昼は給食部にとって一番忙しい時間である。この日、早番なのに寝坊をして朝の仕込みに間に合わなかったヒギリは先に来て居た先輩方に平謝りするとメニューを確認するのもそこそこに急いで昼の準備に取り掛かった。
今日は赤スープや白スープ等スープの類を頼んでるメンバーが多い。そして主食にはパンを選んでいる人が何人か。
ヒギリは色々と考えながらとりあえず野菜の皮を剥き始める。すると視界の端で一つ小さなホームベーカリーが稼働している事に気が付いた。
「ん?パンの匂いだ…」
ああ、今日の主食がパンの人の分ってこれかな?ちょうど出来立ての良い匂いがする。
ヒギリは出来立てのそれを見て納得した様にうんうん頷いた。その出来立てのちぎりパンをホームベーカリーから取り出し、小皿に移そうとしていると、タイミング良くパン食第一号の結社メンバーが顔を出した。
「よぉっ!モナルダ!」
「ルー君!あ、『さんを付けろよ!』」
「へへ。モナルダ
さん、俺腹減っちゃったよ」
「にひひっ。ルー君今日パンと赤スープなんだねー!ちょうどね、今パン焼き上がったみたいだよ!」
ルーウィン・ジャヴァリー。背の高さと顔の傷も相俟って圧が強めかと思ったが話してみると意外に気さくで人懐っこい男の子だ。基本的に年上には敬称を付けると言う礼儀を忘れないルーウィンだが、ヒギリは見た目の印象から年下に見えた様で少々ぞんざいな扱いをされた上に呼び捨てで呼ばれた。その時、今やネットミームの一つとも言える昔見た映像作品で有名なセリフが怒りの詰まった頭の中に浮かんだヒギリは思わずそれを口走ってしまい、それを聞いたルーウィンが面白がってくれたおかげで今やこんなやり取りをするくらいの仲になっている。
「ルー。モナルダさんにあんま失礼な事させんのやめろって…」
そこにすかさず声を掛けたのはタイガだった。ルーウィンの背の大きさのせいで隠れて見えなかった様だ。ヒギリはすかさずタイガにも挨拶する。
「全然構わんよ!なんて言うか、『お約束』みたいなもんだもんね?」
「ねぇー。ほらタイガ、モナルダさんもそう言ってんだろ?」
「……嫌だったりしたらオレに言ってね、モナちゃん」
ありがとう!と元気よく返事をしたが、ヒギリの心境は複雑だった。
結社に来てすぐ、フワフワな髪が目に付き
ほろ苦い思い出の彼を思い出してしまったのだが、話してみるとなかなか話の合う男性だったタイガ。そっか、タイガは彼と違いクール系の様だ。そう思ったのだが、自分以外の他の結社メンバーと話している時の彼はもっと朗らかで人懐っこい印象だった。自分と話す時だけ少しクールな印象で、落ち着いている様に見える。でも何だかそれが壁の様にヒギリには見えてしまっていた。
今やっと「モナちゃん」と愛称で呼んでくれる様になったが、少しクールな応対の仕方は相変わらずだ。それはもしかすると、彼に壁を作られていると言う事なのだろうか。年が明けてすぐ、飲み明かした酔っ払いの中に居た彼を起こした際「
今年もヒギリちゃんは、やっぱりかわいいね」と言われた事を思い出す。もしかしたら、あれは夢だったのだろうか。
「…何気取ってんだよ」
少し呆れた様に揶揄うルーウィンにタイガは精一杯睨みを効かせる。ルーウィンからしてみれば、変にクールぶっているタイガがおかしくて仕方なかった。
「気取ってなんか…」
「気取ってんだろ?それともあれか?『何喋って良いか分かんない』ってか?」
「うるさい」
「モナルダさん、いつだって普通に話して欲しいんじゃね?」
そんなルーウィンに返事をするでもないが、タイミングよくヒギリはタイガとルーウィンの食券通りのプレートを用意した。
「はい、どうぞ!」
礼を言って受け取るも、タイガは何だかもやもやしてしまう。
推しの子がそこに居るからってあまり馴れ馴れしくするものじゃない、オレは偶然彼女と同じ空間に居れるけど、そんなオレを見て涙を飲む奴が居ると思うとぐいぐい行ってはいけない気がする。
そう思っていたのに、ロードからの「
好きだから推せる、推せるから好き。それでいいじゃないですか」と言う言葉一つで感覚が変わってしまった自分もいる。他のファンの事を思うとタイガは自分の好意を裏切りの様に思った。しかし、ただのファンで彼女の応援をしているだけで良いのか?と言われると、それだけで満足出来ないとも思ってしまう。
「ま、難しい事考えずに先ずは食おうぜ」
元気なルーウィンに押されて席に着き、二人してパンを頬張る。もしゃっ…と音を立てる様にパンを齧り味わうのだが、どうにも生じた違和感が拭えなくなってしまった。何だかこのパン、上手く説明できないが何か物足りないのだ。
「ん…?」
何の変哲もないパンだ。むしろ狐色に染まったそれは大変良い匂いがする。だが、何故か物足りない。
「なぁ、タイガ…あのさ…」
ルーウィンもパンをしげしげ眺めながら不思議そうな顔をする。タイガも一緒になってパンを眺める。しかし、この違和感が何なのかいまいち掴めない。ルーウィンは一口食べ、二口食べ。口の中でもさもさ転がすとタイガをじっと見た。
「今日のパンさ、何か物足りなくねぇ…?」
「……給食部の人が一生懸命用意してくれたしって思うんだけど…何か今日、確かに物足りないよね」
「何だ…?何が物足りねぇんだ…?んー、でも何だろう…?何か、俺の好きな何かが足りない…」
「ルーの好きな何か…?」
「そう…俺の好きな何かが足りないからちょっとコクがなくて……」
「ああ、少しパサパサする感じ…」
何だろう?そうは思ったが、あまり考える事が得意でない二人。しばらく悩んでいたが、次第に忘れてしまった。
「ま、良っか」
「タイガ、今日の赤スープ美味いな」
「オレ白スープなんだよ」
「え?一口くれよ」
「ルーもちょうだい」
「え?やだ」
「何でだよ」
何かが足りない気がするのは、このパンにはバターが使われていないからであり、では何故使われていないかと言うと、これは犬が食べても良い様にエミールが作ったからである。
しかしそれに気付かなかったヒギリが「今日主食にパンを選択した人用」と勘違いし盛ってしまったのだった。
「あ、でもこのパン、スープに浸けて食うと美味い」
「本当?」
「おう。俺お代わりして来よう。腹減ってたし」
「オレは……いや、オレも行こう」
単純にお代わりをする為、お代わりを口実にヒギリと少しでも会話を交わす為、二人はもう一度カウンターへと足を運ぶ。実はこのパンが犬用にエミールが用意したもので、故にこんなにも物足りない感じがするのだと気付くのはパンの減り方に疑問を抱いたエミールに指摘されてヒギリが気付いた時。つまり翌日の事である。