薄明のカンテ - 薔薇は咲く、何度でも/燐花
「近日中にここを出ていこうと思います」
 ネビロスは静かに、しかししっかりと口にした。
 青い空。麗かな午後の日差しのなんて穏やかな事だろう。そんな緩やかな空気に包まれながら、ホースを摘む様に持ち水圧を上げながら花壇に水をやるロード。彼はネビロスからの申し出を黙って聞いていたが、その内納得した様にふぅと溜息を吐くといつもより目を細めて彼の顔を見た。
「そうですか…寂しくなりますねぇ」
「……嘘くさいですね、色々邪魔しそうな人間が減って喜んでそうに見えます…」
「酷いですねぇ、そんな事思ってませんよ。しかし、そうですか…やっと腹を決めましたか」
 しみじみ言うロードに少しピクリと眉を動かしたままネビロスは固まった。
「…私はそこまで言っていませんが?」
「おや?てっきりそう言う事・・・・・かと思ってました。だってねぇ、どうしようか悩んでいた様ですし?」
「……はぁ。貴方に隠し事って無駄なんですかね?」
「めでたい事なのだから良いじゃないですか。私は貴方だけで無くミアさんの為にも、出て行かれるならその門出を祝いたいと思っていましたし。それに、特別な事を何もせず出て行かれたら寂しがる子がウチには何人かいるんでね」
 そう言われ、ここでの最後のもてなしを受ける事もまた義理を果たす行為であると考え直したネビロス。確かにこの場合黙って出て行く事程不義理な事はない。
「…では、お言葉に甘えます」
「うふふ。お二人の好きな物用意しておきますよ。たまにはデザートにケーキも買いましょうか。Cherry×Sherryのフルーツタルトでもどうでしょう?」
「貴方にお任せします…私はもてなされる側ですし」
「そう言えばそうですね。いつも料理関係で何かをやる時は貴方の意見が参考になる物ですから、つい」
 言いながら倉庫に行き、ハーブの苗木を持って戻るロード。腕まくりをして軍手を嵌めると、手際良くそれを植え始める。
「これ、ラベンダーの苗木です。香りも良く虫除けになる物で何か良いのはないかと聞いたら、初心者には一番良いとミアさんが教えてくれました。ところで、新しい家はどんな感じで?」
「一軒家です。ケンズの一軒家にするかラシアスでアパートの一室を借りるか迷ったんですけど…今後の事を考えてより勝手の良いケンズにしました」
「まあ、復興もなかなか進んでますからね」
 ギロク博士のテロからわずか二年後の十月。マルフィ結社は役目を終え、メンバーは新たな就職先に次々移動して行った。ここまで来るのに本当に色々あった。結社で過ごした二年は、あまりにも濃過ぎる二年間だった。
 そんな感傷に浸る間も無くロードは結社の解散と同時期に副業としてアパート管理を始め、解散で行く宛のなくなったメンバーは何人か彼に厄介になったのだが、ネビロスとミアも例外なく二人で一部屋借りていた。
 貯蓄もあってなのか、結社に居た人間はそのよしみか少しだけ相場より安い家賃で住まわせてくれたロード。勿論部屋は二人で過ごすなら手狭だし贅沢は言えないが、馴染みある顔に囲まれて過ごす生活は穏やかな良い物だった。気付けばそんな穏やかな生活を結社に居た時期と同じかそれ以上の年月過ごしていた。
 そんな家を出て、これからミアの卒業を待って二人ケンズに移り住もうと思っている。
 ここを出て行くと言うのは並々ならぬ決意の元であると言う事をロードも把握している。
「兄さん、ただいま帰りました。あれ?ネビロス氏?」
「クロエ」
「うふふ、お帰りなさいクロエ。今日も大学は楽しかったですか?」
「…小学生じゃ無いんですから……まあ、楽しかったですけど」
 緩く一つに結いた髪をアップにして纏め、結社で見慣れたセーラー服でなくジーンズにシンプルなシャツと言う姿で現れたクロエ。クロエは一瞬キョトンとした顔をしたが、ロードの作業をちらりと見ると「これは使用済み」と当たりを付け、慣れた手付きで使わなそうな道具を倉庫にしまう手伝いをする。よく周りを見ている子だとネビロスも感心した。
「珍しいですね。ネビロス氏がこの時間にこの辺に居るなんて」
「ええ。ちょっと用事があって、ここ最近スケジュールを空けてもらってるんです。そう言えば、ミアもそうですがクロエも卒論に悩まされてますか?」
「うふふ、私は卒論のテーマは元々決めていたので。追われてるとかマイナスなイメージ無いですね」
「ちなみに何をテーマにしたんですか?」
「『野生動物を上回る三十代男性の求愛メカニズム』」
 その瞬間、カラカラカラ!と大きな音を立ててロードが手からスコップを滑り落とした。その様子を静かに見ていたクロエが「と言うのは冗談で…」と続けたので他ならぬロードがこの瞬間安堵の顔を見せたのは言うまでもない。
「酪農の勉強をずっとして来たので、牛の生態と環境問題に関するものを書こうと思ってます」
「…それも意外だったんですよね…クロエのイメージからてっきり経済学の道を極めるのかと」
「悩みましたけどね。それより、ミアは頑張っているところですか?」
「ええ。まだテーマも決まらない様で」
 マルフィ結社が解散して早数年。
 気付けば大学に進学したミアもクロエも揃って卒業の文字がチラつく年齢になっていた。

 * * *

「あ!ネビロスさん、またこんなところに靴下脱ぎっ放しにして!」
 ミアの声にハッとしたネビロスはバツが悪そうに彼女の顔色を伺った。一回りも年下の彼女は今日も元気に大学に行き、今日も元気にしっかりしている。
「あー…昨日呆けててうっかりカゴに入れるのを忘れていました」
「……最近お仕事セーブしてもらってますけど…やっぱり大変ですよね?内見もお仕事も、なんて…」
 少し疲れた様子のネビロスを見て一層しょんぼりするミア。ネビロスは少し考えると、深刻になり過ぎないようにと微笑みながらミアの額をツンと突いた。
「ミア」
「…はい?」
「ミアは最近口煩くなりましたね」
「え!?わ、私口煩いですか!?」
「私は出会った頃より少々だらしなくなりました。ミアは出会った頃より少々口煩くなりました。でも、それこそが私達の距離の縮まった証だと思うとそれ程愛しい事も無いんですよ」
 だらしなくなった。良く言えば、『気を抜ける様になった』。
 口煩くなった。良く言えば、『遠慮しない様になった』。
 もう誰かとこんな風に距離を縮められるなんて思っていなかった。それによって少し気の緩みみたいな物も出るのだとしたら、それが例えばだらしなさの様な物だとしても「良く言えば」の方で考えたい。
「ネビロスさん…昔は気を張ってたんですか?」
「気を張ると言う程無茶な事はしていませんけどね。でも、あまりにも幸せ過ぎるとうっかりだらしなく見える程色々がおざなりになる様です」
「ネビロスさんの方が歳上なのに…何だかたまに子供みたいです…」
「…あれ?ミアはそんな私は嫌いですか?」
 どう答えるか分かっていて、ネビロスはミアの肩に、頬に手を添えそう尋ねる。答えに詰まるミアを急かす様に顔を近付ければ、彼女は赤らめた顔でゆっくり口を開いた。
「す、好きです…」
「はい。よく言えました」
 そしてそのまま唇を重ねる。ちろりと味わう様に舌で撫でればミアはそれに気付いてピクリと肩を震わせた。吐息と共に漏らす様に喉の奥からくぐもった声が溢れる。ネビロスはその声に合わせる様にミアの体をするすると手で撫でるが、いつもならそのままベッドに連れて行かれそうなそのタイミングで不思議な事に彼はぴたりと止まり、唇も離れてしまった。
「……」
「ネビロスさん…?」
 不思議そうにミアが彼を見つめる。ネビロスは少し何かを考える様に部屋の中を見回すと、再度ミアと目線を合わせた。
「もう後ひと月もすればこの部屋ともお別れですね」
「…そうですね」
「今までは私が留守で帰れない時はクロエの部屋に行ったり出来ましたね。今度は、私が帰れない様な事はそうそう無くなりますがクロエと会える頻度は少なくなってしまいます。…それで本当に良かったのですか?」
 ロードの管理するアパートでの生活は常に誰かが傍に居た。その代わりに、ネビロスの職場からは遠く彼が帰れない日も多かった。ミアの部屋らしい部屋も設けられず、プライバシーは無いに等しかった。
 今度住むところはネビロスの職場に近いところを予定している。しかしそうなると、今の生活の様に見知った顔が傍に居る環境にはなれない。むしろ部屋同士が離れた様な広い家に夜まで一人になる。
「…それがネビロスさんと一緒に過ごす次の生活への変化なら、私はそれに向けて準備するだけですよ」
 ネビロスの心配をよそにミアはにこりと微笑んだ。
「結社で皆と過ごして、ネビロスさんと出会って…色々あったけど大学にも通えて。ロードさんとの縁あって結社が解体された後も皆で過ごす場があって…そうやって小さくでも変化を続けて来て、次の変化が自立した生活と言うか、ネビロスさんと二人で過ごす生活なら今度はそれを私なりに頑張りたいです!」
 ミアはこんなにも大人になった。ネビロスはそれがミアと共に過ごして見てきた彼女の変化だと思うとただただ嬉しい気持ちになる。
 だから自分は少々だらしない姿を晒してもいられるし、彼女に不機嫌に怒られるとほんの少しだけ嬉しくもなる。
 ネビロスはぎゅっとミアを抱き締めると、「二人で広い家に移り住むと言うのは良いこともあります」と呟く。
「良い事…?ですか?」
「ええ。音を今ほど気にしなくて良くなります」
「え…」
 ネビロスの言葉にミアは赤らめた顔をキョロキョロさせた。
「ば、バレてたんですか…!?」
「ええ。翌日テレビを点けるとやたら音量が小さく、前日切り替えた覚えのないチャンネルに変わっていれば、流石に」
 ミアには深夜のお楽しみがある。それは深夜放送の連続ドラマだ。
 事故で妻を失った刑事が主人公のサスペンス。遺体も見付からない大規模災害に巻き込まれた妻の事件に疑問を抱き一人調査を始めるが、その中で彼の知らない妻の顔が見えてくる…。そんな話だ。しかし主人公の生い立ちが重なっていて観ていたらネビロスが辛くなるのではないかと思ったミアは毎週楽しみに観ていることも言えず、一人静かに深夜の楽しみにしていた。寝ているネビロスを気遣って小さめの音でテレビに近付き、割と目に優しく無い観方をしていた。
「そんなに気にしてくださらなくても良かったんですが…」
「だ、だって…『パパは最近音が大きいと夜眠れない事が多いのよ』ってママが…」
「………」
 そうだ。ミアの両親は十五歳差だった。流石に十歳も離れると体の変化の差と言うのは嫌でも感じてしまうもので。ミアも自分との歳の差を考慮してそんな事を言ったのかも。
 嬉しい様な悲しい様な複雑な気持ちにネビロスは一人なっていた。
「と、とにかくミアの目が悪くなるかもしれない事を考えたら音なんて些細な事です。それに私はまだそんな音で目を覚ましません。割と眠れています」
 そう言うネビロスにミアは安心した様にふっと微笑む。ネビロスは目の前で妻を失った光景がトラウマとなり、長い事強い薬が手放せなかったからだ。今は睡眠導入剤だったり、リラックスさせる成分の物を少し摂れば大丈夫だし、眠る力が復活したと言うのは喜ばしい事だった。
「ふふ…嬉しいです…」
「それに、今度は私の職場に近くなりますからミアと少し夜更かしも出来ますよ」
「あ、そっか!職場はケンズですもんね!」
 遅くなってもその日の内に帰って来られるところを。そう思ってケンズにした。実は結社後のネビロスの仕事は火山の研究。アルヴィ・マルムフェは結社解散後彼の上司になった。
「だから、少し夜更かしする時間も作りますか?ドラマでも良いですし、お話でも良いですし…」
「あ、あの……」
「…ふふ、勿論イチャイチャする時間でも良いですよ?」
「はい……」
 そんな風に赤くするミアの顔を見てネビロスは「薔薇みたいだ」と思う。そう言えばミアとの思い出には花が多かった。愛の日に自分に送ってくれた薔薇も、想いを伝えるために自分が送ったネックレスも。今この瞬間も、ミアは薔薇の様に美しい。どうかこの子の笑顔がずっと枯れず自分の傍で咲き続けてくれたら、等と珍しい事を思う。
「ミア」
「はい?」
「聞いて欲しい事があります」
 少し目を瞑って。そう言ってミアが瞑って居るのを確認すると、ネビロスは少し場所を離れ、開きを開け目的のものを取り出した。
「はい、もう開けて良いですよ」
「はい…」
 ミアの目の前にいるネビロスは、ゆっくり体を揺らすと片足を床に着ける。急に床に跪く彼にミアが驚くと、ネビロスは濃い灰色の瞳でしっかりミアを見つめた。
「ミア…私にとって人生とは悲しい思い出の多過ぎるものでした。大切な人が皆私より先に逝ってしまう。いつしか、私は自分自身を大事にしない事で自分を守ろうとしていました。雑に扱い、そうする事で安心していました。でも、ミアと出会って、大事にしようと思う気持ちが芽生えました」
「ネビロスさん…」
「ミアが育ててくれたこの気持ちを抱えて今後の人生ミア以外の人や、一人でなんて過ごして行きたくないと思ったんです…だから、これを受け取ってくれませんか?」
 背の高いネビロスが跪きながら渡したもの。それは、薔薇の花束だった。
「ネビロスさん…これ…十二本ありますよ…?」
「ええ。十二本あります」
 ミアの思考が追い付くより先に、ネビロスは更にポケットを漁るとリングケースを取り出す。彼の言いたい事に気が付いてしまい、ミアは目を丸くした。
「ミア…私と、結婚してくれませんか?」
「え……?」
「私の奥さんになってくれませんか?」
 開かれたリングケースに入っていたのは、赤い鮮やかな石が埋められた薔薇のモチーフの婚約指輪だった。
 ミアの瞳がどんどん潤み、瞬きをする度にぽろりと涙が溢れる。ネビロスはそれを勿体なさそうに指で掬うと、ミアの返事を待った。
「はい…」
「ミア…」
「はい…ネビロスさん…私も、ネビロスさんとずっと一緒に居たいです…!!」
 言うが早いか、強く強く抱き締められた体。
 ミアは涙で濡らす事も厭わず、ネビロスの胸に顔を埋めた。

 * * *

「…ってな感じでファウストさん、今頃ミアさんに人生懸けてるところなんでしょうねぇー…」
 いつもより豪勢な食事の用意をし、少し遠い目をしながらロードは呟く。クロエは今日少しだけ壁の方を向く回数が多かったし、シキは摘み食いの回数が多かった。
「ミアが幸せなら…それで良いです」
 ボソリと呟いたクロエの言葉に反応したのはシキだった。
「…何かクロエ、寂しがってるみたい」
「……当たり前ですよ!!私がそんな感情持っちゃ悪いか!?この柱大根!!」
「柱大根」
「茶色星人ゴボウ太郎!!」
「ゴボウ太郎」
「こらこらクロエは妙に八つ当たらない、シキは思考を宇宙に飛ばしながらつまみ食いをしない!」
 二人の間に無理に割って入ると、ロードはシキから皿を取り上げ、こんな事もあろうかとシキの摘み食い対策に用意しておいたおかずをサッと彼の前に差し出した。
「うふふ、しかし同じ年代の男性がこんな身近で人生の華を咲かせる様を見せてくれるとは…。はぁ…次は私ですかねぇ…?」
 ロードは頭の中にあのたゆんたゆんのカヌル山でも浮かべているのか、手を厭らしくわきわき動かすと締まりのない口を見せた。しかしクロエは知っている。まだまだロードは愛しの彼女とそんな風になれる仲ではない事を。
「…兄さんよりその前にシキのが現実的だろ」
「え?俺?照れるー」
「は!?シキですか!?」
「…でしょう?後はあの過保護兄貴が許可してくれれば…」
「……うわ、それ百億年掛かりそう…」
「…え?貴様、そんな決心なんです?そんな決心で女一人の人生を背負おうと?」
「…冗談。もう奪うつもりで行くし、その時はね」
 各々が己の人生の次のステップに想いを馳せていた頃、不意に足音が聞こえキッチンにいた全員がそちらに視線を向ける。
「わぁっ、良い匂いしますねー!」
 現れたミアの薬指で輝く薔薇モチーフの指輪。クロエもロードもシキも、赤みを誤魔化す様に笑うミアの顔よりもそっちの方が気になって仕方がなかった。