薄明のカンテ - Alles Gute!/べにざくろ
Alles Gute zum Geburtstag! ―― お誕生日おめでとう!



2172年7月17日

 唐突に扉のインターホンが鳴って、休日の朝の優雅な珈琲タイムを楽しんでいたリアムは肩を跳ねさせた。驚いた拍子に珈琲が変なところに入ってしまい若干むせた後、リアムは訝し気な表情を浮かべたままテレビドアホンを取った。そこに映るのは誰もいない・・・・・廊下であり、リアムは誰か社内の人間のつまらない悪戯かと結論付けることにした。
 というのもリアムの勤務する会社の借り上げ社宅となっているマンションはオートロック式で、鍵を持たない住民以外はインターホンで目的の部屋を呼び出しオートロックを開錠してもらう必要がある。しかしリアムが誰からの連絡も受けてはいないとなれば、残るのは同じマンションに住む誰かの悪戯という事しかない。
「 悪戯は他所でやれ 」
 乱暴にドアホンを戻して吐き捨てるように呟くと、リアムは気持ちを切替えて残りの珈琲を楽しむことにした。しかし、再び鳴るインターホンに切れかけていた堪忍袋の緒は綺麗に切れた。
「 ……ふざけるな 」
 苛立ったリアムは今度はドアホンをとらず真っ直ぐに玄関へと向かった。不審者がいて危険だとかそういった不安が無いわけでは無かったが、それよりも何よりも怒りが彼を突き動かした。今なら殺人犯が立っていても殺れる。それ位、リアムは怒っていた。
「 きゃっ!! 」
 怒りに任せて扉を開けると幼い少女の悲鳴のような声が聞こえて、リアムは扉を子供にぶつけてしまったかと焦る。しかし、このタイミングでいるならば彼女が犯人かもしれないから少しくらい痛い目を見ても良いのではないかとも悪い自分が囁くが、善なる自分が子供には優しくしろと叱っても来る。善悪の感情が揺れ動き動けずにいたリアムの前にドアの後ろから少女が顔を覗かせた。金髪に黒い目をした可愛らしい未就学児程度の年齢と思しき女の子だが、リアムの記憶にその子の記憶は全くなかった。
「 りあむしゅみっとさん? 」
 リアムの前に立つと、誰かに教えこまれたのか棒読みで女の子はリアムをフルネームで呼ぶ。嘘をつく理由も思いつかなかったリアムは大人しく頷いて肯定したが、それは彼女のお気に召さなかったらしい。ぷうっと頬を膨らませた女の子がビシッと言い放つ。
「 お返事はちゃんとお口で言うべきよー! 」
「 ……そうだ。私がリアム・シュミットだが人に名乗らせる前に自分が名乗るべきだろう 」
 子供にいう話し方ではないとは思ったが、他に良い話し方も思いつかなかったリアムは淡々と言い返した。他人に冷たい印象を与えることの多い顔と相俟って、かなり冷たく聞こえたと思うが女の子は怯えることも泣くこともなく黒い目で真っ直ぐにリアムを見上げている。
「 わたしはリリアナ・イバニェス、4歳です 」
 その名前にも聞き覚えが無かった。
 それに社内の人間に『 イバニェス 』なんて苗字の人間はいただろうか。
「 イバニェス…… 」
 しかし、リアムには妙に聞き覚えのある苗字だった。しかも今の会社ではなく、もっと昔に聞いたことがあるような気がする。
 やがて、脳裏に一人の女性の姿が浮かび上がる。
 それは金髪に青い目の奔放な性格をした女性だ。
「 ナタリア・イバニェス……? 」
 それはリアムが学生の頃に付き合っていた女性の名前だった。卒業と同時に別れてしまった為に6年程・・・会っておらず、思い出すのが遅れたのだ。
 まさか、とリアムが驚愕しながらリリアナを見ると、彼女は背負っていた子供用のリュックにしては随分と大きなリュックから一枚のカードを取り出してリアムへと差し出す。
「 はい、どうぞ 」
 小さな手から受け取ってみると、それは可愛らしい柄のバースデーカードだった。バースデーケーキを囲む動物たちが笑顔でお祝いをしているという女子ならば喜びそうな可愛らしい柄。
 しかし、とてつもなく嫌な予感がした。
 バースデーカードに描かれた動物の笑顔がリアムを嘲笑っているかのように見える程に。
「 ママからよ 」
「 そうか……ママからか…… 」
 言われてみるとリリアナとナタリアの金色の髪は良く似ていたし、顔立ちも気の強そうなつり目がちの目が似ているような気がする。ナタリアを小さくしたようなリリアナの姿だが、目の色が違うのは父親が黒い目だからかと薄茶の目をしたリアムは思いながらカードを開いた。

――誕生日おめでとう、リアム!
――リリアナはあなたの子供だから誕生日プレゼントよ!!

 中のメッセージを見たリアムは膝から崩れ落ちそうだった。崩れ落ちなかったのは、偏に目の前に幼い少女がいたから大人として恥ずかしい姿を見せてはいけないという自尊心プライドが働いたからに他ならない。
 リリアナは本人の名乗りを信じるならば4歳・・であり、リアムがナタリアと別れたのは6年前・・・で計算が合わない。それにナタリアは青い目、リアムは薄茶の目であって、そこから黒い目のリリアナが産まれるとは考えにくい。
 分かりやすいくらいリアムとリリアナの親子関係は否定されている。
 それなのにナタリアはリアムにリリアナを押し付けてきた。
 余程、リリアナが要らなくなった――例えば再婚が決まりそうで連れ子のリリアナが邪魔になったなど――大人の勝手な事情があるのだろう。
 可哀想に、と同情の目でリリアナを見つめていたリアムだったが我に返ったリリアナに問い掛けた。
「 ……ナタリアは何処に行った? 」
「 ママとはマンションの前で別れたの 」
 おそらくはナタリアは既にこの近くにおらず、逃走済みなのだろう。
 そして残されたリリアナはオートロックを解除した住民か誰か来客がいた時に一緒に中に入ってきた。そしてリアムの部屋のドアホンを近くにあった台を使って押したのだ。( 台は隣家のものだったので、リアムはそっと戻しておいた )泣ける話である。
 当然、ここでリアムはリリアナを拒否して警察に任せるなり行政へ押し付けることはできた。しかし、リリアナをナタリアの所へ戻すのはリアムの良心が咎めた。何故ならリリアナはナタリアに追い出されたも同然なのだから、無理に戻したところで彼女が幸せになれるとは到底考えられないからだ。
 しかし自分とて独身の男性である。子育ての経験は無い。
 それに見知らぬ男に懐くのだろうかとの不安はある。
「 ナタリア……ママは何と言って私の所に行けと言った? 」
「 『 アンタの本当のパパの所で暮らしな 』って 」
 そう言ったリリアナは子供らしからぬ困ったような笑みを浮かべた。
「 でも、あなたはリリアナのパパじゃないのでしょう? ママは私がいらないから、とりあえずあなたのところに送ってきたと思うの 」
「 どうしてそう思うんだ? 」
「 女のカンよ 」
 予想外の反応が返ってきてリアムは面食らうが、リリアナは相変わらず子供らしからぬ表情を浮かべるばかりだった。そんな表情を子供が浮かべるなんてどういう教育をナタリアから受けたのか、はたまた受けなかったからこそ子供らしさを失ってしまったのか。
「 それならば戻った所で辛い思いをするのは理解できるな? 」
 子供には酷な質問だと思ったがリアムは問いかけずにはいられなかった。てっきり泣いてしまうかとも思ったが泣きだすこともせずリリアナは頷く。
 これだけ物分かりの良い子ならば世話をするのも少しは楽かもしれない。
 そう考えたリアムは玄関前にずっと立ちはだかるように立っていたのだが身体をずらした。そんなリアムの行動の意図が読めないリリアナは、どこか惚けたような顔でリアムを見つめる。
「 家には子供向けのものは無いが最低限の衣食住は提供しよう 」
 そう言ってやると最初は言葉の意味が分からなかったリリアナだったが、やがて目を輝かせた。
「 いいの? 」
「 私には子供を路頭に迷わせる趣味は無いからな 」
 そう言ってリリアナがバースデーカードを取り出すために床に置いていたリュックを手にする。リュックは思っていたよりも重みがあり、チラリと中身が見えたがどうやらリリアナの着替えとかそんなものがパンパンに詰まっているようだ。それを4歳の子供が背負ってきたと思うと切ない気持ちになる。

 リアム・シュミット、28歳。
 こうして、4歳の娘を誕生日プレゼントに貰うという稀有な経験をしたのだった。

2173年7月17日

 朝のニュースが『 国内の47%の機械人形マス・サーキュが暴走』と告げている中、リアムとリリアナはミクリカにいた。
 機械人形マス・サーキュのセキュリティ部門に携わる身としては本来ならば一刻も早く会社に戻るべきであるのだが、電車も混乱しており社に戻ることは難しそうであると判断してリアムは本来の用事を済ませることにした。事情を良く知る同僚達とは電話で話しただけであるが誰もが無理に帰って来いとは言わず、むしろ「 頑張れ 」と励まされたほどだ。
「 ねぇ、パパ 」
 ミクリカの中央通りを歩きながら、リリアナが隣を歩くリアムを呼ぶ。
 リリアナはいつの間にかリアムを「 パパ 」と呼ぶようになっていたし、リアムもそれを止めはしなかった。
「 どうしてママに会わなくちゃいけないの? 」
「 リリの親権を正式に取るためだ 」
 そして、リアムもリリアナのことを愛称の「 リリ 」と呼ぶようになっていた。この一年で二人は親子としての関係を見事に形成していたのである。
「 よくママが見つかったね 」
「 アスにいる優秀な探偵を紹介して貰ったからな…… 」
 リリアナが母親のナタリアと暮らしていた家は気付いた時には引き払われていた。近所の人間とは付き合いがなかったらしく引越し先は不明。困り果てて警察関係の友人に愚痴を零したところ紹介されたのがアスのとある興信所だった。探偵だと名乗る肌以外が黒い男に半信半疑で依頼をすると、その探偵はどんな技を使ったのかあっという間にナタリア・イバニェスがミクリカにいると見付けてきた。

『 之が彼女の連絡先。有効に使用してくれ給えよ 』

 しかも見つけるだけでなく連絡先まで抑えてくる完璧ぶりである。依頼をして探し人を見つけてもらっておいて何だが男の能力が恐ろしく見えてくる。もう会うこともないだろうが。
「 パパ! 約束のケーキ屋さんはここ!? 」
 探偵のことを思い出していたら約束の店を通り過ぎる所であったが、すんでのところでリリアナの声に我に返った。掲げられた看板の文字には『 Cherry×Sherry 』とあり、確かにそこはナタリアとの約束のケーキ屋だった。
「 ああ。此処だ 」
「 すてきなお店ね! 」
 リリアナが喜びの声を上げる。流行といったことに疎いリアムと大人ぶっていても幼いリリアナは知らなかったが『 Cherry×Sherry 』はテレビ等のメディアにも取り上げられることの多いミクリカでも有数の人気店である。リアムがナタリアに連絡をとったところ、彼女にこの店を指定されたのでそのことを二人が知ることはない。
 店に入ると奥がカフェのようだったのでリリアナの手を引いてリアムは奥へと進む。見回した限りナタリアの姿は無いので店員に言って適当な席に並んで座った。
「 パパ、ケーキ食べたい! 」
「 この時間では昼食代わりになりそうだが……仕方ないか 」
 ケーキ屋に来てケーキを食べたがる娘に食べさせないなんていう酷なことをする気はリアムには無かった。楽しそうにメニューを眺めているリリアナはまだ文字が全部読める訳では無いので一つ一つケーキの名前を読んでやり何が良いか選ばせる。
「 人気があるのはフルーツタルトのようだな 」
「 わたし、それがいい! 」
 リリアナがフルーツタルトを選択したのでリアムは店員を呼んで注文をする。やがてフルーツタルトが届いてリリアナが食べ始めた時だった。
「 ごめん、遅れたわ 」
 リリアナと同じ金の髪を靡かせた女が大して謝罪の気持ちの籠らない言葉と共に現れてリアムとリリアナの前の席に座った。
「 ナタリア……久しいな 」
「 そうね。大学卒業以来会っていなかったものね 」
 卒業以来会っていない。
 それはリリアナがリアムとの間の子ではないと認めている言葉だった。
 しかし、リアムはその言葉を咎めたりはしない。既にこの一年の間にリリアナとのDNA鑑定も済ませて親子関係が無いことは科学的にも確認済みだからだ。
「 リリアナも大きくなったわね 」
「 ……パパのおかげよ 」
 フルーツタルトから目を離すことなく、つまりはナタリアを見ることもなくリリアナは呟くと大人しくフルーツタルトを口に運んでいた。捨てたとはいえ実娘にその態度をとられたので傷ついたとばかりの顔をしてナタリアは肩を竦める。しかし、リアムはナタリアに対して同情の気持ちなんて欠片も湧いてこなかった。傷ついたというならリリアナの方がずっと傷ついている。
 だから何も言わずにリリアナを正式に引き取るために必要な書類を鞄から取り出してナタリアの前に置いた。
「 書け 」
「 あなたって相変わらず偉そうに喋るのね! 」
「 娘を捨てた母親に下手したてに出る必要があるのか? 」
 冷え冷えとした目を向けるとナタリアは返答に詰まり口をもごつかせたが、やがて書類と一緒にリアムが置いたペンを手に取ると乱雑にサインを記入し出す。
「 ――これでいいんでしょ!? もう用は無いわよね!? 」
 書類を書き終えてペンを机に置くのでは気が済まなかったのかナタリアがペンをリアムに向かって投げつけてくるが、リアムは眉ひとつ動かすことなくそれを受け止めた。ぶつけることの出来なかった苛立ちでナタリアが舌打ちをする。
「 お客様、ご注文のお持ち帰り用のケーキなのですが…… 」
 タイミングが良いのか悪いのか。
 その時、困惑した表情を浮かべた店員がケーキの箱を手にリアム達のテーブルへやってきた。持ち帰り用のケーキなんてリアムは注文していない為ナタリアへ視線をやると、立ち上がった彼女は店員から箱を奪うようにして受け取って出口へとさっさと歩き出す。
「 ナタリア!! 」
「 うるさいわね! 慰謝料よ!! 」
 慰謝料も何も、こちらに非は無いのだからむしろ貰いたいのはリアムの方である。しかし言い返したい気持ちはあるが、相手は二度と会うことの無い女だと自分に言い聞かせてリアムは怒鳴りたい気持ちを堪えた。
 リリアナを正式に自分の養子にするための書類は揃った。
 もう、あの女との縁はそれだけで良い。
「 ……悪かったな、リリ。不快な気持ちにさせて 」
 苛立ちを飲み込んでリアムは自分が出せる中では最も優しい声でリリアナに声をかける。そんなリアムにリリアナは首を横に振った。
「 悪いのはママ。パパは何も悪くない 」
 リリアナの言葉にリアムの目頭が熱くなる。
 何かリリアナに応えなければいけないと思うのに、みっともなく声が震えそうになって言葉が紡げない。店内に設置された柱時計が正午を告げる音を鳴らしているのを隠れ蓑にしてリアムは息を整えた。12回鳴る間には心も落ち着いてくれることだろうと思って。

「 ……解析終了……実行します 」

 落ち着きを取り戻したリアムの耳に届いたのは感情の無い機械的な音声。
 過去に感情プログラムを入れないで起動してみた機械人形マス・サーキュはこんな声をしていたと冷静に分析する自分と、その声に本能的に危険を告げる自分がいた。
 ナタリアに書かせた書類を鞄へとしまいながらリアムは声の主を探す。
 振り返ると声の主は客が連れていた機械人形マス・サーキュだと直ぐに分かった。
 何故なら機械人形マス・サーキュの手が主人マキールと思しき客の胸を貫通しており、その目が異常を示すように爛々と赤く光っていたからだ。
 誰かが悲鳴を上げる。それが徒競走の号砲のようになって店内は一気に混乱状態となった。椅子の倒れる音。悲鳴。怒号。泣き声。そして――断末魔の叫び。
「 リリ、目を瞑っていろ。出来れば耳も塞げ 」
 リリアナを抱いたリアムは素早く彼女に耳打ちをして指示をすると、リリアナは身体を震わせていたが頷いて指示に従う。機械人形マス・サーキュは二人に背を向けて別の客へと襲いかかっていたため、リアムはその隙に一気に駆け出して店を出た。
「 な…… 」
 店外に出たリアムは絶句する。おかしくなった機械人形マス・サーキュは店内の一体だけではなかったらしい。
 赤く目を光らせた機械人形マス・サーキュによる一方的な殺戮の光景がそこにはあった。

――機械人形マス・サーキュは人間に危害を加えてはならない。

――機械人形マス・サーキュ主人マキールである人間の命令に従わねばならない。

 頭に叩き込まれている機械人形マス・サーキュ法がリアムの脳内を巡る。
 機械人形マス・サーキュは人間を襲わない。
 その大前提が何故破られているのか。原因として考えられるのは、やはり昨夜の機械人形マス・サーキュの異常しかない。
 リリアナを抱き締める手に力を込めてリアムは走る。
 走ったところで行く宛なんてリアムには無かったが周囲の状況を見ながら機械人形マス・サーキュがいなそうな――人間の少ない方へと向かう。明らかに機械人形マス・サーキュが人間を襲っている今、人間の多い方は危険性が高いと判断したからだ。
 何個目かの角を曲がった所でリアムはナタリアに会った。傍に転がるひしゃげてケーキが飛び出した『 Cherry×Sherry 』の箱と同じような姿になったナタリアに。
「 パパ……? 」
 走る振動がなくなったことに違和感があったのかリリアナが声を上げたのでリアムは今、己がしなければならないことを思い出す。
「 大丈夫だ、リリ。大丈夫だから 」
 リリアナの背中をポンポンと優しく叩いてリアムは再び走り出した。
 今、娘を守れるのは父親の自分しかいないのだから。

 * * *

 何処をどう走ったのか。
 リアムが肩で息をするようになってきた頃、周囲に生きた人間の姿は無い場所へと辿り着いていた。周囲を見回すと機械人形マス・サーキュの姿もなく、亡くなって地に伏した人間の姿も見えない場所があったためそこへ向かってリリアナを降ろす。
「 可愛い顔が台無しになっているな 」
 リリアナの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていてリアムは思わず笑みを浮かべてしまう。肩から提げた鞄からハンカチを取り出してリリアナに渡すと彼女はゴシゴシと顔全体を擦り出した。そんなことをすれば目が腫れてしまうだろうと諌めようとも思ったが、状況を鑑みて口を開くことは止めておく。
「 わたし達、死んじゃうの? 」
「 死なないに決まっているだろう。大丈夫だ、絶対に助かる 」
 何の根拠もないことを口に出すことを好まないリアムであったが、今だけはリリアナのために希望的観測を口に出していた。
 リアムの鞄の中には彼にしては珍しいことに珈琲ではなく「 カヌルの雫 」のペットボトルが入っていたので開けてリリアナに手渡す。水を飲んだことで子供らしからぬ落ち着きを取り戻したリリアナはリアムにも水を飲むようにペットボトルを渡してきたので、リリムも少しだけ口にした。今回の機械人形マス・サーキュの暴走が長期的に続いた場合、補給がいつでも出来るとも限らなかったからだ。
 おそらくは軍警が投入され鎮圧にあたるだろうが、カンテ国内の各家庭に必ず一台以上いると言われる機械人形マス・サーキュが全て暴走していたとすれば果てしなく終わりの見えない戦いになることだろう。この暴走がミクリカだけで発生しているのか、国中で発生しているのかも分からない。情報を仕入れようとして携帯型端末を取り出してみるが圏外を示すばかりで何の役にも立ちそうもなかった。
「 パパ!! 」
 端末に目を向けていたリアムの耳に悲鳴のようなリリアナの声が届く。慌てて端末を鞄に滑り込ませながら目を丸くしているリリアナの視線の先へと目をやり、この世に神はいないと悟った。
 目を異常に赤く光らせた一体の男性型の機械人形マス・サーキュが二人を獲物と看做して此方へと走ってくる。機械人形マス・サーキュの洋服にも肌にも赤黒い液体がこびり付いており、其れが妙にハッキリとリアムの目に映った。
 人間の形をしているとはいえ機械人形マス・サーキュは機械であり疲労することはない。こちらは人間であり既に疲労困憊しているため、今からリリアナを抱えて走ったとしても逃げ切れる距離ではなかった。
「 リリ、上手く逃げろ 」
 機械人形マス・サーキュは右耳の穴の奥にリセットボタンがある。異常行動をする機械人形マス・サーキュであっても、そこを押せれば動きは止まるに違いない。
 しかし何の武術も学んでいない一般人のリアムは上手く機械人形マス・サーキュを停止させる自信は正直なかった。もしも止めることが出来たなら上々であるし、駄目でもリリアナが逃げる時間を稼ぐことが出来たならそれで良い。
 感情プログラムは停止していると思っていた機械人形マス・サーキュだったが、リアムが正面に立ち塞がるようにして待ち構えているのを見ると逃げださない獲物を嘲笑うように口が裂けるのでは無いかという程の笑みを見せた。
 リアムに恐怖心が無い訳では無い。それでも、たった一年しか一緒に暮らしていない血の繋がらない娘の為にリアムは恐怖心に蓋をして己の生命を賭けて機械人形マス・サーキュに立ち向かう。
 走ってきた機械人形マス・サーキュがリアムを抱き殺そうとでもいうのか手を伸ばしてくる。その手がリアムの首に触れるか触れないかの瞬間――赤い風が吹いた。
「 ギロ……さ、ま…… 」
 右耳を貫くように刀の刺さった機械人形マス・サーキュが何かを呟くが、やがて目から光が消えて行動を停止する。刀を突き刺したその人物が刀を引き抜くと、支えを失った機械人形マス・サーキュは地面に転がり廃品ジャンクとなった。
「 パパ! 」
 走り寄ってきたリリアナを抱き締めてリアムは風のように現れたその人物を見つめる。刀と呼ばれる片刃の剣を持った赤髪の青年が機械人形マス・サーキュの活動を止めてくれなければ、リアムは死んでいたことだろう。
「 助かりました……有難う御座います 」
「 ……俺は機械人形マス・サーキュを見つけて斬るだけですから 」
 青年の目は虚ろなようにも闘志に満ちているようにも感じられる不思議な色を湛えていた。そして服には機械人形マス・サーキュから流れ出たであろうオイルが返り血のように付いていて、彼が既に幾度も機械人形マス・サーキュと戦ったであろうことが容易に察せられた。
「 南へ行ってください。あちらの方が機械人形マス・サーキュが少ないので多少は安全かと思います 」
 それは青年がやって来た方向だった。リアムが頷くと長居は無用と判断したのか青年はリアム達が走ってきた方向へと走り出す。
「 ありがとうございました! 」
 その青年の背中に向かってリリアナが叫ぶと、青年は軽く刀を持たない手を上げて応えた。その姿が角を曲がって見えなくなるとリアムは再びリリアナを抱き上げて、彼の言う南へ向かって走り出したのであった。

2173年7月18日


――南へ行ってください。

 暴走する機械人形マス・サーキュから親子を助けてくれた赤髪の青年が告げた通りに南に向かったリアムとリリアナは、機械人形マス・サーキュ鎮圧の為に投入されたであろう軍警に救助されることとなった。後で避難所に案内してくれた軍警からの説明によって知ったことだが、機械人形マス・サーキュの暴走はミクリカのみで発生しており、その中でもリアム達のいたケーキ屋『 Cherry×Sherry 』のある中央通りが特に被害が大きかったらしい。
「 あの人のおかげだな…… 」
 そんな被害の大きかった中央通りから無事に逃げられたのは赤髪の青年のおかげに他ならない。
 彼は無事なのだろうか。そう思うものの命の恩人である刀を振るっていた赤髪の青年が無事であることを祈ることしかリアムには出来ない。残念ながら赤髪の青年に再び会うことはなかったが、軍警によって作られた避難所は何ヶ所もあるということなので彼は五体満足で別の避難所に避難していると思うことにした。彼が無事でなかったとしたらと思うと胸が痛い。
 避難所の一角で彼の無事を願うリアムであるが、ミクリカの住民ではない身としては早くキキトにある社宅マンションに帰りたいところである。しかしながら電車が動かず足止めを食らっている状態だ。実家はラシアスであり尚更遠く、混乱する状況の中で両親に車で迎えに来て欲しいとも言い辛い。
「 パパ! 」
「 リリ、勝手に何処かへ行っては駄目だと…… 」
 いつの間にかどこかへ行ってしまっていた娘をたしなめようとしたリアムの鼻を花の匂いがくすぐる。確かに娘は花のように可愛いが人間であるため花の香りはしない筈だが、その香りは確かに近寄ってくるリリアナからほんのり香っていた。
「 いいにおいでしょ? 」
 そう言ってリリアナはリアムの前で新しい洋服を着た子供のようにくるりと回る。動くことでより一層香りが大きくなり、リアムは確かこれは酢酸リナリルを多く含む花――ラベンダーではないかと予想した。
「 確かに良い香りだが一体どうしたんだ? 」
 昨日から夏だというのに身を洗うことも出来ずにいる人間ばかりの避難所である。まだ汗を流す施設はないため汗などの臭いは仕方ないこととはいえやはり耐え難い。そんな中で急に良い香りを纏い出した娘がいたら素直に誉める前に疑問が出てしまうのは仕方の無いことだろう。
「 おいしそうな名前のおじさんがね、アロマをくれたの! 」
 リリアナはそう言うと自分が下げていたポシェットから小さな瓶を取り出してリアムに手渡す。受け取ってみると確かにそれはアロマオイルを入れる時に使われている瓶で、ラベルには「 ラベンダー 」の文字が書かれており仄かに瓶からもラベンダーの花の香りが漂ってきていた。
「 知らない人から物を貰っては駄目だろう 」
「 みんな貰ってたからだいじょうぶよ! 」
「 皆……? 」
「 そう、他の人も受け取ってたからだいじょうぶよ。おじさん、アロマ屋さんなんだって 」
 リリアナ曰く『 おいしそうな名前のおじさん 』がミクリカで『 アロマ屋 』を経営しているのだが、この度の被害者に自分でも出来ることを考えた結果がアロマオイルを配ることだったらしい。避難所生活における精油は消臭効果があったり心の安定に良いと新聞か何かの記事で読んだことがありアロマオイルを配る意味はあるなと思いつつも、リアムはリリアナの言う『 おいしそうな名前のおじさん 』というフレーズの方が気になってしまう。
「 おじさんは何て名前だったんだ? 」
「 んーっとねー……シャキシャキクランチーサクサクフレイキーもちもちチューイーじゃなくて…… 」
 大人びたことを言うことがあってもリリアナは所詮5歳児。
 人の名前をちゃんと覚えていられるはずも無く、導き出された答えは。
ネバネバスティッキー・ハムおじさんよ! 」
「 ……リリ、ネバネバしたハムは美味しく無いな 」
 リアムは思わずツッコミを入れてしまった。途端にリリアナの眉間に皺が寄ったと思うと子供らしく頬を膨らませて不機嫌さをアピールしてくる。
「 そんなこと言うパパには使わせてあげないんだからね! 」
「 分かった。パパが悪かった 」
 リアムの発言に簡単に機嫌を直したリリアナがラベンダーの精油瓶をリアムに手渡す。リリアナに断って少しだけつけると花の優しい香りがリアムを包んだ。
「 良い匂いね、パパ 」
「 そうだな。帰ったら家でも使おうか 」
「 うん 」
 座っているリアムに抱きつくようにリリアナが座り込んでくるのでそれを抱きとめて背中をポンポンと軽くリズムをつけて叩く。
「 ねぇ、パパ 」
 ラベンダーのリラックス効果と、ようやく安心したのかリリアナの目が眠気を示すようにとろんとしていた。すぐに寝てしまうのかと思ったが、そんな目のまま彼女はリアムを見上げて笑う。
「 昨日ちゃんと言えなかったから……誕生日おめでとう 」
「 ……ありがとう、リリ 」
 言われて昨日が自分の誕生日であったことを思い出す。リリアナと一緒に暮らし始めて一年記念とは思っていたが、良く考えればそれは自分の誕生日であった。
「 何もプレゼントあげられなかった…… 」
「 良いんだ。お前の親権をしっかり貰えたから、それがプレゼントだ 」
 ナタリアに書かせた書類は逃げる時にも忘れずに持ち、ずっと鞄の中にしまってある。これを提出すればリリアナは正式にリリアナ・イバニェスからリリアナ・シュミットになれるのだ。
 血の繋がりもないリリアナをどうしてこんなに愛おしく思うのかリアムにも分からない。どちらかといえば子供は騒がしくて嫌いであった筈だ。しかし、何故か彼女は守らないといけないと思ってしまうのだ。
「 ありがとう 」
 ふにゃふにゃの締まりのない顔でリリアナは笑うと、夢の世界に旅立って行った。それを見ているうちに睡魔に襲われたリアムも貴重品に気を使いながらも同じように目を閉じる。
 こうして謎の『 おいしそうな名前のおじさん 』のおかげで、良い匂いに囲まれて一時だけ惨劇を忘れてリアムとリリアナは眠ることが出来たのであった。

――なお、リリアナは結局『 おいしそうな名前のおじさん 』の名前が『 カリカリクリスピーベーコン 』であったことを思い出せなかったことをここに記しておく。

2173年8月XX日

 その日、企業主導型保育施設である事業内保育園に随分と早い時間にリアムはリリアナを迎えに来ていた。いつもならば延長保育ギリギリまで迎えに来ることの無いリアムの早い登場に、リリアナは喜びよりも不安が勝る。
 先生に促されて降園の準備をしたリリアナは自分の不安が的中していることをリアムの顔を見た瞬間に気付いてしまった。
 日頃から愛想の良い顔ではないリアムだが、今日の顔は特に怖い。
 それでもリリアナは何も気付いていないような顔でリアムに駆け寄って抱き着いた。
「 パパ! 今日は早いのね! 」
「 ああ、まあな 」
 いつもならば少しだけ目尻が下がって優しい顔になるのに今日のリアムは顔が硬いままだ。何となく身に纏っている空気も冷たいような気がする。
 いつものように手を繋いでマンションに帰り、いつものようにロックを解除して中に入っていく。
「 お帰りなさいませ 」
 丁寧に挨拶をしてくれるのはコンシェルジュの男性だ。先月までは機械人形マス・サーキュがコンシェルジュを勤めていたが、いなくなってしまったために今は人間がやっている。共有部分の掃除もしてくれるのも機械人形マス・サーキュではなく、やはり人間がやっていてリリアナは何だか違和感を持ってしまう。
 部屋に帰ってくるまでもリアムは口数が普段以上に少なくて、リリアナはやっぱり今日のパパは変だと内心で首を傾げる。そしてその変だという思いは部屋に帰ってきて、いつもならばアイスコーヒーを飲むリアムがリリアナが良く飲んでいるお気に入りのエルダーフラワーのサフトを飲み始めたことで爆発した。
「 何かあったなら教えてよ!! 」
「 ……そうだな。ちゃんと話をしないとだな 」
 サフトの甘くフルーティな香りが部屋中に漂う中、リアムは重たい口を開く。

「 パパは仕事を失ったんだ 」

 * * *

「 パパは仕事を失ったんだ 」
 リアムの言葉にリリアナが黒い目を丸くして口をポカンと開いて驚きを隠しきれない顔をした。そんな顔をしたリリアナも可愛いなと親馬鹿を発揮しつつ、リアムはリリアナにも分かる言葉を選びながら話し続ける。
 リアムは機械人形マス・サーキュを製造する会社で機械人形マス・サーキュのプログラムの中でもハッキングなどのサイバー攻撃に関する部門を担当していた。それが今回の事件の首謀者であるギロク博士に破られてしまった結果、機械人形マス・サーキュが暴走しミクリカやケンズでは大きな悲劇を、今では色んな場所で人が機械人形マス・サーキュに襲われるようになってしまった。
 その責任を負うのは誰かとなった時、リアムは適任だった。
 リリアナには言えないがリリアナを自分の子供として育て始めてから、リアムはIT業界ではお馴染みのデスマーチもやらずに働くようになっていた。働き方改革である。
 だから、いつか何かあって人員整理があった時に切られる筆頭になっていたのは予想していた。それが今回であったというだけだ。
「 保育園のお友達とさようならしなきゃいけない? 」
「 ……そうだな 」
 リリアナを通わせていたのは会社内に設置された事業内保育園でありリアムが社員でなくなる今、通い続けることは不可能だ。それに今住んでいるマンションも社宅であるので出なければならない。
 職も失い、家も失う。
 分かっていたことだが先の見通しがたたず将来は暗い。
 世間は機械人形マス・サーキュの暴走――ギロク博士のテロ、と呼ばれるようになった日から様変わりしており働き口を探すのも一苦労だろう。
「 そう。仕方ないわね 」
 物わかりの良い子供を演じたいリリアナは震える声で呟いた。目はとっくに潤んでいて泣き出したいのを我慢しているのは火を見るより明らかだが、リアムにはどうしてやることも出来ない。
「 ……暫くはラシアスの実家に世話になろうかと思っている 」
「 おじいちゃま、おばあちゃまのお家? 」
「 そうだ 」
 リアムの実家には両親が住んでいる。急に現れた明らかにリアムと似ていないリリアナを孫として可愛がってくれる有り難い両親である。それに兄は婿養子に行ってしまったが、家は近所であり戻れば手を貸してくれることだろう。その兄嫁も幼い頃からの知り合いであることだし、優しい素晴らしい女性であることはリアムも良く分かっているので彼女からも何らかの手助けは期待できる。
 そこまで考えたリアムは兄嫁の妹がラシアスに戻ってきていたことを思い出して渋い顔になる。リアムとリリアナが「 ミクリカの惨劇 」を乗り越えてミクリカの避難所にいた頃、彼女は「 ケンズの悲劇 」で夫を喪い今はラシアスに帰ってきていたのではなかったか。
「 パパ、どうしたの? 」
 リリアナが様子のおかしくなったリアムに不安を抱いたのか困ったように眉を下げて問いかけてくる。そんなリリアナにサフトで口を湿らせてからリアムは言いにくそうに口を開いた。
「 今はラシアスにセリちゃ……セリカさんがいると思い出してな 」
 シュミット兄弟とミカナギ姉妹はいわゆる幼馴染の関係にあった。
 幼い頃を知っていると色々とお互いに秘密にしたいこと・・・・・・・・も知っているため、大人になって会うと気まずいものがある。
「 セリカおねーさん? 」
「 テレビ電話でお話したことがあっただろう? カリナお姉さんの妹さんだ 」
「 あ、きれいなお姉さん! 」
「 カリナさんの方がもっと綺麗だけどな 」
 今でこそセリカも大人しい女性だがリアムから言わせれば付け焼刃のヤマトナデシコで、真のヤマトナデシコはセリカの姉のカリナである。リアムとしてはセリカをヤマトナデシコと呼ぶ人間は見る目が無いと思う。
「 おねーさん達がいるなら寂しくないかも 」
 リリアナが涙を忘れてニコリと笑ってくれたのでリアムは内心で胸を撫で下ろした。
 解雇とはなるものの幸いにも有給消化は許可されたためリアムとリリアナがマンションを出るまでにはまだ日数があり、急いで引越しをする必要はない。社宅マンションに住んでいる限り社内の人間に会うこともあるだろうが、リアムは何ら悪いことはしていないのだから胸を張って堂々と会えばいいのだ。むしろ向こうを気まずくさせてやろう。
 そう思いながら、まずは兄のノエルに電話をしようとリアムは携帯端末を手にとる。そんな父親を見て、サフトを飲んでいたリリアナが冷静にツッコミを入れた。
「 ねぇ、パパ。普通の人はまだ働いている時間よ? 」

2173年8月25日

 『 リリアナに「 普通の人はまだ働いている時間よ? 」と言われてしまった事件 』から数日後、ようやくショックから立ち直ったリアムは携帯端末を手に電話を掛けようとしていた。
 つけっぱなしのテレビから流れるニュースでは政府の技術者により二次電子世界ユレイル・イリュが構築されたことが大々的に喜ばしいことのように報道されていたが、そもそもの電子世界ユレイル・イリュをギロク博士から取り戻せていない段階で政府の無能感丸出しだ。電子世界ユレイル・イリュのセキュリティ部門の人間も解雇されていれば良い、などと他人の不幸を願いながらリアムは電話の発信を押した。
「 珍しいな、電話なんて 」
 数コールの後に出た兄、ノエルの声は普段通りの朗らかなもので兄の家庭は今日も平和なのだろうと思う。
 ミクリカやケンズの機械人形マス・サーキュによる人間の虐殺のような大きな事件は今のところ起きていない。しかし、平和かと問われれば「 否 」としか答えられない状況は続いている。数体の機械人形マス・サーキュが現れては通り魔のように人間を襲う事件は起きているのだから。
 互いの無事を確認し合った後にリアムはようやく本題を切り出す。
 仕事を諸事情で辞めた・・・・・・ので実家に帰りたい、と。
「 ……父さんと母さんに連絡は? 」
「 まだだ 」
「 それなら良かった 」
 電話口のノエルの声が弟が無職になったと聞かされた直後とは思えない程に明るくなる。何が良かったというのか。少々機嫌を損ねたリアムがそのように言おうとした時、それよりも早くノエルが喋りだした。
「 ル・ブケットって覚えてるか? 商店街にある花屋なんだが 」
「 ル・ブケット……ああ、ルノワール通りにある花屋だな。それがどうかしたか? 」
 店名にリアムは覚えがあった。ル・ブケットは家族経営の規模は大きくはない花屋だが、主人の花へのこだわりが大きく花の質が良いと評判の店だ。
 しかし急に花屋の名前を出して兄はどうしたのだろうか。まさかそこで求人が出ているから働いて来いとでも言うのだろうか。
 リアムは自分が花屋で働いている様子を想像してみる。苦手極まりない愛想笑いを浮かべて沢山の花に囲まれて――リリアナは喜ぶかもしれないが、自分の精神が崩壊しそうだ。それにそんなリアムの姿を見たら指をさして笑うセリカという女が今のラシアスにはいる。
 無理だ。いくらなんでも無理だ。花屋では働けない。
 しかし、ノエルが口にしたのは別の求人であった。
「 あの花屋にマルフィ結社って会社の求人が貼ってあったらしい 」
「 何だその胡散臭い組織は 」
「 そう思うのも無理は無いが……それを見たセリカさんがそのマルフィ結社に行ってしまってな、カリナが凄く気にしているんだ 」
「 カリナさんが? 」
 セリカが何処へ行こうが構わないし知ったことではないが、カリナが気を病んでいるなら話は別だ。たった一人の実妹が良く分からない結社に行ってしまっては心配だろう。
「 良ければセリカさんから話を聞いてお前もそこへ行ってくれないか? お前が行ってくれればカリナも安心出来ると思うんだ 」
「 分かった 」
 うっかり即答してしまった。
 電話の向こうで兄が苦笑したような空気を感じるが、お互いの今後のために気づかなかった振りをする。
「 細かいことはセリカさんに聞いてくれ。頼んだぞ 」
 そう言ってノエルとの通話は終わった。
 使命感はあるもののセリカに電話しなければならないと思うと気が重い。
 それでもリアムはセリカに話を聞くため、意思が鈍らないうちに通話発信を押したのであった。

 * * *

 数回コールしたもののセリカは出ず、軽く舌打ちをしてリアムは携帯端末から耳を離した。他の人間ならコールして出なくとも相手が忙しい時間に掛けてしまったのかもしれないと冷静に考えるリアムだが、セリカにだけは違う。わざと無視をしているのではないか、アイツならやりかねないというのがセリカに対するリアムの評価だ。
 携帯端末をテーブルに投げようとしたところで着信があった。ディスプレイに映る人間の名前は「 セリカ・ミカナギ 」で、自分が発信した時と同じだけのコール音をさせてからようやく受信のボタンを押す。
「 …….其方は長期休暇にお入りになって時間があるかもしれませんが、私だって暇じゃないんですよぅ 」
 開口一番、聞こえてきたのはセリカの不満の声だった。
 しかもリアムの事を「 長期休暇 」呼ばわりする嫌味つきの。しかし、一々これに応戦していては話が進まなくなることが分かっているリアムは大人の対応だと己に言い聞かせて怒りを押し殺して口を開く。
「 今回は……大変だったな 」
「 あらぁ……リアムさんがおっしゃってくれるとは思いませんでしたぁ……其方もミクリカで大変でしたねぇ 」
 そう言って電話越しにお互いしんみりとした空気を纏い合った。互いが体験した「 ミクリカの惨劇 」も「 ケンズの悲劇 」も多数の犠牲者を出した出来事であって、自分達が生きているからと言って決して茶化して良いものでは無い。
「 ……それで本題なのだが 」
「 ノエル御義兄様から伺っておりますぅ。私も良い大人ですし、心配して下さらなくても良いのに御姉様ったら…… 」
「 それがカリナさんの美点だからな 」
 リアムの言葉に、ふふっと上品な雰囲気を纏わせて電話口でセリカが笑った。
「 相変わらずリアム君はカリナ御姉様の事が大好きなんですねぇ 」
 何も言い返せずリアムは閉口する。
 リアムはカリナ・ミカナギが初恋だった。しかし、カリナがノエルの事を好きだったから静かに身を引いたという過去を持つ。なお、今は初恋を拗らせすぎて恋愛対象ではなく崇拝対象としてカリナを見ているので、兄から奪おうとか家庭を壊そうという気は微塵もない。大好きなのは永遠に変わらないだろうが。
「 そういうセリちゃんは随分と上手にヤマトナデシコの皮を被れるようになったんだな 」
「 失礼ですねぇ。セリカは最初からこう・・でしたぁ 」
 電話口でも膨れっ面のセリカが目に浮かぶような声がして、リアムは低く笑う。
 セリカは幼い頃は御転婆な娘だった。一つ年下の当時は泣き虫だったリアムは随分と彼女に泣かされた。それが大人しくなったのはミカナギ家が営む剣道場に通う生徒の一人――先日のケンズの悲劇で亡くなった夫である――に恋をしたからだ。彼の理想が大人しい女性だと知ったセリカが急に淑やかな振りを始めた時、リアムはセリカが悪い病気に罹ったと思ったものである。
 リアムはカリナへの恋心と泣き虫だった過去。
 セリカは元御転婆娘であった過去。
 互いに他人に秘密にしたいこと・・・・・・・・を知る二人であった。
「 ……それでリアムさん。私から人事部へお話を通すのは容易ですがどうされますぅ? 本当に結社に来ますかぁ? 」
「 セリカさんには悪いが今はそのつもりでいる。但し、プログラムを書いたり機械人形マス・サーキュと密に関わる部門は断りたい 」
 リアムは元機械人形マス・サーキュ製造会社のセキュリティ部門担当プログラマーであるが、そういったものと無縁の生活が送りたかった。それにそういった部署はどうしても時間が不規則になってリリアナの教育が満足に行えないと判断したのだ。
「 分かりましたぁ。人事部にはそのように連絡致しますねぇ 」
「 宜しく頼む 」
「 リアムさんに丁寧に頼まれるなんて良い事もあるものですねぇ。では、また連絡致しますぅ 」
 最後にもう一度笑ってセリカの電話が切れる。それを聞いてセリカはヤマトナデシコの皮を被るのが随分と上手くなったものだ、とリアムは独りごちた。


――そしてこの電話の後、リアムはリリアナを連れて生活の為、カリナの平穏の為、きっちりと有給休暇を消化して10月1日にマルフィ結社へと入ることになる。


ようこそ、マルフィ結社へーー