な寒さが二人の間に広がった。
「そ、そう言えば……」
「え?」
「二日連続で来てるのに……まだオレ以外誰もシスターイングリドに会ってないんだ……ガートも居ない時に音もなくスッと現れるんだよ…彼女……」
 怪談としてこんなに満点な流れがあろうか。
 タイガはいよいよ洒落にならないと言わんばかりの顔でエドゥアルトを見つめる。心なしか彼の顔色は悪いし、覇気が無いように見えるがそれはまさか、取り憑かれているからとでも言うのだろうか──…?
「あの……エドゥ…」
「何…?」
「シ、シュニーブリーさんってさ、そう言うの専門じゃ無いっけ……?」
 キッチンに居るエミールにもはや後光の幻想まで見え始めた二人は、せっかくのスープを少し駆け足で口に含むと食後すぐに縋るようにエミールの元へ向かった。

5月3日

 昨日、青い顔をして縋る男二人に対しエミールは申し訳無さそうに首を振った。自分にはこの世ならざる者を視る事が出来ないし、視れたとして自分の読み上げるスートラ経文はもしかしたらシスター然とした風貌のイングリドが本当に幽霊だった場合、信仰が違うので彼女にとっての救いにはならないかもしれないと。
 これにはタイガもエドゥアルトも『本当に幽霊だったらどうにもならないかもしれない』と項垂れた。
 更にエミールは続けた。自分に出来る事は説法によって迷いから人を引き上げる手伝いをする事、そして例え信仰が違えど彷徨える人の為に心を込めてスートラ経文を読み上げる事だと。まるで『仮に伝わらなかったとしても味方でいてくれる』と言うエミールの姿勢は今のタイガとエドゥアルトにとってそれだけでも僥倖だった。
 故に、次の瞬間には彼がまるで物欲しそうに調理場に居るヒギリの手元を見つめている事に気付かずにいた。彼の目線の先、ヒギリは焼豚を作る為に良い太さの肉を割りと強めに紐で縛っていた。タイガもエドゥアルトも知らないが、エミールはまだまだ『なまぐさ』と言える煩悩塗れの僧であった。しかし彼の持つ信仰や宗教の教えで塞ぎ掛けていた二人の心が救えたので見えない部分は敢えて追求せずとも良しとする。
 この日、エミールとタイガに話した事で少し気持ちが楽になったのかいつもよりしっかり眠れたエドゥアルト。目覚ましが鳴ってもなかなか起きれず目覚めたのは昼近くだったのだが、慌てず騒がず静かに顔を洗いに行けたのは今日が休みだと気付いたからだ。
 昨日の内に掃除や瓦礫撤去の進み具合を報告書に纏めて上層部に提出してあるので、今日はミクリカの自治体とマルフィ結社の幹部らが今後も贔屓に・・・・・・してもらう為に親睦を深めがてら・・・・・・・・経過報告をしに行く日。そしておそらく酒の酌み交わしもあるだろうそれは末端の仕事じゃ無いし、待機ついでに取らねばならない休日を消化していろとそう言う事だ。
 顔を洗い、歯を磨くエドゥアルトの視界の端に黒いものが映り込む。鏡越しに捉えたのは黒のトートバッグで、たまたま立たせられていたソレが目に入った瞬間彼の脳裏にベールで頭をすっぽり隠したイングリドの姿を思い出させた。
 初めて会った不思議な人。顔は見えないのに、素性も分からないのに、声にやたら安らぎを覚えたその人は今頃どうしているのだろうか?
「……って言うか…シスターイングリドって住んでる家はどこなんだろう?」
 まだまだ幽霊の可能性も捨て切れないが今はそれを考えるのはやめておく。邪念を祓うには気合いだとエミールに教えてもらったし、エドゥアルトは豪快に喉を鳴らしてうがいをすると朝の身支度を終えた。
「……よしっ!!練習場でも行くか…!!セリカさんかロナさん、居ますように!!」
 たまに剣術の指南をしてくれる二人が練習場に居て尚且つ暇であります様にと心の中で祈りながら元気良く部屋を飛び出す。
 少しずつ暑くなってはきているがまだまだ寒いカンテ国。今日、もしミクリカにイングリドが来ていたら、自分が居ない事を不安がってしまうだろうかと頭の中で考えながらエドゥアルトは足早に練習場に向かった。

 * * *

「幽霊…幽霊か……」
 思い出してボソリと呟くタイガに対して鋭い目線をリアムは向ける。その目は暗に「仕事中だと言うのに何を口走っている?」と言うリアムの心の声をあらわしていた。それに気付いたタイガは不思議そうに小首を傾げると今し方リアム総務部にチェックしてもらった書類を綺麗に纏めた。
「あれ?シュミットさんって幽霊とか苦手でしたっけ?」
「ふん…『お友達』と一緒にしないでくれるか?」
「あ、じゃあ幽霊怖く無い人ですか」
「当たり前だ。子供じゃあるまいし、そんなものに怖がったりしない」
 とは言うが、虫や犬はルーウィンのお化け並みに苦手なリアムである。これが虫やら犬やらなら青い顔をしてひっくり返りでもするかもしれないが、ジャンルが違えば強気なものだ。
「しかし、君こそそんなものに怖がるタチだったか?何だって急に幽霊を気にし始めたんだ?あれか?資料室の噂か?」
「いや……って言うかアレはおそらく家鳴りだろうってなったじゃないですか。違います、今第六小隊が請け負ってる聖ミクリカ教会の整地業務です。エドゥが言うには、始まってまだ二日ですが連日シスターが顔を出すそうなんですよ」
「聖ミクリカ教会だろう?ならシスターが顔を出すのも不思議では無いだろうに」
「そうなんですけど、あそこは倒壊の激しいところだったでしょう?愛の日の街のイベントの時だって、規制線テープ貼って隔離するのが精一杯。自治体によるとボランティアで相当数の機械人形を地下で保管していたと言いますし、実際の被害は全く掴めません…それらが埋まっていて瓦礫を除けた瞬間飛び出してくる可能性も否めないとかで……あ、大きな石退けたら大量の虫が湧き上がる様な感じに機械人形が出て来たら危ないですもんね」
「へ、変な事を言うな!!ヴァテール!!」
 湧き上がる大量の虫を想像してか、リアムは大袈裟に鳥肌を立てる。タイガは、目の前の彼が友人であるルーウィンの怖い話を聞いた時の反応にとても近しかったのだがそれには気付いていない様子で虫の話を続けるものだから、許されるなら頭を掻きむしりたくなる程の衝動にリアムが駆られていても何が何だか分かっていない様だ。
「あれ!?シュミットさん、寒いんですか?」
「……ヴァテール、趣味が悪いぞ貴様」
「え?」
 突然の悪趣味呼びに解せない顔をするタイガ。一人顔を青くするリアム。そこに声を掛けたのは、近くで二人を見ていたクロエだった。
「あの、タイガ氏……聖ミクリカ教会と聞こえた気がするのですが」
「クロエちゃん!うん、今第六小隊がそこで作業してるんだよ!」
「おまけに、シスターが現れる…と言いましたか?」
「そうそう、シスターイングリドって言うんだって。もしかしてクロエちゃん、知り合いだったりする?」
「そう言えばバートン…確かその教会出身だったよな……もしかしてお前が探していたシスターの名前か……?」
 クロエは聖ミクリカ教会の出身で、テロの日は外出していて事なきを得たと言う経緯がある。そんな彼女は結社に来てからずっとシスター達の安否を確認したがっていたのだが、教会はとにかく倒壊が酷かった上に届け出なく壊れた機械人形を集めて修理していたと言うのが後から発覚し、時間が経った今も尚一般人が立ち入り出来ない区画となっていた。
 自治体からの要望で、やっと前線に立つ人間の立ち入りが許可されたのだ。それはクロエにとっても喜ばしい話であった筈なのだが、タイガから話を聞いたクロエは眉間に皺を寄せたまま不思議そうに空を見つめた。
「あの、タイガ氏」
「うん?」
「エドゥアルト氏が言っていたそのシスターはイングリドと名乗ったのですか…?」
「あ、うん。らしいよ?」
「……自ら『聖ミクリカ教会のシスターイングリド』と名乗ったのですか…?」
「え?そこまで細かい自己紹介かは分からないけど……」
「本当にそこは聖ミクリカ教会ですか?」
 まるで矢継ぎ早に質問するクロエをリアムが少しだけ制止する。彼女の口ぶりからリアムは一つの可能性を見出した。それは、イングリドが聖ミクリカ教会のシスターでは無かった可能性だ。
「……バートン、昨年辺りから素行不良だったと言っていたな?ミクリカの商店に転々と入り浸り、教会にあまり帰らなかったと」
「教会でメシなんて食えませんからね。商売のノウハウを教わって独り立ちしなければ、ハイスクール卒業後何の特技もない醜女が爆誕するだけですから」
「あ、またクロエちゃんそう言う事言う……」
「ミアみたいな事言いますねタイガ氏」
 脱線するクロエを本筋に戻しながらリアムが歯切れの悪いクロエを問い詰める。彼がクロエに確認したかったのは、彼女の素行不良が本当ならその間に教会にやって来たイングリドの存在を知らなかったのでは無いか?と言う事だ。
 クロエはそれを「否めない」と言った。
「少なくとも私は『イングリド』と言うシスターは知りません」
「バートンが知らないとなると……バートンがあまり帰らなくなった頃にやって来たシスターか……」
「も、もしかして本当に幽霊…とか……?」
 タイガの一言で痛い程の静寂が広がる。しかしクロエは首を傾げて何かを考える様に視線を斜め上に動かすと、首を横に振った。
「幽霊なんてこの世に居ませんよ」
「な、何で言い切れちゃうの?」
「世の中触れるもの以外私は信じません。信じて居なければ、存在しようが何だろうが居ないのと同じです」
「ほぅ……ではお前が手を出している仮想通貨も実際には触れられないのだから無いのと同じじゃないのか?」
 リアムの発言にクロエが年相応の子供らしい顔で睨みを利かせる。普段滅多に見れないその表情が彼女にとって『痛いところを突かれた』事を物語っていると言うのはタイガも気が付いた。大人っぽく常に冷静沈着で対応している様に見えても、まだまだ経験浅く詰めの甘い主張を持っていたりするものなのだ。そしてそんな主張の『穴』を突かれた時、こんなにも子供らしい可愛らしい動揺の仕方をするのだと、大人っぽく見えても歳下だなぁとタイガは微笑ましい顔になった。
「幽霊がこの世に居ないと否定するだけの材料も無いわけで、結局幽霊であると言う可能性も否定出来なくなったな。まぁ、確率は太陽からヴァテールに向けてボールを投げて当てられるくらいのものだと思うが」
「シュミットさん、それほぼ無いに等しいですよ」
「まぁ十中八九、別の教会で従事している関係者と言う事では無いか?謎だらけに思えても、一つ確定的な事象が見えれば全てに説明がつく事もある」
 とは言え、今出ている説はどれも確定した話では無く憶測の域を出ない。それは勿論、人間であって幽霊では無い』と言う部分すらもだ。
 不確定要素の疑いを強めてしまうだけの話し合いは、クロエが自分の仕事に戻ると席を外し、同時にタイガとリアムが本来の仕事の話にシフトした事で終わりを迎えた。
「エドゥに連絡しようかな…?どう思います?シュミットさん」
「さあな。答えは分からん。だが私がヴァテールならとりあえず『用心を怠るな』とさり気なく伝えはするが不安を煽る様な言葉は避けると思うな」
「ですよね…」
 タイガは『明日も怪我には気を付けて』と言う旨のメッセージだけをエドゥアルトに送ったが、それ以上は何も言わなかった。変に『幽霊かもしれない』と疑っていた彼を刺激する様な事を書いて、冷静さを欠いた彼が作業中に怪我でもしたらそれこそ一大事だからだ。
 その後エドゥアルトからの返事は、『ロナさんに稽古つけてもらった』と言う微笑ましい写真付きで送られて来た。タイガはそれを見ると返事を返し、静かに仕事に戻る。
 休日が間も無く終わる。今日は結社から出ていない。なのに各々の思考の片隅には、黒い修道服と黒いベールで肌の殆ど見えない彼女の存在がちらついていた。
「あ……そっか…」
 だからだ。髪の色も顔の形も分からないけれど、着ている服の形も頭をすっぽり覆っているベールも、単純でイメージしやすいから逆に想像してしまうんだ。
 心の隙間にぬるりと入り込まれた様な嫌な気持ちになりながら、とは言えリアムの言う通り彼女の事を知ってしまえばきっと何ともない様な。
 妙な気持ちになりながら一日を過ごす。勿論それはエドゥアルトも同様で、彼の頭の中にもイングリドは巣食っていた。
「……本当に幽霊だったらどうしよう…」
 タイガもエドゥアルトも、ある一つの仮説にまで行き着いてしまう。それは、『イングリドが幽霊』で、『自分の行った聖ミクリカ教会が実は次元のズレた幻の聖ミクリカ教会だった』と言う極めて現実味のないものだった。
 世のオカルトマニアが泣いて喜びそうな仮説である。

5月4日

 清々しい朝の空気にあくびを一つ。
 昨日あんなに扱かれたからか気持ち良く眠りに就け、すっきりとした目覚めを迎えた。しかし、「今日もミクリカで仕事だ」と思うと少しだけ憂鬱な気分にもなる。
 イングリドは果たして一体何者なのか。考えても答え等出ないが、気になってしまう。せめて自分以外に彼女と顔を合わせた人間が居たら良いのだが。
「……まぁ、良いか」
 とは言え、昨日一日体を動かした事で冷静になれたのかエドゥアルトは違う見方も出来ていた。もし仮に幽霊だったとして、今のところ実害が無いのだからこれと言って問題も無いのだと思う様になった。
 それに、もし仮にそうだったとして、きっと幽霊には幽霊の事情があるのだろう。生前の心残りがあまりにも強かったのだとか、そう言うやむを得ない事情が。自分には想像も出来ない事情を抱えている相手と接するのは、生きている人間同士だってそう変わらない。
「よし、今日も一日頑張るぞ」
 エドゥアルトは冷水で顔を洗うと、いつもより気合を入れて髪のセットを始める。よく眠れたからか、そう言う身だしなみに気を配りたくなったのだ。
 それに何より、今日は入院中のユウヤミの顔を見に行ける日でもあった。敬愛する彼に会うのにだらしない格好で行くなどと言う選択肢はエドゥアルトの頭に無かった。

 * * *

「じゃ、ウチ大物運び出してくるわ。終わったらお昼行ってええで。危ないから周りうろちょろすなよ、人間が入り込まない様に見張っときや」
「いや、リーダーか!もう風格がリーダーじゃん!オレじゃなくて、それじゃあガートがリーダーじゃん!」
「へへっ、ウチの方が指導者の器かもしれんで?ほーれ!ガート様の御通りやー!道を開けよしー!!言うてな!」
「はははっ、何か様になってるのがまた複雑ぅ」
 昼頃、人と違って怪我をする危険性の無いガートが大物運びの為にまた壊れた階段を、瓦礫の山を乗り越え二階層へと昇っていく。今日は二階部分にあったピアノ等の楽器類を運び出すらしい。
 もしかしたらまだ使い道があるかもしれないのでガサツに運び出さない様にと注意したところ、ならば自分一人にやらせろと言うのでエドゥアルトは待つ事にした。
 さらりと爽やかな風が頬を撫でる。それがまるで合図だとでも言わんばかりに近くの植え込みがガサリと音を立て見慣れたシスター服が現れた。
「エドゥアルト様」
「シスターイングリド……」
「こんにちは。今日はお手伝いをしても?」
「……ええ。でも、ちょっと待ってください。オレの友達が──機械人形・・・・の子がこれから大きな荷物を運んでくるんで、それが終わるまで危なくてダメです」
「まあ。それはどのくらい掛かりますの?」
「分かりません。彼女次第ですが…『うんと早い』と言う訳にはいかないかと……」
 試すわけでは無いが、機械人形と言う単語も交えてみる。もしもイングリドに彼等に対する嫌悪感や憎悪の様なものがあるのならば「結社はそう言うところだから関わらないでくれ」と言うしか無いと身構えていたエドゥアルトが拍子抜けするくらいには彼女からそう言った感情の機微は見られなかった。
「困りました…わたくしはそう長く滞在出来ないので……」
「そう言えば…シスターイングリド、貴女はどちらから来ているんです?ミクリカ近辺ですか?」
「わたくしキキトから来ておりますの」
「あ、キキトなんですか。まぁ、電車があるならそんなに…遠いですけど、通えない距離では無いか……ところでシスターイングリド、ガート──機械人形の子が帰って来ても今日は地下室への階段周辺での作業はしませんから、本当に地上階の瓦礫の片付けしか無いのですが…」
「あら、そうなのですね」
「地下を開けるのは明日です。ですが、危険が伴います」
 昨日、ミクリカ自治体の皆様と有意義な会談を終えた上層部はエドゥアルトを呼び出しそして或る意向を伝えた。それは、「瓦礫に埋まって封鎖されている聖ミクリカ教会の地下部分をユンボを使ってこじ開ける」と言うものだった。ユンボの操作はシミュレートデータごとガートにインプットし、当日彼女が行う。
 違法性の高い組まれ方をしていたガートは今月中にも規格内の部品に取り替えられ、内部データも隅々までチェックする予定だが、違法な戦い方に関する動作をインプットしたデータも大幅に削除される予定だ。ユンボの操作データも容量を圧迫するので、終わったら同時に消してしまう予定だった。
 テロの爪痕が色濃く残るミクリカ。その街で中古の機械人形の修理をボランティアで行っていた教会。その建物の地下室と屋外の垣根を暴いてしまおうと言う作業。暴走機械人形がどう動くか分からない、とても危険な作業だ。
「オレとしては……地下への同行を許可出来ないと言うのが現状です」
「エドゥアルト様……」
「……すみません、シスターイングリド」
 この時、エドゥアルトは「明日は敷地内にも入ってはいけない」としっかり言わなかった事を後悔する事になる。イングリドはただでさえ今まで空気など読まなかった女性だ。「地下への同行を許可出来ない」と言う言葉から「だから明日はここに来てはいけない」と言う、語られない部分・・・・・・・への状況の理解等、求めてはいけなかった。
 まるでプログラムを組む様に、どう動く事までは許容出来て、どう動いてはいけないのだとこの時はっきり伝えていれば。
 彼はこの日この時間のやり取りを後悔するのだった。
「あれ?エドゥ?」
 ガサリと音を立て、植え込みからウルリッカが顔を出す。何故そんなところから?と尋ねれば、彼女は「食事終わりだ」とそう答えた。
「だからって……植え込み突き抜けて通ります?」
「だって。門のすぐ近くに一昨日シリルに嫌な事しようとした人達が居たんだよ。反対派とかよく分からないけど……私って言う人間が連れてるんだから、見てて嫌な気分になるって分かるのに……」
 断片的にボソボソっと文句を言う等と普段ならあまり想像出来ないらしからぬ姿を見るに、相当ウルリッカの腹に据えかねた事が一昨日あったらしい。それをしでかした彼等に会いたくないから隠れる様に植え込みに紛れて敷地内に戻って来たのだ。
 体に付いた葉っぱや枝を取り除くウルリッカにエドゥアルトは「そう言えばシリルは?」と至極当たり前の疑問をぶつけた。このご時世、機械人形の単独行動など危険だからだ。
 ウルリッカはその黒目がちな瞳をエドゥアルトに向けると「植え込みに入りたくないんだって…」と少し残念そうに呟く。
 ふと上を見上げればまるで東國の忍者の様に、屋根伝いに隠れる様にこそこそと移動してくるシリルの姿を遠くに捉えた。
「植え込みに入っちゃえば早いのに…」
「……そりゃあ、その移動の仕方は嫌だって言うでしょう、シリルなら」
 シリルは美意識の高い機械人形だ。植え込みを突き進む等野生味溢れる移動の仕方はきっと美的センスに反する。それがシリルと言う機械人形の持つ個性だ。
「ところで、誰?」
 ウルリッカの声で我に返るエドゥアルトは彼女がイングリドと対面していた事に気が付いた。つまり、今ウルリッカはイングリドの姿を認識している。
「わたくしはイングリドと申します」
「ふーん。イングリドって言うんだ。私ウルリッカ。ウルリッカ・マルムフェ」
「ウルさん!!シスターイングリドの姿が見えるんですか!?」
 割って入られたからか不思議そうな目で自分を見るウルリッカ。そして表情こそ分からないが、ウルリッカから自分へと顔を向け変えたイングリド。二人の動きを認識したエドゥアルトは密かに「やってしまった」と思った。
「あ、えっとその……」
「ん?イングリド…の事は見えてるよ?普通に」
「で、ですよねー…?ははは……。す、すみません、シスターイングリドは決まった時間にやってくるし、オレしか会った事無いしでもしかしたらオレにしか見えない幽霊とかだったりして?って思ったりして……」
 エドゥアルトは更に「やってしまった」と思った。そんな事考えていたからと言って本人に言う話では無い。ウルリッカはその黒目がちな瞳を少しだけ怪訝そうに細めるとイングリドの顔──と言うより顔を覆っているベールをじっと見た。
「……幽霊じゃないよね?」
「ええ。わたくしは幽霊ではありませんよ」
「幽霊じゃ無いって」
 得意げにふんっと鼻を鳴らすウルリッカに年上らしからぬ子供な可愛さを見出しつつ、エドゥアルトはイングリドが自分にしか見えない存在では無い事を確信してやっと安堵した。
 良かった。彼女は幽霊なんかじゃ無い。ちゃんと目の前に存在している。
「…申し訳ございません、わたくしそろそろ行かなければ」
 不意にイングリドがそう口にしたのでエドゥアルトは端末を取り出して時間を見る。時刻は、大体エドゥアルトがイングリドを見失う時間を指していた。
「どこに行くの?」
「キキトに帰ります。今はそこに滞在しておりますので」
「ここから?電車ならそんなに遠くないけど、イングリドってわざわざキキトから通ってたんだ」
「そうなのです。こちらに設備・・が整っていれば良いのですがそうでは無いので」
 それでは、と会釈をして去ってしまうイングリド。ウルリッカと共に見送りながら、エドゥアルトはこの時初めてイングリドの帰る姿をまともに見た気がした。
「…オレ、シスターイングリド見送るの初めてです…」
「え?今までどうしてたの?」
「いやぁ…それが、シスターイングリドっていつも急に居なくなってたんですよ。あまりにも急に消える様に居なくなっちゃうから、それもあってオレ幽霊じゃ無いかって疑ってて…」
「そう。そうなんだ…うーん……確かに幽霊じゃ無いと思うけど……」
 歯切れの悪いウルリッカ。エドゥアルトは先程やっと安堵出来たばかりだと言うのに、再び背中に悪寒を走らせる事になった。
「え…?幽霊じゃ無いんですよね…!?」
「うん、幽霊じゃ無いとは思う」
 でも、と言葉を紡ぐウルリッカは随分と漠然とした事を口にする。
「何か…動物っぽく無い…」
「そ、そりゃあ人間ですからね……」
 確かにワンピースと同じ色のベールをすっぽりと被り、顔が一切見えない全身真っ黒な姿は若干の恐怖や警戒を煽る時もあるか。帰る彼女を遠目に見ながらそう思ったエドゥアルトは、それでも彼女が幽霊でないであろう、少なくともウルリッカも一緒に彼女と話をしたと言う事実だけで悩みの八割が消える程の安心感を持って居た。
「……さて!シスターイングリドも帰りましたし!オレ、ガートの手伝いして来ますね!」
 そう言ってその場を離れるエドゥアルトと入れ替わる様に、シリルがやっとウルリッカの元に戻って来た。屋根を伝い必死に落ちない様に歩き、衝撃で破損の無い高さから地面に着地するのは骨の折れる作業であった様でシリルのボディはメインコンピュータが働き過ぎたのか少し熱くなっていた。しかしそれでも人間では無いので息が上がる等の分かりやすさはない。ただ、ウルリッカは家族も同然にシリルの事を想っているから、そんな家族の些細な変化は見逃さなかった。
「シリル、おかえり。お疲れ」
「……ただいま。全く、植え込みの中は出来たら通りたく無かったけど、不安定な屋根の上を無理な計算しながら進むならそっちの方が良かったかもしれないわ…次こう言う事があったらウルちゃんと一緒に行きましょ」
「そうやって機械人形って周りの人間に似てくるんだね」
「……なるほど、そう言う事ね。『機械人形は持ち主に似る』って諺の意味はそうやって出来上がるのね。ところで…さっき一緒にいた真っ黒な人は誰?」
「イングリドって言うんだって。エドゥが三日前に作業してて初めて会ったって言ってた」
「へぇ、仕事を通じて女の子と仲良くなるなんてエドゥも隅に置けないわね!」
 恋バナの予感を感じて嬉しそうな顔を見せるシリル。だが目の前にいるウルリッカは、何やら引っ掛かる部分があるらしく少し難しい顔をしていた。
「……ウルちゃん…?」
「うーん……でも何かね、引っ掛かる」
「引っ掛かる?」
「ねえシリル、私はそんなに気にしないんだけど、それでも山の中を走ったらちゃんと服着替えるよ?」
「え?」
「暗い色で濃い服って、砂埃とか凄く目立つよね?普通の女の子って、砂埃付いた服ってそのまま着てる?」
「ちょ、ちょっとウルちゃん?それ何の話かしら?」
 頭の中でシミュレートしても今一つウルリッカの言いたい事が見えて来ないので正直に尋ねるシリル。ウルリッカは頭の中で考えを纏めると、一つ二つ深呼吸をして口を開いた。
「イングリド…服無いのかな?」
「え?服が無い?どうして?」
「だって、ただキキトから行って帰って来ただけだとそんなに付かないよって思うくらいの砂埃が服にいっぱい付いてるんだよ。私も最初は分からなかったんだけど、薄い黄土色掛かった黒のワンピースかな?って。でもあれ、よく見たら埃だと思うんだよ。エドゥは多分、女の人の服とか身体とか、失礼だからってしっかり見てないと思うんだけど……」
「うーん…見た感じ修道女みたいだし、同じ服をずっと繰り返し大事に着ていて、それが日に焼けて色が白茶けてしまったって可能性は無い?」
「……分かんない。私には埃に見えた」
「でも…失礼な事言うけど、それならきっと臭うと思うわ。エドゥもウルちゃんも平気だったんでしょ?」
 鼻の良いウルリッカが臭いを気にしない辺り、きっと彼女の思う状態にイングリドはなっていないのだろう。そう言い聞かせるシリルだが、ウルリッカは極めて難しい顔をしてキキトの方角を見つめるばかりだ。
「やっぱり……幽霊なのかな……」
 ウルリッカの呟いた一言は、真昼のミクリカの街の喧騒に溶けて行った。

5月5日

開拓

 朝、緊張からか早くに目が覚める。携帯端末を見れば、今日がエドゥアルトにとって緊張の高い日であると把握していたユウヤミからメッセージがあった。
 優しい先輩からの「肩の力を抜いて緊張し過ぎずにね」と言う言葉にエドゥアルトは綻んだ顔を見せる。
 冷たい水で顔を洗い、いつもよりキツめに三つ編みを結くとカミソリを取り出して眉毛も整えた。少し生えているヒゲも綺麗に剃ると鏡の中には清潔感あふれるエドゥアルトの姿があった。
「よし……気を引き締めるぞ……」
 エネルギーチャージに適した完全栄養食のブロック菓子を口に放り込む。いつもなら二本しか食べないが、気合いを入れる為四本食べた。ついでにチャージゼリーの類も封を開けると勢い良く吸い上げる。甘い香りと味が口いっぱいに広がり、エドゥアルトは満足気に歯を磨き始めた。
 そう言えばあのいけ好かないガキンチョも好んでこう言ったものを口にしていると聞いて内心馬鹿にしていたものだ。絶対に食事を口にした方が良い、栄養は野菜や肉、穀類から取った方が良いのにと。
 けれど、今日口にしてみて思った。食事を摂るとどうしても気持ちが落ち着いてしまう。緊張感をそのままに、スピーディーに栄養補給したいと思ったらこう言う食べ方をするのも有りだと。
 まぁ、新たな発見も出来たし今日はこのまま気を引き締めてミクリカに向かうまでだ。
 ぐしゃぐしゃとゴミを丸めてゼリーのゴミをゴミ箱に投げ入れる。弧を描いたそれは、綺麗にゴミ箱へと吸い込まれて行った。

 * * *

「前線駆除班第六小隊小隊長代理、エドゥアルト・ウーデットです!!聖ミクリカ教会に居ます!トラブルです!トラブルです!!」
 全てがつつが無くスピーディーに向かってくれれば。
 そんな思いを嘲笑う様にこんな日に限ってトラブルが舞い込んでしまう。
 昨日ウルリッカが避けて居た反対派の人間が、機械人形を連れて歩いている一般市民に絡み、どちらとも文句の言い合いとなりついには殴り合いの喧嘩になったと言う。
 しかもエドゥアルトがユンボを操作するガートを先導している矢先にだった。
 レンタルして居たユンボが現地にある以上、この作業は今日やらねばならない。だが、目の前のトラブルも見過ごせない。
 とりあえず結社に連絡をして近隣に居る医療班を向かわせてもらう様手配をして、その後はどうするのが最良かと悩んでいるとウルリッカがエドゥアルトの肩にぽんと手を置いた。
「とりあえず、ここに誰も来ない様に立ち入り禁止のテープ周りに貼ってくる。後、喧嘩は止めてくる」
「ウルさん!?危ないっすよ!?」
「大丈夫、直接は止めない。シリルに現場の録画してもらって手を出してる人の証拠残しとく。これは人同士のやり取りだから、いつもの暴走した機械人形を止めるみたくいかないし、軍警に連絡して任せる」
「ウルさん…無茶はダメですからね?」
「分かってる。でも、シリルと一緒に行っちゃうから、地下開けるのにガートと二人にしちゃう。大丈夫?」
「……ええ。敷地もそんなに広く無いんでオレが刀振り回したらその時周りに居たら危ないからどっちにしろウルさんには鐘楼まで昇って上から狙撃してもらおうと思ってたんで、終わったら来てもらうって感じで大丈夫です。今ソナーを使って地下の様子を探ってみましたが、目ぼしい反応は無いしそこまで危険は無さそうなので」
 汚染駆除班の開発したソナーは、動く可能性のある機械人形を検知する目的で作られた試供品だった。それによると聖ミクリカ教会の地下には確かに機械人形が多く検出されたが、その中で動く可能性のあるものはゼロだった。
 そう言うとウルリッカはこくりと頷き、「すぐ戻るね」と微笑んでシリルと共に乱闘の起きている現場に向かう。
 ギロク博士のテロは、何もかも変えてしまった。機械人形の立場も、人同士の関係も、人の在り方も。
 トラブルが起きるとしたらそれは何も機械人形の暴走による死傷とは限らない。そんな状況でも機械人形を友と信じる人、今の機械人形では無く安全面を考慮された未来の機械人形と共に暮らす未来を信じる人、機械人形を悪と見做し彼等を守る人間もまた同様に憎悪する人の交わらない価値観から互いを傷付け合ってしまうのもまた然りだ。
 テロは機械人形と人の間に壁を作っただけじゃ無い。人間にも隔たりを生んでしまった。
 恋人を人の無関心によって喪ったと言うのに、無関心どころか人に猜疑心を生ませ分断を進めたこのテロに、一体ギロクは何を望み何を託したのだろう?
「オレ、おかしいのかな……」
 誰に言うでも無く呟く。こんな事態を引き起こしたギロクに思いを馳せてしまう自分。きっと彼の主張をしっかり聞いたら、許してしまえるかもしれないと思っている自分。
 正義感が無いわけではない。現に大学の友人や教諭に怪我をしたり亡くなってしまった人も居た。しかし、どこか達観した様な見方をしているのも事実であり、自分だけが何だか一つズレた次元からテロを見て居た感覚だった。それはさながらテレビで他人事として観るニュースと同じだった。
 近しい友人が亡くなったわけでも無ければ、大事にして居た機械人形が暴走する様を見たわけでもない。故に実感が湧いて居ないと言うのが真実かもしれないが、エドゥアルトはそんな自分を不思議に思った。
「エドゥちゃん!!ええでーーー!!」
 元気なガートの声にハッとする。エドゥアルトは自分が今どこで何をしているのか再度理解するのに数秒要した。
「あ…!うん!!ガート!ゆっくり瓦礫退かして!!」
 ゴゴゴゴ、と音を立てながらユンボのクローラーがかつて一階層の壁だったであろう瓦礫の山に乗り上げ踏み締めて行く。倒壊の激しい一階層を難なく進むユンボと、まるでその道一筋の職人かと思うくらいガートの扱いは見事だった。
 矢張り機械人形は機械人形、人間では無い。
 人間はデータをインプットしたりアウトプットしたり出来ないし、こんなに早く技術を手に馴染ませたりは出来ない。
『機械人形のデータのインプット、アウトプットは人間で言うところの会話を交わす行為では無いかと私は思っているのだよ』
 しかし、大学の教授のそんな言葉を思い出すとまた悩んでしまう。本当なら大事な局面でこんな事を考えるなどあってはならないと思うのだが、そんな思考が追い付かない程エドゥアルトの頭の中は機械人形と人間の垣根の事でいっぱいだった。
「エドゥちゃーん!!空いたでー!!」
 ガートの声にエドゥアルトの思考は現実に返る。目の前を見れば、退かされた瓦礫の下にぽっかりと穴が空いていた。おそらく半年ぶりであろう新鮮な外気を取り入れた地下室はブワッと大量の埃を吐き出し、もわりと古臭いにおいが鼻をくすぐった。
「ガート!中はオレが見るよ!」
「気ぃ付けやー!!」
 汚染駆除班曰く、このソナーはまだ改善点があるらしい。
 ただし、今でこそ屋外でのみ行われているテロ行為なのだがミクリカとケンズは屋内外問わず街の人間が被害に遭った。テロの日に建物ごとこれ程の倒壊に遭った教会もまた然り、屋内から機械人形の攻撃を受けたと予想される。つまり逆を言えば、ミクリカの立入禁止区域で今現在動いて居ない機械人形はほぼほぼ故障して動かない可能性が高いと言う事だ。
 ゆくゆくはギロクが作ったウイルスを検知するソナーを作る事を目標に、その試作品がエドゥアルトの手に渡された。
 ソナーを穴に向け端末に表示された画面を見る。危険分子の潜んでいる可能性は限りなくゼロと書かれていた。
 とは言え安心はすなわち慢心だ。エドゥアルトは気を抜かずにライトを取り出すと地下室内を照らし出す。人影が見えてゾッとするが、それこそバッテリーが切れて動かなくなっている機械人形だった。
「……びびった……」
 まだ奥まで見たらまた違う世界が広がっているかもしれないが、少なくとも生きた人間がここに居ない事もソナーで確認するとエドゥアルトはガートの方に向き直り、彼女にユンボを操作する様に命令する。
 聖ミクリカ教会の地下を開放する為に一階層の床を完全に拓いてしまわねばならない。それは建物の破壊とも取れるが、安全の為にもやらねばならないのだ。
「あの……エドゥアルト様…」
 その時、エドゥアルトにとって今日最も聞きたくなかった声が聞こえた。どう言うわけか背後にイングリドが立って居たのだった。
「シ、シスターイングリド!?」
「こんにちは。良かった、お気付きになられないかと思いました」
「シスターイングリド、何でここに!?」
「え?何故って、いつもの事だからですわ」
「オレ、昨日言いましたよね!?地下への立ち入りは許可出来ないって!!危ないからって!!だから今日はもう来ないかと思ってたのに…!!」
「え…?地下へは行きませんよ?昨日エドゥアルト様にそう言われましたから」
「でも…!!」
 確かに自分は昨日、地下に入るのは許可出来ないと言った。しかし、それしか言わなかったのも確かだ。イングリドにはしっかりはっきり要望を伝えないと望む様に伝わってはくれないらしい。
「……はぁ…これから拓きますけど、絶対見てるだけにしてくださいね、近寄らないでくださいね」
「ありがとうございます、約束しますわ」
「本当、危ないですから。貴女に何かあったら──……」
 言い掛けてエドゥアルトはハッとする。何だか初めてとも言うべき自分らしく無い言葉が口を付き掛けた。
 貴女に何かあったら。一体その後自分はどう続ける気だったのだろうか。
 しっかり顔も見れたわけでない、どこに住んでいるかも分からない。そんな彼女を一体どんな目で見て、どういう理由で気に掛けているのかが自分でも分からない。
 そんな事を思案しつつ前を向く。エドゥアルトの瞳がぽっかりと空いた地下に続く穴を捉えた。そこに、ガートの操るユンボがアームを伸ばす。ユンボのバケットが抉る様に穴を大きくして行くと、日の当たらない暗闇の中で赤い何かがギラリと光った。
「……退がって!!!!」
 それは一瞬の出来事だった。
 カサカサとまるで這う様に、動くソレは匍匐前進とも違う動きをしていた。あり得ない程に肩肘を後に回し、股関節の概念など無さそうな足の畳み方でさながら蜘蛛の様に低く低く、しかし素早く動き回った。人間では凡そ体勢が辛くて取れない様な姿勢のまま高速で動くソレは、エドゥアルトを通り越しイングリドの元へまっすぐ向かって行った。
 赤く目を光らせた、汚染された機械人形だ。人の声が届く存在でも、人の道理に沿って動く物でも最早ない。
「イングリド!!!」
 ダメだ。このままでは彼女が襲われてしまう。
 しかしどう言うわけか、汚染された機械人形はイングリドの目と鼻の先まで迫ると一時停止し止まってしまう。理由は分からないが、襲う前に止まったのだ。
 しめたとばかりに手に持った傘の石突きを取り外すと、中棒から滑らす様に刃を抜いた。そしてエドゥアルトは柄の部分をしっかり握ると、機械人形の首目掛けて刃を突き刺す。ブチブチと首の中の配線コードが切れる感触を手に感じながら機械人形を見ると、壊れたのか目から光を失ったソレはゆっくりと地面に堕ちていった。
「エドゥちゃーーーんっ!!!どないしてん!?」
 ユンボの操作席に座ったままのガートが声を張り上げる。エドゥアルトはまだ手の震える感覚を感じながら精一杯声を張り上げた。
「…汚染された機械人形だ!!地下から飛び出してきてシスター・イングリドに襲い掛かろうとした!!」
「やっぱ居てるんやんか!!エドゥちゃん!!また出て来たらかなわんから早よウチのパスコード入れやぁ!!ウチも闘う!!」
「でも…!それやっちゃったらガートのメインコンピュータに負担は…!?今日はユンボのデータも入れてるじゃんか!!」
「アホ!!主人も守らんと何が戦闘用機体やねん!!早よ入れやぁ!!新しく出て来たらどないすんねん!!」
 ガートに言われユンボの方へ足を進める。その時後ろでぱきりと枝を踏み締める音が鳴り、エドゥアルトはイングリドの事を思い出した。ガートに「ちょっと待って」とハンドサインを送ると、彼女に背を向けた。
「あ、シスター・イングリド!!大丈夫でしたか!?お怪我は!?」
 体の向きを百八十度方向転換し、背後に居たイングリドの方へ詰め寄る。既のところで守れたと思ったが、もしも彼女が怪我をしていたらどうしようと不安になりながらエドゥアルトはそっと彼女の肩に手を置いた。もし恐怖で震えて居たら、きっと人の手が触れた方が落ち着くのでは無いかと思ったのだ。
「あの、イングリド…?」
 しかし、思ったよりと言うべきか全くと言うべきか、イングリドの肩は震えてなどおらずいつも通りの落ち着きを持って居た。それこそ、彼女が人間の持つ恐怖を有して居ないと言った方が説明としては早い程彼女に震えは見られなかった。
「あの……」
 ここに来てエドゥアルトは更なる違和感を覚える。肩に触れた手なのだが、彼女の肩は驚く程に冷たかった。
 普通、いくら冷え症の酷い女性が居たとして心臓に近い部分はある程度熱を持っている筈である。末端である手や足だから氷の様に冷えるのであって、肩や胸、腹が表面上分かる程冷えるとしたらそれは異常な事だ。死んでいると言って差し支えない程に彼女の体は冷たい。
 そっとエドゥアルトの手にイングリドの手が重なる。その手はやはり肩同様冷たかった。全てが氷の様な冷たさを持つイングリドはエドゥアルトの手を痛い程の力でぐっと握る。そしてそのままエドゥアルトの体を楽々と引っ繰り返すと彼を押し倒し、仰向けに倒れたその体の上に重なる様に覆い被さった。
 そしてそのまま、エドゥアルトの首を締め上げたのだった。
「イン、グリ…ド……」
 やっと喉から絞り出した彼女の名前。しかしイングリドはそれに答えてはくれなかった。いつもの様に優しい声でエドゥアルトの名を呼んではくれない。
 代わりに彼女は、別の人物の名前をその優しい声で呟いた。

「ギろ、ク、さマ………」

 ぶわりと砂埃を巻き上げながら吹いた突風がイングリドの頭のベールをひったくっていく。エドゥアルトの目の前で纏められていた彼女の髪がぶわりと広がった。それはガートと同じ様な薄緑の色をした、しかし手入れがされていないのか砂塗れの汚れた髪だった。
「あ……」
 目の前の彼女の顔は歪にへこんだ左目が強い圧の掛かった様に落ち窪んだ左頬に埋まっている。その目は赤く、とてもとても嫌な発光の仕方をしていた。

鎮圧

 思えば彼女に対して「おかしいな」と感じていた違和感は、「機械人形である」と仮定すると説明のしやすいものが多かった。しかしそこに考えが及ばなかったのは、偏に彼女がすっぽりと被ったベールが髪も目も隠してしまっていたから。たった少しだけ、人間ではあり得ない色彩の髪の毛を隠してしまっただけで機械人形はこんなにも人間なのだ。こんなにも人間らしいのだ。
 やっぱり自分は機械人形彼らを道具としては見れない。ただの認識の少しズレているタイプの人間だと思ったのだから。
 エドゥアルトの手放しかけた意識を現実に引き戻したのは、パスコードが入力されておらず闘う事の出来ないガートの悲痛な叫びだった。
「エドゥちゃんから手ぇ離しぃ!!このアマ・・ぁ!!」
 ああ、ガートがまた口調を荒くしている。ダメだよガート、女の子なんだから。そして相手は女性なんだからアマなんて呼んじゃ……あ、シスターだからある意味『尼さん』で合ってるのか。
「エドゥちゃん!!エドゥちゃん!!何で早よパスコード入れんかってん!!もう!!離せやぁぁぁあ!!」
 遠くから聞こえるガートの、人間の悲痛な叫びにも似た音声。機械人形にも個性があって、個性があると言う事は考え付くところも違ったりして。となると、イングリドもきっと何か思うところがあってここに通っていたに違いないのに、ギロクのばら撒いた汚染ウイルスはそうした思考も全部奪い去って、そして侵してしまう。彼等から個を無くし、まるでパニックホラーの屍人の様にただギロクの為だけに殺戮を行う機械になれ果てる。
 現時点では、汚染駆除を行うには機械人形そのものを破壊するか駆除プログラムを流し込むしかないのだが、駆除プログラムは全てのデータがリセットされる。
 破壊するにしても駆除プログラムで対処するにしても、機械人形は汚染される前には戻れなくなる。機械汚染とは彼等にとって事実上の死なのだ。
「イングリ、ド……ダメだ……!!」
「………」
「負けちゃ……ダメだ……!!」
 人間でもあるまいに、データに全てを支配されている機械人形に掛ける言葉ではないと分かっていながらもそう言う他ない。言いながらエドゥアルトは渾身の力を込めてイングリドの指を掴む。首から引き剥がす様にこじ開けると、一瞬解放された感じがして荒く酸素を取り入れた。
「はぁっ…!!はぁっ!!」
「苦しイのデすか?苦シいのデスね?でモ、ギロク様が恋人を喪わレた苦シミは、ソンなものでハありマせん。神は見テいらっシャいます。見て見ヌふりヲしたアなタ達の愚行ヲ……」
 そう言ってエドゥアルトの腕を払い、再度首に手を添え力を込める。酸素が回らず、意識も朦朧になりながらエドゥアルトは「イングリドが確かに言いそうだ」とこっそり思った。機械人形の学習して来たデータを元に、それっぽく人間を罵りながら殺しにくる個体も居ると言う。
 大事なパートナーであった機械人形に、それらしい事を言われながら殺される人も居たのかもしれない。そんな彼等の事を思うと遣る瀬無くて、このウイルスが憎くて憎くてまた涙が流れて来た。
「エドゥちゃんを離せ!!!早よぅ離せあほんだらぁ!!」
 ガートの声が聞こえる度にエドゥアルトの意識が元に戻る。彼女の為にも早く何とかしなければ。そう思いながらも力が入らない。
 酸欠の所為か目が力無く上にぐるりと動き始め、だらりと項垂れた足はまるで糸の切れた人形の様だ。
 抵抗虚しく空回るなら、余計な悪足掻きはせずにいっそこのままと妙な考えを起こしてしまう。だが同時に、ガートの事を思い出し己を奮い立たせた。
 何か方法は無いだろうか。イングリドを破壊せず、データも抹消せずに汚染だけを取り除く方法が。彼女はこの教会で関係者を確かに探していたのだ。その誰かに会わないと、こんな終わりはあまりにも酷だ。
 その時、エドゥアルトの首が突如として楽になる。彼の首を締めていた手はどう言うわけか急速に力を失った様に思えた。ゲホゲホと咳き込みながら目線を動かせば、目の前のイングリドは肘の辺りから腕を失くしていた。
「あラ…?あら…?わたクしノ…わタくしの腕が……」
 これがエドゥアルトの見たイングリドの最後の姿だった。いつものか細さで自分の腕を探す声。ベールの下の顔は左半分は割れてへこんで剥き出しの目が埋まっているが、無事な部分を見れば彼女が優しそうな綺麗な女性の顔をしていたとエドゥアルトは思った。
『あ。彼女の顔、人間であったなら好きになっていたかもしれない』と思う程に。
 次に目の前に広がったのは、その潰れた彼女の顔の左半分。イングリドの顔が自分の顔に迫っている事に気が付いた。
 急に顔を近付けて来るんだなと酸素の回らない頭でぼんやり思っていると、ごん!と鈍い音を立ててイングリドの額がエドゥアルトの額にぶつかる。ずるり、ごろりとエドゥアルトの顔を撫でる様に通過したイングリドの頭は地面に転がり、自分に迫っていた彼女の体はそのままの体勢で停止した。
 何故か彼女を見下ろす様に、第四小隊の機械人形アサギが刀を携え立っていた。イングリドの腕を切り落としたのも、首を切り落としたのも目の前にいるアサギだったとこの時瞬時に気が付いた。
 そしてその瞬間、どうしようもない遣る瀬無さとショックによる吐き気に襲われた。
「おい、無事なら立て」
 極めて淡々とアサギは口にする。エドゥアルトはその時やっと解放された事を実感して荒く呼吸を整えた。ガートが自分に駆け寄り、背中を手で支えながら呼吸をするのに楽な姿勢を取らせてくれた事に感謝しつつ嘔吐する。胃の中の物を吐き出している最中、目の前でアサギがイングリドの体を刀で小突いて倒していた。
「アサギ!エドゥは無事か!?」
「どうだかな。俺にはわかんねぇ」
 後から駆けて来たロナの姿を見て思わず視界が潤む。ロナは心配そうにエドゥアルトに駆け寄ると、吐瀉物の汚れも辞さず普段通りに触れ、そして一緒に来た第四小隊のメンバーにテキパキと指示を出して行った。
 そんなロナのリーダーとしての資質を垣間見つつエドゥアルトはすっと目を瞑る。目を閉じる最後まで視界の端に変わり果てた姿のイングリドを捉えていた。
 彼女の頭、体、腕がバラバラに散らばっている。こうなって来ると最早ショーケースのマネキンの様で、でもその彼女とほんの数分前まで意思の疎通の測れる状態だったと思うとまた気持ちが悪くなって、空っぽの胃の中がまた暴れた様に思えた。
「エドゥ…?エドゥ!?大丈夫か!?」
 ロナへの返事もそこそこにエドゥアルトは意識を手放した。彼が次に目を覚ましたのは病院のベッドの中でだった。
 点滴に繋がれて、服も替えられて、見知らぬ天井が目に入る。
 だがすぐに思い出したのは真っ黒のベールに真っ黒のワンピース、そして鈴を転がす声だった。そしてそれを自覚するとじわりと涙が滲んだ。
「イングリ、ド……ごめん……ごめん…!!」
 顔も髪も隠した彼女に対して持っていた「人間であろう」と言う先入観。その先入観が哀れな機械人形を生み出してしまった。
 自分の思い違いが、きっと罪無き彼女を殺した。
 きっと彼女が人間であっても、どの道彼女は死んでしまっていただろう。

 彼女が人間であれ機械人形であれ。

 自分の所為で、死んだのだ。

 彼女は、不幸になってしまったのだ。

 * * *

主人マキール、矢張りエドゥではまだ無理でした」
 病院のベッドの脇で林檎を剥きながらヨダカがそう呟く。ユウヤミは何食わぬ顔でその林檎を口に含むとただ一言「そう」と呟いた。
「仕事先で出会った野良も同然の機械人形との邂逅、そしてその暴走。間近で見ていたエドゥはショックで倒れ、先程大事を取ってこちら病院に運ばれたものの受け答えには乏しく上の空。今もショックでパニックをお越しその度に嘔吐している様な状態です。このままではエドゥはきっと前線駆除班を、ひいては結社を辞めてしまうでしょう」
「ふーん」
「……ご自分のお立場を理解してその返事ですか。貴方は、自分の思惑に相手を巻き込み玩具として観察する癖はありましたが、こう言った失敗は無いと私の主人マキールもハーロック・シード氏も信じておりました。貴方はそれを『裏切った』わけですが。よく悠長に林檎など食べていられますね」
「ヨダカが切ってくれたんじゃないか」
「人間はこう言う時、申し訳なさから食が細くなると聞きました」
「……変な事覚えるなぁ」
「それより、一般社会の機関に属して『損失』を出すなどあってはならない事ですが。少なくとも、貴方は」
 頭の中に『処分』の二文字を抱えているのか、それでもいつもと変わらぬ顔をするヨダカにいつもと変わらぬ笑みを浮かべたユウヤミが何かを寄越せと言わんばかりに手を向ける。
 ヨダカがその手に書類の束を渡すと、ユウヤミは目を通してにこりと微笑んだ。
「流石ヨダカ、仕事が早いねぇ」
「貴方が指示をしましたからね。情報集めはそこまで難しくありませんでした」
 ユウヤミの目線の先、渡された書類には「ジム・カーターと彼の購入した機械人形、イングリドについて」と書かれていた。
「ケレンリーさーん、検温の時間ですよー」
 コンコン、と戸を叩く音が響き、清掃部のザラの様な恰幅の良い中年の女性看護師が部屋に入って来る。色々と面倒事が起きるのを嫌うユウヤミからすると若い女性看護師より彼女の様な年代の方が都合が良かった。
「ありがとうございます。あ、ラシアスさん。ちょっと聞きたい事があるのですが」
「あら、なーに?」
「ちょっと電話を掛けたいんですよ。出来れば明日。検査の時以外は自由にしていて大丈夫でしたよね?」
「ええ!大丈夫よー!何なに?彼女さんとか?もー!リーシェルさんったら隅に置けないんだからー!!」
 話す内容までザラに似ている彼女──ラシアスと言う名の看護師にデジャヴを感じつつヨダカはユウヤミの方をじっと見た。ラシアスが部屋から出ていくと、ヨダカは一言いつものトーンで「ヴォイド・ホロウにですか?」と呟く。
「まさか。彼女は今入院中なのはヨダカも知ってるだろ?どこぞの七三男が喉から手が出る程欲しがる様な『四六時中会いに行ける』間柄じゃないか」
「とは言え、女性病棟と男性病棟は違いますし。そもそもヴォイドと貴方では罹っている科が違います」
「そう。でもそもそもとして私の今回の目的は彼女じゃ無い」
 この人さ、とユウヤミがひらひらとはためかせたのは先程ヨダカが手渡した資料だった。
「……ジム・カーター……」
「私の処遇を決めるのは電話が終わって状況がどう転ぶか見届けてから頼むよ、後生だからさ」
 心にもなさそうな言葉とそう笑うユウヤミの余裕そうな顔を見、ヨダカもミフロイドに報告しようとしていた手を止める。
 ユウヤミの能力を手放すのは惜しい。何よりこの男が何か企んでいる以上もう少し泳がせるべきか。どの道エドゥアルトは辞めてしまうだろうからそこに関する何らかの処罰は免れないと思うが。
「しかし、ジム・カーターと言う男…彼は……」
「え?何て?」
「いえ。さしもの貴方でもどうするのです?死人は電話に出ませんよ?」
 イングリドの主人、ジム・カーターは一年前に亡くなっていたと記載されていた筈だった。しかしユウヤミはキョトンとした顔をすると嬉しそうににこりと笑う。
「嫌だなぁ、ヨダカ。そんなの当たり前だろう?」
 その表情からヨダカは、人間の感情の機微と言うよりは怪物の微笑めいた物を想定してしまうのだった。

5月6日

 朝の検温を終え、朝食を食べ終えたユウヤミは軽やかな足取りで院内の電話ボックスを目指す。途中擦れ違い様に黄色い悲鳴にも似た声を漏らす白衣の天使達に愛想を振り撒きながら向かうと、お目当ての番号に電話を掛けた。
 数回の呼び出し音の後に出たのは、鈴を転がす様な優しい声の女性だった。
「……朝早くにすみません。私はマルフィ結社第六小隊小隊長を務めております、ユウヤミ・リーシェルと言う者なのですが、お時間宜しいでしょうか?ええ、貴女のお父様・・・についてお話をしたくて」
 ユウヤミはひとしきり談笑すると、ガチャリと電話を切る。たっぷり一時間以上時間を取った電話だったが、得る物はたくさんあった。
「さて、ウーデット君の憂いは晴れるかな…?」
 おそらく本心から出た言葉。自分から他人を気遣う様な言葉が出た事に少しだけ笑いながら部屋に向かって歩みを進める。またしても擦れ違う白衣の天使達に愛想を振り撒きつつ、頭の中ではエドゥアルトの事を考えていた。
「まぁ、ここで潰れるならそれまでなんだけどね」
 けれどまぁ、『勿体無い』とも思うから。
 それにこの展開・・は自分の想定する流れのまだ中盤でしか無い。
 ユウヤミは部屋に戻ると読書を始める。普段通り過ぎる彼を見るヨダカの目は些か冷たいがそんな事を気に病むユウヤミではなかった。
「何か言いたげだねぇ」
「いいえ、特には」
「まぁそうだよねぇ」
 のらりくらりと時間を潰し検査に呼ばれる。採血に右足の消毒と経過観察を終えて戻って来ると、廊下の向こうから点滴を繋がれカラカラと音を立てながらこちらに来るエドゥアルトの姿が見えた。
 いつもの溌剌さはどこへやら。死んだ様な顔をしている彼を見たユウヤミは優しく微笑むと促しながら部屋に入る。
 エドゥアルトが部屋に入るとユウヤミは既に椅子を用意していた。
「先輩……」
「まあ、座りたまえ。大丈夫、今日は何も考えず休めば良い。マルムフェ君とシリル君だけになってしまったから彼女は知り合いの多い第三か第四小隊に日替わりでサポートに入る事が決まっているし、瓦礫撤去もこのくらいの遅れは想定内さ」
 それより、元気かな?
 ユウヤミがそう尋ねれば、エドゥアルトは首だけをこくりと動かす。どう見ても返事に心と体が伴っていない。
「先輩……オレ、無理です…」
「無理?」
「はい……オレは、結局先輩みたいに皆を引っ張る事も出来ず、イングリドだって…死なせてしまった……」
「彼女は元々機械人形だよ。死んだんじゃ無い、壊れただけだ」
「でも!!でもオレは、あの姿を見て『死なせた』って…思いました…」
 少し前までいつも通り話していた声。
 汚染されて不気味な圧と共に語り掛けて来た言葉。
 それら全てを薙ぎ払ったアサギ。
 落ちた首。
 吹き飛んだ腕。
 なのに血も出なくて、人間であれば致命傷だと思う顔のへこみがあっても平気で動いていて。やはり彼女は機械なのだと思うのに。
 死んだ人間を間近で見た様なショックが頭から離れない。
「このまま続けて…あんな姿を間近で見る経験をするならオレは耐えられない……!まして自分の行動が誰の助けにもならなかったなんて……!!そんな日常の中でオレは…生きられる程強く無いんです…!!」
 先輩の様に、と続きそうな言葉のチョイスを察知し、ユウヤミを何かを考えながら顎に手を当てた。
「私から言える事を言って良いのか悩んでいるのだよねぇ……」
「……何ですか…」
「ふむ。私は勿論君に『こうして欲しい』と伝えたいのだけど…それを言ったら君はきっと無理をするだろう?心も伴わない内からさ」
「……まぁ、先輩の言う事ならとは、思います……先輩の言う事に間違いは無いから……」
「……ふむ、そんな受動的では困るから……そんな君の心から動かしてみようと思って、ちょっと呼んだ人が居るんだ」
 ユウヤミの勿体ぶった様な言葉にエドゥアルトは一瞬考えたが、すぐに掻き消すように窓の外を向いた。
 先輩が必要としてくれるなら残る。何故なら、先輩が求めるのにはいつもきちんと理由があってそんな先輩を自分は盲信しているから。
 やっぱり、それが良い。先輩の言う事を信じ、ただただ先輩に追従するのが一番だ。
 誰かの上に立とうだとか、リーダーの器になろうとかそんな気はもう起きない。大学だって惰性で行っていたし、もうこれで良い。信用出来る人に追従して、言い付けを待つ。尊敬される人にはそれだけの理由があるのだから、その尊敬出来る人の言う事を聞いているのが一番楽じゃないか。
 何も考えず。痛みも伴わず。

 ──コンコン。
 その時ふとドアをノックする音が聞こえる。
 ユウヤミに歓迎され中に入って来たのは、イングリドの破損していない顔に良く似た女性だった。
 歳の頃は五十歳にでもなっていそうだが、ほっそりとしていて上品そうな人だった。
「よくお越しくださいました、ムーアさん」
 ムーアと呼ばれたその女性はエドゥアルトの姿を捉えるとぺこりと小さく会釈をした。自分を捉えたその目が泣きそうに潤んでいたので、エドゥアルトは少しだけ面食らった。
「さて、ウーデット君。何から話そうかねぇ」
 彼女を席に促し、紅茶を淹れながらユウヤミは呟く。面会時間と言う限られた時間の中、イングリドのこれまでがとつとつと語られた。

 * * *

 イングリド。
 その機械人形がその名で登録をされたのはもう十五年も前の事だ。彼女が主人マキールとして登録をしたのは当時七十歳を迎えようとしていたキキト在住のジム・カーターと言う男だった。
 イングリドが起動した時、目の前にいたジムはそれこそ嬉しそうな顔をしたと言う。
人間のする『笑顔』を更に情け無く崩した様な幸福に満ち溢れた男の顔と推測する。
 ジムは年齢の割に年老いて見える男だった。足も腰も悪くなっていたし物忘れも酷い。イングリドはそんな彼の介護用として起動した。
 ジムはしばしば癇癪を起こす性分であった。家の中でも外でも、気に入らない事があると頭にカッと血を昇らせてしまう。
 しかし、イングリドの顔を見ると大人しくなるのだ。少し寂しげに悄気て見せると「悪かったよ」とバツが悪そうに呟き、そしてそのまま不貞寝してしまう。
 イングリドは機械人形なので勿論そんな事は気にしない。彼女の役割は介護であって、気に入らないと子供の様な癇癪を起こすジムを「社会に適応する様に」と教育する役目は無いからだ。
 そうして過ごす十三年の間にジムはみるみる大人しくなって行った。癇癪を起こす前に一度冷静に止まる事を覚えた彼は年々トラブルを起こす回数が減って行った。
 しかし、元々がトラブルに塗れた人生だった。あんなに迷惑を掛けて今更改心したところで時既に遅し、人が振り返って世話を焼いてくれるわけもない。
 そして老いは体を蝕んでいった。
 ある日の朝、ジムは家の中で倒れた。それ自体は軽い立ちくらみだったのだが、倒れた際に頭を強く打ち、動けなくなってしまった。
「ご主人様、何かわたくしにお手伝いが出来る事はありますか?」
「ベッド……ベッドに、運んでくれ…」
 細身の女性の姿でジムをひょいと抱き抱え、ベッドに運ぶイングリド。まるで赤子を抱える様に軽々と抱き上げる彼女にジムは己の娘の姿を重ねた。
「イングリド」
「はい?」
「お前はな、俺の娘の代わりなんだ。離れた娘が、今こう生きているであろうと想像させてくれる。お前は俺の夢なんだ」
 その後、容体が急変したジム。イングリドはジムの事を任せようと行政にすぐ連絡を入れたが、その後何があったのかイングリドは回収されぬまま野良となり、そうしてツーリングをしに来ていた時の聖ミクリカ教会院長であるシスターロバートに拾われた。

 ただし、イングリドがジムと過ごした記録はあくまで騒動の後、五月も終わりに差し掛かった頃回収された彼女のメモリーを解析した際断片的に録画されていた部分から導き出された憶測に過ぎず、この時ユウヤミが『分かっている事』としてエドゥアルトとムーア夫人に語ったのは教会で拾われた機械人形の製造番号を調べるとジム・カーターと言う男に辿り着いた事、ジムと言う男は既に亡くなって居ると言う事、ジムの登録した機械人形の名はイングリドだがその後の消息が不明になっている事、エドゥアルトとガートが教会の地下に続く壁を切り拓いた事で中を探索したウルリッカがジムの死去から半年後にあたる日付と『機械人形を拾った』旨が書かれている書類を見付けた事。それらを総括するにジムの機械人形は十中八九このイングリドで間違い無いと言う事だった。
「後は同業の力を借りてね。探偵業は今繁忙しているから心配だったんだけど、こうして無事娘さんに辿り着けたと言う事さ」
 夕陽を浴びたムーア夫人の金色の髪が赤く輝いて見える。イングリドとは真逆の色味の髪だなぁと思っていると、今度はムーア夫人が父──ジムの事を語り始めた。

 ジム・カーターはおそらく、子供の父親としては良い男であった。
 ただし、母親の夫としては決して褒められた男ではなかった。
 どこに行っていたのか朝まで帰らず、酒と香水の匂いを纏いながら帰って来ては妻に怒られる姿を幼少期のムーア夫人はよく見ていた。彼女は三兄妹の末っ子で幼く、当時は父のしている事がよく分かって居なかった。
 父は母によく怒られていた。
 でも、母もそんなにヒステリックに怒らなくても良いのにとも思っていた。
 だって記憶の中の父はいつも子供達に優しく、友人の様に親しかったのだから。
 だがある日、母と怒鳴り合いの喧嘩になった時は状況が違った。二人の歳の離れた兄が母の側に着き、三人で父を詰り始めたのだ。
 三人は父を泥棒だとそう言った。父が家の金どころか兄達の学費にすら手を付け、賭け事でそれらを全て失くしてしまったと聞いて初めてムーア夫人の中で優しかった父は悪人に転じた。
 母にとっては薄情に思うかもしれないが、今まで少なくとも子供として不利益を被らなかったから母の様に毛嫌いせず父に優しくしようと思えていたのだが、とうとうその子供に不利益を与えたのだ。
 優しく、大好きなお父さんだと思って居たからこそ裏切られた気持ちが大きくなった。少し大人になって、父が外でしていたのが賭け事だけでは無いと気付くと女性の身として輪を掛けてこれを嫌悪した。不思議な事にその頃には兄達は父に一定の理解を示し、不定期ではあるが連絡を取っていた時期もあった様だがムーア夫人の裏切られた気持ちは大きく、彼女は一切交流を絶っていた。
 月日は流れ、歳も取って母に介護用の機械人形を与える様になる頃、ふと今まで気にも留めなかった父の事が気になった。
 記憶の中の父はいつまでも若々しい壮年の男であったが、母と同じだけ歳をとっているのは間違い無いのだ。
 父は今頃、何をしているのだろうか。
 しかし、結局母に言われるままに家を出てその後も会いにも来ようとしなかった、結果として自分を棄てた父だと思うと気遣う気持ちはどこかへ消えてしまう。
 心の中で何度も葛藤を繰り広げ、約一年程前に一度無性に父に会いたいと思う瞬間があったと言うが、それでもやはり愛してもらえなかった父だと思うと一歩が踏み出せずとうとうそれは叶わなかった。
「思えばあれは、『予感』だったのかもしれません。父に会うなら今だぞ、と言う予感」
「はぁ……」
「父は私達と離れた後どんな暮らしをしていたか分かりません。母は父と絶縁しておりましたからその後の話も聞きませんし、おそらく碌な暮らしはしてなかったでしょうね」
 今ひとつムーア夫人が何を言いたいかエドゥアルトには分からなかった。何故そんな風に自分を捨てた父親に想いを寄せられるのかも。死んでしまったからだろうか?死んでしまったから、二度と手に入らないものを懐かしむとかそう言う事なのだろうか。
「ウーデット君。カーター氏はね、離れても娘を想い続けていたって事が『君の指揮する第六小隊』によって発覚したのさ」
「え?」
「私だったら、ユウヤミが小隊長をしていたのなら、報告こそすれおそらく彼女の事をここまで深掘りしようと思わなかったよ。他にやるべき事もあるしね。きっと部下である君達にも作業の効率化を優先して深追いしない様に言っていた筈だ」
「はい…」
「ところが。君と言うリーダーを据えた第六小隊は情を優先したらしい。まぁ、これはマルムフェ君の手柄でもあるけどね、君が倒れた直後、やれ現場保存だの一時立ち入り禁止だの言われる前に危険も顧みず地下室に入り込んで少しだけ調べたのだよ。イングリドと言う機械人形がここ聖ミクリカ教会にいた証を。そして見付けた。それは、君がリーダーだったから皆も君の為に出来る事を考えたんだ。君がイングリドを気に掛けていたから、せめて壊れた彼女の事を思いマルムフェ君が自主的に探してくれたんだ。そして私に、『どうしたら良いですか?』って資料をこっそり寄越してくれたんだよ」
「……なら、ウルさんには感謝します…感謝しますけど……ムーアさんにオレは何が出来たんでしょう?貴女がお父さんの今を知りたがっていたのは分かりました…でも結局亡くなってしまわれてたし…オレは、一体何が出来たんです?」
「全く、鈍いですねエドゥは」
 ピシャリと言い切るヨダカを諌めるとユウヤミはエドゥアルトの方に向き直る。エドゥアルトが緊張から少し固まっていると、ユウヤミは優しい声で囁く様に言った。
「私だったら深追いはしないだろう。けど、君だったら深追いするだろうと見越した部下マルムフェ君が君の意志を継ぐ様に調べた事で分かった事、それは一体の野良機械人形を取り巻く環境と、一人の父親が娘を大層大事に思っていたと言う記録。それによって君は、一つの家族の心を再構築したのだよ」
 ユウヤミの言葉にエドゥアルトは目を見開く。次に言葉を発したムーア夫人に、エドゥアルトは視界が揺らぐのを感じた。
「私の名前は、イングリッド・ムーアと申します」
「え…イングリッド…?」
「はい。私の名は父が付けたものなんですよ。それなのに父は家を出てから会いにも来なければ連絡も寄越してくれなかった。私は父に愛されていないと思い、父のその後を追う事を諦めていたのです。でも、貴方がイングリドに会ってくれた。結果として彼女は壊れてしまったけど、貴方のお仲間さんは彼女の事を調べてくれた。そして小隊長さんに相談してくれ、彼が調べた事で私に辿り着いてくれた。私は貴方によって、父が私を愛してくれていたと言う事実を見付け出してもらえたのです」
 夕陽が沈み、いつの間にか辺りは暗くなってくる。月明かりに照らされたムーア夫人──イングリッドを見たエドゥアルトは、何故機械人形のイングリドが綺麗なグリーンの髪をしていたかを悟った。
 彼女の、イングリッドの白髪混じりの金髪は月の光に照らされて青白い様な少し緑色の様な落ち着いた色に染まっている様に見えた。
「父はよく、夜に母の目を盗んで外に連れ出して私に色々話をしてくれました。そして最後には言うのです、『お前の髪の毛は本当に美しいよ』と。これが父譲りの髪の色だと」
 愛する我が子と離れた後、ジムは何を思っていたのだろうか?
 残念ながらもう聞く事は叶わない。しかし、我が子を愛していたと言う事は、我が子と似た名前を付けた機械人形の存在だけで証明するのに充分ではないだろうか。
「貴方が貴方でいてくれたから。お仲間さんや小隊長さんが私と父の絆を再び結び直してくれたんですよ」
 そう言ってエドゥアルトの手をそっと包むイングリッド。イングリドに似た顔だが、彼女と違い血の通った温かい手だった。
「ありがとう、ウーデットさん。父と私を再び結んでくださって」
 室内の明かり徐々に灯り始める。
 涙を堪え切れず目を閉じたエドゥアルトの目蓋の裏にイングリドの顔が浮かんだ。

5月10日

 荷物をまとめて鞄に収めるとその大半が着替えによる嵩張りで、日頃定期的に替えてくれる清掃部に有り難みを感じながらユウヤミは鞄を背負わんと持ち上げる。しかし、スッと伸ばされた手がユウヤミの鞄を掴むと大事そうにそれを背負ってしまった。
「大丈夫だよ。私の怪我なんてホロウ君やケルンティア君に比べたら大した事じゃなかったのだし」
「いえいえ!先輩に何かあったら困りますよ!それに、まだ病み上がりなのも事実ですし!」
 満面の笑みでそう言うエドゥアルト。
 彼は結局ユウヤミの思惑通りと言うべきか、結社に残る道を選んだ。ヨダカはその事実を見て矛を収める。実害もなく損失も無いならばまだその頭脳を世の為に使ってもらうだけだ。
 エドゥアルトは結社に残った。のみならずイングリッド・ムーア夫人との対面以降人の変わった様に顔付きも変わり、まるで一皮剥けた様な大人になった様な顔を見せた。
「ウーデット君なら奮起する。人の想いが絡みそれを自分が為したのだと理解して潰れる彼じゃないだろうからね」
 そこまで織り込み済みだったのか、ユウヤミはそうヨダカに笑った。
「ところでどうだい?その後の撤去作業は」
「はい!勿論大きなトラブルも無く概ね予定通りです!ただ…やっぱりショックはありましたね……シスター服を着た御遺体や、子供の御遺体を何体も確認したのは…」
 退院したエドゥアルトは即座に小隊長代理の座に就き再びガートとウルリッカ、シリルを伴い瓦礫撤去の作業を再開した。しかし、作業を再開した彼等が一番初めに見たのは教会の地下室で見た複数の白骨化した遺体だった。
「開けた時、酷いにおいが立ち込めてましたし覚悟はしていました。テロの時に身を守ろうと地下に潜って…でもそこで暴走した機械人形に為す術なくだったのだと思うと彼女達が気の毒でなりません」
 更に作業を進めて、見えてきた事がある。
 機械人形のイングリドはウルリッカの調べもあり教会で保護された野良機械人形だった事も分かっていたのだが、彼女は通信を一部制限するモードになっていた為当日ネットワークを使用しての汚染を免れていた。
 暴走に巻き込まれたイングリドは制御を失くした機械人形に襲われ、半分抉れてへこむ程の損傷を顔に受けながら庭に吹き飛ばされそこで一度沈黙した。バックアップデータを元にデータの修復作業を行い、一部機能が制限された状態で後日再起動するのだがそれまでに教会は凄惨な結末を辿っていた。
 教会のシスター達は彼女の襲われる様を見て慌てて隠れる様に地下階へ逃げたが、まだ当時屋内で活動の出来た汚染人形はその後を追った。ドアをしっかり閉め、簡易なバリケードすら用意した跡があったものの後の調べでそれらにも破損が見られた為に機械人形がドアを壊して進んだものと思われる。地下室には汚染された機械人形が入り込み、その狭い地下室で襲われ何人ものシスターや身寄りのない子供達が死亡したのだと推測された。
「地下室には屋外に繋がる扉がありました。教会の下を通り、隣接する墓地に抜けられる扉が。しかしドアは固く重かったので、小さな子供達には開けられなかったのだろうと言うのが見解です」
「……地下室と教会の出入り口にはシスター達が、墓地に繋がる方の出入り口近くでは子供達がそれぞれ死亡しているのを見るにそうだろうねぇ。こんな時、彼等の信じる神の存在を疑いたくなってしまうよね」
「そうですね…ただ、勿論逃げ出せた子も居ました。学校やら仕事やらでその場に居なかった年長の子とか、最初のイングリドが攻撃を受けるのを見て外に飛び出し墓地に逃げ隠れた子とか」
「年長……その内の一人はバートン君だね……」
「はい。彼女はずっと孤児院の院長でもあったシスターの安否を気にしていました。この結果を伝えるのはオレ、正直キツかったです…」
 エドゥアルトはタイガからクロエの事を聞いていた。彼女はミクリカの教会の出身で、未だに行方の知れないシスター達を探し続けていると。エドゥアルト自身もよく総務部には出入りするのでクロエの事は知っていた。話もする間柄だった。
 教会の地下を捜査した後総務部に赴きシスター達の遺体があった事を伝えると、クロエはエドゥアルトも見た事のないような顔をその時初めて見せたのだった。
「クロエ・バートンと言えばそもそもがミクリカの不良娘って印象でしたからね。マーシュさんが初めて彼女を迎えに行った時もまるで冷酷な行商人の様で……動じる子じゃないと思ってたのに、あんなに悲しげに顔を歪ませたものですから」
「うん。まぁ、彼女も人の子だよ。間違いなく。そしてその…亡くなられたシスターの事が好きだったのだろう?バートン君は冷静なだけで冷酷では無いからね」
 所持品や歯の治療の跡から遺体の内一人が孤児院の院長を務めていたシスターロバートなる人物であるとすぐ掴めたのは、この仕事が始まってすぐにクロエから個人的に「探している人がいる」と聞いていたからである。
 優先的にそれらしき特徴の遺体を探したところ、シスターロバートの愛用していたバイクのキーと同じ物を持つ遺体を発見した為優先的に調査をお願いしたのだと言う。身元が分かったのが昨日で、判明してすぐにエドゥアルトはクロエの元へ向かった。そして彼から話を聞いたクロエは、彼の前でボロボロと泣いた。
 たまたま用事があって総務部に来ていたミアとルーウィンに彼女を任せて部屋を出た。報告しようと総務部に向かっていた時はその事で頭がいっぱいで、報告したその瞬間もむしろやり甲斐の様な達成感の様な気持ちを抱いてすらいたがクロエの顔を見た瞬間果たしてこれは本当に言って良かったのかと迷う気持ちが残ってしまった。もしかしたら他にもっと言い様があって、自分はそれを上手く選択出来なかったのでは無いかと。
「そう言う事を考えるのがね、ウーデット君の私とは違うところだよね」
主人マキールなら最大限の配慮はすれどそれが通用しなかったとていちいち気に病みませんから」
「ははは……」
 看護師達にお礼を言い、停めておいた車に近付く。すると、車の影からぴょこりと髪の毛を揺らしながらウルリッカとガートが顔を出した。
「……んんっサプラーイズ!!」
「ガート、アナタ気合い入れ過ぎよ」
 気合いを入れ過ぎて語頭に詰まった様ながなり音を入れてしまったガートに静かにツッコミながらシリルも顔を出す。
 相変わらずマイペースなウルリッカはとてとてとユウヤミに近付くと嬉しそうに彼の手を引いた。
「隊長、お帰りなさい」
「……ただいま。心配掛けたね」
「うん、待ってたよ。隊長が元気になって本当に良かった」
「ありがとね、マルムフェ君」
「オイオイオイオイオイ!!ユウちゃんもウルちゃんも!!ナアナアナアナアナア!!そんなイチャついとらんと何かリアクション取らんかい!!」
 ビシッ!とポーズを取るガートに微笑ましい目を向けながらユウヤミはそっとエドゥアルトに耳打ちする。彼が話したのは、兼ねてより話題に上っていたガートの部品の取り替えの件だった。
「ガート君、性格は変わらないって話だったよね?」
「はい。第四小隊のアサギの件で、要らないプログラムの除去や部品の挿げ替え等はそこまで機械人形の個性には影響が無いって分かったので」
「なるほど。ガート君はこの隊唯一の純ツッコミ担当だからね。無いと困るなぁ」
「ですね、オレもそう思います!」
 汚染された機械人形が教会の地下から飛び出し、まだ汚染されていないが度重なる自己修復からセキュリティが脆弱になっていたイングリドに電隣会話を使ってウイルスを感染させたあの瞬間。ガートはエドゥアルトによるパスコードの入力が無かった事から対処に遅れを取った。
 ガートは闘技場での対戦ゲーム用に元主人が違法改造していたと言うのもありマルフィ結社の他の機械人形より制限が多かったのだが、それによる行動の制限がエドゥアルトの身の危険に影響をもたらしたと言う事実を重く見た上層部はガートの違法パーツの全交換を直ちに予定に組み込む様に機械班と汚染駆除班に命じた。
 機械班はガートのモデルの型とそのパーツ探しにてんてこ舞いだし、激務を予想した汚染駆除班は青い顔をしたと言う。
 特に先の失踪事件を無事解決し、やっと日常を迎えられると息ついたばかりのテオフィルスはその話を聞いた瞬間コーヒーを吹いたと後にニコリネは語った。
 それでも安全の為には、そして世間への信頼の為にはこの作業は不可欠なのだと言うのも分かっている。エドゥアルトも自分が決死の覚悟でイングリドを退けようとしていた時、命令が無いから動けずまるで人が泣くように声を上げながらただ見ているしかなかったガートの歯痒そうな顔を思い出すとこれは必要な事なのだとも思う。
「機械人形の子達を思い返すと、人間の様に表現してしまうオレはやっぱり先輩とは違うんだなって思います」
 不意にエドゥアルトがそう呟いた。それは誰にも聞こえない、隣に居るユウヤミ以外には聞こえない程のか細い声で。
 しかしそれが自分へ語り掛けたものだと分かっていたユウヤミはこくりと頷く。
「君はそう言う意味の優しさが強いからね」
「色々考えたんですけど、オレはやっぱりギロクが許せないです。許せないんですけど、許しちゃう気がするんです」
「………あんな事をしても?」
「あんな事をしても、だし…多分、どんな事をしても。それがオレの手の届く範囲に居る人なら尚更で。ギロクの場合は遠い存在ですけど、でも機械人形達を介すると近いって言うか。もっと根本的な事を言うと、許さなきゃ先に進めない気がするんです。少なくともオレは。何て言うか、いつまでも怒ってるだけのエネルギー持てないんですよ。オレ、やる気無くて大学中退しちゃったくらいだし」
「なるほど…怒りすらも持続しないとそう言うわけだ」
「あはは、そう言っちゃうと情けないですよね。でも、手の届く範囲に居る人を丸っ切り無視する程無関心にもなれなくて。そうなったら許すしか選択肢が無いんです。怒ろうとしても持続しないし、かと言って無視も出来ないなら一度許す方向で考えて、その後どうしようかな?って……甘いですか?」
「甘いね。でも、それを人は『優しい』と言うのだろうし、その優しさに救われる人も居るんじゃないかな?実際今回のムーア夫人の件は、君の意志に賛同した人の協力もあって突っ込んだ捜査が出来た結果彼女と父親の仲を再び繋ぐ事になったのだと思うし」
 君のそのやり方で果たしてどんな人が救われるか、興味が湧いたし見てみたくなった。
 ユウヤミがそう呟くとエドゥアルトは顔をくしゃりとさせ全力で笑った。
 尊敬する先輩の様になりたくて。
 でも実際には難しくて。
 根本から違う人だから同じ様に考えたり気持ちを切り替えるのは難しくて。
 そうしている内に失敗して。
 取り返しが付かないと思っていて。
 だけど、自分のやり方としてそれも有りだなと改めて思ったりもして。
「オレ……何か自分がまだまだやれるんじゃないか?って、ちょっと思えてきました。先輩の後を追って、先輩みたくなりたくて、そんな自分も悪くないなと思ってはいるんですけど」
「あぁ、そうだねぇ」
「でもオレ、前までの自分も好きだけど!!今の自分の方がもっと好きです!!」
「え?エドゥちゃん何なん?急なナルシスト発言何なん?」
「いや、そこだけ急に注目しないでよガート!!オレその前にもっと良い事言ってたよね!?」
「知らん。急なナルシスト発言しか分からんかった」
 和気藹々と同じ小隊のメンバーと笑いあっているエドゥアルトを見ながら浮かべたユウヤミの微笑みは、おそらくヨダカの見た中で一、二を争う人間らしい自然なものに見えた。
 そんな彼は、明日今まで避けて来た実の妹との面談を控えている。
「あー……ちょっと良いかい?皆、明日私には用事があると言うのは覚えているかな?」
 ユウヤミがそう口にすると、ウルリッカもシリルも黙って頷く。ユウヤミはその様子を見て、曖昧にしていた復帰日を決めた。
「……私は、明日どうしても外せない用があってね。会いたい人が居るのだけど…向こうも同じ気持ちかは分からない。それでも時間を掛けて何度だってぶつかりたいとは思うから、本当は半日休みとかにしても良いんだけど、明日はそれで丸一日休みを貰いたいんだ。明日までウーデット君には小隊長を務めて貰いたいのだけど……皆それで大丈夫かな?」
 ユウヤミの申し出にウルリッカとシリルは今度こそにこりと微笑んで頷く。エドゥアルトは以前よりももっと頼り甲斐のある顔で「任せて下さい!」と強く答えた。
 第六小隊がいつもの様子に戻るのは後ほんの数日後の話。僅か十日に満たない混乱した期間は、エドゥアルトの心情を大きく変え、彼を一回りも二回りも大きくさせた。
 ウルリッカも、彼女の勘の良さや人に寄り添う力が予想以上に強いものだとユウヤミは再確認した。
 自分の戻る明後日以降、第六小隊がまた面白い班になる事を確信してユウヤミは嬉しそうに微笑むのだった。

後日、報告書

 教会は兼ねてより主人を失くし野良化した機械人形を保護、ある程度の手入れと業者への連携を経て新しい主人の元へ送るボランティアをしていた。
 教会で孤児院を開き、院長をしていたシスターの名がシスターロバート。彼女が機械弄りを趣味としていて彼女が始めたボランティアでもある。孤児院の子供達が将来独り立ちするにあたり手に職を付けるのに適切であると黙認されてはいたものの、これは行政の許可なく無許可で行われていた事だった。
 イングリドは元主人の逝去に伴い野良となった機械人形だった。元主人の死去により行政に連絡が入り、部屋の後始末に追われたものの彼女を見付けられなかったのは、イングリドが行政に発見させるより前に巡り巡って教会に先に辿り着いたからである。
 その後一年近くシスター達の修理を受けながら教会で生活をしていたがテロに遭い顔の左半分を破損。同時に頭部のメインコンピュータにも傷を負うがイングリドはそこで汚染は受けなかった模様。
 自己修復の機能を使いながら再起動を図り、これに成功(稀な事例なので汚染駆除班と機械班でイングリドのメインコンピュータがどの様な計算を行ったか調査を依頼)。
 イングリドのメモリには「キキトにフリーの充電ボードが置かれている」と言う情報が強く残っていた為、活動維持の為にエネルギーを求めてキキトまで向かう。
 ミクリカ、キキトと練り歩き、機械人形が外を歩かない事や、機械人形に対して人間が破壊行為を行う状況を見て「自らが機械人形であると名乗らない事」と学習したイングリドは、故にエドゥアルトに「機械人形である」と分かる言葉を意図的に削除していたと思われる(こちらも稀な事例なので汚染駆除班に調査を依頼)。尚、事件当日までイングリドは毎日決まった時間に充電、昼過ぎ頃に着く様に徒歩でミクリカまで赴き教会付近でシスターの行方を探し、充電の切れる前にキキトに帰還、再度充電と自己メンテナンスを繰り返していた為同じ時間に現れていたと思われる。
 教会のシスターは地下で死亡していた者、聖堂で亡くなっていた者の計十六名であると身元を確認。よって聖ミクリカ教会所属のシスター全員の死亡を確認した。
 子供達も、地下で死亡していた者を除き外での活動を確認。十五歳以下の子供達は新たに孤児院で保護されており、年長の子供達はいずれも職に就いている(クロエ・バートンもその一人)。
 イングリドは、教会の地下を開いた時にスリープから覚めた汚染機械人形によって五月五日の正午過ぎに電隣会話による汚染を受け暴走。
 第四小隊の所持するB.G-02こと通称アサギがこれを制圧した。

「……お疲れ様です、主人マキール
 機械人形であるヨダカは疲労を感じない。だが、何か思う事があったのか電話向こうの人物は労う様な言葉を掛けた。
『おい、どうした?またあの男が無茶でもしたのか?』
「いいえ。まぁ、その様なものではありますが」
『そうか。で、早速だが報告してくれ。ヨダカの目にアイツはどう映ったか』
「はい」
 ヨダカはスッと目を閉じるとメモリ内の記憶を整理する。そして結論を出すと、電話向こうの人物──ヨダカの本来の主人、ミフロイド・ガニマールに「何も問題は無い」と告げた。
「ラウール・ケレンリーとクラリス・ラプラス……いえ、クリスティーヌ・シュラムの邂逅は滞りなく終わりました。クリスティーヌと穏便に・・・とは行きませんでしたが、概ね問題は無く」
『本当か?』
「はい」
『では、少し前の聖ミクリカ教会での話はどうだ?』
「はい、そちらも。彼の危うい面は相変わらずありましたが……いいえ、そちらも概ね問題は無く」
 ミフロイドは少し黙って聞いていたが、自分の信頼するヨダカがそう言うのだからと彼の報告をそのまま受け取った。
 これで良い。ユウヤミも変化の途中なのかもしれない。エドゥアルトに変わる事を求めた一方で、自らも変わる道を歩み始めたのかもしれないのだから。
「そして、次回以降のラウールの家族との面談の予定ですが……」
 上層部への報告書のまとめ、そしてそれとは別途、軍警へ送るラウール・ケレンリーに関する定期報告書をまとめるとそこでようやくヨダカの仕事は終わりを迎えた。
 心境の変化を迎えたのはエドゥアルトだけでは無い。ユウヤミもまた同様だ。果たして彼等の浅からぬ因縁に何か大きな動きがあった時、彼等は、第六小隊は、ひいてはマルフィ結社は、一体その時どんな景色を見るのであろうか。