薄明のカンテ - 隣の芝生は何とやら。/べにざくろ



恋する男は、みんなバカ。


まずは、タイガ君のおはなし

 その夜、ノエは主人マキールの不機嫌な理由が分からず、機械人形マス・サーキュらしからぬ事だが窮していた。
「ほら、タイガ。そんな事をしては舌が痺れて次の料理が分からなくなりますよ」
「平気」
 主人であるタイガは見た目に反して辛味に強く、今も「今日の夕飯は辛い汁麦ジュ・バツが良い」というリクエストによって作られた汁麦にスコヴィル値を高くするデスソースを更にぶちまけた物を黙々と口に運んでいた。辛いものを食べると舌が馬鹿になるという、良く人間が言う嘘を言いたくなるところであるがノエは機械人形として、いや料理人としてそのような嘘をつきたくはないという判断をする。主人を諌めるためとはいえ料理に関しての虚言を吐きたくはなかった。
「タイガ。何があったのですか?」
 代わりにノエはタイガの不機嫌の理由を探ることにした。不調の理由が分からなければ対処の仕方が分からないのは人間も機械人形も同じだ。
「……今日、ヒギリちゃんとテオ君が一緒にご飯食べてた」
 ポツリとタイガから放たれた言葉に「そうですか」とノエは笑顔を浮かべたまま頷く。別にヒギリとテオフィルスが一緒にご飯を食べているのは今日だけではないことをノエは知っていたが、わざわざタイガに報告するまでもないと放っておいていた。ヒギリとテオフィルスの間に親密さはあれど、それは色恋沙汰の匂いのするものではないように見えていたからだ。自分が機械人形だからそう思うのかと思い、それとなく食堂の人間にも聞いてみたが「あれは恋愛じゃないわね!」と力強くリーシェール夫人達に言葉を貰ったのでノエの判断は間違ってはいない。
 なお、今日の昼間の食堂にはノエはいなかった。機械班でメンテナンスを受けていたからだ。
「食事を一緒にするのは友人同士、良くある事なのではないですか?」
 ノエは敢えて「友人同士」の部分だけ音量を上げるようにして発した。
 そんなノエを見上げて冬の淀んだ沼底の汚泥のような目をしたタイガは口を開く。
「ヒギリちゃんがテオ君のこと『好き』って言ってた」
「友人同士なら軽い意味で『好き』と言うでしょう?」
 再びノエは「友人同士」を強調してタイガを諭そうとした。
 医療班のミアが総務部のクロエに「クロエちゃん、大好きー!」と言っているのを何度となく食堂で見かけた事もあり(クロエは「あー、はいはい」と流していた)、人間の好きには多くの種類がある事をノエは知っていた。おそらくヒギリの『好き』もその類のものであり、男女の恋愛の『好き』ではないだろう。食事の場で告白というのも――いや、高級レストラン等でならプロポーズというのも有り得るか。しかし、現場はマルフィ結社の食堂であるので違うだろう。
「メドラーさんにどういった状況だったのか確認したのですか?」
「あの時はもう頭真っ白だったから、その場を離れるだけで必死だった。後でメッセージ送ってみようかなって思ったけど汚染駆除班、今日は残業なんだよね」
 そう言いながらデスソースを振ろうとしたタイガの手をさり気なく遮り、ノエはデスソースをタイガから遠ざけた。不満そうな目でタイガが見てくるがノエは其れを涼しい顔で受け止める。
 仕方なく、タイガはデスソースを諦めて汁麦を大人しく口に運んだ。
「状況ならモナルダさんに確認しても良かったのでは?」
「無理無理!」
 そう言って勢いよく首を横に振る。
「何故です?」
「だって……」
 ノエの追求にタイガは何かを言おうとして口を閉じた。
「言っていただかなければ分かりません。タイガ、察してもらおうと口を閉じてはいけませんよ。こちらが察することが出来ることは人間以上に限界があるのですから」
 人間の感情に反応するようにプログラミングされている機械人形といえど細かい感情を察することは出来ない。「目は口ほどに物を言う」と諺で存在することは理解していても、それを実践することは機械人形たるノエには出来ることではないのだから。
 暫く言うか言わまいか悩んだ様子のタイガだったが、言わねばノエは諦めないと悟って渋々口を開く。
「オレだって食堂でヒギリちゃんが本気でテオ君に告白してたなんて思わないよ? 告白なんて大事なこと、ご飯食べながらなんてしないと思うから……だけどヒギリちゃんと仲良いつもりだったけど、オレはヒギリちゃんに『好き』って言われたことないのにテオ君だけ言われるとか……ズルいよ」
 成程。これは嫉妬という感情ですね。
 ノエはタイガの内心を見透かして結論付ける。
 そして嫉妬に狂って他人を傷付けるような行動に出ては問題だが、タイガはそんな行動に出そうな様子はなさそうなので一安心もしておく。マルフィ結社内で痴情のもつれが発生するのも嫌であるし、それが己の主人となったら笑えないどころの話ではない。
 解決策としてはヒギリがタイガに「好き」と言ってくれるのが一番なのだが、まさかノエがヒギリに「モナルダさん、うちの主人が凹んでいるので元気つけるために『好き』と行ってくれませんか?」と頼む訳にはいかないだろう。頼めばヒギリは素直な良い子なので「良いよ」と軽い返事でやってくれるだろうが、それがノエによって頼まれたものだと何らかのキッカケでタイガが知ってしまえば今以上に荒れるのは火を見るより明らかだ。

――ピンポーン

 その時、来客を告げるインターホンが鳴った。
「タイガ。私に言い忘れている来客の予定はありましたか?」
「無い、けど……もしかしたらルーかも。オレ、ルーにメッセージ送ってあるんだ」
「ああ、ルーウィン・ジャヴァリー……さん、ですか」
 温厚な性格に設定されているはずのノエの目が冷たく細まる。
 かつてノエが一晩かかるメンテナンスに行っている時にタイガと酒を飲み古くなった椎茸をタイガに食べさせて腹痛に追い込んだ怨みをノエは忘れていない。タイガ本人は大して気にしていないような小さな事件であるが、料理人であるノエとしては色々と許せない重大事件なのだ。
 そんな機械人形の異変に気付かないタイガは汁麦を綺麗に平らげると「ご馳走様」と呟き玄関へと向かう。通常の独身男性の一人部屋ならワンルームだが、ノエがそのキッチンでは満足しない為に家族用の部屋を借りているタイガの部屋は広い。玄関方面へとタイガの姿が見えなくなると、ノエは静かにテーブルを片付けだした。仮に訪問の相手がルーウィンだとすればタイガの悩み相談に乗りに来てくれた訳であり、そうなれば長居するのは目に見えている。
「あ、ノエさん。邪魔します」
 そう言って部屋に入ってきたのは予想通りルーウィンだった。恨みを笑顔の下に隠してノエは「こんばんは」と言葉を返す。
「ノエ、ルーがお土産くれた。牛乳とチーズ!」
「それはそれはどうもお気遣いいただいてありがとうございます」
 ルーウィンの長身の横から顔を覗かせたタイガの言葉にノエは今度は含みのない笑みを見せた。ルーウィンの持参する彼の実家が作る乳製品は質が良く、ノエとしては料理しがいのある食材だ。
「ルーはご飯食べた?」
「支部から戻りながら皆と食った。そーいや、飯の時にゼンさんがさあ――」
 ルーウィンは支部勤務からの帰りにわざわざタイガの部屋に来たらしい。その友情には感謝しつつタイガとルーウィンが何気ない日々の話をしてるのを小耳に入れながら、ノエは何か軽いものでも作ろうと夕食の食器を持ってキッチンへと向かっていった。

 * * *

 ノエは目の前の会話にエラーを起こしそうになっていた。
 人間でいえば頭がクラリとしたといった感じだろうか。
 そんなノエの前に居るのは、情けなくも泣いている成人男性二人である。
 当然のことながら、それはタイガとルーウィンに他ならない。
「オレの好きな子がとある男に『好き』って言ってた!」から始まったタイガの愚痴。そんな話なので2人とも酒を片手に会話を始めたのは良いが、如何せん話題が悪かった。どうやらルーウィンにも想い人(と本人は認めていないがノエの判断的には完全に恋愛感情かあるように聞こえた)がいるようで、しかもタイガの想い人のように強力なライバルがいるようだ。
「俺さあ、自分を勝ち目のねー戦い程燃えるタイプかと思ってたけど、わりと普通に勝てる気しねーって辛いんだけど」
「分かる、分かるよルー! ライバルが強敵って漫画の世界だと格好いいけど実際は辛いよね!」
 タイガの想い人はヒギリ。そんなヒギリの対応が違って見えるのは今回の事件の発端であるテオフィルスと、前線駆除班のエリックか。
 ノエは記憶を呼び覚ましつつ考える。
 しかし、酔っ払いの考えは機械人形のプログラムが導き出す答えの斜め上を行くものだ。
「あんな奴が側に居たら、俺何にも勝てねーって……」
 ルーウィンのライバルはロード・マーシュ(とシキ・チェンバース)だ。
「オレだって負けたくないけど……」
 タイガのライバルはエリック・シード(とテオフィルス・メドラー)だ。
 その共通点といえば――?

 * * *

 休憩所でタイガは項垂れていた。
「こんな筈じゃなかったのになぁ……」
 そう呟くタイガの姿はいつもと違っていた。ふわふわの蜂蜜色だった金髪は黒く染められてストレートな七三分け、服装もいつものカジュアルなものではなくてスーツ姿だ。
 酔っ払ったタイガとルーウィンが自分達はライバルに負けていると散々騒いだ挙句の結論は「そうだ。黒髪にしよう」だった。馬鹿である。
 そして黒髪に染めて翌日に意気揚々と出勤したタイガだったが、社の仲間たちの反応は悪かった。特に悪かったのは予想通りというべきかロード親衛隊(非公式)のお姉様方だ。
『アンタなんかがロード様の真似をしようなんて烏滸がましいのよ!』
 散々、人の姿を笑った後にロード親衛隊(非公式)に言われた事が頭をよぎる。黒髪にしたついでにロードみたいな格好良い大人になりたくて、とりあえず見た目から寄せてみた結果の言葉がそれだった。何とも酷い言い草で少しムカついたものの、確かにそんな気がする自分も居たのは確かで彼女達には何も言い返せなかった。
 そんな彼女達から逃げるように休憩に来た訳で、悔しくて手にしたコーヒー缶をヤケ酒のように一気飲みをする。これもロードの真似をしようとしたが、結局ブラックは飲めないので砂糖とミルクの入ったものだ。
 あーあ。何て格好悪いんだろう、オレって。
 自分はマルフィ結社の中では比較的年齢は若い方だと思う。
 それでも若いから格好良くないというのは言い訳にしかならなくて、おそらくロードはずーーーっと格好良かっただろう。タイガの年頃の時も今のように仕事を華麗にこなして余裕のある笑みを浮かべていたに違いない。
 元々はエリックに対抗して始めた黒髪だったが、タイガの中で「余裕ある男性キャラになってヒギリちゃんに惚れてもらう!」に趣旨が変わりつつあった。元々、ヒギリが黒髪ではないテオフィルスに「好き」と言っていたのが発端な訳で、ある意味では方向性が正しくなったともいえる。
 その時、タイガの携帯端末がメッセージの着信を告げた。
 開けばそれは昨日からの黒髪仲間であるルーウィンからで、書いてある文章に思わず苦笑いを浮かべる。

――すっげー馬鹿にされたんだけど。

 文章はそれだけであったが、ルーウィンも散々彼が所属する第三小隊で弄られているんだろうと分かる。特に第三小隊は口が良く回る人間が多いチームであるから、もしかしたらタイガよりも酷く馬鹿にされたりしているのではないだろうか。
 自分よりも不幸な人がいる。
 考えようとしては残酷なことだが、今のタイガが元気を取り戻そうと思えるには十分だった。今度、黒髪にしたことによる周囲の反応を語り合おうねとメッセージを送り、タイガは携帯端末をポケットへとしまった。
「さて、と」
 いつまでも休憩所で凹んでいる訳にもいかなくて、タイガは立ち上がって大きく伸びをする。行儀が悪いけれどゴミ箱に向かって空き缶を投げると、綺麗な放物線を描いてシュートされるので思わずガッツポーズ。こういう幸運が今はとてつもなく嬉しい。
「え!? もしかしてタイガ君?」
 背後から聞こえてきた困惑した女子の声に、更に困惑したのはタイガの方だった。
 錆びた機械人形のようにギギギ……と音をさせるかのように首を休憩所の入口へと向けると、そこにはヒギリ・モナルダが綺麗な紫の目を丸くして立っていた。
「も、モナちゃん……」
 見られた。よりにもよって想い人のヒギリに。
 そもそもはヒギリに見られたくてした黒髪である訳だが、今は馬鹿馬鹿しくて彼女には見せたくなかった。今後、髪の色が戻るまでは食堂にはキャップを被っていけば良いとまで考えていたのに、まさか此処で出会ってしまうとは。
 そんなタイガの内心をよそに、ヒギリは上から下までタイガを眺めていた。
「どうしたんよ、その格好」
「えーっと……その……」
 言葉に詰まる。
 本人を目の前に「君が黒髪が好きそうだから染めてみたんだ!」と言うだけの無謀な勇気は今のタイガには無かった。
 ロードさんに憧れて?
 しかし、それを言ってヒギリがロードに興味を持ってロードのことを好きになったら嫌だな、と思って言えない。
 そんな悩みに悩んだタイガの脳裏に、ある言葉が天啓のように降ってくる。そうだ、これで行こう。タイガは笑みを浮かべた。
「イメチェンかな。ラウルのピーターみたいで良くない?」
 咄嗟的に誤魔化すためとはいえ人気のお笑い芸人の名前を出してしまってから「しまった」と心の中で思う。ヒギリのアイドル時代と『ラウル』は良い組み合わせではないことをファンの1人であるタイガも良く分かっている。先程のは天啓ではなく悪魔の囁きだったか。
 一転して気まずい笑みを浮かべるタイガを見るヒギリは何を思っているのだろう。
 ヒギリとお笑いコンビ「ラウル」の縁はヒギリが大人になるかならないかの頃に始まっている。とあるネット番組の司会がラウルで、ヒギリがそこに出演したことがあったのだ。ロデオマシンから落ちたヒギリ。見えた「おっさんタヌキ」のパンツ。
 好きなアイドルのパンツ姿なんて普通の男ならドキドキすることだが、当時のタイガは多感な年頃にあったにも関わらず「ローズ・マリーちゃんは、かわいいなー」と純粋な目で見つめて「おっさんタヌキ」のグッズを買い漁ることしかしなかった。
「あー、うん……ラウルのピーター……ね……」
 ローズ・マリーの面白パンツの記憶に浸りかけていたタイガを現実に引き戻したのはヒギリの何とも言いにくそうな硬い声だった。
「ご、ごめんね、コメントしにくいこと言って。オレ、あんなイケメンじゃないから似ても似つかないよね」
 誤魔化すようにタイガはヒギリに笑いかけた。
 そんなタイガを見て、ヒギリは一言。
「私は普段のタイガ君の方が好きなんよ」

――好きなんよ。

 その言葉がタイガの脳内で何度となくリフレインした。
 言葉の破壊力にヒギリがラウルの黒髪ピーターではなく金髪エルッキの方に縁があるとか、そんな事実はその瞬間のタイガの頭からは綺麗に抜け落ちている。
「ありがとう、モナちゃん!」
「へ?」
「これ、1ヶ月くらいで色落ちするから!」
「あ、うん」
「本当にありがとう!」
 勢いのままヒギリに近付き彼女の手を両手で包みぶんぶんと縦に振って離すと、鼻歌なんぞを歌いながらタイガが休憩所を立ち去っていく。
 そんな訳の分からない行動をするタイガの背中を混乱しつつ見送るヒギリの顔は青い。

「今の鼻歌、ディーヴァの曲……」

オマケのルー君

 6:00マルロクマルマル
 ルーウィンはパチリと目を開ける。起床ラッパの音が聞こえなくても未だに本能的に起きてしまう自分に苦笑しつつも、やはり軍警学校の寮での癖で手早く毛布を畳んでしまう。
 基本的には「家事なんて死ななきゃ良くねー?」の雑な精神のルーウィンではあるが、マルフィ結社に来る前に居た軍警学校でそれは許されるものでさなかった。更にいうならここから手早く身支度をして外に飛び出しての訓練もあったのだが、今は無いのでそこはのんびりと朝を楽しむことにしている。
「あ?」
 顔を洗いに洗面所へ向かったルーウィンは鏡の中の自分を見て目を丸くする。
 髪が黒い。
 カボチャのようだった髪が黒カボチャのような色になっていた。
「え……?」
 暫し唖然としていたルーウィンだったが、ふと色々な記憶が蘇ってくる。
 そうだ。酔っ払った勢いで予約した美容院にタイガと黒く髪を染めに行ったのだったと。

『単純に黒くすんなら黒染めなんすけど、お客さん達は暗染めの方がおすすめっすね』

 予約して行った美容院で担当してくれた美容師の言葉が蘇る。
 実はこの時、ルーウィンは美容院初体験だった。男の髪なんて床屋一択だと思っていたのだ。「暗染め」が分からず固まるルーウィンを他所に、慣れた様子のタイガは普通に会話を続けていた。

『オレ、4トーン位のつもりだったんだけど』
『いやー、お客さんとお友達さんの髪色からなら6位で十分ですって!』
『ふーん。じゃあ、それでお願いします。ルーも良いよね?』
『あ、う、うん……』

 髪を黒く染めるだけでも色々あるのだとルーウィンは大変に驚いた。
 そして出来上がったのが、今の黒髪である。黒染めというものではないため、通常のカラーと違い1ヶ月程度しか色は持たないのだという。カンテ語で話して欲しい。ルーウィンはそう思う程に美容師の言葉が理解できなかった。
「どーすっかなー、これ」
 ルーウィンは既に鏡を見た段階で黒髪にしたことを後悔し始めていた。
 この日、ノリノリで髪をストレートアイロンで伸ばして七三分けにし、スーツを着ていたタイガとは対極の反応である。
 髪を隠すために帽子でも被ろうかと考えたルーウィンだったが、直ぐにその案を脳内から描き消す。黒髪で帽子は同小隊のメンバーであるゼン・ファルクマンと被る。キャラ被りは論外だ。そんな格好で行けば、ゼンがニヤニヤと「俺の真似か?」と問い掛けてくることが容易に想像されてしまう。
 ニヤニヤ顔のゼンを見たくない為に、いつもは真ん中分けセンターパートにしている前髪をルーウィンは下ろしたままにする。少しでもゼンに似ないようにルーウィンは必死だった。
 いつもより身支度に時間をかけ、しっかりと朝食をとるとルーウィンは寮を出る。これで身支度は完璧。その筈だ。

 * * *

 集合場所である控室に辿り着いたルーウィンは、己の浅はかさに膝から崩れ落ちそうだった。
「ん?」
 ルーウィンの目の前には怪訝な顔をしたゼン・ファルクマン。
 今日の彼はいつもと同じように帽子を被っていたが、前髪は分けられておらず、普通に下ろされていた・・・・・・・・、・・・・・・・・・・。真ん中で分けている印象が多いゼンだったが、よくよく考えてみれば彼の前髪は真ん中分けセンターパートに限らず色々と変わっているのだった。そして、今日はよりにもよってルーウィンと同じように分けていない日だ。
「その髪……どうしたんだ?」
 緑の目に困惑の色を乗せてルーウィンを、正確にはルーウィンの頭部を見つめていたゼンであったが頭の回転が早い男である。ルーウィンが言い訳を考えているうちに何やら彼の中で結論が出たらしく、腕を組んで訳知り顔で頷く。
「そうか、そうか。つまり君はそんな奴なんだな」
「え? いや、どんな奴っすか」
 ゼンが何故か何も言わないうちから全てを悟ってきたような顔をするものだから逆に困惑するルーウィン。そんな彼に近寄ってきたゼンはポンと手をルーウィンの肩に置いてニヤッと笑った。
「憧れの人間になる為に見た目から入るタイプか?」
 確かに気になる女子クロエが親しくしている憧れの人間ロードに寄せるように黒髪にしたことは事実だ。ゼンは一体、どこでそれを悟ったのか。それに、そんな簡単に悟られてしまうくらい自分は周囲に分かりやすい顔をしていたのだろうか。
 そうだったとしたらマジで恥ずかしいんすけど。
 ルーウィンはそんなことを考えながら、ゼンを見た。
 ゼンの問いに対してルーウィンは何も答えていないのにも関わらず、ゼンは己の中に生まれていた結論をルーウィンへとぶつけて来る。
「君の憧れの人間は、俺だな?」
「ちっ……」
 ちげーし。
 咄嗟的に言いそうになったが「俺じゃないとすれば誰だ?」と正解までゼンは聞こうとするだろう。そうすればゼンに聞かれたくなかったがために髪型まで変えてきたのが結局、全部水の泡になってしまう。
 控室のソファで眠っているジョンの髪色は白で言い訳には使えない。
 さぁ、どうする――?
「ゼン」
 そこに静かにゼンを呼ぶ女性の声がかかる。ルーウィンが部屋に入ってきた時から本を読んでいたキッカだ。
「男の子なら誰しも人に憧れる時があるでしょう。しかし、其れが誰なのか問い詰めるのは野暮と言うものではありませんか?」
 淡々としたキッカの声はルーウィンにとって一筋の助けのようだった。
 あざます、キッカさん!
 ルーウィンは感謝の心を込めてキッカを見つめておく。この際だから「男の子」呼ばわりされたことは脇に置いておいた。彼女の息子のノーマンと比べられたり同等の扱いをされる事はルーウィンには慣れたもので、いちいちツッコミを入れたり目くじらをたててはいられない。
 一方のゼンはキッカの言葉に何か思うところがあったのだろう。ルーウィンへの追求を諦めたような顔になっていた。
 あざます、キッカさん!
 ルーウィンは再び感謝の心を込めてキッカを見つめておく。チラリとキッカがルーウィンを見たようにも見えたが、彼女の目は大きくないのでハッキリとは分からない。それでもルーウィンは自分を見たと思い込むようにしておいた。
「そうだよな……本人を前にして言い辛いよな」
 ゼンが一人で納得して呟いて頷いている。ルーウィンは、もう深く突っ込まれたくないので黙っておくことにした。
「あらぁ。皆さん、お揃いです、かぁ……?」
 そこへ扉が開く音と共にセリカの、のんびりした声が部屋に響いた。しかし、その声も最後は困惑の色が浮かぶ。困惑の正体はセリカの視線の先にあるルーウィンの髪の毛である。
「あ、セリカさん」
「ルー君? それは一体どうされたのでしょう?」
「セリカ。其れを聞くのは野暮というものだ」
「はぁ……」
 ゼンがキッカの言葉を拝借して声を上げるがセリカは全く訳が分からず、目を白黒させるだけだ。言葉を借りられたキッカは何も気にする様子もなく本を読み続けている。
 ルーウィンはそんなセリカの様子を見て一時の勢いで黒髪にしたことを再び後悔していた。そしてセリカが来るということは、もう一人の人物が姿を現すことを示していて、その彼女の反応が恐ろしくなってくる。
「入口で止まってどうしたの?」
「お、お姉様。申し訳ないですぅ」
 セリカが振り返って謝ると場所を彼女へ譲る。そして、部屋に入ってきたのは我らが小隊長であるバーティゴだ。
 白濁した目で控え室を見渡したバーティゴの視線が一度ルーウィンを通り過ぎ、やがて戻ってくると凝視してくる。その突き刺すような視線のまま、ズカズカとルーウィンの元へと近寄ってきた。
 視線に串刺しにされて蛇に睨まれた蛙と化していたルーウィンの両頬を挟み込むようにバーティゴの手が添えられる。添えられると言うと大人しい印象に聞こえるが実際は少々勢いが良くて痛い。しかし、それはご愛嬌だ。
「ね、姐さん……?」
「ん?」
 ルーウィンの声にバーティゴの眉間に皺が寄る。
「ルーなの? 何か色が違うけど」
 その瞬間がルーウィンは髪色を変えたことを一番後悔した時だった。
 前線駆除班第三小隊の小隊長であるバーティゴは目が悪い。それ故に彼女は体格や髪色で人間を判断しているところがあるというのに、自分は愚かにも髪を染めてしまいバーティゴの判断を鈍らせてしまったのだから。
「ルーっすよ、姐さん」
「本当にルーなのね。驚いたわ」
 バーティゴは怒るでもなくルーウィンから手を離してカラカラと笑う。その笑みを見ても尚、ルーウィンの心に罪悪感が募った。
 そんな罪悪感に押し潰されそうになっているルーウィンの内心に気付いているのかいないのか。バーティゴが更に言葉を紡いだ。
「ゼンが大きくなったのかと思ったわ」
「は? 何でゼンさんなんすか」
「だって、うちの黒いのと行ったらセリカかゼンじゃない」
 その言葉に軽く怒ったような、拗ねたような顔を見せたのはセリカだ。
「酷いですぅ。お姉様ったら、私とゼンさんを一緒にしないで下さいぃ」
「ごめんなさいね、セリカ。だって黒髪といったら貴女かゼンなのだもの」
「もうっ。セリカの事はいつでも分かる位言って欲しいですよぅ」
「ふふっ、悪かったわ」
 バーティゴとセリカがポンポンと会話を続けているうちにルーウィンはそっとゼンに視線をやってギョッとした。
「ぜ、ゼンさん……?」
 ルーウィンの視線の先でゼンが固まっていた。
「そうだよな……ルーの身長は俺とは違うもんな……」
 どうやら身長を話題に出したことがなく気付かなかったが、身長については突っ込んではいけない世界だったようだ。
 確かにゼンは170cm前半の身長でカンテ国の平均身長より少々小さいように見える。そしてルーウィンは185cm、もう一人の男性小隊員であるジョンは190cmくらいと平均より大きい。もしかして口に出してなかっただけで、ゼンはずっと身長を気にしていたのかもしれない。
「ゼンさん。オトコは身長じゃねーっすよ」
「勝者が何を言おうと敗者が敗者である事実は変わりないものだ。君は俺に声を掛けた事で自分の罪悪感を打ち消そうとしたのかもしれないが悪手だったな。俺の敗北感は増すばかりだ」
「はぁ……良く分かんねーけど、そうなんすね」
 ルーウィンはそれ以上、ゼンに何も言えなかった。

――この日、ゼンの采配は精彩を欠いたことは言うまでもなく。
そして、後日。
ルーウィンはキッカに作って貰った地の髪色のウィッグを暫く愛用することになったのであった。