薄明のカンテ - 芳しきは友情の香り/燐花

やっぱりまだくさい

「ヴォイ姐!おーはよっ!」
 漫画にでもされたらそれこそ『ぴょこりん』とかそんな変な効果音でも付きそうな勢いだなぁ。
 と、ヴォイドが思う程にヒギリは朝から元気だった。
「………」
「ちょっとヴォイ姐!!無視は良くない!!おーはーよー!!」
「…はいはい、おはよ」
 挨拶に馴染みのないヴォイドは岸壁街でしていたのと同じ様に無視を決め込もうと思っていたものの、地上に上がり結社に所属しやかましい女に目を付けられて以降それは許されない感じがした。
 一度目を付けられたら最後。返事を返すまで逃してもらえない。
 結社に来たヴォイドは、先ず相手にオウム返しでも良いから何か返事を返した方がスムーズに事が進むとそう覚えた。
「…ねぇねぇヴォイ姐、昨日はお風呂入った?」
「失礼な聞き方するな」
「だって……」
「大丈夫、もうお前に言われてから服ごとシャワー浴びたりしてない」
 ヒギリはその言葉にほっと胸を撫で下ろす。そして、ヴォイドと距離を縮めた時の事を思い出していた。

 * * *

「よろしくね!ヴォイ姐!!」
「…変なあだ名…」
「ところで。失礼な事聞くけどヴォイ姐ってお風呂入ってるんだよね?」
「え?……入ってないよ」
「え!?」
「風呂?って何?シャワーじゃん、独身寮の部屋に付いてんのって」
 そう言われてヒギリは思わず「あ」と声を漏らす。東國出身の母の実家では当たり前の様にバスタブのある浴室だったし、自分の実家にもそんな風呂好きな母の拘りで浴室はカンテ国に珍しく東國仕様となっており、広さも相当取っていた。だが、それはヒギリの周りの環境がそうであったと言うだけで、身近な人間だとディーヴァアイドル時代に親しくしていたソフィア・マーテルも自分の家に遊びに来た時に風呂を見て「私の家と違う!」と驚いていたのだった。
 カンテ国の普通の家の子でも風呂を見て驚いていた。それがヴォイドの様な特殊な生い立ちの人間が馴染みのあるものかと言うとそれはなかなか難しい話だったのだ。
「そっか…お風呂知らないのか」
「……流石にそんな事無いけど…言われて思い出した。長い事入って無かったから何か…忘れてただけ」
「え!?ヴォイ姐の家、浴槽あったの!?」
「………」
 途端、何かを思い出したのかヴォイドの顔がぽっと赤くなる。ヒギリが疑問符を浮かべた顔で彼女の顔を覗き込むと、『見るな』と言わんばかりに手の平で乱暴に押し返された。
「わぷっ」
「…見るな」
「わ、分かったから押さないで!顔潰れちゃう!」
 解放されたヒギリは痛たたた…と文句を言いながら再度ヴォイドを見る。もう彼女はいつもの顔色に戻っていた。
 しかし、岸壁街で彼女は一体どう言うバスタイムを送っていたのだろうか?そもそも岸壁街とはどう言うところなのだろうか?階層があるとは噂に聞いていたが、彼女はどこから来たのだろうか?
「えーっと、何?」
「は?いきなり何だ。むしろ私が今お前に聞きたいけどそれ」
「あ、ごめん。何から聞いて良いのかなーって思って」
「だからって『何?』とか聞かれても分かるか」
 へへへ…と笑みをこぼしながら頭を掻くヒギリ。まぁ良いか、また順々に聞いていけば。
 軽く言葉を交わして少し打ち解けた気がする。初めての会話があまり身のないお風呂トークと言うのもどうかと思うが、少なくともシャワーは一応浴びているらしいと言う事だけ分かったから良しとするか。
 昼食の続きを食べると言うヴォイドから離れ、テラスから食堂に戻ってきたヒギリ。彼女が厨房に入ろうとした瞬間に声を掛けて来たのは同僚のジュニパー・モンクスフッドだった。ジュニパーはヒギリにとってあまり良い同僚では無かった。ヒギリの中で彼女の評価はこの時既に「性格が悪い人」になっていたからだ。
「ちょっとモナルダさん、アルコールでも浴びて来たら?」
「……モンクスフッドさん、それどう言う意味?」
「臭いんだけど。あの『Q』の女とお喋りは良いけど、雑菌とか移されてたら嫌だからそのまま厨房に入るの止してよ」
 ジュニパーははっきりと物を言う女性だった。母が東國人とは言え奥ゆかしさのあまりないヒギリだが、それでも一瞬たじろいでしまう程にはジュニパーの物申すはっきり度合いは苦手であった。
「え!?私臭いの…!?」
「は?その臭い自分で分からないわけ?」
「……私あんまり感じなかったんだけど」
「あっそ。じゃあもうあんたの鼻もあの女と一緒で馬鹿になってるんじゃない?良いからアルコール頭から被るなり何なりして。もし食中毒なんか起きたらモナルダさんを疑うからね」
 そう言って持ち場に戻るジュニパー。ヒギリは心の中でブーイングのハンドサインを取りながら密かに『そもそも臭い分かる様な距離まで近付いてない癖に!ヴォイ姐と話してるの目敏く見てたからそう言っただけの癖に!』と反論した。その後モリーがすぐにヒギリに近付き、一応念の為エプロン等身に付ける物は交換してみましょう?と提案したのでヒギリは大人しくそれに従った。ジュニパーもモリーの提案なら呑めるのかその後は『アルコールを被れ』と執念く責めるでもなく、ヒギリに特に突っ掛かる事もなく仕事をしていたが、ヒギリの心にはモヤモヤと不満が溜まった。
「全くもう…あの人文句言うだけなんだからなー本当に!リーシェールさん、私臭くないよね!?」
「………」
「ん?」
「…………ええ!」
「あれ?」
 今の間は何だろう?
 ヒギリは仕事終わりにすんすんとヴォイドと話した際に着ていたエプロンに鼻を近付ける。確かに、時間が経っている筈なのに微かに嫌な臭いが漂いヒギリは居た堪れない気持ちになった。
 やっぱり、自分の匂いって分からないもんだなぁ…と。
 その後しばらく、ヴォイドは食堂に顔を出さなくなり、ヒギリも若干拍子抜けした気持ちになりながら業務に就いていた。ヴォイドの来ない食堂は平和だとそう思ってしまう自分の事も少し嫌になりながらふとした時に彼女の事を考えた。
「やっぱ『Q』が来ないと平和で良いわねー」
 いつも通り本当に何気ない言い方で口にするジュニパー。嫌味でも何でもなくただ思った事を口にしただけではあるが、内容がネガティヴな為にヒギリは余計にムッとした。
 二週間後、仕事が休みの日にたまたま同じく休みでいたヴォイドにやっと会えた時久し振りに顔を見た彼女からまた強い異臭がした為、ヒギリは思わずそれを指摘し彼女の部屋に着替えを取りに行けと文句を言った。ヴォイドは煩わしそうに流そうとするがヒギリはそれを許さない。
「良いけど。それ着替えて改善されるならもう改善されてるんじゃない?」
 そう言うヴォイドの部屋に着いて行ったヒギリは絶句する。彼女の部屋は、清掃部の人間が立ち入ったとするなら有り得ない程汚れていたし、臭いが立ち込めていた。
 彼女なりにトラブルを避けようとした結果なのだろう。おそらく食堂に来ない間は自分の部屋に籠って食事を摂っていたらしいヴォイドの部屋はゴミで溢れており、捨てられ無かった二週間分がそのままになっていた。恐ろしい事にヴォイドは料理も嫌いじゃないらしく何らかの調理に使ったであろう海老の殻や鶏肉のパックが転がっている。
 海産物や肉から出るドリップは放置すると強烈な臭いを発する。彼女の部屋の狭い台所はそれらのゴミで溢れ、気温の低いカンテ国でありながら謎の虫が湧いていた。
「ヴォ、ヴォイ姐!窓って開けないの…?」
 鼻をつまみながらヒギリがそう尋ねると、ヴォイドはふるふると首を横に振った。
「窓開けて物盗りに入られても困る」
「うわぁお……」
 ヴォイドにとって窓を開けるとは物盗りを歓迎する事と同列らしい。その理論にヒギリはクラクラした。清掃部にゴミ捨てと洗濯の依頼をしたかと更に尋ねれば、やはりヴォイドは首を横に振った。
「……そう言うので部屋に入って、そのまま色々盗まれたりしそう」
「そ、そんな事無いってば…」
「…前から思ってたけど、何で『無い』なんて言い切れるの?」
「むしろ何で清掃部の人達が部屋に入って盗みを働くと思ってるの…」
「私だったらそうするから。『掃除します』なんて大義名分あれば用心されずに部屋に入れるだろ」
 ヒギリは、何故ヴォイドとこんなにも話が噛み合わないのか少しだけ理解した。彼女とは育って来た環境が違い過ぎて、前提としているものもまた違い過ぎる。
 ヒギリにとって人を疑わない事が当たり前の様に、ヴォイドは当たり前に人を疑う。
 岸壁街の出身の人達は確かにあの土地から離れて生活は良くなったかもしれない。それでも生活環境がガラリと変わって戸惑ってしまう感覚は、彼等も自分達と変わらないのだとも思う。
 生活が良くなるからそれで良いのでは無い。
 新しい環境に慣れる事ができなければ、住んでもそこが安住の地にはならないのだ。
 しかし、だからと言って理由はそうだったにしろこの場のルールを脅かす事になるならばそれは看過できない。ヴォイドがこのままの価値観でこのまま生活を続けていたら間違いなくまたトラブルになるし、結社内での立場も危うくなるだろう。
 ヒギリは鼻をつまみながらヴォイドの説得を試みる。彼女のこの異臭騒ぎの要因に洗濯物に洗剤を一切使わないと言うのもあるらしいと知ったのは、彼女がシャワーと洗濯を一緒に行うと言う強行手段に出ていたと聞いたからだった。
 ヴォイドは周りに用心して、或いは面倒臭さから服を着たままシャワーを浴びに行き、その場で洗いながら服を脱ぎ着ていた服は部屋に干して終わり。勿論部屋の窓も開けないので換気もされない。臭いの籠る悪循環が無事爆誕と言うわけだ。
「ヴォイ姐……それはいかんて」
 やっとの事で振り絞ったヒギリの言葉にヴォイドは首を傾げる。当たり前の様に、彼女は何がいけないのかが分からない。
「…何がいけないの?」
「いけないって言うか、『物を盗られない様に』って心配よりやっぱここでは臭いを心配した方が良いと思う…」
「だけど……」
「現にさ、今盗られて困るものってある…?」
 ヒギリに聞かれたヴォイドは黙ってしまった。テロで身一つになったヴォイド、今の彼女には盗られて困るものは無い。ただし、これまで生きて来た経験からつい用心をしてしまうとそう言う事だった。何故なら用心した方が何かと得だからだ。
 しかしそれでも今は状況が違う。結社なら衣食住の確保はされているし、仕事の品質安全も保証せねばならない・・・・・・・。つまり、ヴォイドの懸念する様な事を本当に行う者が清掃部にいればそれは罰せられねばならないし、そこに所属する以上はヴォイドもそれに則った行動を取らねばならない。
「ヴォイ姐も周りを信用して、仕事として掃除に来る清掃部の人に預ける事も大事ってこと。だってこんなに溜め込んでいざ『お願い』って渡す時汚れが膨大だったら余計に清掃部の人達の仕事増やしちゃう。思い切ってお願いするなら早い方が良いよ、絶対」
「………」
「それに、ずっと誰にも任せず自分でも処理せず…なんてやっててもっと大きなトラブルになったらヴォイ姐、仮に結社から出てけって言われたらどこ行くつもり?」
「……今のところどこも…転々とする事も考えなくも無いけど、ここまで条件良いの結社だけだし」
「じゃあ尚更、ここのルールに従うしか無いよね」
 ヒギリの言葉に観念したのか、ヴォイドは溜め息を吐くと窓を開けに向かった。全ての窓を全開にすると風通しの為に玄関のドアも少し開け、そして洗濯籠にポイポイとランジェリーを突っ込んでいく。
 ヒギリは一瞬何が起きたかよく分からなかったが、ヴォイドが自分の言う通りにしようとしてくれていると気付き嬉しそうに鼻を押さえていた手を取った。でもやっぱり臭かった為しばらくは口で息をしながらそれでもヒギリは満足そうだった。
「これ」
「ん?」
「これ、全財産」
「え!?」
 ヴォイドが『全財産』だと指したのはたった今洗濯籠に入れた少量のランジェリーとまだ新しいスクラブだった。
「何か、どうでも良くなった」
「え……どうでもって…」
「『人を疑うの』が、どうでも良くなった」
「……本当?」
「地上の人間って綺麗事ばかりで得体が知れないって思う事もあったけど。お前みたく納得出来る材料を挙げた上でそれでも尚突っ込んでくるお人好しが多そうならまぁ良いかなとも思う。電子通帳は自分の手元にあるから金盗られる心配はしなくて良いし、よくよく考えたらそんなサイズの合わない下着盗りたがるアホ居ないだろうし」
 ヒギリは与り知らぬ事ではあるが、ヴォイドは『納得出来る材料をくれた上でそれでも尚突っ込んでくるお人好し』と言う言葉に自分の医学の師匠の顔を思い浮かべていた。
 しかし、ヒギリからしたら『自分のサイズ』が他者に比べてかなり大きく、且つなかなか無いものである事をヴォイドが自覚している事が意外だった。無頓着そうだったから適当だと思っていたのだが、よくよく考えたら籠に入れられた下着達はどこで買ったのか可愛い物が多く、テロの混乱でもこれだけ持って来ていたと言う事は相当大事にしていたのかもしれない。
 ならシャワー浴びついでにみたいな適当な洗い方しないでちゃんと洗剤使って洗えよ、ともヒギリは思ったが、とりあえずヴォイドの気持ちが前向きになった様な気がするので良しとする。
 ちらりとヴォイドの顔を見れば、彼女はいつもの虚ろな目でどこか分からないところをぼうっと見ていた。そんな彼女の瞳の綺麗さにヒギリは気付く。
 やっぱり、こんな綺麗な人から鼻が曲がる様な臭いは何かこう、イメージと違う。
 ヒギリは決意を固めた様に息を吐くと大きな声で言った。
「良し!じゃあヴォイ姐、今からゴミ捨てよう!」
「は?」
「調達班の子からゴミ袋もらってくるからある程度ゴミ捨てよう!?そしたら清掃部の人に頼んで洗濯とかお掃除の仕上げやってもらおう!?」
「…何でそうなる…」
「やるならやる気のある内に!!徹底的に!!」
「面倒臭い…」
「さー!やるぞー!!」
「はぁ…。まぁ、そろそろキッチン狭くなって来てたし良いか、別に」
 調達班から袋を貰い、とりあえず臭いの元たる生ゴミのまとめを行う。自炊も出来るらしいヴォイドだが、ゴミの捨て方はあまりよく分からない様でやればやるだけそのままだった。おまけに、料理をするのはそこまで苦ではないらしいが洗い物は得意ではない様で、紙皿や使い捨てまな板が汚れたままどこかしこに置かれていた。無頓着なのかゴミ箱を買っておらず、剥き出しのままの生ゴミが生活スペースに積み上げられていればそれは臭くもなるなと改めて思った。
 彼女の言う『キッチンが手狭になった・・・』の真の理由に若干青ざめながらヒギリはどんどんゴミ袋に纏めていく。一枚、また一枚と袋を消費し、ヴォイドが入社してから今までの約一ヶ月近く溜め込んだゴミをまとめて縛って、清掃部のザラに連絡も取ってこの後来てもらう事になった。
 ──この人、分かるところは分かってやってたみたいだけど分からないところは本当に何も分からないんだな。教える人はどう言う教え方したんだろう?
 ゴミを纏めた事で若干臭いもマシになった気がして気持ちに余裕の出たヒギリは世間話を始めた。
「それにしても、ヴォイ姐意外だねー。料理出来たんだ?」
「…ただ炒めたり煮たりしたやつに塩胡椒で味付けしてるだけ。凝った物は作れないし、腹に溜める為に作ってるだけ。ただ、食材は基本生食は危なくて、焼くと大概食べれるって言うのだけ教わったからそう言う風にしてるだけ」
「へー!それでも知ってるだけ凄いと思うよ!知ってれば色々出来るし!誰が教えてくれたの?お母さん?」
 一般家庭の出のヒギリにとっては何気ない質問だった。しかしヴォイドは一瞬の内に頭の中で色々がフラッシュバックするのを感じる。
 顔も知らないお母さん、調理済みの食材をいただきに行くと言う口実で家に通っていた初恋の人、保護者ではあったが少なくともまともな親では無かった娼館の娼婦達、どう言う理由か分からないが『出資者と関わらせない方がいい』と言う謎の理屈を捏ねて子供の自分を娼館から追い出した娼婦のリーダーっぽい女、結果として料理を教えてくれたのは初めて自分を抱いた相手、抱いて抱いて四六時中求めてまともな女として扱ってた様に見えた癖にサヨナラも言わずに置いて行った男、
 ──まともな生き方をせずここまで来た自分。まともな世界に生きる人間には必ず『お母さん』がいる。だから『お母さん』がいたら違ったのかもしれないのに。『お母さん』さえ居れば。
「ヴォイ姐?」
 軽くトリップしていたヴォイドはヒギリの呼び掛けにハッとなる。
 当たり前の様にヴォイドの考えもまた偏見塗れである。地上の子は皆両親が揃っていて幸せで当たり前。当時、『消滅の神様』と『お母さん』と言う偶像に信仰染みた憧れを抱いていたヴォイドはそんな偏見に溢れていた。関わって来た人間の事だってあくまで自分から見た側面しか見えていなかったのだと言う事にも気付かずに。
「ヴォイ姐ー?おーい?」
「いない…」
「え?」
「私…『お母さん』、知らないしいないから。一緒に住んでた男が自炊出来る奴でちょっと聞いた事あっただけ」
 そう、だから私は地上の人間とは違って多分まともじゃない。
 そう言う含みも込めて自傷気味に吐き捨てたヴォイドだったが、悲しいかなそんな自傷はこの単純な思考回路の少女には通用しなかった。
「え……一緒に住んでた男…?って、ヴォイ姐同棲してたのーー!!?うそうそ!?嘘でしょ!?えー!!良いなー!!私もね!アイド…バイト先の友達に内緒でやってる子居たんだけど、もう話聞く度良いなーってすっごい憧れだったんよ!!」
「………は」
「良いなー!!良いなー!!憧れるなー!!好きな人と夢の同棲生活…!!もう好きな人と一緒に暮らすシチュエーションなら監禁でも良い…!!」
頭おかしいんじゃない?
「酷っ!!何で!?憧れたって良いじゃないか!!彼氏ってどんな人だったの!?え!?って言うか今も付き合ってるの!?」
「……今は知らない」
「えー!!その時の彼氏どんな人!?」
「彼氏じゃない……。胡散臭くてキザで割と常にエロくて後ろから揉むのが好きな癖に正常位じゃ無いと嫌な奴」
きゃぁぁぁぁぁぁぁあ!!!
「うるさい」
「え、え、エロい奴!?彼氏じゃないのにエロい奴…!?ヴォイ姐ってその、どこまで経験してらっしゃるのでしょうか…!?」
「……岸壁街下層の出にそれを聞くのは馬鹿だと思う」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!」
「うるさい」
「いやぁぁあんっ!!ちなみに私はまだ誰のものでもありませんっ!!」
「聞いてない」
 ──こいつ、地上の普通の家の出だし汚い世界とか厳しい世界とか何も知らないんだろうな。お辛い事も何もなく、のほほんと暮らして来てそうだけど今までよく生きてたな。
 そんな話をしているとどこから聞こえていたのかケラケラと笑いながらザラが現れる。ヴォイドは一瞬身構えたが、ザラがどう見ても物盗りの雰囲気で無かった為すぐに警戒を解いた。
「おやまあ!本当に凄い臭いだね!」
「だよね!?やっぱクサイよね!?」
「一言目から余計だ」
「おやおやごめんよ!!でもねぇ、おばさん嬉しいよ!このまま放置されてゴミ屋敷みたくなってたら片付ける時の私らの仕事、他の業務もあるのに一日掛かり切りになっちゃうからねぇ!ちゃんとやろうと思い立つ事が偉いよ!」
 褒められ慣れないヴォイドはザラの言葉に相槌を打つ事も返事をする事も出来ずにいた。ザラはそれを察してか、それとも特に気にしていないのか、街でよく見るゴミ収集の係員の如くテキパキとゴミを部屋の外に出し、そして籠に入れられたランジェリーを見た。
「うーん……下着にまで付いてそうだねぇ、この臭い」
「これしかないしこれ以上下着持ってない」
「え!?じゃあこれ出したらアンタ着るもの無いじゃないの!!急拵えで良いから替えのもの買ってらっしゃいよ!!」
「ザラおばさん、ヴォイ姐ランジェリーには拘りあるんだって」
「拘りとか言ってないでスポブラでも何でも良いからちょっと数日分着れるだけ買いな!!」
「……ダサいのは嫌」
「そんな事言ってる場合かい!?」
「だって…私の服だから、それ」
「ちょっと待って…アンタ服持ってないのかい!?」
「だから、それが服」
「これは下着だよ!!」
 ヴォイドの状況は思ったより深刻である。ザラは頭を抱えたが『乗り掛かった船だしね!!』と気合を入れ、近場のランジェリーショップの地図を書いた。
「アンタ!そんなに言うなら今度ここ行っといで!ただし、その臭い取れるまでは出られないからそれまではスポブラで我慢しな!」
「えー……」
「後ランジェリーの上に何か着な!!」
「……嫌だ!」
「アンタ何でそこだけ頑ななんだい!?」
 そんな二人のやり取りに笑っていたヒギリだったが、色々見ていてもっと深刻な事態に気が付いた。ヴォイドの部屋には洗剤の類がほぼない。体も顔も手も全部一緒に洗うと言う石鹸が一つしか無かった。
 買いに行かねば。使い方を教えねば。しかしそれより何より、まずは彼女に自分を磨く事が娯楽であり楽しい事だと教えねば。継続出来なければその場凌ぎになってしまう。その場凌ぎになったらまたトラブルが起きる。
 ザラ率いる清掃部にヴォイドの部屋を任せ、彼女の手を取り外に出たヒギリ。不在の自分の部屋に他人を入れると言う慣れない行動に少しそわそわしていたヴォイドだが、彼女はそれ以上に直後にヒギリが発した言葉に珍しく目を剥いた。
「ヴォイ姐!お風呂行こうよ!!
何でだよ
「共用の蒸し風呂あるから行こうよ!!」
「だから……」
 何でだよ、と言い掛けてヴォイドは諦めた。まだまだ短い付き合いではあるが、問い詰めたところでヒギリは『行こうよ!』しか言わない気がするからだ。成り行きとは言え部屋も何も初めて他人に任せてしまったし、今自分が失う物は何もない。断ったらヒギリとの間がギクシャクすると言う『損』はあるだろうが承諾した際に生じる『損』は少ない。
「……分かった。行く」
「わーい!!私蒸し風呂入った事無いんだよー!!」
「初めてなの?」
「うん!ヴォイ姐は!?」
「……私も…蒸し風呂は知らない…」
「あ!お揃いだ!」
 ウキウキと足を進めるヒギリを見てヴォイドは少しだけ口許を緩めた。変なのに好かれたかなぁ?と思いつつ同時に岸壁街で見ないタイプのヒギリに興味も抱きつつあった。
 しかし、ヴォイド自身も知らない自分の特徴が実はあるのだとこの時彼女はまだ知らずにいた。
 自分が実は「熱さを苦手としている」等と、この時のヴォイドは知る由もなかった。

かのじょをとりまくもろもろと

「明日からミアさんとヴォイドさんを共に倉庫整理から医療班の一般業務に移そうか、と言う話ですが、今回はミアさんだけにしようかと思います。いかがでしょう?」
 八月もそろそろ終わりが見えて来たそんな頃、アキヒロはいつもの笑顔を崩さずそう口にする。その場に居たスレイマン、アペルピシアの二人が共に『意義なし』と口にすると、アキヒロも少し眉を困った様に下げながら頷いた。
「仕方ないですよねぇ…残念ですが、ヴォイドさんはもう少し様子を見ましょう」
「良いんだけどミアは…?あの子はもう大丈夫だと上は判断したの?」
「彼女はテロのショックか、部分的な健忘症は認められましたが…それだけです。今のところは」
「……よりにもよって何で医療班なんて希望したのかしら…」
「まあまあエル。何かしらのトラウマを抱えているからと言って仕事を制限するのは難しいよ」
「そうかしら?精神科医としては火に恐怖症を持ちながら消防士なんてするべきでは無いと思うし、血に誘発されてフラッシュバックする悪い記憶がありながら医療に携わるべきでは無いと思うわ」
 アペルピシアの言葉にスレイマンは「うっ」と言葉を詰まらせた。しかし次の瞬間彼女の言葉を打ち消したのはアペルピシア本人だった。
「とは言え…人が足りないのもまた事実よね…」
「仕方ないですねぇ。早朝に猫の鳴き真似三回だとか、太鼓を叩くだとか…。結社は待遇は良いですがこのご時世に高待遇過ぎて怪しまれていますから。近々スポンサー企業が大々的にきちんと国内で宣伝する事を考えているそうですが、それで人員確保が見込めるまでは今居る、今在るもので回さねばなりませんし」
「本当……どうにかして欲しいわ…」
 青く疲れた顔を見せるアペルピシアにスレイマンは駆け寄りたい気持ちをグッと堪え、今は仕事中だと己を律する。ミアは幾度も診察と面談を重ねて現状「健忘が害を及ぼす事は認められない」と判断された。先日入社したネビロスも心身への配慮からしばらく倉庫整理で様子を見て一般業務に移す話が出るだろう。もう少し人手が増えてくれればきっと状況が変わる。
 しかし同時に今の結社の来る者を拒まない姿勢では生活の質や価値観が全く違う人間もやって来る。そしてそれを見る度に、「やはり岸壁街の人間を急に地上の仕事に就かせるのは難しいのではないか」と言う懸念も抱いてしまう。
 ライフスタイルも価値観もこんなに違う人間が目的を同じくして有事の際に力を合わせると言うのは可能なのだろうか。
「…とにかく、ヴォイドさんにはまだまだ全然可能性がありますから。地上での暮らしに慣れて、地上でのルールや人との関わり方を知って、そして地上のやり方を覚えてくれればきっと大きな力となりますよぉ。非合法とは言え医者を生業としていたらしいですから」
「……闇医者なんかに『医者』を名乗って欲しく無いわね」
「…エル」
「この中で医師免看護師免持ちがどれだけ少ないか分かってる?」
「まぁまぁ、エル先生の仰る事もご尤もですねぇ。しかし彼女にやっていただくのは一般業務、もしかしたらゆくゆく医大を目指しきちんとした工程を経て医師免許を取るかもしれません。未来の有能医師が増える可能性に賭けてここは一つ柔軟に行きましょう?」
「あまりにもギャンブル過ぎるわね…でも闇医者の手も借りたくなるくらい今が大変だってのは私も分かってるつもりよ」
「しかしそれ以前の問題だよなぁ……まさか、一般業務やらせられるか危うい理由に『私服問題』、『匂い問題』が出て来るなんて……」
 はぁ…と溜息を吐くスレイマン。スクラブ着用の今は幾分かマシだが、支給前に『私服』で来た彼女の姿にアペルピシアが雷を落としたのは言うまでも無い。
 ヴォイドが加入して間も無くの頃。目の遣り場に困る様な際どいランジェリー姿で彼女は現れた。一瞬視界いっぱいにそれ・・が入って来てしまい流石のスレイマンも直視してしまったので恋人であるアペルピシアに心の中で土下座しながらもヴォイドを医療班の部屋へと案内した。しかし、彼女の近くに寄った時に鼻をついた匂いにスレイマンは眩暈がしそうになった。
 冗談抜きに、軽く戦場の光景がフラッシュバックしたスレイマンはその臭いがヴォイドから発せられた事にギョッとした。そして「部屋に入れてはいけない」と瞬時に判断し、彼女をそっと連れ出すとまずは倉庫に行ったのだった。
「……倉庫まで連れ出して何する気」
「大丈夫、今ヴォイドの思っている様な事はここにいる誰もしないよ。それより、一つ聞いて良いか?」
「何?」
「その…何か、匂いが気になるんだけどさ…」
 直接言って良いものか少し躊躇ったが思い切って言ってみる事にした。本人が気にしていたかどうかは顔色から察せられるかと期待したのだが、ヴォイドは本当に「分からない」と言わんばかりの顔をスレイマンに向けるだけだった。
「匂い、って何の」
「え?ヴォイド…その、分からないか?」
「特に」
 ピシャリと言われてしまってはこれ以上どうしようもなくなってしまう。優しい性格の彼にはこれ以上指摘するのは躊躇われた。もしかしたら自分が過剰に反応しているだけかも分からないのだから。
 しかし彼女が近くを歩いた時、医療班に怪我の手当てをしてもらいに来ていたメンバーがあからさまに顔を顰めたのを見てスレイマンは咄嗟にヴォイドの体を風通しの良い屋外に押し出した。ヴォイドから「さっき『ヴォイドの思っている事はしない』って行ったのに…」とありもしない疑いを掛けられ、剰えそれを目線で伝えられ、さしもの強メンタルスレイマンも溜め息を吐く他無かった。
「………」
「そ、そんな目で見るなって…!」
「…まさか、外が好み…?」
「だから!ヴォイドが思ってる様な事なんてしないって言ってるだろ!?」
「疑わしい」
「あー…もう……じゃあこの際だからはっきり言うぞ?ヴォイド、風呂には入ったか?」
「………」
「…だからっ!おれにその気は微塵も無いから!妙な疑い掛けるのやめろ!おれには超々可愛くて大事な彼女が居るんだよ!!」
「……そうは言っても、世の中裏切る奴が多すぎだ」
「おれは…っ!!」
 そこまで言ってスレイマンはハッとする。彼女が何処から来たのか考えればそう疑うのも致し方無いのかもしれない。自分の物差しで考えた感想だけをぶつけても永遠に彼女と答えは交わらない。ならば一度彼女の見て来た世界を受け入れねば。
「…ヴォイドが今まで見て来たのがどんな男かは知らない。おれは岸壁街の下層に行った事が無いから。でも少なくともおれは恋人を愛してるから彼女を裏切る様な真似は絶対にしない。だからヴォイドが思う様な危害は絶対に加えない。その言葉だけは、おれとこれから同僚として仕事をして行く上でも信じてくれたら嬉しいんだけどな」
「……分かった」
「誤解だって、分かってくれたか?」
「うん。スレイマンはそう言う事・・・・・を持ち掛けてこないって、一応信用しておく」
「よし、じゃあ誤解が解けたところで突っ込んだ話をするぞ?さっきも聞いたけどヴォイド、風呂に入ってるか?」
「何で?」
「いや、あのなぁ……」
 ここで初めてスレイマンはヴォイドに匂いの事を指摘した。しかし、ヴォイドは矢張り首を傾げるだけだった。
 この時の事を思い出してスレイマンはげっそりした顔になる。年齢にそぐわない、死地を経験した戦士の眼力になったかと思えば生まれたての子山羊のように無垢な瞳で首を傾げる時もあるヴォイド。知っている事、すぐ理解出来る事に波があると言うのが彼女の、ひいては岸壁街の現実を表している様でスレイマンは改めて「住む世界が違う」と認識した。
「まぁ、でも…希望はある。ヴォイドはあんなしてるけどあれで…きっと言えば分かる子だと思うから」
 スレイマンの発した言葉にアペルピシアが「ふふ」と声を上げて笑った。
「スレったら随分肩入れするのね」
「そんなんじゃないさ。ただ何だか…不思議と時折物凄い子供に見て…放っとけないと言うか…」
「あら本当かしら?」
「エル。揶揄うのやめてくれよ」
「まあまあお二人とも。仲良き事は美しきかなですが、仕事終わりにお願いしますよぉ」
 アキヒロの仲裁にアペルピシアがほんのり頬を赤くしたところでこの場に居た医者達の休憩時間が終わる。ちょっと嫉妬してるエルも可愛いなぁとスレイマンは思いながら、それでもヴォイドとアペルピシアが同僚として打ち解けられないかとも思った。
 彼女の浮世離れしたあの感じ。
 大事にしてくれる誰かがこの結社に居てくれたら或いは──……。

 * * *

「ヴォイ姐ー?ヴォイ姐ー?大丈夫ー?」
 大浴場に着き、ヴォイドは周りの見様見真似で同じ様に行動してみた。
 一方、「私蒸し風呂入った事無いんだよー!!」と言っていたヒギリだが、実は「結社の・・・蒸し風呂に入った事が無い」と言うだけで蒸し風呂自体はよく入っていたらしく、彼女は慣れた様子で風呂を楽しんでいた為ヴォイドは勝手に裏切られた気持ちになった。
 自分以外初心者は居ない。岸壁街でも確かに硫黄の匂い漂う──つまり成分的に温泉であろう水が出ていたのは確かなのだが、それを湯船に溜めて飛び込んでいただけなので正しい風呂場の作法なんて知らない。しかし、ここでヘマをすれば追い出されるかもしれない。
 ぐるぐるぐるぐる思考を巡らせ色々と考えながら風呂に入るヴォイド。頭の中で考え事をしながらヒギリと一緒に蒸し風呂に入ったヴォイドは、考え過ぎもあってかものの数分で顔を真っ赤にして茹で上がってしまった。気付いたヒギリが慌てて彼女を連れ出し、風通しの良い場所に寝かせると一応ばさばさとタオルで風を送ってやった。
 ヴォイドは朦朧とする頭を抱えながら、それでもヒギリに対しては恨み節が全開だった。
「……嘘つき」
「え?何が?」
「入った事…あるんじゃないか…」
「え!?あ、蒸し風呂の話!?だってカンテ国の主流だもん…入った事ないって言ったら『ここの』でしょ…」
「カンテ国の主流とか…私知らない…」
「うーん…?ま、まぁ良いや。それよりヴォイド姐さーん、大丈夫ー?」
「あんまり大丈夫じゃない…」
 露天の方に移動すると長椅子に座り、横に寝かせたヴォイドの頭を自分の膝に乗せてやる。さわさわと頬を撫でる風に少しずつ火照りが引いていくのを感じながら、気が付けばヴォイドは無防備にも眠りの世界に誘われて行った。
 こんなに安心して人の傍で眠るのって何年ぶりだろう?
 ふとそんな感想を抱いた彼女の脳裏に浮かぶのは、砂色の長い髪の毛か黒く真っ直ぐな髪の毛か──……。
「…素っ裸のまま寝ちゃったよ」
 ヒギリは誰に聞こえるでもなくポツンと呟く。すやすやと寝息をかく無防備なその人は、ヒギリの膝を枕にしたまま気持ち良さそうにしていた。
 さわさわと頬を撫でる風。今は火照りを引く程度に感じられるから良いものの、これが寒く感じられたら完全に湯冷めだ。それまでには起こさなければと思いつつヒギリはふと冷静になった。
 岸壁街の出と言うだけで警戒する人は勿論いる。ジュニパーの様にあからさまな嫌悪を示す人間もいる。しかし、岸壁街の出と言うだけで警戒される理由は残念ながら岸壁街側には確かにある。カンテ国はお互いの価値観に踏み込みすぎないようにしており暖かくもさっぱりしている人柄の人が多いのは事実だが、身の危険を投げ打ってまで人に親切にする愚か者などいるわけがない。
 ある程度出自などの情報から相手を警戒するのは当たり前の事で、警戒の度合いが強いのは「岸壁街の出」と言う要素が彼女にあるからだ。
 岸壁街の出。それを聞いて警戒しなかったかと聞かれれば「はい勿論です!」なんて言葉は嘘になる。そんな人を人気者にするまでは行かないにしろ周りと溶け込める様にするだなんて無謀な事を考えるものだとも思う。それでも彼女を一般の人の輪に入れようと考えたのは、正直ヴォイドがヒギリにとってかなり魅力的な女性に見えたからだ。
 だから彼女を出自のハンデを超えて皆に溶け込ませたかった。
 自分が今まで見て来た中で一番魅力的な女性、ソフィア・マーテルを彼女のマネージャーが見出した様に。自分によって磨かれる人と言う存在にヒギリは少しだけ憧れがあった。
 彼女ソフィアは、自分が居ても居なくても輝いていた人。散々グループ内外から腰巾着の様な扱いを受けていたが、一体自分がソフィアと居る事でどんな恩恵を受けたと言うんだ。ソフィアがどんなに「ヒギリが居てくれて良かった」と言っても、周りはそれを認めない。周りからしたらただただソフィアに付随しているだけに過ぎない。誰も「ヒギリのおかげでソフィアの気持ちが楽になった」なんて言ってくれない。ソフィアがソフィアでいられたのはヒギリが居たから、ヒギリが居てあげたから・・・・・なのに。
「………違う…違うよ…」
 ともすれば、ソフィアをまるで自分に依存していた存在の様に思い、『自分が居てあげたから』などと厚かましくも思える言葉が頭を過ってしまうのはきっと嫌な湯の当たり方をしたんだ。
 私とソフィアは友達。お互いが持ちつ持たれつだったじゃないか。例え周りが「ただローズが寄り付いていただけ」と見做しても、ソフィアは私を必要としてくれた。
 私とソフィアは友達。ソフィアは戦友で、悩みを打ち明けられる姉妹の様な子で、超えられない壁で、隣に並ぶには大き過ぎる存在で、全てを持って行ってしまうかもしれない化け物の様な──……。
 あの・・ソフィアが唯一弱音を吐けたのが、唯一涙を見せられたのがヒギリだけだって、どうしてそれを知っているのがヒギリだけなの?どうして周りはそれを知ろうとしないの?
 頭が痛い。自分の中の嫌な部分を晒して追求するのは本当に、頭が痛くなる。
 私が「ソフィアに依存されて嬉しかった」と思っていたなんて、「あのソフィアが頼ってくれる事に優越感を抱いていた」「それを周りにも認めてもらいたかった」なんて、そんな嫌な自分を知るのは嫌いだ。
「あ、あの…大丈夫ですか?」
 優しい声音に顔を上げるヒギリ。目の前では可愛らしい少女が濡れた髪を纏めながらこちらを見ていた。惚ける頭で色々考えられず、特に何を言うでも無く微笑んで適当に相槌をしたが、少女はそれを見て一大事かと思い余計に突っ込んできたのだった。
「本当に大丈夫ですか!?もしかして湯当たりかな…?あ、私!一応医療班所属なので何かあったらいつでも言ってください!!まだ入ったばっかりですけど頑張ります!!」
 面接にでも来ているのかと思う程に不思議なやる気に満ちたその少女の勢いにヒギリの中のドス黒い何かが掻き消される感じがした。
「…ありがとう。私、大丈夫だからね。ちょっと長風呂し過ぎで湯当たりしちゃったから風に当たってぼーっとしてただけなんよ。こっちのお姉さんは完全に伸びてるけど」
「あれ?ヴォイドさん?」
「え?知り合い?」
「はい!私、ヴォイドさんと同じくらいに結社に入ったんです!同じ医療班で、ミア・フローレスって言います!」
 少女──ミアは眩しい程の笑顔でそう口にする。ヴォイドに対し警戒するでも無く、変に距離を取る様な言い方をするでも無く、むしろ好意的に見てくれるミアの様な存在が彼女に居るのかと思ったヒギリはホッとした気持ちの傍でドス黒い感情がどろりと蠢いたのも感じた。

はなのようなかのじょ

 ミア・フローレスはヒギリにとって非常に話しやすい少女だった。ヒギリの好みのブランドも知っている様だし、年相応にお洒落にも気を遣っているミアはヒギリからしてみればヴォイドより話しの合う相手だった。
 ミアはヒギリの顔色の悪さを見て声を掛けてくれたらしいが、ヒギリが特に体調に異変を来していなかったのでその後は世間話に花を咲かせた。ミアにとってもヒギリは話しやすい相手だった。
 不意にそれとなく、ヒギリはミアにヴォイドの事を聞いてみる。一緒に仕事をしていたと言うのだが、ヴォイドの匂いは気にならなかったのだろうか。
「え?ヴォイドさんの事で気になるところ?」
「う、うん…何か変わった事と言うか、何か変なとこ無いかなー?って…ほ、ほら!ヴォイ姐ってさ、この通りちょっと協調性無さそうじゃんね!」
「えーっと…うーん、ごめんなさい。私はよく分からないです…」
 しかしミアの反応から察するに、風通しの良いところで少し距離を空けていればヴォイドの事は気にならないらしい。ヒギリはミアの様な子もいる事に驚きつつさり気なく話題を変えながら色々な話をした。ヒギリにとって一番楽しく一番盛り上がったのは、ミアと交わした『恋バナ』だった。
「あー…!分かるー…!サオトメさん、絶対優しいよねー…!何してても『大丈夫か?俺がやろうか?』って絶対一回は言ってくれそうー!!」
「ですよねー!そう言えば、食堂のシュニーブリーさんもクールな感じですけど、優しそうですよね!」
「優しいのかなぁ…?私避けられてるみたいでまだ良く分からんのよ…」
「え?避けられてる?」
「そうそう。何かねー…騒がしい女は嫌いなのかもしれんよねぇ…」
「そっか…私も結構声が大きい方なのでうるさいと思われちゃうかもしれないですね…」
 余談ではあるが、どこの班とも満遍なく接点のあった筈の給食部。そのエミールに春が来ない一番の理由がこの「声の大きいヒギリに一見無愛想にも見える接し方をしてしまった」事にある。と言うのも「避けられている」と勘違いしたヒギリが周りに相談した事によって意図しないネガティブキャンペーンの様な物が発生してしまったせいであった。
「それより、ミアちゃんはどうなの?高校生でしょ?彼氏さんとか居たりするの?」
 嬉しそうにそう聞くヒギリにミアはへにょりと眉を下げる。よくある話で元彼は先輩であり、彼の卒業と同時に終わってしまった恋の様だ。
「へぇ…そう言うの本当にあるんだねー…」
「はい。でも、短かったけど楽しい時間だったので!私はとても嬉しかったんです!ヒギリさんはそう言うのありますか?」
「え!?わ、私!?あー……あったり無かったりするんよ……」
「やっぱり!?ヒギリさんのお話も聞かせてください!私恋のお話聞くの大好きなんです!」
「そ、その内ね!!」
 ちょっと寒くなって来ちゃったから後でもう一回お風呂行こうかなー?等々、それっぽい事を言って誤魔化すヒギリ。今度ミアとゆっくり喋る機会を作るまでに電脳世界で漫画や本、歌詞等で予習しておかなければ全く未経験だと言う事がバレてしまう。
 そんなヒギリの心配なぞ露知らず、ミアは少し俯くと何かを考え込んだ。ヒギリがどうしたのかと覗き込むと、ミアは不安そうに顔を上げた。
「ちょっと相談なんですけど……うんと年上の男の人って、どう思いますか…?」
「え?ど、どうって何かね…?」
「ヒギリさん、年上の人を好きになったりした事ありましたか…?」
 それならぼかしぼかしなら話す事が出来るのではないか?と思ったヒギリは、「これはバイト先の友達の話なんだけどね!」と前置きした上で誤魔化しながら話を進める。ヒギリがかつて片思いをしたエルッキは自分より少し歳上だったので参考になればと思ったのだが、話を聞くにミアの憧れの相手はヒギリの想像より遥かに上で一回りも離れていたのでヒギリは思わず腕を組んで考え始めてしまった。
「ひ、一回りかぁ…!」
「えっと…ま、まだ好きって言うかその、格好良いなーって憧れてるだけって言うか…」
「いやいやいや!ミアちゃんの態度見てれば分かっちゃうもん。ミアちゃんのそれは恋なんよ」
「え!?こ、恋なんですかね…!?」
「でもミアちゃんの十二歳上って事は…もう三十手前かぁ……三十歳?三十って…どんな感じの人なんかね…?」
 恋する女子を前に「なかなかおじさんじゃ無いの?」とは言えないヒギリはぼかしながら尋ねる。憧れの彼を思い出したのか、ミアは頬の赤みを隠す様に両手で頬を包むとキャーキャー黄色い声を上げた。
 腕を寄せるその動作を取った際胸に谷間が出来た事に目敏いヒギリは気付く。羨ましさからか若干座った目になるがミアは気にする事なく口を開いた。
「か…格好良い人です…!!」
「ほーん」
「クールで、知的な感じで……あ!でも会話すると分かるんですけど声の感じが優しいんです!どんな時だってちゃんと目を見て話してくれるし…すっごい安心感のある低い声で、でも優しい穏やかな感じと言うか…!」
「……ミアちゃん、その人の事大好きじゃん…!!」
 しかしミアは瞬時にへにゃりと眉を下げると俯いた。彼女のころころ変わる顔色からやっと「うんと年上の男の人って、どう思いますか…?」と言う言葉にどんな不安を含ませていたか理解したのだった。
「……二十九歳の男の人からしたら…十七、八歳って子供ですか…?」
「あー……そう言う事か…」
「ヒギリさん…どう思いますか…?」
 エルッキは『自分ヒギリに好かれている』と分かった瞬間からあからさまに自分と距離を置いた。彼は当時歳上の彼女と交際していたし、きっと歳上好きで自分の様な年下の子供は恋愛対象にしないのだろうと。
 しかしその数年後、週刊誌で彼の名を再び目にしたヒギリはやるせない気持ちになった。それは、エルッキがソフィアに好意を寄せしつこく迫っていたと言う見出しで、あんなに優しくしてくれたのに結局ヒギリには恋愛感情を向けなかったエルッキが彼女より歳下のソフィアには好意を寄せていたと言うものだ。
 きっと歳下だからダメだったのだと諦めを付けたヒギリにとって「やはりソフィアならば話は別なのだ」と思い知った件だった。
「……その人がその男の人にとって魅力的ならきっと年齢は関係無いと思うんよ…。身近にそんな感じで歳の差のある人っておらんの?」
「うーん…あ!パパとママが十五歳差です!」
「いや、一番身近に居るんよ!成就した人が!」
 でもそれなら自信持って良いじゃん!と続けると、ミアは少し恥ずかしそうにはにかむ。ヒギリはそんな彼女の様子を見て不意に冷静になった。
 ミアは似ている。ソフィアに似ている。屈託の無い表情も、人の気持ちに一喜一憂する純粋さも。自分より後一歩人を疑う事の遅いソフィアに抱いた感情は嫉妬だった。ワンテンポ遅い彼女を引っ張っていると言う優越感に浸る一方で、周りが求めるのはこう言う純真さを持った人間なのだろうと焦る気持ちが渦を巻く。しかしソフィアに感じた焦燥感や嫌悪感をミアに抱かないのは、彼女との距離感があくまで同僚のそれで、ソフィアの様に中途半端に近くはないし目指すものも何もかも違う。
 昨日の友が今日の仇敵とは成り得ないミアの横で、特殊な職場で戦友として出会わなければソフィアとは本当に良い友達で在れたかもしれないのにとヒギリはミアにソフィアを重ねてそう思った。
「よしっ!!ヒギリさんに応援してもらえたし!私、ネビロスさんと仲良くなれる様に頑張ります!!」
「その意気なんよ!!ふぁいとー!!」
 ソフィアに似た優しい少女との不思議な邂逅。ヒギリは膝で寝ているヴォイドの事も忘れて彼女との会話に花を咲かせた。

 * * *

「あ…ミアちゃんに聞くの忘れたなぁ…」
 脱衣所で新しい服に着替えながらヒギリは呟く。先程ようやくのぼせから復活したばかりのヴォイドはザラの用意した趣味でないスポーツブラとシンプルなショーツ、そして新品のTシャツとスキニーパンツを眺めて遣る瀬無い顔をしながら不思議そうに隣で声を上げたヒギリを見た。
「……ミア?って、誰?」
「……嘘でしょ!?ヴォイ姐と同じ医療班の可愛い子だよ!!」
「あぁ…あの子ミアって言うんだ」
「そう!そのミアちゃん!!惜しかったなー、ミアちゃんだったら絶対良い意見くれたのにー!」
「ミアが?何の?」
「ヴォイ姐に似合いそうな香り」
「……別に、そんなの洗濯ちゃんとしてれば良いんじゃないの」
「ちっ、ちっ、ちっ。甘いなヴォイ姐。柔軟剤の匂い付けじゃ限界があるの!それに、清掃部の人達がやってくれるのだけ頼りってつまりそれはあれだよ、『その辺無頓着の人と皆同じ匂いになる』って事だよ!」
 まだヒギリによる香りプロデュースは続いていたのか。ヴォイドは少しうんざりした顔をする。しかしヒギリはお構いなしに話を進めた。
「下手したらおじさんと同じ匂いになるかもしれないんだよ!?おじさんと!!」
「……何故おじさん」
「マルフィ結社の中だって、皆が皆ベルナールさんみたいにダンディーじゃ無いんだよ!?中にはちっさかったりお腹ぽよんってしてたり、下手したら頭つるんぴかんっ!みたいな人も居るかもしれないじゃん!」
「おじさんと言う生き物への風評被害が凄い」
「もー…!ヴォイ姐美人だしスタイル良いんだから!!そう言うところまで気を回したら絶対人気出るのに…!!」
 ヒギリの目的が何だかヴォイドは分かっている。おそらくそれは自分を人の輪の中に溶け込ませる為。そして、そうする事でおそらくマルフィ結社の中で人間関係が円滑に行くと言う事も。しかし自分は岸壁街の人間。全てが終わったら岸壁街、あるいはそれに準じた世界に戻るのだろうとも思っている。
 だから、私には意味がない事の様に思える。ヴォイドはそう小さく呟いた。
「ん…?」
 しかし、ヴォイドはひくひくと鼻を動かし目をキョロキョロさせる。ヒギリの行動を自分にとって無意味な事だと断じた直後だと言うのに、ヴォイドは惹かれる匂いがある事に気が付いた。
「それ」
「え?」
「私、それが良い」
「それって…え!?これ!?」
 それは、いつもベリー系の甘い匂いを好んで纏っているヒギリが『たまには違う匂いも!』と、新境地開拓の意図で選んだ新しいものであった。

やはりかのじょはあらしににている

 納得行かない。
 ヒギリはそう言わんばかりに小さく口を尖らせる。
 温浴に行って脱衣所で着替えをしていた時にヴォイドが『この匂いが良い』と急に言い出したそれは、ヒギリがドラッグストアデラックスで店員と仲良くなり何となしに貰ってきたサンプルである。少し開けた瞬間から香ってくるその香りにヒギリもうっとりしたのだが、まさかヴォイドがこんなに喰らい付くとは。
 しかし無頓着なヴォイドが興味を持ってくれると言うのは願ったり叶ったりだ。そう思ったヒギリは少し考えた末にまだ開けたばかりのサンプルをヴォイドに譲った。
「これ、何の匂い?」
「それはムスクとかアンバーがベースだって言ってたかな…トップとミドルにお花が使われてるからフローラルだけど」
「むすく?あんばー?とっぷ?ふろーらる?」
「…要は大人っぽい香りなんよ。でもキツいタイプの物じゃない優しい物だから多分、万人受けする香りだと思うよー」
「ふーん……」
 しかし、ヒギリにとっても予想外だったのはヴォイドが意外と凝り性だと言う事。下着以外特に金の使い道の無かったヴォイドは、新しい下着を買って残った今月分の給金をこの『気に入った匂い』にあてがい、早速ボディミストとファブリックミスト、そしてシャンプーとトリートメントを購入した。驚く事に全て同じ匂いである。
 清掃部のメンバーの協力と本人のやる気でヴォイドの部屋は瞬く間にあのニオイの元だった部屋を生まれ変わらせ、きちんとしたシャワーの浴び方を覚えたヴォイドから漂うものもかつての異臭ではなくこのふわりと上品に香る花の香りになった。
 匂いと言うのは人の印象を左右するもの。
 やる気を出したい場面、ぐっすり眠りたい場面、各々で香りが精神面のスイッチの様に利用されている辺り人間が匂いから得る情報に感情を揺さぶられると言うのは大袈裟な例えではないのかもしれない。

 * * *

「あ、あの…ホロウさん。お隣良いですか?」
「良いけど」
「あ、じゃあ俺前座っても良いですか?」
「良いけど」
 彼女と言う『花』に釣られる男性の多い事多い事。身に纏っていた異臭の影響で彼女に見向きもしなかった彼等が、纏うのが良い香りに変わったヴォイドを今度は蜜を求める虫が花にたかるが如く有り難がり始める。
 ヒギリはこの予想外の事態にじっとりとした目をせざるを得なかった。
「………花は花でも、例えるなら食虫植物なんよ」
 ぼそりと呟いたヒギリ以上に苛立ちを露わにしたのは、いつから背後にいたのか分からないジュニパーだった。
「本当何なの、あいつ」
「………」
 心中お察しする。
 と、ヒギリが何故考えたかと言うと、ジュニパーはつい先日一緒に結社にやって来た恋人と別れたばかりだからだ。
 ヒギリの目論見通り、良い香りを纏い身綺麗にしたヴォイドは岸壁街の出でありながらたちまち受け入れられていった。主に男性に。
 彼女を受け入れた男性と同じ熱量で彼等を受け入れるか否かと言うと当たり前の様に否なのだが、異臭ではなく優しい香りを纏うヴォイドはただでさえスタイルも良く普段際どいランジェリーを好んで着ていると言うのもあり男性の目を惹く存在となっていた。同じタイミングで機械人形のネリネのクーデレぶりが一部男性のフェチを刺激した話で盛り上がったのだが似た性質のヴォイドの人気に火が点くのはこの流れでは当たり前と言えば当たり前となった。
 が、同時に女性の反感を買う様になっていってしまったのは至極単純で、恋人のいる男性もフラフラと彼女に靡く様になってしまったからである。
 その中に、ジュニパーの彼氏も居た。
 尤も、ジュニパーはジュニパーで彼の事はとりあえず傍に置いてやっていると言わんばかりの言い方で常日頃周りに触れ回っていたのでヒギリはそれはそれであまり気持ちの良いものではないと思っていたのだが。
 素敵な人が居たらすぐにでも乗り換えるんだけどなー、と零していたジュニパーがまさかの彼の心移りで別れてしまったのだ。数日ジュニパーは荒れに荒れ、ヒギリは猛烈な八つ当たりを喰らったのは言うまでもない。
 彼女からしたら青天の霹靂だっただろう。自分が選び、進退を決める立場にいると思っていたのに、「他の人を好きになった」と言う彼に関係を終わらされてしまったのだから。
「あーあ!岸壁街出身者なんて一人残らず消えて欲しいわね!結社も結社よ、何であんな得体の知れない奴らなんて雇うのかしら!」
「…………」
 とうとう『Q』と言う隠語も用いなくなり、あからさまに文句を言い始めるジュニパー。しかし、ヒギリも「気持ちは分からなくはない」と思ってしまっているし、実際ヴォイドがここまで変わるとも思わず少し困惑していた。
 岸壁街出身者とは言え、ちゃんと地上の人間達に溶け込めると言う事が分かった。そのきっかけはおそらく何でも良いのだと言うことも。しかし、主に男性に受け入れられ過ぎて若干サークルクラッシャー状態である。
 そうなった今、果たして自分のやった事は正しかったのかと急に自信が無くなってきた。ジュニパーの様に「恋人を盗られたから」と言う明確な理由では無く、「好きな人が急に岸壁街の女ヴォイドを好きになったと言ったから」と言う八つ当たりもいいところな理由でヴォイドを敵視する女性メンバーも居た。
 どの部署の人間も利用する食堂で働いているからこそ見えてしまったもの。ヒギリは今更ヴォイドに「やっぱり香りに興味持つの辞めて」などと無茶苦茶な要望をするわけにもいかず、胃の痛い日々を過ごしていた。
「本当あの女…スタイルしか自慢無いんだから大人しく岸壁街で娼婦でもしてれば良いのに…!」
 今日も今日とてジュニパーのイライラが朝から最高潮で胃が痛い。ヴォイドが元々岸壁街でしていたのは医者であり娼婦ではなく、無免許とは言えその知識は医療班の現役医師を支えるのに充分らしいよ、などと言う戯言は火に油に決まっているから言えないし。
 せっかく仲良くなれたヴォイドを悪く言うのは聞きたく無いから言い返したいがそれをやったら今度は職場が居心地の悪い場になる可能性もある。アイドル時代のあの殺伐とした空気を浴びるのはもう懲り懲りだ。悶々とした想いを抱えながら彼女らしからぬ少し沈んだ表情で受付をこなしていると、『その人』は食券を出しながら自分の手につんと触れた。
「よぅ、ヒギリちゃん。最近元気無くない?」
 汚染駆除班のテオフィルス・メドラーがそう言いながらヒギリの手を優しく触る。
 …え?何でこの人私の手触ってるの?と思いながら警戒したヒギリが手を引っ込めると優しく微笑むテオフィルスと目が合った。
「やっと目ぇ見た。ここ数日、ヒギリちゃん結構下向いてる事多かったよな」
「え…?下…?私そんなあからさまに向いてたかなぁ…?」
「向いてた向いてた。何?何か嫌な事でもあった?」
 そう聞かれてどう答えようかと思っていたその時、後ろでノエとネリネを相手にジュニパーがまたも岸壁街出身者の悪口を言い始めた。ジュニパーは、悪口を聞かされても顔色を変えない機械人形達を最近もっぱらメインターゲットとしているのだ。ぎょっとしたヒギリが更に慌てたのは、テオフィルスが岸壁街出身者だったと思い出したからだった。しかしテオフィルスを見ると、当の本人はただ苦笑いを浮かべるばかり。
「なるほどな」
「うぅ……ごめんなさい……」
「何でヒギリちゃんが謝るんだよ。でもまぁ、俺はともかくヒギリちゃんがずっと下向いてる状況になるのは良くないよな」
「…え?テオフィルスさん、どうするの?」
「ん?とりあえずちょっと受付代わってくれねー?おーい、ジュニパーちゃん!ヒギリちゃんここ分かんねぇって言うからちょっと変わってくれねーかなー?」
 そうしてヒギリでは無くジュニパーに自分の受付に当たる様に頼むとヒギリに「大丈夫だから」と耳打ちし、他の受付に当たる様に促す。
 言われるがままヒギリは隣の列に移動し、テオフィルスの後ろに並んでいた別のメンバーの対応に当たった。
 テオフィルスの後ろはいつの間にか注文待ちのメンバーがずらりと列を成しており、ヒギリは慌てて業務に当たる。しばらくしてヒギリがやっと並んでいた全員を捌き切った頃、やっとテオフィルスはトレーを持ち、ゆっくりと受付から離れた。
 いや、遅くない?と若干不思議な顔をしたヒギリだったが、テオフィルスの来る前と離れた後で劇的に違う事が一つあったのだ。
 それは、ジュニパーの機嫌だった。
「あ、モナルダさん。次からメドラーさんが来た時私に回して?」
「へ?あ、あぁ…じゃあやれるだけね、やれるだけ…」
「『次』から、『私に回して』ね?」
「…だから、『やれるだけ』ね」
 互いに念を押す様に強めに主張し合う。しかしつい先程までならそんな事を言おうものなら不機嫌をあからさまに見せ付けていたジュニパーが何も言わずに持ち場に戻ったのだ。テオフィルスは一体何をしたのだろう?と彼の後を追ってみる。彼は足を痛めているのか少し引き摺りながらゆっくり歩いていた。
「あ、あのぉ……持ちますよ?」
「お!ヒギリちゃんありがとな!俺、足がちょっとさ。飯こぼしたらやべぇからゆっくり歩いてたらいつまでも机まで辿り着けなくてさー」
「いえいえ!痛めたりしちゃったんですか?」
「いや……もう無ぇんだ。テロで」
 その言葉にヒギリはぎょっとしながら目を動かす。少しゆったりした長ズボンの上から見る分には、テオフィルスは足こそ痛めてそうでも健常には見えるのだが。
「……今の技術はすげぇよな。こんな分かりづれぇ義足造るんだからさ。まぁ、機械人形の出来見りゃ当然っちゃ当然か」
「そ、それは…ご不便ですね……」
「あぁ、変に畏まらないでくれよヒギリちゃん。気にしないで今まで通り接してくれ。俺は足無い事、受け入れ始めてはいるからさ」
「は、はい…」
「ま、見掛けたら席までプレート運ぶ様な手伝いはしてもらえたら嬉しいかな。溢すリスク無くなるのは有難いし、俺としても可愛い女の子と一緒にいる時間が延びる方が健康に良い」
「あはは、何ですかそれー?」
 その時ヒギリは、はたと我に返る。そうだ、ジュニパーに一体何を言ったのだろうか。おずおずとテオフィルスに聞くと、テオフィルスは顎に手を当て何かを考えている様だった。
「俺は慣れてんだよ。岸壁街出身だからって色々言われるの。でもさ、相手が何であれ何かを悪く言ってる時の人の顔ってさ、申し訳ないけどすげぇ顔してんだぜ?」
 こっそりテオフィルスはヒギリにそう呟き、指を使って自分の眉間に無理矢理皺を寄せてみる。ヒギリは思わず笑ってしまったが、悪言を口にする人間の顔の醜さと言うのは見覚えがあった。
「そんな顔してたら女の子の可愛い顔なんて台無しじゃねぇか。だからジュニパーちゃんが笑顔になりそうな事言っただけだよ」
「笑顔になりそうな…?」
「ヴォイドの事褒めて、でもその後うんとジュニパーちゃんを褒めちぎる。そうするとさ、前後の話に本来関係はない筈なのに、比べられてヴォイドよりも褒められた気分になるだろ」
「あぁー……なるほど」
「別に、ジュニパーちゃんに対してだって思った事並べたのは事実だよ。ただ、ヴォイドを褒める言葉より少しばかり実際に口に出す量を多くしたってだけ。嘘は吐いてねぇし誰の事も悪く言ってない。誰も傷付かず解決出来るならそれが一番だろ?」
 な?と笑うテオフィルスにヒギリもつられて笑い出す。こそりと耳打ちして来たテオフィルスが「最近のヴォイドの方が褒めるとこ多かったってのはジュニパーちゃんにはくれぐれも内緒で頼むぜ」などと口にしたものだからヒギリはとうとう噴いてしまった。
「あはは…何にせよモンクスフッドさんがこれ以上色々言わないでくれるなら良いな…」
「あぁ。俺も『そうであってくれ』と思ってね。そしたらヒギリちゃんも下向かなくて済むしジュニパーちゃんも前向きな話してられるし、皆良い顔してられるだろ?」
「へへへ……そうですね…」
 少々軟派なやり口だが効果は覿面で、ジュニパーがヴォイドの悪口を言いそうな空気を発し始めてもテオフィルスが来ればころっと笑顔になる。そんな風になったジュニパーにほっとしつつ、彼の人柄を見たヒギリは改めて胸の高鳴る感じがした。
 実は、以前からその独特な髪型に目を奪われ、食べ方の綺麗さを見てからヒギリは完全にテオフィルスのファンになっていたからだ。まさかジュニパーがきっかけでこんなお近付きになれるだなんて。
 数日後、ヴォイドと一緒に昼休憩に入れたことから同じテーブルで向かい合わせに食事を摂った際、ヒギリがぼそりと呟いた『テオフィルスさんって格好良いよね』の一言をヴォイドは何の気無しにさらりと拾い上げた。
「『テオ』って呼んだ方が良いと思う。多分その方が喜ぶ」
「あ、そっか!うん、今度からそうしよ……え!?ちょっと待って!?ヴォイ姐もしかして知り合い!?少し前に言ってた『胡散臭くてキザで割と常にエロくて後ろから揉むのが好きな癖に正常位じゃ無いと嫌な奴』って…ま、まさか…まさかテオフィルスさんの事……?」
 慌てた様にガンッと音を立てて机を鳴らしてしまったヒギリを煩そうに目を細めて見たヴォイドは通常の約二人前のピラフをせっせと口に運びながら「違う」とあっさり否定したのでヒギリはほっと胸を撫で下ろした。
「テオは小さい頃同じところにいたからよく一緒に色々やってた。それだけ」
「つ、つまり幼馴染…?」
「うん、まあね」
「えぇ……!!良いなぁイケメン幼馴染…!!」
「………本当お前、単語聞けばそれだけですぐ羨むよね。本当単純。単純の助」
「ちょっと待ってヴォイ姐。何そのネーミングセンス」
「うるさい『の助』」
 ヴォイドの中でヒギリのあだ名がさり気なく『の助』に決まったところで思わぬ来客がドタドタと飛び込んで来る。ヒギリを押し退ける様にしてヴォイドの真正面に突っ込んで来たのはジュニパーだった。
「えぇっ!?ホ、ホロウさんってメドラーさんと幼馴染なの!?」
「お前誰?」
「え!?え!?メドラーさんの子供の頃ってどんなだった!?」
「だからお前誰?」
 押し退けられながらも何とか昼食を死守したヒギリは額に青筋を浮かべながら席を正す。ジュニパーの勢いに苛立ちながらも、あんなに邪険にしていた筈のヴォイドへの彼女の接近っぷりにむしろ乾いた笑みが溢れた。
 あんなに悪く言っていたのに自分にとって有益な話を持ってると分かった瞬間擦り寄って、現金だなぁ。
 しかし、テオフィルスの対処の仕方や今目の前の光景を見るに一つ分かったのは、ジュニパーは気難しい様で意外と単純だと言う事だ。
 聞かれるがままテオフィルスの事を話したヴォイドに満足したのか、あんなに邪険に扱っていた筈のジュニパーは最後にはヴォイドに笑顔で手まで振って離れて行く。その意外な姿を見、残されたヒギリは唖然とした。
「……で?結局あいつ、誰?」
 結局名乗ってないのかよ。
 現実に引き戻されたヒギリは彼女がジュニパー・モンクスフッドと言う名前で給食部の人間だと教えてやった。ヴォイドはさして興味無さそうに「ふーん」と呟くとまたピラフを口に運ぶ。
 ジュニパーのヴォイドへの当たりの強さが収まると、彼女に影響されてか他の女性メンバーも矛を収める様になった。ジュニパーは変な意味で影響力が強い。あれだけ邪険に扱っていた癖に、食堂で食事を待ちながら並ぶ女性にいけしゃあしゃあと言ってのけるのだ。
「ちょっとー、あんまりホロウさんの事悪く言わないでよー」
 などと言う事を。
 全くこの手の平スクリュー返し、本当に苦手なタイプの人間だなと思いつつ、むしろそう言う方向に連れて行ってしまうヴォイドがさり気なく凄いのだろうか?と色々考えたりもした。
 そんなヴォイドは相変わらずヒギリから奪って行った香りを身に纏って生活をしている。もっとも、医療班の仕事では『匂いを気にする人がいるかもしれないから』と香水はダメだと言われ、今彼女の部屋で活躍しているのはルームフレグランスとシャンプーらしいが。

「……ヒギリさん、ヴォイドさんの何が『気にならないか』って聞いて来たんだろう…?」
 ヴォイドがやっと屋内での勤務になった時、ミアは彼女と近い距離で会話をする事が増えたがその頃にはヒギリの言わんとしていた事はもう分からなかった。
 今の彼女は、ミアも好きだと思う香りを纏った年上のお友達。ただそれだけだったのだから。
「それにしてもヴォイドさん、良い匂いですねー!!私それ好きです!」
「あ、本当?」
「はい!」
「……やっぱ好きって言う人多いんだね。この間ネビロスにも『良い匂いですね』って、匂いだけは褒められたから」
 誤解なき様に言うと、ネビロスは確かに香りが分かるくらい近くに寄ってはいたがそれは棚と棚の隙間と言う狭い通りでヴォイドに場所を譲った時に香ったと言う話で、尚且つヴォイドから
「私、最近変な匂いしないでしょ?」
 と香りについて話を振ったから
「確かに、最近は良い匂いですね」
 と感想を返したと言うだけであり、彼は無遠慮にパーソナルスペースまで踏み込んでわざわざ香りを精査して行ったわけでは無い。
「……え!?ネ、ネビロスさんが…!?」
 しかし、言葉足らずのヴォイドの所為でミアは『誤解なき様』に言いたかった部分の誤解を当たり前の様にした。とは言えそこは恋する乙女、仮想ネビロスの愚行を嘆くのではなく、自分も同じ様に近くに寄って来て褒めてもらえる様に何か頑張ってみよう!と決意を新たにするのだった。
「……本当自覚無い嵐なんよ、ヴォイ姐は」
 そんなミアからの話も聞き、ジュニパーの手の平返しも垣間見たヒギリはヴォイドの事を早々にこう称した。
 一度『こう』だと思ってそちらに傾くと周りの人間もそのペースに巻き込んで連れて行ってしまうところがヴォイドにはある気がする。
 だから矢張り彼女は、嵐に似ている。
「あーあ…新境地開拓って思ったけど…やっぱり私はもうしばらくベリー系かな?」
 ディーヴァ×クアエダムの頃から愛用している香水を今更返るのも何か違う気がするし、と前向きな続投となったヒギリ愛用の香水。当たり前の様にヒギリが使っていた為に誰も褒めてくれていなかったのだが、唯一彼女の香りを褒めてくれた人間がその日、ヒギリの担当した受付に食券を持って並んでいた。
「あ……良い匂いですね。オレ、ベリー系の匂い好きなんですよ」
「え?あ…そ、そうなんですか?」
「ええ。美味しそうで、可愛い感じがするんです」
 戸惑うヒギリの目の前に現れたのは、どこかエルッキを彷彿とさせるふわふわの質感の、しかし今まで見た事もない様な甘そうな蜂蜜色をした髪の毛の青年だった。
 彼の甘い目線が若草色で、髪色と目の色に引っ張られたヒギリはこっそりと『あ、シトラスの香りもたまには良いかもしれない』と思ったりもした。そして香りと絡ませた事で、彼の事を忘れずよく覚えていた。
 その後、テオフィルスがこの青年と仲良くなったらしく彼と二人でよく食堂を利用する姿を見掛ける様になる。
 彼の名前はタイガ・ヴァテール。
 スーパーレコグナイザーであるが故か、この時既にヒギリの正体に気付いていた数少ない人物である。
 ヴォイドと言う『嵐』に『香り』で関わったからか、実はこうして色々な人の縁の絡みに自らも絡んでいたのだと後にヒギリは自覚したのだった。