薄明のカンテ - 拝啓──、/燐花

父よ

 ── 事情聴取もあって忙しかったもので。
 そう言って「行けない理由」を取り繕った。でも、彼が彼女を心の底から愛している事を知っている人からしたら、「そんな程度」の理由で見舞いに行かないその姿は不自然に見えただろう。
「マーシュさん、もう大丈夫ですの?」
 サリアヌにそう聞かれたロードはにこりと微笑むと、いつもの調子で返事をした。
「ええ。確かに色々大変でしたがダメにしたのはスーツだけですからね。体はどこも…大して怪我もしませんでしたし至って元気ですよ。日課の筋トレも再開しましたし」
「いえ、そうではなくて…」
「ああ、精神面の方ですか?そりゃあ確かに強面の刑事さんと日夜対面して根掘り葉掘り聞かれると言うのはなかなかクるものがありますけどねぇ。滅多に出来ない貴重な体験と思えば、これはこれで面白いかな?と」
「いいえ…貴方じゃなくて、彼女・・が。もうお見舞いに行かなくとも心配ないくらい、大丈夫なんですの?」
 サリアヌは周りに知られない様暈し暈しそう言った。彼女が聞きたかったのはヴォイドの事だった。
 一週間前、ミサキと共に拉致されたヴォイド。喘息持ちのミサキは、大事にこそ至らなかったが劣悪な環境に衰弱してしまっていたしヴォイドに至ってはユウヤミの処置が遅ければ今生きてここに戻って来れなかったかも知れない。
 ミサキとヴォイドの件を聞き彼らしくない焦りを見せ人事部の仕事をベンやクロードウィッグに任せて出て行ったロードであったが、解決した後不思議と彼は冷静に見え、あんなに心配していた二人の顔を満足に見に行っていない様な状況だったのでサリアヌは違和感を覚えた。少なくとも、「マルフィ結社のロード・マーシュ」としては見舞いに来ていたものの一人で自主的に病院には向かって居なかったと思うのだ。
 あんなにも二人の為にと奔走した割には、解決後のロードは随分あっさりしていた。
「いえ、『彼女達』と言った方が適切ですわね。貴方が助けに行ったのはヴォイド・ホロウさんとミサキ・ケルンティアさんですから」
「うふふ、ええ。一時はどうなるかと思いましたよねぇ」
 飄々とそう言ってのける。しかし、サリアヌは少し考えると「本当に大丈夫ですの…?」と再度口にした。あれだけ血相を変え、彼らしく無い引き継ぎの雑さを見せて出て行ったのに。事件が解決すれば「もう良いです」と言わんばかりに何事も無かったように振る舞う。果たしてそれは彼の本心なのか、それとも何かしら理由が背後にある強がりなのだろうか。
「うふふ。ナシェリさんに心配してもらえるなんて贅沢ですね」
「…はぐらかすだけの元気はお有りな様で」
「いえいえそんな事は。おかげさまで逆に腹を決められました。片付けなければならない事から目を逸らさず直視すると言う、ね。それが終わったら私も個人的に二人のお見舞いに行きましょうかね?」
 少し困った様に微笑むロード。何だか分からないが背中を押せた事に気付いたサリアヌは考える様に顎に手を当てると「無理だけはなさらないで」と一言呟いた。
「…悩みと無縁そうな貴方が本当に悩んでいる様だと調子が狂いますわ」
「おや?私は繊細な人間であると自負していたんですがねぇ。それよりナシェリさん、人の不調に影響される性質タチでしたっけ?」
「ふふ。むしろ貴方が自分の不調で周りに影響を与える性質タチではなくて?」
 そう言って辺りを見回す。サリアヌの目にはいつもより些か元気の無いエーデル、ヴィーラ、シーリアとタイガの姿が入り込んだ。
「貴方が表面上の元気も無くされて、皆さんあの調子ですのよ」
「おやおや…」
「愛されていますのね」
「うふふ、光栄です」
「冗談では無くて、本当に。だからこそ貴方は何か悩みがお有りなら周りを頼るべきですわ。それが愛してくれた人への礼儀ですわよ」
 普段は厳しいサリアヌからの「私達を頼ってくれて良いのよ」と言う遠回しな優しさが言葉の裏にある。ロードは一瞬考えたのか冷静な顔になり、しかしすぐに彼女の優しさに気が付いてふっと嬉しそうに吐息を漏らした。
「ナシェリさんも私を『愛して』くださっているので?うふふ、それは光栄の極みですねぇ」
「私は頼ってくれても構いませんが『愛して』いるかはどうかしら?」
「おやおや、つれないお返事で…」
「冗談はこのくらいで、ヴァテールさん達にはそろそろいつもの調子の貴方を見せて差し上げて?」
 そう言って仕事に戻ったサリアヌの背を見つめる。ロードは少しだけ気の抜けた顔になり、そして人の顔色に敏感なタイガはそんなロードの少し緩んだ顔を見て「やっとロードさんの元気が少し戻って来てくれた!」と喜んだのだった。

 * * *

 かつて岸壁街だったもの。今や家屋の殆どが倒壊し海の藻屑と化している。随分とこざっぱりした見た目になったものだ。それでもまだ人が住んでいるところもあると言うから驚きである。ここに居着いている人間と言うのは本当に生きる事に対して貪欲であり、悪食である。
 ──だからきっと、ボスも。
 車を道の端に寄せて停めると岸壁街の入り口に立つ。鍵を掛け『立ち入り禁止』と書かれたテープをひょいと跨ぎ、足場を確認しながらロードは下へ下へと降りて行く。
「マーシュさん…?」
 足場の確認に余念が無かったロードは、ここでフィオナが近くに居て『禁止』のテープを軽々跨ぐ自分を見ていた事にまるで気付かずにいた。
「おっと…」
 突然ガララ…と瓦礫に音を立てられると足を置いた瞬間に奈落の底に落ちるのでは無いかと言う危険を感じる。それでもロードは下へ下へと足を進める。確実な足場を求める事に集中する一方で、頭の中で別の事を考えもしていた。
『何だ?餓鬼…。テメェ死にてぇのか?』
 これが出会った時の第一声だ。そう言えば初めて会った時のボスは、怒りを露わにしていた。涙と鼻水とで顔がぐしゃぐしゃになった子供が自分のスーツに齧り付いたのだから、まあ怒るだろう。と言うか、それくらいで怒る程彼は沸点が低かった。そしてロードは当時なりふり構わずボスにしがみついていた。もしそれで殺される結果になっても良いと思える程には絶望していた。
 たまたま近くに居た『それでもまとも』な大人がボスだった。自分の身近に居た大人と同じだったらどうしよう?と言う一抹の不安はあったが、自分を見て劣情に駆られた瞳で無く心底面倒臭そうに嫌悪する瞳を向けられた事で逆にロードは安心してボスにしがみ付いたのだ。
 口では散々「愛している」と、「母さんにはお前しか居ないの」と言いながらロードを男に抱かせる母親。触られたくも無い、汚らわしい少年愛の男達に無理矢理手籠にされ泣き叫ぶ息子を見ながらいつだって母は笑っていた。時々「ざまぁ見ろ!私を捨てた報いだ!」と殊更狂った様に笑い出し、かと思えば一緒になって自慰行為に耽る様を見た事もある。
 あの瞬間、世界は何もかもが狂っていたし、何もかもがまともじゃ無かった。ここはこの世の地獄を凝縮した様な世界だと思った。大人しくしないからと殴られ、泣く事すら諦め力の抜けた体を執拗に這う男の舌の感触すらもう無の顔で受けていると、母と目が合った。そう言う時、いつだって母は面白くなさそうな顔をした。
「泣き喚け、面白くもない」
 そう呟く事もあった。
 しかし、全てが終わると母は人が変わった様に息子を守る母となる。果てたばかりで気の抜けた男に鬼の形相で近付き木の棒で殴り付ける事もあった。そして先程まで他でも無い母の連れて来た男の慰み物になっていた息子を抱き締めると、「母さんはお前を愛しているよ、だからこれは仕方ないの」「父さんは悪い事をしたの、許されない事をしたの。だからお前が罰を受けるしか無いの。そうしないと許されないの」「ごめんね、でも母さんはお前の味方だからね。悪いのはお父さんなの。お前がこうなっているのもお父さんのせいなの」と、決まってそう言う。大人になって物事を論理的に組み立てられる様になるとこの言葉に全く根拠が無い事くらい気付いてしまうが、当時は幼い時分。この母の勝手な言い分が世界の全てで、母の言う事は正しいと思っていた。そうか、お父さんが悪い事をしたからその罪を償わないといけなくて、それが父によく似た自分の役割で、母はその度慰めてくれるのだから頑張らないとと本気でそう思っていた。地獄の様な姿から一転、ただの弱い女へと変貌する姿もまた自分の庇護欲を掻き立て『傍に居なければ』と思わせていたのかもしれない。母一人子一人だから、支え合う。互いに互いだけが大切で、分かり合える。今にして思えばよくある洗脳の様な物だ。
 母は弱い人だった。心底愛した夫に、妻として女として否定された様な別れを見せ付けられて狂う程には弱かった。その夫の血を分けた自分の息子を彼と同一視し男に抱かせる事で死後も侮辱し続けなければ耐えられない程には弱かった。母は既に、もうこの世に居ない相手をただただ呪って呪って息子をその形代にする事以外悲しみを鎮める方法が分からなかった。
 だから先に目を醒ましたロードは近くを通った男──サントル・オルディネのボスにしがみ付いた。死にたいのか?と嫌悪を向けられ、『どうぞ殺して』とも思った。
 しかし、ボスはいくつかの問答の後ロードを「気に入った」と言い、自分の息子にすると言い出し母から取り上げた。嫌がって離れない母に容赦なく暴行を加え、鼻の骨が折れた頃やっとロードを手放した母親。そこまでして奪っておいて、それでも彼が父親らしい事をするかと思いきやそうでも無かったのだが。
「おや…?これはこれは…」
 意識を過去の話から目の前のものに集中させる。岸壁街に来ると否応なしに昔の事を思い出してしまい、ロードは少しだけ胃が痛かった。そして目の前にそれを見つけた事でより胃の痛みが強くなるのを感じた。
 それはランプシェードだった。あの当時自分とヴォイドが過ごした部屋にあった物を彷彿とさせる作りの物。
 あの時、ボスは何故かヴォイドに固執していた。まだ十四、五歳の女の子。スタイルも、確かに年齢にしては豊満だったがまだよくある体付きだった。だからどうしてあそこまで固執し、彼女を自分から引き剥がそうとしたのか分からない。今更分かりたいとも思わないけれど。
 ガララ、と響く音にロードは目を見開く。足を取られない様に気を付けながら下へ下へゆっくりと降りて行った。途中、道が途切れている場合は仕方がないのでスーツが汚れるのを覚悟で少しアクロバティックな動きをする。
 そうして下へ下へ、とうとう海の見えるところまで来た。波間に揺られ、汀にはかつてバラックだったものが重なっている。その中を掻き分けるようにロードは進む。海水に濡れる事も厭わず、最早革靴が浸水している状態でひたすらに瓦礫の山を掻き分けていく。
 そして海の綺麗さもあってか視認できる程ではあったのだが、完全に沈んでしまっている彼の探していた『それ』が目に付いた。
 見付けたかった思いと見付けたくなかった思いがせめぎ合い、『それ』が瓦礫に挟まれる様にして海中にあるのを確認したロードは柄にもなく泣きそうになった。
「父さん…」
 口にしてしまった時、彼の頬をとうとう涙が伝った。
 元岸壁街の倒壊した家屋。フジツボや苔の類に寄生され、人よりも魚の棲家になってしまったその瓦礫の山の中、この街にあるものにしては豪華な車椅子が一緒に沈んでいた。それは父の──サントル・オルディネのボスだった男の使っていた車椅子だ。
 部下の反乱により、側近であるキンバリーとギデオン、そして両足を失った彼はしばらく車椅子で慣れない生活をしていたと言うのは結社に来る直前、縁切りを申し出に赴いた時の彼の素振りですぐ分かった。キンバリーとギデオンが居たらまた勝手は違ったのだろうが、二人を亡くした彼はこの岸壁街の中車椅子で移動するにも重労働だったに違いない。
 そんな彼がこの冷たい海の中この深さで、こんな風に足元から崩れ、押さえ付ける様に降って来た瓦礫に自由にならない体で車椅子ごと挟まれ浸水すればどうなるか。その結果は火を見るよりも明らかだった。
 海には屍肉を貪る魚も甲殻類も肉食の物もいる。海の生き物は、陸海空どこの生物よりも凶暴だ。おまけに海には、目に見えないバクテリアも存在する。海の持つ要素全てが、人一人をこの世界から跡形もなく消す手助けとなる。

 つまりボスは、死んだ。

 あんなにも愛情など欠片も見せずに居た、ただ生かしてくれただけの男に何故?と自分に問うても、この涙の理由は見付からない。
 結局縁切りを果たしたと思っても彼がヴォイドに危害を加えない保証が無いと、その保証を得ようとわざわざここまで来たのだ。
 もしボスに会ったら嫌味の一つでも言って、自分がヴォイドに接触しても彼女に手を出さない事を約束させ、そして縁切りを完了させようと思った。前回のロレンツォ捕縛の際には「二度と自分の前に顔を出すな」と言われただけに過ぎなかったからだ。なあなあに流された気がするので下手に動いてヴォイドが狙われでもしたら。それが「事情聴取もあって忙しかった」なんて理由で誤魔化した本当の理由だ。
 今まで偶然や仕事以外で彼女に会いこそすれ、まるで「仕事仲間」以上に距離を詰める様な行動を取れなかった理由の最たるものがそれだ。「仕事仲間」として愛の日の気持ちの動きを心配し、まるで父や兄の様に抱き締めたところでそのまま彼女の唇を奪う事も体を重ねる事も出来なかったのは、いつも誤魔化す様に言葉を濁し「いつか言うから」と踏み込めなかったのは。本気で深い仲になりたいと言う態度を取れなかったのは。
 病院は結社の敷地に無い外部の施設だったので尚更、本当は毎日の様に顔を見に行きたかった。あの時、水獄から救出された彼女の顔を見た時、そっと頬に手で触れた時生きている人の柔らかさと温もりにどれだけ安心した事か。
 ユウヤミと、テオフィルスと三人で救い出した命。事件が終わった今、下手をすれば再び彼女の命を危険に晒すのは他でも無い自分の背後に居る厄介な存在かもしれない。そう思ったら決着をつけずにいられなかったのだ。
「折角意気込んで来たのに…なんて事ですかね…」
 涙を誤魔化す様に吐き捨てる。
 これでヴォイドの命が彼によって脅かされる事は無くなった。今後自分が仕事や結社の外で彼女に会おうが何をしようが、もう恐れるものは何も無い。
 もう自分は名実共に『外』の人間だ。
 組織からの突然の呼び出しに辟易する事も、生活を脅かされるかの様な恐怖を感じる事も無い。何故なら、ミクリカを治めていた男はここで息絶えたからだ。
 なのに。
 解放されたと思っていたのに、瞬きをする度に涙が溢れてしまうのは何故だろう?
 彼女の安寧を邪魔するかもしれない、自分も動けなくなる程の暴行を受けたと言うのにその男に対して涙が出るのは、そんな男でも自分の記憶の中では『父』だったのか。
 海の中、最早彼が居た痕跡は車椅子しか無いと思われたが、ふときらりと輝くものを瞳に捉えたロードは手を伸ばす。どうしても手が届かず、息を止め頭を少し突っ込むと水没して使い物にならないが、彼の愛用していたジッポライターがそこにはあった。
 せめてこれくらいはと拾い上げ懐にしまう。上から下までほぼ濡れた様な姿で、少し疲れた様な表情を浮かべロードは足場の悪い中地上を目指して再び登り始めた。
 こんなずぶ濡れのまま車に乗ったら座席が濡れるなぁとロードらしからぬ準備の悪さ、無計画さに頭を抱えながら車に近付く。すると、車の影から女性が一人飛び出して来た。
「やっぱり、マーシュさん…」
「フラナガンさん…?どうしてここに?」
「それはこっちのセリフですよ…社用車と同じ車種の車が見えたんで誰か来てるのかと思ったらマーシュさんらしき人が見えたし…おまけにキープアウトテープ跨いでっちゃうし…」
 そう言いながらフィオナはずぶ濡れのロードを上から下まで見た。確かにフィオナは結社の女性の中では誰よりもロードの色んな姿を見て来た人間だろう。彼の普段見せている仕事の出来る紳士的な姿も、夜に酒場で見せる女性を蠱惑する様な姿も、どちらも多くフィオナは見ていた。しかし、そのどちらの顔も彼はいつだって余裕そうにしている。
 ところが今はどうだろう?まるで親と逸れて迷子になって泣きじゃくって、精も根も尽き果てた子供の様に見える。
「あの…何があったんですか?マーシュさん」
「……」
「そこ、岸壁街のあったところですよね…?躊躇いなく瓦礫を下って行ってしまったと思ったらそんなにびしょ濡れになって…本当、何があったんですか…?」
「……外じゃ落ち着かないんで、車に乗っても良いですか?」
 ロードの提案にフィオナは頷く。こんなにも憔悴した様なロードは初めてだ。運転席に乗り込んだ彼に続いて助手席に乗り込む。びしょ濡れのままでは嫌だろうに、彼はスーツに触る事もなく力無くハンドルに手を添えると靠れる様に突っ伏した。
「うふ…ダメじゃないですかフラナガンさん……男に促されて素直に車に乗り込んじゃ…その男が下心の塊だったらどうします?」
「マーシュさん…ここで一体何が…」
「乗るにしても助手席ではなく後部座席に乗った方が良かったですね。そうすれば、最悪手を出されてもまだ逃げ出せる余地はありますし…」
「ねぇ、マーシュさん」
「──父が……死んでいました…」
 いつもの様な調子で話し始めて一転、ロードはボソリと呟いた。フィオナはそんな彼の言葉に驚いた様に目を見開く。確か彼は以前両親とは死別したと言っていたが、もしかするとあれは嘘だったのか。
「マーシュさん…お父様とお母様は…」
「…すみません、ちょっと詳しく説明するのが難儀な家族関係なもので…馬鹿正直に本当の事を言って同情されるのも嫌ですし、外では一貫して『両親とは死別した』と言っていました…まあ、今回また本当の事になってしまったんですが…」
 両親と死別した。これが真実ではなく、とりあえず親の事を他人に話したくないが故のその話題から避ける為の嘘だと言うのはまだ想像が付く。しかし、その「死別した」と言う嘘部分以上に同情されると言う彼の真実とは何なのか。フィオナは気にはしたものの、同時に聞いてはいけない気がしてそれに関しては質問をせずただただロードの次の言葉を待った。
「私の父、と言うか正確には義父で育ての親なんですが、彼は…岸壁街に居たんです」
「岸壁街に…!?でも…!!」
 フィオナは資料でテロ時の街の状況を見ていた。ほぼ倒壊してしまったカンテ国唯一のスラム街。その倒壊に巻き込まれて何人も亡くなった。「ミクリカの惨劇」で何故あんなに犠牲者が出たのか。そこには、違法な建築法で留まっていた岸壁街が倒壊した事により巻き込まれた人間が多く居たからと言うのもある。
「岸壁街に、なんて言ったら……あの場所はテロで…!!」
「ええ…一か八か来てみたら、案の定でしたよ。足が悪くて車椅子だったんですが、車椅子のまま倒壊に巻き込まれて海に沈んだ様です。そんな結末想像していた筈なのに、むしろ本当に形ばかりの親子でそこに父としての愛など無かった筈なのに、おかしいんですよ。何でこんなにやるせないのか…」
 そこまで言ってロードはハッとした顔になる。フィオナにそんな話をするつもりは無かった筈なのに。
「……何があったか分かりませんが…きっと事情が複雑でもマーシュさんにとって良くも悪くも存在が大きい人だったんでしょう?」
 ロードはそう口にするフィオナの顔をゆっくり見る。穏やかな表情を浮かべるフィオナは、その手にハンカチを持ってそっとロードの頬に触れた。
「好意を持っているから大事に思う、そうでなければ大事じゃない。一概にそう言えませんよ、人間関係は。特に親子なんて、良くも悪くも大きい存在じゃないですか。何も知らなかった幼い自分に一番影響を与える大人が近くに居るその人なんですから。好きとか嫌いとか以前に、存在が大き過ぎて失った時の喪失感が大きいってあると思います。その喪失感を感じて涙が出ても胸が苦しくなっても、私はそれは当たり前の感情だと思います」
「フラナガンさん…」
「マーシュさんって、変ですね。私が同じ様な状況で同じ様な事言ったらきっと『大丈夫ですよ』とか『おかしい事無いですよ』とか言うでしょうに、自分の事はそんな風に肯定してあげないんですから」
 その言葉を聞き、再びロードの頬を涙が伝う。隠す事もせず、拭う事も出来ず、ただただ涙が伝う。
「…やっと、本気で彼女に想いをぶつけても大丈夫なんだと確信を持てたんです、父の死によって」
「彼女って…ホロウさん…?」
「薄情だと思いますか…?自分を育ててくれた父の死を悼むどころか、『ああ、これでやっと彼女に思う存分愛を伝える事が出来る』と浮ついた気持ちを抱いてまるで…父の死を喜んでいる様な私を」
「……お父さんに反対されていたんですか…?」
「死を悼む気持ちのみならず一方で喜ぶ、そんな私はちゃんと『真人間』ですか?」
 噛み合わない会話だが、痛い程フィオナの胸に響いた。フィオナは常日頃、ロードの行動がまるで普通の人のテンプレートの様にも思えていた。敢えてそうしているのか、理由は分からないがロードは普通を装おうとする。何となく今も自分の気持ちを「普通」の観点から見出せず苦しんでいる様にフィオナには見えた。
「真人間かどうかよりも、私にはマーシュさんが今どうしたいか、どう思うかの気持ちの方が大事だと思います。親御さんとどう言う仲だったのかもどう思っていたのかも私には分かりませんが…私が接して来たのはマーシュさんですから。親御さんが何したなんて、関係無いです。だからマーシュさんが親御さんをどう思おうと、私は友達も推し活も辞めませんからね!」
「………」
「つ、つまり…親御さんがマーシュさんに何したか知りませんが、それとは切り離して見ますよ!普通!親がこう言う人間だった、だから私もこう振る舞うかもなんてしてたら友達失くしますし親を言い訳にしてるなんてそれ以前の問題でしょう!?だって私が接してるのは親御さんじゃなくマーシュさんなんですから!でも、マーシュさんはそう言うの全く見せず、ただロード・マーシュとして此処に在ったじゃないですか。…私、今の生き方して出来上がった貴方だから友達になれたんです。でもそこに親御さんは関係ありません。貴方が何を抱えて、今この状況でどう思ったか…少し垣間見ましたが、だから友達辞めようとはなりませんでした!!」
「……フラナガンさんて、本当すらすら言葉が出て来ますね」
「それが取り柄です!!」
 ロードに昔何があったのか、どんな過去があったのか、親がどう言う人間だったのか。しかし、フィオナにとっては関係なかった。何故なら今自分が親しくしているのはロード本人であって、彼の親族では無いのだから。
 だから貴方がどう思うかが一番大事。そう言い切るフィオナを前に、ロードはようやく受け取ったハンカチで涙を拭った。
「涙ってどうして出てくるんでしょうね…」
「そうですね!推しが尊かったり推しが尊かったり、推しが尊かったりでしょうか!?」
「……フラナガンさん、それだけなんですか?」
「いえいえまさか!後はあれです。自分自身も気付いていないけど心は感知してる事。それでも涙って出てくると思います」
 義理とは言え、育児なんてもの無いに等しかったが父の事はそれでも父として愛していた。憧れてもいた。
 今はそれしか分からない。もっと深い部分で思っている何かがあるのかもしれない。しかし、今はまだ分からない。けど、分からずとも流れる涙があっても良いのかもしれない。
 フィオナにより認識に良いズレが生じたロードは胸に密かに秘めていた「仕事としての意識では無く、自分の意思でヴォイドとミサキの見舞いに行く」と言う事をそろそろ現実にしようと決意した。
 ──貴方と言う枷が無くなったから、思う存分愛する人に会いに行きます。
 それがロードなりの義父の死への報い方だと思った。

愛しき人よ

 コンコン、と控えめにドアをノックする音が聞こえる。ミサキはそれだけで目を覚ましてしまった。
 自分の命を脅かそう、等と言う人間が入ってくる可能性はとてつもなく低いと言う事は分かっている。しかし、岸壁街で育った彼女にとっては人の来訪する空間と言うのはまだ慣れないものらしい。じっと目を凝らしてドアを見つめていると、開けて入ってくる者がいた。それは人事部のロード・マーシュだったのでミサキは拍子抜けした様にふぅと溜息を吐いた。
 そして、それ・・に気が付いて思わず声を上げた。
「え…どうして……」
「おやおやケルンティアさん、『しーっ』ですよ。ヴォイドが起きてしまいますからねぇ」
 ミサキが気付いたそれ・・。つまりヴォイドが起きないと言う事。ミアやネビロス、エルナー一家が来た時も戸を叩かれる前にふっと意識を覚醒させていたヴォイドが起きない。
 ユウヤミが部屋に来た時も気付かず寝ていた姿を見ていた。あの時は、ヴォイドがまだ本調子で無く眠りのリズムがかなり深くなっているのかと思っていた。確かテオフィルスが見舞いに来た時もそうだった。
 しかし、実際にこの二人には共通点があった。盗み聞くつもりは無かったが、病室が一緒なのもあって隣で聞いていて気付いたのは、ユウヤミとは気持ちの距離感がやけに近そうだと言う事、そしてテオフィルスとは幼い頃から馴染みだと言う事。つまり二人ともヴォイドが無意識に安心してしまう相手だろうと言う事だ。
 ヴォイドの過去や心情などさして興味は無かったが、同じ岸壁街、しかも最下層から来た彼女が物音や気配に反応しない人間と言うのは少しだけ気になった。それが結社で親しくなったユウヤミと幼い頃から知っているテオフィルスと言うならば納得だった。
 だとしたら、ロードは一体ヴォイドにとって何なのだろう?
「…寝てしまっているならこのまま帰りますかね。無理に起こすのも悪いですし」
「………」
「ケルンティアさん、その後発作は大丈夫です?」
「…問題無い…特に出ていないから…」
「それは良かった。これ、シキが勧めてくれたプリンです。甘い物お嫌いでなければ…」
「…ありがとう。お礼、言っといて」
 ロードはミサキの男性恐怖症を知ってか、彼女のパーソナルスペースに入り過ぎないようなるべく離れたところからそっとテーブルの端にプリンを置いた。ミサキはそれを受け取ると備え付けの冷蔵庫に仕舞う。そしてふと、口にした。
「……ロードは…ホロウの何…?」
「え?」
「……よく寝てるから…」
「ん…?どう言う……?ああ、もしかしてヴォイドが誰か来た時に寝ているままって珍しいんですか?」
 ミサキがこくんと頷くと、ロードは少しだけ何かを考え、そして嬉しそうにうふふっと笑った。椅子を取り出しヴォイドの横に座ると、愛おしそうに彼女の寝顔を見つめる。触れるか触れないかと言う、壊れ物を扱う様な手の差し出し方を見て、ミサキもあの言葉が冗談では無かったのだと確信する。
『ヴォイドは、私の最推しでっ……最愛、の人なんです!』
 インカム越しに飛び込んで来た最愛の人と言う言葉。冷静に事件解決に向かわせなければあの時間違ってセルゲイを殺していたかもしれない。そのくらい殺気立ったロードをミサキは見ていた。だが、その言葉は何もロードが一方的な想いから勝手に言っているわけでは無いのだろう。でなければヴォイドが眠り続けていられる筈がない。
 彼もまた、ヴォイドにとって「寝ていられる相手」の一人なのだ。
「うふふ…相変わらず可愛らしい寝顔ですね」
「ロードはホロウの何?」
 もう一度同じ質問をぶつけてみる。さっきははぐらかした様な返しをしたロードだったが、流石に二度同じ事をすればあからさまに避けている話題と思われると察してか、あるいは「別に避けるべき話題でもない」と考えてか、出し惜しみする様な言い方で会話を続けた。
「うふふ、しがないファンの一人だった・・・んですよ。ですが、ただのファンで居るのを止めようと思って今日ここに来たんです」
「………ホロウが好きなの?」
 ミサキの言葉の行間に『彼女は岸壁街の人間なのに?』と言う疑問が隠れている気がしたロードは笑みを溢す。
「…言うまでもなく、愛していますね。あ、内緒ですよー?」
「…別に誰にも言う予定無い」
「うふふ、色々あって難しかったんですけど、やっと自由に彼女を愛せるのだと思ったら居ても立っても居られなくなりまして。私は彼女の出自関係無く愛しているんです。ケルンティアさんにも、出自関係無く愛する人は居るでしょう?」
「………別に恋人とか要らない、欲しいとも思わない」
「うふふ、将来的な恋人とかそう言う話だけでは無いですよ。愛は何も男女間だけで発生するものじゃ有りませんからね。愛の種類も性愛だけで無く、友愛や情愛もあると…貴女は身を持って知っている筈でしょう?」
 ミサキの脳裏にアンやマジュ、ロナ、テオフィルスの顔がふっと浮かぶ。結社に来て、あるいは結社に来る前から近くにいた人達。彼らに対する想いを『愛』と呼んで良いのかは分からない。しかし少なくとも『恩義には報いたい』と言う気持ちはあって、もしもそんな彼らを奪われる事があったらそれは確かに嫌だとも思う。
「人脈は宝ですよ。形こそありませんが、それだって貴女のその頭脳の様に貴女が持ち得た財産です」
「他人が居ないと得られない宝は…不確定だとは思う…」
「目に見える、手に取れるだけが財産ではありませんからね。不確定だからこそ、それを手にしていると分かった時の相手への愛おしさは格別なんですよ。知識や培って来た経験は他者に奪われたりしませんが、人と人の繋がりは時として己の不注意で反故にしてしまう事もあります」
 そう言いつつ、肌には触れない。決して無遠慮に触る事をせずただ見守るだけのロードの姿にミサキは彼がどれだけ本心で言っているのか察した。
「うふふ、人脈の話だけならまだしも恋愛が絡むならケルンティアさんの様なうら若いお嬢さんの前でする話じゃ無かったですかね」
「別に。普通の事」
「おやおや。最近の子は進んでるんですかねぇ」
「……岸壁街で見るものはもっと汚かった。だから、ただ話すくらいで終わるのが『普通』なら…その方がまだ見れる」
「………あぁ、なるほど。そうですか」
 ミサキの見て来たであろう汚い人間の姿を想像するのはロードには容易だった。自分もそんな汚い人間の情欲に晒されて来たのだから。聞く事など有り得ないが、ミサキがそう言う目に遭っていなければ良いと静かにロードは祈った。
 そして、ミサキ曰く『人が来ると気配で起きてしまう』と言うヴォイドの昔と変わらぬ寝姿を見、涙が出そうになっていた。今以上にもっと触れられなかった空白の時間に何度も夢見た彼女の寝顔がそこにはあった。一緒に居た頃と何一つ変わらない寝顔が。
 結局起こしてはいけないからとヴォイドに触れる事もせず部屋を出るロード。ミサキに一言「お大事に」と呟くと音を立てぬ様に部屋を出て行った。

 ──ボスが死んだ。
 あれだけ畏怖と圧力と暴力で部下も街も全てを支配していた男が。
 死んで初めて彼への想いに気が付いた。血の繋がりはなくとも、父として親として愛していたと。
 けれど、愛する人ヴォイドを見付けてからより強く感じていたのは『自分の人生は自分のもの』だと言う事。どう言う理由か、彼はヴォイドに執着していた。ロードが囲っていた女性がヴォイドだと言う事も、彼女を連れて出て行こうとするのも許さないと言う状態だった。
 組織に所属している以上、足抜けは禁忌だ。何故なら特にロードは内情を知り過ぎている。しかし、ボスの怒り方はどうもそれだけでは無い気がした。その怒りを暴力と言う形で一身に受けたからこそ、ロードはせっかくヴォイドと再会しても思う様に振る舞えずに居た。
 いつもどこか距離を空けて。同僚以上の距離に踏み込めなくて。軽口や誘惑の様な事は口にしても、いざそれに彼女の心が動いて見えればすぐに身を翻して離れようとしてしまう。そうせざるを得なかった。
 何故ヴォイドに手を出した事で彼がここまで怒ったのか。それが分からない以上、もしも自分が安易に接触でもして彼女が自分と同じ目に遭ってしまったら、そう思ったから。自分もとことんならず者である。そう言う人間の取りそうなやり方を知っているからこそ、それを恐れて飼い殺される道を選んでしまう。誰がどの角度から見ても『真人間』である様にと。彼等とは違う自分と言う地位を、環境を求めて。
 親離れに十年掛かった。
 さよなら、愛しい思い出達。
 サントル・オルディネが壊滅したと言うのはきっと揺るぎない事実だ。もうボスと自分を繋ぐものは何も無い。お別れは寂しいけれど、これからは愛した人にちゃんと惜しみなく愛を伝えて生きて行ける。

「ん…あれ…?」
 ヴォイドは目を擦りながら寝ぼけ眼でむくりと起き上がる。横でそれを見ていたミサキは小さく溜め息を吐いた。
「やっと起きた…」
「あれ…?ミサキ、もうご飯…?」
 ヴォイドはミサキの手に持つプリンに目を奪われ、物欲しそうな顔でじっとそれを見つめる。ミサキはプリンをサッとヴォイドから遠ざけると無言でまた一口ぱくりと口にした。
「これは私の」
「良いなぁ…」
「これは私が貰ったもの」
「…ん?誰かお見舞い来てたの?」
 おかしいな、自分はずっと寝ていたんだろうか。
 そう言いたげなヴォイドをじっと見、ミサキは手に持つプリンに目をやる。プリンに重なる様に彼の切なそうな愛おしそうな表情が見えた気がした。
「………来てた」
「え?誰?」
「言わない」
「何で?」
「何でも」
「ふーん……ま、良いか…」
「ちなみにホロウのプリンは冷蔵庫…」
「本当?あ。あった」
 無表情ながらどこか嬉しそうにプリンを開け、スプーンで掬って一口ぱくり。最近またブームになっている少し硬めに固められた美味しいプリンだ。黄身の濃厚さが甘さを引き立たせ口の中に広がる。
 そう言えば、ロザリー達と親しくなったきっかけはプリンだった。テオフィルスと再会してユウヤミと知り合って、ミアとも親しくなってこの温かい場所に馴染んでいってしまう自分が怖くなった時に出会ったフランソワが派手に転んでしまい、ぶちまけたのがプリンだった。だから気紛れにプリンを分けてあげたら、ロザリーが後日クレープを作ってくれた。
「……本当に誰が来たか教えてくれないの?」
「…何でそんなに知りたがるの…?」
「お礼。した方が良いかな?って…。ユウヤミも『返すのは元気になってそれからゆっくり返せばいいよ』って言ってくれたから、しっかり退院してからって思ってるけど…」
 ミサキはヴォイドにどう言おうか少し考える。多分、お礼をしたいのも確かなのだろうが、『寝続けていられた相手』が誰なのか気になってもいる様だった。
「………ど……」
「え?何?」
「ロード……マーシュ…」
 ミサキの言葉にヴォイドは目を見開く。力が抜けたのか、するりと手から抜けたスプーンが膝の上にぽとりと落ちた。
「……本当に…?」
「本当に」
「そっか……」
 自分の中で何かが動く時は、いつもプリンが傍にある気がする。
 昔はそうだったけど、まさか今もロードが傍に居て寝続けられてしまう程安心出来ていたなんて。
 不思議と今は彼の名を聞いて嫌な感じがしない。再会した時は彼が居なくなった当時の事を思い出して荒れた事もあったけど、その後何度か彼と顔を合わせる事があったからか、色々な顔を見る事があったからか、理由は分からないが何故か最近は割りと平気になった。
「お礼…しなきゃね…」
 そんなごく当たり前な人と関わる時の様な言葉が口を出るくらいには。
 プリンを食べながらヴォイドはそう口にする。ミサキも何も言わずに同じ様にプリンを口に運んだ。気付けば夕方だ。
 この後生活態度に厳しい看護師が検温をしに部屋に入り、二人揃ってプリンの空箱を携えているのを見て「もう夕ご飯なのに!」とお小言を零したが、プリンが美味しかったので二人とも特に気にする事なくどこか満足げな顔をしていた。