薄明のカンテ - I'm not as strong as you think./燐花
「ここが貴女の部屋になりますよ」
 細い身体で意外と重い物が持てるのか、ロードはクロエの着替えの入ったトランクを軽々持ち上げ部屋に運んだ。ミクリカで売れる物は全部売り切り、クロエがマルフィ結社に持ち込んだのは僅かな私物のみ。ロードは女性にしては少ないその荷物量に驚いた顔をしていた。
「それにしても…このトランクも大分軽いですねぇ…」
「ほぼ下着と靴下と僅かな私服しか入って居ないんで」
 ほら、とクロエがトランクの鍵を開けると中から同じ様なデザインの下着、靴下、カジュアルなシャツやパーカー、パンツが出て来る。スカートは無く、機能性を重視した様なデザインのものばかり出て来た為、ロードはそれを見て何とも言えない顔をした。
「うーん……そうですか…」
「色気が無い、とか思ったろ」
「うふふ、いえいえ別に」
「…絶対思ったな…」
 下手をすればこの男、何か余計なお世話を働かせ自分に私服でも買って来そうだなとクロエは眉を顰める。彼女の読みは当たっており、ロードはクロエに似合いそうで且つもう少し女の子らしい服を頭の中でシミュレートしていた。結社で出来た純粋な女性の友人であるフィオナが何か良い案をくれないだろうかとそれとなく年頃の女の子の服装について相談しようと考えていたら全てを見透かした様な瞳を向けたクロエが口を開いた。
「言っとくけど女らしい服なんて着ませんからね」
「おや?何故です?」
「私に着飾る価値と言うのは一切無いからです」
 自分の価値は自分が一番分かってます、と言いたげなクロエ。しかし、ロードはそれを聞くと不満そうな心配そうな顔を彼女に向ける。そうは言っても女の子なのだから。価値云々はこの際横に置いておいてもあまり適当なもので身を包んで欲しくないと彼は思ったのだ。
「うーん…そんなもんですかねぇ…?」
「そうですよ。私に女らしさは欠片もありません。よって、そんな女らしさで包んでも何の得にもなりません」
「…んー…それはそんな単純な話じゃ無いと思いますよ?クロエ。こう、何と言うか…貴女自身が価値がないと看做していても男側はそうは思わないと言いますか…。言い方が悪いですけど、自分に価値が無いから着飾らなくて良いだろうと言う判断はある種の慢心と油断に見えてしまうのですよ。そしてその慢心と油断を嗅ぎ付け色々強引にしようと言う悪い男って居るものなんです」
「……」
「うーん…無理に飾れとは言いませんが…私が心配です。少しだけ着飾る事に関心を持ってくれませんか?」
「…つまり、女なら誰でも良いって男が居ると言う事ですか」
「お、大っぴらに自信を持って言える事ではありませんがそう言う男は居ます…」
 ここで行き違いが起きてしまった事にこの二人は気付いていなかった。
 ロードが言ったのは、「女なら誰でも良いだなんてそんな事褒められた主張ではない」と言う意味で「自信を持って言えない」と言ったのだが、クロエには「本当にそう言う男が居ると言い切れる自信がない」から「自信を持って言えない」だと解釈してしまった。
「ではやっぱり、私に女らしい格好は必要ありません」
「き、聞いてました!?人の話!」
「は?聞いてましたよ。だから、必要ないと、そう言ったんです!」
 クロエがその意思をより強固なものにしてしまったのは言うまでもない。しかし、ロードはちゃんと説明したつもりなのでその理由が分からない。悲しいかな、すれ違いに気付かない二人の間には少しだけピリ付いた空気が流れていた。

 * * *

「とうがらしラーメンで」
 やたらと背の高いひょろっとした女の子が低い声でそう呟く。その子は激辛で敬遠される事の多いメニューの食券を持って現れた。ヒギリのこの日一番のニュースはそれだったと言うのは言うまでも無い。
「は…い…」
「硬め、麺多め。それから野菜少なめニンニクマシマシ油少なめカラメ少なめで」
「お、おっけー…」
「唐辛子はマシマシで」
「はい…」
「…覚えられました?」
 この背の高い女子、細い体の割に眼光が鋭く体から圧の様なものを放っている。
 それに怯えたヒギリが圧倒されていると、奥に居たネリネが出て来てクロエの注文を復唱した。
「大丈夫です、機械人形ですから。ちゃんと記憶しているので安心してください」
「…どうも」
「モナルダさん、彼女の注文はあのテーブルに用意が出来ています。トッピングして持ってきてください」
「は、はい…」
 とことこと足早に厨房に向かうヒギリを見送り、ネリネはふぅとまるで人間の溜息の様な声を出してクロエを見る。しかし人間らしい溜息を吐いたとして、その目は機械的に綺麗な澄んだものだった。
「バートンさんですね?あまりモナルダさんを怖がらせないでやってください」
「あっちが勝手に怖がったんすよ。私に言わずに『臆するな』と彼女に言ってくれません?」
「受け取り手である相手が怖がってしまう状況なら、それを発する側が気遣い態度を改めるのが一番早いのです。臆しない心構えを会得してもらうまで待つなど非効率的ですし、人間はコミュニケーションの中に気遣いを有しているからです」
「……一理ありますね」
「でしょう?」
 はい、とうがらし。そう言って渡されたトレーを持ってクロエは席に着く。矢張りちょっとむしゃくしゃした日は辛味に限る。何故ならそれと一緒に飲む牛乳の偉大さを再確認出来るから。
『私が心配です』
 そう言ったロードの瞳を思い出す。あれは保護者の目だ。大人の女を前にした男の目ではない。子供を見る保護者の目だ。先日も結社内を案内してもらって居た時、休憩の合間に財布の中に入れている写真を愛おしそうに見つめていたし、おそらくそれは彼の好きな人なのだろう。その場に居ないのに写真を見るだけでニヤつく事が出来る程の「愛」。彼は楽しそうだなと思えば思う程クロエが自覚してしまうのは、彼を好意的に思えば思う程自分が不毛になると言う事。その後、医療班に行った時に会った女性を見る目で直ぐに写真に写っていたのが誰なのか分かった。
 確かに、「良いな」と思う体型の女性だった。そしてロードは、女性の「良いな」と思う部分を分かりやすくガン見して居た。
 まぁ、だからと言ってロードが好きかと聞かれたらそれはそれで疑問だった。何と言うか、そう言う好き嫌いでは無いのだ。だからもしも医療班のその女性に向ける様な目を自分に向けて、彼女に囁いていたあの砂糖でも吐きそうな甘い言葉を自分に向けたら?
「いや、無いな…」
 何かそれは違う。つまり、何故か自分は別の相手にモーションを掛けているロードを好意的に見ていると言うわけで。一体彼の何に惹かれているのか。そもそもこの惹かれ方は何なのか。クロエは「訳が分からん」と言いたげにちゅるっと音を立ててラーメンを啜った。
「あの、ここ一緒に良いですか?」
 そんな彼女の前に現れたのは、よく手入れされたビスケット色の髪。空色の瞳がくりくりしていて、綺麗な肌に薄く化粧を施した可愛らしい女の子。
「…邪魔ならここ退きますけど?」
「あ、退かないでいいです!むしろ一緒に食べたくて!」
「はぁ…?」
 女の子はあれよあれよと言う間に自分のトレーを置いてクロエの前に座り、「いただきまーす!」と元気良く手を合わせた。寒いと思う日が増えたこの頃に嬉しい、そんな温かいご飯を美味しそうに頬張るその女の子。彼女が食べているものが牛乳・・焼きであった事はクロエにとっては高いポイントだった。
「あの、クロエ・バートンちゃんだよね?この間人事部のロードさんと一緒に医療班来てくれたでしょ?」
「そうですが」
「私、ミア・フローレスです!医療班に所属してます!」
「ああ…よろしくお願いします、フローレスさん」
 そう返すと嬉しそうににこにこ笑うミア。とりあえずよろしく、と返事を返したがどうにも仲良くした事の無いタイプの女の子だなぁとクロエは思った。
「ところで…それ、凄い色のご飯だね…」
「ああ、とうがらしラーメンですよ。私はこれを豪快に大口で啜ってその後に牛乳を飲むのが好きです」
「牛乳…?本当だ!もう瓶二本も空けてる!そっか…だからクロエちゃんそんなに背が大っきいんだね!あ、クロエちゃんって呼んでいい?」
「お好きに」
 ミアは食事のスピードがそこそこ遅かった。いや、正確には喋ると止まらないから自ずと遅くなると言うだけなのだが。クロエはこれと言って何か話題提供できるわけでは無いので、ミアの言葉に相槌を打ちながら彼女のお喋りを肴に牛乳をごくごく飲んでいく。
 やれ結社のすぐ近くにあるお店のコスメが可愛いだのモビデの新作が迫力あるだの。同い年の筈なのに、ミアとは見えている世界が違うのだろうか。今まで避けようとしていた分野の情報が数多出て来る。
『私が心配です』
 だからまた、思い出してしまった。あの男の保護者ぶった腹の立つ顔。
「あ…ネビロスさんだ…」
 急にミアがトークの勢いを無くし、目の前のとうがらしラーメンくらい赤らめた顔で一点を見つめる。そこに居たのは彼女と同じスクラブを纏い、一人黙々と食事を摂っている全体的に色素の薄い幽霊の様な男性だった。ロードくらいの年齢に見えるその男性にミアは恋い焦がれた目を向けている。だけどミアならその恋すら叶いそうで、ここまで自分と何もかも真反対な彼女に沸々と湧いて来てしまったのは「知らない生き物に対する警戒」だった。
「あの」
「あ、はいっ!?」
「そんなに彼が気になるなら彼の近くの席に座れば良いと思います」
「え?で、でも…」
「ここなら確かに近い席ですけどね。どうせならもっと近い場所まで行った方が良いんじゃないですか?」
 ミアの返事も聞かず、クロエはトレーを手に持つと立ち上がり、そのまま振り向きもせず行ってしまった。ミアが何かを言っていた気がするが、クロエにはもう届かなかった。

 * * *

 結社に来た。しかしどうも上手く行かない。そう思ってそろそろ一ヶ月になる。ミクリカに居た時は大人に混じって色々やるのもそんなに難しく無かった。と言うより、無我夢中だった。でも今は違う。何と言うか上手く行かなくてモヤモヤする。
 ロードが何故か気に食わない。彼の立ち位置を自分の中で決めあぐねてしまい、それがモヤモヤする。
 兄と呼ぶには近過ぎる。父と呼ぶには若過ぎる。友とするには遠過ぎる。恋をするには無謀過ぎ。
 ロードはあくまで「くそ兄さん」。そんな立ち位置以外しっくり来ない。こんな関係性の人も初めてだ。しかし彼を保護者として認め、保護者として信頼し懐いているのも確かで、それもクロエの中で反抗心を抱かせる要因となっていた。クロエにとって大人として尊敬し認めた保護者は育った孤児院のシスターただ一人。そう思いたかったからだ。
 仕事が休みなのを良い事に結社の中をうろちょろしてみる。そう言えば結社はこんなにも綺麗に残った建物を利用しているが、倒壊したミクリカの街を見た時、あまりにも地形が変わって違う場所の様に見えてしまったっけ。
 確か生まれ育った孤児院は瓦礫の山と化したと聞いた。ギロク博士のテロ当日、典礼をサボり孤児院から離れ図書館で過ごしていたクロエは一人難を逃れたものの真面目に顔を出していた他の子供達と親代わりのシスター達は機械人形の暴走に巻き込まれた。その後は戻るに戻れず、生に縋る様にミクリカの裏側に根付いていた。おそらく自分を商売敵とでも見做した誰かが保護を求める名目で適当なところに連絡したのだろう。その適当な機関がマルフィ結社。
 大人に混じって何かをしようにも結局自分は子供だから。大人の「大人」たる力に負け、安易にミクリカでの地位を手放す結果になった。クロエは確かに裏側で上手く地位を築いていたのだが、しかし最終的な敗因は子供だったからだと判断出来る。
 ロードに感じていた危機感の正体をクロエは少し垣間見た気がした。立ち位置が極めて珍しい場所に居る彼。かと言って先日のミアがネビロスを見る様な目で彼を見る事も出来ず、同時に自分がそんな目で彼から見られる事もなく。確たる関係性が無いとまた簡単に追い出される気がした。とは言え別に一人でも生きていけると思っているのでそうなったらその時はその時だが。
 それでも何となく、もう疲れるからそのやり取りも終わりにしたいと思っていた。
「おい、そこの女」
「は?」
「お前。そこの…枝みてぇな」
 心底失礼な言葉を発せられクロエはその鋭い瞳で睨み付ける。そこに居たのは人間とは違う鮮やかな緑の髪を一束に纏め、カンテ国には珍しい着物の様な衣服に身を包んだ紅白の瞳。機械人形だ。しかも上質の。
「アサギ、どうした?」
 そんな機械人形の後ろから同じ様な服を着込んだ青年が現れる。どこかで見た事があるなぁと記憶を総動員して、彼が仕事で目を通した何らかの書類にあった前線駆除班第四小隊小隊長のロナ・サオトメであると気が付いた。同時にここが前線駆除班第四小隊の待機室である事にも気が付いた。
「…あんた、それ・・主人マキールですか?」
「え?あ、ああ。俺は彼の主人マキールだが…アサギが何かしたかな?」
「…ふん、まあこの際どっちでも良いです。誰が主人マキールだろうが人を見た目で枝呼ばわりするのだけやめてくれりゃあそれで」
 クロエのその発言に少し困った様な顔になり、そのままロナはチラリとアサギに目を遣った。しかしアサギ本人は依然としてキョトンとした顔であり、一体何が悪かったのかなんて考えてすらいなさそうだ。
「アサギ…ちょっと後でお話しようか」
「あ?今日はまだ何も壊してねぇよ」
「それもそれで良く無いがな、これはこれで良く無いんだよ…」
 痛むのか、腹を抱えるロナとアサギを見てクロエは気付いた。そうだ、彼は経理部に訪れた際あの貴族出身のメンバーが経費の事で激怒していた問題の渦中に居た人間だ。だから見聞きした記憶があったんだ。思い出した。
 正直、アサギの奔放さがよく分からなかった。それは彼が人間の様な心を持つ、とは言い難い機械人形だからなのだろうか。この様な振る舞いは真っ先に捨てられて廃棄される様な気がするのに。感情がない、恐怖も痛みも感じないと言うのは良い気なものだ。バラバラにされ、捨てられて、ゴミに紛れて腐っていく様なそんな危機感すら感じなくて良いのだから。
「…何か悩み事かな?」
 クロエの深刻そうな顔色に気が付いてか、ロナは優しく微笑んでそう尋ねた。クロエはハッとして一瞬目線を逸らすが、すぐにキッと睨む様に見つめ返す。その曇りのない空色の瞳は、どこまでも澄んだ色をしていた。
「…別に」
「そうか?アサギが言った事を気にしてしまったなら申し訳ないと思ったのだが…その、彼も悪気がある訳じゃないんだ。月並みな事しか言えなくて申し訳ないが…」
「ああ、いえ別に。私に女としての魅力が全く無いのは存じておりますんで。乳も尻も薄っぺらい、背ばかり高い女なので」
 すらすらとそう紡ぐと、面食らった顔のロナはそのまま何も言えず口を閉じたままだった。
 前線駆除班の待機室を覗けば、先日医療班で手荒い処置を受けて悲鳴を上げていたエリック・シードの姿が見えた。彼の処置を担当したのはヴォイド・ホロウ。ロードがこっそり財布に忍ばせていた写真の人物で、おそらく彼の最愛の人。あの深海に沈む途中の様な色彩の瞳を持つ女性は、岸壁街の出で犯罪歴もありながら誰かしら何かしらに必要とされている。
 私みたく、ちょっとした事で居場所を失う様な危機感をきっと彼女は抱いた事は無い筈だ。
 ぐるぐると頭の中が色んな考えで埋め尽くされる。不快。気持ち悪い。吐き気がする。お腹が痛い。
「お、おい!君大丈夫か…!?」
 そう言って伸ばされたロナの手を掴む事も振り払うことも出来ず、クロエは喉の奥を突かれた様なせりあがる何かを感じ思わずその場で耐え切れず嘔吐する。何とか吐瀉物を避ける様に身を捩ったものの、体から力の抜けるまま床に沈みそしてそのまま意識を手放した。

 * * *

 薬品の匂いが充満している。何か、昔虫歯になった時連れて行かれた歯医者さんがこんな匂いでちょっと嫌だったのを思い出した。嗅ぐと緊張してしまう様なそんな匂い。決して臭いと言うわけでは無いが、良い匂いというわけでも無い。そんな事を思いながらゆっくり瞼を開ける。どうやらここはベッドの上の様だ。頭を動かしたクロエの目に一番最初に入って来たのはミアの姿だった。
「クロエちゃん!?」
「ここは…?」
「医療班だよ!クロエちゃん、前線駆除班のお部屋の前で倒れちゃったから」
 目が覚めて良かったー!と顔を綻ばせるミアの事がまともに見れない。何とかしないと、一人でもどうにでも出来る術を早く身に付けないと。私はミアの様に愛嬌があるわけでも、とりわけ優しく出来るわけでも無い。だから、情けを受けてここに残してもらうと言うのが難しいから何にしても結果を残さなくてはならない。こんなところで寝ているわけには行かないのに。
 無理矢理体を起こそうとした瞬間、クロエは下着と体の間に生温かい感触が走りぞっとした。そんな音立てて居ないのに、ぐちゃりと嫌な水温が走った気がした。一瞬顔を顰めてスカートを気にしたクロエをミアは見逃さず、ベッドのカーテンを少し開け外を見回すと人が少ないのを確認してから彼女を労る様に肩を撫でた。
「…クロエちゃん、ちゃんと生理来たのいつ?」
「……多分今、です…」
「どのくらいぶり…?」
「…二ヶ月…?いや、三ヶ月…くらい…」
 ミアはそれだけ聞くとうんうん頷きメモを取る。エル先生に言われてたからメモ取るね、と一言断りを入れて綺麗な字でサラサラと書き記すとクロエの手を優しく握った。
「頑張ってたんだね、クロエちゃん」
 本来の体のサイクルが止まってしまう程精神的に追い詰められストレスを溜めていた事を察してくれたミアにクロエは目を見開く。その時初めて、テロの起きた日からこれまでの間に抱え込んでいた想いや我慢して居たものがあった事を自覚した。
 悲しむのを我慢していた。自分の居ないところで全て奪われ、失くなって途方に暮れそれでも生きて行く為に次へと切り替えたつもりだった。大人を圧倒し、大人相手に交渉し、「子供らしく無い」と文句を言われる度一種の安心感に包まれる気がした。早く大人にならなければ。こんなところで弱音を吐いて居たらそれこそ「子供」のままだ。
 ──そう思って居たクロエの虚勢を溶かすようにミアは優しく寄り添った。触れた彼女の体は涙が出る程温かい。クロエの顔から険しさが消えた頃、少し嬉しそうにミアは笑った。
「体にこうしてまた出て来たって事は、クロエちゃんも少しは安心出来たって思って良いのかな…?人の体って本当不思議なんだなって色々知るたび思うんだ」
「そうですね…」
「私もまだまだ勉強中なんだよ!医療班にいるけどまだまだ知らない事多過ぎて、同じ一般の枠の中でもヴォイドさんやネビロスさんより動けない事も多くて……でもね、元気!」
 そう言ってガッツポーズをとりながら笑うミアにクロエもつられて笑ってしまう。まさか「まだまだ出来ない事は多いけど元気が取り柄です」と言われると思わなかった。同時に、ミアが居てくれるなら何だか自分もここできちんとやっていけそうなそんな心強さも感じた。彼女にはそんな安心感があるなぁとクロエは考えを改める。
 分からないから、合わなそうだから。そんな事で彼女を敬遠するのは勿体無いのかも。彼女の感覚は、自分が知らなかった美味しい話も嗅ぎ分けてくれそうだし。何より彼女の傍で妙な安心感を抱いたクロエは初めて会った時とは違う目で彼女を見て居た。
「クロエ?」
 カーテンの向こうで自分の名前を呼ぶ声にハッとする。ミアはクロエを見、着衣の乱れを少し直してやるとカーテンを開け声の主を招き入れた。それなりに大きいカーテンすらものともせず狭そうにぬっと頭を押し込めながら現れたのはシキだった。
「あー……大丈夫?」
「ええ、まあ…」
「何か…具合悪くなってゲロ吐いて倒れたって聞いたから」
「シキ君!?」
 デリカシーの無いシキの言葉に一瞬ミアが慌てたのが見えたが、そんな言葉でどうこうなる様なクロエでは無いので慌てず騒がず特に突っ込まずに居た。こうして落ち着いて居られるのは多分、ミアのおかげだろうなとも思う。彼女が色々と不器用な自分の分まで笑ったり怒ったり焦ったりしてくれるなら、何だかそれで救われる気がしたのだ。
「大丈夫です。ご迷惑お掛けしました」
「…え?…何で迷惑?」
「は?こう言う時にはこう言うもんでしょ?」
「え?んー…でも俺も兄貴も迷惑って思った記憶無いから…」
「社交辞令とか常套句とかあるでしょうが」
「…ああ、そっか。俺いつもそう言う言葉ちゃんと掛けられなくて兄貴に怒られるんだよね。社会人のマナーとして知っておいた方が良い言葉がありますって。すぐ忘れちゃうんだけど。クロエのその、「ご迷惑お掛けしました」に返す一般的な言葉ってあるの?」
 さも当たり前の様に「迷惑では無い」と言い切ると酷く真っ直ぐな、疑いも何も無い目でシキはそう聞いた。クロエも色々考えるが、言う側の言葉は知っているが言われる側の返しとして適切な文は聞いたことが無かった。
 迷って目線を逸らしていると、別に何か察したわけではなさそうだがどこまでもマイペースなシキはああ、と声を上げ思い付いた様に手をポンと叩く。そしてクロエとしっかり目線を合わせると、彼女の頭を優しく撫でた。
「無事で良かった」
「……は?」
「色々頑張ったね」
「………別に、大手術から生還したわけでも何でも無いんですが…」
「でも、クロエに大した事無くて良かった。俺もクロエも兄貴の舎弟仲間だろ?」
「なった覚えは無いんですが」
 素直にありがとうと言えないのが自分の至らないところだ。しかもシキはそれも分かってて受け入れてくれるから彼の前だと更にそれを助長させている気がする。逃げ場のないクロエは無茶苦茶な理論を盾にシキにそんな悪態をつく事で照れ隠しをするしかなかった。
 しばらくベッドに座り色々話して居たシキだが、その最中もクロエは気になって気になって仕方なくなってしまった事があった。いつのまにか一度席を外して居たミアが再び戻って来た頃、クロエの顔色はとんでもない事になっており、ミアはつい今し方ベッドに戻ってくる前に外で受け取った物をクロエに手渡す。
「ねえねえクロエちゃん、コレ…要るよね?」
「ええ…正直気になってました…」
「さっき話を聞いたロードさんが慌てて一式用意して渡してくれたの。クロエちゃんに、勝手に女性のタンスの中を漁ってごめんなさいって伝えてくれって」
「くそ兄さん…すぐ見付けるとか準備の良さ保健の先生かよ」
「え?クロエ、何それ」
 興味深げに顔を近付けるシキを手でしっしと追い払う様にジェスチャーすると、あからさまな不服の顔を彼は見せた。ああ、珍しいものを見たなぁとクロエは少し面白がったが、早く出て行って欲しいのでその旨を伝える。
「シキ、出てってください」
「いきなり何だよ」
「さっきから気にしてたんです。出てってください」
「だから、何で?」
「これに履き替えたいと言う事情です」
 手の中にあった替えのショーツを敢えて広げて見せるとその状況を見たミアがぶわっと顔を赤くする。そして数秒遅れて、今度は珍しくシキが茹で上がったかの様に真っ赤になった。
「え?そ、それ、え?何?」
「今さっき生理になったのにまだ生理用品を当てられていないので下半身が大変不愉快な状況です。このままじゃ色々汚して今度こそ迷惑になってしまうので出てってください。流石にあんたの前で下着を取り替える趣味はないので。こっちは一分一秒争ってたんですよ実は。あんたがわざわざ来てくれたと思ってすぐ出て行けと言いませんでしたが。ですがこのままでは私も流石に気分が良く無いので、なので──」
「わ、分かったよ!分かったから!」
 一気に捲し立てる様にそう言うとシキは珍しく真っ赤な顔のまま立ち上がり帰り支度を始めた。ただでさえ背の高い彼が珍しく高速で動くのでカーテンや金具に引っ掛かったりぶつかったり、さながらこの空間だけ大捕物の様で慌ただしい。出て行く際、まだまだ真っ赤な顔で目線を泳がせつつミアに「クロエの事よろしくね」と一言残して行く辺りが彼らしいなと思った。
「…ったく、さっさと帰れってんだ」
「良いの?クロエちゃん…」
「こっちはそれどころじゃ無かったんで。それに、シキとは後でもいつでもゆっくり会えますし。全く、別に遠方に居る訳でも普段会えない訳でも無いのに長居しやがって…」
「きっとクロエちゃんの事、心配だったんだよ」
「…ええ、なので後で戻ったらもうちょっと話をする時間を設けてやろうかな、と思いますよ」
 下着を入れるからか、中が見えない様に厚手の袋を用意してくれたロード。他にも何か入っていたので探ってみると、そこには小さなメモがあり、少し急いだ様な字で「早く元気になって下さいね」と書かれていた。
「ふふ、クロエちゃん皆に可愛がられてるね」
「望んでませんけどね…」
「えへへ。良いなー」
 落ち着いて立ち止まって、そしてゆっくり見渡してみればこんなにも損も得も抜きに気に掛けてくれる人はいる。シスターから昔言われたアドバイスを思い出しながら、ちょっとゆっくり周りと接していくのも悪くは無いなとクロエは思った。
 今日一番の収穫は、この何もかも正反対だと思っていたミア・フローレスと仲良くなれそうだと気付けた事か。
「これからスレ先生が来てくれるから、一応クロエちゃん診てもらおうね!多分、色々と強いストレスが掛かったんじゃないかって言ってたんだけど…」
「ああ…そうですか…」
「それで、この後少しお休み取った方が良いのかとか、色々体の事相談して…それで──」
 ミアは勇気を振り絞る様にぐっと力強い目でクロエを見た。
「──元気になったら、私とモビデに行こう!」
何でだ
「だ、だって友達と距離縮めるならモビデで女子トークとか恋バナかなぁ?って…」
 もじもじと伺う様にクロエに目線を向けるミア。彼女の屈託ない感じにとうとう根負けした様に笑う。緊張して距離を空けようとしていたのが馬鹿みたいだと思える程にきっと良い友達になれるのだろうとミアを見て確信した。
「はぁ…いつ行きます?」
「え?」
「先延ばしにするの嫌なんで、ミア・・との予定を先に入れてしまいましょう。そうしたら後から何か言われても、用事があるんでと断る事も出来ます。モビデだけで良いです?他に行きたいところは?」
「……あ、うん!えっとね、えっとね…他に行きたいところかぁ…!あ、ご飯も一緒に食べたいなぁ!」
 頬を赤く染めて喜ぶミアを見た時、クロエの胸の内をざわつかせたのは今まで感じた事のない感情だった。彼女を極限の場で見付けた安寧とも同志とも思えたからだろうか。
 弱っている時に差し伸べられた手はこんなにも温かく感じるのか。

「と言うわけで、今度ミアと出掛けて来ます。一日空けますがご心配無く。それから、スレイマン先生に診てもらいましたが、過度のストレスによる心因性のものでは無いかとの事でした。…この際暈さず言いますが、止まっていた生理も来ましたし少しずつ生活に慣れていく上でそのストレスも緩和されると思います。心配掛けました」
 クロエを自室に招き、紅茶を淹れていたロードは不意にされたその報告に一瞬目を見開くが、すぐに満足気に微笑むと彼女の頭を撫でた。
「…ミアさんと仲良くなれたんですね。良かったです」
 カチャリ、と音を立てて紅茶の注がれたカップがクロエの前に置かれる。
「…何故?」
「貴女はきっと良い友人を見付けられたんだと信じていますから」
「…そうですか…」
「せっかく得られた縁です、大事にするんですよ。成人している貴女なので下手な干渉は要らないと思いますけど、これだけは心配なので伝えておきます。出掛けるにしても女性二人だと思うので、気を付けて帰って来てください」
 そう言って読み掛けの小説(言わずもがなナラ下である)を読み直すロードをクロエは無言で見つめる。彼のズボンのポケットからは使い込まれた財布がはみ出て居た。それは彼の愛する彼女の写真を入れた物。
「…ヴォイド氏が精神的に落ち込んだ時にこそここぞとばかりに手を差し伸べてやったらどうでしょう?案外簡単にあんたに靡くかもしれませんよ?」
 自分がミアに心を開いた理由の一つに彼女が弱った自分に手を差し伸べてくれたからと言うのがあるのでそう伝える。ロードは予想していなかった方向から予想していない話題が出た事で珍しく紅茶で咽せた。
「あ、貴女いきなり何を言います…?」
「いや?私がミアに心を開いた理由にそんな感じもあったんで。兄さんもくそ面倒臭い遠回りしてないで決定的な距離の詰め方すりゃ良いのにと思っただけですよ」
「…クロエ、貴女恋愛経験少なそうなのに結婚は早いタイプと見ました…絶対男が出来たら連れてくるんですよ…?」
「嫌ですよ面倒臭い」
 ああ、保護者と言うかオカンと言うか何と言うか。
 シキ、ロードとの距離の取り方を掴み、ミアと言う友を得たクロエのストレスからの解放は凄まじい物だった。この日から彼女はあの鬱々した姿が嘘の様に総務部でも強気で突き進む様になったし、ロードの心配をよそに廊下で落ちる様に寝るまでふてぶてしくなった。
 ロード最大の危惧であるルーウィンとは彼女が廊下に落ちていた事から出会う。鉄壁のスカートのおかげか色気の無い出会い方をしたクロエにルーウィンは尋ねる。
「おーい、生きてんのか?」
 と。
 危うく再び医療班に運ばれそうになったところで彼の首に逆水平チョップの容量で突き刺した事で急激に仲が進展するのだが、それはまた少し後の話だ。