薄明のカンテ - 落花流水薔薇の花/燐花

葛藤の朝

 二月二十二日。ネビロスはカレンダーに書いてあるメモを見てふっと笑みをこぼす。今日はミアの誕生日。そして今日、想いを伝えようと決めた。
「ミア……」
 カレンダーに書かれた彼女の名前を愛おしそうに口にする。その瞬間、亡くなったルミエルの顔が頭に強引に割り込む様に現れた。
「んぅっ…!」
 頭が割れる様に痛い。最近あまり彼女の事を思い出したく無い理由にそれがあった。
 診てももらった。だが、別段理由らしい理由が見付からない。おそらく心因性のものだと言われ、治そうにも治せない。
 ネビロスは目に涙を浮かべる。いつだって頭痛を伴うルミエルは、死んだあの瞬間の顔をしているから。カッと目を見開き、口から血を吐いてこちらに飛び込んでくる。病気ではなく、抗えない力によって人が死ぬ瞬間を初めて見てしまった。それは強烈にネビロスの記憶に刻まれた。
 人は死んだら何処へ行くのだろう。もしも生きている者の記憶する姿で存在するのだとしたら、自分が悩まされる限り、彼女は血塗れの苦痛を伴う姿でいつまでも恨めしそうにそこに在るのだろうか。
「……はぁ…」
 考えても考えてもただ辛くなる。ネビロスは振り解く様に冷蔵庫から水を取り出し冷たいそれを一口飲む。今日も今日とて頭の中の彼女を直視出来ずに彼は仕事に向かった。

「おはようございます」
「あ!ネビロスさん!おはようございます!」
 医療班に着いて一番最初に目に飛び込んだミア。彼女は可愛らしい包装紙とリボンに包まれたプレゼントを手ににこにこ笑っていた。今日はミアの誕生日。もう彼女に何かあげた人間が居たらしい。
 誰だろうかと思っていたら、あげた本人を意外と早く見付けた。分かりやすく達成感のある赤い顔をしたヴォイドが傍に居た。
「…なるほど…」
「あ、おはよ」
「おはようございます。ミアに何かあげたんですね」
 そう言うとヴォイドは赤い顔を更に赤らめる。そして次の瞬間にはぐぐぐと眉間に皺を寄せた。
「今日、ミアとご飯行きたかったな…」
「そうだったんですか?」
「うん、でも良い、ネビロスに譲る」
 何があったか無表情の様で以前より少し顔を赤らめたり青くしたり忙しくなったヴォイド。愛の日に何かあったのか、多分聞いたところで彼女は答えないけれど、以前より顔色から感情が読みやすくなって少し話しやすくなった。
 そんな彼女がもうミアにプレゼントをあげたらしい。初めて会った時の不躾で浮世離れした彼女からは凄い変化だ。そんな風に人を動かしたのにはきっとミアの力もあるのだろう。
 ついつい目線がミアを追う。だが、彼女がこちらを向いた瞬間色々と思い出したネビロスは思わず視線を外してしまった。頭の中に浮かぶのは、愛の日にもらった赤い薔薇。
 赤い薔薇の花言葉は『 あなたを愛してます 』。
 薔薇の葉の意味は『 あなたの幸福を祈ります 』。
 一本の薔薇の花言葉は 『 一目惚れ 』。
 薔薇の蕾の意味は『 愛の告白 』。
 あの日、初めてデートをした帰りふと気になって薔薇の花言葉を調べた時に目に飛び込んだ言葉達。彼女がくれたその薔薇は、ネビロスに愛を訴えてきた。自分も確かにお菓子言葉に頼った。頼ったのだが。
「(あんなにも心臓がうるさいものだとは…)」
 直接口に出されなかったのが救いの様な勿体無い様な。ネビロスは悩ましい顔で溜息を吐いた。お菓子言葉に想いは乗せたものの、該当する薔薇の花言葉全てがミアの込めてくれた物だとしたら自分のそれは少し軽く感じてしまった。決してそんな事はないのだが、ミアの向けてくれる想いが自分と同じだと自惚れてしまう。
 愛の日に出掛けた際にした今日のデートの申し込み。何となく、あれで勘付かれた気はする。元々隠すつもりもなかったがいざ本番を前にすると緊張する物だ。まして今日彼女を連れて行こうとしているのは酒の飲めるところだった。
「(…犯罪にならないだろうか…)」
 そんな心配もあるにはあるが、今は忘れる。
 自分はあまり深く知らないが、今日はミアと共にカミナリに行こうかとネビロスは決めていた。三年前に放送されていたドラマ「大きなナラの木の下で」の原作小説に出て来る主人公の行き付けの店のモデルがそのカミナリらしい。店の外観が極めて似ていると話題になっていた。ドラマにこそ出て来なかったが、作品自体があの当時女性に人気のものだったし、調べたら店自体も割と女性の入りやすい雰囲気だったので初めて酒を飲むにしても悪い場所ではないと思ったのだ。
 そこまで考えてネビロスは気付く。そうだ、ミアはやっと今日成人した。自分との年齢差は実に十を超える。そんな自分から想いを伝えられたとして、彼女は迷惑に思わないだろうか。
 ネビロスは不安そうに彼女をちらりと見る。そんな悩みも吹き飛んでしまうくらい、今日も元気に働くミアを見て思えず笑みが溢れた。今は自分の想いがどうなるかなんて考えるのはやめておこう。彼女とデートに行って、彼女の誕生日を祝う。今日は彼女に喜んでもらえればそれで幸せなのだから。
 しかし同時に、伝えておきたい事もある。
 それを聞いた上で彼女が今日が良い日だったと笑ってくれるかはネビロスも不安だった。

真心と言う名のそれ

「ネビロスさん!?また私…お待たせしちゃいましたか…?」
 就業後、ミアの寮の前。愛の日のデートと同じ待ち合わせ場所でネビロスは待っていた。少しだけ浮かない顔をして。
「いいえ。まだ時間前ですから」
「ネビロスさん…?どうかしましたか…?何だかあまり元気がない様に見えて…」
 心配そうに覗き込むミアにネビロスは苦笑する。「笑わないでくれますか?」と少しだけ照れ臭そうに言うと、ネビロスは意を決した様に口を開いた。
「今日はテディに頼めなかったんです…」
 何の事だろうとミアはネビロスをじっと見る。服は愛の日の時より些かカジュアルな系統で、どちらかと言うとそれより少し前に医療班の部屋でミアが泣いてしまった時彼が見せた私服を思わせた。勿論、似合っていない事なんてないし今日の服も彼に似合う物でとても格好良い。少し胸元の開きが広いそのトップスから見える肌にドキドキする。いつもと同じ、もう見慣れた筈のその下ろした綺麗な髪の毛も光に当たってキラキラしている。長めの髪が鎖骨の辺りで骨に沿って流れる様に掛かっており、それが何だか凄く色っぽい。
「やっぱり、変でしたか…?」
 ネビロスの声にミアはハッとする。不安そうに覗き込む彼は「愛の日同様にテディに頼めば良かったですね」と呟くのでミアはぶんぶんと首を横に振った。
「愛の日のデートの時も、今も、ネビロスさん凄く格好良いです…!」
 ミアの絞り出す様な声を聞き、ネビロスは安心した様に笑った。
「良かった…せっかくの誕生日なのに、ミアの隣にいるのがいつも通りの私で少しだけ申し訳なく思ってしまってました」
「そ、そんな事ないです!」
 ネビロスさんがいてくれたら、それだけで良いんです!と、言いたかったのに恥ずかしくなって上手く言葉に出来ず。ネビロスは微笑むと、さり気なく自分のポケットに手を入れる。中に入ったプレゼントから勇気をもらう様に、ミアに分からない様にそれを優しくギュッと握った。

 * * *

「わぁー…!本物だぁ…!」
 カミナリに着き、席に着くとミアは目をキラキラさせた。幸いにもミアはドラマを観ていたおかげで店に着くなりはしゃいでくれたのでネビロスは少し安心する。
 席に着いてメニューを手に取ると、真剣に最初に飲むお酒をミアは選んでいた。
 悩み過ぎて眉間に寄る皺。ネビロスはそんなミアを見てくすりと笑う。生まれて初めて飲むお酒だから。そう言わんばかりの真剣な眼差しを今独り占めしているんだよな、と思いネビロスは満足気に微笑んだ。別に独占欲も嫉妬心も自分ではそこまで強いとは思わないが、それでもやはり自分しか見る事の出来ない彼女の顔と言うのはどうにも嬉しくなってしまうものだ。
「うーん…じゃあ、このキッス・イン・ザ・ダークにしたいと思います!!」
 元気良くミアが言った為、ネビロスは思わず水を吹きそうになった。ミアの選んだカクテルはアルコール度数が三十度以上もあるとても強いものなのだ。名前がとてもロマンティックでついつい目に留まったのだろうが、それは罠だと言わざるをえない。甘い名前、甘い香りで口当たりがまろやかなのに度数が高く酔いやすい。流石にこれを一杯はミアには強過ぎるのでは無いか。
 ネビロスは瞬時に色々考えると、ミアの気を引こうと彼女の目線の先でトントンと指を動かした。
「ミア…」
「はい?」
「その…初めてのお酒にそれはもしかしたら強いかもしれませんよ…?」
「え!?そ、そうなんですか!?」
「はい…せっかく成人のお祝いをする時に出鼻を挫く様で悪い気がしたのですが…」
 少し目を泳がせたネビロスは、一つカクテルを目に留めるとそれを指差した。
「これなんか…どうでしょう…?」
「ミモザ…?」
「ええ、花に詳しいミアに花の名前のものが安直に似合う気がしまして。初めてなので私と一緒に、ペースを決めて飲みましょう」
 カクテルに言葉があるかは分からないが、そもそものミモザの花言葉は「感謝」。
 そして、「秘密の恋」。
 ネビロスがそこまで考えていたのかは分からないが、ミアは自分の気持ちを彼に見透かされている様な心地がして思わず顔を真っ赤にする。ちらりと上目遣いにネビロスを見れば、そこにはいつもより少しだけ笑顔の優しい彼が居た。
「あ、じゃあ…それで…」
「それから提案なのですが…ミア、ここでお酒を飲むのは、その一杯だけにしませんか?」
 ネビロスの突然の申し立てにキョトンとするミア。どう言う事だろうと追い付かない思考で疑問を浮かべていると、ネビロスはゆっくり口を開いた。
「その…聞いて欲しい話があるんです…せっかくなのでおつまみとお酒をテイクアウトして…続きは、私の部屋でと言うのはどうでしょう…?もしも嫌なら大丈夫です」
 ミアはまだお酒も飲んでいないのに既に真っ赤になった顔をぶんぶん横に振ると元気一杯と言う言葉が似合う返事の仕方をした。
「い、行きます!私ネビロスさんのお部屋でお酒飲みます!!」
 瞬時に店内の客の目線が自分達に注がれる。ネビロスは真っ赤な顔でミアの顔の前にサッと手を翳すと、誤魔化す様に笑った。
「ふふ…やっぱりミアには敵わないですね」
 互いの耳まで赤くなっていく音が二人の間で響いた気がした。

シャーデン・フロイデには目隠しを

「はあっ、はあっ…!」
 トイレの手洗い場、水の流れる音で息の荒さを誤魔化す。鏡には青い顔をした自分が映っていた。ネビロスは前髪をくしゃりと握る様に掴む。せっかくミアと一緒にいるのに、また例の発作的な頭痛に見舞われた。
 薄ぼんやりとルミエルの足が視界の端に見える。きっと彼女の足を伝い、視線を上げてしまえばまた見てしまう。彼女の見せた苦痛の最期の顔を。それだけはもう見たくなかった。
「んっ…」
 ピルケースから頓服薬を取り出し持っていた水で流し込む。何故ミアに想いを伝えようと思っていた今日に限ってこんなに頭が痛むのか。ネビロスは少し汗ばんだ額を拭うと呼吸を整えてトイレから出る。一人にしてしまったミアのもとに早く帰りたかった。
 ミアを待たせてしまったかと視線を移しネビロスは目を見開いた。さっきまで自分が座っていた席に知らない男が座っており、あろう事かミアと談笑している。ナンパだろうか、この場にあまり似合わないパンクファッションを身に纏った男は堂々とミアの前の席に座っていた。
 ネビロスは頭の痛みも忘れ少し走る様に足を動かすと席に戻ってすぐ様男の肩を掴んだ。
「…どちら様ですか」
「おお、おっかねー顔の兄ちゃんだなー。あ、コレもしかしてミアちゃんの彼氏?」
 不躾に自分をこれ呼ばわりするどころか馴れ馴れしくミアをちゃん付けで呼ぶ男を前にネビロスの顔が医療班にあるまじき顔に変わっていったのは言うまでもなく。ケタケタ笑う男を制止するべくミアは怒った様にむくれた。
「コレ呼ばわりしないでください…そ、それに彼氏じゃなくて、職場で良くしてくれる方です…!」
「えぇー?だってさー、どう見てもミアちゃんこの兄ちゃんにほの字…」
「わー!!わーっ!!」
「ヒヒッ、可愛いなぁー」
「いや、貴方誰なんです?」
 状況の飲めないネビロスが男に再度言葉を掛ける。男はにっと笑うと手をひらひら動かし敵意がない事をアピールした。
「俺ね、しがない飲み屋の主人だよ。今日は自分の店休みにして他所の店に飲みに来たの。そしたらこんなに可愛い女の子が居たもんだからさー」
 ついついナンパしたくなっちゃった。そう言ってミアに視線をやるとヘラヘラした笑顔が余計に増した。何だか締まりが無い奴だ。ミアを見るだけで顔を崩す、鍋に入れた豆腐の様な男である。
「…私は彼女のツレです。それだけで言いたい事は分かりますよね?もう引いていただけますか?」
「ヒヒヒッ!さては兄ちゃんイジワルな性癖持ったタイプだなー!?はいはい、元々彼女が一人で寂しそうだったから声掛けただけだよ、男が来たなら俺は退散しようかねー」
 その不思議なナンパ男は席を立つと自分の酒を手に取りまた別の席へひらひらと向かう。全く、カミナリはそう言う店では無かった筈だがまさかちょっと目を離した隙にミアに悪い虫が寄ってしまうとは。
「ミアちゃん、今度もうちょい酒に慣れたら俺の店飲みにおいでー!その時は俺に褒め言葉ちょうだいよー!」
 ネビロスはキッと男を睨むがもう男はこちらに背を向けた後だった。何だかどっと疲れたネビロスがミアの方を見ると案の定ミアはこの突如として巻き起こった嵐に着いて行けない感じだった。
「すみません…まさか少し席を離した隙にあんな…怖い思いをさせましたよね…」
「い、いいえ私は…!意外と怖い人では無かったですし…驚いちゃいましたけど…!それよりネビロスさん、頭が痛いのはもう大丈夫なんですか?」
 オロオロと心配そうに見てくるミアとネビロスはじっと目を合わせる。

 ──ネビロス、すぐ泣いちゃうんだからあまり飲み過ぎちゃ駄目だよ──

 駄目だ、ここで思い出したらきっとまた頭が痛くなる。ネビロスが歯を食いしばる様に力を込めるのと同じタイミングでミアが彼の手にそっと自分の手を重ねた。
「ネビロスさん、あの…大丈夫ですか?」
 彼女の手の熱が伝わると同時に恐怖がすーっと消えていく。
「…はい、大丈夫です」
 今自分の目の前にいるのは、ミア。
 ネビロスは少しだけ潤んだ瞳で安心した様にミアを見つめた。ふと、恐怖が薄れた事で記憶の中のルミエルの顔をちゃんと見たいと思った。

 そしてネビロスは、意を決して記憶の蓋をこじ開けた。

 * * *

 寮に戻る帰り道、二人は付かず離れずの距離を歩く。ミアは最初の一杯をペースを守ってゆっくり飲んだのでそこまで変に酔っているわけでは無く、同じく一杯だけ飲んだネビロスもまだその顔色は涼しげだった。二人の手には、カミナリでテイクアウトしたつまみと酒。状況だけ見れば店でそのまま飲み続ければ良いと誰でも思う。でもわざわざ寮まで移動する理由が彼にはある。その空気が伝わってか、ミアもネビロスも口数は少なかった。
「あ、あの…」
 耐え切れずミアが口を開く。同時にネビロスも口を開いた。
「あ、すみません、ミア…」
「いいえ!ネビロスさんどうぞ!」
「ええ……どうでしたか?生まれて初めての一杯は?」
 ミアは一瞬何かを考える様に目線を上に移動させ、少しだけ嬉しそうに、そして寂しそうに微笑んだ。
「何だか、大人になったのかなー?って、もっと実感するのかと思いました。でも、意外とあっさりしてて、思ったよりふっと軽く大人になった感じです」
「想像より低かったですか?大人の階段は」
「……それか、思ったより私の足が高く上がったのかもしれません」
 夜風に当たり、たった二人。
 ネビロスはミアの方へ伸ばしかけた手を躊躇って躊躇って、結局繋げずに歩く。そうこうしている内にネビロスの部屋の前に着いた。
「どうぞ、殺風景な部屋ですが」
 ミアは胸の高鳴りを抑えながらネビロスの部屋に一歩踏み入る。見える範囲でも想像通りと言うか、物の少ないさっぱりとした印象だった。同じ様な間取りなのに化粧品や小物をついつい転がしがちな自分と違って何だかきちんとしている。そう考えたら思わずしょんぼりしてしまう。
「ネビロスさん、お部屋綺麗なんですね…」
 ついつい前に進めず口から感想だけが飛び出す。大人だし、「当たり前です」だとかそんな感じに返事が返ってくるのかと思いネビロスの顔を見ると、彼は頬を少し赤らめて居た堪れないのか指で掻くような仕草をする。
「…いいえ、普段はもっと散らかってます」
「え?そうなんですか?」
「…男一人だとそんなもんです」
 それでもやっぱり物は少ないし、遠目に見えるテーブルの上も綺麗に片付いているし、物があるとすれば趣味なのか医療班の仕事と関係ないプログラム関係の本がある事くらいだろうか。
「でも、やっぱり綺麗です。わ、私結構化粧品とかごちゃごちゃしちゃって…」
「女性は必要な物も多いから仕方ないですよ。むしろあれだけ必要な物が多くてよく在庫とか管理出来るな…と思います。私はたまにハンドソープのストックすら忘れる事があるので…それに、私も今日はミアが来ると思って片付けたのできちんと整頓出来てるだけです。普段は本も出しっぱなしで寝たりしてしまいます」
 ミアが来ると思って。その部分だけ繰り返し頭の中で反復させてしまい思わず頬を赤らめる。ネビロスが自分の為だけに何かを準備してくれたと言うのが嬉しくてついついニヤけてしまった。
 ネビロスはそんなミアに気付き、何を言うでもなく優しくさり気なく彼女の頬を突く。つん、と触れた指先がやたら温かい気がして、ミアはもうのぼせてしまいそうだった。
 一方、ネビロスは口に出して想いを告げるまでこの空気に酔いづらいのか、少々強張った顔になる。
 狡いのは分かっている。でも、話してから想いを告げようとそう思った。
「…中に入りましょうか」
 ミアの背を手で優しく押すと、ネビロスは彼女と自分を外から隠す様にドアを閉めた。

告 白

 部屋に入り、とりあえずベッドにミアを座らせる。机の上に持ち帰ったつまみと酒を並べて隣に座ると、ミアは一瞬びくりと体を動かした。ネビロスもミアも、つまみに手を伸ばそうとしなかった。
 どこから切り出すのか。
 どこから切り出そうか。
 果たしてどこから何を話そうか、話すのか。
 沈黙が広がりただただ時間だけが過ぎて行く。
「あ、あのう…」
 不意にミアが声を上げた。しかし、何かを言おうとしたミアは結局何も言わず口をつぐむ。
「はい…?」
「あ、あの…えっと…何でもないです…」
 部屋に来た。一緒に肩を並べて座った。人は与えられれば与えられただけ欲が出る。ミアはほんの一瞬だけだが、以前彼が倒れた時に少しだけ見えた家族の写真が気になってしまった。過去を探られるのを嫌う彼の過去を探ってみたくなってしまったのだ。
 お酒の所為だ。ミアはそう思って口から出掛ける言葉を全て精査する。だが結局この空気を壊せそうな言葉は見付からず、時間にして僅か五分程だが、ネビロスが沈黙を破ってくれるまでミアは生きた心地がしなかった。
「ミア」
 まるで唇で確かめる様にゆっくりとネビロスはミアの名を呼んだ。ミアはネビロスに目を向ける。彼の顔は今まで見た事もないくらい、この上なく不安そうだった。
「…今から、一方的に喋るかもしれません。聞きたくなかったら言ってください」
 ミアは頷くとネビロスの言葉を待つ。正直言って恐ろしいと思った。一体何を言われるのか、自分にとって望まない言葉だってありうるのかもしれない。それでも、今この状態のネビロスを拒絶する事だけはどうしても出来なかった。
 そんなミアの気持ちを知ってか知らずか、一瞬だけにこりと笑うネビロス。物々しい雰囲気を身に纏い、彼は一回大きく息を吐き呼吸を整えるととうとう口を開いた。
「私には……妻が居ました。あのテロで死んでしまった…妻が。今でも彼女を忘れた事はありません…彼女の名前は、ルミエルと言います。茶色の長い髪の毛をいつも少し結いていて、ミアに少しだけ似ていました」

 どくん、と心臓が跳ねた。

 ネビロスは過去を語りたがらない。彼が結社に来る前どんな生活を営んでいたかは、紙面上の情報しか知らない。皆同じだけの情報しか知らず、彼の妻がどんな人だったか、ましてや誰に似ていたかなんて誰も知らない。
 それを垣間見れた喜び。
 或いは、知ってしまったと言う諦め。
 気を抜いたら意識を手放してしまいそうで、ミアは己を強く持った。
「ルミエルさんって、言うんですね」
 少しだけ上擦った声。嬉しくて返事をしたつもりだったのに、反して声には緊張が灯る。ミアのその様子を見てネビロスは一瞬このまま続けても良いのか躊躇ったが、最後に一番彼女に何を伝えたいのかを思い出しこのまま続ける事にした。
「…誰にも話した事がありませんでしたので…。あの時関わった医療従事者なら或いは…結社にいるかは分かりませんが…」
「ネビロスさんの結社前のお話が聞けて…嬉しい、です」
「ええ……妻は…ルミエルは、私の前で死にました。守り切れませんでした。愛していました。誰よりも、何よりも」
 シーツの上のネビロスの指先がミアの指先に触れる。ミアは少しだけ手を動かし、ほんの少しだけそれに重ねた。
 分かるくらいネビロスの手が震えていて、やはり彼を拒む事は出来ないと思った。彼の口からこれ以上何が飛び出してもそれでも最後まで聞こう。ミアは体に力を込めて自分は震えない様に、泣かない様に言葉の続きを待った。
「私はまだ彼女を忘れる事が出来ません。しかし乗り越える事も…まだ難しいんだと思います。思い出そうとすると、頭が割れる様に痛む事が多くて…」
 ネビロスの指がミアを探す。ミアの指先、手の甲、手首とゆっくり近付く様に触れる。
 ミアはほんの一瞬だけ強張った様に反応を遅らせてしまった。
 どうしよう。笑わなきゃ。いや、笑うところじゃないか。でもじゃあ、どんな顔をすれば良いんだろう?
「(そうか、ネビロスさんの頭痛って、そう言う事だったんだ)」
 誕生日にいきなり告げられたネビロスの過去の話。過去を探られるのを嫌う彼が自分から言ってくれた。嬉しい筈なのに、話して来たのは亡くなった奥さんの話。それでも嬉しい筈なのに。
 気を緩めたら泣けてしまいそう。きっとお酒の所為だ。お酒の味を覚えるって、大人になるって悲しい事にも気付きやすくなってしまうって事なのかも。
「それを…どうして私に…?私、ネビロスさんに…何か出来る気がしないんです…」
 つい口から出たのは「何故?」だった。それから弱い言葉。聞いて良いのか分からなかったが、言葉の精査はもう考えられず気付けばそれは飛び出した。
 ネビロスはミアを見て一瞬寂しそうな目をする。しかし触れた手を離す事は無かった。
「それでも、今は乗り越えるのは難しくとも…少しずつ前を向いていつか越えたいと思っている事に気が付いたんです。…ミアのおかげで」
「え…?私ですか…?」
 ミアは目をぱちくりとさせた。気が抜けた拍子に反射的に涙が溢れる。ネビロスはそれを見ても言葉を止めなかった。
「ミアの事を思うと、少しだけ未来が明るく見えるんです。ミアと話をすると、少しだけその日よく眠れるんです。ミアと一緒にいられたら、いつかしっかり「生きたい」と思える様な気がしたんです……家族を喪ったあの日から私は、一人でいる時は死に逝く事だけを考えて生きて来ました。いつだって今この瞬間自分の心臓が止まったとして、それでも良いと思っていました。でもミアと話して、ミアの笑顔を見て過ごす内に、後ろ向きな事以外にミアの事を思って前を向く事も多くなったんです」
 ネビロスはミアの赤くなった頬に手を添える。
 今互いの目に映るのは、互いの顔以外に何も無かった。
「…もう今は、この瞬間自分の心臓が止まったら嫌です。ミアさえ受け入れてくれるのなら、私はミアの隣で生きていきたい。どんなに過去を悲しんでも、家族を恋しく思っても。それでも私は今生きているから…」

 つまり私は、ミアが愛しいんです。

 ネビロスの口から出た言葉。それは全てこの日、ミアの耳に雪崩の様に飛び込んだ。

デストルドーとしばしの別れ

 赤い薔薇の花言葉は『 あなたを愛してます 』。
 薔薇の葉の意味は『 あなたの幸福を祈ります 』。
 一本の薔薇の花言葉は 『 一目惚れ 』。
 薔薇の蕾の意味は『 愛の告白 』。

 愛の日、好きな気持ちを込めたテリーヌショコラと薔薇を渡した時、ネビロスに告白しようと思ったミアは笑ったり悲しんだり忙しい日を過ごした。
 告白しようとしたら遮られてしまって。
 お菓子を渡した時、手から離れたその重みに失恋の虚しさを感じて。
 なのに改めて申し込まれたデートのお誘いに舞い上がって喜んで。
 誕生日にお酒を飲んで成人を祝ってもらって。

 ネビロスの行動にも言動にも一喜一憂してばかり。今だって、亡くなった妻の話をされて、まだ乗り越えられていないけれどだなんて。

 それでも、初めてはっきり聞いた彼からの愛の告白に素直に嬉しいと思ってしまっている。ミアは溢れる涙を止める事が出来ないまま口を開いた。
「私…私、ネビロスさんの一番になりたいなんて言いません。…言えないです」
 彼の中でルミエルとの思い出は生き続ける。不意にどうしようもなく恋しく思う日が来る事だってある。悔しいけど、きっとそれを自分が越える事は出来ない。でも、幸せだった筈だ。形はどうあれ、彼は幸せだった筈だ。
 だからお願い、忘れないで。捨てないで。
 大事な思い出を絶対に失くさないで。痛い記憶にすり替えないで。
「でも私…それでも今生きてる人の中で一番になりたいです…ネビロスさんの一番になりたいんですっ…!!」
 涙も言葉も、全て瞬時に伸ばされた彼の腕に、彼の胸の中に沈んでしまった。愛の日前に泣いた自分を抱き締めてくれた時より、躊躇いも無く痛いくらい力を込めるネビロス。
 彼から言葉は返って来なかったけど、その代わり抱き締める腕が、聞こえる心臓の音が、充分な程彼の気持ちを伝えてくれた。
 一度体を離すと少しだけ俯きがちにネビロスは口を開いた。
「本当は…言わないでおこうと思ったんです。ミアと私では歳が離れてますし、ミアの幸せを思うなら私は気持ちを伝えない方が良いのかと。でも愛の日の前に泣いたミアを抱き締めた時に、もう抑えは効かせられないと思いました。ミアが知らない別の男と二人でいたら、きっと私はミアを渡したくないと思ってしまうから…」

 ミアの事が本当に好きなんです。

 その言葉を皮切りに、初めてミアは自分からネビロスの胸に顔を埋めた。

 * * *

 少し落ち着いたので徐々に会話が戻り、いつしかつまみを食べながら部屋で再度飲み始めた二人。そのつまみも底をつき始めた頃、ふとタイミングを計った様にごそごそとポケットに手を入れるネビロス。取り出したのはジュエリーケースだった。一瞬指輪を入れるそれに見えてミアはびくりとする。ネビロスはそんなミアを見てくすりと笑うと、箱を開けて中から取り出したそれを首に回した。
 薔薇をモチーフにした控えめで上品なデザインのネックレス。
 ミアの胸元でそれがきらりと光った。
「よく似合ってます…」
「あ、ありがとうございます」
「…渡せないかと思ってました」
 気付けば時計は十時を指している。ネビロスはミアの顔を見つめると優しく頭を撫でた。
「そろそろお開きにしましょうか。部屋まで送りますよ」
「え、でも…」
「ミア、赤い顔してます。明日休みでしたよね?今日はゆっくり休んでください」
「んー……」
 好きだと言われたら少し我儘にもなってしまう。駄々をこねてもいけないと分かっているのに離れ難くて、離れたらきっとすぐ恋しくなってしまって。だからお酒が入っているのもあっていつもみたく素直に頷かず少し渋っていると、普段見ない様な少し楽しそうなネビロスの瞳が見えた。
「…大人の階段はもう少しゆっくり上がりましょう?」
「ん?え!?」
「さ、今日は帰ってゆっくり休みましょうか」
 それでもやっぱり何枚も何枚も上手なネビロスに、これからもまだまだ翻弄されそうな予感のするミアだった。
「あれ…?」
 自分の部屋に向かう道すがら、ふとネビロスの目に違和感を感じじっと見入ってしまう。ネビロスは優しく笑うと、少なくともミアにとって衝撃的な言葉を口にした。
「ああ、コンタクト付けてたんです、私」
「えぇ!?た、確かにいつもより瞳の色が濃いなぁとは思ってたんですが…」
「機械人形の娘が周りの子と馴染めない事に一時悩んでいて…その時慰めるつもりで少し色の薄いカラーコンタクトを私も付けてたんです。今では何だか日々のルーティンみたくなっていて、つい癖で」
 衝撃でぽかんとしていると、気付けばミアの部屋。永遠に続いて欲しかった今日もそろそろ終わりを告げる。部屋の鍵を開け、ドアも開け、いつもの見慣れた部屋が視界に広がると急に寂しくなってミアはネビロスを見つめた。
「……離れ難いのは私も一緒です…」
「ご、ごめんなさい我儘言って」
「いいえ、私も本音を言えばもっと一緒に居たかったです」
 手を振り、ドアを閉める。部屋に一人になってミアはぼっと赤くなる顔を手で覆った。
 お酒の所為?それとも?
「ど、どうしよう…!?ネビロスさんに好きって言われちゃった…!!」
 ずるずると座り込む。目を閉じて頭の中に浮かぶのは初めて見るネビロスの顔。
 …そして、ちゃんと自分で「好き」だと返していないと言う記憶だった。
 サッと血の気の引いた青い顔になる。慌てて携帯端末を取り出しネビロスにメッセージを送ろうとしたが、自分の口で直接伝えたくなって躊躇ってしまう。
 うんうん唸っていると玄関の扉がトントンと鳴った。慌てて出ると、さっき帰った筈のネビロスが立っていた。
「あ、あれ?ネビロスさん?」
「…忘れていました」
 ネビロスは前屈みになるとミアの額に唇を落とす。突然の事にミアは真っ赤になって慌ててしまうのだが、ネビロスはそんなミアを見ていつになく悪戯めいた目をする。
「お休みなさい、ミア」
「お、お休みなさい…」
 ミアは思った。いつもクールに見えるネビロスだが、意外と甘いのかもしれない。

 二日後。医療班でいつになくミアがうきうきしていたのでヴォイドはついそれを目で追う。よっぽど楽しい誕生日を迎えられたんだなぁ、と思うとやっぱりネビロスに譲って良かったなとも思う。
「ねえ、ねえ」
「あ、ヴォイドさん」
「誕生日どうだった?お酒飲んだ?酔った?」
 自分が飲めないからなのかドキドキした様にミアに尋ねるヴォイド。ミアはにっこり笑うと元気いっぱいに答えた。
「はい!ネビロスさんに大人にしてもらいました!初めてだったけど意外と大丈夫でしたよ!」
 ヴォイドは目を丸くすると、ミアをぎゅっと抱き締めて何だかどこかの誰かを重ねる様にネビロスを見た。
「ヴォイド…ロードを見るのと同じ目で私を見ないでください…」