薄明のカンテ - Ancola ancola/べにざくろ

夢よ、もう一度

 之は夢だ。
 セリカは夢の中で、之が明晰夢である事に気付いていた。
 風に靡く己の長い黒髪、今はあまり着なくなった洋服。
 其れは後に「 ケンズの悲劇 」と呼ばれるようになった惨劇が起こる前に出掛けたとある街での自分の姿だ。見渡してみれば街の景色にも見覚えがある。久し振りに訪れた街は様変わりしていてセリカは夫との待ち合わせ場所である店の場所が分からず、この時のセリカは困り果てていたのだ。
 誰かに道を聞くべきだろうか。
 それともベンジャミンへ連絡をするべきか。
 ベンジャミンに連絡をすれば、きっと彼は呆れた顔を見せるだろう。
 そうして「 ケートならば道に迷うなんて愚行はしない 」と言うのだろう。
 ケートは機械人形マス・サーキュであり地図がインストールされているのだから人間のように迷うはずなんてなく、比較するなんて馬鹿馬鹿しい事だというのに彼はきっとセリカとケートを比較してセリカに失望するのだ。そうしてセリカへの愛情の数値を減らして、ケートへと加算していくのだ。
 早く約束の店に行かなくては夫の愛情が時間と共に減っていくような気持ちになる。
「 困りましたねぇ…… 」
 過去と同じようにセリカは頬に片手をあてて独りごちる。
 あの時は本当に困っていた。しかし、今のセリカは知っている。
 この状況下のセリカを助けてくれる親切な人がいるという事を。
「 お姉さん、どうした? 困り事? 」
 そう言って声をかけてくれたのは焦茶色の髪をした兎頭国出身だという青年だ。
 そうして過去と同じ受け答えをして、過去と同じように彼が道案内をしてくれることになる。
「 お姉さん、よく俺の事信用してくれたよね…… 」
「 ふふ……全幅の信頼は残念ながら寄せられませんよぉ 」
 そんな会話をしながら兎頭国の伝統的な衣装に沢山の編み込みをした不思議な髪型( 後で調べてコーンロウという名称と知った )の青年と並んで歩く。横に並んで歩いても彼はベンジャミンのように「 女は三歩下がって歩くべきだ 」なんて眉を顰めることもしないし、思わず服が気になって視線を送っても「はしたない」と決して言わない。
 彼を眺めていると、彼の表情が時々切ないものに変わる事に気付く。心做しか髪色と同じ焦茶色の瞳が潤んでいるように見えて、きっと彼にも何か事情があるのだろうと察して励ます意味を込めて微笑んでおく。
 彼の顔を見つめていると何だか胸の鼓動が早くなる。
 人妻だというのに、確かにこの時のセリカは彼に心惹かれていた。心が弾む気持ちになるなんて何年振りの事だったのだろう。
「 素敵です。私、兎頭国の文化って好きなので 」

――そんな文化の香りを纏った貴方も好きです。

 会話の中でほんの少しだけそんな意味を込めて伝えてみるが、彼から返ってきたのは「 ……ふーん。そうなんだ 」という素っ気ない返事だった。
 彼は此方の事は人妻だと知っている訳だし、今会ったばかりの素性も知らない他人同士であるのだから当然の返答だ。それで良い。之はセリカの自己満足なのだから。
 やがて、夫と合流するお店が見えてきて彼との時間は終わりを告げる。
 彼はセリカの実家のあるラシアスにも今住んでいるケンズにも来た事は無いらしいので、どちらも素敵な場所である事を言っておく。もう一度会えたら良いな、なんて事を思っていたのは彼には秘密だ。
「 どっちかって言うと着物の方が似合いそうだけどね 」
 彼の最後の言葉はセリカの心を打った。
 セリカだって本当は結婚する前のように着物が着たかった。しかしヤマトナデシコを愛するわりにはベンジャミンが着物を着ることを嫌うから着ることが出来ないでいた。カンテ国の大部分の人間は洋服を着ており、その中でセリカが着物を着ていればそれだけで目立ってしまう。それをベンジャミンが嫌ったのだ。君は目立つべきではない、と。
「 ……それが聞けただけでも嬉しいですぅ 」
 本当に心から嬉しかった。
 ほんの十数分一緒にいただけなのに彼はセリカの望む言葉をくれた。
「 じゃあ 」
 道案内をしてくれた彼は、あっさりとした態度でセリカに背を向けて振り返る事もせずに街の雑踏へと消えていこうとする。
 その背中を、あの日のセリカは見送るだけだった。
 だけど、今日は夢の中。何をしたって良いじゃないか。
「 あのっ!! 」
 大きな声を出すなんてみっともない。
 そう思いながらもセリカは声を上げて彼の元へと駆け寄った。彼の振り向いて驚いた顔の黒みがかった茶色の目と、セリカの金色にも見える目が合って視線が絡み合う。
 その瞬間、セリカは彼に既視感を抱く。過去の出来事の再現なのだから既視感は当たり前のことなのかもしれないが、それ以上の既視感が彼にはあった。
「 ファン、さん……? 」
 マルフィ結社で見知った兎頭国人の苗字を思わず呟くと、彼が破顔する。
 まさか。そんな筈は。
 その瞬間、セリカの意識は暗転した。

今日和、現実よ

 弾かれたように目を覚ます。
 そこはガタガタと揺れて決して寝心地が良いとはいえないトラックの荷台だ。
「起きたんすか、セリカさん」
 声をかけられて横を見ると、そこには第三小隊仲間のルーウィンが肩を撫でている姿があった。見回せば他の隊員達も苦笑して此方を見ている。
 戦闘の帰り道、どうやら自分はトラックの荷台でルーウィンの肩を枕に転寝うたたねをしていたらしい。
「 ……御免なさい、ルー君 」
「 肩は疲れましたけど良いっすよ 」
 ルーウィンへ謝罪の言葉を口にすると、彼はそう言いながらも大きな傷が残る顔に純粋とはいえない可愛げのない笑みを浮かべた。
「 それにしてもセリカさんが寝るとか珍しいっすね。アレっすか? 年取ると睡眠が浅くなるっていう…… 」
 余計な事を言う可愛くないルーウィンにセリカはニッコリと微笑む。
「 あらぁ? ルー君は走って帰りたいのかしらぁ? お手伝いしますよぅ? 」
「 私も手伝うわよ 」
 お前をトラックから突き落としてやろうか、と言外に匂わせながらセリカが言うと前方の助手席からバーティゴの加勢の声が上がった。まさかの小隊長参戦にルーウィンの顔が引き攣った。
「 何で姐さんまで…… 」
「 あら。セリカに『 年取った 』なんて言うのだから私にも言っているのと同義じゃない 」
 セリカよりもバーティゴの方が年齢が上である。それは勿論ルーウィンも知っているが此処でバーティゴが参戦をしてくるとは予測していなかったらしく明らかに狼狽えている。セリカが言うのは冗談に聞こえるが、バーティゴが言うと本当にトラックから下ろされて走らされるように聞こえるからだ。
 それが分かっているバーティゴは敢えて上機嫌そうな声でトラックに乗る他の第三小隊のメンバーに声をかける。
「 誰かロープはあるかしら。道に迷わないように縛って走らせなきゃいけないから丈夫な物が良いわね 」
「 お姉様、ロープなら此処に破損した機械人形マス・サーキュを括る時に使った残りがありますぅ 」
「 それなら大丈夫そうね。セリカ、縛ってやりなさい 」
 トラックから下ろされ両手を縛られて走らされる自分を想像したのかルーウィンの顔が徐々に青くなっていった。万が一にも走らされたらトラックのスピードについて行けないルーウィンは引き摺られていくだけだ。
「 さあ、ルー君。しっかり縛ってあげますからねぇ 」
 悪ノリしたセリカもロープを構えて扱きながら微笑む。
「 勘弁して下さいよ、姉さん達…… 」
 そう言ってルーウィンは白旗を上げた。

 * * *

 本部へと帰ってきたセリカは愛刀を片手に携えて自室に向かって足早に歩いていた。
 本来ならば戦闘後には今日の戦闘の報告を纏めたりと色々な仕事がある筈なのだが、それはルーウィンに「 俺がやっときますよ 」と言われて追い出されてしまったのだ。どうやら珍しく転寝うたたねなんぞをしたせいで体調不良を疑われているらしいので、そんな事は無いのだが今日のセリカはルーウィンの言葉に甘える事にした。今日はもう部屋に帰って誰にも会わない方が良いと判断したからだ。
「 絶対に違う筈なんですぅ…… 」
 廊下に誰も居ないのを良い事に頬を少女のように赤く染めたセリカは誰に言うでもなく呟く。
 先程の転寝うたたね中に見た過去の中で呼び止めた不思議な兎頭国人の彼の顔が結社でも見知った兎頭国人と被って見えたのは気の所為だ。夢の中で記憶が現在と混在して勝手に顔が混じってしまっただけに違いない。そうだ。そうに決まっている。
 顔がギャリーに似てるな、と思って改めて考えてみると道案内をしてくれた不思議な兎頭国人の彼とギャリーの身長も体格も同じような気がしてきていた。いや記憶よ、混在するな。彼とギャリーは別人だ。
 結社でも見知った兎頭国人――ギャリーに今だけは会いたくなかった。
 しかし、そう思ったタイミングの悪い時に限って出会ってしまうのが人間の運命というものなのである。
「 セリカちゃん? 」
 背後から聞こえたのはセリカの名前を呼ぶギャリーの声だった。
 何だか声まで夢の中の彼のそれと同じ気がしてきて、セリカの鼓動が跳ねる。
 ギャリーの声は決して「 聞こえませんでしたぁ 」と言い訳をして無視できる声量ではなく、セリカは平静を装っていつもと同じ穏やかな笑みを顔に貼り付けて優雅に振り返った。
「今日和、ファンさ……ん……?」
 顔から笑顔の仮面が剥がれ落ちた。
 目を丸くしてセリカはギャリーを見つめる。
「 どうした? 俺の顔に何か付いてる? 」
「 ええ。眉と目と鼻と口が 」
 そう言う自分の声は僅かに震えているような気がした。それは些細な変化だから本人であるセリカが分かる程度の事で、ギャリーには決して気付かれてはいないだろうけれども。その証拠にギャリーはいつものようにヘラリと笑っている。
 しかし、その笑うギャリーの目には涼やかに華やかに目元を飾るシャドウとラインがあった。更には、どうやらファンデーションも塗ってあるようでギャリーの女性的な顔立ちが引き立っていて別人のようだった。
 極めつきは髪型だった。いつもはハーフアップで緩やかに流している髪が、今のセリカは名称をちゃんと知っている髪型――コーンロウになっている。
 そういえば服装も夢の中の彼と全く同じ色、柄の気がする。
 夢の中で会ったギャリーが現実にいて、セリカの頭は混乱していた。
 もしかしたら今も夢? 現実は何処にいってしまったんでしょう?
 兎に角、何か言わなければ。セリカは失礼にならない程度にギャリーから目を逸らしつつ声を絞り出す。
「 ……今日はお召し物も髪型も違うんですねぇ 」
「 気分で変えてみたけど、どう? 似合う? 」
「 ええ、とても良くお似合いですぅ…… 」
 似合いすぎてセリカの記憶が書き換えられてしまいそうな程に。
 否。
 之が正解なのではないか。
 つまり、セリカがかつて出会って道案内をしてくれた親切な兎頭国人の青年は、今目の前にいるギャリー・ファンだったのだ。世間は狭いというが本当である。

――顔を見て会話を交わしたのなんて凄く短い時間だったのに、その不思議な男性の事が何だか忘れられないんですよぉ……。

 かつて親切な彼の事を思い出している時にギャリーに言った言葉が思い出されてセリカの脳内をグルグルと渦巻いて巡る。
 其れをまさか自分は本人に向かって言っていたのか。何てはしたない。
 あの時のセリカは心惹かれてもベンジャミンという夫が居る人妻で、あれは一時の夢で済んだ。しかし、今はベンジャミンはいない。セリカを縛る立場の枷は何も無い。
 そう考えた瞬間、頬が再び熱を帯びる気がした。
 ギャリーは優しい。だけど、それはどの女性に対しても変わらない。
 それに自分は彼よりも歳上であり、未亡人という面倒臭い女でもある。そんな女を決してギャリーは選ばない。彼に似合うのは自分とは正反対の華やかで可愛らしい若いお嬢さんだ。ついでに性格は淑やかで三歩引いて歩いて常に男を立ててやるような女の子に違いない。男なんて皆、そういう女が好きに決まっているのだ。
「 あ、あの、私……用があるので失礼しますぅ…… 」
 冷静と情熱の狭間で揺れ動く感情を処理できなくなったセリカは脱兎の如く逃げ出そうとした。しかし、思い込みだけでは良くないと脳の冷静な部分が足を止めさせた。
 まだ、彼が本当にあの“ 彼 ”とは限らない。
「 ファンさん 」
 振り返って、もう一度改めてギャリーを見つめる。
 どう見ても道に迷った時に助けてくれた彼がそこに立っていた。今はセリカの奇行に対して怪訝な顔をしているけれど、微笑めば間違いなくあの時の彼だ。
「 其れは兎頭国では皆が好む格好ですかぁ? 」
 もしかしたら。誰しもが今のギャリーと同じ格好を好むならセリカの勘違いということになる。いや、むしろそうであれ。
 しかし、祈るように返答を待つセリカの耳に届いたのは死刑を告げる裁判官の無慈悲な言葉と同じものだった。
「 いや? 俺は好んでしてるけど 」
「 そ、そうなんですかぁ……あの、もう一つ聞いていいですかぁ? 」
「 何? 」
 その格好で昨年、迷子の女性を道案内しませんでしたか?
 しかし其れを聞いてしまえば、なし崩しにその女性がセリカだったとギャリーに気付かれてしまう事に気付いたセリカは口をつぐむ。
「 矢っ張り何でも無いですぅ…… 」
「 セリカちゃん、大丈夫かや? 」
「 近寄らないで下さい!! 」
 咄嗟的に鞘に入ったままの愛刀を振って近付こうとするギャリーを阻止する。ギャリーが驚いた顔をしているが、今のセリカに彼を気遣う余裕は無かった。
「 今後、半径二メートル以内に寄らないで下さいますかぁ……? 」
 おそらく今の自分は耳まで真っ赤になっていることだろう。それを隠すことのできる長い髪がないことをセリカは今だけ悔やんだ。
 そして、この僅かに離れている距離でギャリーに自分の真っ赤に染まった顔色が気付かれていないことを祈りながら、今度こそセリカは脱兎の如くその場を立ち去ったのだった。



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