薄明のカンテ - Insufficient sleep will keep you from doing a good job. /べにざくろ



Is that what your name is Madao!

 馬鹿正直に突き出した正拳突きの拳は、軽く手でいなされる。
「おーい、疲労で攻撃が単調になってねぇか?」
 いなされながら掛けられるのはやる気のなさそうなジョンの声だ。
 それを聞いたルーウィンは鼻で笑って一蹴する。
「疲れてんのは副長じゃねぇっすか?」
「分かってるなら帰らせろって」
「嫌っすね!」
 そう言って練習場の床を蹴って放たれるルーウィンの顔を狙う大振りな回し蹴りにジョンの白銀の髪に隠れた片眉が上がる。無駄に足を上げる技は見た目には華やかかもしれないが実践では隙が多すぎる為、普通は使うものでは無い。それは若いルーウィンであっても理解している筈なのに彼は何故、このような技を使うのか。
 無論、ルーウィンだってジョンがそのように考えていることなんて分かっていたし回し蹴りを当てようなんて思っていない。ルーウィンの蹴りを避ける為にジョンに身体を反らせることが目的だ。目的通りジョンは省エネな動きで頭を後ろに反らせてルーウィンの蹴りを躱す。
『副小隊長は最小限の行動で全てを済まそうとする傾向があります。そこを突きましょう』
 マルガレーテに言われた通りの展開だ。ニヤけそうになるがそんな余裕の時間は無いので素早くしゃがみ込んだルーウィンはジョンが体制を直す前に、今度は足払いをかける。
「おっ!?」
 ジョンの身体が傾ぎ、彼は思いきり臀部から床に落ちた。
『男の急所は決まっているわよね? 思いっきりやっちゃいなさい!』
 酒が入って浮かれたバーティゴのアドバイスが頭に浮かぶが、それは同じ男としてやってはいけないことだと良く分かっているのでルーウィンは脳内で「姐さん、すみません!」と謝り、そんなバーティゴに水を渡して甲斐甲斐しく介抱していたセリカの言葉に従ってジョンの鳩尾脇に向かって掌底打ちを放った。
 セリカの言葉はこうだ。
『スミスさんはぁ、きっとお酒の呑み過ぎで肝機能が可笑しいでしょうから肝臓を狙えば良いんですよぅ』
 以上がジョン不在で行われた前線駆除リンツ・ルノース班第三小隊の飲み会で議題になった「ルーウィンでジョンに勝つ方法」のお姉様方からの有難い助言である。尚、あえてジョンを無視して飲み会を行った訳ではなく、誘おうと電話を何度かけても寝ていて出なかったジョンのせいであることは言うまでもない。
「参った!」
 ジョンの声にすんでのところでルーウィンの手が止まる。
 若くて無鉄砲なルーウィンの掌底打ちを受けたらジョンの肝臓がダメージを受ける前に肋骨が折れかねない。いや、肋骨は折れやすい骨だから普通に折れる。
「全く……わっぱのくせに対機械人形マス・サーキュ用の技の前に対俺用の技を磨いてくるんじゃねぇっつーの」
 ブツブツと呟きながら起き上がるジョンにルーウィンは勝利の笑みを見せた。
「姐さん達と呑んだ時に副長に勝つ方法、助言貰ったんすよ。つっても姐さんには金蹴りしてやれって言われたんすけど……さすがに止めときました」
「それは懸命な判断だ」
 勝利へこだわりすぎてルーウィンがバーティゴの言葉に従わなくて本当に良かったとジョンは思う。そんなことをされたら暫く肉体的にも精神的にも立ち直れそうもない。いや、そしたら仕事を堂々と休めるのだから、やはりやってもらうべきだったかもしれない。しかし、仕事を休む為だけに色々と大事なものを失いそうな気がするので、ルーウィンにやられなくて良かったとジョンは最終的に結論付けた。
 起き上がったジョンを見て、ルーウィンはふと思ったことを口にする。
「副長」
「何だ?」
「俺との模擬試合早く終わらせたくてワザと食らったんじゃないすか?」
 ルーウィンの問いに対するジョンの返答は沈黙だった。
 ジョンは前髪で顔が隠れていて表情が分かり辛いが何だか口笛でも吹いてこの場を誤魔化しそうな雰囲気を漂わせていて、ルーウィンの目がじっとりとジョンを見つめる。
「沈黙は討論やディベートでの肯定のサインだってキッカさん言ってたんすけど……」
 議論を好むお国柄出身のマルガレーテの言葉を否定する言葉は今のジョンには生み出せなかった。この場を切り抜けるにはどうしたらいいのかと暫し逡巡したジョンは、頭をがしがしと掻いて「そういや、今何時だ?」と誤魔化す言葉を発してルーウィンの気を逸らすことにする。
「うわっ、もうこんな時間っすね」
 はたしてジョンの作戦は成功した。
 ルーウィンは時計を見て声を上げていてジョンへの追求は終了したようだ。
 最初にルーウィンとジョンが練習場に来た時には他の前線駆除リンツ・ルノース班のメンバーも身体を動かしに来ている姿が見えたが、時間の経過を感じさせるように今は誰もいない。窓から見える空の色は昼行灯が行灯として立派に活躍するような濃闇の色を湛えていた。
 シャワールームでざっと汗を流した後、ルーウィンとジョンは連れ立って結社の中を歩く。少し時間が遅くなっただけで結社内の人数は少なくなり、2人は人のいない廊下を進んでいた。
 暗くて人のいない廊下は見知った場所のはずなのに恐ろしく見えてくるから不思議だ。そんな中、ポツリとジョンが呟く。
「……これは俺の友達の友達に起こった話なんだけどな」
「怪談話ならいらねーんすけど」
 ありがちな怪談話の導入のようなことを口に出したジョンに釘を刺すと、ジョンは口を閉じた。どうやらジョンは本当に怪談話を始めるつもりだったようで、ルーウィンはそれを阻止出来たことに胸を撫で下ろす。
 ルーウィンは怪談話が何よりも苦手だ。幼い頃に家族に心霊番組を観せられたことがトラウマになっているのか、はたまた幽霊が物理攻撃が効かない存在だから嫌なのか。ハッキリとした理由は自分でも分からないが、嫌いなものは嫌いである。
「っ!?」
 角を曲がった廊下の先に小さな人影が見えてルーウィンは恐怖に目を見開いて息を飲む。怪談話をすると霊を呼ぶというが、まさか冒頭の言葉だけで既に呼んでしまったとでもいうのだろうか。
「ルーとまだおさんだ」
 人影の正体は前線駆除リンツ・ルノース班第六小隊のウルリッカ・マルムフェだった。黒目がちな目を瞬いてルーウィンとジョンを見る姿にルーウィンは心底ホッとする。
「おい、“まだお”ってのは何だ?」
 心霊現象ではなかったことに安心しているルーウィンとは違い、ウルリッカの言葉に引っかかりを覚えたジョンが彼女に問い掛けた。かつて第三小隊の副小隊長であったクジマ・トルビンが諸事情・・・で退社した際に第六小隊から第三小隊へと移籍したジョンは当然ながらウルリッカとは顔見知りである。しかし、彼女から“まだお”なんて呼ばれ方をしたことはないし、そもそも“まだお”ではジョン・スミスという偽名と勘違いされがちな名前とかすりもしない。
「隊長が教えてくれたの」
 何故かウルリッカは自慢気な顔を見せていた。ルーウィンもジョンもカンテ国男性の平均身長より10センチメートル程度大きいため、彼らから見ると30センチメートル近く身長が小さな彼女がするドヤ顔は何だか子供が胸を張っているようで微笑ましい姿に見える。
 しかし、そんな微笑ましいウルリッカの口から出るのは可愛くない言葉だ。
「ジョンみたいな人は『るでめなとな』って言うんだって」
「ストレートすぎる悪口っすね」
「『ったくもってめなッサン』でも良いよって隊長、言ってた」
「何も良くねぇよ……あの小童こわっぱめ」
 ここに居ないユウヤミ・リーシェルの顔を思い浮かべてジョンは悪態をつく。ジョンはユウヤミが苦手だ。「小童こわっぱがいる限り第六小隊あの隊には戻らねぇ」と豪語するくらいには。
「そーいや、ウルさん。何でこんな所にいるんすか?」
「隊長がね、まだおさんにプレゼントだって」
 そう言ってウルリッカはポケットから1枚の券を取り出してジョンへと差し出す。その券は誰もが見慣れたマルフィ結社の食堂を利用するための食券だ。紙の食券というのも現代的ではなく不便かと思われたが、電子チケットではないので気軽に人に渡せて案外便利である。そんなことを思いながらジョンは食券を受け取ってさっさと己のポケットに捩じ込んだ。今日の食堂の食券を購入していないジョンにとって、この食券は有難い存在だ。急に「返せ」と言われても困るものは困る。

――なお、後々、ジョンが食堂に嬉々として向かってみたら「昨日の食券ですね」とヒギリに苦笑されるが、可哀想に思ったエミールによって賄い飯を振る舞われ最終的にはジョンらしく運良く終わるのであった。

It was only a dream,but it wasn’t a dream!

 ウルリッカを加えて3人になったルーウィン一行は歩き出したものの、再び足を止めていた。
「寝てる……?」
 起こさないようにという気遣いなのか小さな声でウルリッカが呟く。
「爆睡っすね」
「こんな所で寝る馬鹿がいるか?」
 ジョンの呟きにルーウィンとウルリッカは信じられないものを見るような目でジョンを見た。2人はジョンがどこでも寝ているのを目撃しているし、彼の入眠時間が異様に早い事も知っているからだ。
 3人の目の前では、別の3人が1つのベンチに座ってスヤスヤと寝息をたてていた。眠る3人は左からシキ・チェンバース、ロード・マーシュ、クロエ・バートンという班は違うものの良く一緒にいることが目撃されることの多い組み合わせであった。シキとクロエがロードに寄りかかって寝ていて、正直なところロードはとてつもなく眠りにくそうなのだが大丈夫なのだろうか。
「そうだ」
 何かを思い出した様子のウルリッカは自分のズボンのポケットに手を突っ込むと、おもむろに何故持っているのか聞きたくなるマーカーペンを取り出した。キュポンッと良い音をさせてフタをとったウルリッカは、ジョンが彼女の行動に唖然としているうちに眠るロードに狩猟をする時のように気配を消して近付くと、その美しい額にマーカーペンを――。
「待て待て待て!」
 小さな声で怒鳴るという器用なことをやりながらウルリッカの手首を掴んですんでのところで止めたのはジョンだった。止められたウルリッカは不満そうな表情をジョンに向ける。
「何で止めるの……?」
「何をしようとした?」
「……狐さんのおデコに『肉』って漢字書こうとした。折角、ギャリーに兎頭国の悪戯だって習ったのに」
 そのために漢字だって練習したのに、と続けたウルリッカは再び何かを思いついたような顔を見せてジョンを見た。キラキラと輝くウルリッカの目を向けられたジョンは喜ぶどころか嫌な予感で冷や汗が背中を流れる。
「今度、ジョンが寝てたらやるね」
 ジョンの予想通りの言葉がウルリッカの口から発せられた。それを聞いて絶対にウルリッカこいつに寝ている様を見られないようにしようとジョンは固く誓う。
 そして、ウルリッカの手からさり気なくマーカーペンを回収してフタを閉めたジョンは重大な事実に気付いた。
「油性じゃねぇか、このペン」
 これで額に「肉」と書かれたら水性ペンと違ってなかなか落ちない。何故、せめて水性ペンにしなかったとジョンは非難の色を込めてウルリッカを見つめてみるが、彼女はしれっと「だって落ちない方が面白い」と鬼畜な事を言い放つ。
 大陸の伝承にある小さな悪魔インプか、こいつは。
 そんな事を思ってウルリッカを見つめたジョンは、もう1人が妙に静かなことに気付いてルーウィンへと目線を向けた。そして噴き出しそうになるのを咄嗟的に口を抑えて堪える。
 しかし、その気配に気付いたルーウィンは慌ててジョンを見た。
「な、何すか? 別に良く寝てんなーと思って見てただけなんすけど?」
 先程までルーウィンの目はセーラー服の女子、クロエに釘付けだった。そうは言うものの他の男2人になんてチラとも視線を動かさず見つめていたのだ。ルーウィンの言ったこと以外の他意があることなんて火を見るより明らかだ。
 ニヤニヤとジョンは口元で笑う。それに文句を言えば墓穴を掘ることを日頃の第三小隊のお姉様方との会話の中で理解していたルーウィンは、何も言わないでおいた。我慢だ、我慢。
「えっ、ちょっと!」
「やだっ」
「ロー……マーシュさん?」
 そんなルーウィンの後ろからテンション高い女性達の声がして、振り返るとそこにはフェミニンなオフィスカジュアルを着こなした女性3人組がいた。3人はお洒落な服装が霞む程、興奮した様子でロードを見つめている。
「え? ロードさん、いたの?」
 その更に後ろから歩いてきたのはルーウィンの顔見知りであるタイガ・ヴァテールだった。彼が一緒にいるということは女性3人組は人事部の人間なのだろうとルーウィンは検討をつける。
 尚、ルーウィンは知らないが彼女たちはロード親衛隊(非公式)の女性たちであった。食い入るようにロードを見つめていた女性達は、ふと我に返って声を上げる。
「タイガ!」
「撮って!」
「早く!」
 3人組は練習でもしてあったのかという程に連携よくタイガに命令するような口調で言い放った。「誰を」撮るのか主語が抜けていてもタイガは理解しているらしく、また日頃から命令されることになれているのか特に不機嫌な顔を見せることも無く、彼は自分の携帯型端末を構えた。
「……隠し撮りは関心しませんね」
 しかしタイガがシャッターボタンを押す前に放たれた美声によってタイガの行動は阻止された。声を発した張本人のロードは、タイガや女性3人組にニコリと微笑みかけるのでロード親衛隊は静かに悶える。
「狐さん、起きてたの?」
「ええ。左右からの重みが凄いものですから」
 ウルリッカの問いにロードは苦笑を浮かべた。確かに目覚めたロードが喋っていてもお構い無しとばかりにシキもクロエも未だに目覚めることなく、容赦なくロードに体重を掛けている。女子であるクロエだけならともかく長身のシキに寄りかかられているのは大変だと、その場の全員が思った。
「あっ、おいっ!」
 そんな中、ルーウィンが焦った声を上げる。何かと思えば、人の気配と声で眠りの質が変わったのか大人しく寄りかかっていたクロエの頭がフラフラと動き出したのだ。目は開いていないので、まだ眠っているのは間違いない。そんなクロエの頭はロードから逃げるように離れ――たかと思えば勢いよく肩へと戻ってきた!
「うっわ、痛そう……」
 思わず顔を顰めてタイガが呟くとロードは困ったとばかりの表情を浮かべながら頷くが、クロエに対して怒る様子は微塵も見せなかった。そのロードの懐の広さにロード親衛隊は再び密かに悶える。
 それでもクロエは起きる気配も見せず何度もロードの肩にガンガンと頭をぶつけていた。それを何故かオロオロとした様子を見せて心配するルーウィンにジョンは密かに笑いを噛み殺す。
「クロエ……さすがに痛いですよ」
 肩にぶつかってきたクロエの頭に向かってロードが優しく囁くとクロエの眉間に皺が寄った。遂にクロエは目覚めるのかと見守る人々が思う中、クロエの頭が今までにない動きを見せることになる。
「あっ!」
 思わず声を上げたのはロード親衛隊のエーデルかヴィーラかシーリアか。
 それ・・を受けることになったロードは流石に痛かったらしく「くっ……」と小さく声を上げた。
 目を覚ますのかと思われたクロエがとった行動は頭を更に前に倒してロードの腿に頭を乗せる行動だった。人間の頭はボーリングの玉程の重さがある。それが勢い良く腿に乗ってきたのだからロードの痛みは如何程だったろうか。ロードの痛みを想像した者達は、それぞれ顔を顰めてロードを哀れみの目で見つめる。
 しかし、哀れみの目を向けない女達がいた。ロード親衛隊である。
 3人の目はロードではなくクロエに向けられていた。
(マーシュさんの!)
(膝枕!!)
(羨ましい!!)
 クロエへの嫉妬の心は勿論ある。しかし3人は「何なのよ、この小娘!ロード様の膝枕なんて生意気よ!!」と思うような女ではないので、純粋にロードの膝枕を羨ましがって見ていた。それに相手がセーラー服を着ているような年若い少女であるのに本気で怒るなんて大人気ないにも程があるという分別くらいはある。
 そんなロード親衛隊と正反対に顔を青くして膝枕を見つめているのはルーウィンだった。その様子を見て友人として彼に何らかの声をかけてやらねば悪いかとタイガが思っていると、ルーウィンの肩をジョンがそっと叩く。
「恋ってもんは、やがて他の恋によって癒されるもんだからな」
「……その歳まで独身の副長に言われたくないんすけど」
 慰めの言葉を掛けたはずなのに辛烈なルーウィンの言葉に、ジョンは次回の手合わせは少々手荒く行こうと固く誓った。
 そして、ジョンはひとつの重大な事実に気付く。
 ロードはクロエに膝枕をしたままタイガと何やら話をしている。人事部の女性3人はそんなロードを見て何やら悶えたり顔を赤くしたりしていて忙しい。
 そういえば、もう1人の寝ている奴と第六小隊の小さな悪魔インプはどうした?
 ふとウルリッカの姿を探すと案の定というか何と言うか。彼女を見張っていなかったことを後悔しつつ、ジョンは天を仰ぐ。そのジョンの行動を訝しげに見つめ、彼が見ていたらしき方向に目を向けたルーウィンは目を丸くした。
「な、何やってんすか!?」
 ルーウィンの大声に目線が彼へと集中した。そしてルーウィンの視線の先に目をやってそれぞれが各々の最大の驚きを見たような顔を見せた。
「ルー。声大きい」
 視線を集中させたウルリッカは眉を寄せて不満を顔に表す。そんな彼女の手には水性ペン・・・・が握られていた。油性ペンは先程、ロードの額に『肉』と書こうとしてジョンが取り上げたばかりだが、どうやらウルリッカは水性ペンも持っていたらしい。
 そして、そんなウルリッカがペンを持っていて目の前に寝ている人がいるとなればやることは一つだ。それは、どんな迷探偵でも解ける真実だ。
「ネコ……?」
「違う、犬」
 タイガが思わず呟いた言葉をスッパリとウルリッカは否定する。
「猫? 犬?」
 膝にはクロエ、肩にはシキが乗っているロードは動くことが出来ず、ルーウィンとウルリッカの言葉を反芻した。
 ウルリッカがやっていたこと。
 それはシキの顔に落書きをする事だった。ロードの時は額に『肉』と漢字で書こうとしていたウルリッカだったが、シキの場合はヒゲだった。両頬に3本ずつ線を書かれており、ヒゲだけでは猫のようにも犬のようにも見えなくはない。
「……ん?」
 ルーウィンの大声と周辺の騒ぎっぷりにようやくシキが目を覚ます。
「シキ、早く退いていただけますか?」
「え? あ、兄貴おはよう」
「ええ、おはようございます。だから、早く退いてくださいね」
 ロードに二回言われて、シキは己の巨躯をロードに預けて寝ていた事実に気付いて身を起こした。シキが退いたことで自由になった肩をロードが軽く回すとボキボキバキバキした凝り固まった音が周囲に響き渡る。
「……何でこんなに人居るの?」
 シキは、そんなロードの様子に構うことも無く人の多さに思わず呟いた。シキ、ロード、クロエの3人の他に、目覚めたらジョン、エーデル、ヴィーラ、シーリア、ウルリッカ、ルーウィン、タイガと7人も増えていたのだから当然の疑問である。
「何でだろーな……ってか、その顔平気か?」
「顔?」
 ルーウィンに問われてもシキは己の顔の惨状を知らない。
 そして、自分の顔の落書きを道具を使わずに見ることは出来ない。見兼ねたエーデルが化粧直しに丁度持っていたファンデーションのコンパクトケースをポケットから取り出すと、開いてシキに渡してあげた。
 コンパクトケースの中の小さな鏡で己の頬の惨状を理解したシキはコンパクトケースをエーデルに返してから、目の前でワクワクとした様子で自分を見つめているウルリッカに深海に沈む途中の様な色彩の瞳を向けた。
 シキは怒鳴るのだろうか。どんな反応をするのだろうか。
 誰もがシキの次の発言を待った。
「ワン……?」
 人々の期待の中、シキが発したのは疑問系ではあるが犬の鳴き声だった。
 それを聞いたウルリッカの目が輝く。
「え、オレには犬か猫か分からなかったのに」
「ヒゲだけで分かるものなの?」
「どういうことなのかしら」
「よっぽど彼が動物好きとか?」
 人事部4人が動揺を隠せず口々に呟く中、「すごい、すごい」とシキを誉めるウルリッカの頭を落ち着かせるように撫でるシキ。顔に落書きをされているのに怒りもしないシキの懐の広さにも人々は驚きを隠せない。
 そして、もう一つ驚きを隠せないのはこれだけ騒ぎになっていても目を覚ますことなくスヤスヤとロードの膝の上で眠るクロエである。余程、ロードの膝枕は寝やすい心地良さなのかとロード親衛隊は密かに自分が寝る姿を妄想していた。
「シキ、少しは怒っても良いと思いますけどね……」
「怒る? 何で?」
「……まぁ、こういうところで怒りださないのは、お前の長所だと思いますよ」
 理由は分からないがロードに誉められたとシキは嬉しそうに微笑む。そんなシキを呆れたような、それでいて微笑ましく見つめたロードは「さて」と口を開いた。
「皆様の足を止めてしまい申し訳ありませんでしたね」
 そう言って周囲の面々に軽く会釈するとロードは軽々と眠るクロエを抱き上げた。いわゆる「お姫様抱っこ」にロード親衛隊が声にならない歓喜の悲鳴を上げ、ルーウィンが何かを言いたいけれど何を言ったらいいのか分からない何とも言えない顔でそれを見た。
「それでは」
 颯爽とクロエを抱いて立ち去っていくロード。その後をのっそりと立ち上がって付いていくシキ。
 残されたのは居眠り三人組を見守ってしまった7人だけだ。
 そして居眠り三人組がいなくなった今、彼等がここにいる必要は無い。
「まー、あれだ」
 とりあえず場を締めようと考えたジョンが頭を掻きながら声を上げる。
「解散としようや」