朝の検温を終え、朝食を食べ終えたユウヤミは軽やかな足取りで院内の電話ボックスを目指す。途中擦れ違い様に黄色い悲鳴にも似た声を漏らす白衣の天使達に愛想を振り撒きながら向かうと、お目当ての番号に電話を掛けた。
数回の呼び出し音の後に出たのは、鈴を転がす様な優しい声の女性だった。
「……朝早くにすみません。私はマルフィ結社第六小隊小隊長を務めております、ユウヤミ・リーシェルと言う者なのですが、お時間宜しいでしょうか?ええ、貴女の
お父様についてお話をしたくて」
ユウヤミはひとしきり談笑すると、ガチャリと電話を切る。たっぷり一時間以上時間を取った電話だったが、得る物はたくさんあった。
「さて、ウーデット君の憂いは晴れるかな…?」
おそらく本心から出た言葉。自分から他人を気遣う様な言葉が出た事に少しだけ笑いながら部屋に向かって歩みを進める。またしても擦れ違う白衣の天使達に愛想を振り撒きつつ、頭の中ではエドゥアルトの事を考えていた。
「まぁ、ここで潰れるならそれまでなんだけどね」
けれどまぁ、『勿体無い』とも思うから。
それにこの
展開は自分の想定する流れのまだ中盤でしか無い。
ユウヤミは部屋に戻ると読書を始める。普段通り過ぎる彼を見るヨダカの目は些か冷たいがそんな事を気に病むユウヤミではなかった。
「何か言いたげだねぇ」
「いいえ、特には」
「まぁそうだよねぇ」
のらりくらりと時間を潰し検査に呼ばれる。採血に右足の消毒と経過観察を終えて戻って来ると、廊下の向こうから点滴を繋がれカラカラと音を立てながらこちらに来るエドゥアルトの姿が見えた。
いつもの溌剌さはどこへやら。死んだ様な顔をしている彼を見たユウヤミは優しく微笑むと促しながら部屋に入る。
エドゥアルトが部屋に入るとユウヤミは既に椅子を用意していた。
「先輩……」
「まあ、座りたまえ。大丈夫、今日は何も考えず休めば良い。マルムフェ君とシリル君だけになってしまったから彼女は知り合いの多い第三か第四小隊に日替わりでサポートに入る事が決まっているし、瓦礫撤去もこのくらいの遅れは想定内さ」
それより、元気かな?
ユウヤミがそう尋ねれば、エドゥアルトは首だけをこくりと動かす。どう見ても返事に心と体が伴っていない。
「先輩……オレ、無理です…」
「無理?」
「はい……オレは、結局先輩みたいに皆を引っ張る事も出来ず、イングリドだって…死なせてしまった……」
「彼女は元々機械人形だよ。死んだんじゃ無い、壊れただけだ」
「でも!!でもオレは、あの姿を見て『死なせた』って…思いました…」
少し前までいつも通り話していた声。
汚染されて不気味な圧と共に語り掛けて来た言葉。
それら全てを薙ぎ払ったアサギ。
落ちた首。
吹き飛んだ腕。
なのに血も出なくて、人間であれば致命傷だと思う顔のへこみがあっても平気で動いていて。やはり彼女は機械なのだと思うのに。
死んだ人間を間近で見た様なショックが頭から離れない。
「このまま続けて…あんな姿を間近で見る経験をするならオレは耐えられない……!まして自分の行動が誰の助けにもならなかったなんて……!!そんな日常の中でオレは…生きられる程強く無いんです…!!」
先輩の様に、と続きそうな言葉のチョイスを察知し、ユウヤミを何かを考えながら顎に手を当てた。
「私から言える事を言って良いのか悩んでいるのだよねぇ……」
「……何ですか…」
「ふむ。私は勿論君に『こうして欲しい』と伝えたいのだけど…それを言ったら君はきっと無理をするだろう?心も伴わない内からさ」
「……まぁ、先輩の言う事ならとは、思います……先輩の言う事に間違いは無いから……」
「……ふむ、そんな受動的では困るから……そんな君の心から動かしてみようと思って、ちょっと呼んだ人が居るんだ」
ユウヤミの勿体ぶった様な言葉にエドゥアルトは一瞬考えたが、すぐに掻き消すように窓の外を向いた。
先輩が必要としてくれるなら残る。何故なら、先輩が求めるのにはいつもきちんと理由があってそんな先輩を自分は盲信しているから。
やっぱり、それが良い。先輩の言う事を信じ、ただただ先輩に追従するのが一番だ。
誰かの上に立とうだとか、リーダーの器になろうとかそんな気はもう起きない。大学だって惰性で行っていたし、もうこれで良い。信用出来る人に追従して、言い付けを待つ。尊敬される人にはそれだけの理由があるのだから、その尊敬出来る人の言う事を聞いているのが一番楽じゃないか。
何も考えず。痛みも伴わず。
──コンコン。
その時ふとドアをノックする音が聞こえる。
ユウヤミに歓迎され中に入って来たのは、イングリドの破損していない顔に良く似た女性だった。
歳の頃は五十歳にでもなっていそうだが、ほっそりとしていて上品そうな人だった。
「よくお越しくださいました、ムーアさん」
ムーアと呼ばれたその女性はエドゥアルトの姿を捉えるとぺこりと小さく会釈をした。自分を捉えたその目が泣きそうに潤んでいたので、エドゥアルトは少しだけ面食らった。
「さて、ウーデット君。何から話そうかねぇ」
彼女を席に促し、紅茶を淹れながらユウヤミは呟く。面会時間と言う限られた時間の中、イングリドのこれまでがとつとつと語られた。
* * *
イングリド。
その機械人形がその名で登録をされたのはもう十五年も前の事だ。彼女が
主人として登録をしたのは当時七十歳を迎えようとしていたキキト在住のジム・カーターと言う男だった。
イングリドが起動した時、目の前にいたジムはそれこそ嬉しそうな顔をしたと言う。
人間のする『笑顔』を更に情け無く崩した様な幸福に満ち溢れた男の顔と推測する。
ジムは年齢の割に年老いて見える男だった。足も腰も悪くなっていたし物忘れも酷い。イングリドはそんな彼の介護用として起動した。
ジムはしばしば癇癪を起こす性分であった。家の中でも外でも、気に入らない事があると頭にカッと血を昇らせてしまう。
しかし、イングリドの顔を見ると大人しくなるのだ。少し寂しげに悄気て見せると「悪かったよ」とバツが悪そうに呟き、そしてそのまま不貞寝してしまう。
イングリドは機械人形なので勿論そんな事は気にしない。彼女の役割は介護であって、気に入らないと子供の様な癇癪を起こすジムを「社会に適応する様に」と教育する役目は無いからだ。
そうして過ごす十三年の間にジムはみるみる大人しくなって行った。癇癪を起こす前に一度冷静に止まる事を覚えた彼は年々トラブルを起こす回数が減って行った。
しかし、元々がトラブルに塗れた人生だった。あんなに迷惑を掛けて今更改心したところで時既に遅し、人が振り返って世話を焼いてくれるわけもない。
そして老いは体を蝕んでいった。
ある日の朝、ジムは家の中で倒れた。それ自体は軽い立ちくらみだったのだが、倒れた際に頭を強く打ち、動けなくなってしまった。
「ご主人様、何かわたくしにお手伝いが出来る事はありますか?」
「ベッド……ベッドに、運んでくれ…」
細身の女性の姿でジムをひょいと抱き抱え、ベッドに運ぶイングリド。まるで赤子を抱える様に軽々と抱き上げる彼女にジムは己の娘の姿を重ねた。
「イングリド」
「はい?」
「お前はな、俺の娘の代わりなんだ。離れた娘が、今こう生きているであろうと想像させてくれる。お前は俺の夢なんだ」
その後、容体が急変したジム。イングリドはジムの事を任せようと行政にすぐ連絡を入れたが、その後何があったのかイングリドは回収されぬまま野良となり、そうしてツーリングをしに来ていた時の聖ミクリカ教会院長であるシスターロバートに拾われた。
ただし、イングリドがジムと過ごした記録はあくまで騒動の後、五月も終わりに差し掛かった頃回収された彼女のメモリーを解析した際断片的に録画されていた部分から導き出された憶測に過ぎず、この時ユウヤミが『分かっている事』としてエドゥアルトとムーア夫人に語ったのは教会で拾われた機械人形の製造番号を調べるとジム・カーターと言う男に辿り着いた事、ジムと言う男は既に亡くなって居ると言う事、ジムの登録した機械人形の名はイングリドだがその後の消息が不明になっている事、エドゥアルトとガートが教会の地下に続く壁を切り拓いた事で中を探索したウルリッカがジムの死去から半年後にあたる日付と『機械人形を拾った』旨が書かれている書類を見付けた事。それらを総括するにジムの機械人形は十中八九このイングリドで間違い無いと言う事だった。
「後は同業の力を借りてね。探偵業は今繁忙しているから心配だったんだけど、こうして無事娘さんに辿り着けたと言う事さ」
夕陽を浴びたムーア夫人の金色の髪が赤く輝いて見える。イングリドとは真逆の色味の髪だなぁと思っていると、今度はムーア夫人が父──ジムの事を語り始めた。
ジム・カーターはおそらく、子供の父親としては良い男であった。
ただし、母親の夫としては決して褒められた男ではなかった。
どこに行っていたのか朝まで帰らず、酒と香水の匂いを纏いながら帰って来ては妻に怒られる姿を幼少期のムーア夫人はよく見ていた。彼女は三兄妹の末っ子で幼く、当時は父のしている事がよく分かって居なかった。
父は母によく怒られていた。
でも、母もそんなにヒステリックに怒らなくても良いのにとも思っていた。
だって記憶の中の父はいつも子供達に優しく、友人の様に親しかったのだから。
だがある日、母と怒鳴り合いの喧嘩になった時は状況が違った。二人の歳の離れた兄が母の側に着き、三人で父を詰り始めたのだ。
三人は父を泥棒だとそう言った。父が家の金どころか兄達の学費にすら手を付け、賭け事でそれらを全て失くしてしまったと聞いて初めてムーア夫人の中で優しかった父は悪人に転じた。
母にとっては薄情に思うかもしれないが、今まで少なくとも子供として不利益を被らなかったから母の様に毛嫌いせず父に優しくしようと思えていたのだが、とうとうその子供に不利益を与えたのだ。
優しく、大好きなお父さんだと思って居たからこそ裏切られた気持ちが大きくなった。少し大人になって、父が外でしていたのが賭け事だけでは無いと気付くと女性の身として輪を掛けてこれを嫌悪した。不思議な事にその頃には兄達は父に一定の理解を示し、不定期ではあるが連絡を取っていた時期もあった様だがムーア夫人の裏切られた気持ちは大きく、彼女は一切交流を絶っていた。
月日は流れ、歳も取って母に介護用の機械人形を与える様になる頃、ふと今まで気にも留めなかった父の事が気になった。
記憶の中の父はいつまでも若々しい壮年の男であったが、母と同じだけ歳をとっているのは間違い無いのだ。
父は今頃、何をしているのだろうか。
しかし、結局母に言われるままに家を出てその後も会いにも来ようとしなかった、結果として自分を棄てた父だと思うと気遣う気持ちはどこかへ消えてしまう。
心の中で何度も葛藤を繰り広げ、約一年程前に一度無性に父に会いたいと思う瞬間があったと言うが、それでもやはり愛してもらえなかった父だと思うと一歩が踏み出せずとうとうそれは叶わなかった。
「思えばあれは、『予感』だったのかもしれません。父に会うなら今だぞ、と言う予感」
「はぁ……」
「父は私達と離れた後どんな暮らしをしていたか分かりません。母は父と絶縁しておりましたからその後の話も聞きませんし、おそらく碌な暮らしはしてなかったでしょうね」
今ひとつムーア夫人が何を言いたいかエドゥアルトには分からなかった。何故そんな風に自分を捨てた父親に想いを寄せられるのかも。死んでしまったからだろうか?死んでしまったから、二度と手に入らないものを懐かしむとかそう言う事なのだろうか。
「ウーデット君。カーター氏はね、離れても娘を想い続けていたって事が『君の指揮する第六小隊』によって発覚したのさ」
「え?」
「私だったら、
私が小隊長をしていたのなら、報告こそすれおそらく彼女の事をここまで深掘りしようと思わなかったよ。他にやるべき事もあるしね。きっと部下である君達にも作業の効率化を優先して深追いしない様に言っていた筈だ」
「はい…」
「ところが。君と言うリーダーを据えた第六小隊は情を優先したらしい。まぁ、これはマルムフェ君の手柄でもあるけどね、君が倒れた直後、やれ現場保存だの一時立ち入り禁止だの言われる前に危険も顧みず地下室に入り込んで少しだけ調べたのだよ。イングリドと言う機械人形が
ここにいた証を。そして見付けた。それは、君がリーダーだったから皆も君の為に出来る事を考えたんだ。君がイングリドを気に掛けていたから、せめて壊れた彼女の事を思いマルムフェ君が自主的に探してくれたんだ。そして私に、『どうしたら良いですか?』って資料をこっそり寄越してくれたんだよ」
「……なら、ウルさんには感謝します…感謝しますけど……ムーアさんにオレは何が出来たんでしょう?貴女がお父さんの今を知りたがっていたのは分かりました…でも結局亡くなってしまわれてたし…オレは、一体何が出来たんです?」
「全く、鈍いですねエドゥは」
ピシャリと言い切るヨダカを諌めるとユウヤミはエドゥアルトの方に向き直る。エドゥアルトが緊張から少し固まっていると、ユウヤミは優しい声で囁く様に言った。
「私だったら深追いはしないだろう。けど、君だったら深追いするだろうと見越した
部下が君の意志を継ぐ様に調べた事で分かった事、それは一体の野良機械人形を取り巻く環境と、一人の父親が娘を大層大事に思っていたと言う記録。それによって君は、一つの家族の心を再構築したのだよ」
ユウヤミの言葉にエドゥアルトは目を見開く。次に言葉を発したムーア夫人に、エドゥアルトは視界が揺らぐのを感じた。
「私の名前は、イングリッド・ムーアと申します」
「え…イングリッド…?」
「はい。私の名は父が付けたものなんですよ。それなのに父は家を出てから会いにも来なければ連絡も寄越してくれなかった。私は父に愛されていないと思い、父のその後を追う事を諦めていたのです。でも、貴方がイングリドに会ってくれた。結果として彼女は壊れてしまったけど、貴方のお仲間さんは彼女の事を調べてくれた。そして小隊長さんに相談してくれ、彼が調べた事で私に辿り着いてくれた。私は貴方によって、父が私を愛してくれていたと言う事実を見付け出してもらえたのです」
夕陽が沈み、いつの間にか辺りは暗くなってくる。月明かりに照らされたムーア夫人──イングリッドを見たエドゥアルトは、何故機械人形のイングリドが綺麗なグリーンの髪をしていたかを悟った。
彼女の、イングリッドの白髪混じりの金髪は月の光に照らされて青白い様な少し緑色の様な落ち着いた色に染まっている様に見えた。
「父はよく、夜に母の目を盗んで外に連れ出して私に色々話をしてくれました。そして最後には言うのです、『お前の髪の毛は本当に美しいよ』と。これが父譲りの髪の色だと」
愛する我が子と離れた後、ジムは何を思っていたのだろうか?
残念ながらもう聞く事は叶わない。しかし、我が子を愛していたと言う事は、我が子と似た名前を付けた機械人形の存在だけで証明するのに充分ではないだろうか。
「貴方が貴方でいてくれたから。お仲間さんや小隊長さんが私と父の絆を再び結び直してくれたんですよ」
そう言ってエドゥアルトの手をそっと包むイングリッド。イングリドに似た顔だが、彼女と違い血の通った温かい手だった。
「ありがとう、ウーデットさん。父と私を再び結んでくださって」
室内の明かり徐々に灯り始める。
涙を堪え切れず目を閉じたエドゥアルトの目蓋の裏にイングリドの顔が浮かんだ。