薄明のカンテ - 碧落ゲファーレン/べにざくろ
 そこには永遠と続く青い空と海があった。
 そしてそれを輝く瞳で見つめ、白いワンピースとツインテールにしたサンドベージュの髪を海風に遊ばせる幼い少女が1人。
( これが外の世界…… )
 海沿いの坂道の中腹に立って飽きもせずに海と空を眺め続けてい少女の名前はテオフィルス・メドラー。
 外見だけは少女の姿をした、れっきとした13歳の少年だ。
 テオフィルスが暮らすのは、島の北の崖に張り付くように建っている岸壁街と呼ばれる貧民窟。そこでの生活に特に不満はない。健康な身体と、ちょっとした悪知恵さえあれば子供だって1人で生きていけるからだ。それでも、今回は子供ならではの好奇心でこっそりと外へ飛び出してみた。
 ちなみに彼が女の子の格好をしているのは仕事の為であり、彼の趣味ではないことを念の為、ここに記しておく。
( もう少し、遠くへ行ってみるか )
 好奇心に突き動かされて、青い空と青い海を眺めながら長い坂を上っていく。ほんの少し上っただけで、太陽が近くなった気がしてテオフィルスの顔に笑みが浮かんだ。そして坂を上りきってみたら、その先には色々と建物が見えて余計に楽しくなって笑みが深くなる。とはいえ残念ながら、ミクリカの地理が分からないので何となく人が沢山いる方を目指して歩いてみる。
「 すっげぇ…… 」
 『 中央通り 』と書かれた標識のあった通りでは、見たこともない店やその店で売る品物達に目を奪われて、思わず小さく呟いた。
 悲しいことに、買ってみたいが所持金は無い。思わず道行く人の財布でもスってしまおうかとも思ったが、あいにくテオフィルスにはスリの経験があまり無かったので渋々諦めることにした。ここが岸壁街ならば店から盗むという手もあるのだけど、ここでは難しそうだった。
 しかし、買い物が出来なくても見ているだけでも十分楽しかったので、店や通行人などをキョロキョロと見つめながら、ひたすらに歩いていると唐突に広場に出た。広場に設置されたベンチやテーブルでは人々が楽しそうに会話をしている。しかし、それよりもテオフィルスの目を奪ったのは綺麗な水が流れ落ちているだけの装置だった。
( どうなってんだ、これ。すげぇな、ミクリカって )
 その水の流れ落ちる場所の端には説明の書かれた小さな石碑があったので、その前を陣取って食い入るように見つめる。他に石碑に注目している人も、そもそも噴水( という装置らしい )に注目している人もおらず、外の世界ではこれは当たり前のものらしい。
 噴水の歴史がしっかり書いてある石碑は知識の宝庫で、テオフィルスは好奇心のままに読み続けていた。
( 成程な )
 読み終えて、一種の達成感を抱きつつ石碑から目を離す。
( ん? )
 自分の世界に没頭しすぎていて気付かなかったが、いつの間にかテオフィルスの隣には彼よりもずっと小さな男の子が立っていた。その子の、ふわふわの蜂蜜色の髪が日光に煌めいて眩しい。
「 こんにちは! 」
 男の子に、にっこりと笑いかけられてテオフィルスは思わず後ずさる。岸壁街でこうやって近付いてくる子供にロクな奴はいない。物乞いか、詐欺の下っ端だ。それか変な宗教の勧誘。
「 金は持ってねぇぞ 」
 追い払いたくて睨み付けるが、声変わりしていないテオフィルスの威嚇の効果は全くなかったようだ。テオフィルスがどんなに睨みつけても、男の子はにこにこ笑って彼を見つめている。
「 こんにちは! 」
「 うぜぇ…… 」
「 こんにちは! 」
「 何なんだよ…… 」
「 こんにちは!! 」
「 分かった分かった……こんにちは? 」
 テオフィルスが根負けして男の子が言う言葉を返すと、どうやらそれが望む答えだったらしい。男の子の笑顔が更に満面のものに変わる。
「 ぼく、タイガ・ヴァテール、5歳! お姉さんは? 」
( お姉さんじゃねぇんだけどな )
 心ではそう思うものの、ツインテールに白ワンピース姿では女にしか見えないかと思い返す。
 それに答えたくなかったが、このタイガという子供は答えないと会話が終わらないタイプだ。そう判断したテオフィルスは仕方ないので適当に名乗ることにした。
「 ミクリ 」
 安直に思いついた偽名を告げる。
 此処が『 ミクリカ 』なので『 ミクリ 』。別に苗字まで名乗らなくても、この幼児は怪しんだりはしないだろう。もし、苗字を聞かれたら……ケルンティアかカルラティ、ケレンリー辺りで良いかなんて思う。
「 ミクリお姉ちゃん! 」
「 ああ、もうそれでいいよ 」
 とりあえず、名前だけで十分だったようでタイガはテオフィルスの顔を見つめてニコニコと笑っていた。知らない子供に微笑みかける優しさを持ち合わせていないテオフィルスは、睨むのは止めてタイガに問い掛けることにする。
「 で? 何でお前はここにいるんだよ 」
「 パパとママとお姉ちゃんとお兄ちゃんを待ってるの! みんな、どっか遊びに行っちゃったんだ! 」
 えへへ、と笑いながらのタイガの発言だったが、普通の常識が備わっていないテオフィルスにもこの目の前で胸を張っているタイガが迷子であることは分かった。岸壁街で迷子になんてなった日には無事に帰れないものだが、外の世界ではそんなことは無いのだろう。その証拠に目の前のタイガに悲壮感は微塵もない。
「 ぼくね、ソナルトから家族で旅行に来たの 」
 何だか知らないがタイガに懐かれてしまったので、仕方なく広場にあったベンチに並んで腰掛けてタイガの話を聞くことにした。タイガの話は子供らしい、あっちこっちに話題が飛ぶ脈絡もない話だが、外の世界のことを知らないテオフィルスからすると、どれも新鮮な話だったので意外に面白い。ただ、聞けば聞くほど一点、気になる部分があった。タイガの言葉が途切れた瞬間を狙って、テオフィルスは口を開く。
「 なぁ、妙に名前多くねぇ? 」
「 なまえ? 」
「 そう、名前。店員とか運転手とか、普通そんなに覚えてるモンじゃねぇだろ 」
「 ぼくね、人の名前覚えるの得意なんだ。みんな、いつも驚くよ 」
 昨日食べた夕飯を言う位の軽いノリでタイガは沢山の名前を言えていた。得意、とかそういうレベルを越えているのではないかとも思うが、それを褒めるのは癪なので言わないでおく。
「 だから、ミクリお姉ちゃんのこともずっと忘れないよ 」
 タイガの一言にテオフィルスは苦笑した。仮に忘れないとしても、テオフィルスは岸壁街の人間。もう二度と会うことはないだろう。
「 そりゃ光栄だね 」
「 うん。ぜったいに忘れない! 」
「 ……そんなに人を記憶出来て、どうして家族を見失うのか理解出来ねぇな 」
「 見失ったんじゃないよ。みんなが勝手にどっか行っちゃっただけだもん 」
「 そーかい、そーかい 」
 そう言ったテオフィルスは無意識にタイガの頭を撫でていた。撫でられているタイガの若草色の目が真ん丸になってテオフィルスを見つめていて、それでテオフィルスは自分がしている行動に気付いて狼狽えた。
( 何で俺はこんなガキの頭なんて撫でてんだ? )
 慌ててタイガの頭から手を離す。それは庇護欲を掻き立てられたとか、そういう感情の発露だったのだけど、テオフィルスにはそれが理解出来なかった。
「 わ……悪い 」
「 どうしてあやまるの? 」
 それは、純粋な質問だった。しかし、何故撫でてしまったのかの理由すら分からないテオフィルスにその質問の回答は用意出来ず、言葉に詰まるしかない。
「 タイガ!! 」
 嫌な沈黙を破ったのは蜂蜜色の風だった。否、タイガと同じ蜂蜜色の髪をしたテオフィルスと同じ歳くらいの少年少女がタイガに抱きついてきたのだ。
「 お姉ちゃん! お兄ちゃん! 」
「 勝手にどこ行ってるのよ、この馬鹿!! 」
「 ごめんなさいぃぃいー !! 」
 家族に会えて安堵感が押し寄せてきたタイガの両目から大粒の涙が流れ落ちる。それを見て、タイガの家族が見つかってコイツから解放されると安心する反面、ガッカリする自分がいることにテオフィルスは気付く。
( いやいや、コレと離れられるんだから喜ぶところだろ )
 きょうだい3人が再会を分かち合っていると、同じ髪色の大人の男女が近付いてきた。それをタイガの両親と理解したテオフィルスは、3人と大人達と少し距離を取るように後退さる。
「 タイガ! 無事で良かったわ 」
 大人の女性―――タイガの母親が子供達3人を纏めて抱き締めている。
 テオフィルスが喪った母親の存在をその背中に見ていると、男性の方がテオフィルスに近付いてきた。
「 君がタイガを保護してくれていたのかな? ありがとう 」
 優しそうなタイガの父親にそう言われても、テオフィルスは何も言えなかった。スカートの裾をぎゅっと握り締めて、首を横に振るだけだ。
( 面倒見てた金でも貰えばいいだろ! 何か言えよ、俺!! )
 心の中で叫んでみるのに、目の前の光景を見ていると喉が乾ききって声が失われたように出てこない。
 泣きじゃくるタイガを抱き締めるお兄ちゃんとお姉ちゃんと、お母さん。そして、それを優しい眼差しで見つめるお父さん。
 テオフィルスの知らない“ 家族 ”というものがそこにはあって、持たざる者からすればそれは眩し過ぎる光景だった。
 だから、それを直視し続けることはテオフィルスには辛すぎた。
 何も言わず、踵を返してテオフィルスは幸せな光景に背を向けて逃げ出す。
「 ミクリお姉ちゃん、ありがとう!! 」という無邪気なタイガの言葉を背に受けて。



外の世界に出て最高な気分だったはずなのに、どうしてこうなった。
「 くそッ…… 」
 感情を内面で処理しきれず思わず呟くと、それが聞こえた通行人の老紳士が通り過ぎながら驚いたような目でテオフィルスを見ていた。外見だけは少女に見える姿から溢れ出た粗雑な言葉に驚いているのだろう。
( うぜぇ )
 岸壁街だったら、この程度の言葉遣いで見てくるような大人なんていないのに。
 岸壁街だったら、岸壁街だったら。
 外に出てから、常に無意識に外の世界を岸壁街と比べ続けていた自分に気付いてテオフィルスの顔に自嘲めいた笑みが浮かぶ。
( やっぱり俺はコッチ側の人間じゃない )
 自分には、汚くて暗い岸壁街の世界が似合っている。
 此処は自分の世界じゃない。
( 帰らなきゃな )
 帰ろう、と思って自分が立っている場所が何処か分からないことに気付く。タイガと家族から目を背けたくて走ったから、此処がミクリカの何処なのか皆目見当もつかない。
( おいおいおい、マジかよ )
 さっきまで迷子のタイガを馬鹿にしていたのに、今度は自分が迷子だ。
 しかも、テオフィルスには迎えに来てくれる家族はいない。
 どうしようかと考えて、とりあえず来た道を戻ろうと足を反対側に向ける。しかし、先程までいた噴水広場近くには行きたくないことに気付いて足が止まる。もう、タイガには会いたくない。それならば噴水広場と中央通りを迂回するルートが良いだろうが、それはどの道だ? 地理が分からないのだから、大人しく戻るべきか?
 逡巡するテオフィルスは、常同症にかかった犬が自分の尻尾を追いかけている時のようにその場で回る羽目になる。そして、回った所で何も解決策は出て来ない。
「 ねぇ、大丈夫? 」
 いや、解決策が自分から歩いて来た。
 怪しい動きをするテオフィルスに声をかけてきたのは、赤い髪が印象的な少年だった。それよりもテオフィルスの目を引いたのは、元々、浅黒い肌なのだろうが、太陽の光を沢山浴びた健康的な肌色だった。まともな日光の入らない岸壁街に住む人間に、こんな綺麗な日に焼けた肌色の人間はいない。
「 もしかして、迷子? 」
 自分と同じくらいの年齢か少し下くらいの少年に問い掛けられて、彼の肌に目を奪われたままテオフィルスは頷く。
「 地元の子? 」
 岸壁街も一応は地元といって問題ないだろうと思って頷いた。“ 地元の子 ”が道に迷っているなんておかしいけど、少年は特に気にした様子は見せなかった。
「 家はどの辺? 」
「 ……岸壁街 」
「 あっちの方か 」
 『 あっちの方 』どころかテオフィルスが住んでいるのは岸壁街そのものなのだけど、少年は都合良く勘違いしてくれたらしい。しかも、少年はそこまで連れて行ってくれる、とのことなので言葉に甘えることにする。
「 優しい、ね 」
 あえて少女っぽく呟くと、少年が空色の瞳をきょとんと見開いた後、破顔した。
「 困っている人がいたら助けるのは当然だから 」
 それが当然だといえるのが外の世界なのか。少年の美しい発言に、テオフィルスの胸のうちに再び靄がかかる。
 やがて、見た覚えのある道が出てきてテオフィルスは驚く。いつ言おうか悩んでいるうちに少年に言わないまま、噴水広場も中央通りも通らずに帰って来れてしまった。
( 嘘だろ…… )
 その帰路の短さは、今日一日、外の世界をたくさん見て回ったつもりだったらテオフィルスの知った世界はとても小さいものだったという現実を突きつけていた。外の世界はどれだけ広い場所なんだろう。テオフィルスには想像もつかない。
 唖然としながら、その先には浜辺と岸壁街しかない長い坂道まで来るとテオフィルスは改めて少年を見た。その坂道の先に住む家がある人間は岸壁街の住民だけだ。少年は案内してきた迷子の少女が帰る場所に気付いて、酷く驚いた顔でテオフィルスを見る。
「 ねぇ、一緒に行こうよ 」
 だから、あくまでも外見通りの少女の可憐な声と笑顔を心がけて、テオフィルスは少年に手を差し出した。
 別に本気で言っている訳では無い。ちょっと、このお人好しな少年をからかってみたくなっただけだ。
「 この先に行ったら海神の子にされるから、駄目だ 」
 真面目に首を横に振る少年にテオフィルスは笑う。
「 大丈夫だよ。ねぇ、行こう? 」
 噴水広場で会ったタイガのしつこさを思い出して、少しだけあの子供を意識して無邪気さを装う。
 少年はただ困惑していた。別に逃げたって、怒鳴ったっていいのに、テオフィルスを傷つけない断り方を考えていそうな雰囲気だった。
( 真面目なやつ )
 いっそ上手く断れないなら、本当に岸壁街へ連れて行ってしまおうか。
 独りで暮らすより、ずっと楽しそうだし。
 テオフィルスがもう一度、少年を誘おうと口を開きかけたその時だった。
「 ……ナー!!! ローナー!!! 」
 何事か大きな声で叫ぶ少女の声が近付いてきていた。テオフィルスも少年も声のする方向に目を向ければ、声の主が少年の赤い髪と同じ色彩の少女であることが分かった。彼女は見る見るうちに信じられないスピードで走ってくるとテオフィルスと少年の間に割って入った。その手には何故か良く使い込まれている木刀が握られている。
「 ね、姉ちゃん!? 」
 少年の声が割り込んできた少女の正体をテオフィルスに教えてくれた。
 何処から現れたのか、どうやってこの場所が分かったのか、疑問点はあるが、それよりも邪魔が入ったことで少年を岸壁街へ連れ込むことに失敗したことを悟る。
 少年の姉は、少年をテオフィルスから守るように木刀を構えていた。水色の目に宿る強い闘志に負けて、テオフィルスは数歩下がる。
( ここらが潮時だな。これ以上、遊んでたらこの嬢ちゃんに殺されそうだ )
 視線だけで射殺されて、テオフィルスは内心で白旗を上げた。
 少年にもこんなに心配してくれる姉がいる。きっと、他にも家族がいるのだろう。
 やはり外の世界は、テオフィルスには眩し過ぎる世界だ。自分が住むには明る過ぎる。
 だから最後に思いっきり女の子っぽさを意識して笑顔を作ると、少年に小さく手を振って「 さよなら 」と告げる。
 そして、スカートを翻すと思いきり坂を駆け下った。その背中に聞こえた少年を怒る姉の声を楽しいBGM代わりにして。