薄明のカンテ - Do not enter/燐花

『彼』の失態

 やっと逃げたのに。逃げられた筈なのに。
 ロードは自分の腰をがっしりと掴んでいる男に青い顔をした。
 この格好は知っている。何度も何度も、嫌で嫌で泣いて辞める様懇願し、そして誰も助けてくれなかった思い出。男の顔は見えないが、その男が何の目的で自分の腰を掴んでいるのかは嫌と言う程知っている。
「やめ、やめて…!嫌だぁっ!!」
 ロードは自分の口から発せられた声があまりにも女性の様に甘い事にハッとする。あの頃より体も成長してそろそろ変声期を迎えそうなのに、そんな成長した自分から逆にこんな声が出るだなんて。
 しかしそれにしても、今の声はまるで別人だ。まるで本当に女性の様な。
 嗚呼、気持ち悪い。嫌だ。
 何とか逃れようとするも、男の手に逆らえず覚悟を決めてぎゅっと目を瞑った。
「あれ…?」
 その時、ロードは自分が今何をしているか分からなくなった。急にふわふわと浮かぶ様な、温かく包まれる様な気持ち良さを感じてロードは恐る恐る目を開けた。
 先程まで腰を掴まれていたのは自分だった筈なのに、目を開けた瞬間腰を掴む側に回っている事に気が付いた。
 いつこんな事になったのだろう?今自分が繋がっている相手は誰──…?
 そこに居たのは見た事も無い黒髪の少女であり、歳はロードより少しだけ上な気がした。
 その少女の瞳が吸い込まれるくらい綺麗で、ロードは母に連れられて岸壁街に降る時に彼女から「もうまともに見れなくなるから今見ときなさい」と言われ、その時に焦がれた空と海の色を思い出していた。
「あっ…!」
 喉から漏れる様に声を上げ、ロードの視界はまた暗転した。

「……うぅ…ん…」
 妙な夢を見た所為で嫌な寝足りなさを覚えながら目を開ける。部屋のカーテンは開けていようがいまいが陽の光は入らない、ただの飾り。そんな部屋で一日の始まりを迎える生活にはもう慣れてしまった。
 しかし、最近のこれ・・はどうにも慣れない。
「…またか…」
 起き上がったロードは嫌な感覚を覚えて何気なく布団を捲り上げる。そしてそれ・・に気付くと嫌そうにパンツごとズボンを脱ぎ、そのままパンツは捨ててしまった。
 まるで忌々しいものを見るかの様に、パンツを脱いだ後大量のティッシュを取り出し無茶苦茶に体を拭くと、どう見ても出し過ぎて無駄に使ったそれらも一緒にゴミとして投入する。先に捨てたパンツを塞ぐ様に。
 ベッドから降りてクローゼットを漁る。下着の在庫がもう無い事に気付きロードは落胆した。
「おいロード、起きてるか?」
「ぎゃぁぁぁぁあっ!!」
 ノックもせず不躾に突然ドアを開けたのはギデオンだった。ロードは慌てて手で隠すと咄嗟にしゃがみ込み、首だけを錆びた機械人形の様にぎこちなくドアの方へ動かした。
「ギ、ギデオン…」
「あァ?何してんだ?股間なんざ抑えて」
「う、煩いな!!来ないでくださいよ!!」
「お前何恥ずかしがってんだァ?まだ毛も生えてねぇ癖に一丁前に恥ずかしがるなって…お?」
 ギデオンが何かに気付きズカズカ無遠慮に入って来る。ロードは諸々に気を取られて動作が遅れたが、彼がゴミ箱に向かってると気付き真っ青になった。
「…お前、またパンツそのままゴミに突っ込んだな?ったく、汚したなら洗ってまた使やぁ良いだろうが。ウンコくらい何だよ」
「違いますよ!!そんな赤ん坊みたいな失敗するわけないじゃないですか!!」
「ンだよ、じゃあ何でこんなに…お前今月入って何回目だよ朝イチでパンツ捨ててんの。下着代だって馬鹿にならねぇんだぜ?少しは我慢しろよ。そもそもウンコ漏らしてんじゃなきゃ何だって──……」
 そう言いながらギデオンは気が付いた。その日はまだそれが乾燥していなかったから余計に勘付いたのかもしれない。すんっ、と鼻をひくつかせ、嗅ぎ慣れた匂いを感じた。
「……お前、もしかして」
 そう言えばもうロードも十三歳になる。最近では変声期を迎え始めているのかガラガラとした声で安定せずよく裏返ってしまう事もしばしばだ。
 彼自身が過去の経験からそう言う事がトラウマになっていると言うのは容易に想像出来たが、そうであってもどうやら体は健全に育って来てしまったらしい。
 故に彼は処理の仕方を知らず、いわゆる「睡眠中に暴発」させてしまい、起きた時にそれに気付いて嫌悪からか全部捨てているらしいと言う事にギデオンはこの時初めて気が付いた。
 別にそれならそれで構わないと言いたいところだが、大量生産されるティッシュと違って下着は使い捨てじゃ無い。ただでさえこの不潔の極みの様な岸壁街で潔癖症は生きて行くのが苦痛だと言うのに、よりにもよってな部分での潔癖がこんな無駄なゴミを出していたなんて。
「お前……」
「…何ですか?」
「ロードさ、シねぇの?自分で」
「はぁ!?」
 ギデオンのダイレクト過ぎる疑問にロードは素っ頓狂な声を上げた。
「するわけないでしょう!?」
「何で?少なくともオナってりゃ夢精ってそんなしねぇぜ?」
「……その話終わりにしませんか…?僕はただ吐き気がする程嫌いなんですよ…!!好き勝手に腰振る男も、受け入れる女も全部が全部!!」
「…でもさ、それで都度ゴミに出されたら俺らも『はいそうですか』なんて言えねぇよ?金、掛かってるって理解出来ねぇ馬鹿じゃねぇよな?俺らはお前の我儘の為に金稼いでんじゃねぇんだよ」
「……じゃあこんなもの切り落とさせて下さいよ…!!僕は排泄機能さえ残してくれて体に支障出ないならこんな気持ち悪い欲求いりません…!!」
「…どこで覚えてくんだよ、ンな事」
 そう言って、自分達が借金を返せない男性客に何回かそう言う処理・・・・・・を乱暴に施した事を思い出す。しかも、普通にロードが見ている前で。
 その男はある男娼に入れ込んだ末に破産した人間で、ロードからしても自分を辱めたトラウマとして残っている人種と同類だったからだ。それを知ったボス、フランクが「目の前で痛め付けるところを見せてやればコイツも気が晴れるんじゃねぇか?」と思い付きで言った事からロードも同席させたのだ。
 ──あ、どこの誰だよ面倒な事吹き込みやがってとか思ってたけど、俺らか。
 そう納得したギデオンは、本気で言ってそうなロードと顔を見合わせる。そして「うーん…」と考え込んでしまった。
「よし、ロード。出掛けんぞ」
「は!?この流れでですか!?」
「おう。だってパンツ在庫ねぇんだろ?」
「現時点で今無いんです!!だから出掛けられません!!」
「我儘言うなー…仕方ねぇなフルチンで来いや」
「行けるか!!」
 しばらく考え込んだギデオンは、何を思ったかエステ用の紙パンツを取り出し、ロードに放り投げる。
「何か知らんが紙で出来てるやつ。ゴワゴワするだの具合悪ぃだの言うなよ?ぽいぽい捨てるお前が悪ィんだから。とりあえずそれ履けや。準備したら出るぜ」
「ど、どこに行くんです?」
「あー?多分良いとこだ、良いとこ」
 そう言って部屋から出ていくギデオン。自分に拒否権が無さそうだと悟ったロードは意を決して封を切ってパンツを取り出した。
「……パンツ…?これが…?」
 紙製のブリーフの様なそれは何とも心地が悪く、見た目も赤ん坊のオムツの様にごわごわで布のパンツが如何にありがたいかをその時感じた。ロードは汚せば全てパンツを捨てていた今朝までの自分を恨む外無かった。
 このパンツの上にいつものブラウスとスラックスを着込んでも、何だか格好の付かない感じがして落ち着かなかった。

 * * *

「こ、こ、は……」
 ロードはいよいよ声まで錆び付いた機械人形の様にギギギギと振り絞る。ギデオンは店から飛び出して来た女性に抱き着かれて鼻の下を伸ばすばかりで使えないし、ここはロードにとって一番忌避していた場所だった。
 サントル・オルディネがメインの資金源にしている娼館だ。ここはかなり歴史が古く、構成員達は大概ここで『お気に入り』を見付けている。更に歴代ボス達の『お気に入り』はこの娼館の纏め役──いわゆるママにまで上り詰める事が多く、公私混同の温床だとロードは思った。
「今日もエロいなジャッキー」
「ギディー!!久しぶりじゃなーい!会いたかったー!!」
「おう。今日も良い感じに馬鹿っぽいな」
「ひどくなーい!?」
 なるほど。ギデオンだから愛称『ギディー』?いやいや何だそりゃ。こんなウドの大木の様な大男に子猫みたいな名前付けるなんてどう言うセンスしてる?
 段々苛々と心の中で毒突くロードをよそにひそひそと話を始める二人。そのうち気付けばジャッキーが居なくなり、次に彼女が姿を見せた時にはもう店の中に案内されてしまった。
「帰りたい……」
「んー」
「お腹痛い…」
「へー」
「足痛い……」
「ほー」
「帰りたい……」
「…ロード、お前思い付いた事全部言うのやめろよ子供じゃねぇんだから。返事するのも疲れるっつの」
 まだ子供だ。少なくとも地上の世界では。
 しかし今更地上の世界に未練など無い。ただ、何故こんなところに連れて来られたのか分からずそれはロードに不満を募らせた。
「あらあら、随分と可愛らしいお客さんだこと」
 その時、ずしんと足音を立てて誰かが階段を降りて来る。ロードは音が自分の背後から聞こえた為何気なく振り返り、そして絶句した。
「その子が新しい構成員さん?ひょろっとしてるわねー」
 そう言いながら階段を降りる彼女。しかし、その階段壊れりゃしないか?と失礼な事をロードは考える。
 そこには確かに女性が居たのだが、その巨体と来たら。首は肉で埋まり足も腕も同じ様な太さをしている。足首、手首、首。首と言う首が肉で埋まり、括れの無い体。
 ロードが今まで見た事の無いタイプの女がそこに居た。
「おう、姐さん元気か?今日も『麗しい』な」
「全く、心にも無い事言うもんじゃ無いよ坊や」
「すまねぇすまねぇ。ところでさ、コイツに色々教えてやって欲しくて連れて来たんだがよ」
「色々って何だい?」
「コイツに女の抱き方教えてやってくれ。一人でもシた事ねぇって言うんだ」
「…嫌なこった!アンタ同じの付いてんだろ?使い方は同じ男のアンタが教えてやりゃあ良い」
「ふざけんなよ!何で俺がガキにオナニーなんざ教えにゃならねぇんだ!?」
 この女性、ギデオンに姐さんと呼ばれているし彼の事を坊やと呼んでいるし、よっぽど偉い人なのかとロードは考えた。しかし、岸壁街の様に今日食うものすら困る様なところでこれだけ太ましい女性と言うのもまた珍しい。
 二人の会話の内容を気に留めず、そんな事だけぼけっと考えていたが、その内ギデオンはこちらをくるりと向くとロードの背中をとんと押した。
「ギデオン…?」
「よし!後は姐さんに任せた!んじゃー頑張れよ、ロード」
「…は?」
「全く……!後でフランクに請求するからね!」
「ボスには内密に頼むぜー!またなー!ポリーン姐さん」
 哀れ、置いて行かれたロード。隣に居る女性にちらりと目線だけ動かすと、首ごとがっつりこちらを見ていた彼女と目が合ってしまった。
 ──あ、逃げられない。
 彼女に対する第一印象は『捕食者』だったと後にロードは語る。
「……あんた」
「は、はいっ!?」
「あんた、名前は?」
「ロ……ロード・マーシュ…」
「『です』」
「へ?」
「『です』くらい付けな、ロード。変な敬語使うくらいなら徹底しなさい。あんたがどう言う人間か、今ブレブレよ?」
「うん……あ、はい…」
「ったく…何だかんだ言って良い様に置いて行くんだからあの早漏坊やが」
 何だか凄い単語が聞こえた気がするが、多分気の所為だろう。
「ああ、私はポリーン・ヘイウッド。さてロード、こっち来なさい」
「え?」
「とりあえず、ただ廊下の真ん中で突っ立ってるわけにも行かないだろ?お茶くらい出してやるからおいで」
「は、はぁ…」
「……さっさと着いてくる!!それから返事!!」
「はいはい!!」
「『はい』は一回!!」
「はい!!」
 ギデオンの求める以上にロードに対して世話を焼く様になる彼女の名はポリーン・ヘイウッド。
 ロードから母の如く慕われる様になる彼女は、この頃には甲状腺の病気により若い頃に誇った美しいスタイルを失っていたものの、恰幅の良さと面倒見の良さが相俟って尚娼婦達からは慕われ、現役を早々に退き娼館のご意見番として鎮座していた。
「あの…おばさん」
「お姐様と呼びな、ガキ」
「……じゃあポリーンさん。ポリーンさんって、ギデオンより偉いんですか?何だかギデオンを子供っぽく扱ってたから…娼婦なのに」
 ポリーンは、ロードがフランクやギデオン、キンバリーらによって既に「当たり前の様に娼婦を彼等より下に見ている」事に気が付き、憐れむ様な目線を送る。確かに関係を見れば立場は彼らの方が上だ。娼館を運営しているのも彼らだし、いざ仕事を始めても自分達はあくまで買われる側。だが、ごく自然に人にランクを付ける事が当たり前になったらこの子をあの連中と同じ人間にしてしまう。
 そうなったら誰が困るか。正直フランク、ギデオン、キンバリーらと同じ人間になったところでロードが周りから忌避されようが何だろうが知った事ではない。ただ、彼等に似た男を量産したら他でも無い女が困る。彼に関わる上で哀れな女を増やしてしまうだけなのだ。
「ロード、あんたには色々教えてやる必要がありそうね。女抱くのはその後よ」
「別に…僕はそんな事必要無いです…!それより、ポリーンさんってギデオンより偉いんですか?」
「あのねロード、人間は偉いか偉くないかの二つで分けられる程簡単じゃ無いのよ。経営者と雇われと言えば確かに私は偉く無いわね、でも私はあの子達を随分昔から知ってるからギデオンもキムも決して私を『姐さん』以外の名で呼ばないわ。さて、あんたはそれでどう判断するの?」
「……偉い…?」
「半分正解半分間違いよ。ここでの正解は、『じゃあ自分も姐さんとして接しよう』よ。人の判断の基準を偉いか偉く無いかで決める事、それそのものが頭の良い事じゃないって言ってんの。どっちか決める癖は今すぐやめなさい。偉い奴に媚び売るなんて格好悪い事よ」
 当たり前のように、生きていく上で相手の立場を考える事は必要ではあるし、格好悪い事でもなんでもない。ただ、それはもっと分別の付く年齢で物を知る様になってからやった方が良い。幼いこの子の価値観として今重要視させてはいけないとポリーンは判断した。
 この子に養わせるのは彼等と違う価値観。他人を敬う気持ちを持たせる方が重要だ。
「でも、じゃあ…何でポリーンさんは姐さんって呼ばれてるんだろう…?」
「そんなに気になるのかい?まぁ、あいつらは大体皆私が担当したからね」
「担当?」
「サントル・オルディネの坊や達の筆下ろし担当は大体私だよ」
 しかし、ポリーンの発言がおよそロードの苦手とする分野だった為、ファーストコンタクトはあまり良くなかったと言える。

『彼』の土台

 奥の部屋に通され、ロードはキョロキョロと辺りを見回した。少し薄暗い照明に甘い香りが立ち込める。かちゃかちゃと音を立ててトレーにジュースとクッキーを乗せてポリーンはゆっくりこちらに歩んできた。
「ジュースとクッキーで良いかい?」
「…ありがとう、ございます」
 サクッと音を立てて口にする。ポリーンも一緒になって食べ始めた。穏やかな時間が流れる中、それでもロードは心穏やかにはいられなかった。
 おそらく、この後聞かれるのだ。根掘り葉掘り。そう思うとロードは落ち着かない心地だった。
 別に良いじゃないか。女性と関わる願望が無くたって。触れ合う願望が無くたって。少なくとも彼女には関係無い筈だ。もしポリーンにそこを追求されたら、そう言い返してやるとそう胸に決めながらロードは二枚目のクッキーを口に入れた。
「あんた」
 先にポリーンが声を上げる。
「はい」
「あんた…あいつらとの暮らしは辛くない?」
 想像していたどの言葉とも違うその問い掛け。ロードは驚いた顔で彼女を見た。
「え…?」
「無理言われてないかい?嫌な事、強要させられたりは?」
「あ、はい……あの……正直…ボスと出会う前の暮らしの方が辛かったので…ここでこんなに良い暮らしの出来る僕は贅沢だと思ってます」
「うん、確かに贅沢だよ。贅沢出来てるわ。でも、あんたの気持ちはどうなのよ?」
「僕は…そんなに嫌じゃ無いです…でも、たまに疲れるって言うか、一人になって休みたい時があります……」
「そう…じゃあきっと、その時・・・があんたが逃げたい時なわけだ」
 ここで生活して行くには、ここで不自由無い暮らしをして行くには果たすべき義務があって、それがフランク達と価値観を擦り合わせる事だった。しかし、元来こう言ったものが好みで無いのかロードの気持ちに無理が生じていた。それを見抜き、剰えそれを口に出す事を許してくれたポリーン。
 ロードは、たったそれだけのやり取りで彼女に気持ちを許し始めていた。
「ここに来る事を、多分アイツらは何も不審に思わないよ。だから逃げ出したくなったらこっちに飛んでくれば良い。お茶くらい出してやるよ」
「ほ、本当ですか?」
「ええ。ただし、空気を読みながらおいで。頻繁に出入りしてるって思われて、変に絡まれたらあんた嫌でしょ?」
「変にって?」
「……ここは娼館だよ。託児所でも児童館でも無い。本来子供の出入りはおかしいところなんだよ。ただし、早熟なお客ならまた別だけどね?」
 そう言われてロードはポリーンの言わんとしていることが分かり、一瞬眉を顰めた。しかし、自分にとって大変有り難い申し出である事を理解して眉根から力を抜くと、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、ポリーンさん」
「……私も毎日いるわけじゃ無いから、その時は別の娼婦を付けるよ。その方がここに来る客として自然だし、あんたも色んな女と触れ合う良い機会だからねぇ」
「……だから、僕は別に女性に興味は…」
「性的な興味の有る、無しを言ってるんじゃないの。あんたは賢そうだけどその知識の大半は本だろう?実際に目にして触れ合う生き物はあのガサツ男フランク達。あいつらとだけ付き合ってたら絶対得られない価値観をここの女達は持ってる。そう言う子達と話すのは良い刺激になるわ。百聞は一見にしかずって奴よ」
 ロードは更にぽかんとした顔でポリーンを見た。本から得た知識で、そしてフランク達と共に行動する事で自分なりに大人になったつもりでいたロードにとって、それは大変衝撃的な話だった。まだまだ世の中知らない事が多いだなんて。
「これも社会勉強だと思いなさい」
「社会勉強…」
「そう。ついても問題無い嘘や、誤魔化し方、他の価値観、人の顔色。色んな事が学べる」
「色んな事かぁ…」
「あんたも大きくなったらあいつらみたく外に出る事もあると思うわ。あいつらの仕事は外とのやり取りもあるからね。でもその時、変な事やったらその場ですぐ拒絶されるのが地上の世界よ。だから、あんたがまず人を許容しなさい。人は他人にされた事を相手に返そうとする生き物よ。良い事も悪い事もね。人にする事は自分に必ず返って来る。逆に人を受け入れれば、自分も受け入れられる事の方が多いわ」
「そうなんですか!?」
「全部が全部そうとは言えないわよ?そう思っても受け入れて貰えない事もある。でも、自分が相手を受け入れたって実績はそれだけで大きいのよ、例え相手も同じだけ返してくれなかったとしても自分の中で『相手を受け入れてやれた』ってのは自信に繋がるわ」
「うーん……」
「相手を見下さない、立場で勝手に人の価値を判断しない、まずは相手がどう言う人間か窺う。相手だってあんたと同じ人間なのよロード。それに全部が全部自分の好みで拒絶したりするよりかは、例え少し理解出来ない相手でも『それはそれで面白い』って思えた方が人生楽しいのよ」
「人生が…!?楽しい…!?」
「そうよ。一度きりの人生なんだから、楽しめるだけ楽しまなきゃそれこそ損よ。良い方に、楽しい方に考えなさいロード。未来なんてどうなってるか分からないんだから、その時楽しめる事にはとりあえず全力を注ぎなさいな。そしてそう言う生き方をするなら人を見下したり嫌うところを探すよりかは良いところや楽しいところを見付けた方が良いってもんよ。完全に目を瞑るんじゃないよ?悪いところがある相手でももし仮に長く付き合わなきゃいけないってなったら『それはそれ、これはこれ』として考えた方が楽って事さ」
 この時、ロードの刹那主義たる土台が出来上がった。今日に至るまでに彼は地上で生活していたら決して味わう事の無い苦痛や痛み、暴力を受ける事もあったのだがそれでもあまり悩む事が無いのはこの時のポリーンの教えが強烈だったのだろう。
 そしてそれが彼の物事を考える基礎になった。

 数時間後、娼館を出たロードはふわふわとした頭でのぼせた様になっていた。「他人の価値観」と言う新しい知識を、本と違い文字だけでなく音で、匂いで、肌で感じて得るその量は膨大だ。
 傍から見ればそれはクッキーを食べながらした程度の世間話だ。けれど、それは同時に触れた事のないジャンルの人間からの意見で全てがロードにとって新鮮だった。急に大量の知識を脳味噌に叩き込んだ為か、無理やり酒を飲まされた時の様な高揚感に包まれていた。
「お?良い顔になって帰ってきたじゃねぇか」
 どこから現れたのか、ギデオンがニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて現れる。おそらく彼は、自分が娼婦の一人でも抱いて出て来たと思っているのだろう。自分のこの有意義な話の後の高揚した顔はそうも見えるかもしれないから。
 妙な話題への誤解に一瞬眉を顰めるロードだが、すぐにポリーンの事を思い出す。
『ついても問題無い嘘や、誤魔化し方、他の価値観、人の顔色。色んな事が学べる』
 ──そうだ。誤魔化し方。
 ロードはギデオンににこりと笑い返すと、
「そんなに良い顔してますか?まぁ、なかなか楽しい時間を過ごせましたから」
 とだけ言い、更に笑みを深めた。ギデオンは何か勘違いしている・・・・・・・・・のだろう。満足そうに
「そうか、そうか」
 と笑った。仕舞いには
「俺も童貞捨てた時はさー」
 と聞いてもいない武勇伝を語り出す。
 別に嘘を吐くわけでは無い。ただ、これ以上突っ込まれたくなかったし、場の空気を読んで誤魔化しただけ。嘘は吐いていない。本当の事を突き詰めては言わないと言うだけだ。
 しかしギデオンのこの反応から察するに、相手も傷付けず且つ踏み込まれたく無いと思う時にこう言う濁し方をするのも一つの手なのだと学んだ。これは実践せねば分からなかった感覚だ。言葉一つ言い方一つ工夫するだけで拒否をしたり怒ったり不機嫌にならずに話を終わらす事も出来る。それにこの状況なら後から「思い違いをしていた、説明したつもりだった」で誤魔化す事も出来る。たったそれだけの事で負担無く終えたロードの心は軽かったし、何より「自分の話術でそれを成し得た」と言う達成感は大きかった。
「うふふ、これは……良いですねぇ…」
 思わずそう漏らす彼の声はおそらく聞こえていないのだろう。ギデオンは「なぁなぁ」と声を掛けると今度は不思議そうにロードを見た。
「なぁ、相手本当にポリーン姐さんだったのか?」
「…そうですけど?」
「マジかよ……」
 しまった。彼はまだ自分が娼館で女を買った体で話をしている。自分は今日の話し相手と言うだけの認識で話していたのに。
 ロードは咄嗟に頭の中で良い言い訳を考えたが、その前に間髪入れずギデオンが話を続けた。
「いやー、ポリーン姐さん相手じゃ性癖拗らせそうだなー。はははっ、お前とんだド変態になったりしてなぁ!!」
「え?いや…えっと、何でですか…?」
「だってそうだろ?あんな女として終わってる肉塊抱きたいなんて思わねぇだろ。娼館の纏め役として有能じゃ無きゃ誰が買うんだよあんなデブ」
 今度こそロードは分かりやすく眉間に皺を寄せ不機嫌な顔を見せた。しかし、彼から発せられるそんな不穏な空気などギデオンは気付く素振りも見せず「早く行くぞ、モタモタすんじゃねぇよ」と逆に自分の苛立ちをぶつけて来た。
 この時、ロードは自分の中にフランク達と違う価値観が芽生えている事に気が付いた。自我の芽生えとでも言うのか。彼らの事は好きだがどうしたって染まれない部分がある。分かり合えないと言った方が正しいか。
 立場が下だと思っていたポリーンを立場が上だと思っていたギデオンが馬鹿にする。たったそれだけの事なのに、ロードの胸はモヤモヤしたもので不鮮明になっていく。
 そうか、ポリーンを人として気に入っているから馬鹿にされると悔しいんだ。
 そう気付いたのは、ギデオンより些か穏やかそうな雰囲気を放つキンバリーもこの話題に触れた時にポリーンに対して同じ感想を述べた時だ。それでいて、経営においてポリーンの手を借りねばならない事態にはよく陥るのでそこは彼女の力を頼る。
 見下しているのに、その娼婦達を纏め上げるのに彼女達の理解者たるポリーンが居なければ回らない。しかし、金を払っており立場が上だからと終始見下ろす姿勢は変えない面々。
 互いに持ちつ持たれつな関係で居なければ保たないと分かっているのに論って悪く言う。ロードはそのやり方を傍目に大変滑稽に思ったし、自分は決して真似したくないやり方だと思った。そう思っていると、あまり人に対して嫌いや苦手と言った負の感情が浮かばなくなり、それはロードにとって人と話す事を楽しい事だと認識するのに充分になった。博愛の観点は、人に対する意識が好意からのスタートになっていると気付いた時に彼の手元にあったのだ。
 そしてそれが「ポリーンの勧めんとしている人生」だと分かり、それが心地良く思う以上彼女の論じた説は正しいのだとロードはよりその考えに染まる様になった。

『彼』の完成

 岸壁街の男性は女性を見下すのがデフォルトだ。が、しかしそれはそれでポリーンの偏見だ。
 これ以上軽く見下してくる男性に増えられても困る。そんなポリーンの都合でロードは真逆の価値観を植え付けられた。そしてそれは定着し、彼の自我として芽吹いた。
 いつも小綺麗なブラウスにコーデュロイのパンツを身に纏い、丁寧な言葉で喋るロードは娼婦達から可愛がられていた。彼が店に来て自分を指名するとはつまり、何もせずただ彼とお喋りする時間が約束されていたからだ。肉体的にも負担の無い有難い存在。
 自分達を見下さない岸壁街の少年。おまけに自分達の持つ価値観を面白いくらいに吸収していき、そして肯定してくれる。あどけない顔と声のロードは娼婦達のアイドルだった。
 しかし一年程経って、そんなロードの声が低い男の声になり、ブラウスとコーデュロイのパンツからワイシャツにネクタイ、スーツを好んで着る様になり、一人称も立派に「私」に変わるとそうも言っていられなくなった。
 彼の成長の喜びと同時に徐々に大人の男としての意識を娼婦達は持ち始める。彼女達は顔を合わせればそれと無く牽制し合う様になり、ポリーンはその都度眉間に皺を寄せ注意に入る様になった。
「…これ!何だい揃いも揃って!!お客の情報をベラベラ喋ろうとするんじゃないよ!!」
「えー!?でもぉー…」
「でもじゃ無いよジャッキー!!アイリーン、あんたも便乗してないで止めな!!」
「い、良いじゃないか…別に…」
 ポリーンは怒声を上げる。
 まったく、「花の盛りの稼ぎ時にしれっと妊娠した伝説のバカ」ことナンネルに性格が似ている、少しミーハーなジャッキーならまだしも、比較的堅物でプロ意識の高いアイリーンすらその話題に食い付いているなど前代未聞だ。
 自分達はただの娼婦では無い。サントル・オルディネから数多くの協力を得ている娼婦だ。相手は岸壁街の人間だけで無く、サントル・オルディネで接待した要人と言う事もある。故に、彼女達は客の話をしない。少なくとも、「こんな客が居た」までは言う事はあれど、詳しく客の詳細は話さない。
 ──が、逆にそれが気になる客に関する匂わせに使われているとは皮肉な事だ。
「情けない……!」
 とは言うものの、ポリーンも少し心配していた部分ではある。勿論彼女もロードを我が子の様に愛していたので、彼のトラウマによって捻じ曲がってしまった部分を少しでも苦痛から離してやりたいと言う思いはあった。
 一度ロードに確認してみようか。
 ポリーンは娼館のまとめ役と言う立場をフルに使い、この日ロードを逆指名した。ジャッキーから「職権濫用」だの何だのぶーぶーと文句を言われたのは言うまでもなく。
「…最近…どうなんだい?」
 いざ部屋に通したは良いものの、何からどう話したら良いのか珍しく言い淀んだポリーンはぶっきらぼうにロードに尋ねた。
「どう、とは?」
「…顔見せなかったからさ」
「ああ、すみません。もしかして寂しい思いをさせてしまいましたか?」
 そう言ってすっと目線をこちらに向ける。爬虫類の様に少し冷たい印象の瞳にやたらと色気があった。
 この子、いつの間にこんな表情する様になったんだろう。ポリーンは思わず見入ってしまった。
「……馬鹿言うんじゃないよ。大体、そんな事は『女』に言うもんだ」
「ポリーンさんも女性じゃないですか」
「私はもう客を取らなくなって長いよ。そう言うのはここじゃあ女と呼べない」
「…いいえ、『女性と言うだけで尊い』のだと私に教えてくれたのは貴女じゃないですか」
 自分の思う以上に自分が教えた事を吸収していたロード。話せば話す程、彼はここに来て以降人をまず好意の目で見る様にしているらしいし、何より異性に優しくあろうと思う様になったらしいと言う事が分かった。
 どの娼婦の部屋に通されてもおそらく彼女達のする話は大概苦労話なので、それを聞き続けたロードが他人に同調するタイプならばそうなるのも分かる。
「ウチの馬鹿達が色めき立ってんのよ」
 ポリーンが一言そう口にすれば、ロードは「おやおや」と妖しく笑みを浮かべる。その顔一つでポリーンは、彼の中で何かが変わった事を確信した。
「あんた、そっち・・・はどうなの?」
「うふふふ、矢張り聞きたいところはそこですか」
「最初は興味無かった。でも、あんたがあんまりにも拒絶する事も受け入れるのも全部辛そうだったから、一年くらい経ってその後どうしたのか気になってねぇ」
 体の健全な成長。感情と乖離する衝動。それすら全部失くしたいと言っていたロードは、異性に興味を持つと言う至極当たり前の感情にすら拒否感を抱いていた。そして当たり前に溺れてしまう人間に嫌悪を抱いていた。
 しかし、岸壁街にははっきり言って溢れている。ロードの嫌いなものが。右を見ても左を見ても目に付く。それがこの街だ。
 環境を、周りの人間をロードの潔癖に合わせるのは不可能な話であり、そうなると半ば荒療治かもしれないがロードを周りに合わせ、嫌悪感を半減させるしかないのだ。その方が、ここで生きて行く上で辛くない。周りを変えるより、自分が変わった方が良い事もある。
「気になります?」
「そりゃあね。今が辛いかどうかってのは気になるわね」
「……ポリーンさんは初めて会った時からそうでしたね。私が『今』置かれた場所で辛くないか聞いてくる」
「仮にもここのまとめ役だからね。特に女は繊細だからさ、私も常に気は配ってるわよ。中には…あんたと同じ様にそう言うのにトラウマあってもここの仕事就くしかなかったりさ」
 ロードはそれを聞き肩を竦めると、
「それはそれは…道理で私の中の諸々が真逆の方向に向くわけです」
 と言って微笑んだ。
 ロードがポリーンの元に通う様になってあらゆる意見に触れた。フランクやギデオン、キンバリーにとって人とは首を垂れるか見下すかしかなかった。ここは弱肉強食の世界だし、自分の意思との違和感は感じたが、ロードもゆくゆくはそう言う他人との関係性の築き方で生きて行って良いと思っていた。
 しかし、ポリーンは言った。
 こうだからと言う決め付けの元、人を判断してはならないと。人は自分の鏡だと言う事。人をぞんざいに扱えば、自分もぞんざいに扱われると。
 初めて聞いたその価値観に納得出来たのは、おそらくロードも本来それを良しとする人間だったからで、フランク達のやり方には無理矢理合わせていたからだ。彼らは実の母の元から確かに救い出してくれた。しかし彼らのやり方に心から賛同するには、ロードは些か歳を取り過ぎていた。
 ポリーンからの教えに傾倒し、それを実践してロードは他の娼婦からの寵愛も得て行った。人をぞんざいに扱えば自分もぞんざいに扱われる。逆を言えば、人を大事に丁寧に扱えば自分も相手に受け入れられるのだ。フランクよりもポリーンのやり方の方が正しいとロードが覚えるのに充分過ぎる材料だった。
 娼婦達は色んな事をロードに教えてくれた。
 女の体は軽いものでは無いと言う自負があるが、寂しさから一時の安らぎと充実感を相手との繋がりに求めてしまうと言う事。ここの女達は皆優しくしてもらいたがっていると言う事。何より、生きている以上幸せになりたいと言う事。そして幸せになるには金と居場所が必要で、いつだって綺麗事だけでは解決出来ない事情を皆抱えて居る事。そしてそれを、否定せずに居てもらえたら幸せだと言う事。
 それらを聞いたロードは、ポリーンから得た感性とを足して自分の中で「こんなところだからこそ優しい真人間で在りたい」と理想を掲げた。フランクのやり方よりも、フランクから聞き齧った穏健派の先代のやり方の方がまだ自分に合っていると密かに思っていたのだ。そんな事を彼の前で言おうものなら追い出されるので言えないが。
「恐怖での支配は一番隷属させる事は容易いです。しかし、同時に謀反のリスクもあります。日頃から信頼、信用を相手との間に築いていればそのリスクを極端に減らす事も可能です。人間は相手と近しい動きをする人間を好意的に見るとも言いますし、つまり相手から好感を得られる柔らかい態度を取り、相手の行動や仕草を少し真似する動きを取り入れれば少なくとも敵は作り難いと言う事です。日頃から敵を作らないと言う事がこの岸壁街で生き抜くのに一番効率的だと判断しました。ミラーリングって言うんでしたっけね?」
 ポリーンは口を半開きにしたまま何も言えなくなった。確かに、人に好かれるのが生きて行く上で一番大事な事だ。しかしロードのこれは、恋愛感情すらごちゃ混ぜに混ぜて居る様に思えてくる。そうなると話は別だ。
「男はプライドで生きていますから、功績や力を認める言葉を使えば比較的良好な関係を築く事が出来ます。女性はどうしたら良いか考えた結果、とにかく優しく或いは望む様に接する事が良いのだと結論が出ました。『優しくして欲しい』と言うなら優しく接し、『言葉が欲しい』と言うなら望む言葉を用意する。『抱いて欲しい』と言うならそれも私の身一つで出来ます。大きな対価を用意せずとも人と人とは少しの対価とテクニック次第で築けるものがあるのです。まぁ、それでも嫌ってくる人は嫌ってくるんですけどね」
 そう言って気付けた事が嬉しいと言わんばかりにニコニコと笑うロードにポリーンは頭が痛くなった。おそらくロードは、いつか自分がサントル・オルディネのボスになった時の為にと色々考えを巡らせたのだろう。
 父の様なフランクの姿を目指し将来のヴィジョンを定め、母の様なポリーンから教えられた価値観を自分なりに取り入れて構築して行く。
 それ自体は子供の成長とでも言うのか、微笑ましい事だがいかんせんロードはかなり極端だった。
 ポリーンは目がチカチカするのを抑えながらロードに尋ねる。あれだけ嫌っていた話題も臆する事なくする様になったのには何か理由があるのだろうか。するとロードはうふふと笑ってポリーンを見た。
「……気持ち良かったからです。単純に。一度きりの人生ですからね、楽しめるだけ楽しまなきゃそれこそ損だと思いました。良い方に、楽しい方に考えなさいと私に教えてくれてありがとうございます。ポリーンさんの仰る通り、未来なんてどうなるか分からない。ですが今出来る事もあります。まぁ、その時楽しめる事にはとりあえず全力を注ぐのが正解ですね。そしてそう言う生き方をするなら人を見下したり嫌うところを探すよりかは良いところや楽しいところを見付けた方が良い。あんなに嫌悪していましたが…女性と行為をするのもまた然り、です」
「……じゃあ、それをあんたに教えた相手は誰だい?」
「うふふ、内緒です。敢えて誰が初めてか分からない様に前後で皆さんに緘口令を敷かせていただきました。初めての方にもそれを明かしていません。その辺りは暈していますよ。その事に関してはそうですね…墓場まで持って行くとでも言うのでしょうか」
「……全く…どこの地上のアイドル気取りなんだい?あんたは」
「うふふふふ」
 その時、ポリーンに用があると部屋を訪ねて来たジャッキーがロードに気付ききゃあきゃあと黄色い悲鳴を上げながら遠巻きに手を振った。ロードもそれに気付くとすぐに手を振り返す。少なくともロードのアイドル気取りを助長させているのはアイツか、とポリーンは舌打ちしたくなった。
「はぁ…もう良いよ、今日は帰りなロード」
「え?せっかく呼んで下さったのにもう追い出されるんですか?つれないですねぇ…」
「…あんた、くれぐれもそこらで女引っ掛けて帰るんじゃないよ」
「え?でもそこで困っている人が居たらそれは私の善意からですよ?」
 キョトンとするロードに嫌な予感がしてはいたが、極端な彼は身一つで出来る善意と思われるものは今後の人生の為に全てやり仰る──つまりその時価値観の合った女に望まれたら抱いてやるくらいの気概で居たらしい。ポリーンは彼の変わり様に頭を痛めながらもしっしっと追っ払う様に手を動かした。
「良いから!とにかく今日はあのムサい男共のところへ真っ直ぐ帰りな!!あんたねぇ、そんな事してたらいつか刺されるよ!」
「うふふ、それもまた勉強と言う事で」
「ロード!!今日ポリーン姐さんのとこにいたんでしょう!?次は私の所に来てね!!」
「ええ、またお話聞かせてくださいね、ジャッキーさん」
 きゃあきゃあと煩いジャッキーの声を背に去って行くロード。全く、価値観が百八十度引っ繰り返る何かに出会うと「生まれ変わる」が如く人は変わるとはよく聞くが、まさかあの嫌悪しか無かったロードがこんな女誑しになるだなんて。
 しかし、ロードの言う「善意」が娼館に来て金を落とす事だとするならば、それは大変有り難いので否定する事も出来ない。ただ困っていそうだからと金を施されるのは本意では無いし、それでは客と娼婦以上に対等に扱われて居らず立場に隔りが出来てしまうからだ。
「はぁ…!ロードって本当可愛い…!!」
 最早ロードしか見えていなさそうなジャッキーの目は蕩けに蕩けている。ポリーンは溜息を吐きながら彼女の頭を叩いた。
「ったく!プロの女があんな餓鬼にうつつ抜かしてどうすんだい!?」
「だってー!ロード可愛いんだもん!!」
 全く。『岸壁街の女に理解のある男』を他でもないサントル・オルディネの構成員の中で作ろうと言う下心は確かにあったが、理解を通り越して一見すると女の敵にすらなりかねない男に成長すると誰が思うか。
「あいつの極端さは本当に……こんな教え方で諸々変わるなら真剣に恋でもしたら一体どうなるのやら」
「え!?恋!?ロードが!?嫌だぁー!」
「嫌だっつったっていつかある事だろ?」
「んー、相手私だと良いな!!」
「あんたの頭お気楽っぷり、本当ナンネルを思い出すわね……」
「ナンネルと言えば!息子のテオ君も良い男に育ったのよね!!」
「……あんた、年下好きだったの?ちょっと引くわ」

 * * *

 テオフィルスは娼館を遠目に見た。ここはかつて母が所属していた所でもある。ナンネルは子供を妊娠した事で一時仕事が出来なくなり、ポリーンから「子供が産まれたらすぐに出て行く事」を条件に無償で部屋に置いて貰っていた。
 それは、ポリーンなりの優しさだったのかもしれないとナンネルは言っていた。
『あんた、せっかくお貴族様の血が入ってるのに、あの娼館ってマフィア絡みまくってるから。男の子が生まれたらほぼ皆構成員にするって連れてかれちゃうんだって。それは辞めた方が良いから気付かれる前に出て行けって私が姉の様に慕っていた姐さんが言ったの。だからこっそり出て来たのよ!』
 ナンネルにそう言われ「いや、それでこんなに貧しい暮らししてたら世話無くねぇ?」と最初は思っていた。何より彼女は若くして自分を置いて亡くなってしまったし、その後は誰にも頼れずなかなかに過酷な生活を送っていたのだから。
 しかし、ある程度一人で生きられる様になって気が付いた。おそらく自分は、大人に囲まれて大人の駒になる生活をするよりも、子供達のグループでそこの年長者として振る舞う方が性に合ってる。
 銃で撃った、撃たれたなどと言う単純明快だが怪我の絶えない生活を送るより、女の話し相手をし、彼女達に一時の安らぎを与える為に頭を使う生活の方が自分に合っている。現に、子供達の集まりの中では金額が良いからと最下層の組織から仕事を貰った者もいた。おそらくそれは盗みだ何だと生やさしい内容ではない筈だ。現に彼等は生活を変えようと仕事を引き受けたが、二度とテオフィルスの前に姿を現さなかった。
 死んだら終わりだ。貧乏が何だ、死んだらそこで終わりだ。生きていればまだ何か足掻ける事もあるのかもしれない。こんな俺でも。
 そう思えられたのは偏に彼女の存在が大きかったのかもしれない。
「テオ」
 もくもくと唐揚げを頬張りながらこちらを見ていた青と緑の混ざった瞳。その唐揚げは先程自分が女からもらった戦利品なのだが、この目の前の彼女は本当にそう言うのはお構い無しなのだ。
「こら、ヴォイド。そりゃ俺ンだ」
「あっ、もう一口」
「がめついな!」
 そうは言いつつ結局甘えさせてしまう。
 ふと、遠くに自分と同じくらいの少年の姿を見た。シャツにスーツと言う小綺麗な格好の彼は迷う事なく娼館の扉を開き、そして中に入っていった。
 自分と何もかも違う。小綺麗な格好に、娼館に客として入る羽振りの良さ。
 絶対仲良くなれないな、と笑うテオフィルスをヴォイドは不思議そうに見つめた。
 人の世はえにしと言う言葉が東國にある。それを知ったのはテオフィルスが二十八歳の時──マルフィ結社に入った後そこで本を読んでいてその言葉に気付いた。
「おや?東國の言葉ですか?」
 そう言って珍しそうに目配せするロードに笑みを見せ、
「本当、人生ってわかんねぇな」
 と言ってみる。ロードもにこりと微笑んだ。
 幼い頃、どこかで何かの選択を間違えたらもしかしたらこの人生は無かったかもしれないし、この感性の互いに出会えなかったかもしれない。
 そんな事を思いながら、ロードもテオフィルスも、密かに昔に想いを馳せていた。
 テオフィルスは、まさかロードが岸壁街の出であるとも知らずに。ロードは、まさかテオフィルスの母が自分もよく話に聞いていた娼婦であったとも知らずに。自分達の背後に共通点がたくさんあるともまだ知らずに。