薄明のカンテ - 遊びをせんとや生まれけむ/涼風慈雨
誰にでも、幼い頃の一生付き纏う失敗がある。例えば「近所のお姉ちゃんを追いかけて連れ去られそうになった」とか「自分で髪を切ったら変な形になった」とか。笑い話の類いにされたり同情の目を向けられこそすれ、訝しむ目で見る人はいない。
それは、被害者の話。
もし、幼い頃の失敗が加害者側だったら。
それが、社会的に消えない事件だったとしたら。
その加害者はどうなるのだろう。

***

主人マキール、時間です。起きて下さい。」
揺らされて目を開けると紫髪でオッドアイの機械人形が眼前に迫っていた。
「朝か……」
息苦しい。
眠りが浅い所為か、疲れが取れた感じもない。
部屋に差し込む朝の白い光は薄暮の住人の目には眩しすぎる。
「もうちょっと」とヨダカに背を向けてシーツにくるまると、思い切りよく剥ぎ取られた。
「かなり譲歩しました。これ以上睡眠時間を取れば遅刻しますよ。」
言われるまでもない。仕方ないと起き上がって支度を整える。
洗面台の鏡に写っているのは外では絶対見せない酷い顔。髪を整え、両手で顔を覆って、自分で自分に暗示をかける。
そう、此処での私はラウール・ケレンリーではない。アルセーヌ・ラプラスでもない。アスで探偵屋をしていたユウヤミ・リーシェルだ。第6小隊の小隊長で慕われているユウヤミ・リーシェルだ。周囲と同じ人間のユウヤミ・リーシェルだーー
鏡に向かって微笑んでみると完璧な仮面の笑顔が返ってくる。20年以上一緒にいる仮面の笑顔だ。表情が無くて騒がれるからと幼い頃に被り始めた笑顔は何をしても崩れず、逆に気味が悪いと言われるようになった仮面だ。
それでも、これを被って本性を隠さなければ人間しかいない世界で“普通”に生きていけない。「良い人でいるように」「他者を尊重するように」「生命は大事なモノなのだから」と優に一億を超える必要事項を守らないと受け入れて貰えない欠陥品なのだから。
ヨダカが準備した朝食を身体に流し込みながら、ラジオを聞いて今日起こるだろう事を予測する。テロが起こりそうな時間と場所、隊員達の配置、面白い事が起きそうな場所ーー
つまらない。昨日も今日も大して変化がない。テロの手口が複雑になる事はなく、隊員達の反応も予測の範囲。退屈しすぎて死にそうだ。
「普通とはなんだろうか」「生命は何故生きようとするのだろうか」
幼い頃から抱き続けたこの疑問に答えは未だ出ていない。世の中に溢れる綺麗事の中に満足できる答えはなかった。猟奇事件を起こす犯人の考えにも、死の間際にある人の中にもこの答えは見出せていない。
閉塞感。
ふいに生きているのが面倒になる。
「ところでヨダカ。」
「何でしょう?」
「今日の味付けはちょっと塩味が効き過ぎじゃないかい?」
「バレましたか。使った食材が塩漬けだったらしく通常の2倍量になっています。」
「塩分量の失敗は別に構わないのだけれど……秘蔵の漬け魚、使ったのだろう?」
「秘蔵でしたか、すみませんでした。」
「言ったと思ったのだけれどねぇ」
身元引き受け人になってくれた家から出る為の条件として軍警から付けられた監視役の機械人形。先代はAGENT.001のヨギリだったが、諸々あって今はAGENT.005。ヨダカの名は私が付けた。言動は全てヨダカに精査され、問題があれば彼による指導が入り、警告を無視すれば軍警に連絡が入る。そして、いざとなれば殺してでも止めろと命令されている。高性能の機械人形は使い勝手がとても良いが、何かの折に殺処分対象にされるかもしれないと考えるとヨダカは背中を完全に預けられる相手ではない。
見えない網。
可視化出来ないモノは厄介だ。

ヨダカにお小言を言われながら集合時間ギリギリに待機所に入る。
「やぁ、遅れてすまないねぇ」
遅かったのねと微笑むシリル君も、指示待ちをするマルムフェ君も、緊張した視線を向ける他の隊員達も予測通りのことばかり。駒は指示通りに動く事に価値があるとは言え、未来予知に近い予測の世界にいると何をしても新鮮さがない。汚染が撒かれた日は流石に驚いたけど、政府も軍警も後手後手に回って手に負えなくなるのはすぐにわかった。
考えるのを辞めればいいのかもしれないが、私の意思とは関係なく思考は暴走していく。自分で息を止めて死ねないのと同じことだ。指示は駒に理解できるように噛み砕いて話さなければならず、止まらない思考を抱えた私にはもどかしさが募る。
一般人から集まった情報から汚染人形の潜伏先を割り出す時もあるが、大概は発生したテロの現場に行って鎮圧する。場所は違えどテロに対してやる事はほぼ同じ。小隊長の任を与えられた時から命のやり取りが減り、折角前線駆除班にいるのに面白味が減ってしまった。
まるで、スタンプを押す機械にでもなったみたいだ。
「猟奇事件、起きないものかねぇ」
主人マキール。」
「……そうだねぇ」
探しているモノはどこにも見つからず、時間だけが経過する。暴走する思考に少し、疲れた。編み物をしている間は騒がしい頭の中が凪ぐのだが、それも一時的。広がるモノクロの世界に光はなく、ノイズばかりが響く。

このマルフィ結社に暇つぶしに来てから閉塞感の中に一つ、穴が空いた。
回収した汚染人形の汚染を完全に取り除く作業を汚染駆除班がするわけだが、その中に。
同じ言葉を解せる相手ーーミサキ・ケルンティアがいた。
汚染駆除班所属で岸壁街出身の14歳の少女。もしかしたらギロク以来の天才プログラマではないかと話す人物もいたが、実際に会うまではあまり期待していなかった。
言葉が足りず、周囲とぶつかる事が多いのは噂通り。様子を観察するうちに効率と合理性を求めすぎる故の現象だとわかり、作業する様子にふと昔の私を重ねて見てしまった。話している内容がクラスメイトに理解されず、後に長らく利用する事になった「馬鹿のレッテル」を貼られた昔の事を。
一仕事終わった後の余裕のありそうな時を見計らって声をかける。
「お疲れ様。ケルンティア君?」
自販機で買ってきた極普通のお茶缶を机に突っ伏したケルンティア君の前に置く。初めて話す相手が名前を覚えていて気遣ってくれるというだけで距離を縮めやすいのだが、彼女はのそりと顔を上げただけだった。
「ねぇ君、いつも隅っこで寝ているよねぇ」
「忙しい」
「まだ何も言っていないのだけれど?」
「無駄話」
私の特上の微笑みを無視して言い切る。睡眠時間を邪魔するなと睨むケルンティア君はどこか威嚇する子猫に見えた。
「君は勤勉だねぇ」
「目的は?」
「何、普段お世話になってるから、」
「断る。邪魔。」
「つれないねぇ」
「要らない」
ケルンティア君はお茶缶を指差してそう言うと、話す用事は無いと寝返りを打った。
遠くから見守っていたヨダカの元に缶を持って戻る。
主人マキール。用事は終わりましたか?」
「ふふ。ケルンティア君は情報の扱いに慎重だねぇ」
「何を話したんです?」
「私には情報を渡したくないって言ってたよ。差し入れさえ受け取らない徹底ぶりだ。本当に彼女は情報管理が上手いのだろうねぇ」
手の中で缶を転がす。
缶を突っ返された事や特上の微笑みを無視された事なんてどうでもいい。年齢も性別も生い立ちも見た目も何もかも違う事だってどうでもいい。
ようやく見つけた。
本当に私と同じ言語を使う人を。
いつもの仮面の下から溢れそうになる愉悦を押し込めて、缶を開けた。

閉塞感の中に更に穴が空いた。
仕事の都合上、医療班と顔を合わせる事が多い。その中に矛盾とざらつきがいた。
矛盾ーーネビロス・ファウスト。銀の髪を無造作に伸ばした姿は周囲の評判から私の導き出した予測と少しだけズレがある。周囲の評判、第一印象は狂人と言われていた。
だが、それは大きく見える部分だけの話だ。
人は大脳新皮質を使って嘘をつくが、感情を司る大脳辺縁系の反射によってほんの一瞬だけマイクロジェスチャーが出、本音を見せてしまう。中には私のように人並みの良心を持ち合わせておらず、マイクロジェスチャーの反応が期待通りの結果にならない者もいるが、彼に関して言えばそんな事はない。
逆。
人間の仮面を被った“普通”から逸脱した私。
元から人間なのに人間ではないかのような素振りを見せるファウスト君。
彼のような矛盾が有れば、私も真人間になれたのかもしれない。
この閉塞感が紛れるなら、もう少し、遊んでみようと思った。

もう一つ。
ざらつきーーヴォイド・ホロウ。岸壁街で闇医者をしていたと云う25歳の彼女は、ずり下がった服を着て、青と緑が混ざったガラス玉のような目をしていた。
「何を考えているかわからない」と他の医療班員が言っていた通り、“普通”の枠からズレたところにいるのは明白だった。でも、何がこれほど私の中でざらついて気になってしまうのか直ぐにわからなかった。淡々としていて動じない彼女に単純な面白さがあるわけではない。岸壁街出身だからと言っても普通な人は出身に関わらず普通だ。単なる犯罪者は掃いて捨てるほど会ってきたが、その中にも、ましてや軍警や一般市民の中にも同じような感覚を覚えた事はなかった。
話してみて、揶揄からかってみて、初めてわかる事がある。
合理的な思考。
消えない血の匂い。
社会生活との齟齬。
最大利益を求める嗅覚。
そして、私の予測を軽く通り越す言動。
未来予知に近い予測の世界は流れる川のようだが、そこに石を投げ入れれば不自然な波紋ができる。流れに乱れがあれば其方に意識が向く。ホロウ君の存在は私の変わり映えのないモノクロの世界に石を投げ込んで、絶え間ないノイズとは違う音を響かせている。
もし、それだけであれば似た者同士と言っただろう。
似て非なる唯一無二と言い切れる存在なのは、ホロウ君に生への執着があるからだろう。誰かから生きていろと言われたわけでもないのに生きようとする。リスクのある食い逃げをしてでも今日の命を繋ごうとする。彼女にとっても、この世界は生きやすい場所では無かった筈なのに不思議だった。
私だって敢えて死にたいわけではない。ただ、この世界はあまりに息苦しくてノイズが酷い。暴走する思考は止められず、予測を通して見る世界は退屈でモノクロのまま。少しでも生きやすいように遊べるものを探している。夢中になって遊ぶ子供の様に余計な事を考えずに済めばずっと楽だろうに。
それに、罪悪感があるわけでもない事を償う為に生かされていると、ふいに生きている事が面倒になる。種々の思惑が重なって生きる事を許されている私の命は実質、自分の物ではない。飼いきれないと判断されたら殺処分されるのが分かっているだけに、人生そのものが面倒に思える。

1日分の仕事を終えて自室に帰れば、今日の妙味の乏しさに溜息が出る。とは言え、この結社に入って出会った3人の存在は、光の無かったモノクロの世界に変化をもたらしていた。特に、ホロウ君と絡むようになってからは。
見えない網は相変わらずそこにある。私を緩やかに囲っている。
今はまだ、軍警に飼われている方が楽で便利だからそれを受け入れているに過ぎない。
「普通とは何か」「生命は何故生きようとするのか」
もし、ホロウ君が私の探していた答えを持っているのだとしたら、深入りし過ぎてはいけないのだろう。網の中に入れてしまえば、見つけたはずの答えが消えてしまうだろうから。
せめて、束の間の小さな自由の間に厄介な難事件でいてくれればと思う。