薄明のカンテ - 狼燧――セリカの場合/べにざくろ



起 ✕月✕日

 カヌル山の西麓は遥か昔の火山性の堆積物が形成する山麓扇状地となり、北東にあるテナ山より下る沢もまだそれほど深い谷を刻むことなく、「 カヌルの雫 」を人々にもたらすその流れは穏やかである。森を切り開いて先人の作り上げた段々畑は風光明媚で観光地になってはいるものの、比較的穏やかな空気の流れる田舎町。それがケンズという町に人々が抱く印象だ。
 数年前、夫のベンジャミンと共にラシアスから越してきたセリカがケンズに抱く印象も同じだった。別に嫌ということはない。むしろ、このゆっくりとした空気はセリカに合っていて山の幸も豊富で良いことばかりだ。出来ることならケンズで一生暮らしていきたいくらい。
 清楚で地味な洋服を纏って射干玉ぬばたまの黒髪を背の中程まで伸ばしたセリカは、買い物を終えて家への帰路を一人で歩いていた。食糧の入った袋は重いが体力作りの錘と思えば悪い事ではないと思う。
 そんな一人で歩くセリカの進行方向からは一組の家族が幸せそうに歩いてきた。知人ではないが彼等が託児所を営んでいた夫婦で、しかし本人達に子供はおらず子供型の機械人形マス・サーキュを我が子のように慈しんでいるのだと近所の噂好きの女性から聞いたことがあった。確か苗字はファウストと言っていただろうか。
 妻を気遣うように歩く夫と楽しそうに笑う子供。幸せな家族の図だ。
 羨ましい。
 思わず羨望の視線を向けていると茶色い髪を編込みでハーフアップにしている妻と目が合ってしまったので、何食わぬ顔をして軽く会釈をして通り過ぎる。幸せな姿を見せている夫婦と会話をすることは辛い。自分が失った物を見せつけられているように感じてしまうから。
「 ピンカートンさん 」
 ファウスト夫妻を通り過ぎて帰路を歩くセリカを呼ぶ女性の声に立ち止まる。呼び止めたのは顔見知りのエミリアだった。エミリアの姉が猟師をやっており、時々、獲物を買わせて貰う関係だ。それと、もう一つ。
「 マシマさん、面白い映画に御友人が出演されましたかぁ? 」
 以前、エミリアの親友だというリリィ・エンドと言うアクション俳優が少しだけ出演しているという映画「 ほろ酔い 」をエミリアから借りて観てからセリカはB級、C級映画の虜だった。稚拙又は破綻したストーリー、安っぽいセット、下手糞なカメラワーク、棒読み演技の俳優陣……人によっては眉を顰めてしまうそれらがセリカには面白くて仕方がなかった。他人に酷評されようとも作品を世に出そうとする彼等の主張の強さに憧れたからだ。
 残念ながらセリカの予想は外れていた。エミリアが声を掛けてきたのは姉が数日山に籠って猟に行くというものだった。それはそれで楽しみなので、良い獲物が手に入ったら買い取りたいという旨を伝えてエミリアと別れると今度こそ家に向かって歩き出す。
 家が近付くにつれてセリカの足は重くなった。
 それは単に買い物に行ってきた肉体的な疲労感ではなくて精神的なものだ。
「 はぁ…… 」
 自宅の玄関前、溜息をついてドアに鍵をさして解錠する。そしてドアを開けようとして中からチェーンがかかっている事に気付いて苛立った。
「 申し訳御座いませんー。戻りましたー 」
 声を張り上げて家の中へ向かって声をかけると奥の部屋からセリカ以上に苛立った顔を見せた夫、ベンジャミンがゆっくりと姿を現す。
「 女が声を張り上げるな。みっともない 」
 張り上げさせているのは妻が外出しているのにチェーンを掛けている貴方ではありませんか。
 そのように言いたいけれど、セリカはぐっと堪えて「 申し訳御座いません 」と謝罪の言葉を口にする。口答えなんてした日には鍵を開けて貰えなくなる。
「 全く。それに比べてケートは騒がず大人しく素晴らしい女性だというのに 」
「 申し訳御座いません 」
 ドアを開けた夫は相変わらず機械人形マス・サーキュのケートとセリカを比べてネチネチと文句を言う。設定された性格の機械人形マス・サーキュと人間であるセリカを比べるなんて愚かなのに、この男にはそれが分からないらしい。買ってきた荷物を持つこともしない夫に頭を下げながら、セリカは家の中に入る。
「 奥様、お帰りなさいませ 」
 無能な夫に代わりセリカの両手の荷物を持とうと近寄ってきたのは奥の部屋から出てきた機械人形マス・サーキュのケートだった。
「 ケート。君がそんな重い物を持つ必要は無い 」
 しかし、それを主人マキールであるベンジャミンが止めるから、ケートは荷物を持つことが出来なくなる。

――セリカ。君がそんな重い物を持つ必要は無いよ。

 かつては自分に向けられていた言葉を機械人形マス・サーキュに向けるようになったベンジャミンに悲しみと憎しみがこみ上げてくるのを感じながらセリカは荷物を持って大人しくキッチンへと向かって行った。

承 7月17日

「 いっぱいあるぅ…… 」
 山の中でそれを見付けたセリカは思わず歓喜の声を上げた。
 今日のセリカは山に入って茸狩りの最中である。勿論、夫のベンジャミンは付いてこないで、今頃家で理想の女性である機械人形マス・サーキュのケートと仲良くしていることだろう。
 そんな夫のことなんて忘れるくらいセリカの目を捉えて離さないのは、目の前に生えていたオレンジ色がかった黄色い茸だった。鼻を近付ければアプリコットの香りが漂って、それが間違いなくジロール茸であることを示している。
 浮かれた心で持ってきた籠の中にジロール茸を収穫。甘い香りとは対称的に胡椒のようなピリッとした食味は想像しただけで口に涎が溜まりそう。さて、スープにしようか。オムレツに入れようか。パイにしても良いかもしれない。
 パイを焼いたらトグルさんにお裾分けに行こう。
 茸の色と似た髪色の元気な助産師の女性の姿を思い出したセリカはそんなことを思った。彼女の未来の旦那様ことアキヒロ・ロッシが現在、医療セミナーに出掛けていて寂しいと世間話をしたことを思い出したのだ。
『 早くカレン・ロッシになりたいです 』
 幸せに満ちた笑みを浮かべ結婚を夢見ているカレン・トグルに『 結婚は良いものではない 』とセリカは言えなかった。それにアキヒロはベンジャミンとは違う人間だ。きっとカレンを一生大切に慈しんで愛し続けることが出来る人だ。
「 ……羨ましいですねぇ 」
 思わず呟く。
 先日のファウスト夫妻にカレンとアキヒロのカップル、それにアキヒロの双子の兄であるナツヒロと妻のレイナ。どこの町にだって幸せな人達はいるだろうけど、この町には眩しい人達が多い。自分とベンジャミンだってそうだった筈なのに何処で間違えてしまったのだろう。

――君の家事手伝いに機械人形マス・サーキュを買おうか。

 そう言った夫を止めなかった時か。
 はたまた機械人形マス・サーキュの性格設定をする時に彼の好きな「 ヤマトナデシコ 」像を設定してしまった為か。
 セリカだって「 ヤマトナデシコ 」になろうとずっと努力してきた。それでもセリカは人間だ。機嫌の悪い時だってあるし、反抗したくなる時はある。容姿だって彼の望むように髪を伸ばしているし、本当は東洋系の服が着たいけれど彼の好む地味な服を着ている。それでもケアはしていたって肌荒れをする時もあるし髪が艶を失う時だってある。しかし機械人形マス・サーキュは違う。人工肌にはシミ一つ無いし髪だって枝毛なんて出来るはずもない。それに体型だって崩れることはないし、電源を入れれば常に元気溌剌だ。
 あまりにもケートへ愛が偏っていく為、最初はベンジャミンは機械人形偏愛症ヴィニズムなのではないかとも疑った。しかし、それは違った。
 人間に良く似ているけど違うもの。
 それが機械人形マス・サーキュという存在であるというのに夫は混同してしまっている。
 それがセリカの出した結論だった。
 ケートはあくまでも人と違うという区別付けのために人間が自然に得ることの無い髪の色――薄紅色をしている。しかし、セリカは見てしまったのだ。夫が家の中でケートの薄紅色の髪を纏めさせて黒髪のかつらを被せていた姿を。
 インクキャップスでも生えていないでしょうかねぇ。
 普通に食べれば無害。酒と合わせればアセトアルデヒドの分解を阻害する毒茸という茸を思い浮かべる。もしあるならば毎日晩酌を欠かさないベンジャミンの為に今日の夕飯はインクキャップスの茸炒めに決定なのに。それかチョコタケ……あれにも同じ効果がある。どこかにうっかり生えていたりなんかしないだろうか。
 しかしながら残念ながら見付かった茸はジロール茸だけで、セリカは喜び半分ガッカリ半分で帰路へと着くことになったのだった。

 * * *

 夕刻になって山からケンズへと戻ったセリカを迎えたのは異様な空気だった。
 ご近所さん達が集まって深刻な顔で何かを話している輪が出来ており、セリカは何かがあったのだろうかと考える。そうしてぼんやりと見ていると輪の中にいた噂好きの主婦がセリカに気付いて声を上げた。
「 あ、ピンカートンさん! 」
「 こんにちはぁ……皆様、お揃いで如何されましたかぁ? 」
「 その様子じゃあ、おたくの機械人形マス・サーキュは大丈夫だったみたいだね 」
「 はい。ケートはいつも通りでしたけど? 」
 早朝から茸狩りに出掛けたセリカを優しい笑顔で見送ってくれたのはケートだけである。夫のベンジャミンは夢の世界から出ても来なかった。思い出すだけで憎らしくなるのでセリカはそれをさっさと忘れることにする。今はご近所さんの話題の方が重要だ。
 セリカが何も知らないと気付いた人々は一斉に喋り出す。テレビを殆ど付けることのないピンカートン家は知らなかったが、昨夜に電子世界ユレイル・イリュに汚染物質が撒かれて一部の機械人形マス・サーキュが暴走した事、お昼にはミクリカで機械人形マス・サーキュによる虐殺があり推定犠牲者数は市内の少なくとも二十パーセントを超えたと発表されたという事、今は鎮圧されており生存者の救助と捜索の為に軍警がミクリカに派遣されたという事……知らなかった事とはいえ、呑気に山に籠っていたセリカの顔は青くなる。
「 そんな事が起きていたんですねぇ…… 」
「 まぁ、ミクリカに近いとはいえ、こーんな田舎町なら安全だろうけどねぇ 」
「 それに、もう鎮圧されたんじゃ安心だ 」
 そう言って笑い飛ばすご近所さん達。
 確かにケンズはカンテ国の中でも田舎町というに相応しい町だ。万が一、機械人形マス・サーキュがミクリカと同じことをするとすればスラナやラシアスといった大きな都市を狙うだろう。よって、ご近所さん達のいうように田舎町のケンズは安全だ。それが正常化の偏見であると知らず人々は呑気に笑い合う。
 しかし、翌日の十八日。
 己の命と引換えに人々はそれが間違っていた事に気付くのであった。

転 7月18日「 ケンズの悲劇 」

 セリカはベンジャミンに叩かれた頬を手で抑え呆然と彼を見つめていた。口の中に鉄の味が広がっているから、どこか切れてしまったのかもしれないとどこか他人事のように思う。
「 躾だよ、セリカ。これは暴力ではない 」
 呆然とするセリカに向かって嘲笑うような歪んだ笑いを見せる夫は、もはやヒトのカタチをしただけの違う生物にしか見えなかった。
「 奥様、大丈夫ですか 」
「 ケート。それは放っておいて良い 」
 心配してセリカに向かおうとするケートの動きを主人マキールであるベンジャミンが止める。動きを止めたケートの純粋に心配する淡い紫色の人工眼と立ち竦むセリカの金眼とも称される瞳が互いを凝視し合った。先に反らしたのはセリカの方だ。
「 何もケートさんを廃棄しろと申し上げている訳では御座いません。一時的に電源をお切りになった方が宜しいかと…… 」
「 そんな事できる訳ないだろう!! ケートが死んでしまう!! 」
 声を荒らげるベンジャミンをセリカは冷めた目で見つめる。機械人形マス・サーキュが暴走している今、ケートの電源を落としておいた方が安全では無いかという事もこの男には理解出来なくなっているらしい。今のところケートに異常は見られない。それならばケートを守る為にも電源を落としておくことが最善の道だと思われるのだが、電源を切るということが彼にとっては殺すことと同義になってしまっているようだ。
「 ケートさん 」
 彼女の名前を呼んで、セリカは改めてケートを見つめた。彼女の撫子色の髪に淡い紫色の瞳は元々は購入時に「 君の手伝いをする機械人形マス・サーキュなんだから君が選ぶと良いよ 」と夫に言われてセリカが選んだもの。妹のいないセリカにとっては妹のような存在で、夫がおかしくなるまではずっと一緒に家事をして笑いあってきた可愛い存在だ。
「 はい、奥様 」
「 ケートさんはどうしたいですか? 」
「 私は……主人マキールに従うだけです 」
 それは予想通りの答えだった。機械人形マス・サーキュにとって主人マキールは絶対的存在。分かりきった答えだったとしても、それを聞いて勝ち誇った顔をしている夫が少々憎らしい。
「 分かりました。お騒がせして申し訳御座いませんでした 」
 頭を下げて謝罪をしたものの、あくまでも凛とした態度は崩さない。
 その挑戦的ともいえる態度にベンジャミンは文句を言おうと口を開きかけるが、セリカの眼力に怯んで怖気付いて結局は何も言えなくなる。
 もう、この人は駄目かもしれませんねぇ。
 昔はもっと優しい人だった。いつかは彼が昔の優しい人に戻ってくれると信じて待ち続けていたが、それは夢物語となりそうだ。
 貴方はかつて、私にとって大空の中心だったのに。
 ベンジャミンを最後に一瞥してセリカは鍵をかけて自室に籠る。
 今日だけは、もう何もしたくなかった。

 * * *

 ドアを激しく叩く音に驚いたセリカは目を覚ました。どうやら寝台の上で蹲っているうちに眠ってしまっていたようだ。
「 セリカ!! 」
 遂に堪忍袋の尾が切れたのだろうか、扉の前でベンジャミンが珍しくセリカの名前を呼んでいる。しかし、その声は怒号というより焦燥感に満ちていてセリカに対して怒っているというよりは訴え掛けているような響きがあった。
「 窓から逃げろ!! 」
 逃げろ? 何から?
 朦朧として意識が現実と夢が交錯していた状態のセリカはベンジャミンの言葉が理解出来ず、寝台から起き上がったもののそれをぼんやりと聞いていた。
 ドアが一際大きく叩かれる。否、叩かれたなんて生易しい音ではない。何かがドアに叩き付けられたような強い音だ。
「 え…… 」
 ドアの下から染み出てきた赤い液体に、セリカの意識は瞬時に覚醒して溢れんばかりに目を見開く。そして咄嗟的に部屋に置いてあった己の刀を手に取り鞘を抜き放つと、ドアを凝視した。鍵を破壊してでもドアを開けようとでもいうのかドアノブが激しく揺れる。
 どこか町の遠くで爆発音がした。それはバスが商店に横転しながら突っ込み物も人も巻き込んで爆発した音だったのだけど、今のセリカはそれを知らない。

――ミクリカで機械人形マス・サーキュが暴れたそうよ!
――まぁ、ミクリカに近いとはいえ、こーんな田舎町なら安全だろうけどねぇ。

 前日のご近所さん達との会話が甦る。そしてベンジャミンの『 窓から逃げろ 』の言葉。
 導き出される答えは一つ。
 今、ドアノブを握っているのは機械人形マス・サーキュのケートだ。おそらく、ベンジャミンは――。
 唇を噛んで内心の動揺を押さえつけると、表面的な冷静さを保ちながら静かに刀を構えた。狭く動きを制限される室内では無闇矢鱈に刀を振り回すことは悪手故に次の動作は限られてくる。
 まさか。そんなはずはない。
 刀を構えつつも否定する言葉が脳内で巡るが、ドアの下から流れ出てきた液体の鉄錆のような臭いがセリカを嘲笑うように否定する心を否定する。
 やがて、遂に力に負けたドアが外れた。ドアと一緒に部屋に倒れ込んできたのは俯せになったベンジャミン。首から夥しい血が流れ落ちて床を濡らしている。
 しかし彼ばかりを見つめている時間はセリカには無かった。その彼を踏み越えて両手を真っ赤に染めたケートがそこにいたからだ。
「 旦那様を踏みつける無礼は止めて頂けます? 」
 思わずケートに向かって言い放つが、彼女から返答はない。
 そのケートの目は淡い紫ではなく真っ赤に染まっていた。明らかな異常事態を示す色を目に浮かべたケートの顔に表情は無く、普段は気にならない人工の顔が不気味に見えた。
 ケートがセリカに近付く為にベンジャミンから降りる。その瞬間、先に動いたのはセリカだった。踏み込みから一息に狙うのは機械人形マス・サーキュの弱点ともいえる関節部分だ。
 機械人形マス・サーキュには耳の強制終了スイッチで無力化させるという方法もあるがセリカの選択肢には無かった。ケートは夫の仇だ。愛が薄れても、もう駄目だと見限っても、ベンジャミンはセリカの夫で、愛した人で、大事な人だったのだ。
 吸い込まれるように切っ先がケートの首の関節へ滑り込む。上手くコードの束部分に刃が入ったことを直感的に悟ったセリカは刃を外へと滑らせ、人工皮膚を切り裂く。人間ならば致死量の血液が――ベンジャミンと同じ量の血液が溢れ出す筈だがケートは機械人形マス・サーキュ。血液の代わりにカラーコードが首から飛び出して色とりどりの色をセリカの視界に撒き散らした。
 行動停止にはならず倒れても尚、動こうと藻掻くケートにセリカは近付く。
「 おやすみなさい、ケート。そして、左様なら 」
 そう呟いて、家族だった可愛い機械人形マス・サーキュの耳にある強制終了スイッチを押す。微かな機械の駆動音が止み、ケートの真っ赤だった目の光が消えた。
 完全にケートが動かなくなったことを目視してセリカはベンジャミンに近付いていくと、その傍に腰を下ろす。
「 旦那様……ベンジー。好いた女に殺された気分は如何ですかぁ? 」
 長らく呼ばなくなった愛称でベンジャミンに呼び掛けて彼の頭を撫でる。首の傷が致命傷であることは明らかであるが、肩や背中にも傷があってセリカの口は笑みを作った。
「 背中の疵は恥だとおっしゃってらしたのに 」
 逃亡する気になれば一人でケートから逃げ切れただろうに、わざわざセリカに声をかけに来て死んでしまった夫。もっと自分の身を守ることに集中してくれれば良かったのに、どうしてセリカの為に馬鹿なことをしてしまったのか。
「 ベンジー……本当に貴方は馬鹿な人ですねぇ…… 」
 最期までセリカに冷たくしてくれたならば、永遠に嫌いなままだったのに。

 後に「 ケンズの悲劇 」と呼ばれることになるこの日。
 鎮圧と生存者捜索の為にケンズ入りした軍警に発見されるまで、セリカは茫然と夫と共に居続けたのだった。

結 ✕月✕日

 軍警に救助されたセリカはラシアスの実家に戻って来ていた。
 両親や姉夫婦が民間人の入れるケンズ近くまで迎えに来てくれたおかげでベンジャミンも故郷のラシアスへ帰ってくることが出来たことは僥倖だ。ただ、機械人形マス・サーキュのケートは連れて帰ってあげることは出来なかった。火事も免れたケンズの家を出る時に長かった薄紅色の髪を切り取ってベンジャミンの棺に入れてあげることだけがセリカに出来たことだ。
 ラシアスも決して平和では無かった。姉夫婦によるとセリカが戻って来る前には機械人形マス・サーキュの暴走があって犠牲者も出たとのことだ。その為にケンズ移住前に通っていた店が何件か閉店してしまったことを知って、日常がまた一つ失われたことをセリカは改めて知ることとなる。
「 本当に良いんだね? 」
「 ええ。お願い致します 」
 被害に遭うことなく営業を続けていた美容院でセリカは人生始めてのショートカットにした。前髪だって一度はやってみたかったオン眉パッツンに挑戦だ。切る前は不安があったけれど、切ってみれば視界が開けて髪も軽くてとても楽なものだから、もっと早く体験しておけば良かったとも思う。こんな髪型、ベンジャミンは許してくれなかったけど。
 ベンジャミンが好きだった洋服ともお別れだ。喪に服す意味で黒い物しか着ないけれど常に着物を着るようにした。
「 何だか生き生きとしてるわね 」
 姉がそう言って笑うくらいにはセリカは生まれ変わっていた。
 セリカ・ピンカートンは、あの日ケンズで死んだのだ。
 今、ここにいるのはセリカ・ミカナギ。ヤマトナデシコに縛られることの無い自由に生きる女性だ。
( とはいえ、いつまでも実家で御厄介になる訳にはいきませんねぇ…… )
 セリカの実家は御巫示源流という剣術の家だ。とはいえ剣一本で食べていける時代ではない。仕事を引退した祖父母が剣道教室を営んでいるものの、両親も跡継ぎの姉夫婦も別の仕事についている。専業主婦として暮らしてきたセリカが今更働ける口なんてあるだろうか。
 悩みながら街を歩いていたセリカは、とある閉店した花屋の前で立ち止まる。シャッターの閉まったその花屋は先日の機械人形マス・サーキュの暴走で店主が亡くなったのだという。セリカも何度か利用したことのある花屋だったので悲しみもひとしおである。
 ケンズでの被害の事はセリカは深くは知らない。情報が混乱していることもあるし、セリカが出来るのは全員が無事であることを祈るばかりだ。
「 マルフィ結社? 」
 花屋のシャッターには端的に閉店を告げるチラシの他に聞き覚えのない社名と入社の案内が貼ってあった。
「 アンタ、それに興味があるのかい? 」
「 え、ええ。何かと思いましてぇ…… 」
 セリカに声を掛けてきたのは花屋の隣にある雑貨屋の初老の女だった。ケンズにいた噂好きの主婦を思い出してセリカは思わず素直に頷く。
「 ここの花屋さん、娘さん残して死んじまってね……娘さんも軍警に保護されたんだけど行き場がないだろ? そしたら、こんな会社が出来たとかでそこに行くことにしたんだってさぁ……不憫なモンだねぇ 」
「 そうなんですかぁ…… 」
 セリカの記憶では此処の店の娘さんは小さな女の子だ。それから数年経っていても未成年か成人を少し過ぎた頃くらいの齢の筈。一見するとマルフィ結社というのは胡散臭くもあるが、軍警が保護した人間を変な場所に送ることもないだろう。
 そう思ってセリカは携帯端末を取り出して貼り紙を写真に撮っておく。
「 本気で行く気かい? 」
「 私、丁度仕事を探していた所だったんですよぅ。そのタイミングで見掛けるなんて運命みたいで良いじゃないですかぁ 」
 ふわふわと微笑むセリカに初老の女性が「 まぁ、掃除とか食事の準備とかアンタにも出来そうな事はありそうだしねぇ 」と呟くので、セリカも曖昧に頷いておく。本当は後方支援に興味は無いけれど、セリカの外見だけを見ればそういう仕事をする女に見えなくもないだろう。
 そうと決めたセリカは女性に別れを告げると意気揚々と歩き出した。


ようこそ、マルフィ結社へーー