薄明のカンテ - 毛玉花月/燐花

わんだふる・らぶりぃ

 今、エミールの心はさざなみの如く穏やかである。ある一つの事を懸命に考えている以外、さしたる雑念もない。頭の中では答えが出ている。後は体を動かすだけ。
 無の表情のままじっと一点を見つめていたが、意を決した様に息を飲むと袴をくるくると折り込み、そしてしゃがみ込む。そして手に袋を被せると一度大きく深呼吸、そのまま勢いに任せてガッと手を伸ばした。
「ぬぅっ……!!?」
 温かい。それはそうだ、先程までこの生き物の一部だったのだから。本当ならこのまま自然に還るのを待ちたいものだ。自分の知る教えで考えるならその方が自然である。しかし、そうすると今度は人としての責任を問われてしまうのだ。
「……よしっ!」
 袋を被せた手でガッと掴むと、くるりと裏返しそれ・・を袋の中に収め口の部分を念入りに塞ぐ。そして手に持っていたバッグの中に放り込んだ。
「ふぅ…後は水を掛けて…」
 ペットボトルの蓋に穴を空けた物を取り出し、バシャバシャと音を立てて水を流す。そこまでやって、やっと責任を果たした事になるのだ。
「ただ歩き回れば良いわけでは無いのですね…なかなか大変な物です。貴方のパパさんが毎日これをやるのは偏に貴方を愛しているからですよ、感謝せねばなりませんね」
 エミールがそう言いながら目線を足元に向ける。彼の足元に居た「パパさんからの愛を一身に受けるその子」は、分かっているのか居ないのかつぶらな瞳でエミールを見つめ返すとハッハッハッと荒く息をした。
 何がどうって犬である。これは、エミールが犬を散歩させてその間にしたフンを片付けただけの話である。
「はぁー……フンはしっかり持ち帰らねばと思うとなかなか腰に来ますね…」
 飼い主さんは大変です。
 そう呟きながら即座に手を除菌シートで拭いた。犬の散歩中のフンを回収する使い捨てのパックはかなり優秀で、基本的にビニールの袋と一緒にまとめて流せる紙の袋がセットになっているので「手に何か付いたかも?」とそこまで過敏にならなくて良いのだが、エミールは曲がりなりにも料理人だった。手は普段から気にして洗っている。最近気にし過ぎてちょっと乾燥気味だ。
 そんなエミールに甘える様に鼻をくぅくぅ鳴らしながら犬はエミールに抱っこをせがむ。小さなスピッツの様で全体的に毛がもふもふしており、そのどこかころころしている愛らしい足をさながら「たしたし」と言うオノマトペでも付きそうな勢いで、しゃがんでいるエミールの太腿を叩いた。
「…抱っこですか?ペペローネ」
 自分の名前を呼ばれた事で安心した犬は表情をぱあっと明るくすると「ワンっ!」と一際嬉しそうに鳴き、尻尾を振りながらまた足を小突く。
「はいはい。はいペペローネ、抱っこ」
 エミールが手を広げる様に犬の方へ伸ばすと、犬──ペペローネは体のバネを使い、ぴょんっと跳ねる様にエミールに飛び込んだ。
「あなたの小さな体では結社周辺の散歩コースは広過ぎたかもしれませんね」
 そんな事はない。エミールは犬を飼った経験がないので分からなかったが、犬は成犬であれば一日二、三回に分けて長距離を散歩に行ってもそこまで疲れた顔もせず平気で歩いてしまう。特にペペローネの犬種は品種改良されて小型化されたとは言えそのルーツは牧羊犬とも犬ぞりとも言う。運動量の多さは遺伝子に刻まれているのだ。つまり今この瞬間、ただ単にペペローネがエミールの事が好きで甘えたくなっただけなのである。それと、もう一つ理由があった。
「あはは、こらこら。くすぐったいですよ」
 顔を舐められ、嬉しそうにエミールは笑う。帰ったら飼い主から預かっているおやつをあげて、あと少しならあげてくれても良いと言うのでお土産に渡そうと思っていた犬用のパンを焼き上がり次第この子にちょっとだけ食べさせてあげよう。
「ん?」
 その時、少しだけ違和感を感じペペローネの顔を覗き込む。目の周りの涙焼けは後で拭いてあげようと思っていたくらい既に汚れていたのでそこではないのだがこの違和感は何だろう?じっと目を凝らすと、違和感の正体に気付く。いつそんなものが付いたのか、ペペローネの目の近く、皮膚の薄いところに棘の様なものが刺さっていた。
 エミールが慌てて棘の対処法を考える。すると、ペペローネが不自然に足を引っ込めたのでそれに気付いたエミールはペペローネの足を指でつまみ、再びじっと目を凝らしてみた。きっと痛かったのだろう、肉球の間には棘が刺さっていた。
「あ、ペペローネ…棘が」
 不安そうに鼻をすんすんさせるペペローネ。抱っこを要求したのは甘えたかっただけでなく、足が痛かったのではないだろうか。
「うーん…獣医がいるか分かりませんが…」
 預かっている子だし、とりあえず医療班に行こう。そう思い、ペペローネを抱いたまま歩き出すエミール。この子を預かって早半日。気付けばすっかり我が子の様な愛をこの毛玉に感じメロメロになっている。
 本当に飼い主が戻って来たら返さないといけないのか、なんて当たり前の事にテンションが下がってしまう。こんなに小動物が愛らしいと思えるなんて、ペペローネに会うまで知らなかった、こんな感情。
「あ…!可愛い…!」
「きゃー…可愛いワンちゃん…」
 そして、結社の敷地内で擦れ違う女性が皆ペペローネに気付き黄色い悲鳴を上げる。それもまた不純とは思いつつ、エミールにペペローネに対するものとは違う幸せを確かに与えていた。
「……良いものですね、ペットのいる生活…」
 確実にそのままの意味として受け取って良いものか迷ってしまうそんな言葉をぼそりと呟き、エミールは医療班へ向かった。

にゃんだふる・ぽんぽん

「ふふ…ふふふふ…」
 自分の目の前でごろごろ喉を鳴らしながら転がるその小さな存在にバーティゴはこれでもかと言う程だらしなく顔を緩ませていた。ほんの少し上気した頬は先程から緩みっぱなしでいつもの険しさはそこには無い。
「ふふふ…やだぁ、なんて可愛いの?猫って生き物は…!!」
 猫。それはバーティゴの目の前で腹を見せる毛玉こと生き物の名前である。
 テロから逃げ果せたのかあるいは敷地内の誰かの飼い猫か、気が付いたら結社の敷地内で日向ぼっこをしている姿がよく見られる様になったこの子は『ピリツ』と書かれた首輪をしていた。だからそれが名前だろうと判断した人間は多く気付けばこの子はピリツと呼ばれている。この子もそう呼ばれると寄って来るので、ピリツが自分の名前か或いは人が自分を召喚する為の名称と言うのは理解している様だ。
 群れで生きる生き物では無いが為、基本的に顔が変わらないのが猫。しかし、甘えたい時の少し強引な頭の擦り寄せ等ボディランゲージは豊富でそれはバーティゴを虜にした。ちなみに、バーティゴは仕事の一環として過去に犬の訓練士の資格を目指した事がある。
 動物と言うのは非常に賢い。相手が強い生き物か弱い生き物かを判断するのがとても早い。バーティゴは犬の前で強く見せる在り方を体得し過ぎてしまい、いつも会えば犬よりすぐ順位が上になる。どんなに抱っこ嫌いな犬でもバーティゴと触れ合って数分もすれば腹見せ抱っこすら我慢する様に頑張ってしまう。それはそれで大変いじらしいのだが、従順にされ過ぎるのも何だか面白くなかった。たまには反抗されたい。そう思っていた彼女の心をくすぐったのは猫だった。
「あらぁ…本当可愛いわねぇピリツ」
 お腹を見せるピリツ。犬と同じ感覚でスッと手を出すバーティゴ。しばらく好きな様に撫でて居たが急に虫の居所が悪くなったのか、腹を見せてまで来たのに気付けばカッと歯や爪を当てられ拒否の態度を取られる。
 この「弱点を見せているからと言って私の高貴な体に好き勝手に触れる事を許されると思うな」と言わんばかりの掌返し。たまらない。
 この日も腹を撫でたら急に爪を立てて来たのでバーティゴは満足気に微笑んだ。先程から目尻は下がりっ放しだし口元は緩みっ放しだし、普段の彼女を知る者が見たらきっと背筋を悪寒が走り、何かあったのかと恐怖に慄く事請け合いだ。
 にゃあん、と甘える様な声を再び上げるピリツ。ピリツはすりすりとバーティゴに擦り寄ると、くいっと尻を上げて期待を込めた目で彼女を見た。バーティゴは緩んだ顔をひたすら緩ませ、ピリツの尻に手を置くとリズミカルに、そして程々に強く叩き始める。
 ぱたぱたぱたぱた。音を立てて叩いてやればピリツは顔は床に伏せたまま徐々に徐々に後ろ足を伸ばし、尻だけをピンっと上げ始める。
 猫の尻付近には神経が密集しており、尻尾の付け根から尻の上辺りを重点的に刺激されると気持ち良さそうな反応を示す個体が多い。これはつまり何かと言うと、どうやら性感帯を刺激される為他の箇所より触られて無条件に気持ち良いと感じる事が多いのだ。お尻を突き出すその姿勢は交尾時にメスがオスを受け入れる体勢のそれであり、それもあってかオスよりメスの方が尻叩きを好む傾向にあるとも言うが勿論個体差はある。
 しかしピリツは実際メスであり、可能性としては確かに大きかった。
「はぁーっ!!たまらん!!」
 気持ち良さを感じているのは叩かれているピリツの方だろうが、最早興奮が最高潮になっているのはバーティゴの方だった。リズミカルな音を奏でる尻。気まぐれなのに尻を惜しげもなくこちらに向けて来ると言う信頼への喜び。顔には出さなくても気持ち良いのが一眼で分かるピリツは先程からずっとにゃあにゃあ甘い声を上げている。
「んぁぁぁあっ!!ケツ!たまらん!ケツ!!」
 思わずそう声を上げたバーティゴを、そっとジョンが見て居た。
「変態かよ……」
 俺が見て来たどの小隊長の顔より断トツで気持ち悪ぃ。しかもアイツ、猫のケツ叩いて喜んでんじゃん。
 そんなバーティゴを見て変な妄想を頭の中で巡らせてしまう。何だか彼女のこの感じ、男のケツも叩いて興奮してそうな気がする。変な意味でも文字通りの意味でも。何だか彼女は人に発破を掛ける時が一番ウキウキしている気がするからだ。
「ジョン…見たわね…?」
 見入ってしまって居たジョンにそう声を掛けるバーティゴ。息を荒げながらそう呟く彼女の姿に思わずジョンは血の気が引いた。
「え?いやぁ…俺は別に、ねえ?」
「ふふふ…私のこの姿を見たわね…?見たからにはアンタも、ピリツの尻叩きに参加なさい…!」
「俺に変な扉開けさせようとするなよ」
 その時、ピリツがもう一度にゃぁぁあんと鳴き、せがむ様に尻を上げた。バーティゴは一瞬にしてジョンからくるりと向きを変え、またあの崩れた笑みを見せる。
「お代わり!?お代わりねピリツ!!お代わり尻叩きね!!喜んで!!」
「居酒屋の店員か?」
 そしてまたジョンを尻目にバーティゴは、ピリツに望まれるままにぽんぽんぽんとその小さな尻を叩き始める。
「……この毛玉を前にしちゃ小隊長もただの愉快な女だな」
 ぼそり、そう口にするとジョンは平和な光景に一瞬にこりと笑みを浮かべ邪魔にならない様にバーティゴの元を離れるのだった。
「んふふふふ!可愛いわねぇ!可愛いわねぇピリツ!お尻気持ち良いねぇ、ふふふふふ!!」
「……ちょっとどころじゃねぇけどな、愉快さが」

もちもちちぎりパン

 昼は給食部にとって一番忙しい時間である。この日、早番なのに寝坊をして朝の仕込みに間に合わなかったヒギリは先に来て居た先輩方に平謝りするとメニューを確認するのもそこそこに急いで昼の準備に取り掛かった。
 今日は赤スープや白スープ等スープの類を頼んでるメンバーが多い。そして主食にはパンを選んでいる人が何人か。
 ヒギリは色々と考えながらとりあえず野菜の皮を剥き始める。すると視界の端で一つ小さなホームベーカリーが稼働している事に気が付いた。
「ん?パンの匂いだ…」
 ああ、今日の主食がパンの人の分ってこれかな?ちょうど出来立ての良い匂いがする。
 ヒギリは出来立てのそれを見て納得した様にうんうん頷いた。その出来立てのちぎりパンをホームベーカリーから取り出し、小皿に移そうとしていると、タイミング良くパン食第一号の結社メンバーが顔を出した。
「よぉっ!モナルダ!」
「ルー君!あ、『さんを付けろよ!』」
「へへ。モナルダさん・・、俺腹減っちゃったよ」
「にひひっ。ルー君今日パンと赤スープなんだねー!ちょうどね、今パン焼き上がったみたいだよ!」
 ルーウィン・ジャヴァリー。背の高さと顔の傷も相俟って圧が強めかと思ったが話してみると意外に気さくで人懐っこい男の子だ。基本的に年上には敬称を付けると言う礼儀を忘れないルーウィンだが、ヒギリは見た目の印象から年下に見えた様で少々ぞんざいな扱いをされた上に呼び捨てで呼ばれた。その時、今やネットミームの一つとも言える昔見た映像作品で有名なセリフが怒りの詰まった頭の中に浮かんだヒギリは思わずそれを口走ってしまい、それを聞いたルーウィンが面白がってくれたおかげで今やこんなやり取りをするくらいの仲になっている。
「ルー。モナルダさんにあんま失礼な事させんのやめろって…」
 そこにすかさず声を掛けたのはタイガだった。ルーウィンの背の大きさのせいで隠れて見えなかった様だ。ヒギリはすかさずタイガにも挨拶する。
「全然構わんよ!なんて言うか、『お約束』みたいなもんだもんね?」
「ねぇー。ほらタイガ、モナルダさんもそう言ってんだろ?」
「……嫌だったりしたらオレに言ってね、モナちゃん」
 ありがとう!と元気よく返事をしたが、ヒギリの心境は複雑だった。
 結社に来てすぐ、フワフワな髪が目に付きほろ苦い思い出の彼を思い出してしまったのだが、話してみるとなかなか話の合う男性だったタイガ。そっか、タイガは彼と違いクール系の様だ。そう思ったのだが、自分以外の他の結社メンバーと話している時の彼はもっと朗らかで人懐っこい印象だった。自分と話す時だけ少しクールな印象で、落ち着いている様に見える。でも何だかそれが壁の様にヒギリには見えてしまっていた。
 今やっと「モナちゃん」と愛称で呼んでくれる様になったが、少しクールな応対の仕方は相変わらずだ。それはもしかすると、彼に壁を作られていると言う事なのだろうか。年が明けてすぐ、飲み明かした酔っ払いの中に居た彼を起こした際「今年もヒギリちゃんは、やっぱりかわいいね」と言われた事を思い出す。もしかしたら、あれは夢だったのだろうか。
「…何気取ってんだよ」
 少し呆れた様に揶揄うルーウィンにタイガは精一杯睨みを効かせる。ルーウィンからしてみれば、変にクールぶっているタイガがおかしくて仕方なかった。
「気取ってなんか…」
「気取ってんだろ?それともあれか?『何喋って良いか分かんない』ってか?」
「うるさい」
「モナルダさん、いつだって普通に話して欲しいんじゃね?」
 そんなルーウィンに返事をするでもないが、タイミングよくヒギリはタイガとルーウィンの食券通りのプレートを用意した。
「はい、どうぞ!」
 礼を言って受け取るも、タイガは何だかもやもやしてしまう。
 推しの子がそこに居るからってあまり馴れ馴れしくするものじゃない、オレは偶然彼女と同じ空間に居れるけど、そんなオレを見て涙を飲む奴が居ると思うとぐいぐい行ってはいけない気がする。
 そう思っていたのに、ロードからの「好きだから推せる、推せるから好き。それでいいじゃないですか」と言う言葉一つで感覚が変わってしまった自分もいる。他のファンの事を思うとタイガは自分の好意を裏切りの様に思った。しかし、ただのファンで彼女の応援をしているだけで良いのか?と言われると、それだけで満足出来ないとも思ってしまう。
「ま、難しい事考えずに先ずは食おうぜ」
 元気なルーウィンに押されて席に着き、二人してパンを頬張る。もしゃっ…と音を立てる様にパンを齧り味わうのだが、どうにも生じた違和感が拭えなくなってしまった。何だかこのパン、上手く説明できないが何か物足りないのだ。
「ん…?」
 何の変哲もないパンだ。むしろ狐色に染まったそれは大変良い匂いがする。だが、何故か物足りない。
「なぁ、タイガ…あのさ…」
 ルーウィンもパンをしげしげ眺めながら不思議そうな顔をする。タイガも一緒になってパンを眺める。しかし、この違和感が何なのかいまいち掴めない。ルーウィンは一口食べ、二口食べ。口の中でもさもさ転がすとタイガをじっと見た。
「今日のパンさ、何か物足りなくねぇ…?」
「……給食部の人が一生懸命用意してくれたしって思うんだけど…何か今日、確かに物足りないよね」
「何だ…?何が物足りねぇんだ…?んー、でも何だろう…?何か、俺の好きな何かが足りない…」
「ルーの好きな何か…?」
「そう…俺の好きな何かが足りないからちょっとコクがなくて……」
「ああ、少しパサパサする感じ…」
 何だろう?そうは思ったが、あまり考える事が得意でない二人。しばらく悩んでいたが、次第に忘れてしまった。
「ま、良っか」
「タイガ、今日の赤スープ美味いな」
「オレ白スープなんだよ」
「え?一口くれよ」
「ルーもちょうだい」
「え?やだ」
「何でだよ」
 何かが足りない気がするのは、このパンにはバターが使われていないからであり、では何故使われていないかと言うと、これは犬が食べても良い様にエミールが作ったからである。
 しかしそれに気付かなかったヒギリが「今日主食にパンを選択した人用」と勘違いし盛ってしまったのだった。
「あ、でもこのパン、スープに浸けて食うと美味い」
「本当?」
「おう。俺お代わりして来よう。腹減ってたし」
「オレは……いや、オレも行こう」
 単純にお代わりをする為、お代わりを口実にヒギリと少しでも会話を交わす為、二人はもう一度カウンターへと足を運ぶ。実はこのパンが犬用にエミールが用意したもので、故にこんなにも物足りない感じがするのだと気付くのはパンの減り方に疑問を抱いたエミールに指摘されてヒギリが気付いた時。つまり翌日の事である。

可愛い×可愛い←最強の組み合わせ

 フユの虹彩からキュゥゥウ、と絞る音が聞こえ、フユと言う存在は人間では無く機械人形なのであるとエミールは改めて実感した。無性型でどちらとも取れる中性的な外見──便宜上ここでは「彼」とする──の彼は、人間にはない鮮やかな青い髪をしており、その髪をさらりと風に靡かせると跪き、ピンセットを取り出した。
「では、エミールさん。暴れたら先程の様にお願いします。その時はペペローネが安心していられる様に体はがっちり抑えてあげてくださいね」
「力尽くで…と感じ取ったら余計にこの子が恐怖を覚えたりしませんか…?」
「ぼくがインプットした映像情報だと、暴れる子の場合獣医師は飼い主に取り押さえをお願いします。でも、ペペローネは大人しい子ですから大丈夫かもしれませんね」
 エミールがペペローネを軽く抱っこし、ミアが膿盆、つまり医療用のトレイを抱えてスタンバイする。促されるままエミールはペペローネの足を掴むとフユの方に差し出す。フユの目からは先程のキュゥゥウと絞る音がまた響いた。
 ピンセットで肉球にあった棘を摘むと、あっと言う間にそれを除去してしまう。続いてエミールがペペローネの顔を押さえて向けると、痛々しく顔に刺さっていた棘もあっという間に除去してしまった。機械人形は人間と違い下手なデータインプットがされなければ手先の器用さは一定の水準を確保できる。こう言う時は下手に人間が手出しするより確実かもしれない。
「さて、ではぼくの代わりに確認をお願いします」
「はい!」
 しかし、矢張り何かを探る時の触覚は人間の手の方が上かもしれない。
 フユに言われ、エミールからペペローネを受け取ったミアが胸にくっ付ける様に彼を抱き抱える。落ち着いて安心しているペペローネの様子ににっこり笑うと、彼のストレスにならないくらいさり気なく体に触り、棘の有無を確認した。
「ありません!ペペローネちゃん、もう棘無さそうです!」
「そうですか、なら良かった」
「良かった、ペペローネ…。本当に助かりました、ありがとうございます」
「…エミールさん、もしかしてお散歩されてたの、女子寮の付近ですか?」
 フユにふと尋ねられエミールは思い返す。女子寮と限定して歩いてはいなかったが、確かに今日散歩をしたコースに含まれていた。
「寮周りをぐるぐる回って居たのですが…確かに女子寮の前は通りました」
「ああ、あそこ少し棘のある草が多く生えているんです。先日もいつからか結社に居着いてた猫が踏んで怪我をしたらしくて医療班に運ばれて来ました」
「フユちゃん、ピリツちゃんだよね。あの子は触診が苦手みたいでちょっと引っ掻かれちゃいました…」
 ミアが痛そうなジェスチャーを取る。まさか既に猫があそこで怪我をして居たとは。確かに草は生えて居たが、柔らかくてむしろ肉球の良いクッションになると思って居たのに誤算だった。
 チラリとペペローネの方を見れば、彼は自分を抱いているミアの匂いをすんすん嗅ぎ、そして嬉しそうに尻尾を振る。ミアもペペローネのその反応に頬を緩ませた。
 雌犬は往々にして男性が、雄犬は往々にして女性が何故か好きである。
 ペペローネのあからさまな態度にエミールは少しだけ面白くなさそうな顔をした。
「そう言えばエミールさん、ペペローネちゃんはエミールさんのわんちゃんなんですか?」
 ミアにそう尋ねられ、エミールはこれまでの事をざっくり説明した。ペペローネの飼い主が自分の父親の友人で、自分が結社に居るのを聞いて顔を見に来てくれた事。ペペローネも一緒に連れて来たは良いが、急遽仕事の関係で呼び出されてしまい、おまけに会社が結社の近くだった為結社から会社に向かった方が早かった事。そして仕事の終わりを待つ間ペペローネを預かる流れになった事。
「だから飼い主さんが戻り次第バイバイなんです」
「えぇー…寂しいですねー…」
 ペペローネに診察中も今もずっと甘えられすっかり情が移ったのか、ミアはへにゃりと眉を下げてペペローネを見た。ペペローネもくぅくぅ言いながらミアの顔を舐める。
 それを見てエミールはまたも面白くなさそうな顔をする。自分の顔を舐めたのはこの子がこの世で一番大好きな散歩に連れて行くと言うのが分かった瞬間だったのに。この子がこの世で一番嫌いなお医者さんの格好をしたミアは可愛い女の子だからかすぐにこんなに心を許すなんて。
「あははっ、ペペローネちゃんくすぐったいっ!」
「へぇ、ペペローネちゃん、人が好きなんですね。よく懐かれてるじゃないですか」
「フユちゃんは?抱っこしないの?」
「うーん、遠慮しておきます。人間が発する様な自然な温かみがぼく達機械人形には無いので、仕草は人なのに体温等相違があってびっくりさせてしまうかもしれません」
 しかし、可愛いワンちゃんと言う存在に可愛い女の子を掛けるとその可愛さは倍どころか乗算である。棘をとってもらえたのがよほど嬉しかったのか、ミアに抱かれたまま彼女の胸元ですりすり顔を擦り寄せるペペローネ。くすぐったそうに身を捩りながら彼を撫でるミア。彼女の顔を舐めようとして前足でミアの胸を踏み台に首を伸ばすペペローネ。勢いにびくりとしながらもペペローネを受け入れ抱き直すミア。
 表情筋があるからか人の様に愛想笑いもすると言う犬。そのペペローネが先程から嬉しそうに笑顔を見せているのは、これは本当に心からの笑顔という事だろう。そしてそんなペペローネの無邪気な笑顔にもはやメロメロになり、彼におずおずと鼻を近付けるミア。嬉しそうに近付いてきたミアの口許を舐めるペペローネ。
「……わっ!!エミールさん!鼻血!!」
「あれ?」
「え?エミールさんも棘刺さってたんですか?」
 興奮し過ぎたのか鼻血を流すエミール。フユは何の疑いもなく棘の有無を確認するとティッシュペーパーでこよりを作りエミールに手渡す。
 下心塗れでごめんなさい。もう少し煩悩が無くなってからワンちゃんとの生活を考えます。
 エミールは鼻血の生温かさをツンとする痛さと共に鼻の奥で感じると、人知れず誓った。とりあえず最初こそミアにすら嫉妬する程には自分もペペローネに骨抜きになってしまっているので、しばらくは知人の家で彼を愛でる時間を作ろうと思ったエミールだった。