薄明のカンテ - 天然人誑しと赤い悪夢/涼風慈雨


超弩級の天然人誑し

 結社に来てすぐ、まだ岸壁街の外での暮らしがわからなかった頃。
 右も左もわからない中でマジュを抱えてミサキを支えて、取り敢えず今日を生きていた頃。
 あの頃、近くにヒルダはいなかったし、岸壁街出身で施設の出だからと機械班の中では腫れ物扱いだった頃。言い返す事はなく、影になって言われた事だけを黙々とこなしていた頃。
 とある人に出会った。

***

「ミィ姐だ!」
 その朝、食堂の隅でマジュに食べさせていると、歩いて来るミサキを見つけたマジュが声をあげた。
「アン、前いい?」
「いいけど……ン?」
 結社の食堂を利用するようになってから、マジュの肌艶が少し良くなった。ミサキは食堂のざわめきが気に障るのか、何を言ってもあまり食堂に顔を出すことはなかったのだが、今日は食堂に来ておぼんを持っている。しかも後ろには不思議な衣装を纏った誰かがいる。
「ロナ、こっちがアン・ファ・シン。私の先輩。で隣りがマジュ・リョワ・シン。名目上アンの養子」
 ミサキが後ろにいる赤髪で浅黒い肌の人物に向かって言う。紹介されたロナと呼ばれた人物は何か納得したように小さく頷いた。
「どうも、初めまして。ロナ・サオトメと言います。この度前線駆除班に配属されました。これから宜しくお願いします」
 言い切るとロナ・サオトメとやらは静かな表情のまま軽く会釈した。
「お、おぅ……宜しく、な……」
 岸壁街の外で突然現れた男性に会釈付きで丁寧に挨拶された事に戸惑いを隠しきれず、返す言葉がぎこちなくなってしまう。
「えっと……どうかされましたか……?」
「あ、イヤ……悪ィ。ンな丁寧な挨拶されるとか考えてなくて」
 二十余年程の人生の中で、ここまで丁寧な応対をされた事はなかった。大体相手が女だからと見下すように話したり、自分から名乗らなかったり、少し下手に来たと思ったら下卑た下心だったりした。だが、目の前にいるこのロナという男はからはどの感覚もなかった。言うなれば、極めてフラットな状態。性別とか出身とか関わらず誰であろうと同じように話すのだろうなと妙に確信させる空気を纏っていた。
「ロナ、座って」
 ミサキに促されるまま、おずおずとロナが目の前の席に座る。
 姿勢を正してきちんといただきますを言う姿に何だか調子が狂う。画面の向こうにいた人物が現実に出てきたような、そんな妙な感覚があった。
「えっと……ロナだったか」
 声をかけると食べる手を止めるロナ。別に止めなくったって話半分で構わないのに。
「ミサキから聞いたンだが、あの日にミサキを助けてくれたンだったよな。この場を借りて礼を言わせてくれ」
 無言で軽く頭を下げる。受けた恩義には報いるつもりだが、今までは下手に出れば搾取される危機感からまともに感謝を伝える事は少なかった。どうもロナの空気感はそんな危機感すら無効にするようだ。
「いやいや、救われたのは此方も同じです。ミサキ女史に拾って貰えなければ今頃どうなっていた事か」
 命と愛刀だけでも助かって良かったんです、と寂しそうな笑みを浮かべてロナは答えた。
 ロナも外の人とは言え大切なものを失って此処に来たのだろう。置いてきた何かへの後悔がロナの表情に透けて見えた気がした。
「それで、シンさんはーー」
 言いかけるロナを手を振って止める。
「あーしの事はアンでいい。敬称とかも柄じゃねェし付けなくていい。後、敬語もいらねェ」
 言われたロナは意外そうに一瞬きょとんとしたが、直ぐに一つ頷いた。
「わかった。以後気をつける。それなら俺の事もロナと呼んでくれ」
「ロナ、な。わかった」
 了承の意を込めて頷くと、緊張が少し解れたようだった。
「そう、それで。アンは機械班だと聞いたが、主にどんな仕事をしているんだ?」
「機械人形整備士だ。まァ、岸壁街の非公認だがな……」
 非公認。岸壁街。それだけで十分胡散臭いと我ながら思う。とは言え、前の職場で使っていたテキストはカンテ機械人形連合の書いた本物だったし、電子世界で調べながら身につけた分も含めて技術自体はそこそこの物になっていると思うのだが。
「機械人形の中身がわかるのは凄い事じゃないか?溜息つく事じゃないと思うが」
 凄い事、と言われて下がっていた視線が反射的にロナへ向いた。ロナの表情の何処かに嗤うようなものが見えやしないかと探ったが、素直な目に影は落ちていなかった。
「非公認でもなんでも、機械人形整備士だと名乗れる程の知識と技術があるのは立派だと思うぞ?」
 絶句してしまった。そんな見方をしてくれる人が岸壁街の外にいるなんて。
「あ……機械の事わからない俺が適当な事を言ってすまない……」
 何も答えが無いのを不服とロナは読み取ったらしい。直ぐに詫びの言葉が続いたが、それすらも衝撃でしか無い。偉そうでもなければ卑屈でもなく、何か狙っているわけでもなく。とんでもなく素直。言うなれば、超弩級の天然人誑し。
「いや……ンな見方する奴が居ンのに驚いただけだから気にすンな。悪りィな」
 そう答えるとロナの顔は緩やかに緊張から解放されていった。
 成る程、ミサキが懐くわけだ。喜怒哀楽がわかりやすいが、騒ぐわけでも無い。何かを隠す訳ではなく、極めて素直だが子供染みていもいない。
 とは言え会って直ぐに警戒を全て解くわけに行かないのでもう少し様子見しよう。
 横を見ればロナの隣でもそもそ汁麦を食べていたミサキがマジュに残りをあげているところだった。
 自分の分を食べ切ってつまらなそうにしているマジュの前に、ミサキが食べ残した汁麦の入った皿を滑らせる。
「マジュ、食べる?」
「良いの!?ミィ姐!?」
 喜んでスプーンを握りしめるマジュにミサキが頷く。
「こんなに食べられない」
「やったー!ねぇねぇ、アン姐!ミィ姐がご飯くれたー!」
「お、良かったな。ミサキは良いのか?」
 マジュの頭を撫でつつ、ミサキに一応確認するといつも通りに「要らない」と一言答えて黙った。
「マジュちゃん、良かったな」
「うん!えーっとおっちゃんは……」
 マジュに声をかけて「おっちゃん」と返されたロナの目に初めて影が落ちた。
「マジュ。おっちゃんじゃない。ロナ兄ちゃん」
「ロナ兄ちゃん。うーん、忘れたらごめんね!」
 訂正したがわかっているのだろうか。あっけらかんとケタケタ笑ってマジュはチーズ入り汁麦を口に入れた。
「悪りィな、マジュはどしても人の顔を覚えるのが苦手でな……知らない大人の男は全員『おっちゃん』呼びすンだ。本当にすまねェ」
 溜息と共に頭を下げると、ロナは苦笑しながら否と首を振った。
「顔が覚えられない人も世の中結構いる。それに、説明されたら怒る要素は何もないな」
 何処まで人が良いのやら。ロナの答えに救われつつも、お節介だが此奴がいつか騙されやしないかと心配せずにはいられなかった。

自活のプロフェッショナル

 とある夕方。購買で弁当コーナーとパン売り場を行ったり来たりしながら財布の中身と相談していた。
「いつまでも食堂と購買って訳にもいかねェよなァ」
 この辺りの地理には疎いし、もっと言えば壁の外での物価もよくわからない。知らずに高い物を買い続けるのはどうしても避けたいが、聞ける人もいない。一応は岸壁街にいた時より給金は増えたが、周囲の物価も同じく高いなら油断は禁物だ。
「どうしたんだ?アン?」
 いきなり後ろから聞こえた声に振り返るとロナがいた。どうも考え過ぎて背後への注意を怠っていたらしい。いくら疲れていてもしっかりしないといけないな。自分に何かあったらマジュとミサキはどうなるんだよ。
 そんな脳内の聞こえないロナはさっとカゴの中を見て気が付いたらしい。
「もしかして、夕飯のメニューで悩んでるのか?」
「あ、あぁ……うちのチビにも折角なら良いモン食わしてやりてェし。ただ……」
 言い切る前に声が消えてしまう。ロナの人の良さはわかっていても、信頼しきって良いものか騙されやしないかと二の足を踏んでしまって言葉が継げない。
 急に黙ったせいか心配そうな顔のロナが首を捻っている。
 まぁいいか。聞くだけなら無料だ。本当かどうかは自分の目で確かめれば良い。
「あーし、この辺りの土地勘ねェし、外の物価もよくわかんねェんだ。良い店知らねェか?」
 意を決して言った後で後悔した。主婦なら兎も角20代中頃の男がまともに自炊する訳がない。聞けて惣菜と弁当くらいか。それだって安いかどうかわからない。
「あぁ、成る程な」
 期待しないつもりだったが、腕を組んで宙を見るロナは何か心当たりがありそうだった。
「業務スーパーマイルドが地域最安値だな。特に肉の値段が安くて漬け肉がお勧めだ。問題は量が多くて冷凍保存しないと使いきれない事だな。麦類も安くて助かるが、惣菜はそこまで美味しくない。結社の敷地から1番近い八百屋はナガーロ。野菜が安くて一人暮らしの味方だな。魚介も含めて大抵の物は揃っている」
 ザラザラっと出てきた店の情報。聞きたかった事をピンポイントで言われ過ぎて唖然としたせいか、聞いた情報が脳内を滑っていく。
「パンや菓子類ならデラックス。金曜日は卵の特売日だから早めに行くと良いと思うぞ。ドラッグストアだから薬や衛生用品も良心価格だな。冷凍食材はスーパーの24マルシェ。冷食以外はやや高めだけどな」
 店の情報が止まらないロナ。ロナの顔には優越感の類いは何もなく、調べた事を淡々と伝える空気だけがあった。
「美味しい弁当を考えるなら麦花屋っていう弁当屋で……」
「ちょ、ロナ待てよ。なんでそんな知ってンだ……?」
「え?何が不思議なんだ?」
「いや、そりゃァ……」
 遮って聞かれた事自体が不思議だと首を捻るロナ。流石に「自炊できそうに見えない」とストレートに言うのも憚られる。
 また黙り込んでしまったところで、何かに行き着いたロナが先に口を開いた。
「そうだな。俺の前職が剣道場の師範だってアンには話してなかったな」
 剣道場の師範。お高く止まりそうな肩書きが出てきて逃げたくなるが、話を聞くしかない。
「暫く一人で道場の切り盛りする傍で生徒達におかずのお裾分けをしていてな。初めての一人暮らしで食生活が乱れ気味な生徒に夕飯を食べさせていた事もあったな」
 まさかの自活のプロフェッショナル。しかも人の分まで作っていたとあっては驚きだ。
「本業経営の他に掃除洗濯炊事と副業。結局一人で全部カバーできなくなってな、家事代行に機械人形のミオリを買って……」
 そこまで言ってロナの表情が翳った。
 そういえば此奴もミクリカであの日の事件に巻き込まれている。道場の生徒にも被害はあったろうし、ミサキと同じく知っている機械人形に襲われた可能性も十分あり得る。
「何か悪りィな、色々話させちまッて」
「いや……気にする事なんてない。あの事件で辛いのは皆んな同じだろう?」
 ロナは否と頭を振り、顔から影を払い落とした。
「俺が胃痛持ちで胃薬は必需品でな。剣道場で怪我の手当に使う資材も必要で、まだクセが抜けなくてな……ドラッグストアは確認しないと気が済まないんだ」
 困ったような笑みを見せるロナが言うには、一番効く胃薬はジョニー・ヘルスケアのものらしい。マジュも自分も消化器系で困った事はないのでミサキの為に覚えておこう。
 メモを取り出し、覚えられた範囲の店を情報と共に書き込んで、一応確認の為にロナに見てもらう。
「一回しか聞いてないのによくこんなに覚えられるな……!?」
「言われた事を覚えられねェのは社会人失格だろ」
 何気なく言った事に目を丸くしているロナだが、剣道の世界はそんなに甘いのだろうか?
 メモ書きを手にあれこれ考え始めた自分の視界には、ロナの目に憂いが浮いた様子は入らなかった。

無自覚天然人誑しの代償

 この間、ミサキはロナを連れてアイスクリームを食べに行ったらしい。相当気に入られているようだが、だからと言って軽率に信用するわけにも行かない。先日聞いた店の情報は本当だったが、実は取り繕うのが上手いだけで裏があるのかもしれない。
 岸壁街の外とは言え、ミサキに危険な魔の手が迫らないなんて保証はなく。まずはロナをしっかり見極める必要があるだろう。
 そんなわけで、今はロナと近所の居酒屋に来ていた。誘ったのは此方だったが、店の選定はロナに任せるしかなかった。ちなみに今日はマジュの為にミサキが部屋に来ている。今頃一緒に購買のちょっと良い弁当を食べている頃だろう。
 妙齢の男女がサシで酒を飲める店へーー何か艶っぽい事を連想する輩もいるだろうが、山盛りの揚げじゃがを前にした自分たちは現在に至るまで家事の話から全く逸れていなかった。
「にんじんは一本ずつラップで包んで野菜室に立てておくと長持ちするな。2週間くらいだったと思う」
「野菜の保存にラップを使うンか……高くつかねェか?」
「うーん、切る前なら新聞紙に包んでも良いんじゃないか?詳しい事は俺もよく知らないんだが、前にテレビで紹介されていたと思う」
 そう言いながらつまみのタラ干しに手を伸ばすロナ。隙も無駄もない静かな動きは騒々しい居酒屋に似合わなかった。前線駆除班メンバーの中でも指折りの強さを持っていそうだ。
 主夫のような話をするロナから漂うこの空気感が妙に違和感がある。天然人誑しなのは間違いなさそうだが、どうも見た目の年齢と精神年齢にギャップがある。本人曰く25歳だそうだが、幾つもの修羅場を超えて身につけたような静けさがあった。それこそ、岸壁街の外にいた人と思えない程。
「あ、俺の事は気にせず飲んでくれないか?」
 沢山飲まない様にしてるだけだから遠慮しないでくれ、と付け足すロナ。
 人を疑わないこの真っ直ぐな目も、最初は好印象だったのが今は何だか居心地悪く思えた。先程確認したら、施設の出である事もマジュとは一滴も血が繋がっていない事も、ミサキから聞いていたと言う。世間的にはみ出し者の烙印を押されるような状態だと言うのに、ロナは眉一つ動かさずに対応を変えなかった。
 そんなロナを見ていると、どう足掻いても誰かをまともに信じられない自分の汚さと醜さが浮き彫りにされる。岸壁街の外に出た事が間違いだったのではないかとさえ思う。いつかこの結社が役目を終えた日に戻るかもしれないならそれで良いのかもしれない、とも。
 技術者の少なさで機械班に配属されたが、最初は前線駆除班に入る筈だった。もしかしたら此奴と一緒に仕事をしていたのかもしれない、と思うと四六時中近くにいる間柄でなくて良かったと思う。そんな歪に考える自分も嫌いだ。
 炊麦おにぎりの大量生産方法の話をしているロナには悪いが、あまり記憶に残せそうにない。
 隠す様に追加でビールをもう一杯注文した。

***

 目が覚めた時は結社から与えられた自室のベッドの上だった。隣りにはパジャマ姿のマジュがスースーと寝息を立てている。
 驚いて勢いよく起き上がるとズンと頭痛に襲われた。
「うっ……!」
「アン姐……?」
 不安そうな寝ぼけたマジュの声が聞こえ、安心させようと反射的にマジュの頭を撫でる。
「大丈夫。心配すンんな……マジュはまだ寝てろ」
 大人しく目を閉じたマジュは直ぐにスースーと寝息を立て始めた。
 いつもならきちんと自分で飲む量をセーブ出来ている。だが、昨日は気を取られる事が多過ぎたせいか思ったよりペース早く飲み過ぎたらしい。マジュの為に1時間でお開きにすると約束していたが、実際どうなったのかもわからない。
 マジュを起こさないようにしながら痛む頭を抱えてベッドから滑り降りる。キッチンで水を飲みながら朧げな昨日の事を思い出そうと試みるも、ロナと居酒屋に行って話しているところで記憶が無くなっている。
 マズイ。物凄くマズイ。
 部屋にいると言う事はロナは部屋まで送ってくれたと言う事だ。でも、部屋の場所は教えていないし、何より寝巻き姿で髪も解いた自分がいる。マジュがやるには体格差があり過ぎるし、今までマジュに着替えさせられた事はない。
「何が起きたンだ……?」
 ぎゅっと自分の腕で自分を抱きしめる。
 最悪のケースを念頭に置いて、何気なく玄関の鍵を見ると閉まっていた。マジュが閉めた筈と思いつつ、昨日持っていた鞄の中を探ると鍵は手元に無かった。部屋の何処にも鍵は無い。
 一気に血の気が引く。
 財布やその他の物は無くなっていなかったが、ロナへの持ち始めていた信頼感は荒屋が崩れる時のように無くなっていった。
 矢張り、岸壁街を出て気が緩んだ所為だろうか。見極めるつもりが失敗するなんて。誰かを信じてみようと思えば傷つく事ばかりだ。
 二日酔いの頭痛と自分の不甲斐なさに頭を抱えて座りこんでいると、玄関の鍵が勝手に開いて室内に短い影を落とした。
「何やってんの」
 朝から不機嫌そうな顔をした小さくて淡い人影がそこには立っていた。
「ミサキ!?」
「返しに来た」
 そう言ってミサキから投げ渡されたのは無くなった鍵だった。戸惑うようにミサキを見上げると、如何にして帰ってきたのかを溜息混じりで話してくれた。
 ミサキが言うには、帰ると言っていた時間より15分オーバーしたところで連絡を入れたそうだ。何回メッセージを送っても反応はなく、電話を掛けても出ない。予定の時間より1時間超過した頃にロナに電話をかけると直ぐに出たが、言われたのは「アンが飲み過ぎて動けないから送る」という事だった。
「部屋の位置は私が伝えた。予定の2時間超え」
 部屋までロナに肩を支えられて帰って来た時、既に眠っていたらしい。待機していたミサキとマジュに引き取られて、着替え後にベッドに押し込められたのだとミサキは言った。
「ロナに言われた。『絶対アンは飲み過ぎたらいけない人だ』って」
「癖が出たッて事か……?」
「そうなる」
 飲み過ぎた時の悪い癖ーー目の前にいるのが誰であっても愚痴を大量に吐いてしまう癖。今回に至っては困った事に何をどれだけ吐いたのか自分の記憶が殆どない。
「ミサキ……ロナ、何か言ってなかったか……?」
「『沢山苦労したんだな』とは言ってた」
 詮索されたのではなく自分から話してしまった事。唯一救いなのはロナが噂好きでは無い事くらいだ。昨日の居酒屋でも他人の話は出てこなかった事を信用の土台としておくが、自分のミスは大きい。今の悩みも岸壁街の事も院の事も聞かせる様な話ではないし、不幸自慢と思われても仕方ない。
 肩を落としてもミサキに慰めは求められない。そう言う人で無いのは知っている。
「後でマジュを褒めて」
 それだけ言い残してミサキは帰っていった。

***

 マジュを保育部に預けて出勤する。昨日の謝罪を直接伝えるべくロナを探したが、支部勤務だったらしくその日は会えなかった。
 その翌日、ようやく見つけたロナは資料室にいた。何を調べているのかはわからなかったが、後ろ姿からは負のどよりとした感情だけが読み取れた。声を掛けようと本棚の横から出ようとしたら、同じタイミングで誰かがロナに話しかけた。アクアグリーンの眼鏡とシナモン色の髪が見えた。
「あ、サオトメさん!何かお探しですか?」
「フラナガンさん……少し、調べ物がありまして」
 フラナガン……フィオナ・フラナガンか。確か総務部所属。避難所で結社に勧誘して来たのも、外の世界に溶け込めるように国民コード取得から始まる煩雑な諸々の手続きを助けてくれたのもフィオナだった。わからない事だらけの中で丁寧に面倒を見てくれたのは感謝しかない。
「忙しいならいいんですけど……ちょっとサオトメさんの知恵を拝借したくて」
「どうされたんです?俺で良ければ聞きますけど」
 手元の資料を閉じて元の場所に戻したロナがフィオナに聞き返す。そこから先はフィオナが声を小さくしたので内容は聞こえなかったが、ロナが丁寧に話を聞いて一緒に考えているのは確かだった。
 そうだ、ロナはそう云う奴だ。目の前に居るのが誰であろうと手を差し伸べる御人好しだ。朴訥で裏表のない、騙され易そうな奴だ。見てる此方が辛くなるほど素直な奴だ。其れでいて、身の丈に合わない向こう見ずな事はしない奴だ。
 一瞬でもロナを疑った自分を叩きのめしたい。
 フィオナがいなくなった時を見計らって今度こそ声を掛ける。振り向いたロナの目には嗤う様な色も、下心が透けて見えるような様子もなかった。
「この間は、済まなかった」
 深々とロナに頭を下げる。色々な意味でこの人は恩人だ。
「潰れた挙句、運んで貰って剰え愚痴まで聞かせちまッて……ンっとに済まねェ」
「アン……」
 顔を下に向けているのでロナの表情が見えない。だが、声には少し戸惑う様な響きがあった。
「そういう時は謝るより、ありがとうって言ってくれないか?」
 ハッとして顔を上げると、ロナの静かな晴れた空の様な瞳と視線がぶつかった。
「困った時はお互い様だろう?」
 そう言ってロナは破顔った。心の底からそう思っているのがありありと分かる、そんな笑顔だった。
「あ……ありがとう……」
「どういたしまして」
 どうにもただの礼を言うだけで妙に面映い。マジュには言うように教えていたが、当の自分はあまり言って来なかったと反省した。

 その後から、ロナとの関係は何も変わっていない。
 偶に外で飲んで、家事の情報交換をする。剣道場で子供の面倒を見ていたと言うから、参考になる経験を聞いたりする。此方からはミサキとの付き合い方を伝授したり、機械人形のメンテナンスについて話したりする。もし外出中に汚染された機械人形と出会したらどうするかも一緒に考えた。
 ミサキ伝手にロナに幻覚が見えているらしい事を聞いた時は信じられなかったが、帰り道に暗がりを見つめて表情が固まっている様子を見てから、ロナにも何か心傷があると理解した。本人から、最初に斬った家族同然の機械人形の事をずっと気に病んでいる事は聞いていたので、その絡みだろうとは見当がついた。自分に出来ることなんて殆ど何もないが、無理はしないように、それだけは言った。
 個人的には人前で一度潰れて大量の愚痴を吐いてしまった故か、強がり過ぎないようにはなった。食材の管理も前より上手くなったし、ゴミの分別にも気を遣うようになった。
 でも、周囲から聞こえてくる悪口は変わらないし、出身を変えることもできない。同僚に後ろ指さされる事だって何度もあった。
 ロナみたいな奴がかなり希少な存在なのはわかっている。大概の人は自分で確かめずに目の前にある情報に飛びついて判断を下すのだから。そんな連中に囲まれて生きていくには、人に期待せず諦めて何も感じずに目立たないでいる事が重要だ。孤児院で受けた仕打ちに比べればどんなところだってずっとマシだから。マジュとミサキさえ元気に育ってくれればその他は要らないのだから。
 だから。誰にでも優しいロナはそのままに、皆んなを救ってくれ。その優しさは諸刃の剣かもしれないが、きっと救われた誰かは一歩が踏み出せる筈だから。

 

応援は人の力になる

 ミサキに紹介されたその人は、見るからに怠そうな顔をしていた。テンションの低い人は世の中かなりの割合いると思うし、俺もそっち側だと思っているが、アンの低さは生きる覇気の微弱さになって表れていた。
 アンの放つ気配は何処かニュートラルで放って置けなかった。ミサキは目の前の面白い事を追いかけて崖に突っ込むような危うさだが、それとは違う感覚だった。放って置いたら眠るように死を選んでしまいそうな、そんな不安に突き動かされてついお節介を焼いてしまった。
 今まで暮らしていたところと全く違う場所で生活せざるを得ない、その点で俺はアンやミサキと何も違わない。元々どこで何をしていたとしても、人間である事に違いはないと俺は思っている。
 結社に入った順番はアンとミサキの方が先だったが、まさか地理がわからなくて自炊が難しい状態だとは思わなかったし、寮に入ってすぐに近所の店を調べ尽くしておいた情報がここで誰かを助ける事になるとも思わなかった。
 一度聞いた内容を一気に覚えたアンを最初は素直に凄いと思ったが、続いて「言われた事を覚えられねェのは社会人失格」だと言ったのは今までの経験の悲惨さを垣間見る様な気がして少し胸がつかえた。
 惚れた貼ったと言うより、どんな方法でも良いから幸せになって欲しい。一個人として生きていく事を応援したい。そんな思いが芽生えた。

 ミサキが言うにはマジュはアンの養子らしい。アンの年齢とマジュの年齢が微妙に計算が合うのは見たままだ。今まで色々詮索されて大変な事もあったのではと思う。
 そう思ったから敢えて何も聞かずにいたのに。
 アンに飲みに誘われた時、ミサキ絡みだろうとは直ぐに見当がついた。とは言え、会ってまだ数日の男女が飲みに行ったらそれこそどんな噂が立つ事か。ありがたい事に店の選定を任せて貰えたので、出来るだけ明るくて偶然見かけた人が勘違いをしても誰かに訂正して貰えそうな大衆食堂に近い居酒屋を選んだ。それに、小洒落た空気はアンが気詰まりだろうし、俺自身あの空気は苦手だ。
 それで行ってみた居酒屋ノスタルジァ。
 アンの目的はミサキ絡みであろうと思っていたが、何故かミサキの話は振られる事なく家事の話からアンは離れなかった。俺には想像する事しか出来ないが、小さい子を抱えての慣れない生活はさぞ大変なのだろう。
 もし気を遣いすぎているなら悪いなと思って「俺の事は気にせず飲んでくれないか?」と言ったが、それが良くなかったらしい。そこそこアルコールに強いと聞いていたし、普段の様子を見るに自己管理のできる人だから何も言わなくて大丈夫だと思っていたが、妙にペースが速いなと危機感を感じ始めた時にはアンの空気感は様変わりしていた。
 ニュートラルで気怠い空気は消え去り、深い闇を湛えて目をギラつかせたアン。この居酒屋の騒がしい空気の中でアンの周りだけ切り取られたような静けさに満ちていた。
 そうして呟くようにアンの口から飛び出したきたのは呪詛の様な数々の愚痴だった。機械班の中での腫れ物扱いであったり、日常に潜んでいる岸壁街蔑視の思想であったり、施設の出と聞いただけで向けられた憐れみの目や、マジュとの年齢差で勘繰られた事、赤髪なだけで通りすがりに罵られた事、可愛くもないのに息をするようにセクハラに遭う事。
 そして「海神の子ならずっと海に沈んでいれば良かったんだ」とアンが自らに刺した言葉。
 素面のアンに見えていたものはほんの氷山の一角に過ぎなかったのだ、と突きつけられた思いがした。偶に岸壁街に対する差別発言が聞こえても我関せずと聞き流しているように見えていたが、聞こえたものに表面上反応していないに過ぎなかったのだ。顔に出せず押し込めた感情は心の底に澱んで溜まり、出口を無くして濃い闇を形成していた。
 予想外の仕方でアンの闇に触れてしまい、どうすれば良いかわからなくなったところでミサキから電話が入った。アンに声をかけても目つきが元に戻らないので、寮まで送ると答えた。
 会計を済ませ、アンの肩を支えながら寮へ向かって歩いて行く。この背中にどれだけの心ない言動でついた傷があるのだろうかと考えれば、重苦しさに襲われる。
 寮の入り口まで来たところでミサキに連絡をして迎えに来てもらい、部屋まで運ぶ。その頃には疲れたのか何なのか、アンは既に眠っていた。
 玄関口で会ったマジュは俺の顔を見ても警戒する様な知らない人へ向ける目つきをしていた。わかっていた事とは言えちょっと悲しい。
「マジュ、赤い髪のロナ兄ちゃん。この間食堂で会った」
「ロナ兄ちゃん……?」
 名前は辛うじて覚えていそうだったが、こんな顔だったかなと眉根を寄せている。
「マジュちゃん」
 アンを玄関口に座らせてからマジュの目線に合わせて腰を落とす。
「俺はロナ・サオトメって言うんだ。何日か前にマジュちゃんと会ったけど、ちょっとしか話してないし忘れても仕方ない。覚えるのが難しくても、ゆっくりで良いからな」
 笑いかけてみると釣られたのかマジュの顔にも笑顔が浮かんだ。
「ロナ、状況は」
 濡れタオルでアンの顔を拭っていたミサキの問いに、「絶対アンは飲み過ぎたらいけない人」というところから始めて電話の後の話をかいつまんで説明する。
「あの状態でも会計別にするって言って聞かなかったんだが……凄いな」
「意識があったら割り勘って言ってた。本音が出たんだと思う」
 玄関で座り込んでいるアンの顔色は良いとは言い難い状態だったが、心なしか落ち着いた表情をしていた。
「それにしても、沢山苦労したんだな……」
「同情なら要らない」
 間髪入れず鞭打つようにミサキに言われたのは明確な拒絶だった。ある意味ミサキらしい。会ってからまだ日は浅いが、ミサキにしろアンにしろ中身の伴わない気休めを嫌っているのはなんとなくわかった。
「同情と言うか……これからする事で力になれる事があれば、何だって手を貸す。それだけ覚えていてくれ」
 拒絶されても仕方ないが、言わない限り伝わらないものがある。一人でも味方がいると思って貰えたらそれでいい。
 しばし遠くを見るような目で考えこんだミサキが不意に口を開いて、アンの腕に纏わりつくマジュに話しかけた。
「マジュ、シャワー行って」
「えぇ〜!?いきなり?ミィ姐なにさー!」
「これ以上遅くなったら寝る時間減って、明日皆んなが遊んでる時に寝る事になる」
 頑なに譲らないミサキに渋々従ったマジュがシャワー室へ消えていく。
 これ以上お邪魔しているのも悪いなと帰ろうとすると「少し話がある」とミサキに止められた。
「アンを床に放置するわけにいかない。ベッドまで運んで、途中で見たものは全て記憶から消去。できる?」
 試すような目付きのミサキにたじろいで一瞬後ずさる。そう来ると思わなかった。いきなりマジュをシャワーに行かせた理由はそういう事か。
「今『何だって手を貸す』って言った」
 ミサキが冗談で言っている訳ではないのは、真剣勝負の時の様なこの緊張感が物語っていた。
 非力なミサキと6歳児のマジュではアンを床に放置する他ない。
 何が本当にアンとミサキとマジュの為になるのか。否……俺はアンに床で転がったまま朝を迎えるなんてして欲しくない。
 色々な不安を押し込め、意を決してミサキと視線を合わせて頷く。
「わかった、引き受ける」
「ついてきて」
 アンを抱えてミサキに続いて部屋へ上がり込む。見たものは全て記憶から消去するようにと言われたので、出来るだけ真下の床以外を見ないように進む。足元の様子から決して散らかっていたわけでない事だけは分かった。
 ミサキの指示通りにベッドの上で壁にもたれかかるようにアンを下ろし、行きと同じく出来るだけ床以外を見ないようにして玄関口まで戻った。
「アンには適当に言っておく。ロナに迷惑はかけない」
 心配はあったが、ミサキの言葉を信じてその日は自室へ引き上げた。

 次にアンに会ったのは翌々日だった。
 資料室で幻覚に関係する資料を探していて、総務部のフィオナに「前線駆除の際に近隣住民からクレームが入った時の対処方針を作るので取材を」された後だった。
 深々と頭を下げたアンに謝罪をされたが、俺は謝ってほしくて手を貸した訳ではなかった。その旨を伝えると何か驚いた様子だったが、俺からすれば一方的に謝られる方が居心地が悪い。少し言いにくそうに、でもきちんと礼を言ったアンは荷が降りたようなさっぱりした顔をしていた。
 
 その後、アンとの関係性は何も変わっていない。
 一緒に定例会のように飲みに行くことはあったが、話の殆どは仕事かミサキか家事かその辺りだった。前線駆除班第4小隊長になって書類仕事が増えた時には報告書の書き方を教わったし、第3で問題を起こしたアサギが異動してきた時には機械人形と人の思考の違いや内部構造について教わった。アサギのPL-pluginを削除する時にはハードウェア面で世話になったし、問題が起きていないかも引き続きよく聞かれている。
 アンは機械班の中で居場所が見つけられたらしく、段々と表情が穏やかになっていったのも喜ばしい事だ。酒も飲み過ぎる事はなく、ちゃんとセーブ出来ている。顔色が悪い事については俺も人の事はあまり言えない。
 少し心配なのは、経理部に煩く言われて疲れる事が多いらしい事。機械班の中で無茶に経費で落とそうとする人がいる所為もあるらしいが、何もなくても来る輩がいるらしい。アンの様子を見る限り、怒鳴り声を聞いた時に恐怖の色が浮かんで戦闘態勢になりやすいとわかった。経理部から来るという人がそう言う人でなければ良いと勝手ながら思う。
 アンが言うには「大抵のことは何も言わずに耐えていれば、いつか過ぎ去って忘れられる」のだそうだ。でもそれが表面上である事にアンは気付いているのだろうか。諦めで蓋をされた感情の底に恨みが黒く濁って澱んでいると気付いているのだろうか。アン自身、わかっていてどうしようもないのかもしれない。
 だから、少しでも。アンの抱えた闇が解れるように、生きていく応援になるように、明るい見方を伝えられたらと思う。

 ちなみに、マジュに3回目会った時は「赤の兄ちゃん」と呼ばれた。まだ名前は覚えていないようだし、似たような色合いの人にも同じ事を言っているのを見かけたので、マジュは人間関係が前途多難だと思った。