薄明のカンテ - Fish where the fish are./燐花

水を得た魚達

「ウルちゃん!プールが使えるわよ!」
 テディやシキと喋っていたと思ったらウキウキと来て早々そんな事を口にするシリル。ウルリッカはピコンとポニーテールを揺らし、その黒目がちな目をシリルに向けた。
「プール…!?どこで…!?」
「前に前線駆除班うちで片付けの手伝いとパトロールを請け負ったラシアスの温水プール!プレオープンに関係者への御礼って形でお呼ばれした中に結社も入ってるんですって!」
「本当…!?」
「ええそうよ!残念ながら調達班の子達は今聞いたらちょっと仕事と重なっちゃうって言うんだけど、ウルちゃんはどう!?誰か誘って行ってみない!?」
 何だ、シキは来ないのか。ウルリッカは密かにテンションを下げたが、それなら正式にオープンした後にでもまた日程を合わせて来れば良いわけで。
 シキやテディが駄目と聞き一番最初に兄であるアルヴィの顔が浮かんだものの、素直にそれを実行しないのがウルリッカである。だって何だかその理由でアルヴィを誘ったら彼は、例えるなら数百年に一度しか咲かない花をやっと見付けたみたいなとてつもない喜び様で絡んでくると思うのだ。だから一度アルヴィを候補から除外する。アルヴィこそプレオープンに一緒に行かなくても時間は合わせられるのだから。
「ご、ごめんなさいウルさん!私…その日はヴォイドさんと一緒にフユちゃんとアキ先生に勉強会してもらう予定で…!二人とも忙しくてやっと取ってもらった時間だから…!」
 そう思ってミアに声を掛けるも、ミアはその日は一日仕事で忙しいのだと言う。気にしないで、と言いながらも断りを入れたミア自身とても残念そうな顔をしたので、ウルリッカはまたいつか一緒に行こうと心に決めた。ミアの断りで図らずもヴォイドが空いていない事も知ってしまった。
 次に会ったのはギャリーとセリカだったので二人同時に誘ったのだが、セリカは休みだったもののギャリーが仕事。あ、と思った頃には時既に遅し。ウルリッカの目の前にはギラついた目のギャリーとその視線を一身に受けながら溜息を吐くセリカが居た。
「……ああ…セリカは今回は遠慮しておきますぅ」
「セリカちゃん!へぇ何でだや!?」
「いや、多分ギャリーがそんな感じだからだよ」
 セリカが行くならば仕事を蹴ってでも絶対に着いて行くと言う勢いだったのでセリカは静かに「行かない」と口にした。ウルリッカもそれは納得だった。
「ギャリー、駄目だよ。お兄ちゃんの胃に穴空いちゃう」
「あらぁ、それは困っちゃいますよねぇ」
「ううっ…!アルヴィの胃も大事だけど見てぇ、見てぇよ…!プールとセリカちゃんと水着…!仕事なんてさ…仕事なんてさぁ…!!」
 本気で悔しそうにぶつぶつ文句を言うギャリーを押し込む様にセリカは背中を押す。そして再度ウルリッカを見ると、珍しく眉をハの字に、困った様な顔を浮かべた。
「…そう言うわけですのでぇ…」
「うん…大丈夫、分かった」
「申し訳ないですねぇ…」
 調達班の友達は駄目。ミアもヴォイドも駄目。セリカもギャリーも駄目。ウルリッカは選択肢が狭まっている事をひしひしと実感した。
 残念ながら狩猟仲間のヘレナを誘わなかったのは、同じ前線駆除班で支部勤務な日を把握してしまったからである。今度釣りに誘おうと彼女の支部行きを把握していたのでヘレナの予定が見事に被っていた事に気付いてしまった。
「と言うわけだから…お兄ちゃん、行こう…」
「う、う、う、ウルちゃん!?いや、あの、全然嫌じゃ無いって言うかそんなそんな…!僕が嫌な筈ないんだけど…ウルちゃんと水浴びに行くなんて子供の頃以来だよね!また競争したいな…!」
 案の定な大興奮にウルリッカは少しだけげんなりする。せっかく外で出来た友達とお出掛けに行けると思ったのに、何が悲しくて子供の頃の様に兄とプールに行かねばならないのだ。
 とは言え、ウルリッカはアルヴィが嫌いなわけではないしプールに行けると思ったら楽しみで楽しみで友達を誘えなかった悔しさなど忘れてしまった。
 しかし、ウルリッカ以上の悔しさを抱えた人物が彼女達のすぐそばに居た。
「あらやだぁ……せっかく可愛い子達の水着コーデ考えてたのにぃ……」
 もしもミアが、ヴォイドが、セリカが、ヘレナが、ウルリッカと一緒にプールに行く予定を立ててくれたなら。この子達のスタイルを引き立たせられるコーディネートをシミュレート出来たのに。シリルはそう思った。
 別に彼女達を羨望の的にさせ結社を見る世間の目をプラスに変えようだとかそんな大それた理由は無い。ただただ「その方が面白そう」だったからやりたくなっただけである。
 プールまで来て入り口で結社メンバーである事を伝えると国民コードの提示をする。残念ながらシリルは潜水型では無い為耐水の面からプールは禁止、そしてそもそもとして無性型である事と機械人形の眼球部分に小型カメラを仕込んでの隠し撮りと言う犯罪の事例が過去にあった為に更衣室への出入りも禁止となった。ウルリッカはそれを聞き、仕方ないと思いつつも不服そうに口を尖らせた。アルヴィは少しだけ仕事出来ていると言う認識も芽生えたのか、少しだけ仕事口調で職員に声を掛けた。
「あの…僕らは大人で来ているから問題ありませんが、例えば今回のテロでお父様、お母様しか居ない子ってどうなるんでしょう…?お子さんが親御さんの性別と違う、けどまだ見ていないと危ない年齢ってあるじゃ無いですか」
「そうですね…現時点ではまだ…例えば保育士や教師などの付き添いと言うのが一番現実的ですが、そうなってしまった御家族が本当にご家族だけで来られた場合は少し難しいですね…一応、職員は常に監視していますし一言申し出ていただければ個別に対応する事も考えていますがそこに割ける人員には限りがありますので。以前の様に機械人形の情報登録を速やかに、悪質な改造の有無がすぐに判断出来る状況であれば或いは…」
「なるほど…」
「あんな事がありましたけど、皆が楽しめる様に。そう言う意味でもカンテ国には機械人形が居ないとやはり不便な面は多いですね」
 テロが起きて尚機械人形との共存を掲げる結社を奇異の目で見る人や団体は多い。しかし、ラシアスのプール施設には待合場所に充電ボードも完備されている。自分達が呼ばれた理由、そして自分達が何を求められているかを理解し、アルヴィとウルリッカは決意を新たにとりあえず更衣室に向かった。シリルは一人、待合室の充電ボードの乗り心地を確かめていた。
 更衣室に入ったウルリッカは「これが集落コタンと違う街の施設か」と少しだけワクワクした。更衣室なんて集落の学校以来だ。あの頃は恥じらいもなく素っ裸で走り回っていたが、この様にロッカーが並びきちんと着替える場所として在られると身も心もお上品になった様な気になる。プレオープンと言う事もあって人も少ないが、きっといつか賑やかにたくさんの人がここを利用するのかもと思うとほんの少しだけウルリッカは頬を綻ばす。この日の為におろしておいた迷彩柄のタンキニ水着に着替えるといつもポニーテールにしてる髪の毛をお団子に結い、プールに飛び出して行きアルヴィを探した。
「ウルちゃん!」
「お兄ちゃん!」
 二十五メートルプールの縁でアルヴィは準備運動をしていた。波のプールや流れるプール、スライダーもあるのにスタンダードなプールでまずは泳ごうと言う辺りがアルヴィらしい。ウルリッカは一言「後で波のプール行こうね」と呟き、一緒になって準備運動を始める。
 こうして居ると昔に戻ったみたいで何だかテンションが上がる。同時にいつも少しよそよそしい兄への態度も軟化していたのか、アルヴィがやたら嬉しそうに微笑むのでウルリッカはそれにハッとする度少し我に返ったりまたテンションを上げたりした。
「あ、お兄ちゃん。あの人見て」
「ちょ、ちょっとウルちゃん、人を指差しちゃ…わぁ、凄い」
 そんな二人の目線の先に居た男性。所謂フィットネスウェアと言うスタイルの水着で、アルヴィの履いている海水パンツより更にシュッとしたイメージだ。サーファーやライフガードが着ていそうな水着にスイムキャップ、そしてミラーレンズのスイミングゴーグルと言ういかにも出来そうな人だった。
 ウルリッカとアルヴィは自分達が泳ぐのも忘れて静かに見入った。
「今日プレオープンだよね…!?もしかして気にしてなかったけど、有名人とか来てたりするのかな…!?」
「え?そうなの?」
「だ、だってウルちゃん、プレオープンだよ?ご招待なんだよ!?冷静に考えたら…一般に来れない様な人がお呼ばれしてても不思議じゃ無いよね…!?」
「じゃあもしかして、有名な選手とか…?」
 二人の視線を全く気にも止めず、その男性はすっと体を真っ直ぐ伸ばすとプールの中に飛び込んだ。
 そして、二人とも気付いてしまった。
「……ん!?ちょっと待って…本当に?」
「あれ…?」
「本当に上手い人…なのかな?」
 飛び込み前の姿勢は綺麗だったが、飛び込んだ瞬間物凄い勢いの波が生まれた。これは感覚の話だが、着水が下手な人程飛び込みの際波を大きく立てる。水の抵抗無く綺麗にスッと飛び込む人の入水時の波は穏やかだ。しかし、この男性の飛び込み時の波の勢いは凄かった。どころか飛び込んだ瞬間叩きつける様な大きな音まで響いたのだからウルリッカとアルヴィの疑惑は確信に変わる。
 その内二人は気が付いた。飛び込みまでは見届けたが、その後男性は水面に顔を出さない。
「え?あの男の人…?」
「上がって来ないね…」
 潜水でもしているのだろうか。実に三十秒近く顔を出さなかった男性。一体どこを泳いでいるのだろうか。二人が疑問に思いながら見ていると、飛び込みからわずか数メートルの地点で男性は豪快に顔を出した。
「ん…?」
「溺れてる…?」
 顔を上げた男性は手をバタつかせ溺れている様に見える。あっぷあっぷと水面スレスレに上がる口は空気を取り込めているのか居ないのか、そう思うくらいには溺れて見えた。
 気付けばウルリッカもアルヴィもプールに飛び込んでいた。男性目掛けてクロールで素早く向かうとアルヴィは右を、ウルリッカは左の手をほぼ同時にがしっと掴む。
「だ、大丈夫ですか!?」
「平気?水飲んだ?」
「へ?水なんて飲んでませんけど?」
 男性はキョトンとしながら涼しい顔で立ち上がった。すると、ウルリッカを目にした途端に男性の顔が何かに気付いた様に歪む。
「あれ…?」
 ウルリッカも野生の勘なのか、キャップとゴーグルに覆われた顔をじっと見たまま固まった。
「狐さん…?」
「ウ、ウルリッカさん…!?」
「え?知り合い?」
 キョトンとしたまま見つめ合うウルリッカと男性。さて何処の馬の骨だろうかと緊迫した瞳でアルヴィも見つめる。そして彼は何かに気付いた様に「あっ」と声を上げた。
「え!?マ、マーシュさん!?」
 溺れ掛けていた様に見えた男性──もとい人事部のロード・マーシュは居た堪れなさそうにゴーグルとキャップを外した。

魚心あれば…?

 バシャン、バシャン!と音を立て、しかしそこまで派手に飛沫を撒き散らさず綺麗なクロールを繰り広げる女性。彼女は良い頃合いでフーッ、と呼吸を整えながら片足で・・・立ち上がると、再度力を抜き今度は緩く背泳ぎを始めた。
 そんな彼女を目にした人間は大体二度程ギョッとした顔になる。
 一度目は彼女のスタイル。プールに浮かぶダイナマイトバディなんて目にしたらギョッとしない方が難しい。二度目はそんな彼女の体をまじまじと見た時。右手、左足が欠けている事に気付いた者は、大概その姿に驚くものだ。しかし、彼女は自分のその姿を隠す様な事はしない。
「お姉様ぁ…泳ぐの早いですぅ」
 流れるプールの流れるスピードよりも早い彼女を追ってセリカが浮き輪に捕まりぷかぷか浮きながらやって来る。彼女──バーティゴはセリカの姿を捉えると健在な手と足を器用に動かし浮き輪に近付いた。
「んふっ。やだぁ、セリカったらちゃんと楽しんでるー?」
「楽しんでますよぅ。でもそれはそれとしてお姉様早過ぎですぅ。もぅ…今日セリカはお姉様の介助の名目で来てるんですからそんなバシャバシャ泳いで遠くに行かれると…」
 注意をしているセリカの方へ軽く蹴伸びをしたバーティゴが距離を縮める。バーティゴはブレーキを掛ける気は無いらしく、セリカの胸元に飛び込んでくると焦点を合わせようとしているのかギュッと眉根を寄せてセリカの姿を見た。
「んー…思った通り!やっぱりビキニ似合うじゃない!ワンピースタイプも良いかと思ったけど第一印象で可愛いと思った方にして正解ね!」
「お、お姉様ぁ…!恥ずかしいですよぅ…」
「いやー、セリカはおっぱい大きいから似合うと思ってたわ!眼福眼福!」
「お姉様ったらぁ…!」
「ん…セリカのスタイルならマイクロキニとかでもイケちゃうんじゃない!?今度あの赤茶と来た時にでも着てあげなさいよ!」
「お姉様!!」
 真っ赤になりながらもセリカの頭の中に浮かんだのは焦茶色の優しい瞳。もしも彼と一緒に来たら、こんな風に水着を着てはしゃいでいる自分を見て彼は何と言うだろうか?はしたないからと文句を言う様だったらどうしよう?それとも、受け入れて褒めてくれたりもするだろうか?彼は誰に対しても褒め上手だから。
「『セリカちゃん、可愛いよ』」
「っ…!?」
「なーんて言いそうよねー、アイツ」
「お姉様ぁっ!もー!セリカを揶揄うのは駄目ですぅ!!」
 ギャリーの真似のつもりなのか、いつもより少し低い声でそう言い揶揄うように笑うバーティゴ。セリカは珍しく大きな声を上げた。
「ミカナギさーん!ブリノヴァさーん!」
 そこに溌剌とした元気な声。二人が振り返るとタイガとヒギリが人数分の飲み物をトレーに持ってやって来た。
「そろそろ上がって少し休憩しましょうよー!水分補給は大事ですよー!」
「あら!気が利くわね黄色っぽいの!」
 タイガとヒギリ、比較的幼い顔立ちの二人が並ぶとまるで中学生のデートである。バーティゴはそんな事を考えながら、セリカの手も借り慣れた様に片手と片足を使い器用にプールから上がる。セリカも浮き輪を回収するとすぐに上がり、バーティゴの為の車椅子を持って来た。
 たまたま調達班がプールの話をしていたから。それであれよあれよと言う間に遊びに行く流れで話がまとまったある日の食堂。エミールが予定があると言って行かない意向を示したのでタイガも遠慮しようかと思ったが、行きたかったのか随分としょんぼりした顔をするヒギリを見たらそうも言えなくなってしまった。
 せめてノエが一緒ならとそう思い彼と言う保護者を連れて行くつもりが、マルムフェ兄妹が連れて来たシリルと同じ理由でノエの入場も断られてしまい予想外にデートの様な流れになってしまった。しかもタイガは過去に青年誌のカラーグラビアで一度だけヒギリの水着姿を見た事がある。他のローズ・マリーファンを出し抜いてしまった様な、そもそもとして好きな子の水着を初デートに拝むだなんて刺激が強過ぎるのでは無いかと頭を抱えていると練習場で見知った間柄であるセリカと合流し幸いにも一緒に行動する事になった。
 もっともセリカが連れて来たのはバーティゴで、正直タイガは彼女を苦手としていたから極力結社では関わらない様にしていたし、女やもめに花が咲いている中男一人紛れ込んでしまった様な形にもなったがそれでもタイガは少しホッとしていた。
 タイガの見つめる先でフリルのたくさん付いたセーラー服の様なデザインの可愛らしい水着を着ていたヒギリが視線に気付きふっと微笑む。嬉しくなって思わず微笑み返すが、まだ度胸も備わっていないのにデートの様に二人きりにならなかった事にタイガは少しだけ胸を撫で下ろした。

 * * *

「とにかく、私のどこが溺れていたんでしょう?」
 キョトンとした顔から一変、訝しげな表情を浮かべるロード。ウルリッカもアルヴィも何と言ったら良いのやら、ロードに掛ける言葉を探しあぐねていたが、意外にも先に口を開いたのはロードだった。彼は観念した様に溜息を吐くと、見た事のない様な深い眉間の皺を抑えた。
「…すみません、泳ぎが下手なのは自覚しています…」
「あ、自覚あったんだ」
「う、ウルちゃん!失礼だよ!?」
「水着と言いゴーグルと言い、装備は万端にするんですよ…しかし、どうもフォームが下手らしくてですね。誰かに見られるのも嫌だったのでプレオープンに来ました」
「そうだったんですか…」
「準備万端にするのもですね、知り合いに会っても重装備でいれば私だとバレないと思いまして…まぁ、ウルリッカさんにはバレましたが。普段の私の雰囲気から想像出来ます?破滅的に泳ぎが下手くそなんて…」
「ない…」
「でしょう?人の期待と外れる事、苦手なんですよ」
 そう言うロードは昔の事を思い出してか顔を歪める。自分の事を客観視出来るからこその弊害なのだろう。二人は静かにそれを見つめていたが、やがて顔を見合わせると何かを決意した様にうんと頷き合った。
「狐さん、私たち泳ぎ得意だよ?集落コタンでは山を通る川は子供達の遊び場になってるし、アル兄は私の泳ぎの先生なの」
「…そうなんですか?アルヴィさんが?」
「意外ですか?でも、僕も得意ですがとにかくウルは筋が良いんですよ」
「まあ、泳げなければ山で死ぬだけだから」
「そうそう、僕ら爺様達に扱かれたからねー。『生きろ』って」
あなた方はどこの修羅の国から来たんですか
 ツッコミを入れたロードではあるが、ウルリッカとアルヴィの口振りからも泳ぎが上手いのは確かなのでは?とハッと気付く。今日はプレオープン。結社で見掛ける家族連れも何回か見たが幸いウルリッカにバレたくらいで声を掛けられたりして居ないからおそらくバレては居ない。
 このタイミングで二人から泳ぎを教わるのが一番無難なのでは無いだろうか。
「……マーシュさん…?いくらマーシュさんでもそれ以上視線を向けたら僕は許せなくなると思います…」
「え?」
 その時、ロードが目の前のウルを認識すると、彼女は迷彩の可愛い水着に普段とは少し違うお団子に結いた髪型で佇んでいた。シキは可愛いものが好きだしお団子を珍しがってこの場に居たら手でホワホワ触っていたろうと思いふっと微笑む。しかし、アルヴィには違う風に見えたのか、彼の刺す様な視線は増すばかりだ。
「マーシュさん…?」
「いえいえやめてくださいよアルヴィさん、貴方の大事な大事なお可愛らしい妹君をそんな破廉恥な目で見るわけないじゃないですか。それに私はもう少しこう、たわわに実ってる方が好みです」
 にこにこと努めて笑顔でロードは言う。アルヴィはそれを聞くと目に宿っていたどす黒い炎を一度鎮火した。
 妹の事は自分が一番よく分かっていると言う自負がある。妹が所謂「たわわ」でない事も、だから可愛いんだと言う事も自分が一番よく分かっている。そして、ロードはそんな妹はそう言う目で見ない。「たわわ」な方が好きなのだとそう言った。
「そっか…たわわ…」
「…よく分かんないけど、果物はガッツリ実ってくれてた方が良いよね」
 熱烈過ぎる山神マニアであるアルヴィが居る手前女性の胸をカヌル山に例える事を避け、アルヴィには通じるがいまいちウルリッカに伝わり辛い言葉を使う事でアルヴィの怒りだけを効率良く鎮める。目論見は見事成功しロードはほくそ笑んだ。そしてタイミングならば今だと言わんばかりにアルヴィとウルリッカに頭を下げる。
「…時にお二方、折り入って相談があります」
「何ですか?」
「私に綺麗な泳ぎ方を教えてもらえませんか?昔から泳ぎが苦手でスピードも出なければパワー消費の凄まじい慣れない泳ぎ方しか出来ないんですよ、私」
「狐さん、学校で習わなかったの?」
「……学校は…私も昔はサボり癖がありましてね。よくサボってたもので」
「ギャリーみたいだね」
「今からでもきっと遅くないですよ!マーシュさん!やる気があれば綺麗に泳げますって!」
 アルヴィとウルリッカが快く承諾してくれたのでロードはホッと胸を撫で下ろす。実際は幼い頃岸壁街でまともな教育機関に行っていなかったから触れる機会がなかったのだが。
 誰に泳ぎを披露する予定も無いが、先のテロで岸壁街が崩落した事は聞いていた。その時、瓦礫の崩落と共に海に投げ出されて波に攫われそのまま力尽きた人が大勢いた事も。愛しい彼女の安否を確認するまであらゆる最悪を想像した。その中には崩落に巻き込まれて怪我をした上での溺死もあった。もし同じ様な状況下になった時、自分が彼女を守れない様では困る。
「ではよろしくお願いします、先生方」
「はい!任せてください!」
「私も教えるよ」
「うふふ、心強いです」
「じゃあまずはマーシュさんが現状どのくらい泳げるのか見せてくださいね。大丈夫ですよ、クロールはぐっ!ぷはぁ!がしがし!って感じで泳げば何とかなります」
「ん?」
「そうそう、平泳ぎもぐわっ!すぃ〜、ぬるんっ、ぽんっ!て感じで手と足動かせばちゃんと進むよ」
「ウルちゃん…ひ、平泳ぎはぐわっ!すぃ〜、がばっ、すぃ〜の方が良いんじゃない?」
「…そう言うならアル兄だって。クロールはピシ!ガシ!グッグッ!の方が良いもん」
「………」

 しまった、感覚的に会話するタイプだったか。
 ロードはきっとこの二人は大変泳ぐのが上手なのだろうとはすぐに気が付いた。だが、教えるのはもしかしたら下手なのかも知れないともすぐに気が付き「教わる人を間違えた気がする」と言う言葉を飲み込みながらどこか遠くを見つめていた。
「ぐわ!も、ぬるんっも、ピシガシグッグッも今の私には全然分かりませんが…」
 辛うじてでたその言葉。言い合ってる二人には届かず、波のプールの寄せては返す波に攫われた気がした。

しかし水心ならず

「では、ちょっと泳いでみてください」
 アルヴィに促され、ロードはプールサイドにすっと背筋を伸ばして立ち上がる。ここまでは出来る人の佇まいだ、ここまでは。
「ここからなんだよなぁ…」
 アルヴィのボソリとした呟きにウルリッカもうんうん頷く。ロードはチラリと二人を見るとゴーグルを掛け「行きますね」と声を上げた。
 ドボン!と勢いよく体を沈めるロード。「あ、もうダメなやつじゃん」と認識するアルヴィとウルリッカ。何だか余計な力が入っているロードは水中に潜ると言う動きただそれだけで『不得手である』と二人に認識させた。
「狐さん…」
「うん…いかん泳ぎ…」
 アルヴィはかつて泳ぎ始めの頃爺様に言われた事を思い出す。そのくらいロードは本当に、何がどうしてこうなったのだろう?と思う程には泳ぎが下手だった。
 クロールの筈なので息継ぎの際には顔を手に沿わせ横にするだけで良い。後は息を吐けば勝手に入ってくる。しかし、ロードの中の呼吸の概念がそうさせるのか、彼は酸素を追い求める事に貪欲な様だ。地上と同じ様にしっかり酸素を吸う事を呼吸だと認識しているのか、そうやって吸おうとして顔を上げてしまうので代わりに腕が沈んでしまう。そしてその沈む腕に慌ててもがこうとして大掛かりな水飛沫を上げる様な手の動きをさせてしまう。つまりはオーバーな犬掻き状態である。
 本来泳ぎの不得意な人はそこですぐに足を着いて立ち上がってしまうから分かりやすい。しかし、ロードの強靭な体力なのか彼の負けず嫌いな面から来ている気力なのか。この状況でバタバタ泳ぎ続けようとする為傍目には溺れて見えるのだと言う事に二人も気が付いた。
 よくもまあ、そんな状況でここまでもがいたものである。ロードは、アルヴィとウルリッカならばプールの端まで行ける時間をそのままの姿でもがき続け、やっと体力が尽きて来たのか足を着き立ち上がった。
「ふぅ……おや?たった数メートルですか…」
 この時間、傍で見ていたアルヴィとウルリッカに大量の水飛沫を掛けまくった張本人は何がどうしてあの泳ぎで悔しがれるのか、あれだけもがいてたった数メートルしか泳げなかった己を恥じた。
 しかし、アルヴィとウルリッカからしてみればそれ以前の問題だった。
「今の、クロール…?」
 素直な疑問をウルリッカはぶつけた。
「え?クロールですけど?」
 さも当然と言わんばかりにロードは答えた。
「……つ、次、平泳ぎお願いします」
 現実を直視しない様にしてアルヴィは先に進めた。
 呼吸を整えるとプールを上がり、またしても飛び込みから始めたロード。何が彼をそうさせるのか、何故飛び込みから始めようとするのか。後に聞いたところロードは「だって…飛び込まないと人間水の中では進めないじゃないですか」と答えた。それは貴方だけだとアルヴィは勿論思った。
「…アル兄、どう思う…?」
「いかん泳ぎ」
 手の掻き方は先程の「犬掻きクロール」と然程変わらない。むしろ平泳ぎな分今度は顔を上げる事が目的になるのでこの体勢は取りやすい様だ。しかし、足の蹴りは矢張りというかあまり上手く無い。平泳ぎのちゃんとした蹴りのポーズでは無く最早なり損ないのドルフィンキックになっているがそれをしたところでどんどん水底に沈んでいくばかりだ。ズン、と重低音が響くと先程のクロールよりも早くロードは足を付いた。
「痛たたたた…何故か平泳ぎすると膝が付くんですよねぇ」
「狐さん、普通膝付くほど沈まないよ」
「予想以上に酷い…」
 所謂「何でも出来る」ロードを想像しているとこの泳げない彼とイメージの落差は酷い物だろうと思った。勿論それは見ている側が勝手にそう判断するだけと言う話だが、だからこそロードが恐ろしがる理由も分かる。しかしここまで酷いと一体どこからどうしたものか。むしろ化け物並みの体力がこの泳ぎでの長距離移動も可能にしているのなら下手に弄らない方が良いのだろうか…!?
「お兄ちゃん…」
「ウルちゃん…?」
「狐さん…あの無駄ばかりの動きであんなに泳げるんでしょう?もしもお兄ちゃんと私でちゃんと教えて、ちゃんとした泳ぎ方覚えたら…」
「うん。元々の体力もあるし、選手みたいになれるかも…」
「クロールも全然ピシ!ガシ!グッグッ!ってなってなかった。平泳ぎも今はゴソソッ、ゴンッて感じだけど、もしちゃんとしたフォームを覚えたらきっと化ける」
「そっか…そうだね…!でも、いくら可愛いウルちゃんでも僕は平泳ぎにはぐわっ!すぃ〜、がばっ、すぃ〜を推したいよ」
「え?やっぱり平泳ぎはぐわっ!すぃ〜、ぬるんっ、ぽんっ!だよ」
「うーん…僕の感覚ではぐわっぱ!ぐわっぱ!なんだよね…がばっ!はどっちかって言うとバタフライじゃないかなぁ?」
 そんな不毛な言い争いをしている兄妹の見ている前でロードはバタバタ動きながらぶくぶく沈んでいった。何故平泳ぎに挑戦して足からお尻からどんどん沈んでいってるのだろう?マルムフェ兄妹はそう疑問を持つ事も一度諦めた。
「ところでマーシュさん」
 一度プールから上がり息を整えているロードにアルヴィが声を掛ける。いつもの「はい?」と言う返事すら返せない虫の息なロードがとりあえず視線だけ彼に向けると、それを察してアルヴィは話を続けた。
「マーシュさんは…どのくらいの事が出来る様になりたいんですか?練習するにしても青天井でゴール無く、だと目標を見失ってしまいますから、とりあえず今日のところはでも良いんで何か掲げませんか?」
「はぁ…なるほど…そうですね…プールの端まで行ってターンでしょうか…」
目標高過ぎ無いです?
「でも…水中でくるっと回るの憧れるんですよねぇ…十代の頃、陸上ではもう少しでバク転出来そうだったんですが今はもう流石に専門家無しの一人での練習は怪我が怖くて無理そうで…」
陸上で回転を志す方が凄くありません?
「狐さんターンしたいの?うーん…」
「ね、ねぇウルちゃんどう思う?今の状態でターンさせて良いのかなぁ…?」
「私はターンは好きにさせても良いと思う。目標とはまた別で。出来るか出来ないかは別だもん」
「とりあえず何から始めたら良いか…お兄ちゃんはバタ足かな?って思うんだけど…」
「うーん…一回全部忘れさせて沈む練習じゃない?」
「ああ…それから伏し浮きとかけのびとか…それでバタ足かな?」
「うん。で、プールの半分まで息継ぎ無しで泳げたら…今日は多分、もう良いよ…」
 随分と切なそうな諦めた様な顔でウルリッカはそう言う。横で聞いていたロードも「随分と優しめの設定をされている様だ」と気が付いた。そして自分の水泳は思ったより酷いらしいと認識し、少しだけやるせない気持ちになった。
「じゃあマーシュさん、最後にマーシュさんの思うターンをやって見せてください。それから本格的に練習しましょう」
 ロードは頷くとバシャバシャと水飛沫を上げて泳ぐ。そして手を使い、足も使い、ゆっくりジタバタと体を回す。おそらく、慣れた人間のクイックターンと言うのは文字通りクイックでこんなに時間は掛からない。もしもターンがこんなに時間を食うのが普通だとしたら選手は皆一度立ち上がって姿勢を向き直して泳ぎを再開していることだろう。
 翼足を羽ばたかせてパタパタ泳ぐミジンウキマイマイの様な手の動かし方の時点で「これはもうターンではない」と悟ったアルヴィ。そんな気も知らずロードは必死に手を動かすと、途中から足もバタバタ動かして体を傾ける。やっとでんぐり返しが成功しそうな、そんな酷似したポーズを取ると必死な形相でお尻と足を水面に出し、そして更にそこから百八十度動かし水上を通過させる。
 ──彼は見事に一回転したのだ。
「あっ…!!」
 ウルリッカとアルヴィが固唾を飲んで見守る中、水中で『でんぐり返し』を決めたロード。しかし、そのまま壁を蹴るでも無く底に足を着いて立ち上がると、苦しそうな声を上げた。
「ぜ、全穴に水が入りました…!!」
 そしてキョロキョロと周りを見回すと、ターンをした筈なのに潜る前と同じ方向を向いて立ち上がった己に疑問符を浮かべた。
「な、何でこっち向いてるんでしょう…!?」
 それはそうだよ。だってターンと言うか、ただ水の中で一回転したんだもん。壁を蹴って居ないから、反対方向に戻る動作をして居ないから立ち上がった時に同じ方向を向いているのは当たり前だよ。
 ウルリッカの渇いた笑い。横でそれを聞いて居たアルヴィはくぅっ…と顔を歪めた。
「よし、マーシュさん。全てを忘れてまずは沈みましょう」
 アルヴィの放った言葉が「ミクリカ湾に沈めるぞ」の意味に聞こえたロードの口から「ひぃっ…」と珍しい声が漏れた。

 * * *

「あ、あの…ごめんねモナちゃん…」
 皆でドリンクを飲んだ休憩後、再度波のプールに泳ぎに行ったバーティゴとセリカ。二人が居なくなった今しかチャンスは無い。そう思ったタイガは意を決して口を開いた。
「……何が?」
 少し怒っている様にも聞こえる不機嫌そうなヒギリの声。タイガはうう…と言葉に詰った唸りを上げる。
 ノエも入れず結果として二人で来た感じになったタイガとヒギリ。しかし、タイガはその特異体質──スーパーレゴグナイザー故かあっさり見知った顔であるセリカとバーティゴを見付けてしまい合流。ものの十分で二人きりが四人になった。まだタイガとヒギリは特別な関係になったわけでも何でも無い。しかし、二人きりの時間がこうもあっさり終わり、結社の顔見知りと合流した事。そしてその合流したのがナイスバディなお姉様達だった事。そんな事は決してないのだが、まるでタイガがヒギリとの二人きりを避け、且つスタイルの良い女性を改めて侍らせている様に見えたのかヒギリは少し機嫌が悪くなってしまった。
「…タイガ君、もしかして私と二人って嫌だった?気を遣ってくれてた?」
「え!?」
「だって…セリカさんとバルさん見付けた瞬間一目散にそっち行っちゃったし、何かここ来てからずっと私の目ちゃんと見てくれないんだもん…」
 見れないです。まだまだ初デートすらハードルが高いと思ってドギマギして居たのに目にしたのが好きな子の水着姿なんて意識しない男が居るのだろうか?いや居ない。
 しかも「ディーヴァ×クアエダム」時代ソフィア過激派にすら「腰から足に掛けてのラインは一番推せる」と言わしめた可愛らしいお尻と足を包んでいるのはフリルのたくさんあしらわれたミニ過ぎるスカート状のボトム。これはアイドル時代の衣装を彷彿とさせるし、隠しているとは言えお尻のラインも伸びる足も先程から座っている体勢の影響で少しチラ見えしているのだ。まともに直視したら何だかヒギリにまだ隠したい気持ちも何もかも色々と全部バレてしまう気しかしなかった。
「や、やっぱり私って…色気とか無いんかな…?」
「い、色気!?」
「うん…可愛い水着だなぁと思って着てみたけど…もしかして似合ってなかったんかな?」
「そ、そんな事…!!」
 否定しようと思って勢いよくヒギリに向き直るタイガ。変に隠そうとしないでラッキーだったと思ってちゃんと楽しめば良かった。しっかり見つめたヒギリの紫の瞳は少し潤んでいて、居た堪れなくて視線を下に下ろせば可愛らしい水着のフリルに包まれた胸元が見えた。
「あ…」
 直視してしまった。大好きなアイドルの水着の胸元はいつか雑誌で見た時と同じ様で、生きているから加工されている写真と違って血管の色も少し見えていてこんなところに黒子があるのもよく見えて。これは思っていたよりやばそうだ。直視はやばい。
 何か言わなければと思ったタイガは目を白黒させながらやっとの思いで「すっごい可愛い…」と呟いていた。
「え?」
「……や!!ごめんなさいモナちゃん!!何かオレ、ガッツリ見るなんて変態っぽかったね!!今!!」
「そ、そんな事ないけど…」
「いや、ごめんなさい!!やっぱりこんなにじっくり見たら失礼だと思っ……」
 急に言葉に詰まるタイガ。ヒギリも不思議そうにタイガの視線を追う。視線の先、二十五メートルのプールで誰かがバシャバシャと暴れて居た。もしやあれは、溺れているのか?
「…た、タイガ君!」
「はい!!」
 青春の空気もそこそこに赤い顔から一気に青い顔に染まった二人。タイガは近くにあったアームリングを掴むと小走りでプールに向かう。プールサイドを走らないでください、と書かれているからあくまで小走りで。
 プールの傍まで来て溺れていると思しき男がフル装備までいる事に気付く。必死な形相で口を開けて水面に顔を出し手や足をバタ付かせている。もしや足でも攣ってパニックになったのだろうか。タイガは慌ててプールに飛び込むとクロールで男の元へ近付いた。
「だ、大丈夫ですか!?どこか痛みますか!?」
 男の腕を引き、肩を抱き、プールから引き上げようとしながら様子を見るタイガ。男は凄まじい勢いで肩で息をすると、ゴーグルを持ち上げた。
「はぁ…はぁ…泳いでいた、だけですが…?」
「あれ…?え、ロードさん…ですか…?」
「え?タイガさ……あ…」
「え!?マルムフェさん達もいる!!」
 バレたくなかった人事部の同僚におかしなタイミングでバレてしまいロードの顔色が真っ青になる。寒いんですか!?上がりますか!?と尚も心配して声を掛けるタイガに寄って来たヒギリまで現れ、「さっきの溺れてた人ロードさんだったの!?」等と口にするものだからロードの顔色はますます青くなった。
「と…とりあえずあの、ロードさん、これ…」
 よくよく見ると女の子向けのデザインで全体的に可愛らしい絵に彩られたアームリングを渡す。ロードは青い顔のまま一言「どうも」と消え入りそうな声で呟き、やけくその様に腕に無理矢理嵌め込むと「似合います?」と力無く笑った。
「……似合ってます…あの、お花柄もよくお似合いで…」
「慰めならよしてください……」
「いやあの、慰めじゃなくて…!ロードさん、お花とか本当に似合うからぁ…!!」
 何の会話をしているんだろう?
 フル装備にカラフルな花柄のアームリングを付けたロードを見ながらヒギリは状況が飲み込めないと言う顔をした。

 * * *

「え!?ロードさんって泳げないんですか!?」
 プールサイドで見学中のタイガ、ウルリッカ、ヒギリに見守られて居たが、突如上げられたタイガの声がグサグサ刺さった気になりながらロードはアルヴィ指導の下バタ足の練習を始めていた。
「そう、狐さん上手く泳げないんだって」
「へー…意外だね…私、ロードさんって何でも出来るのかと思ってた…私より泳ぐの下手なんて…」
「そう思われるのが嫌なんだって。だから頑張るんだって」
「変なとこ健気なんだねー」
 ヒギリ曰く「変なとこ健気」ことロードは、変な癖さえなければ十メートル進める力を現実には五メートル進む為に費やした。そんな彼を見て指導に当たっていたアルヴィはにこりと笑う。
「わぁ、五メートルバタ足出来ましたね。ではこの調子で次は十メートルです」
「い、息継ぎ無しなんですよ!?アルヴィさん!五メートルでこの調子でその倍だなんて…!!」
「息継ぎなんて早く行けばなくても大丈夫です」
「す、少し休憩を挟ませてくださいよ…!先程から穴と言う穴に水が入ってですね!それだけで体力も気力も消耗していると言いますか!」
「休憩?今の出来た感覚を忘れないうちにやった方が良いですよ」
「方針鬼ですね!!」
 意外とアルヴィにサド気質がある事を練習を見ていたタイガとヒギリは知った。ウルリッカは懐かしむ様にそんなロードと兄を見ていたが、流石にロードが苦しそうな顔でプールサイドに上がったので「あれ?集落コタンの外ではこんな風に泳ぎの練習しないの?」と顔に疑問を浮かべてしまう。
「タイガ君…飲み物持ってきてあげて?」
「は、はいモナちゃん!…ちなみに飲み物の種類は…?」
「出来たらスポドリ」
 ヒギリはとことこ近付くとプールサイドで大の字に伸びて呼吸を整えているロードに声を掛けた。
「ロードさーん」
「……あぁ、モナルダさん…?」
「ふふ、アルヴィさんスパルタだね」
「うふふ…それ以上に、こんなに自分に泳ぎの才能が無いと気付くとは悲し過ぎますね…」
 そう言いながらチラチラとヒギリの格好に目を遣るロード。ヒギリがキョトンとしながら何をそんなに見ているのだろうかと不思議がっていると、ロードはいつもの様にうふふと笑った。
「……可愛らしい水着ですね」
「え…?そ、そうかな…?」
「ええ…良くお似合いですよ」
「本当?良かった…私これ、今日の為に買ったんだよ。せっかく久し振りのプールへの…『お出掛け』だったから、ちょっと気合入れちゃって…」
「うふふ…女性が自分と出掛ける為におめかししてくれたなんて男冥利に尽きる話じゃ無いですか」
「そう?だ、だって、せっかく初めてプールに行くから…そんな薄着になるなんて初めてだし!ちょっとでも可愛い格好見てもらいたいなぁって、思って…無駄な足掻きって分かってるけど今日の為に前からからちょっと…おやつ抜いたりとかダイエットとかしちゃったりして…!」
「うふふ。だ、そうですよ」
 自分の後ろを見てそう言うロードに釣られてヒギリが振り返ると、そこにはスポーツドリンクのペットボトルを持ったタイガが真っ赤な顔で立っていた。
「モ、モナちゃん…」
「タイガ君…」
「ごめんなさい、素直にスッて言えなくて…あの、とっても可愛いよ!み、水着もだけどそれを着こなしてるモナちゃんが…本当はちゃんと伝えたかったんだけど、オレも照れて上手く言えなくて…!」
「ううん!ううん…ありがとうタイガ君。えへへ。私、とっても嬉しいな!」
「モナちゃん…!」
 キラキラした初々しく可愛らしい二人を目の当たりにし、羨ましそうにそれを下から見上げる伸びたロード。
 全く、良いなぁ本当に。その予定は無かったにしても結果としてデートの様になって。色々あったけど行き違っていた想いをちゃんと交差させる事が出来て。
 まだ成立していない二人特有の甘酸っぱい雰囲気を感じながらロードは立ち上がる。そして礼を言ってタイガからスポーツドリンクを受け取るとやる気に満ちた目をアルヴィに向けた。
「アルヴィさん……お願いします…!!」
「お、やる気ですね…じゃあ、十五メートル行きましょうか」
さっきより延びてません?

 * * *

「で?結果として何メートル泳げる様になったわけ?」
 ヤサカが頬杖を聞きながらセリカと顔を見合わせる。あの日、後からセリカもバーティゴも合流し、結果として実に六人に泳ぎが不得意な事がバレた上にあまりの出来ないっぷりに全力で応援までされたロード。頑張ってはみたものの流石に動き通しだったのもあってか体力も尽き掛け、十メートルを息継ぎ無しで泳いでその日は解散となった。
 リカ・コスタにたまたまセリカも飲みに来ており、このメンバーなら良いかとその時の話をロードが始めて今に至る。セリカはもう馴染みとなったリカ・コスタで今日もヤサカの用意した清酒を上品に口にしていた。
「…その日は十メートルです」
「ふふ、マーシュさんにこんな出来ない事があるって不思議ですねぇ。イメージしづらいですぅ」
「本当に失態ですよ…女性の前で穴という穴に水を入れた様な姿でもがき苦しむなんて…」
「まあ、昔の色々考えりゃロードが泳ぎを克服しようなんてマシュマロが火に抗おうとするのと同じくらい不可能に近いと俺も思うよ。そう言やセリちゃんは?泳げるの?」
「ええ、まあ…人並みには、ですぅ」
「……ヒヒヒッ!そうだよねぇ、そうだよねぇ。その立派な物・・・・があれば浮くようなイメージあるわねぇ。…セリちゃん、今夜はオレのベッドで背泳ぎの練習しない?優しくするよ?」
「そう言う事仰るのはこの口ですかぁ?」
 むにゅっとヤサカの頬を細い指で摘むセリカ。どうやら彼女も随分この下品極まりない男の空気に慣れた様で。ヤサカの冗談を冗談と分かっているので尚も清酒を飲みながらノールックで彼の頬を摘むセリカ。最早逞しい物である。
「いひゃい」
「全くもう…ヤサカさん、初めて会った印象から最近予想外にだらしなさ過ぎてセリカは驚きましたよぅ…」
「ヒヒヒッ。優しさとだらしなさって紙一重なとこあっからね」
「そう言うのはご自分で言わないんですよぅ?」
 頬を摘まれたままロードの方を向くヤサカ。
 で?結局十メートル泳いで?その日他に成果は?
 そう聞くとロードは彼らしくない乾いた笑みを浮かべた。
「うふふふ…魚心あれば水心、なんて嘘ですよ…相手が自分に好意をもてば自分も相手に好意をもつ用意がある、 相手の態度によってこちらの態度も決まるというのが本当ならば、何故水は私からの好意をこんなに冷たくあしらうんですかね!?理解不能なんですが!?」
「ヒヒヒッ、水に嫌われてやんの。おもしれ」
「だからその日は帰りにソープに行きました。水で落ち込んだ心は水で慰めてもらわないと」
「水っつーか泡だな。そこでそんなに体力使い果たしてよく行こうと思ったよなぁ…」
「……呆れますぅ」
「それはそれ、これはこれです。さて、私はそろそろ帰ります」
 そう言えば今日のロードはいつもより酒を飲んでいない。不思議に思ってヤサカが会計をしようとレジをいじっていると、それに気付いたのか「明日は休みなんでアルヴィさんに練習に付き合ってもらうんです」と口にした。
「まだ泳げる様になったのは十メートルですからね。華麗なターンが出来る様になるまで諦めませんよ私は。『無駄な努力』になんてしませんからね」
「ヒッヒッヒッ!お前のそう言う変に真面目なとこ好きよ。よし、プールの端から端まで行ける様になったらそん時奢りで飲ませてやるよ」
「本当ですか?」
「おうっ!ただし、ちゃんと証拠を誰かに撮って貰え。言ったもん勝ちにはさせねぇからな」
「ええ、勿論です。破産する覚悟しといてくださいね」
「あんま高価たけぇ酒はやらねぇからな」
 まるで少年同士の様に約束を交わす二人を見てセリカは顔を綻ばせる。二人の付き合いはそれなりに長いと言うが、こんな風に砕けた会話ができる間柄と言うのは少し羨ましくも思う。幼馴染と言えば、とリアムの仏頂面が浮かぶが、自分が今まで彼にしでかして来た可愛い・・・悪戯を思うと間違ってもこんな風にならないし別にならなくても良いなと思う。
 それよりも、もしも自分と一番近しい男性とこんな風に気の置けない間柄になれたなら。浮かぶのは焦茶色の髪に焦茶色の優しい瞳。彼ももしベンジー元夫の様に妻には一歩下がって、一歩下手に出ていて欲しいタイプだったらどうしようか。
 一瞬そう考えて、まだ特別な仲でも無い男性とのそんな事を考えるなんて本当にはしたないんだからと自分を律する。
「セリちゃんも、もし彼氏出来てそいつ連れて来たらお祝いに俺奢っちゃうぜ!!」
 そして、まさか自分に矛先が向くと思っていなかったセリカは慌てて飲んだ清酒で少しだけ咽せた。