ふわり。
その人とすれ違った時、その人の髪の毛からは花の様な香りがした。
「あ……」
良い香り。
ニコリネはほんの一瞬目を瞑り、うっとりとその上品で爽やかな甘さのある花の香りを堪能する。ぼーっと歩いていたから金髪の長い髪と言う事しか記憶に無いが、この上品な香りを携えているなんてさぞ綺麗な女性に違いない。
そう思ってすっと目を開けたニコリネの目の前には、急に目を瞑った彼女を不審そうに見つめるギルバートの姿があった。
「おい」
「………」
「急に目を瞑ってどうした?立ちくらみか?」
「………な、なん、ななん……」
「は?」
「ななななんれもないれす…」
サラサラと手入れの行き届いた金色の髪。充血した自分のソレとは比べ物にならない綺麗な瞳。ツヤツヤと整った、長い長いまつ毛。花の様な上品な香りが体中から漂っている気がする。
まさかそれら全てを携えているのが男性だったなんて。
「何でもないなら良いが。僕は行くぞ?大丈夫か?」
「は、はひ………っ」
「……気を付けるんだぞ…?廊下で倒れたりするなよ」
上品な身形と仕草に呆気に取られながらふと我に返るニコリネ。あんなに良い匂いのする男性が世の中に居るのか…と女としての自信を無くしかけたのだった。
* * *
「──と、言う事がありまして……」
「へぇー…意外だなぁ…ベネットさんから花の匂いねぇ」
もくもくと美味しそうにラズベリージャムの乗ったトーストを口に運ぶタイガ。思わず美味しそうなそれについつい見惚れてしまうと、タイガは嬉しそうにニヤニヤと笑った。
…もしかしてこれは、聞いた方が良い流れ?
結社に来てそろそろ半年以上、引きこもり時代には考えられない程たくさんの人と関わり少しは人の感情の機微を読み取る次のステップ、読み取った後の対応も少しずつ出来る様になって来たニコリネ。
そのニコリネの勘が正しければ、「パンの事をタイガに聞いた方が良い」。答えはこれで合ってる筈だ。
「タ、タタタタイガ君!!」
「え?」
「そ、そのパンはどうしたのかなー…?なん…てね、ふひひひっ」
「え?パン?どうしたって?」
「あの…その、そのパンってメニューに無かった気がして…どこで買ったのかなぁ…?とか…美味しそうだなぁ…とか、とかとか……」
自信が無くなりどんどん声が小さくしどろもどろしていくニコリネ。しかし、タイガの反応を見るにきっとこの質問は正しかったのだ。
目の前にいるタイガは、心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべている。
「……あぁ、このパンね。ふふ…これね、モナちゃんがくれたんだ」
「モ、もニャルださんが!?」
噛んだ。
「そう。ラズベリーのジャムを手作りしたから食べて欲しいって。本来のメニューに無いからこっそりねってくれたんだ。ニコリネさんも食べたい?もらって来てあげようか?」
「い、いいえいいえ私は!!お気持ちだけで…大変充分でして……!!」
噛んだ事などさしてどうでも良いかの様に『ヒギリから手作りのジャムを塗ったパンを皆に内緒で貰った』と言う事実をうっとりしながら話すタイガ。「一口食べる?」でも無く「もらって来てあげようか?」な辺り今あるこれを譲る気は微塵もないのだろう。分け与えたく無い程にそんなに好きなのか、ジャムパンが。
「ジャムパン、好きなんだねえー…!!」
「うん、ラズベリーのジャムパンは最近特にね。知ってる?ラズベリージャムってローズマリーが使われる事があるんだって。オレ好きなんだよね、ローズマリー」
「は、はぁ……」
うっとりとした表情でねっとりとした口調でローズマリーの名を口にするタイガ。
不思議だなぁ。陽キャと言う生き物に関してはまだまだ馴染みなく勉強中だが、花を愛でるのが陽キャのステータスなのだろうか?
「ニコリネさんはローズマリー好き?」
「あ、えっと…そ、そんなに意識した事は無い…かなぁ?ふひひ……」
「ふーん」
「え、えっと、どっちかって言うと植物の生態で一番感動したのは柘榴だったなぁって…へ、へへ……」
実は先程からただただ植物の話にシフトしていたニコリネ。彼女にとって印象的だった柘榴はミソハギ科の植物で、花がタコさんウインナーの様な形をしていて親しみやすいとニコリネは思ったし、その上実は栄養豊富で実際古来より人々の生活に密接していた果物だった。柘榴の実を絞った汁が血の様だの人の肉に味が似ているだの神話で語られているが、逆を言えば古い神話に取り込まれる程人間と近しい位置にそんな大昔の頃から生息していた事になる。
たかが植物されど植物。この柘榴と言う植物の「人の役に立つ度合い」を見、「私の役立ち度はどうせ柘榴以下だから…」と腐りかけた事もあったなぁと言うのは今では笑い話だ。
だから柘榴の方が印象深かったと語るニコリネに心穏やかでいられないのがタイガだ。彼のディーヴァ×クアエダムに関して特に優秀な脳味噌は瞬時に柘榴から不動のセンター、ソフィア・マーテルを連想した。
柘榴。
柘榴を持つ姿をよく描かれていたかつて他国の王朝に実在していたとされる王女。
その王女と同一視されていた神話の女神。
別の神話でこの女神と同一視されていた別の女神。
この女神の名前にはマーテルが付く。
ソフィア・マーテル。
──そんな具合に。
そしてこの優秀な脳味噌はその様な半無理矢理な連想ゲームから、「柘榴は実はソフィア推しのニコリネの匂わせなのでは?」と導き出した。ここまで三秒足らず。
「ニコリネさんってさ……」
「は、はいっ!!」
「…好きなアイドル居る…?」
「え!?…あ、アイドル…!?」
頭の中で色々と考えに考え、最近流行りの人が誰か、タイガみたいな陽キャなら一体どんな子をあげれば盛り上がってくれるか等々色々考えてはみたものの結局全く分からなかったニコリネは力みまくった頬を何とか歪んだ笑顔の様な形に仕上げ、
「よ、よく分からないんですよね…アイドル…ふひひ…」
と、最終的に無理な誤魔化し笑いに努める事になったのだが、ニコリネの匂わせを疑っていたタイガの中ではその疑いが晴れたので彼はいつもの様に無垢な笑みを彼女に見せた。
「そっか!」
「は、はい…!ふひっ」
お察しの通り、当初話されていた「ギルバートの良い匂い」の話題なんてどうでも良くなる程に濃いアイドルトーク、もとい匂わせによる水面下の攻防が行われかけて居た食堂。
実は限界アイドルオタクの素質すらあるタイガだが、幸か不幸かそれを目の前にしてもニコリネは彼のその素養には気付かなそうである。
I'm looking forward to hearing all your stories.