薄明のカンテ - 夜の海とぼくら/燐花

黒いバスの話

 バス停でバスを待つ。一人ボーッとしながらその場に居ると不意に視界の端に何かを捉えた。老婆だ。見知らぬ老婆が自分の隣に居る。
 あれ?いつの間に来たんだろう?このお婆さん。
 シキは一瞬びくりと体を動かしたが、老婆の風貌を見るとある事に気付き知らん顔をしてそのまま携帯端末を弄った。
 老婆はこの寒さ厳しいカンテ国に居ながら上着も着ずに裸足だった。
「……だ……んだ……」
「……」
 ボソボソと喋る声が聞こえる。それがその老婆のものであると気付いたのはすぐだった。そのつもりは無かったが、ついつい聞き耳を立ててしまう。老婆は周りの事など気にも止めぬ様子でぼそぼそ、ぼそぼそと喋り続けた。
「…だから言ったんだ…あたしは全て分かってたんだ…あの医者の不安げな顔…あいつは失敗したに違いない。やっぱりあたしの信じたやり方を続ければ良かったんだそうしたら死なずに済んだのに…痛い、痛い…痛い」
「……」
 聞かなければ良かった。そうは思ったが、もうどうしようもない。シキは静かに視線を背け、老婆がこちらに関心を持たないならそのまま居てくれと祈る他無かった。
 不意に視線の先に何かが見える。真っ黒なバスが此方に向かって来た。ヘッドライトも付けず、車内のライトも付いていない。影がそのまま形になった様なバスだ。シキはすぐに身構えると再び携帯端末を弄る。最早画面に何が出ているかも認識出来ない程に内心焦っていた。
 バスが目の前に停車し、薄着に裸足の老婆は何も言わずスッと乗って行く。シキはその老婆の姿を目で追ってしまった。
「あ……」
 バスの中を見てしまった瞬間、心惹かれて仕方ない自分に気が付いた。暗く、昏くぽっかり口を開ける様にそこに在る『闇』。その黒い闇は全てを飲み込もうとしている様に見え、その飲み込まれた先に安寧がある様な気さえした。
 途端に、今自分がいるこの世界が辛く苦しいものに感じた。その闇の中に見え隠れする乗客らしき彼らがどうしようもなく羨ましく見えてしまった。
「俺…俺、もう……」
 もう、全てを捨てて楽になりたい。
 一体何が辛いのかそれすら良く分からないけど。
 だけど、このバスに乗った方がきっと居心地・・・が良いのは確か。
 蕩けた様な瞳で目の前に広がる闇を渇望する。先程の老婆の様に身を委ねてこの安らかなバスに腰を下ろしたらどんなに幸せだろう。シキはバスに近付き、乗車しようと足を伸ばす。すると、まるでシキが乗り込む事に待ったを掛ける様に目の前に黒い人間が音もなくぬっと現れた。
 真っ黒な影の様な人間。シルエットから男性だと分かる。顔立ちも髪型も判別しない、日を背にした時によく見る影の様なそれ。しかし、よくよく見ると目だけがはっきりと見えた。シキの目の前にいるそれは、自分と同じ様な目の色をしていた。真っ黒な影の様な姿にやけにはっきり浮かび上がる目。その様子はとても不気味な筈なのに、何故かシキはその彼に判断を委ねたくなった。
 早く、早く退いてくれないかな?俺、そのバスに乗りたいのに。
 しかしシキの望みは叶わず、影の男はどいてくれない。痺れを切らしたシキが無理矢理乗車しようと身を乗り出すと、影からまた音もなく手が伸びた。真っ黒い影が伸ばした手。他の色を全て吸い込みそうなその手の平を見た瞬間、シキは自分がいかに恐ろしい事をしようとしていたか気付いて後ずさった。
「お、俺……あのまま乗ってたら…?」
 腰を抜かした様に尻もちをつく。再び顔を上げ、恐る恐る目を向けると影の男と目が合った。不思議と男から目を逸らせず、逆に今度はバスの中が全く見えなくなった。
 もしかして自分は今、この男に拒否をされている?
 シキがいつもの調子に戻り、いつもの調子で彼に「ありがとう…?」と礼を言うと、彼は特に何も言わず目元だけでにぃ…と優しく笑顔を作った気がした。
『まだ早い』
 短いその言葉だけが声ともなく頭に飛び込んでくる。シキは少しぞっとしたものの、目の前の男に敵意が無い事は感じていた。しかし、これ以上彼と交流を望んではいけない事も同時に察した。
 そうこうしている内にバスの戸は閉まり、発車する。今になって気付いたがこのバス、走行音が全くしない。先程来る時も無音だった。そんなに異様なバスなのに、何故自分は「乗らなければならない」と思い込んだのか。
「怖ぇ……」
 すとん、とベンチに座り込む。穏やかな静けさが辺りに広がった。先程まで不気味な老婆が居たとは思えない優しい雰囲気のバス停だ。闇の様なバスが向かって来たとは、妙な魅力に取り憑かれたとは思えないバス停。しかし、それは自分が今生きていて眠る事を望んでいないから全てが不気味に見えてしまうだけで、少なくともあの老婆にとったら苦しみから解放してくれる優しい存在だったのかもしれない。
 少なくとも、今眠る事を望んでいない筈の自分が一瞬でも強く魅了されたのだから優しいのだろう。
「はぁ…」
 変な体験したなぁ。何か、珍しい体験をしたら言いたくなってしまうものだ。こんな事あったよ、あんな事あったよと。しかしいかんせんシキは言語化を面倒臭がるタチだ。あの兄貴の下に居て全く毒されない程には「言う」と言う行為に労力を割かない。それに、こんな話をしたら怖がらせてしまう気がする。主にユーシンを。
「ま、良いや」
 大人しくベンチに座って待っていると、向かいからテディとユーシンが手を振りながらやってくる。二人はトイレを借りに離れていたのだ。シキが手を振り返すと、何やらユーシンはえらく立腹していた。
「聞いてよ!テディってば今日ズボン履いてるから黙ってれば良いのにさ!『ねぇ〜ユー君、アタシの事男子トイレに連れ込んで怒られない?』とか聞くんだよ!?後ろにいた知らないおじさんにすっごい睨まれたんだから!」
「あっはっは!傑作でしょー!?」
「悪戯ならぼくを巻き込まないところでにして!!ぼくが女の子をトイレに連れ込まれたと思われてブツブツ文句言われたんだからさ!」
「わぁ…嫌だね、それ。テディ、悪戯なら程々にしろよ」
「何でー!?つまんなーい…」
「……あ、じゃあ面白い話するよ。今あった話なんだけどさ」
 今日は珍しく言語化してみたい気分だった。だから口を開いたのだがいざ話を始め、「気付いたら裸足のおばあさんがすぐ横にいて…」と口にした瞬間、半ベソをかいたテディから「やめて!」とチョップを食らう。
 ユーシンの方が…と思っていたが、意外にもテディの方が怖い話に耐性が無かったと知り驚いたシキだった。

調達班の夜

 漁港で魚の提供をしてもらう話から「若い子が居るのだから社会勉強と思って」と漁の見学の話が上がり、朝がとてつもなく早いので前泊の為にランツに降り立った。とりあえず、レトロなロボットを好むランツの人達の事を考え、機械人形はシュオニだけを連れて来た。ミーナは計算力の高さから汚染駆除班から貸し出し要請があったのでそちらに行かせ、オルカは海に行けると聞いて大変着いて来たがったのだが「潜水型は漁村にいる若い漁師同士のトラブルの元」だとよく聞いていたので今回は断念した。
 案内された宿泊所は、最大四人まで泊まれる一泊四千イリの安い宿だった。部屋のキーを預かり戸を開ける。シキは電気を点ける前に、何故か手を叩き「パァン!」と音を響かせた。
「え?なーに?シキ、虫でもいた?」
「ん。まぁ」
 言いながらスイッチを押し電気を点ける。電気を点けて三秒程待って、シキは部屋に入った。
「疲れたー!足が棒みたいだよー!」
 言いながら靴を脱ぎ、ベッドにダイブするユーシン。ボクもー!とユーシンに飛び掛かる様にテディも続く。ぐえっ、と潰れたカエルの様な声を上げたところから腹にでもクリーンヒットしたか。
 シキはバスルームに向かうと電気を点ける。そしてまた三秒ほど待つと、ゆっくり入り手を洗った。
「ねぇシュオニ、明日って早いんだよね?」
「はい。だからユーシンさん今日は早く寝てくださいね?」
「シャワー浴びよっと!僕一番乗りする!!」
 いつの間に化粧を落とし終えたのかテディが服を脱ぎながら突っ込んでくる。シキはそそくさとバスルームを出るととりあえず待ってる間荷物の整理に勤しんだ。
「明日朝早いんだって、ユーシンおきれる?」
「朝って言うか、真っ暗な内にでしょ?」
「うん、俺自信ない」
「ははっ、ぼくも。ねえ、シキってさ、バイトしてたんだよね?ぼくも将来…いつかは結社と違うところで働かなきゃいけないのかな?って思ったらさ…不安で…」
「え?何で?ユーシン、今も結社で上手くやれてるじゃん。同じ様なもんだよ」
「だってさ、結社の皆は優しいんだよ。状況が状況でぼくらみたいな子供も雇ってるから、子供って扱いされてる気はするんだ。でも、年齢がもっと大人になって…改めて大人と一緒に働いた時、ぼくはその時大人の感覚でいられてるかな?って…きっとさ、もっと厳しいよね?子供相手と大人相手じゃ…違うよね?」
 そんなユーシンを見てシキは懐かしさを感じた。とは言え、ユーシンと違い何も考えていなかったのでそんなは心配した事が無かったが。
 年齢をただ重ねたと言うだけである時いきなり子供から大人の扱いをされると言うのは確かに怖い。しかし、意外とやってみたら出来たりするものだし何より性格的にユーシンはそこまで心配しなくても良いだろうとシキは思った。
「ユーシンなら大丈夫だよ」
「え?」
「ユーシンなら大丈夫」
「…そう?」
「ん。何の根拠もないって思うけど…でもユーシンなら何でも出来そうだし何にでもなれそうな気がした。何だっけ?『コトダマ』?口に出したら現実味が増すとか言うの、何かエミールさんがウルに話してたの聞いた。言葉にして口に出せば余計に叶うかもしれないって。だからユーシンが不安になったら俺が何度でも「大丈夫」って言う」
「へへ…そっか、ありがとう。ぼく頑張れそうな気がして来た」
「おう」
 その時、バタバタバターン!と大きな音を立てて浴室を飛び出したテディが濡れた体のまま髪を振り乱して突っ込んでくる。ユーシンは髪から弾け飛んだ水滴が顔にビシャビシャ掛かってしまったし、シキは慌てて抱き止めたテディが何だかお風呂上がりの女の子に見えてほんのちょっとだけドキドキしてしまった。
「テディ?」
「さ、さっき鏡に女の人映ったのー!!」
「え!?女の人!?……ぼく、変な事聞いて良い?テディそれ自分じゃなくて?」
「ちっがーう!!」
「じ、じゃあ不審者かなぁ…!?」
「分かんないよ!!とにかく来て!!」
「え?俺?」
 テディに連れられいそいそ浴室に向かうシキ。戸を開けてキョロキョロするも、テディの言う不審者・・・は見当たらなかった。
「…不審者は居ないよ、テディ」
「だ、だってさっき…!」
「ん?あぁ、ほらこれ。鏡に反射してるじゃん。これがそう見えたんだよ」
 シキが指差したのは鏡に映ったテディのコートに帽子、そしてマフラーだった。マフラーのフリンジ部分が丁度帽子の下に入り、絶妙に髪に見えている。確かに、パッと流し見れば俯いてる女に見える掛け方だった。
「びっくりした!!」
 スパァン!と音を立てて何故かシキに突っ込むテディ。シキは笑いながら「俺に当たるなー」とのらりくらり流した。
「ほら、何も居ない」
 言いながらシキはテディのコートもマフラーも、鏡に映らない場所に掛け直す。テディは少し顔を赤らめながらタオルで髪を拭うと「次シキ入って!」と声を上げ今度はユーシンに絡みに行った。
「後始末くらいして来いよ…びっちょびちょじゃん…」
 文句を言いながらシキも服を脱ぐ。キュッと音を立ててハンドルを捻るとシャワーを浴び始めた。明日髭を剃ってる余裕はあるだろうかと色々考えながら熱いお湯を被って落ち着く。
 テディはさっきまでの恐怖も忘れて「汗臭ーい!」とユーシンに絡みに行っている、そんな声が聞こえる。まあ、良いか。後はもう寝てしまえば。
 翌日、日が昇る前に何とか目を覚ましいそいそと準備をした三人は幸いにも穏やかな海を出発。見事に船酔いし戻って来ても食欲が湧かず、その後夜まで宿泊所で休んでいたと言う。

シキの見た世界

 俺には習慣がある。初めて行く部屋の中にはドアを開けた瞬間に嫌な気を感じるところがあって、そう言う部屋に泊まる時には手を叩いて「パァン!」と音を響かせる。
 一発、パァン!と鳴るその音。嫌な予感は少しだけ当たり、音があまり響かなかった。これは俺の感覚の話だが、あまり良くない・・・・・・・ものが居る時、まるで遮るものがあるかの様に音は籠って聞こえる。この部屋もそんな感じで、そう言えばここは漁村で海が近いからそう言うこともあるのかも。
 俺は関心ないからよく知らないけど、色々調べるのが好きな兄貴が『海は嫌になるくらい総じて凶暴だ』と言っていた。
「え?なーに?シキ、虫でもいた?」
「ん。まぁ」
 そうテディに聞かれ咄嗟に誤魔化す。先程バス停であれだけ怖がられたら余計な事は言わない方が良いだろうなんて、普段空気あんま読めないけどそんな俺にだってわかる事。
 スイッチを押し電気を点ける。電気を点けて三秒程待って部屋に入った。これも、光に魔除けの意味があるから一度部屋全体を照らすと浄化の意味合いがあるって何かで見たから実践しているだけ。実際は目に見えない何かが逃げてく様が見えたりするわけではないけれど、やらないよりはやった方が良いだろうし。
「疲れたー!足が棒みたいだよー!」
 そう言ったと思ったら、ぐえっと潰れたカエルの様な声を上げたユーシンを背にバスルームに向かうとそこも一応電気を点ける。嫌な感じはしないから、手で音を立てたのと先程の電気で散ったのだろうか?ついでだからと思い、一番乗りでゆっくり手を洗った。
「ねぇシュオニ、明日って早いんだよね?」
「はい。だからユーシンさん今日は早く寝てくださいね?」
「シャワー浴びよっと!僕一番乗りする!!」
 いつの間に化粧を落とし終えたのかテディが服を脱ぎながら突っ込んでくる。こう言う時のテディは女の子みたいだからちょっと心臓に悪い。まるで裸の女の子が突っ込んできてるみたいで。胸ぺったんこだから男だってすぐ分かるけど。
 あ、待て。もしかしたらテディ並みに胸ぺったんこな女の子も居るのかな?俺の知ってる女の人、親父の彼女とかヴォイドさんとかミアとか、結構巨乳な人が多かったからあまり想像しづらい。と言うか、ぺったんこって子供の内にだけなる状態じゃないの?女の子の体って赤ちゃんから小学生くらいまでぺったんこで過ごして…あれ?いつ頃から胸って大きくなるんだろう?いきなりバンって膨らむのかな?人体っていつ考えても謎だらけだ。ただ考えても答えは出ないし、出せるとも思わないので待ってる間荷物の整理をする事にした。
「明日朝早いんだって、ユーシンおきれる?」
「朝って言うか、真っ暗な内にでしょ?」
「うん、俺自信ない」
 ユーシンと二人、起きれるかな?って笑い合う。途端に真面目な顔になったユーシンが俺の方を見て来たので、俺はただまっすぐ彼の目を見つめ返した。
「ねえ、シキってさ、バイトしてたんだよね?ぼくも将来…いつかは結社と違うところで働かなきゃいけないのかな?って思ったらさ…不安で…」
 それは何とも、真面目なユーシンらしい不安だった。
「え?何で?ユーシン、今も結社で上手くやれてるじゃん。同じ様なもんだよ」
 実際俺はそんな事ちゃんと考えたことも無い。失敗したならその時はその時かって、ただただ家を出て何とか自立することだけ考えてたから。って言うか、家を出れるならそれで良かったから仕事のキツさとか考えていなかった。きっとユーシンは良い子なんだろう。
「だってさ、結社の皆は優しいんだよ。状況が状況でぼくらみたいな子供も雇ってるから、子供って扱いされてる気はするんだ。でも、年齢がもっと大人になって…改めて大人と一緒に働いた時、ぼくはその時大人の感覚でいられてるかな?って…きっとさ、もっと厳しいよね?子供相手と大人相手じゃ…違うよね?」
 そうだよな。年取ったってだけでいきなり子供から大人の扱いをされるかもって思ったらそれは確かに怖いよな。でも意外とやってみたら出来たりするものだし、性格的にユーシンはそこまで心配しなくても良いとも思えた。
「ユーシンなら大丈夫だよ」
「え?」
「ユーシンなら大丈夫」
「…そう?」
「ん。何の根拠もないって思うけど…でもユーシンなら何でも出来そうだし何にでもなれそうな気がした。何だっけ?『コトダマ』?口に出したら現実味が増すとか言うの、何かエミールさんがウルに話してたの聞いた。言葉にして口に出せば余計に叶うかもしれないって。だからユーシンが不安になったら俺が何度でも「大丈夫」って言う」
 その時の事を思い出して少しだけモヤっとする。ウルは頭の良い人が好きなのかな?エミールさんから何か教わってるウルの顔は新しいものを見た時みたいにキラキラしてて、何だか可愛くて。俺馬鹿だから、あまり見れない顔だよなって思ったら珍しくてちょっと嫉妬して何だか目線が離せなかったのを覚えている。
「へへ…そっか、ありがとう。ぼく頑張れそうな気がして来た」
「おう」
 その時、バタバタバターン!と大きな音を立てて浴室を飛び出したテディが濡れた体のまま髪を振り乱して突っ込んでくる。ユーシンは水滴被ってビシャビシャになるし、俺は慌てて抱き止めたものの本当にテディが女の子に見えて。今考えてた事が考えてた事だからほんのちょっとだけドキドキしてしまった。
「テディ?」
「さ、さっき鏡に女の人映ったのー!!」
 あ、さっきの嫌な感じの正体これか。
 確信は無いけど何故か俺はそう思った。
「え!?女の人!?……ぼく、変な事聞いて良い?テディそれ自分じゃなくて?」
 ユーシン、ナイスツッコミだ。
「ちっがーう!!」
「じ、じゃあ不審者かなぁ…!?」
「分かんないよ!!とにかく来て!!」
「え?俺?」
 何故か急に矛先を向けられるとテディに連れられ浴室に向かう。戸を開けてキョロキョロと目を動かしたけれど、テディの言う不審者・・・は見当たらなかった。
「…不審者は居ないよ、テディ」
「だ、だってさっき…!」
「ん?あぁ、ほらこれ。鏡に反射してるじゃん。これがそう見えたんだよ」
 鏡に映ったテディのコートに帽子、そしてマフラー。このマフラーは…何だっけ?何かあの、いわゆるドレッドヘアっぽい髪型みたいな部分があってそれが丁度帽子の下に入り絶妙に髪に見えている。それは確かに俯いてる女の人に見える。
「びっくりした!!」
 スパァン!と音を立てて何故か俺に突っ込むテディ。テディのツッコミは音はデカいけど意外と痛く無い。あれだ、東國のハリセンとか言うのみたいな印象。あれ?ハリセンって痛いっけ?とりあえず「俺に当たるなー」と流して俺はテディのコートの前に立った。
「ほら、何も居ない」
 言いながらテディのコートもマフラーも、鏡に映らない場所に掛け直そうとハンガーラックから外す。
 すると、服をどかしたその下に蹲っている半透明の女がいた。
「………っ!!」
 一瞬びくりと体を強張らせてしまった。目の前にいるのは多分人間じゃ無いから。いつもそんなに働かないのに高速で巡った頭は、その女を人間じゃ無いと認識した。案の定女は目が合った一瞬の内にフッと消えてしまった。
 とりあえず手に持ったままだったテディのコートを別の場所に移した。当の本人であるテディは「次シキ入って!」と声を上げもうユーシンに絡みに行っている。入って、と言われたのでバスルームに行くと、テディの使い方が荒過ぎてびちゃびちゃだった。
「後始末くらいして来いよ…びっちょびちょじゃん…」
 文句を言いながら服を脱ぎ、キュッと音を立ててハンドルを捻るとシャワーを浴び始めた。明日髭を剃ってる余裕はあるだろうかと色々考えながら熱いお湯を被って落ち着く。
 さっきまでの事も忘れたのか「汗臭ーい!」とユーシンに絡みに行っているテディのそんな声が聞こえる。さっき見た女は何だったのか。まあ、良いか。後はもう寝てしまえば。さっき見えたのも、たまたま俺が気付いてしまっただけなんだろう。ああ言うの・・・・・ってそう言う存在だ。
 飯屋の前に通って排気口から出てくる匂いに気付いて腹を空かせて。ああ言うの・・・・・への気付きって、そんな感覚に似ている。
 翌日、日が昇る前に何とか目を覚ましいそいそと準備をしていた時に借りた部屋がオーシャンビューな事に気が付いた。そっか、ここ漁村だしな。まだ暗い海と月を窓から眺め、不意に下を見る。ざぶんざぶんと打ち付けられる波の中に何かを見た気がした。
 だけど見なかった事にして。
 口にしなければ気付かなかった事と同じ。気付かなければ居ないのと同じ。
 そうして三人で漁師さんのところへ向かう。しかしやっぱり海の荒れは想像以上で、三人揃って見事に船酔いし戻って来ても食欲が湧かず、その後夜まで宿泊所で休む事になった。
 あーあ。アクアパッツァ食いたかったな。後アヒージョ。貝のバター蒸し、シーフードグラタン、ガーリックシュリンプ。
 次の日にはケロッとしていたので、三人で魚料理を楽しんだ。料理を楽しんでいたらあの部屋の女の事がどうでも良くなった。
 何か、不思議な時間だったなぁ。変な事って気付かないだけで常に近くにあるんだろうな。

 ま、良いか。何でも。