薄明のカンテ - I did it!/燐花
 ルーウィンは緊張していた。もうここ数日まともにご飯の味さえ分からない。そんな極限状態の中でもなるべく彼女に任せきりにせず、出られる時は自分も参加して打ち合わせをこなして来た。
 そして今、その集大成たる格好で目の前に彼女が現れるのを待っている。
「お待たせしました!」
 その溌剌とした声にルーウィンの背筋が伸びる。こう言う時、当事者以上にプランナーのテンションが高いと聞いていたが自分達の担当はまさにそのタイプで、興奮気味に紅潮した顔を携えたプランナーに連れられやって来る彼女は相変わらず鋭い眼光だが今日に限っては少し口元の笑みが柔らかい。
「お、おう…」
「…どうです?」
「ど、どうってそりゃ…き、綺麗…だよ…」
「チッ…こんな時くらいはっきり喋りやがれ」
 目の前に純白のドレスに身を包んだクロエが登場し、ルーウィンは思わず彼女をガン見する。十年近く経っても変わらず細身の彼女の体を包むのはあまり華美になりすぎない装飾のウェディングドレス。華奢な腕はレースの手袋で包まれているがデコルテは大胆にも露にされている。彼女の落ち着いたラベンダーの様な髪以外、全身純白と呼ぶのが相応しいその格好に息を呑んだ。
 しかしルーウィンはベールを頭に付けた彼女のメイクを確認するのもそこそこについつい胸元に視線を送ってしまう。それに気付いたクロエは不服そうに舌打ちするので我に返ったルーウィンは慌てて弁明した。
「どこガッツリ見てんだスケベ」
「ち、違うっつの!いや…それがさぁ、心配になるんだけど…」
「は?心配?」
「…それ、屈んだりしたら胸丸見えになったりしちゃわねぇの?」
 ルーウィンが指差して心配そうに見つめていたのはドレスの胸元。肩に掛けて装飾も袖も何も無いドレスだったのでしっかり着込んだ姿を今日初めて見るルーウィンはそれがどう言う理屈で胸元で止まっているのか分からず心配になったそうだ。ただぎゅっと締めているだけなのだろうか。だとしたら、前屈みになったりお辞儀で体を倒したりした際に外れてしまったりバランスを崩して胸元が露わになったりしないのだろうか。
 するとプランナーがくすくす笑いながら「ご心配無く」とルーウィンの背中を押した。
「中に専用のコルセットを先に着て頂いてまして、そこに引っ掛ける形でドレスは着用しておりますので滅多な事で着崩れる事は無いんですよ」
「そ、そうなんすか?」
「ええ!意外と硬いんです。何かありましたら私どもがフォロー致しますし、今日の結婚式存分に楽しんでくださいね!」
 気楽に気楽に、と言われてルーウィンは自分の顔が大変険しいものになっていた事に気付く。緊張しているとは言え、眉間に皺の寄った顔になっていたので思わず鏡を覗き込んだ。かつてマルフィ結社に身を寄せていた際、同僚である機械人形のアサギと行動した際付けられてしまった傷は消える事なくそこに残ってはいるものの、隣にいるクロエがこの傷によって嫌な顔をした事は一度も無いしある意味思い出と言うか本人曰く「男の勲章ってヤツっすね」だ。
 懐かしむ様に傷を鏡で見ていたらいつのまにか顔をベールで覆ってクロエは準備を完了していた。
「ではそろそろチャペルの方に向かいましょうか!」
「は、はい!」
 しかし、ルーウィンにはもう一つ懸念があった。クロエの希望で彼女を途中までエスコートする役を長年保護者代わりを勤めてきたロードが担うのだが、彼女を手渡される時どんな恨みがましい顔をされるか分からない。
「いくら何でも大丈夫でしょう。くそ兄さんもアレで今や立派に父親やってるんですから」とはクロエ曰くだが、今どんなに立派に父親をやれているからと言ってそれはそれ、これはこれな気がする。
「ま、まあ…流石に無いか…一応結婚自体は許してくれたし…」
 しかし、嫌な予感の方が的中し、式が始まってクロエの腕を取りながら歩いて来たロードはルーウィンを視界に入れると彼にしか分からない殺伐とした空気を発した。ルーウィンは一瞬だけ居た堪れず目を逸らした。
「……クロエに手を出したら殺します」
「……無理っす。結婚する前から言ってますがそれだけはもう約束出来ないっす」
「…では一億歩譲ってこの子を泣かせたら事故に見せかけて轢きます」
「クソ兄さん、こんな場で今更何言ってんですか」
 全くもう、と言いながらルーウィンの横に移動するクロエ。添えられていた手が自分の腕から離れていく瞬間をロードは寂しそうに切なそうに、けれど嬉しそうに見つめた後「まあ、もう観念してやりますか」と小さな声で呟いた。
 ロードも席に戻り、神父の言葉を聞いている間もルーウィンの気持ちは落ち着かない。これから誓いのキスだ。そう、誓いのキスだ。公開キスをしなければならないのだ。彼女とキスをする瞬間を来席者皆に見せねばならない。
 今更になって思う。何故俺は当時お世話になったお姉様方を呼んでしまったのだ。絶対あとで揶揄われそうだ。それこそ末代くらいまで。そして何故副長も普段面倒臭がる癖にこう言う時に限って来てしまうのか。幼かった自分達を知る人らが見ている前で公開接吻なんて実は恥ずかしい以外の何物でも無いのでは無いか。
 余談ではあるがロードの結婚式の時、彼は誓いのキスの際緊張で珍しく頭が真っ白になったのか見る間にどんどんキスがこう言う場でするものからもう「ここでナニをするのか」レベルの深い深いものに変わって行き、咄嗟にそれに気付いたクロエが「気付け代わりに」と持参したパチンコを使って(そもそもとして何故持参していたのかも不明だが)彼の尻の穴にピンポイントで豆をぶつけると言う嘘の様な出来事があった。
 しかし、あの時は彼を見て笑ったものだが今なら自分も分かる。この独特な空気に包まれた緊張感マックスの雰囲気が。彼が頭の中を空にして欲望のまま動きたくなるのも分からなくは無い。いや、自分はやらないが。
「あー…ルーウィンさん?」
 神父に片言のカンテ語で話し掛けられ自我を取り戻したルーウィンはまだ誓いのキスまで至っていない事に気が付いた。
「は、はい?」
「クロエさんを妻とし、愛する事を誓いますか?」
「あ、ち、誓い…ます」
「では誓いのキスを」
 ルーウィンの緊張を見て、頑張ってと神父はガッツポーズを取る。随分お茶目な神父だと少し気が楽になったがベールを上げたクロエの顔が目に入った瞬間緊張は最高潮に達してしまった。
 ど、どうしよう、どうしよう。誓いのキス…キスかぁ…。何とかクリアしなければと言う思いに囚われたルーウィンがぎこちない手でクロエの肩にやっと触れると、いきなりクロエが「チッ」と大きく舌打ちをした。
 そしてその瞬間、向こう脛に強烈な痛みを感じてルーウィンは思わずしゃがみ込んだ。式場で皆が唖然としている中、ドレスを重そうに引きながらもぐっと腰を曲げたクロエの顔が目の前に迫る。
「全く…」
 次の瞬間、胸ぐらを掴む様な仕草で豪快にルーウィンのタキシードの襟を掴むとグッと引き寄せ、クロエは少し角度を変えて顔を近付けちゅっと音を立ててキスをしたのだった。
「え」
「本当変なところあがり症ですね。キスくらいさっさと済ませてくださいよ」
「く、くらいって大事な事だろ!?って言うかお前、よくその重たいドレスのまま脛蹴ったな!」
「脛がちょうど私の蹴りやすい位置にあるもので」
「だからって何で蹴るんだよ!?」
「でも緊張は無くなったでしょう?」
「おかげさまで完全にな!!」
 ふっと笑ったクロエの悪戯っぽい顔が、悔しいけど今まで見た誰の笑顔より可愛い顔にルーウィンには見えた。

「私が足を出しやすい位置に脛がある。そんな体格にニョキニョキ伸びた貴方がいけない」

 一瞬呆けてその笑顔を眺めたルーウィンだがこのままでは男が廃ると思ったのか、改めてクロエの腰を抱くと自分の方へ引き寄せ、そしていつもより少し力を込めてキスをしてみせたのだった。

「クロエ…本当にお嫁さんになっちゃったねー…」
 その様子を見ていたシキがぼそりと呟く。彼の隣に座ったロードは少し寂しそうにそれを眺めていた。
「い、いや…私も結婚した以上人様の娘さん貰った身ですからね…そう言う意味では親が健在であろうが無かろうが立場は一緒…一緒なんですが…やっぱり駄目ですねぇ、保護者の立場と言うものは…」
 子供が泣き出したらいけないからとロードを残し、少し離れたところから式に参加している愛する妻と彼女にあやされるまだまだ物心付くか付かないかくらいの幼い我が子をチラリと見る。そしてまた溜息が漏れる。クロエでこれなら、自分の娘では一体どうなってしまうのか。
「……やはり、婚前交渉は原則禁止にしましょうか…」
「何言ってんの兄貴」
「キスも駄目です…新婚初夜まで肉体関係は全面的に禁止にしないと私の憂いは晴れません…」
「…そりゃ相手の男可哀想だね」
 兄貴は女の子に手ぇ出しまくってたのに、とシキが呟くと「それはそれ、これはこれです」と都合の良い言葉が返って来た。
「シキ、手ぇ出したら許しませんよ」
「いや、俺彼女居るし」
「彼女の背が小さいからってウチの娘と間違えたなんて言い訳通りませんからね…」
「いくら背が小さいからって彼女とチビ間違えたら俺の諸々の識別能力鳥以下じゃん」
「お前が見張っているにも関わらず他の男に手ぇ出させたら許しませんよ」
「許さないの範囲急に広過ぎない?そんで俺の負担大きくない?」
 そうこうしている内に滞り無く式は進む。クロエは最後にロードへの感謝の手紙を読むはずだったが、何故か手紙を失くすと言うアクシデントが起き、最終的に「特に言う事が無いです」で締めようとしてプランナーが慌てふためくと言うハプニングに見舞われた。そんな中で笑いと共に終了した結婚式。
 お色直しでオレンジビタミンカラーのカラードレスを選んだクロエにルーウィンは尋ねた。ラベンダーの色の方が似合いそうなのに何故その色にしたんだ?と。間髪入れず「貴方の髪の色じゃ無いですか」とクロエに答えられ、ルーウィンは身悶える程照れたのを思い出していた。
「なあ、もう脱ぐのか?」
 式が終わり、ホテルの部屋に戻ったクロエはルーウィンの目の前でドレスを脱ごうとホックに手を掛ける。着脱の手伝いに来ていたスタッフがルーウィンの言葉に気付くと、脱ごうとしていたクロエの手を止め、ルーウィンとクロエを立たせた。
「お写真、せっかくだからお二人だけで、このお部屋で撮られますか?」
 ニコニコしながらそう言うスタッフにルーウィンは微笑みながらお願いする。クロエは先程までの式での堂々とした感じが嘘の様に顔を赤らめていた。
「な、何て顔してんだよ…」
「だって…まだ私に着てて欲しいって言ってくれた様な気がしたんですよ…」
 そんなクロエの言葉にピンと来たルーウィンは、恥じらいながらもどんな言葉を彼女が期待しているのか察した。そして写真を撮ってもらった後、赤らめる彼女の顔を優しく手で包むと
「着てて欲しいと思ったよ。綺麗だから」
 と普段照れて言えない様な言葉を呟いてキスを零した。


 …と言う夢を見てルーウィンは飛び起きる。
 この後、まだ現実には独り身で結婚する様子もないロードの顔はまともに見れなかったし、彼女が居るかのように話していたがそもそも恋すらした事があるのか謎なシキの事もまともに見れなかったし、渦中の人であるクロエの事は見るどころか名前を聞くだけでしばらく照れてしまう事になった。
「え?何?何?ルーったらどうしたの?」
 そんなルーウィンの様子に気付いたバーティゴはクロエを避けている様な彼に不審そうに声を掛ける。ルーウィンはボソボソと呟く様に話をしたが、結局聞いている側は彼がクロエを夢に見た程度の事しか把握できず何故ここまでルーウィンが照れているのかまるで分からなかった。
「そ、その夢がっすね…ちょっと照れる様な夢で…」
「へぇー…ルー君が照れてしまう夢なんて意外ですねぇ…しかもマーシュさんもチェンバースさんも私達もなんて、皆さん勢揃いでらっしゃるなんて…」
「あ、あんま聞かないで欲しいっす…」
 すると、何か思い付いた様にぽんっと生身の手で生身の足を叩いたバーティゴはキラキラした顔でルーウィンを見る。
「あ、分かった!!」
「何すか?姐さん」
「淫夢か。きっと淫夢でしょ?淫夢でも見たか。そんで起きたらパンツにアレが──…」
「こら、小隊長」
 最終的にバーティゴがジョンに口を塞がれ怒られた事でルーウィンはこれ以上話さなくて良かったと言えば良かったのだが。あまりにも願望が詰まり過ぎてそう言う意味で恥ずかしい夢なんだよ、とルーウィンは口に出せない理由を噛み締める。願掛けではないが、口に出したら叶わない気もしてそれで言えない感覚があったのだ。皆が話題に飽きて部屋から出る時、最後にぽそりとルーウィンは呟く。
「…ただのインム?ならそっちのが多分マシっす…」
 そして改めて「インム」の意味を調べたルーウィンの心に追い討ちの羞恥が掛かったのは言うまでも無い。