薄明のカンテ - 未完成リーベスリート/べにざくろ


勝った女、負けた男

「 ねーえ、テオ。首絞めって気持ちイイのよ? 」
( 良くねぇよ! 胸糞悪い……二度と行かねぇ )
 客に絞められた首を労りながら、テオフィルスは我が家への帰路を歩いていた。手には報酬の他に女から恵んでもらった食事を入れた袋がぶら下がっている。
 此処は岸壁街の下層。家も持たない薄汚い子供が道端でテオフィルスの持つ袋を羨望の目で見ているが、その視線を受け流してテオフィルスは歩く。
 テオフィルスを待つ人はいないけど、彼には帰る家があった。家と言うほど立派な建物ではないかもしれないが、母が身体を売って男に媚びて得た家。母が死んでからも幼いテオフィルスから取り上げる人間がいなかったのは僥倖だった。
 その時、1人の子供が見ているだけでは満足できなくなったのかテオフィルスに走り寄って来た。しかし、袋に手を伸ばそうとした子供の腹にテオフィルスは容赦なく蹴りを入れて地面へと沈ませると、無感動な目で一瞥して再び帰路を急ぐ。
 明日は地面に転がるのが自分の姿かもしれないという恐怖はあるけれど、だからといって施しはしない。1人に施したところで、孤児は何人いる? 全員に行き渡る分の食事なんて無いのだから。しかし、例外はいる。
「 あ、おかえりー 」
 テオフィルスの家の玄関前に座り込んで、彼の姿を見るやいなやヒラヒラと手を振る少女。彼女こそが“ 例外 ”だ。
「 ただいま…今日はいるんだな 」
 ヴォイド・ホロウ。それが彼女の名前だ。
 出没自在なヴォイドは、たまに現れてはテオフィルスの家に上がり込んでくる。彼女の辞書には遠慮という言葉は登録されていないのだろう。その勢いに押されたのか、もはや彼女が現れてもテオフィルスはヴォイドを邪険にすることもなく大人しく家に入れることにしている。
「 あ、肉 」
「 育ち盛りだから、だってよ 」
 死んだ母の使っていたイスに我が物顔で座ったヴォイドに客から貰った食事を渡すと、中身が多めに肉の混ざった炒麦エル・バツであることを確認した途端にヴォイドの目が彼女の中では最上級に輝く。安価で低級な茶を入れてやってテーブルの上に置き、テオフィルスが向かい側の椅子に座る頃には彼女はとっくにそれを食べ始めていた。
 ヴォイドは食べることが好きだ。その細い身体のどこに入るのか、たまに疑問になるくらい良く食べる。
「 喉に詰まらせんなよ 」
 そう声をかけると口の中に食べ物を詰め込んだままヴォイドがモゴモゴと何かを言う。おそらくは「 大丈夫 」と言ったのだろうと察して、テオフィルスは彼女の食事風景を見つめた。
 先程までの客のこともあって、つい咀嚼して嚥下するたびに動くヴォイドの白くて細い首に目が吸い寄せられる。あの首に手を添えて絞めたら、彼女の普段あまり変わらない表情も変わるのだろうか。
 そう思ってヴォイドの苦しむ表情を想像しようとして止めた。
 もし彼女の表情を変えられるなら、苦しむ顔より笑顔が見たい。
「 どうしたの? 」
「 あ? 」
「 首、さすってるから 」
 食べ物を嚥下したヴォイドに指摘されて、テオフィルスは無意識に首をさすっていたことに気付く。
「 あー…今日の客が首絞めてくる客でさ、首に違和感があるのかもしれねぇ 」
「 首絞めるの? 」
「 たまには絞める側に立ってみたかったとか言ってたけどな。何がイイんだか 」
 客の女達に殴られたり首を絞められたりするたびにテオフィルスの胸に浮かぶのは女達への怒りより、その女達に同じことをした男達への怒りだ。何故、女達にそんなことをするのか。テオフィルスには全く理解出来ないし、理解しようとも思わない。
「 ふーん 」
 興味があるのだか無いのだか、ヴォイドはそれだけ言うと再び食事に戻る。その食事は、そもそもテオフィルスのものなのだが、やはり彼女の辞書に遠慮の二文字はないようだ。
「 ヴォイド。少しは残して… 」
 貴重な肉なので未練がましく分けてもらおうとしたテオフィルスの口に、ヴォイドが一切れの肉を突き刺したフォークを突っ込んで黙らせる。それは「 はい、あーん 」なんて可愛いものではない。一歩間違えたら唇か喉の奥にフォークが突き刺さりそうな見事な突きだった。
 それでも一応は怪我もなく分けて貰えたものなので、ありがたくいただくことにする。フォークだけが口から離れてから、一切れの肉を咀嚼した。行為の客としては最低だったが、肉は柔らかく出汁が染みていて料理は良く出来ている。
「 テオ 」
「 あ? 」
 テオフィルスが貰った肉以外を綺麗に食べ終わって茶まで飲んだヴォイドがテオフィルスの名前を呼ぶ。
「 また貰ってきてね? 」
 ヴォイドのお願いは要するに「 また首を絞められてきてね 」と同義な訳でテオフィルスとしては客と別れた直後に誓った『 二度と行かねぇ 』を反古にすることになる。だから答えは「 行かない 」が正しい。
「 い…… 」
 一文字発したテオフィルスとヴォイドの目が合う。
 別にヴォイドは家族でもない勝手に上がり込んでくる餓鬼だ。ただテオフィルスは「 行かない 」と一言告げれば良いだけなのに不思議と喉に石が詰まったように言葉が出てこない。
「 い? 」
 ヴォイドが小首を傾げると岸壁街のストリートチルドレンとは思えない程のサラサラの髪が揺れた。小首を傾げたヴォイドの姿は正直、可愛い。
「 ……行きます 」
 テオフィルスは可愛さに敗けた。何故か丁寧語でヴォイドに答えてしまう程に完敗だった。丁寧語になったテオに倣ってかヴォイドはヴォイドで「 うむ 」とそれはそれは偉そうな態度で答えるのでテオフィルスは少しだけ不快感を抱くがヴォイドの満足そうな顔を見ると、たちまちその感情は霧散してしまう。
「 お前はコッチの仕事はするなよ 」
「 何で? 」
「 何でって…… 」
 岸壁街の下層では娼婦は学の無い人間が身体一つあれば行えるありふれた職業だった。おそらくヴォイドがやればテオフィルスが貰うような端金ではなく、もっと稼げる娼婦になれるだろう。ここ数年、多くの娼婦の上や下を渡り歩いてきたテオフィルスには分かる。ヴォイドは売れる娼婦になる。
 しかしテオフィルスはヴォイドが娼婦になると思うと胸に黒い靄がかかったようになる。ヴォイドが誰かに抱かれると想像するだけで胸が痛かった。

―――俺をお前の初めの客にして欲しい。

 ふいに脳裏に浮かんだ言葉。
 違う。本当に言いたいことはそういう事じゃない。

―――お前が食べる分くらい俺が稼いでやるよ。

 根拠もない言葉が浮かんできてテオフィルスは密かに自嘲する。確かに今は子供にしては良く稼げている方であるとは思う。しかし、この生活があと何年持つことか。年が若いからこそ需要があるという部分もあるのだから稼げる期間は短いだろう。その期間を過ぎたらヴォイドを養うなんて夢のまた夢の話だ。
「 ヴォイドには向いてねぇって。色んな女を見てる俺が言うんだから間違いねぇよ 」
 結局、テオフィルスは茶化すように言うことしかできなかった。
「 そう? 」
「 だから、これからも上手いことやって生活してけばいいじゃねぇか 」
 ヴォイドは何だか釈然としない顔をしていたが、テオフィルスは笑顔で押しきった。
「 それじゃ、行くね 」
 残っていた茶を飲み干してイスから降りたヴォイドが言う。日によっては、そのままテオフィルスの家で睡眠に入ることもあるヴォイドだが今日は違うらしい。気侭な彼女に苦笑しつつも、テオフィルスは行先も次はいつ来るのかも聞かずヴォイドが出ていくのを見送る。
 ヴォイドがいなくなって独りきりになった部屋は静かだ。母が死んでヴォイドが現れるまではテオフィルスにとって当たり前の静けさだったのに、不思議とこの静かな空間が嫌でたまらなかった。
 気を紛らわすために、ポケットに入れていた電子タバコを取り出して電源を入れる。これも客の女が子供が吸ってる姿は愉快だろうと面白がってテオフィルスに寄越したものだ。ニコチンもタールも入っていない電子タバコにしたのは少しでも子供の健康を気遣ったつもりなのだろうか。残念ながら、その女は数ヶ月前に事故で死んでいて真実は闇の中なのだけれど。
 蒸気の煙の中に溜息を吐き出してイスの上に蹲る。
 脳内を反芻するのは先程ヴォイドに言わなかった言葉達だ。
「 仕事、何か別のやつ探さねぇとな…… 」
 虚空に呟いてみるが、子供に仕事のアテがある訳もなく。
 テオフィルスの溜息は再び蒸気の煙となって舞い昇った。

勝った男、負けた男

 あれから数年。テオフィルスは客の女から紹介されてクラッキングを主として行う集団に属していた。
 中でも地上の金持ちを騙してパスワードを入手し金を抜くのは最高に気分が良い。母親に「 父親は貴族 」と言い聞かされて育った反動なのか、テオフィルスは金を持った上流階級の人間が嫌いで仕方なかった。そんな奴等の資産が減ったと嘆く顔を想像するだけで愉しくて止められない。
「 程々にしときなよ。そっから足がついたら困るのはアンタだけじゃないんだ 」
「 分かってる 」
 テオフィルスを諌めるのは彼が所属するクラッカー集団の元締めから与えられた機械人形マス・サーキュのナンネルだ。見た目は幼女だが中身は親のような立場からテオフィルスの仕事を支えている。
「 最近、あの女の子来ないねぇ 」
「 アイツも忙しんだろ 」
「 寂しいねぇ 」
「 ナンネルにもそんな感情あんのか? 」
 ディスプレイから目を離してナンネルに問い掛けると呆れた顔のナンネルと目が合った。大仰に肩を竦めて「 やれやれ 」と動作で示される。
「 アタシじゃないよ。アンタが寂しいって言ってんのさ 」
 一瞬、思考が止まる。
「 は? 何言ってんの? 」
「 それはコッチのセリフだよ。何だいアンタ、気付いてなかったのかい? 」
 心底呆れ返ったとばかりのナンネルの表情に、テオフィルスは虚を衝かれたような何とも言えない顔になる。
「 そんな訳ないだろ。別にヴォイドが来ようが来まいが俺には関係ねぇし 」
 言いながら電子タバコを出して電源を入れて吸い出す。心を落ち着かせたい時にタバコを吸うのはテオフィルスの癖みたいなもので、つまり今はそれだけ彼の脳内が混乱しているということだ。
「 ああもう面倒な男だね! ほら、散歩でも何でもしてきな!! 」
 機械人形法を無視したナンネルに頭を叩かれる。容赦ない一撃は本当に痛かった。
「 お前…俺の優秀な脳神経細胞が死ぬだろ… 」
「 くだらないこと言ってないでさっさと行ってきな!! 」
 機械人形に玄関から言葉通り蹴り出される主人マキールがこの世の中にどれだけいるのだろうか。いや、いないだろう。
 ともあれ追い出されてしまったものは仕方ない。直ぐに家に入れば、また追い出されるのは容易に想像されるのでテオフィルスはナンネルのいう散歩をすることにする。
 岸壁街を歩いても見えるのは美しくない光景だけだ。転がる酔っ払い、その財布をスる子供、財布から抜いた現金の上前をはねる大人。変わらない醜い光景。テオフィルスも世の中というものは全てこういうものだと思っていた。
 違う、と気付いたのは13歳で外に飛び出した時。外の世界はもっと綺麗なものだった。更に電子世界を知ってテオフィルスの世界は広がった。特に彼の心を捉えたのはアニメーションというものだ。決して困難に挫けない主人公の瞳に魅せられてストーリーには胸が踊った。岸壁街の外の世界よりも、もっと綺麗な世界が画面の中にはあった。
( 〜♪ )
 一番のお気に入りとなっているアニメの主題歌を脳内で再生しながらテオフィルスはごみだめのような街を歩く。浮かれたように歩いても付近の警戒は怠らない。
 その時、嫌な視線を感じて視線の先に目を向ける。そこにいたのは岸壁街にしては身綺麗な格好に身を包んだ同世代くらいの黒髪の男だった。岸壁街以外で見たならば何の違和感もない格好も、この汚い世界に立っていると世界から浮いていて非常に目立つ。
( 誰だ……? )
 そんな目立つ存在の男だがテオフィルスと彼は初対面だった。濃厚すぎて胸焼けのしそうな菓子を彷彿とさせる視線に思わず後ずさる。
「 そんなに警戒しないで下さい 」
「 悪いけど俺は男相手のそっちの仕事はしねぇからな 」
「 それは残念です 」
 心にも無いことを言っているのが良く分かる声音で男が笑う。その笑い声に何故か勝ち誇ったような勝者の響きが混じっているのを感じ取ったテオフィルスの眉間に皺が寄った。
「 喧嘩売りに来てんのか? 」
「 いえいえ、まさかそんな 」
 男は大仰な程に手を振ってテオフィルスの言葉を否定する。顔に貼り付けた笑み、演者が舞台に立っている時のような仕草、全てが癪に障る。

『 良いか、テオ。間違っても“奴等”には手を出すなよ 』

 ふと、元締めに言い聞かされた言葉が脳裏に浮かんで、そうかこれが元締めの言っていた手を出してはいけない組織の人間かと理解した。そういえば仲間に「 あっちにもお前の年齢位の餓鬼がいるらしいぞ 」と言われたことがある。それがこの目の前の彼なのかもしれない。
「 だったら何の用な訳? 」
 身なりが良い男に思わずテオフィルスの言葉が苛立つ。
「 いえ。用は無いですよ 」
「 はぁ!? 」
 用件もないのにテオフィルスをあの視線で見ていたというのか、この男は。手を出してはいけないという元締めの言葉を忘れて殴ってしまおうかと思って近付くと男からは品の良い香水の匂いがして余計に苛立った。
 男の黒い目は、底のしれない男自身の深淵のように奥が見えなくて恐怖を与えるが今のテオフィルスには関係ない。
「 少し貴方を見ておきたいと思いまして伺った次第です 」
 愉悦の色を浮かべた男が言う。
「 何で俺を……? 」
「 さあ? 何故でしょうね 」
 男には何もこちらの問いに答える気は無いようで、テオフィルスの問いを煙に巻くようなことしか言わない。更に苛立つテオフィルスを面白がっているような雰囲気すらあり、男の思い通りになっていることに余計に苛立つ。
「 俺は忙しいんだよ 」
 散歩という名目で歩いて姿を見掛けなくなったヴォイドを探さなければいけない。これ以上、変人に構ってなどいられない。
「 これは失礼致しました。人探しの途中でしたものね 」
 変な男はそう言って身を引いた。最後に、もう一度だけ睨み付けてテオフィルスは歩き出す。しかし直ぐに立ち止まった。
( 人探しの途中って、何でアイツが知ってるんだ )
 問い詰めようと振り向くと既に男の姿は影も形も無く。
( 何だったんだ……? )
 何かに騙されたような気分になりながらもテオフィルスは再び歩き出して、それとなくヴォイドを探す。しかし、彼女がお気に入りの( 食い逃げする )食堂の近辺にもストリートチルドレンの溜まり場にも彼女の姿は無い。
( どこ行ったんだよ、アイツ )
 焦る心で岸壁街中を探し回るけど。

―――結局、テオフィルスがヴォイドを見付ける事は無かった。