薄明のカンテ - 療養中の模範患者/べに
 午前5:00。
 目覚ましがある訳でもないのに現在の医療班の唯一の入院患者であるアルヴィ・マルムフェは患者用のベッドで目を覚ました。
 先日、機械人形のボウガンによって負傷した右腕を庇いつつ起き上がると閉めてあったカーテンを少しだけ開く。この時期のカンテ国の日の出は何時間も前の話であるから外は既に明るい。
「起床されたんですか?」
 外をぼんやりと眺めていると背中に声がかかってアルヴィは申し訳なさそうに眉を下げながら振り向く。
「すみません。習慣で目が覚めてしまうものですから」
「構いませんよ。習慣を崩してしまう方が体調不良の原因になりますよね」
 ほんわか、という言葉が似合う雰囲気で現れたのは当直のアキヒロ・ロッシであった。
 完徹であるというのに疲労感を微塵も見せずに微笑むアキヒロに、それまで睡眠をしっかりとっていたアルヴィとしては罪悪感に苛まれる。
 そんな心が顔に出ていたのだろう。アキヒロが陽だまりのようと称される微笑みに困ったような色を足した。
「患者なんですから療養がマルムフェさんの仕事ですよ」
「す、すみません……」
「謝る必要は無いですよ」
「すみません……」
 反射的に謝って恐縮してしまうアルヴィにアキヒロは再びニコリと笑う。
「そういえば、煙草はお吸いになられますか?」
「煙草を吸うと臭いが身体に染み付いて猟の邪魔になるから吸うなというのが我が家の家訓でして。僕は猟師ではないですが一応守っているんです」
 アルヴィの言葉にアキヒロは笑みを深めた。
「それなら良かったです。以前、ここに入院していた方でトイレで隠れて煙草を吸っていた方がいましてねぇ。療養中一週間はここのルールとしてダメですよって言ったのに……」
 微笑んでいるのに過去のへの怒りを静かに見せるアキヒロは、怒られているのが自分でないというのに何だかとても恐ろしかった。この人は怒らせないようにしようとアルヴィは固く誓う。
「そ、そんな方もいらっしゃるんですね」
「ええ。本当に困った方も居たものです」
 アキヒロの言う困った方は人事部のロード・マーシュであるのだが、アルヴィの中でそれは「イコール」で結ばれることはなかった。ロードに表面通りの紳士でない面があることは知ってはいても、そんな中学生の不良みたいな真似をする人だとは思っていないからである。そしてアキヒロも世間話の一環として言ったまでにすぎず、わざわざ「これは人事部のロード・マーシュさんの話で」なぞという彼の評価を下げるようなことを好んで言うような男ではなかった。
 あくまでも世間話、悪い患者の例として上げたまでだ。他意はない。
「そういえばロッシ先生。今日のような夜勤の時は姪御さんはどうされているんですか?」
 会話の途切れた時を狙ってアルヴィは先程から気になっていたことを口に出していた。アキヒロがカヤという姪っ子と暮らしていることくらいはアルヴィも知っている。カヤという少女は人見知りが激しいらしくアキヒロ以外の大人の前には堂々と姿を現さないので、話したことはないのではあるが。
 まさか幼い子どもを一人で寮に置き去りという訳にもいくまい。そうなればカヤはどうしているのかと純粋な疑問だった。
 アキヒロは困ったような、疲れたような、笑顔を浮かべているのだけれども別の感情が内包された複雑な表情を見せてアルヴィを見ていた。
「カヤは今、父親の元に行っているんですよ」
「そ、そうなんですか!? えっと、姪御さんのお父様ということはロッシ先生の?」
「ええ、双子の兄がいましてねぇ。あの時・・・から離れ離れになっていたのですが、カヤはそちらに行っているんですよぅ」
 あの時――7月18日の「ケンズの悲劇」のことを指していることはアルヴィにも直ぐに分かる。アキヒロがケンズから来たというのは聞いたことがあったからだ。
 アルヴィは「ミクリカの惨劇」も「ケンズの悲劇」も当事者ではなくニュースでの情報しか知らないが大勢の人間が亡くなった中、アキヒロの兄が生きていたというのは奇跡的な話だろう。何故、今までカヤと一緒にいなかったのかと考えれば、おそらくアキヒロの兄は怪我を負って入院をしていたと考えるのが自然である。他人の事情を深く踏み込んで聞くのは失礼だと考えたアルヴィは、脳内でそのように結論付ける。
「良かったですが、ロッシ先生は寂しいですね」
「カヤの幸せを思えば僕の寂しさは瑣末事ですよ。それに、まだ僕にはフユも居ますしねぇ」
 沈黙すると、アキヒロと一緒に夜勤をこなしているフユが動いている音が微かに聞こえる。まだアキヒロは独りではないと思うとアルヴィは勝手ながらに安堵した。
 そんなアルヴィの右腕に目を走らせたアキヒロが口を開く。
「傷、残らずに済みそうで良かったですねぇ」
「そうですね。山神様のご加護かなって思ってます」
 山神を信仰する者らしいアルヴィの物言いにアキヒロは何の嫌味もない笑みを浮かべると「では、仕事に戻りますねぇ」と歩き出す。

「……申し訳ありませんでした」

 アキヒロが去り際に小さく呟いた謝罪の声はアルヴィには届かなかった。
 届いたところでアルヴィは何の謝罪なのかと首を傾げてたことだろう。
 アルヴィは知らない。
 アキヒロの双子の兄――ナツヒロが自分を射った犯人であることを。

 * * *

 つかつかと歩いてくる足音が聞こえて、カイト・ショーオンジのミステリー小説『暗闇の蝶』を読んでいたアルヴィは顔を上げた。同僚のギルバートから見舞い品の一環として貰った上質なレザー製のブックマークを読みかけのページに挟み込むのも忘れない。
 やがて患者に声をかけることなくメディカルカーテンが無遠慮に開かれて、アルヴィは苦笑しつつも慣れたもので彼女を迎える。
「起きてる?」
「お、起きてますよ。ホロウ先生」
 現れたのはヴォイド・ホロウだった。岸壁街の闇医者であったヴォイドは、その辺の常識が欠如しているのかいつも容赦なくメディカルカーテンを開く。最初は驚いたものだが、アルヴィも数日経てばもう慣れたものだ。
 しかし今日はいつもより登場が早いような気がしてサイドテーブルに置いた時計を横目で確認すると定刻よりも30分早い。
「あの……ぼ、僕の勘違いでしたら大変恐縮なんですが、普段より早いお越しのような気がするのですが気のせいでしょうか?」
 アルヴィの問いに対して特に感情を乱された様子も見せずヴォイドは青と緑が入り交じった不思議な色の瞳をアルヴィに向けると、ごくごく当たり前のように言った。
「んー……うん。たまたま30分早く起きたからかな? 何か仕事始めるのも30分早くなった」
 それで良いのか。
 自分の起床時間を30分前倒しにしたからと言って患者まで前倒しに叩き起こしにくる医療従事者がどこに居るんだ、とツッコミを入れたくもなるがヴォイドと親しくないアルヴィはそれを飲み込んだ。
「そ、そうですか」
 だからアルヴィに出来るのは読書を中断して、本をサイドテーブルに置いて頷くことだけだ。
「その本」
 ヴォイドが静かに本へと目を向けた。
「ああ、これは……」
「エロ本?」
「ち、ちちち違いますよ!カイト・ショーオンジです!」
 本を愛する読書家であるアルヴィとすれば『カイト・ショーオンジ』と名を出せば簡単に誤解はとけると思っていたが、残念ながらヴォイドの反応は薄い。
「だ、大体こんな場所でそんなものを読む人間なんて居る訳ないじゃないですか!」
 アルヴィが尚も言うとアルヴィを見ているようで見ていないヴォイドは遠い目をしていた。目は口ほどに物を言うというが「ですよねー」とばかりの彼女の表情に流石のアルヴィも気付く。
「ままま、まさか、ここで盛る人間が居ると……?」
 居るのである
 彼は本も無しに妄想だけで盛っていたワケであるが、居るのである。
「ま、まぁ、生理現象ですし致し方ないとはいえ……ホロウ先生達も、た、大変ですね」
 アルヴィの言葉にヴォイドはこくりと頷いた。
 特に彼女はそういう目・・・・・で見られそうな魅力的なプロポーションの女性であるし、その点でも大変なのだろうとヴォイドへ勝手に同情する。何と言ってもヴォイドのプロポーションは同性の、アルヴィの妹であるウルリッカが愚行に走る程のものであるのだから。
 アルヴィが以前のウルリッカの愚行を思い出しているうちに、ヴォイドはテキパキとベッド脇に設置した椅子に座り消毒の準備を終えていた。
「それじゃ傷口消毒するから」
「よ、宜しくお願い致します」
 手馴れた様子でアルヴィの差し出した右腕に巻かれた包帯を解くとヴォイドは傷口を見て少しだけ唇の端を上げた。
「肥厚性瘢痕にならずに済みそう」
「な、何ですかその肥厚性……何とかって」
「傷が残ること」
 端的だが分かりやすい回答だった。別にアルヴィは嫁入り前の娘ではないので傷が残ったところで何も困ることはないのだが、傷が残らないのは良いことだ。朝にもアキヒロに言われたことであるし、やはり医者としては気になるところなのだろう。
 患部を洗って消毒をすると、ヴォイドが新品の包帯を巻いていく。
 手際は良い。
 手際は良いのだが。
「あ、あのー、ほ、ホロウ先生?」
「何?」
「ちょ、ちょーっとだけ、ええ、本当に僅かで良いんです。も、もう少し緩めて頂けませんか?」
 ヴォイドの手によってアルヴィの腕の包帯は大変に力強くキッチリ巻かれていた。それによって血管が圧迫されて手の先が痺れてきそうだ。既に指先が青く見えるのはアルヴィの幻覚だろうか。
「あ、もう包帯巻いてるんですね!」
 そんな時にパタパタとした足音がしたと思えば、カーテンからひょっこり顔を覗かせて残念そうな顔をしたのはミア・フローレスだった。
 そういえばヴォイドが診察をした後に嬉々としてミアが包帯を巻いていたなぁとアルヴィは昨日のことを思い出す。
「巻く? 今やり直すから」
「良いんですか!? もちろんやります!」
 アルヴィの腕から包帯をとると、ヴォイドは立ち上がってミアに席を譲った。代わりに席に座ったミアは満面の笑みでアルヴィを見る。
「よろしくお願いします!」
「お、お手柔らかにお願いします……」
「はい! 頑張りますね!」
 包帯を持ったミアは緊張した面持ちだった。それが、あまりにも緊張した顔だったものだから昨日も一昨日も巻いたのになぁ、と思ったアルヴィは思わず笑ってしまう。
 途端にミアの眉がへにょりと下がり、萎れた花のような雰囲気へと変わった。
「頑張るので笑わないでください……」
「あっ、もっ、申し訳ないです。あ、あまりにも真剣だったもので、そこまで緊張しなくてもいいのになと思ったら面白くて……つい」
 恐縮しきりで謝るアルヴィの姿にミアの肩の力が抜ける。
「ぼ、僕のことは実験台だと思って、き、気軽にやって下さい」
「実験台ですか?」
「ええ。実験台です」
 そこでミアがようやく笑顔を取り戻したので、アルヴィも安心して微笑む。
「ねぇ」
「は、はい!?」
 唐突に会話に入ってきたのはヴォイドだった。
 微笑む訳でも無く表情の読めない彼女はアルヴィに問い掛ける。
「頭蓋骨に穴開けても良い?」
「ええっ!? な、何でですか!?」
「悪魔が患者の脳から脱出する方法だって聞いたことがあるから」
 頭蓋骨に穴――それは「扉」と呼ばれる――を開けることによって患者から悪魔を追い出して精神疾患を治すトレパネーションという科学的根拠がない療法があることを何故かアルヴィは知っていた。何らかの小説に出てきたのかもしれないし、異国の歴史や文化を学んだ中にあったのかもしれない。
 とにかく言えるのは全く何の治療にもならない民間療法の話を何故かヴォイドが出してきたという事実だけだ。
「ほ、ホロウ先生は何でそれをやりたいんですか?」
「実験台だって言ったから」
 ヴォイドの目は、至って純粋な探求者の目だった。
 学者たるアルヴィとしてはそんな目をされると非常に断りにくい気持ちになる。アルヴィだって過去には結果を求めるために危険な採取作業や測定に向かったことだってあるのだ。
 ヴォイドの色彩の不思議な目に強く見つめられると、気持ちがフワフワとしてくる。学術的好奇心を満たす為ならば、多少やってもらっても良いのではないか。そう思わせるだけの眼力がヴォイドにはあった。
「もうっ、ヴォイドさんったらそんな冗談言わないでくださいよ」
 思わずヴォイドに「はい」と頷きそうになっていたアルヴィを止めたのは能天気なミアの声だった。
「冗談にしてはちょっと怖かったですけど、おかげで緊張解けました!」
 ヴォイドは真剣にアルヴィへの実験台依頼をしていたのだが、ミアはそれを場を和ませるためのヴォイドなりの冗談だと思ったらしい。
「ありがとうございます、ヴォイドさん」
「うん」
 嫌味が一欠片も籠っていないミアに礼を言われてはヴォイドも「本気だ」とは言えず引き下がる他ない。
「それじゃあ、巻いていきますね!」
「よっ、宜しくお願い申し上げます」
 こうして救世主の知らないまま、アルヴィの腕と頭蓋骨の平和は今日は・・・守られたのであった。