薄明のカンテ - 星に願いを/燐花
 お星様、お星様。
 どうか願いを叶えてください。



星のとおり道

「お母さん…?」
 保育部に迎えに来た人物を見たフランソワはおずおずと声を掛ける。何だか遠目に見えるその人はお母さんと髪の色が違う様な気がする。フランソワが「もしかして」と当たりをつけて近付くと、自分を待つ様にそこに立っていたのはヴォイドだった。
「お姉ちゃん!」
「迎えに来たよ」
「ホロウさんお疲れ様です。エルナーさんからは連絡もらってますよぉ」
 顔を出したオルヴォを見てフッとはにかむヴォイド。彼女を好意的に見ている人間ならばこのはにかみに少しどきりとするだろう。が、オルヴォは違った。
 これは多分、またぼくの名前を忘れた誤魔化し笑いだろうな。
 そう思うと乾いた笑いしか出てこないし多分それで当たりなのだと思う。何故なら案の定ヴォイドは「ありがとう。オルヴォ…ワシ…もにょもにょ」と何だか濁った言い回しをした。別に良いけれども。
 多忙なエルナー夫妻に代わってヴォイドがフランソワを迎えに来る事は偶にある事だった。その際にはロザリーかベルナールから連絡が来るのでオルヴォも迷う事なくフランソワをお願いする。最初は『岸壁街出身』と言う先入観もあり彼女の雰囲気に当てられ少し警戒していたオルヴォだったが、次第にフランソワの保護者の一人(と言うか、良き姉の一人)としてヴォイドを見る様になっていた。フランソワも彼女とは随分楽しそうに話すし、関係は良好そうで微笑ましい。
 この日もフランソワはヴォイドに駆け寄ると彼女の手を取る。そして目を合わせるとにっこり微笑んだ。
「お姉ちゃんお姉ちゃん!あのね、今日先生からおほしさまのお話聞いたの!」
「ふーん…お星様かぁ…」
「今ね、すっごくすっごーくおほしさまが近くに来てるんだって!おほしさまはね、近くにいる間気に入った子のおねがいごと叶えてくれるんだって!」
「お願い事ねぇ…」
「僕ね、お姉ちゃんのおねがいごと叶えてくれますようにっておいのりするの!」
「……もったいなくない?フランソワ、自分のお願い事すれば良いのに…」
「良いの!僕がお姉ちゃんのおねがい叶えてもらいたいの!」
「うーん…良いのかなぁ…?フランソワの大事なお願い事もらっちゃって」
「良いの!」
「……そっか…」
 ヴォイドはフランソワの手を握り返すと二人で前を向き機械班に向かった。出迎えてくれたロザリーがお茶とお菓子を用意してくれたので二人でもさもさ食べる。ロザリーとベルナールが仕事を終えるまでの間、二人はずっとお願い事について話していた。フランソワは頑として「ヴォイドの願いを叶えてくれる様に祈る」と譲らず、ヴォイドはヴォイドで「もったいなく無いの?」と繰り返す。
 そんな二人のちぐはぐなやり取りをロザリーとベルナールは微笑みながら見つめていた。
「お姉ちゃん、おほしさまに何叶えてもらうの?」
「うーん…急に言われても…何が良いかな…」
「うんと良いおねがいしてねお姉ちゃん!叶ったらおしえて!」
「ほらほらフランソワ、もしかしたら言いたく無いかもしれないしあんまりぐいぐいお姉ちゃんに迫っちゃダメよー。いっぱい秘密を持ちたがる人も中にはいるから、お姉ちゃんが「教えてくれる」って言ったらその時聞きなさいね」
「はーい!」
 子供だからか。ロザリーの言葉ににっこり笑うと気持ちを切り替えクッキーを頬張るフランソワ。ヴォイドは少し助かった様な顔を見せたのでロザリーもこれには苦笑いを浮かべた。
「ごめんねヴォイド。フランソワったらヴォイドの事大好きみたい」
「ううん、嬉しい」
「…ヴォイドがすぐお返事出来なかったの、お願い事が浮かばないからかしら?」
 ロザリーの言葉にヴォイドは少し泣きそうな瞳を彼女に向けた。
 彼女の言う通り、自分にはすぐパッと浮かぶ『お願い事』が無い。否、あるにはあるのだが、口にするのを躊躇ってしまう。少し前の自分なら『食いっぱぐれない職』だとか『三食おやつ付き』だとか、何ともロマンの無い事をすぐ口に出来ただろう。なのに、言えなかった。今は欲しい物が茫漠としていて上手く言語化出来なかったし、フランソワにそんな姿も見せたくなかった。
 綺麗なお願い事をする大人の姿を見せたいだなんて望む自分は格好の付け過ぎだろうか。
「…何が欲しいんだろ、私…」
「んー…何かしらねぇ?今のヴォイドが必要としてるものって」
「…誰かに、ぁ……えっと…」
「……誰かに傍にいて欲しいの…?」
「ん……上手く言えない…」
「ふふふ、良いんじゃ無い?今のヴォイドが抱えてる物ならきっと皆素敵な願いよ」
 マルフィ結社に来て衣食住も確保され、生きていくのに困らない生活をし出したら今度は温かい記憶を思い出し、縋りたくなってしまっている。誰かがいつも傍にいてくれるのが当たり前の生活。でも、その「誰か」がピンと来ないから上手く言語化出来ないし結果として願いも朧げにしかならなくなってしまう。
 とは言うもののせっかくならフランソワに言いたい言葉は「願い事叶ったよ、ありがとう」なので考えてみる。叶ってもおかしく無い難易度の願い、しかし叶ったら嬉しいと言うのが子供にも分かりやすい願い…。
「……難しくない?」
 いっそ何も考えなくて良い年齢まで戻りたい、なんて現実逃避をしてみる。明日、明後日は珍しく連休なのでそれまでに考えておいてフランソワに何を聞かれても上手く答えられる様にしておきたい。こう言う時に、子供に良い影響を与える答えが用意できる自分であれば、なんて思ってみる。岸壁街から離れて久しいが、こんな大人になれると思っていなかったなぁ。そう思いながらヴォイドは部屋へと向かう。
 次にフランソワに会うのはおそらく明々後日。だからそれまでに考えておきたい。少し気怠い感覚を覚えるが風邪だろうか。あまり引いた事は無いのだが。
「うーん…」
 とりあえず考えるのにも少し疲れたので寝る事にした。
「…その前にお茶でも飲もう」
 休憩所で最近気に入って飲んでいるお茶を買いに行こうと部屋を出てそちらへ向かう。兎頭国由来の色んな茶葉を混ぜたブレンド茶で、それは休憩所の中でも汚染駆除班近くの休憩所にしか置いていないのだ。ついでに帰って来たら念の為熱も測ろう。何だか妙に体が熱い。
「ん…っ!?ん、ぐぅっ…!?」
 休憩所まであと少しと言うところで異変に気付く。体の節々がとても痛い。急に熱が上がったのだろうか。だとしてもこれはとても痛くて何だか熱のそれでは無い気がした。例えるなら、強い力を骨に掛けられている様な。
「い、痛っ…!!」
 骨だけじゃ無い。皮膚も筋肉も、とにかく全身に何だか圧が掛かっている様だ。謎の痛みに恐怖を覚えるヴォイド。もしかしたら未知のウイルスでも入り込んでしまったのだろうか。
「何…これ…!?」
 廊下にとさりと布の擦れる音が響いたものの、それは誰の耳にも届かなかった。

 * * *

「あぁ…?」
 汚染駆除班の部屋に向かう途中、廊下に何かが捨てられている事にテオフィルスは気が付いた。まるでその場で脱衣でもしたかの様に乱雑に脱ぎ捨てられている衣服。一体ここで誰が何をやらかしたんだ。岸壁街のあらゆる施設の隠れたところで春を売る女が居た事を思い出し溜息を吐く。ここはそんな場所では無いしそんな事もあり得ないと思うのだが、何だかここに捨てられている服が彼女達が脱ぎ捨てたそれに酷似していてそう思うと直視出来なくなりそうだ。
 面倒事は放っておきたかったが、よくよく視界の端にちらつくそれが青一色の着衣である事に気が付きついつい近くまで寄ってしまう。やはり遠目に見た通り、医療班メンバーに支給された青いスクラブだ。
 故郷で見た女の面影は消えてくれたが、面倒事なのは間違い無さそうだ。こんなところに脱ぎ捨てられた服。医療班のものだが一体ここで誰に何があったのか。
 テオフィルスはじっとその青いスクラブを見つめる。やはりどこか変だ。これは洗濯カゴから落ちた、みたいな落ち方じゃない。ここに人が立っていて、その人の体をなぞる様にして落ちたと言うのが正しい様な脱ぎ捨て方だ。輪っかを作る様に落ちている衣服を拾い上げる。スクラブ、そして寒さを凌ぐ為の長袖のインナーウェア。
「…お……」
 そしてやたらカップが大きめのブラジャー。
「……ま、待て待て待て!」
 自分以外居ない筈の廊下で人の気配を感じ、隠す様に咄嗟にそれを懐に捩じ込んでしまった。体を抱える様に隠しながらきょろきょろするも不思議と人影は見えない。
 変だな、気の所為だったのだろうか。
 妙な気持ちになりながら更に漁ると、輪っかに脱いだ様な青いズボンと、ブラジャーとセットであろう似たデザインのパンツも見付けた。
 つまり、この服の主の女はここで服を脱いで裸で移動していった…!?
 そうは言っても、テオフィルスがあまりそう結論付けたくないのには理由があった。マルフィ結社に廊下の真ん中で真っ裸になる様な痴女が居て欲しいか居て欲しくないかで言うとそれはまあ、居て欲しいと思う気持ちは無くはないが、この医療班のスクラブにこの大きさのブラジャーの持ち主は一人しか心当たりが無かった。
「ヴォイド…だよな…?」
 幼馴染であり初恋の人でもあるヴォイド・ホロウのものだろう。そう思ったら、彼女が廊下で素っ裸になったなんて考えたくは無いし、百歩譲って実際なってしまったとして、その姿でどこに向かったと言うのか。
 男のところとかだったら嫌だなぁ…と考え、流石にその行動は彼女らしくないからと頭から結論を追い出す。しかし、そうなると余計この状況もよく分からない。
 廊下の真ん中で服を脱ぎ散らかすと言う行動も、ましてやそれを捨てたままどこかへ行ってしまうと言う行動も、とにかく全ての動きが彼女と結び付かず何だか妙な感じがする。
 何か妙な事件に巻き込まれたなんて事があったら…と胸騒ぎもするが、これはマルフィ結社の敷地内で起きている。外部の人間が関係していると言うのも考えにくい。
 どうしようかと頭を抱えていると、また人の気配を感じた。
「ひっ…!!」
 テオフィルスは驚きのあまり、今度は手に持っていたパンツを思わず懐に捩じ込む。誰にも見られていないよな?とキョロキョロすると、先程から感じる妙な人の気配が気になった。
「誰か居るのか…?」
 呼び掛けても廊下はしんと静まり返るだけで反応はない。けれど、人のいる感じが消えないのは何だろう。辺りを注意深く見回し気配の元を辿ってみる。しかし、人の姿は見当たらない。
 まさか…立ち入り禁止になった資料室で目撃の噂もあるし、幽霊…!?
 しかしどちらにせよここを通るのが汚染駆除班の部屋に行くのに一番近い為一歩また一歩と踏み出す。
 何かがこそりと動いた気がしてテオフィルスは慌ててそちらに目を向けた。
「何だ!?」
 ころり。
 どこから現れたのか、うつ伏せになって顔だけをこちらに向けたのは赤ん坊だった。おむつも服も身に付けておらず、キラキラした目をテオフィルスに向けた。そしてテオフィルスは気付く。先程から感じていた人の気配はおそらくこの赤ん坊から発せられていた物だと。
「え!?赤ん坊!?」
 どこの誰の子かは分からないが何も身に付けていないと言うのは流石に訳ありのにおいがしてくる。ただ、産まれたばかり…ではなく、一歳近い子供と言う印象であり、そんな子がこんなところに転がされていると言うのは尚更疑問だった。
「数ヶ月育ててここに置いた…!?いや、でも結社にそんな奴いたか…!?」
 どうしたら良いのか。赤ん坊を見つめていると、同じくテオフィルスを見返していた赤ん坊が顔をくしゃりと歪ませる。
「ふぇ…ふぇぇぇえっ!」
「わわわわわ!な、泣くなよ〜…!」
 流石に見知らぬ赤ん坊とは言え人通りの少ない廊下に置いて行くわけには行かず、転がっていたスクラブを拾い上げ体を包み込んで抱いてやると人の温もりに安心したのかちぱちぱと音を立てて指を吸い始めた。
「と、とりあえずこのまま汚染駆除班行くしかねぇか…」
 懐に女性物の下着を捩じ込んでいた事をすっかり忘れ、青いスクラブで包んだ赤ん坊を片手にテオフィルスは汚染駆除班の部屋に向かう。
 午前九時の段階で、彼の顔色は疲れからか真っ青になってしまっていた。そしてこの後部屋に行ったら絶対に絶対零度の女王クイーン・オブ・アブソリュートゼロにその冷たい冷たい視線を向けられるのだろうなと思うと更に顔を青くした。
 自分もこの面倒事の説明が出来ないのにまたそんな事象に首を突っ込んでしまった感が否めなかったのだ。

パパ頑張る

 部屋を開けた瞬間冷気が流れ込む。パソコンを使う事の多い班なので熱を溜め込まない為に冷房を入れているのだが、もしかしたらこの子にとってここは寒い部屋かもしれない。
 落ちていたスクラブで包んだだけの赤ん坊を胸にピッタリと寄せ、更に自分のジャケットで包んでやる。赤ん坊は冷気を感じた瞬間驚いたのかびくりと体を震わせたが、テオフィルスの腕にすっぽりと収まっている事を認識すると安心した様にまたちぱちぱ音を立てて自分の指を咥えた。
「…お前よく指吸うな。どれどれ…あ、指ふやけてら…」
「ぁんむぅ…」
「はいはい、この歳で一丁前にお返事返してくれんだなお前」
「テオ」
 声を掛けられてそちらを向くと、思っていたより五度程温度の低そうな目を向けたミサキが立っていた。ミサキはすっと差した指を赤ん坊に向けた。
「…何」
「え、ああ、そうだそうだ!えっとこの子は…」
 さて、何て説明したら良いんだ?ありのまま起きた事を話すなら『廊下に転がって居た』なのだが、その廊下にも謎が満ちていたので何と説明するのが相応しいのか…。
「なに…これ…」
「え?あ…」
 更に五度程温度が下がってそうなミサキの瞳に捉えられたのはテオフィルスの懐から出ている紐の様な物。抱いている赤ん坊が興味深げにしげしげと眺めて引っ張ったせいで顔を出していた様だ。テオフィルスが何か良い誤魔化しは無いかと頭を働かせていると、そうこうしている内にも赤ん坊はばたばた手を動かし紐を引っ張る。テオフィルスの懐からずるりとカップの大きいブラジャーが顔を出した。
「あぅあ」
「…女の下着、見知らぬ赤ん坊…」
「ま、待ってくれミサキちゃん!これは事故なんだって!」
「何がどう事故」
「いや、何て言うか下着に関しては間違えて持って来ちまったと言うか…そ、それよりこの赤ん坊!こいつ、この服と同じ様に廊下に転がってたんだよ!」
「たたいっ」
 きゃっきゃと笑いミサキに手を伸ばす裸の赤ん坊。ミサキも「もはやこの状況が事故」としながらもその優秀な頭をフル回転させ考えようとする。見た感じ首も座り握る力もしっかりしている赤ん坊。昨日今日産み捨てられた様には見えない。にも関わらずそれまでの生活を一切感じさせない様な出立ちなのが気になった。
 自分も孤児院の出なので置いていかれる赤ん坊を見た事があったが、往々にして産み落とされてすぐに捨てられた子でも誰かに託す気があるならおしめもおくるみも身に纏っている。本当に何も付けていないと言うのは、生まれてすぐに母親からその生を拒否された時くらいか。
 一方この子は生まれてから少なくとも半年は経っている。体も少しずつしっかりしてきておくるみに包まれてじっと寝ている月齢では無い。現にこの子も目に映る色々が気になるのか、先程からテオフィルスの三つ編みを掴もうと狙っているし、片手でそんな悪戯をしながらもう片方の手は自分の口に持っていき元気にちゅぱちゅぱ音を立てて吸っている。
 少なくともこれだけ動けるだけの行き届いたお世話を誰かにしてもらっていた子の筈だ。それが何も身に纏わずおしめすら付けられず、裸のまま廊下に転がされると言うのは確かに普通じゃない。
 その母親は半年以上もちゃんと面倒を見た我が子を急に手放したくなった、が状況としては一番推測しやすいが、やはり違和感が残る。そもそもとして仮にそんな理由だとしても、この子の周りにまるで脱ぎ捨てた様な女性の衣服が転がっている状況の説明にはならない。
「…その下着、もしかしてホロウの?」
 ミサキもこのスクラブ──つまり医療班のメンバーでこのサイズの下着を必要とする様な女性は見た事が無かった気がした。なので指を差しながらそう尋ねると、テオフィルスは少しだけ顔を赤らめて頬を掻きながらこくこくと頷く。
 つい昨日まで大事に世話をされていた様な状態の良い赤ん坊、そして脱ぎ捨てられたおそらくヴォイドの衣服。何から何まで乱雑過ぎてとてもじゃないが繋がらない点と線。しかし、この状況を肯定出来てしまう仮説が一つだけあった。あまりにも非現実的なその仮説とは、「この赤ん坊の正体がヴォイドである」と言う事だ。あの廊下を何らかの理由で歩いている最中に体が小さくなり転がってしまったと言う物。だがそれだって奇天烈極まりない話でお粗末な幻想小説の様なたらればだ。
 ミサキはあまりにも非現実が過ぎるその仮説を飲み込むと、テオフィルスのポケットに手を伸ばす。彼女の細い手で無遠慮にポケットを弄られ変な気分になっていると、抜け出た手には携帯端末が握られていた。
「連絡。保育部」
「あ、あぁそっか」
 兎にも角にも先ずはその道のプロに教えを請わねば。テオフィルスは携帯端末から保育部に連絡を入れる。オルヴォとは趣味も合ってプライベートな連絡先を交わす仲ではあったが、今彼は仕事中なので保育部に掛けた方が確実だった。
「あ、オルヴォ?悪ぃ、保育部に赤ん坊の服やおしめってあるか?…ああ、うん。それが、俺結社の廊下で赤ん坊拾っちまって──」
 えええええ!?と言う大きな声はミサキの耳にも届く程だった。テオフィルスは聴こえる前にサッと耳から携帯端末を引き離すと頃合いを見計らってまた耳に当てる。
「それで、赤ん坊の服とおしめが必要なんだよ。あるか?…うん、うん…。分かった、そっち行くから用意しといてくんね?」
 ピッと通話を切るとミサキに向き直るテオフィルス。この子を連れた状態で仕事は出来ないし、このまま投げ出すわけにもいかない。そう言おうとミサキを見ると、ミサキも分かっているかのように頷いた。
「臨休」
「…俺いなくて平気そう?」
「何とかする」
「ミサキちゃんに負担行くよなぁ…」
「平気。エフもトニィもいるから」
 自分の名前が挙げられない事に一瞬ぴくりと分かりやすく体を揺すったイオ。ミサキは横目にその姿を見ると「後イオも」と聞こえないくらいの声量でボソッと追加する。
「分かった。悪ぃな」
「帰って来たら休んでた分乗せる」
「そ、それはそれでキツイな…」
 とりあえず礼を口にするとスクラブに巻いた赤ん坊を連れて急いで保育部に向かった。

 * * *

「んまぅっ…うぅ〜…」
「お?どうした?」
「んむぅ、むぅう、えぅう…」
 突然ぐずり出した赤ん坊。テオフィルスは顔を覗き込んだ。
 そう言えば、よくよく見るとこの子はヴォイドに似ている。まだ脱ぎ捨てられた服の謎は解けていないけど、もしかしたらこの子とヴォイドは無関係では無いのかも。
 知らないところで彼女に子供が居た?いや、そんなにお腹の目立つ姿を見た事はないから多分違うと思うのだが。テオフィルスは今までの行動を振り返り、サボらずリハビリを続けていれば良かったと思った。そうしたら彼女の些細な変化にも気付けたかもしれない。自分が見ていない間に本当に子供が出来ていたとして、相手は誰なのだろうか。あまり考えたくない。
 義足で立ったままゆらゆら揺すってあやすのも難儀だ。座り込んで膝も使ってぐずる赤ん坊をあやしていると顔の横でサラリと絹の様な長い髪の毛が流れた。どこの女だ?と思い声のする方に顔を向けると、整った顔がどアップでそこにあった。
「こんなところで座り込んでどうし…」
「……あぁ…?お前、経理部の…」
「…うわー…マジかよ…三つ編みしてるからてっきり女の子かと思ったのに…」
「……奇遇だな。俺もそのサラサラの長い髪でどこの女が覗き込んだかと思ったよ、ぬか喜びさせやがって」
 それは経理部のギャリー・ファンだった。テオフィルスはそんなに親しく話した事は無かったが、経理部と言えばこのマルフィ結社で総務部に次いで顔が広いのではないかと思われる。
 何より、あのギルバート・ホレス・ベネットが所属しているのだ。ギルバートと言えば、貴族、貧乏、を自称する割に着ている服のグレードは高くいつも上質な物を着ている。ツッコミどころ満載の絵に描いたお貴族様だ。
 サボり魔のギャリーばかりトラブルメーカーかと思われがちだが、それはあくまで経理部内の話であり他班からすればどちらかと言うとトラブルをメインで起こしているギルバートの方が有名だ。かと言ってギャリーは諸々無実かと言うと決してそうではない。
「……へぇどうしただぁ?この赤ん坊」
 気の抜けたギャリーの言葉遣いに一瞬頭が真っ白になった。あれ?ギャリーってこんな言葉遣いなのか?
 うりうりうり、と口にしながら赤ん坊のほっぺをつんつん突くギャリー。やめろお前そんな乱暴に扱ったら赤ん坊の肌に傷が付くだろ。
「んむ、んむぅ〜…」
 鳥の嘴の様な可愛く尖った唇をしてじっとしていた赤ん坊も耐えきれなくなったのかつんつん突いてくるギャリーの指を掴み、指先を咥えた。
 駄目だそんなばっちいもの咥えたら。せめてギャリー、触る前に消毒しろ。お前みたいなやつどこの何触って来たか全然分かんねぇから。
 そんな事を考えていると、急にギャリーが悲鳴を上げた。
「…痛てててて!お前、吸い過ぎ!しかも歯ぁ立てたろ!?」
「おお…これ吸啜反射って奴か…!?」
「感動してなんで離してくれや!」
「おう、ほらほらそんなばっちぃもん咥えるなよー」
 しかし、なかなか指を離してくれない。とは言えこのままただ立ってる訳にもいかない。仕方がないので事情を説明し、指の自由が無いままのギャリーも連れて保育部に向かった。
「ウェイ系の陽キャ……」
 保育部に入って来たその大人二人──特にカンフースーツの方を見てオルヴォはボソリと呟いた。
「わー。本当保育部って子供ばっかだじ」
「テオ、この人は…?」
 ギャリーを伴って保育部に行くと、案の定オルヴォは彼の登場に目を白黒させた。まあ赤ん坊が来る事しか想定していなかっただろうし、多分オルヴォも常々あまり交流のないタイプの人間だろうとは思う。
「悪ィな…赤ん坊と遊んでたら赤ん坊が指離さなかったもんだからそのまま連れて来た」
「ま、赤ん坊ったって立派に女の子だからね!何となく離しちゃいけねぇイケメンってのは本能で分かるじゃねぇ?」
「…とか何とかほざくしよぉ…」
「あれ!?よく見りゃこの子裸じゃん!何で!?服は!?ってかおしめすらしてねぇし!へぇ大丈夫かやこの子」
「遅ぇよ気付くの…!!」
 自覚無く能天気過ぎる夫とその妻の様なやり取りを見て声だけで笑っていたオルヴォ。いつのまにか隣に来ていたフランソワは興味深げに赤ん坊を見つめていた。
「あ、フランソワ。お兄さん達にご挨拶出来るかな?」
「こんにちは…」
「ああ、フランソワか。ロザリーちゃんとこの」
「え?ロザリーちゃん?ほほう…この坊ちゃんがあの才女のお子さんねぇ…」
「こらこらそこのクンフー、子供に品定めする様な目を向けない」
 ギャリーの不躾な視線もそれを注意するオルヴォの言葉もものともせず、フランソワはテオフィルスの元へ近付くと彼が手に抱いている子供を見つめた。
「お兄ちゃん…それ赤ちゃん?」
「ああ」
「お兄ちゃん、お父さんなの?」
「…違うけど」
 とは言え自分自身がまだ状況を理解していないのにフランソワに伝えられるはずが無いので少しモニョモニョしながら彼の言葉を誤魔化す。フランソワは特にそこに答えは求めておらず単に思い付いた疑問を口にしただけの様で、尚ギャリーの指を掴んだままの赤ん坊をじっと見つめていた。しかし、その視線は物珍しいものを見ている目と言うよりは、何かを頭の中で確認している様な目付きに見えた。
「……お姉ちゃん…?」
 何故かフランソワは自分よりも小さな赤ん坊を見てそんな言葉を口にした。
「お?何だ?フランソワは赤ん坊じゃないだろ?赤ん坊から見たらフランソワの方がお兄ちゃんだぜ?」
 そう言いながらテオフィルスはフランソワの頭を撫でる。オルヴォに呼ばれたのでギャリーと赤ん坊を伴って彼の元へ向かうと、そこには紙おむつを手にしたオルヴォが立っていた。
「ところで、ぼくは君達がとりあえずこの子の世話をするって認識してるんだけど、それでオーケー?」
「ああ、俺はミサキちゃんから許可貰って臨休」
「俺は今日休み」
「じゃあぼくは通常業務の合間に上層に親探しを掛け合ってみるから、いつでも連絡取れる様にしといてね」
「…ん!?保育部で預かってくれないだ?」
「今のところ保育部は三歳以上の子しか居ないし教諭もそれに合わせた人数しか配置されていないんだよ。今後改善されていくだろうけどね。とりあえず今日のところはお願いします。この子も二人に良い感じに慣れてるみたいで泣かないし。子供が不安で泣かない環境下になるべくあるのが一番だよ」
 そう言うオルヴォに促され紙オムツの付け方を学ぶ。ベッドに寝かせて足を開いた状態でお尻の下にオムツを差し込んだ。
「ちなみに、自我の強い子だとこの段階で『オムツなんてしゃらくせぇ!』と言わんばかりに暴れて抵抗するからね」
「へぇ赤ん坊自我強過ぎねぇかや…?」
「皆そうやって子供時代を過ごしたんだよ」
 そんなオルヴォとギャリーの会話を横で聞いていたテオフィルスは、一点を見つめて一人頭を抱えた。
「……付いてねぇじゃん」
「そりゃあ、女の子だしねぇ」
「…どうやって拭いてやりゃあ良いんだ…!?男みたく適当にやっちゃ駄目だろ…!?」
「まあ、男の子なら加減とかも何となく分かるもんねぇ」
 いわゆるイクメンを目指して子育てを頑張ろうとするお父さんが一番最初に躓くのはここでは無いかとテオフィルスは思った。この子はまだオムツを嫌がって暴れる感じでは無さそうだが、もし嫌がるタイプの子で且つ女の子なんて状況下ならとてもじゃ無いが上手くやれる気がしなかった。
 ギャリーからも「大人のなら見た事あるけど暗がりだったしな…」等と保育部であまりに不適切な言葉が飛び出したところで慣れた様子のオルヴォは指を差しながら初心者二人にレクチャーする。
「良い?そもそも赤ちゃんのお肌はデリケートなんだけど、女の子の性器は構造上尿道も膣も近いからちょっと間違えると炎症を起こしやすいんだ。赤ちゃんでもカンジダとか罹ることあるからね。しかも症状は似てても治療薬は大人と違うから、独断で色々やらずおかしいと思ったらすぐ医療班に診せてね」
「お、おう…」
「責任重大だなこれ…」
「こうやってお尻とお腹を囲む様にしたらテープで止める。オムツとお腹の間に指が一本入るくらいの隙間を開けるのが良い状態だよ。首も座ってるくらいで歯も生え始めてる、もう離乳食も始まるくらいの月齢っぽいからもしかしたらテープタイプじゃなくてパンツタイプの方が良いかもしれないね、用意しておくよ。もし離乳食も食べてたらこの子は多分纏まっておしっこやうんちが出来る様になってるだろうから、生まれてすぐの子に比べたらオムツの取り替え回数は少ないと思うよ。ただし、出て来るものはもう大人と変わらないものだから頑張ってね」
 ギャリーとテオフィルスが話の六割を理解したかして居ないかくらいで聞いていると、新しいオムツを付けられ嬉しそうにぱたぱた足を動かしていた筈の赤ん坊は急に感情が死んだ様になり赤い顔でじっとする。そしてまさかのオムツには徐々に替え時を知らせる模様が浮かび始めた。
「あ、ちょうどよく今したみたいだ」
「き、急に感情死んだと思ったら…」
「凄いね、もしかしてオムツ着けられるまで我慢してたのかな?新しいオムツ着けられてほっとしたのかもしれない。じゃあ今からパパに新しいの替えてもらおうね」
「パパ!?」
「パパ!?」
 いきなり責任重大過ぎる。
 テオフィルスとギャリーは互いに顔を見つめ合うと口を開いた。
「お、俺三つ編みあるし…!」
「俺なんか存在が人妻っぽいし…!」
「どっちが『ママ役』かで揉めてないのそこの大人二人。どう足掻いても二人とも男でしょ。ぼくも見ててあげるから早速やってみて」
 言われるがままテオフィルスは赤ん坊の前に立った。先程オルヴォが付けたばかりのテープを剥がすとペロンとオムツを開く。つい先程新品のオムツをつけたばかりの筈が、そこにはもう大人顔負けの「お腹のどこに仕舞い込んでたんだ?」レベルの量のものが待機していた。臭いまで大人とほぼ変わらないと来た。これは大変だと思いながら顔を見ると、赤ん坊はテオフィルスを見ながらじっとしていた。一応、自分を信頼して待っていてくれるのか。そう思うと少しだけ頑張れる気がした。
「…で?先ずはどうすれば良いんだ?」
「おしっこだけならあれだけど…ちょっと緩めでうんちも出たね。少し汚れちゃってるから拭いてあげよう。さっきも言ったけど、女の子は膣、尿道、お尻の穴、全部近いから間違ったところにバイ菌が入らない様にしなきゃいけないんだ。とりあえず、お尻拭きの基本は前から後ろに拭いてあげる事。前から後ろって言う基本さえ守ってくれたら女の子の体が良く分からない男親でもそんなに怖がる事なくオムツ替えが出来るよ」
「ほほぅー…」
 テオフィルスに任せっきりの様に思えたギャリーも覗き込んでうんうん頷いた。テオフィルスはオルヴォに促されるままお尻拭きを取り出すと、優しく拭いてみる。
「そう、上手い上手い。割れ目や足の付け根の皺は汚れが残っていないか注意して拭いてあげて?ここは残りやすい注意ポイントだからね。ぼくも難しいと承知で言うけど、優しく傷付けないようにガシガシとは触らず、でもしっかり汚れは落としてやってね」
「あー…よく聞くやつだなぁ…初心者には正解が分かりづらいけど実際その通りだからそれ以外書き様のない言い方のアレだ…」
「そうなんだよね。でもテオ、上手いよ」
 その後ギャリーも教えてもらいながら少し実際にお尻拭きを使って触ってみる。テオフィルス以上に勢いのない、恐ろしがる様な拭き方ではあったが何の経験もない事を考慮すると上手い方だとも思う。
 新しいオムツを差し込み先程のオルヴォの替え方を思い出しながらテオフィルスは一人で履かせた。その時、ずっと真顔で見ていた赤ん坊が嬉しそうにきゃっきゃと笑い始めた。
 反してテオフィルスとギャリーの二人はやり遂げた達成感と神経をすり減らした疲れから早くもグッタリしている。
「二人ともお疲れ様。こんな感じなら心配しなくて大丈夫だよ」
「お、おう…」
「先生に言われちゃ調子乗るしかねぇわな…」
 そしてオルヴォの持って来た赤ん坊用のつなぎに手を通させると、やっと服を着せてあげられた事にテオフィルスもギャリーも安堵した。そんな二人の顔を見て、赤ん坊は得意げな顔で手をぶんぶん振り回した。
「へぇ似合うじゃん!?可愛いなーお前ー!」
 もうすっかり親バカな発言を繰り返すギャリーは髪を掴まれながらも頬擦りする。そう言えば、間違って赤ん坊が掴んだらいけないからといつもの大き目なピアスは外したらしい。髪の毛を掴まれ「禿げる禿げる」と繰り返すもどこか嬉しそうなギャリーは何かを思い付いた様に目に付いた涎掛けを掴んだ。
「ほら、これ似合いそうじゃね?」
「…何だこれ」
『我、最強の赤さん』とデカデカ印字されていた涎掛けを嬉しそうに赤ん坊に着けてやるギャリー。赤ん坊も意味を知ってか知らずか、ハッとした顔をするとフンっとまた得意げに鼻を鳴らした。

パパ頑張る2

 女の子のオムツと言う一大イベントはパパを少し強くする。保育部に入る前より些か凛々しく自信に満ちた顔で部屋を出て来たテオフィルスはその手に赤ん坊を、同じく凛々しく自信に満ちた顔に変わったギャリーはオムツや抱っこ紐、ガラガラ鳴るおもちゃをそれぞれ抱えている。
 我々は世の男親が四苦八苦する「娘のオムツ替え」をやってのけたのだ。自分達は全世界のイクメン達希望の星と言っても差し支えない。
「悪ィ。俺トイレ」
「はぁ!?赤ん坊どうするだ!?」
「連れて入れる訳ねぇだろが。お前抱いててくれよ」
「わー…マジかよ…」
 ワンオペ、父親と娘だけで外に出掛けている親子、そんなよく見る光景に在る人達の苦労を二人は全然知らなかったしやっとさわりだけ経験した感じだ。故に片方がトイレに入る入らないでギャーギャー騒ぐ。イクメンの希望の星にはまだまだ遠い。
「まぅ、あぶぅ…ぇう…」
「よーしよーし…お前は泣かなんでくれるから俺助かるよ。泣かれたら挫けそうだなぁ…」
 ゆらゆら揺する様にあやすギャリー。しかし、五分と経たぬ間に限界を感じ始める。世のお母さんお父さんはどうやってあやしているんだ?と疑問を浮かべた。手を止めたら泣いてしまいそうで止められない。だから暇だと思っても携帯端末も弄れない。暇過ぎてこれが永遠の時間に感じる。この世界には自分と赤ん坊しか居ないような、傍から見る事情を知らない人間は「幸せな事」だの「そんな事当たり前」だの好き勝手言いそうな状況だが、特定の人間と自分しか居ないような状況と言うのは控えめに言って気分が地獄に転がりやすい。それが話せる大人ならまだしも、言葉が通じず泣く理由も分からず泣き始める『自分が目を離したら死んでしまいそうに弱々しい存在』なら尚更。心が休まる暇も無くなるから尚更だ。
 育児ノイローゼになるお母さんお父さんの気持ちを一瞬にして理解し少し落ち込んだギャリーの目の前で彼の気持ちを高揚させるかの様に着物が揺れた。
「…セリカちゃん!?」
「あらぁ、今日和ぁギャリーさん…」
 セリカは少しキョロキョロし、ギャリー以外人が居ないのを確認すると彼の名前を口にした。最近二人しかいない時に限りセリカは彼のファーストネームを口にする様になっており、その恥ずかしげな仕草は彼女を気にしていたギャリーを瞬く間に虜にした。
「セリカちゃぁぁぁぁあんっ!」
「え!?どうしたんですか!?そんな泣きそうな声を上げ…て…」
「だぁうっ」
 セリカはギャリーの腕の中にいる赤ん坊の姿を捉え、固まった。
「…あのぅ…こちらのお子さんはどこの子で…?」
「え?あ、誤解しないで!ちょっと訳ありでさ…テオフィルスが見付けて保護したんだよ。ちょっと親に見当もない子でさ。色々あって俺も巻き込まれて今野郎二人で親の真似事してるとこ」
「そうだったんですかぁ…」
「俺ら二人でやっと親一人に及ばないくらい。いやぁ、世のお母さんお父さんは凄いねぇ」
 赤ん坊を揺らしてあやしながらそう言うギャリー。本人はまだまだ及ばないと言うが、一生懸命なその姿にセリカは少し『父』の立場になったギャリーの姿を垣間見た気がして嬉しそうにふふふと笑う。そんな彼女の笑みに気付き思わず照れが全面に出て来てしまうギャリーは、悟られまいとしどろもどろ口を開いた。
「え、えっと…あ!ほら!こうやって三人で並ぶと家族みたいじゃない?」
「えっ……」
 突如としてギャリーの口を突いて出た冗談めいた言葉にセリカは顔を真っ赤にして絶句した。自分がそんな姿をギャリーに見てしまったから?意識をしてしまうとそこに自分を加えた姿を尚更想像しやすくなってしまって照れてしまう。しかし、まだ決して睦まじい仲になって居ない男性とそんな話をするなどはしたない事だ。
 セリカは赤い顔を悟られぬ様、ギャリーから顔を背けた。しかし、耳まで赤らめた顔にギャリーもすぐに気が付く。もしかして、自分の言葉で意識してくれたのかなぁ…?と期待に満ちた目で茜色に染まる彼女の耳を見つめて居た。
「そうですねぇ……でも本当の自分の子だと嬉しいですねぇ」
「え!?」
 まさかそんな言葉を返してもらえると思って居なかったギャリーは不意打ちでボディーブローを食らった様な気持ちになった。それは反則だろう。そんな赤い顔をして、そんな事を口走るのは反則だろう。
「冗談ですぅ」と口にしたセリカの言葉を全部耳が拾う前にギャリーは彼女の手首をギュッと握って居た。あくまで痛くない力で優しく、でも力強く。セリカは急にそんな握り方をして来たギャリーをやり場の無い目で見つめる。彼の熱っぽい視線がただでさえ熱い自分の体と絡み合う様で、まだ恥ずかしさのあまり躱すしか出来ないセリカは凄く切なくて照れてしまった。
「あの…さ、セリカちゃん…」
「はい……?」
 ギャリーは一つ大きく深呼吸すると意を決した様に真面目な顔付きになった。

「今から俺と子供作らない?」

 セリカは先程とは違う温度で絶句した。

「はい…?」
「いや、俺も赤ん坊のお世話とかもっと自信持ってやれる気がして来たしさ…きっと俺とセリカちゃんの子なら可愛いよなぁって常々思ってて…」
「そうではなくてですね」
「へ?」
「今から?貴方と?ありとあらゆる段階を駆け足で飛ばして何をしようと言うお誘いですかぁ?それは」
「え?…あ、え!?」
 暗に、ではなく直接的に「これから子作りしましょう」と誘った事に気付いたギャリー。自分はただセリカが「自分の子と三人で並べたら嬉しい」と言って頬を赤らめたのを見て「いつか・・・それを叶えているのが自分だと良い」とそう思って口にしただけなのだが、当たり前の如くその言葉を受け取った人物には大変セクハラ紛いな謎の誘いをした様にしか感じてもらえていない。
「いや、子供作ろうってのは勿論未来での話なんだけどね…い、今からとは言ったけど俺の言う今からは『いつか』って意味でね…」
「ふーん…何のお誘いかと思いましたぁ」
「いや、でもセリカちゃんとシたいなぁってのは思ってるし…着物以外の物着てる姿も見てみたいなぁとかも思ってるし子供は別にしてもそれも本当に本当だし…」
 嘘をつけない男。誤魔化しを口に出来ない男。ギャリー・ファンはこうして今日も想い人から信じられないと言う目を向けられる。
「あらあら、私を何だとお思いですかぁ?」
「え、えっと…」
「ふふふ本当、そんな軟派な口説き文句いっそ誰にでもおっしゃいそうですね、ギャリー・ファンさん?」
 目が笑っていない。
 笑顔だが怒っている。
 やってしまったと失言に震えるギャリーを見て腕の中の赤ん坊は何が面白いのかきゃっきゃと笑っている。
「ふふっ、巫山戯た事言う口は縫い合わせてしまいますかぁ?」
「ほへんひゃひゃい(ごめんなさい)。ふぃふふぇんふぇふぃふぁ(失言でした)」
「あっぷぅっ、あっぷぅっ」

「…何だこりゃ」
 何故かセリカに頬を摘まれている、と言うか伸ばされているギャリー。
 何故かギャリーの頬をミチミチ音を立てて伸ばしているセリカ。
 それを見て唇をブルブル震わせ息をぶぅぶぅ吐きながら何故か笑っている赤ん坊。
 俺がトイレに行ってる間に頬を伸ばす事態は意味が分からないしその横で赤ん坊は一体何にハマったんだ?と頭に疑問符を浮かべながらテオフィルスは二人の間に割り込んで行った。

 * * *

「馬鹿だろー…」
 落ち込むギャリーから赤ん坊を受け取りベンチに座ったテオフィルスは膝で赤ん坊をあやしながらギャリーを見た。
「本当の事言おうとしたらえれぇ事になった…」
「そもそも何で本当の事を言っちまおうと思ったんだよ…」
 何となく分かってはいたが、テオフィルスがこのトラブルに割り込むのは悪手だった。どうもセリカ・ミカナギはテオフィルスに苦手意識を持っている様で、言葉の端と視線に棘を感じる。ギャリーとセリカは見ている感じ互いに特別視している様に見えるが、トラブルが起きると彼女の方が容赦をしてくれないタイプの様だ。
 そこに割って入るのがせめてバーティゴなら良いだろうが、ここにはテオフィルスしか居ないのでもうどうにもならない。
「流石に彼女でも無い子にいきなり『エッチしよう』はダメだろ」
「んな事言ってねぇ!」
「いや、結果としてそうだろ」
「嗚呼…セリカちゃんに嫌われた…俺生きて行けない…」
「うぅ…ぇう…ふぇぇぇえっ!」
 何故かギャリーの悲しみで赤ん坊が泣き出す。ギャリーは潤ませた目を更に潤ませ「俺の為に泣いてくれんのかー!」と頬擦りするが、テオフィルスは妙な感じがした。赤ん坊にそんな空気の読み方が出来る筈が無い。タイミングが合って偶々ここで泣いただけで理由は別にあるのでは?
 テオフィルスは慌てて赤ん坊の股に顔を突っ込む。においはしないしオムツを外して直に見るも尻も股も綺麗な物で、かぶれたり炎症していたりと言う感じは無さそうだ。赤ん坊はいきなりオムツが外れすーすーしたのか「ほぅ…」と声を出してぶるりと震えたが、直ぐまた何かを思い出したのかびゃーびゃー泣き出した。
「え…待て待て。理由、分かんねぇ…」
「へぇお前何がそんな悲しいだー?おかげで俺は悲しいのどっか行ったよー?何でお前がそんな泣くだー?」
 今度はギャリーが膝に乗っけて揺すったり体を密着させてお尻をトントン叩く。ギャリーの服は見る見る涙と涎でぐちょぐちょになるが最早彼もそんな物お構いなしだ。
 テオフィルスは一瞬考え携帯端末を握る。やはりここはプロオルヴォに判断を仰いだ方が良いのでは無いだろうか。しかし、本来その道のプロで自分より遥かに子供に理解あるオルヴォが今日は自分とギャリーにこんな小さい子を託したのだ。出来るだけの事はやりたい。しかし、泣いてる理由が分からない。聞いたって答えてくれない。
「…赤ん坊が泣いてる時、親ってどうしようもなく孤独だな…」
「俺…今より更に親子連れに優しくしようって思えたわ…何なら買い物行ってる間くらい俺が赤ん坊見ててやるで良いから悠々大人の世界を楽しんでって感じ」
「ああ…対赤ん坊って自分も当時の事なんか覚えてねぇし、あまりにも未知過ぎて…未知って孤独なんだな…」
 赤ん坊の泣き声には人を焦らせる作用がある。それは本能故か、赤ん坊が泣いているとやけにイライラする大人が多いのはそう言う理由だ。泣き声からトラブルを感じ取り、そのトラブルを嫌う大人が過敏に反応する。勿論、それを態度に表して親を攻撃する様な事はあってはならないが、赤ん坊の泣き声に嫌な感じを覚えるのは割と普通の反応だ。何故なら、ただでさえ悲鳴にも似た劈く様に高い赤ん坊の泣き声。そこに赤ん坊の感情も乗っかるのだから。
 不機嫌、要望、そしてそれが叶わないからと怒りで声を上げる。赤ん坊の泣き声にはこの様に癇癪を起こす時に付随する様な感情が往々にして乗せられている。それをまともに耳にし続ければどんなに子供が好きだと思っている人間でも参ってしまう。
 オルヴォから耳栓を貰えば良かったとテオフィルスは後悔した。耳栓は最近母親の精神の安定の為に勧められていたはずだ。言えばオルヴォもくれただろう。だが、どちらにせよ泣き止ませないと何処にも動けない。
 ギャリーが端末を使って「赤ん坊 泣く理由」も検索している。テオフィルスは抱っこをしながら途方に暮れていると、二人の元に近付く人間が一人。
「おやおやおや。随分と可愛らしいお子さんをお連れで。……え?どちらのお子さんですか?」
 外回りにでも行くのか、鞄を持ったロードが現れる。テオフィルスは座った目のまま「黒狐野郎…」と呟いた。
「うふふ、貴方からその呼び方をされるとは思いませんでしたねぇ。で、こちらの可愛らしいお子さんは?」
「…呼び方はこの間ウルちゃんから聞いたんだよ…この子は色々あって今日俺が保護した」
「別に不名誉では無いですがちょっとモヤっとするのでその呼び名は控えていただけると嬉しいですねぇ。ところで…」
 ロードは赤ん坊の顔を覗き込む。涙と涎でぐちゃぐちゃになりながらも泣き止む兆しが見えない赤ん坊とぐったりしている男二人。ロードは何となく察しが付いた。
「うふふふ、女性に泣かれると男はオロオロするしかありませんもんねぇ」
「…え?ロード、何でこの子が女の子って分かっただ?服だってどっちにも着せられるデザインのもの着せてたから分かんねぇかと思った…」
「うふふ、勘ですよ」
「流石ミクリカの風俗店制覇した男…遊び人怖ぇー…」
「その気になればヒヨコの雌雄の見分けも付けられるかもしれませんねぇ」
「意地でも女の子に反応するの怖ぇー…」
「まぁそれは冗談です。一種の会話テクの様なものですよ。『可愛いですね』と『女の子ですか?』は割とセットで使ってもそこまで嫌な顔をする人は居ませんからねぇ」
 ロードは泣き続ける赤ん坊をじっと見つめる。そして懐から消毒用のスプレーボトルを取り出し液を手に刷り込ませると、やっと赤ん坊の張り付いた前髪を指でついと撫で、触れた。
「うふふ、ふわふわな髪の毛の可愛らしいお嬢さんだ。何がそんなに悲しいんです?」
「…聞いて答えてくれりゃ苦労しねぇよ…」
「そりゃあそうですよねぇ。うーん…オムツは?」
「真っ先にテオフィルスが見た。何も無いって」
「何も出てねぇし尻もかぶれてるとかじゃねぇ。急に泣き出してしかも止まらなくなった」
「なるほど…」
 赤ん坊はおでこに触れていたロードの指に手を伸ばす。そして彼の指を口に咥えると泣きながらちぱちぱと音を立てて吸い始めた。テオフィルスは一瞬目を見開いたが、そう言えばさっきちゃんと自前の消毒用のスプレーで手を清潔にしておいてくれた事を思い出し彼のスマートさに舌を巻く。
 その時。あ。と、ロードが声を上げた。
 ロードは立ち上がりギャリーの方を見ると彼の持っていた赤ん坊お世話用の荷物に手を突っ込む。ロードは何かに気付き確信を持って探している様だった。
「あ、駄目、乱暴は…!乱暴はおよしになって…!」
「冗談言う元気があって何よりですよ。赤ん坊の相手してて冗談も言えなくなったらそれこそ悲劇ですから…あ、あったあった」
 取り出したのは哺乳瓶だった。
「お乳を飲んだのはどのくらい前です?」
「あ…そう言やぁ俺達まだ一回も…!」
「なら十中八九それでしょう。離乳食もいけそうな月齢の子ですもんね、エネルギー切れでしょう。お腹が空いて切なくなっちゃったんでしょうね」
「ふぇぇぇぁぁぁぁあっ!ふああぁぁぁぁあんっ!」
「よしよし、早くパパに用意して貰いましょうか」
 そう言ってロードはチラリと二人を見るが、二人はポカンとした顔でロードを見つめるだけだった。ロードは赤ん坊を抱いていないギャリーの首根っこを掴むと空の哺乳瓶を持って給湯室に向かう。
「メドラーさん、もう少しだけこの子の相手をしていてください」
「お、おう」
 数分後、ミルクでいっぱいになった哺乳瓶を持ったギャリーとロードが帰って来た。
「ほれ、初ミルクはテオフィルスにやるよ」
「え?ああ、サンキュ…」
 哺乳瓶を見付けた瞬間足をバタバタさせ手を伸ばす赤ん坊。テオフィルスは赤ん坊を横抱きにすると少し控えめに哺乳瓶を向けた。
「メドラーさん、頭を少し上げさせて下さい。そしたら乳首は口の奥の方へ」
「ああ…こうか?」
「上手く飲んでますね。お上手です」
「サンキュー、ロード」
 何か珍しいな。ロードが「乳首」なんて単語を出してもあまり卑猥に聞こえないなんて。と言うか、何でロードはこんな詳しいんだ?こいつ独身だったよな?自称、同担拒否強火独占欲過激派ガチ恋勢だったよな?で?成就もしてなかった筈だよな?
 疑問に思っているとテオフィルスより先にギャリーが口を開いた。
「ロード、何で赤ちゃんにそんな詳しいんだ?え?まさか知らぬ間に嫁さん居たり…?」
「うふふふ、まさか。私が愛してるのは一人だけです。その子の同担拒否強火独占欲過激派ガチ恋勢でまだ片想い拗らせ中なので。赤ちゃんに詳しいのはアレですよ、昔荒れたシキの事を理解しようとして色々本を漁っていたら赤ん坊のお世話まで行き着きましてね」
「「シキはいくつだよ」」
「あぅあ」
 飲み終わったのか満足そうににっこり笑う赤ん坊。ロードに促されテオフィルスは赤ん坊をポンポン叩きゲップをさせてやる。ロードがささっとテオフィルスの服と赤ん坊の口の間にガーゼを敷いてくれたので何かと思ったらゲップをさせた後少しだけ汚れていた。ゲップの際、やはり少し逆流して口から出る事もあるらしい。独身、同年代。自分とほぼ立場は変わらないのにそこまで手を回せるロードにテオフィルスは複雑な目を向けた。と言うかシキの面倒を見ようとして赤ん坊まで行き着くって凄いな。
「うふふふ、お腹がいっぱいになりましたねぇ」
「あぅ、むぁう…」
「うふふ、可愛いですねぇ。ほーらこっち見てください、未来の旦那様ですよー」
「へぇどさくさ紛れに何口にしてるだ?」
「うふふ、この子にはそう言わなきゃいけない気がしまして」
「ロード、お前変な刷り込みするなよ?俺は認めないからな…」
「急に親バカになるじゃないですかメドラーさん」
 とは言いつつも、窮地を救ってくれたので抱かせてやる。ロードは抱くのも上手かった。しっかり抱かれ赤ん坊も安定感があるのか、お腹も満たされたのもあって落ち着いている。その内指をまたちぱちぱと吸い始め、にこにこ抱いているロードを凝視すると赤ん坊は吸っていた指をまさかのロードの顔に擦りつけた。
「おやおや」
「こらこらおチビ!やめろやれ、涎とミルクのマリアージュを人の顔に擦りつけちゃいけねぇ!」
「濡れティッシュあるから良いんですけどね」
「ばばい、ばばい」
 自分で擦り付けておいて「この人ばっちぃです」と言わんばかりに指さす赤ん坊。そんな狼藉を働かれても許してしまうなぁと思いながら三人は穏やかに小さい命赤ん坊を見つめた。
「そうだ。次のおやつの時間に是非この子にアレを食べてもらいたいですねぇ。材料教えるんで作ってあげてください」
「へぇアレって何だや?」
「バナナヨーグルトです。バナナとプレーンヨーグルトを食べやすく潰して混ぜてあげただけのものですが、お菓子を食べない方が良い赤ちゃんからしたら気軽に摂れる良い甘味でしてね。味を表情で表してくれるんで見てる大人も大変面白いんですよこれが」
 そう言うとキラリと目を輝かせ赤ん坊がロードの顔を見た。
「ぶぁぶぁぶぁ?」
「うふふふ、ええ。バナナですよ」
「むぁむぁ…」
「そう、お喋り上手ですね。バナナ」
「あばば」
「ああ、それが離乳食か?」
「うふふ、味の情報を顔から発信してくれるんで面白いですよ。昔シキにもやってあげたものです…」
「「だからシキはいくつだよ」」
 疑問を残す様な思い出を口にしながら赤ん坊を抱っこするロード。ロードに助けられてまた少し自信を付けたテオフィルスとギャリー。そんな三人に囲まれて安心した様にいつのまにかすやすや眠ってしまった赤ん坊。
 人を世話すると言うのは本当に大変だ。おまけにこの子はまだ言葉が通じない。でも、嬉しいだったり、気に食わないだったり、一丁前に伝えようとしてくる。何より寝ている姿は可愛いものだ。
 赤ん坊を起こしたくなかったロードは楽な姿勢で横抱きに抱えると自然と手で背中をリズミカルに叩く。この子は関係ない。そう思うのに、何故か愛の日に泣きじゃくってしまった彼女を落ち着かせようと抱き締めた日の事を思い出していた。
 それがとても幸せで、何故かこの子からも同じ幸せを感じる。

 ──この幸せを噛み締め今夜も夜這いに行きますか。

 赤ん坊から離れがたく長居したロード。彼にしては珍しくその日目的地に向かうのに少しだけ遅刻した。

にゃんにゃにバトンタッチ

「すみません、主人マキール…」
 ギギギ…と音を立てて足を動かしながらヨダカは呟いた。ユウヤミは「別に気にしなくて良いよ」と口にし、いつもの様にふっと笑うが珍しくヨダカは悔しげな顔を見せる。
 先の任務でヨダカは足を破損した。汚染された機械人形がいると連絡を受け急ぎ向かった第六小隊。いつも通りの手腕を発揮し相手を追い詰めたユウヤミだったが、彼の予想を越えた最期の力を発揮したものがいた。
 ユウヤミを小隊の頭と認識し、最期の力を振り絞って彼に攻撃をした個体が居た。それに気付いたヨダカが彼の代わりに盾となり、その際足の関節やケーブルが切れた様だ。帰還してすぐ機械班に赴いたが、直ぐには動く様にならずそうこうしている内にまたしても通報が入ってしまう。機械人形であるヨダカはユウヤミが居ないと自由に外に出られない身だが、ヨダカの持つ監視者と言う性質上それはユウヤミ自身もまた然りだった。ユウヤミとヨダカは互いに互いが自由に動ける状態で無いと結社から出られない。ミクリカ食い倒れ祭の時みたく出し抜いても悪くはないのだが、今日はそんな気分でもなかった。
「珍しいですね。主人マキールが大人しく従うなんて」
「まぁ、あの子の力量を試す良い機会かな?とも思ってねぇ」
「──エドゥですか」
「うん。行けない私とヨダカの代わりに彼を小隊長代理に、なんてなかなかさせてあげられない経験だろう?サオトメ君にいざと言う時の事を任せてはあるけれど今日はウーデット君がメインで指揮を取る様にしたんだ。たまには良いんじゃないかい?はてさて、彼はどう采配を振るのか…」
 愛の日もよく働いてくれたしねぇ、と口にするユウヤミ。ユウヤミが汚染された機械人形の状況から導き出し、結論付けた答えが「エドゥアルトに任せても大丈夫」だったのならヨダカが抗議する理由は無い。
 ユウヤミは物思いに耽る。汚染された機械人形の予想を越えた最期の力の振り絞り。あくまで機械であると言う計算で叩き出したシナリオならあの場でもうあの機械人形は動けなかった筈なのに。今際の際でのこんな動き、まるで人間の様じゃ無いか。
 未だ収束しないギロク博士のテロ後の汚染。ユウヤミは目を瞑ると人間の様な最期の力を見せた機械人形を思い返し、何とも気持ちの悪い心地になった。
「そう言えば…今彗星が大接近している様だねぇ」
「天気さえ良ければ流星群が見える…とも言いますね」
「数十年に一回あるかないかレベルの大接近。昔から言われているらしいよねぇ、『願いを叶える星』の存在」
 珍しく超自然的な話題を持ち出すユウヤミにヨダカは頭の中で色々と計算をする。そして至極冷静な顔でユウヤミを見た。
「なるほど。で、主人マキールは何をお企みで?」
「信用無いなぁ、何も企んで無いよ。ただ、昔からそんな言い伝えが脈々と語り継がれていると言う事はさ、叶えられた前例でもあるのでは無いかと思ったりしてね」
「…そんな話を信じる人間、私は第三小隊のエレオノーラ・ブリノヴァしか知りません」
「ふふっ、彼女意外とオカルト好きだからねぇ…でも惑星の引力と言うのは侮る事なかれって言わないかい?ジャングルで引き起こされるポロロッカも引力によって起きるって言うし、もっと自然的な話をするならば満月の夜は出生率が多いとも言うだろう?月の光に誘発されるとはよく言ったものじゃ無いか。それに、本当に何も無いなら世界各地で未確認飛行物体によるアブダクションやキャトルミューティレーションなんて起きないだろう?」
「お言葉ですが、ポロロッカと出生率はまだしもキャトルミューティレーションには真相が存在した筈ですが」
「分かって無いねぇヨダカ、つまりはロマンだよ。科学的な真相とは別に『人々の求めた答え』と言うのはさもそれが真実であるかの様に今日に至るまで生き続けているものだ。怪談話も超常現象もそう、神の見えざる手の様なものは存在していてね。それらは人々に忘れられない様あらゆる手を使って世の中に『科学で解明できない別角度の真相』として発生し続ける。似た様な都市伝説が数百年単位で繰り返し流行してるってロマンだと思わないかい?」
「それと流星群と何の関係が」
「神の見えざる手の様な、それらを引き起こす存在が流星群だとしたら?願いを叶える存在がこの星の近くを通り掛かる時、合図の様に流星群が発生する……みたいな空想を描けそうな偶然が発生してるってなかなか面白いよね?と思って」
「なるほど、見切り発車で話し始めたので何かと思いましたが特に深い話では無かったのですね。そりゃあ、そう言った口伝えの非科学的な話を知っている人間が二百万人も居ればたまたま流星群のタイミングでとてつもない幸運に恵まれる人は一人や二人居るでしょうし、そう言う人間は往々にしてその幸運を特別な事象流星群と結び付けるでしょう」
 話も終わり掛けたその時、ヨダカを呼ぶ声があった。工具を持ったロザリーだ。呼ばれたヨダカは彼女の元に向かう。やはり引き摺ったその足は歪に曲がっており、配線が切れているのか自力では動かせなさそうだ。そんなヨダカを見届けてユウヤミは一人呟く。先程話には出さなかったが、機械人形のヨダカは信じられないだろうが非科学的な物が実体を持つ瞬間と言うのは長い歴史の中で多々あったのだよ、と。
 幽霊や悪魔や奇跡、未確認飛行物体やエイリアンが科学の根拠無しの状態で現れる。平行世界を生きる者同士が偶々交わってしまう様な証明の難しい事象。
 何故かそんなものを引き寄せる強さをユウヤミはこの流星群に感じていた。とは言え自分も証拠有りきで論じる探偵の端くれ。この世の事象の全てに理由があって、その理由を元に事件は起きる。職業柄、火の無いところに立つ煙など認めてはならない気もするのだが、何だか第六感で感じる様な変な予感をユウヤミは肌で感じた。

 * * *

 選ばれた人間の願いを叶える星。
 それが紛れている流星群。
 果たしてこれはどんな事象をモデルにしているのか、はたまた全て実際に起こった事なのか、或いは願望が都市伝説の様に形になった事なのか。

 機械班にヨダカを預けて彷徨うろつく。先にヨダカに報告しておいたので今日は結社内ならある程度自由が利く。資料室にあった資料は図書室に移動して借りるのも自由だったし、第六小隊から連絡を貰った時にすぐに指示を出せる様いつでも通話の出来るところにいればそれで良い。
 さて、今日は何の本を読もうか。そう思って廊下を歩いていると、目の前にいつもより早歩きのロードが見えた。
「マーシュ君…?」
 珍しい。いつも時間に正確な彼が焦りの色を浮かべて駆け足で廊下を抜けて行くだなんて。寝坊かな?
 そう思いながら角を曲がると、ユウヤミの目に予想していなかった光景が広がる。見た事のない赤ん坊とそれをあやすテオフィルスとギャリー。この二人と赤ん坊と言う組み合わせのイメージが付かず、ユウヤミはいつもより少し丁寧に頭の中を整理した。
「にゃんにゃ…?」
 その時、舌足らずな声がユウヤミの耳に届く。赤ん坊に呼ばれたのだ、と気付いた時にはユウヤミはその無垢な存在につられて微笑み返しをしていた。
「にゃんにゃ!にゃんにゃ!」
 ギャリーに抱かれた赤ん坊が瞳にユウヤミをがっつり捉え、嬉しそうに指を差していた。
「お?ユウヤミ」
「やあメドラー君、ファン君。と、そちらのお子さんは?」
「迷子だよ。何とも意味分からん状況下でテオフィルスが拾った。多分ちょっと訳あり」
「へぇ…」
 ユウヤミは赤ん坊の顔を覗き込む。何だか不思議な色をした瞳を見て唐突にヴォイドを思い出した。岸壁街の出身である彼女の過去の姿を見る術は無い。カメラに残している筈も無いだろうから、きっと彼女の昔の姿を知る人間の思い出の中にしか存在しないのだろう。ましてこんな赤ん坊の姿など覚えている人間はもういないかもしれないが、昔はこんな姿だったのかもしれないと思わせる程顔のパーツが彼女を彷彿とさせる赤ん坊だった。
「にゃんにゃ…!」
 その赤ん坊が、自分を瞳にガッツリ捉えて手を伸ばしている。何となくその要望に応えたくなってユウヤミは赤ん坊と目線を合わせるべく腰を低くした。
「あ、ユウヤミ」
「何だい?メドラー君」
「それ、やめた方が──…」
 わしっ。
 赤ん坊は「どこからそんな力が?」と思う程の握力でユウヤミの髪の毛を無遠慮に鷲掴んだ。
「──こうなるからさ」
「ち、ちょっと痛いなぁ…」
「にゃんにゃ!にゃんにゃ!」
「おーいおチビ!分かった!分かったからユウヤミ兄ちゃんの髪の毛離そうか!禿げたらいけねぇでな!」
 手を優しく掴んで離す様促すギャリーだが赤ん坊はなかなかユウヤミの髪の毛を離さない。どころか、にゃんにゃー!と大声をあげると毟る勢いで今度は両手で掴み始めた。
 あ、やばい。ストレスとかで自然に抜けるので無く外的なもの凄い力で強引に一気に抜けた十円禿げ出来そう。
 そう思ったユウヤミは、手の動作でジェスチャーもしてテオフィルスに意思を伝えると、彼から赤ん坊を預かり抱っこしてみる。父親の様に抱っこが様になっていたテオフィルスから預かる形になってしまうので泣くか暴れるかするかと思ったが、赤ん坊は意外にも落ち着いていた。
「よいしょ。全く痛いなぁ」
「にゃんにゃ!」
「にゃんにゃ?猫っ毛って事かい?」
「にゃにゃー、にゃんにゃー」
 不思議な事に、ユウヤミが抱っこをした瞬間に赤ん坊は嬉しそうに手を離した。
「ふふ、スッポンに雷みたいだねぇ」
「ユウヤミに抱っこしてもらいたかったのか…」
「だぁだ」
 しかし安心したのも束の間、テオフィルスに返そうとした瞬間今度は髪ではなく彼の襟を掴んで離さない。全く、赤ん坊はどこにこんな力を持っているのか。
「あはは、絞まる絞まる首絞まる」
「抱くと離すのにそうじゃないと掴むってお前なぁ…」
「にゃんにゃ!!」
「ユウヤミに抱っこしててほしいのかねぇ、おチビ」
 ギャリーがそう口にしたので、テオフィルスはユウヤミに伸ばしていた手を少しだけ震わせて引っ込めた。本当はまだこの子を抱っこしていたいのだろう。しかし、この子が別の人間の抱っこを望むなら自分は──…!!そんな強い意志を彼から感じた。
「おい…俺はまだ認めねぇからな…!!」
「うん、分かっているよ…」
「おチビの事…頼む…!!」
「ああ…私が責任持って抱っこをするよ…」
 ギャリーは白けた瞳でそれを見届ける。そして時計を見ると、「とりあえず昼飯にしねぇ?」と力の抜けた声で呟いた。
「さっきロードから聞いたバナナヨーグルトでもおチビに食べさせようぜー?」
「んむぅ…ばばば!?」
「そ。バナナ」
「ああ…そうだな。とりあえず離乳食をゆっくりゆっくり食わせて…吐き戻さねぇかちゃんと見て、それからオムツを取り替えて…!ユウヤミ…チビをお前に託すのはそれからだ…!!」
 ユウヤミは血走った目のテオフィルスに捉えられ、少しだけ背筋を正した。

「…急速に湧いた父性か……子離れは難しそうだねぇ……」

お昼を食べましょう

「はい、赤スープセット二つと白スープセットお待ちどう様です!」
 ヒギリはにこにこしながら受付業務をこなしていた。何故なら目の前に彼女が大ファンであるテオフィルスが受け取りに来たからである。彼は食堂の出入り口をチラチラと気にしながら少し元気なさげにトレーを受け取った。
「…テオさん、もしかして外で食べるの?」
「あ、ああ…泣き出すと周りに迷惑掛けるからさ」
「周り…?泣く…?」
 ヒギリが何が何だか分からず頭に疑問符を浮かべながら食器を用意しトレーにとんと置くと、置いたヒギリの手を誰かが包んだ。
「やぁヒギリちゃん、今日も可愛いね」
「あ、ギャリーさん…」
「今夜暇?一緒にご飯でもどう?」
「えー…ギャリーさん会う度言うじゃないですかぁ…まぁ別にお夕飯くらい良いですけど」
「え!?本当!?」
「でも今日はダメです」
「何だよー…あ、ヒギリちゃんスプーンくれない?」
 ヒギリは「今置いたけど…?」と言いながらトレーを見る。確かに置いてあった。ギャリーの目は節穴なのだろうか。
「ああ、俺赤ん坊用が欲しいの」
「あー!なるほど、赤ちゃん……赤ちゃん!?」
「そ、赤ちゃん」
 ヒギリは青い顔になると後ずさった。自分を含め誰彼構わず女の子と見れば気軽に声を掛ける人ではあったが、まさかまさか誰との子なのかとうとう自分の赤ん坊を連れてご飯を食べに来たと言われるとは。いや、そんなノーマルな話でなくむしろ次彼が狙っているのはまさかまさかの赤ん坊…!?赤ん坊を育て上げ行く行く自分の理想のヤマトナデシコ(ヒギリの中ではギャリーの好みはヤマトナデシコだと決め付けがあった)を手に入れる為に世話をしているとか彼ならあり得たりするのかもしれない!!
「ふ、不潔!ギャリーさん不潔!!」
「何で!?俺オムツ替えた後手ぇ洗ってるぜ…!?」
「二人同時に言える事だが、二人とも激しく違ぇ」
 割って入ったテオフィルスはヒギリに事情を説明する。ただし、親が不明な素性の知らない迷子の赤ん坊だなんて明かしたら騒ぎに発展する気しかしないので、オルヴォが上層と相談しつつ進退を決めてくれると言うそれまでは誰かに聞かれたら「親戚の子」で通そうと言うのを先程ユウヤミも含めた三人で決めたのだった。
「な、何だ…ユウヤミさんの親戚の子かぁ…」
「そうそう、俺の子じゃねぇって」
「でもギャリーさんならいつか食う為に育てる農婦のおばさんみたいなのもあり得ると思うくらい本当怪しかったんだもん…」
「うそ!?こんな誠実な男世界広しと言えど俺くらいでしょ!?」
「え?何?よく聞こえないなー…」
「そ、その反応は無くない!?」
 目の色から「テオフィルスの親戚の子で良いのではないか?」とユウヤミは言った。けれど、テオフィルスは断った。何となく岸壁街出身の自分の親戚と言うよりは、アスで探偵業をしていたユウヤミの親戚と言う肩書きの方が真実味が増す気がしたのだ。過去が不明瞭だとしても、テロ直前に居た場所がアスと岸壁街では天と地ほど差がある様な気がした。そんな風に卑下する場所では無いよ、とユウヤミは更に言う。けれどテオフィルスは首を縦に振らなかった。
「赤ちゃん用の食器…宜しかったらこちらお使いください」
 すっと出て来たノエが先の丸いプラスチックの小さなスプーンを見せてくれる。可愛いデザインのカラフルな食器の向こうに赤ん坊の嬉しそうな顔が見えた気がしてテオフィルスは微笑んだ。
「…宜しかったらご飯もご用意しますが」
「え?赤ん坊にバナナヨーグルトやろうと思ってたけど、足りねぇかや?」
「それはあくまでデザートですのでそれだけでは足りないかもしれません。粥麦ウィミ・バツを柔らかくふやかしてそこに煮たカボチャをほぐして入れるのはどうでしょう?火を通したお魚もご用意しましょうか。お子さんが喜んでお食べになってくれたら良いのですが…」
「頼んで良いか?」
 テオフィルスがノエに言うと、ノエはにこりと微笑んで頷く。フリッツ・カールで腕を奮った料理人に離乳食作ってもらうなんて贅沢な事だな。
 ちらりと出入り口に目をやるとユウヤミの頭が見えた。続いて赤ん坊のふにふにした手も見える。まだ出会って数時間なのにもう父親の気分になってしまい、赤ん坊の姿が見える度テオフィルスはふっと笑みを零す。正直見過ぎと言う程見ている気がするが致し方ない。
 何故なら赤ん坊は可愛い。が、想像以上に、思ったよりユウヤミに対赤ん坊スキルが無さ過ぎて何をしでかすか分からないと言うのがテオフィルスの本音だった。
「ま、またユウヤミの口がボソボソ動いてやがる…!アレやめろって言ったのに…また赤ん坊に呪文のごとく蘊蓄吹き込んでやがるな…!?」
「テオさん…パパさんみたいだね…」
「ヒギリちゃん、俺は?」
「ギャリーさんよりテオさんの方がちょっと心配性に見えるかな」
 要はギャリーよりテオフィルスの方がお父さんっぽい印象が強い。そう言ったヒギリの後ろからふやかせた粥麦ウィミ・バツに蒸したカボチャを混ぜた小さなお椀、白身魚をペーストにしたもの、バナナヨーグルトをよそったお椀を用意したノエが顔を出す。テオフィルスとギャリーはお礼を言ってそれを受け取り廊下で待っている赤ん坊とユウヤミのところへ急いだ。
「おーいユウヤミ!ノエが赤ん坊の分の離乳食を…」
「──五、八、十三、二十一、三十四、五十五、八十九、百四十四、二百三十三…」
「だぁ、だぅ、あむ、ぅおう」
「そうそう、数字を読むのが上手だねぇ。これが黄金比に近付く数列だよ。数字が増えれば増える程美しさに磨きがかかる、なんて少し芸術的だよ。自然界にあるものでこれを体現している事で有名なのはポム・ド・パンかもしれないねぇ。それじゃあ次はこれをご覧。これは『DNA二重らせん』の図だよ。いつ見ても面白い形だよねぇ。さて、遺伝子が発現されるにはまず何の過程を経るか」
「あぅあ、だぁだ、うぁう」
「そうそう、転写、移動、翻訳を経てタンパク質を生成する」
「面倒見ててくれとは言ったが何つー紙芝居だよ」
 テオフィルスの姿を捉えたユウヤミが手に持っていたフリップを伏せた。赤ん坊は物足りないのかうーうー言いながら伏せられたフリップに手を伸ばす。食事を運んで来るから傍であやしていてくれとは言ったが、まさか彼が例えるなら『対象年齢プラス十歳』とも言えるものを用意して嬉々として見せていると思っていなかった。テオフィルスは信じられないものを見る目でユウヤミを見た。
「おいユウヤミ、もっと子供向けの絵本とか無かったのかよ…」
「それがねぇ、試しにブルーぼうやのパチモン絵本を見せてみたのだけれど、やっぱり偽物は嫌だったのか大泣きされてしまってねぇ」
「絵本見せられて大泣きする赤ん坊って何だや」
「ブルーぼうやのパチモンをチョイスするのもどうなんだ」
 はい赤スープセット、と呟いたギャリーが座っているユウヤミの目の前にトレーを置くと、食べ物だと分かったのか赤ん坊が食べたそうに手を伸ばした。
「あぅ…むぅ…」
「それは大人のだからお前にはまだ早いよ。ほら、お前のはこっち」
 ギャリーがユウヤミの席の隣に粥麦ウィミ・バツとふやかしたカボチャを和えたものの皿を置く。そしてユウヤミの膝から抱き上げると赤ん坊を彼の隣に待機していた専用の椅子に座らせた。赤ん坊は目を輝かせると「きゃあっ!」と喜びに満ちた声を上げ早く食べたいと言わんばかりに手をぱたぱたさせた。
「メドラー君にバトンタッチだねぇ」
「俺だって初めてだし上手くやれるか分かんねぇけど」
 お前ら先に食べてろと言われたので遠慮なくユウヤミとギャリーは各々昼食に手を出す。ふう、やっと一息つける。テオフィルスは目下格闘中だが。
「ほら…お前まだ食べるの下手くそだな…」
「うぁ…むぅ、んむぅー…」
「そうそう。あむあむってしな。お、急に食べるの上手ぇじゃん」
 一緒になって声を出して食べるのを誘導してやって、こぼれない様に唇に添わせてスプーンを当てる。そうして拙く食べる赤ん坊を見ながら柔らかく笑うテオフィルスの横顔を見てユウヤミは微笑んだ。何だか本当に親子みたいだなぁ。
「本当に親子みてぇだなテオフィルス」
 口に出したのはギャリーだった。
「そうか?」
「ここ数十分で急にパパの顔になったじゃん?あ、あれか?オムツ替えてからか?」
「あぁ?んなの関係あんのかよ?」
「いやぁ…微塵の下心もなく女の子の股に顔突っ込むとかなかなか出来ねぇって」
「しょうがねぇだろ。おチビだって女の子なんだから大事な体にかぶれなんて作ったら可哀想じゃねぇか。場所が場所だし」
「行動理念はいつもどおりだな」
「大か小か、臭いで何となく分かるしな。まあ、こいつ結構出が悪いのか踏ん張るからそれも分かりやすいけど…」
「君達、曲がりなりにも今食事中なんだけれどねぇ」
 子育て談義も熱くなると時折周りが見えなくなる。うん、食堂から離れた場所で食べて良かったなぁとユウヤミは思った。それにしてもいつになく意外なメンバーで食事をしているものだ。汚染駆除班のテオフィルスはまだしも経理部のギャリーと食事だなんて間違ってもしなさそうなのに。
「にゃんにゃ…にゃんにゃあ…」
 じいっと此方を見る赤ん坊。ユウヤミは頭に手を伸ばすとそっと撫でてやる。赤ん坊は嬉しそうに笑顔を見せた。
 間違っても共にしなさそうな人間と食卓を囲んでいる。これもこの子が喚んだ縁なのかと思うと少し不思議な気分だ。ヨダカも傍に居ない、普段なら関わりの少ないメンバーがすぐ横にいる、けれどユウヤミはこの珍しい状況を楽しむだけの余裕があった。

 * * *

「ロードの言ってたバナナヨーグルトだが…本当にバナナとヨーグルトを和えただけなんだな…」
 大人である自分達は何となくその味を想像出来る。そしてとてつもなく単調な味ではないのかな?と少しだけ思った。一応ノエに確認を取ったが、今回使った材料はプレーンヨーグルトとバナナだけ。加糖の甘いヨーグルトは美味しく食べれるが無糖はなぁ…と訝しげな顔を見せるギャリーに少し同意しつつスプーンに掬うと赤ん坊の口に持っていった。
「ほれ、あーん…」
「むぁー…」
「はい、もぐもぐ…」
「むぅ…むぐ…」
 もっちゃもっちゃと音を立てて食べていたが、しばらくすると赤ん坊は顔のパーツと言うパーツを中心に寄せ、とんでもなく酸っぱい顔で悶絶し出したので目の前でそれを見ていたテオフィルスはひっくり返りそうになった。
「ぬーん…!!」
「な、何だ!?聞いた事無ぇ声上げてるけど!?」
「おお、面白ぇ。本当にぬーんって言ってらぁ」
「どうやら想像以上に酸っぱかったらしいねぇ」
 しばらく「ぬーん!」「ふーん!」と言う不思議な声を上げていたが、あげて体に悪いものでは決してないし赤ん坊も声こそ上げているものの口はひっきりなしに動いている。つまり美味しいのだと思うのだが、いかんせん聞いた事のない声が上がる度三人は赤ん坊のリアクションがツボにハマってしまい静かに笑った。
「あ」
 しばらくすると、ヨーグルトの後に来たのであろうバナナの甘味に赤ん坊はにっこり笑った。
「ああ…後に来たバナナの甘味ににっこりしているねぇ…」
「お、おいユウヤミ…!冷静に分析するなよ…!」
「あっはっはっは!赤ん坊って面白いねぇ。食べ物への反応が全部顔から伝わってんじゃん」
「凄いねぇ…バナナとヨーグルトだけでこんなに一喜一憂出来るのだねぇ、赤ん坊と言うのは…」
「にゃんにゃ!」
「はいはい、まだ欲しいみたいだねぇ」
 何となく求められたのでユウヤミもあげてみようとスプーンを握った。ちょうどいいくらいの量をそこに掬ってやり口に運ぶ。じいっ…と見つめてくるので「はい、あーん」と言葉にすると、安心した様に口を開けた。ユウヤミからその言葉が出るのを待っていたらしい。そう思うと何だかくすぐったい心地になった。
 口を動かす度口の端から入りきらなかったバナナヨーグルトが溢れてくるので、上手くスプーンでそれを拾い上げまた口に運ぶ。ユウヤミがそうすると、彼を見ながら同じ様に口を動かし上手に食べた。
「あんむぅ…んむぅ…」
「…美味しいかい?」
「…ぬーんっ!!」
「どう足掻いても酸っぱいんだねぇ」
 その後、口の中に広がったバナナの甘さにまたにっこりする赤ん坊だった。

パパ達の事情

 食事を終えて腹も満たされた。満足したのかオムツを濡らした赤ん坊の身支度も整えてやり、テオフィルスは約束通り渋々赤ん坊をユウヤミに抱かせた。
「メドラー君、無理しておチビ君を渡してくれなくて良いのに…」
「くぅっ…!俺だって渡したくねぇよ…!でも、チビがユウヤミのところに行きたいって言うから…」
「にゃんにゃ」
 にこにこ笑って自分に手を伸ばす赤ん坊。ユウヤミはその姿を見てくすりと笑うと抱いたまま顔を擦り寄せてみる。先程の様な無理矢理な引っ張り方はせず、赤ん坊はそっとユウヤミの襟を掴むと彼の頬にこつんとおでこをぶつけてきた。
「俺は認めねぇ…!まだ嫁に出すなんて認めねぇからな…!ロードも自分の事『未来の旦那様』だの何だの…結社の黒い男共は赤ん坊相手ですら油断も隙も無い…!!」
「話が飛躍し過ぎていないかい?」
「あはは。テオフィルスってば、えらい面倒臭いパパになりそうだな……って、ああっ!」
 突如張り上げられたギャリーの大声に赤ん坊はびくりと体を震わせた。そしてそのまま呆けた様にユウヤミにぴとりと寄り添う。ユウヤミは宥める様に赤ん坊の体を摩ってやると迷惑そうにギャリーを睨んだ。
「ファン君、おチビ君がびっくりするじゃないか。急に大声上げるのはやめ給えよ」
「悪い悪い…急にギルバートから端末に連絡来ちまって…悪いけど俺ちょっと経理部行かなきゃ」
 どうにも昨日の仕事でギャリーが目を通した書類にサインを書き忘れていたと言う理由だった。署名の記入はそれが目を通した者の証拠になるのでどうしても本人が記入せねばならないと言うのだ。ギャリーは面倒臭そうに顔を顰めると携帯端末をいじり始める。そして頭の中で思い付く限り不備が出たであろう書類を確認し始めた。
「全くギルバートもお堅いよなぁ。良いじゃんね?不備の書類の一枚や二枚や三枚や四枚や五枚…」
「いや多いだろ」
「…八枚や九枚や十枚や十一枚…」
「多いって」
「ともかく、そんな訳で俺一度おチビと離れなきゃ。ごめんなおチビ、パパすぐ戻るからね」
 赤ん坊の頭に手を伸ばすと、赤ん坊も嬉しそうに自分から頭を擦り寄せた。
「可愛いー!!やっぱ良い!すっぽかす!ギルバートなんざ知るか!!」
「良いから言ってる間に早く行け!!」
 ギャリーは彼にしては珍しく早歩きで経理部に向かう。普段なら遠回りに遠回りを重ねて行くであろう経理部の部屋。その日彼は寄り道もせず真っ直ぐ向かった。
「あ、じゃあ俺もちょっと…」
 テオフィルスは上着の内ポケットに手を入れると少し控えめに呟いた。ユウヤミは彼の上着からはみ出ている紐の様なものが気になってはいたが、まあ何か事情があるのだろうなと指摘せずにいた。
「君も席を外すのかい?」
「あ、ああ。でも俺の方がギャリーより早いよ。ちょっと廊下で拾い物してさ。持ち主に心当たりあるからそいつのところまで返しに行こうと思ってさ」
「なるほどねぇ。だって、おチビ君。しばらく私と二人きりになるみたいだよ?」
「にゃんにゃ?」
「うん、不安だねぇ…」
「にゃんにゃ…ぁう…」
「ねぇ…私も寂しくて泣いちゃうかも」
「いきなりいつもと百十度くらい違うキャラになるなよユウヤミ。おチビも、ユウヤミが居てくれるから良い子にしててくれよ?なるべく早く帰ってくるから」
「相手の女性・・から大目玉食らわなきゃ良いねぇ。私も君が無事に帰れる事を祈っているよ」
 懐に入っていたのが女性ものの何かだとユウヤミにバレている。テオフィルスは相変わらずの観察眼の彼に舌を巻くと同時に「今日はその観察眼は発揮しないで欲しかった」と少しだけ文句をたれた。

 * * *

「全く…!君は常日頃うっかりが多過ぎるんだ!もう少し経理部としての自覚を持ってだなぁ…!」
 ギルバートに予定外のお小言を食らい、ギャリーは最早心ここに在らずな顔でそっぽを向いていた。
「はいはいごめんって」
「…念の為聞くが僕より年上だよな?君…」
「でもギルバートより人間出来てないでな、残念ながら」
「もっと残念がれ…」
 ギルバートが呆れたところでやっと解放して貰えたギャリーは、顔出した分給料貰えないかなー?と呑気な事を考えて部屋を出た。当然出してもらえる訳はない。ギャリーは大きく欠伸をすると時計を見た。結構体感よりも時間って過ぎるのが遅いものだ。そして想像以上に疲れていた。赤ん坊に振り回された半日がやっとまだ過ぎたところ。任せてしまったが、ユウヤミとテオフィルスの二人がいるから自分が少しくらい遅れて戻っても大丈夫では無いだろうか。
 赤ん坊の世話と言うのは想像以上に疲れる。自分の子でも無ければ何の責任も無い子供だからまだ少し気楽だが、それでもあの子の元にいち早く帰ろうとは未だ思えていないし、これが我が子に対してだったらと思うとギャリーはゾッとした。
 自分みたいなのがもしも本当に父親になったら。
 ギャリーには父も母も居ない。正確には記憶にあまり残っていない。父と母と過ごした時間は大変短く、ある時祖父母家に預けられたと思ったらそれきり二人は帰って来なかった。この歳になっても未だ理由は聞いていないし祖父母も自ら進んで話そうとはしない。生きているのは知っている。そこまでは祖父母も話してくれた。だが何処に居るかまでは知らない。
 今更理由なんて何だって良いし今が楽しいから別に聞こうとも思わない。大人になった今なら何となく「夫婦間の問題からの双方の育児放棄だったのではないか」と想像している。野生動物には多数存在する育児放棄の事例が人間にだけ当て嵌まらない、なんて事はあるはずが無い。
 だからきっとそうなのだろう。二人を責める気は毛頭無いが、両親と言う身近な事例がある以上「自分がそうなる可能性は高そうだ」とも思ってしまう。
「俺バカ…デリカシー無さすぎ、ガキ」
 セリカに軽はずみに変な事を口にした午前中の事を少し後悔し始めたその時、曲がり角で誰かにぶつかってしまいギャリーは慌てて相手の肩を掴んで抱き留めた。背の低さやその人から香る空気で瞬時に女性だと認識した上での抱き留めである。間違っても男にはやらない。
「あらぁ、すみません…私余所見してしまっ……あら?」
「セリカちゃん?」
「…今日はよく会いますねぇ、ファン・・・さん?」
 この反応、多分未だ怒っている。
 ギャリーは居た堪れない顔のままセリカをじっと見た。でも、抱き留める際に伸ばした手は離さなかった。
「あのぅ…この手は離してくださらないので?」
 二人のすぐ横でいわゆる陰の気配を撒き散らして居そうな男が「廊下でイチャついてんなよ」と言いながら通り過ぎて行ったのでセリカは火を噴きそうな程赤い顔になったのだが、ギャリーはそんな彼女に尚更詰め寄った。
「離さない…離したくない。離したら逃げるでしょ?」
 セリカを壁に追い詰めたギャリーは自分の体と腕で壁を作り彼女を逃げられない様にする。これはいわゆる壁ドンと言うやつだと、ギャリーと関わって以来偏った知識が付いてしまったセリカはそれに気付き、視線も手もどこにやったら良いのか分からずホールドアップした。
「セリカちゃん、ごめん。俺また一人突っ走った事言ったよね」
 赤い顔でホールドアップしたセリカの頭上からそんな言葉が掛けられる。何かこんな状況で前にも似た様な事を聞いたなぁと思い、ついついムッとしてしまったセリカは口を尖らせた。
「もう…ギャリーさん、そんな話で私に謝るのもう何回目ですかぁ…?」
 その瞬間、肩を掴む手に力が籠る。そして頭上から戯ける様な声では無く、酷く真面目で真剣な声が降ってきた。セリカは驚きのあまり声に釣られて上を向いた。
「──でも、冗談じゃないよ。軽い気持ちで言ったんじゃないから。って言うか…セリカちゃんじゃ無かったら言わないし…」
 そこまで言ってギャリーはまたセリカの顔を覗く様に近付いた。セリカがあまりにも赤い顔で居るものだからギャリーも少し照れ臭くなる。
「いや、まあ…シたいってのは本当…。でも、赤ん坊の事はちゃんと話し合って、将来的にって思ってるよ。そんな軽率に言う事じゃねぇけど、でもセリカちゃんとならって思うのも本当だって」
「ギャリーさん…」
「だから、その…大人な関係になりたいってのは本当だけど、するべき事はちゃんとするし、その一個先の話は…望みたいけどセリカちゃんの気持ち第一だから!」
 言い切り、恥ずかしそうに乱雑に頭を掻くギャリー。雑に扱われた前髪がはらりと乱れ彼の余裕の無さを表している様だった。セリカをじっと見つめ、赤い顔や恥ずかしそうな顔色を全て誤魔化す様に距離を詰めるとギャリーは口を開く。
「…キスして良い?」
「え…?えぇ…!?」
「ねぇ、セリカちゃん…駄目?」
「こ、このタイミングで言いますかぁ…?」
「…ムードとかちゃんとセッティングしてたら良いの?」
 俺は今だからこそしたいんだけど。
 いつになく何かを求める様な、偶に見る飢えた様な瞳のギャリーがそこにいた。酷く真面目な顔で妙に色気のある彼の顔。結社で彼のこの顔を見ているのが自分だけだったら良いのになんて柄にも無い言葉が頭を過ぎる。
 そんなギャリーの姿に少しドキドキしながらセリカは口を開く。
「あのぅ…そもそも私達まだその…こ、交際しましょうともお互い口にしていませんよぅ…?」
「………ん?」
「で、ですから…まだそもそもとして交際にすら発展していないんですよぅ…ですからそう言うのは…」
 ギャリーは固まった。そうだ。そう言われてみればまだ明確に告白はしていない。あまりにも慣れない事柄だった為にギャリーの頭からはすっかりすっぽ抜けてしまっていた。
「……へぇ今まで彼女って大体酔った勢いからなし崩しに始まってたで忘れてたわ」
「……あら…あらまぁ…」
 セリカのこめかみに怒りの色が滲んだ。
「あ、じゃあセリカちゃん、俺と付き合う?」
 こう言う空気はしっかり読めない男、ギャリー・ファン。彼はこの日、女性の平手打ちの強さを知った。

 * * *

 テオフィルスは部屋の前で二の足を踏んではインターホンを押すのを躊躇う。もうかれこれ十分はそんな動きを繰り返していた。
 赤ん坊とユウヤミの二人を置いて行った事を考えたら早くこの懐のブラジャーとパンツを返して戻りたいところだが、ここに来て本当に彼女のものか疑ってしまったのがいけなかった。
 おそらくこれはヴォイドのもの。サイズ的にも、何よりスクラブと一緒に落ちていたのだから間違いないだろう。しかし、だからと言って。
「ど、どう説明したら良いんだ…!?」
 先程からずっとこの堂々巡り。
 言わなきゃ、返さなきゃ、でも何て言う?
 ヴォイドから変質者を見る様な目で絶対見られるだろうとも思うし、何となく話の流れで聞く事になるのだろうそれも少し怖い。
『廊下に服を全部脱ぎ捨ててどこで何をしていたんだ?』
 本当にそれは気になるのだが、聞いて良いのか迷うものでもあった。
 今日会った時のあの反応からおそらくユウヤミのところに行ったとかではないのだろうな、とテオフィルスは思う。今日のユウヤミはいつも通りだったしそもそもユウヤミとそんな変態っぽい要求が結び付くのかと言われたら甚だ疑問だ。
 だとしたら、まさかロードだろうか…。ロードに弱みを握られて逆らえなかったとか…!?会った時彼は割といつも通りの態度で居たがロードならそんな出来事があった後も涼しい顔をしていそうな気もする。
「いくらなんでもなぁ…」
 とは言え、流石にそれは妄想が過ぎるか。
 彼女が何かおかしな事に巻き込まれていたらどうしよう。結局のところテオフィルスの心配はそれだった。ヴォイドが何か妙な事に巻き込まれていて、それで居てそれを誰にも言えない様だったら。自分が支えになりたいと思うが、そもそもなんて言って話を聞いたら良いのか。
 とりあえずテオフィルスは状況を整理した。
 先ずは下着を見付けてしまった事、そして状況を話し、且つヴォイドに何があったのか聞く。もしも彼女が抱えている何かがあったら聞ける様なら聞いてやる。
 よし、完璧だ。
 あ、いや待てよ、もしそもそもとして下着がヴォイドの物じゃなかったら…。そうなったらそうなったで何か面倒臭い事になりそうな気もしなくはないが、彼女はそう言う事を嬉々として他人に噂話の如く流すタイプではないので彼女の口から自分の悪評が広がる事は無いだろう。
「覚悟決めろ!俺!」
 インターホンに指を置く。
 ピンポン、と小気味良い音が響いた。しかし、ヴォイドは出て来ない。もう一度インターホンを鳴らしてみるが、彼女はやっぱり出て来ない。それどころか、扉の向こうに人の気配も無かった。
「…もしかして、留守か?」
 念の為ガチャリとドアノブに手を掛ける。愛の日前の彼女は大変不用心で普段から下着の様な格好で彷徨いて居るのに鍵を掛けなかったりと傍目に見ていて心配になる事ばかりしていたが、最近はちゃんと鍵を掛けているらしくドアは動かなかった。
「何だ…留守か…。何だよもう…人が覚悟決めて下着返しに来たってのによぉ…」
 力が抜けてしまいへたりとドアの前に座り込む。さて、懐のこれはどうしようか。テオフィルスは彼女が居なかった事に少し安堵しつつ結局自分の懐から出て行かなかったブラジャーを弄ぶ様にくしゃりと握った。
 ヴォイドは仕事かもしれない。とりあえず医療ドレイル班に持って行ってその場で注目を浴びずに返せる気がしないので、仕事終わりの時間を見計らってまた返しに来よう。
 何だか変にドキドキした。テオフィルスは溜息を一つ吐くとユウヤミと赤ん坊の元へと急いだ。

うーあみ

「さて。二人っきりになったねぇ…何をしようか?」
「だぁう…」
「保育部以外で君が遊べるところ…は、無いかもしれないけれど、赤ん坊には視覚の刺激も重要みたいだからねぇ…中庭にでも行こうか」
「あぅ…むぅ…」
 赤ん坊は分かっているのか居ないのか、ユウヤミの言葉に相槌を打つ様だった。幸いオムツ替えもまだ無さそうだしとユウヤミは赤ん坊を抱き上げ中庭に向かう。赤ん坊は右手でユウヤミの服の襟元をしっかりと握り、景色の変わる世界にワクワクしている様だ。
「だぁだ!だぁだ!」
「はいはい」
 テオフィルスは心配していたが、ユウヤミは本来コツを掴めば飲み込みの早いタイプなので赤ん坊の抱っこも見る間に様になっていた。赤ん坊も安心して彼に抱かれており、ご機嫌に体を揺すっている。何を喋っているのか分からないが、ユウヤミ以上の口数の多さを発揮していた。
 そんな二人の周りを、着いて来る様にひらひらと蝶が飛ぶ。それは寒い気候のカンテ国では珍しい、宝石の様に鮮やかな青い色をした蝶だった。
「あぅあ?まー、まー」
「あ、綺麗な蝶々だねぇ。珍しいな、モルフォ蝶みたいだ」
「おぅ…」
「チョウ目タテハチョウ科モルフォチョウ属。おそらく飛んでいるのは雄だね。自然界の動物で色鮮やかなのは大概雄なのだよ。人間はあんなに女性の方が煌びやかに着飾って綺麗な事が多いのにねぇ。最近は化粧をする男性も増えて来たし、ある意味自然の理に適った形になっているのかもしれないねぇ」
「まぅ…」
「鳥でも雄の方が色鮮やかなものが多いよねぇ。雌にアピールする為の色合いなのは勿論だが、雄はいざと言う時真っ先に外敵から狙われる為にその色をしているとも言われる。卵を産んで育てる役割のある妻や子の生き延びる可能性を上げる為、派手な色合いをチラつかせて外敵の注目を自分に集中させる為に、種の存続の為進化の末に得た姿と言う説が正しいなら少しいじらしいと思わないかい?」
「あう?」
「ふふ。…おチビ君も大きくなったらそうやって守ってくれる相手を選びなよ?」
 黒づくめはあまりお勧めしないねぇ、と冗談めかしてユウヤミが言うと赤ん坊は理解しているのかいないのか、キョトンとした目を彼に向けた。
しかしきっと目を光らせると「いや、あなた真っ黒です」と言わんばかりに指を差し、何やらむにゃむにゃ喋っていた。
 その内ちぱちぱと音を立てて指を吸い始める。そう言えばとユウヤミはギャリーから預かったものの中におしゃぶりがあった事を思い出し、赤ん坊にそっと差し出してみた。
「どうだろう…?」
「あむぅ…?んんむぅ…」
 吸わせてみると、しばらくちゅっぱちゅっぱと豪快に吸っていたが、「味のしないミルクだな」と言わんばかりの顔付きになったと思ったら無慈悲にもポイっと捨ててしまった。
「あはは、やっぱりねぇ」
「だぅ…」
「真実に辿り着いた名探偵みたいな顔してるねぇ。そうだよ、これはミルクじゃなくておしゃぶりだよ。そんなにミルクばかりあげられないからねぇ」
 そして彼女の中ではおしゃぶりよりも指、指よりもミルクらしいと優先順位をアップデートさせたところでユウヤミは自分達に面倒な視線が纏わり付いていることに気が付いた。
 まあそんな事もあるだろうと思ったが、見事に周囲の人間から好奇の目にさらされている気がする。
「あれ…第六の小隊長だよね…?」
「え?一緒にいるの…赤ちゃん?」
「居てもおかしくない年齢だけど…小隊長の子供…?」
「奥さん居なかったよね…?」
 聞こえる聞こえる。
 ひそひそと喋る声は意外と本人に届いているものである。ユウヤミはやれやれと思いながらも既に別の楽しみ方を見出していた。人づてに広がる情報の正確さをこの際見てみたくもあるし、良い加減な情報飛び交う中一体どんな炎上の仕方をするのか興味がある。上手く燃えてくれる為にはそれなりの燃料が必要か。ユウヤミは敢えて赤ん坊にそれらしい、優しい声の掛け方をしてみた。
 すると更に大きくなるひそひそ声。それはもはやひそひそ声と言えるのか分からないが、思った以上に歪曲した噂として流れそうな気がした。
「にゃんにゃ…」
 不意に声を掛けられぱっと目を向けると、どうにも不服そうな顔の赤ん坊がじっとりした目を向けていた。
「あれれ?おチビ君、どうしたんだい?」
「にゃんにゃ!」
 ぎゅむーと言う効果音でも発していそうな手付きでユウヤミの指を握る赤ん坊。まるで彼が外面の良い、所謂「よそ行きの顔」で接する事が気に入らないと言っている様だった。と言うかこの子は随分勘の良い子だ。本心から言っているわけではないと気付いてしまうなんて。
「あはは。よく気付くねぇ、おチビ君。でもちょっと指痛いかな。指を掴む時はあんまりぎゅーぎゅー力任せに握ってはいけないよ?男の子も繊細なものだからね、意外と」
「むぁう」
 ユウヤミが抱っこの体制を整えてやると、安心した様に赤ん坊は彼の胸に体を預ける。体も温かくなって来ているしもしかしたらその内眠ってしまうかもしれない。
 そう思っていた時、聞き覚えのある声が聞こえた。
「あらやだ!リーシェルさんなーにその子!?」
 赤ん坊がぴくりと体を震わせる。しかし泣かない。良い子だ。ユウヤミが赤ん坊の頭を撫でくり撫でくりしていると、声の主──ザラが不思議そうな目でユウヤミを見ていた。
「やだ!良い人紹介しようかと思ってたのに!いつのまにこんな可愛らしいお子さん儲けて!」
 周囲の人間の耳が倍くらい大きくなった様な感じを察しながらユウヤミは心の中で「何だ、もう火消しか」と文句を言う。短い炎上だったと思いながら赤ん坊の背中をとんとんと優しく叩いてあやした。
「いえいえ、この子は私の親戚の子なんです。諸々都合があって今日は私が預かっていまして」
 親戚の子を強調され周囲の人間はホッとした様なそうでも無い様な、噂好きな人間が多かったのか答えを知ってもう興味を失くしている者の気配を感じたり「親戚の子」の詳細を知りたくて更に聞き耳を立てる者の気配も感じる。
「え!?あらそうなの!?やだわごめんねぇリーシェルさん、早とちりしちゃって!男の子?女の子?」
「女の子です。まぁ、私も年齢的には何らおかしくはありませんし。でも、もしも本当にそうなったらカルラティさんにご報告させていただきますよ」
「まぁ、そんな嬉しい報告私にしてくれるのかい!?」
「むぁあ」
 赤ん坊はザラの真似をする様に声を上げる。そんな赤ん坊の姿を見ていたユウヤミからも思わず笑みが溢れた。
「…リーシェルさん、良い顔してるねぇ」
「え?そうですか?」
「そうよ!赤ちゃんは可愛いもんねぇ。ふふっ、ユウヤミお兄ちゃんに抱っこ、良いねぇー」
 目線を合わせてザラがそう言うと、赤ん坊はご機嫌に体を揺すりまた嬉しそうに「にゃんにゃ」と騒ぎ始めるが、その内彼を見て唸り始めた。
「うー…うぅー」
「おチビ君?どうしたんだい?」
「うー…うーぁみぃ…」
 ザラから言われた「ユウヤミお兄ちゃん」の名前を聞いて呼びたくなったのか。赤ん坊は拙い口の動かし方をしながら「うーぁみぃー」と口にする。ユウヤミは目をまん丸く見開いて固まってしまった。
「おや、リーシェルさん名前呼ばれたの初めてかい?」
「…ええ、どう言う訳か私を見て「にゃんにゃ」と呼んで来るもので…」
「あはは!猫ちゃんに似てると思ったのかねぇ!?でもお名前聞いたらちゃんと名前で呼びたくなるよねぇ、お兄ちゃん大好きだもんねー、良い子だねぇー」
 赤ん坊はまた嬉しそうに照れ笑うと、ユウヤミの襟元をがっしり掴み恥ずかしそうに顔から彼の胸にダイブした。
「うぅー…うーあみ…」
「可愛い子だこと…リーシェルさん、この子名前は?生後どのくらいなの?」
「え…?」
 しまった。とユウヤミは素直に思った。テオフィルス、ギャリー、ユウヤミの事情を知った三人で主にこの子の面倒を見ていたから必要なかったが、彼女の様に子供好きで突っ込んで聞きたがる人が居るならばこの子の名前をちゃんと考えねばならなかった。
「えっと…この子は…」
 じいっ…と此方を見つめる瞳を見返す。本当にどこの子なのか、綺麗な青と緑が混じった様な海の様な瞳。その瞳の色は彼にとって特別な色だった。人に関心が無かった自分が、明日も知らないこの世界でただ無性に生きていて欲しいと願った彼女の瞳の色。そう言えばこの子も同じ瞳を持っているのか。だからと言って「ヴォイド」は、安直が過ぎるだろうし、自分としては炎上させても良いのだが、それを知った彼女がどう思うだろうか?
「えっと…」
 ヴォイド。と言えばプログラミング言語。何も無いと言う意味の型などに使われるが、それこそ特定の意味を付随して説明するのは些か面倒な存在でもある。ヴォイド…ユニット…ヌル、或いはナル…ニルでも良いか。プログラム関係以外で言うならヌルは大陸の言葉であり、数字の零を指す。零、無…この子は赤ちゃんで本当に真っ新な状態だから人生もこれから。これから色々経験していくだろうから見るもの全てが新しいだろうね。赤ん坊、零歳、新しい…新しい、あ。
「の、い」
「ん?何だって?」
「ノイ…この子はノイです」
 連想ゲームの様に名称を辿って出した名前だったが、ザラはとても嬉しそうににこりと笑った。
 リーシェルさん良いパパになりそうだね、なんて言われたものだからユウヤミは少し意外に思いながら目を伏せる。
 名前を付けると忽ち愛着が湧くとは言うが本当だったのか。ユウヤミには不思議と先程より赤ん坊が可愛く見えた。
「あー!またお姉ちゃん!」
 そんな声がしたのでそちらを振り向くと、やって来たのはフランソワだった。その後ろにはオルヴォやカヤ、マジュが控える。どうやら保育部で移動中にフランソワだけ飛んできた様だ。お兄ちゃんでは無くお姉ちゃん。彼が注目したのは赤ん坊の方。ユウヤミはふと考える。確かにこの子の目であったり髪であったり、ヴォイドに似ているところはある。これは子供特有の「あべこべに言う」と言う現象だろうか。
 大人に「違うよ」と言われてもその時その瞬間彼らの中ではあべこべの認識だし、そう呼ぶのがブームなので飽きるまで訂正のしようがない。フランソワの中では年下の子供をお姉ちゃん、お兄ちゃんと呼ぶブームでも来たのだろう。
「君は…エルナー君のところの…」
「ユウヤミお兄ちゃん、こんにちは!」
「こんにちは」
「おやおや!皆で結社内を探検かい?」
 ザラにも挨拶されて返すのもそこそこに、フランソワはソワソワしながら赤ん坊に駆け寄る。そして頭を撫でたり手を握ったり、取る仕草は赤ん坊に対するそれなのに口ではずっと「お姉ちゃん」と呼んでいる。
「…どうしてこの子がお姉ちゃんなのかな?」
 ユウヤミが威圧的にならない様努めてフランソワに聞いた。フランソワは間髪入れず「お姉ちゃんだから!」と答える。
「この子はまだ赤ちゃんだよ。私にはフランソワ君の方がお兄ちゃんに見えるけどなぁ」
「うん。今はね、僕の方がお兄ちゃんだよ!でもね、お姉ちゃんはお姉ちゃんだから」
「ああ、ヴォイドお姉ちゃんの事かな?お髪の色も目の色も似てるけど、この子はまだ赤ちゃんでヴォイドお姉ちゃんとは違うよ」
「ううん…お姉ちゃんだよ…」
 ユウヤミの目にはフランソワが自分のマイブームに大人を付き合わせようと無茶を通そうとしている様にも、嘘を言っている様にも見えなかった。彼はこの赤ん坊を本当にヴォイドと認識している様だった。マジュやカヤもやってきて赤ん坊を物珍しそうに扱う為、おそらくフランソワだけがそう言う認識をしている。
「そっか…フランソワ君はよっぽどヴォイドお姉ちゃんが好きなんだね」
「うん、お姉ちゃん大好きだよ」
 そうは言うが、先程からそのお姉ちゃんへの気持ちを赤ん坊にぶつけている。何だろう、この言いようの無い不思議な感じは。
「私もヴォイドお姉ちゃんと仲良しだからねぇ。よくお話するのだけれど、きっと喜ぶだろうからフランソワ君がお姉ちゃんの事大好きって言ってたって伝えて良いかな?」
「良いよ、でもお姉ちゃんも今聞いてるよ」
 そう言って赤ん坊を指差すフランソワ。ユウヤミはまた考える。ザラもオルヴォも、マジュやカヤだってフランソワの一貫して赤ん坊をお姉ちゃんと呼ぶこれまでを冗談だと思って笑っているが、本当にこれを冗談だと見做して良いのだろうか。
 ともかく、テオフィルスとギャリーが戻るまで自分一人赤ん坊を置いてどこかに行くわけにも行かず。皆に呼ばれてにこにこしていた赤ん坊が注目されて恥ずかしくなったのかしきりに「うーあみ、うーあみ」と呼ぶ声に意識を引っ張られたユウヤミは呼ばれるまま彼女をぎゅっと抱き締めるとまた頭の中で散らかったあらゆる可能性達をどうにかしようと頭を働かせた。

 * * *

 ザラとも保育部の面々とも別れ、ユウヤミは一人赤ん坊を連れて廊下を歩く。まだテオフィルスからもギャリーからも連絡が来ない。噂好きのザラによって「ユウヤミが連れている彼の親戚の子」と言う話は拡散されたらしく、彼の行先で子供と疑ってひそひそ言う人間は少なくなった。
 が、それでも現状は何一つ変わらない。
「うーん、困ったなぁ」
 私も人間だからねぇ、と呟きユウヤミは笑う。
 目下トイレに行きたい。
 しかし、結社の男子トイレには赤ん坊用のベッドなんか無かったし、個室にも子供を座らせておける様な椅子は無かった。
 まあ、何だかんだ男は雑だから。結社はそれこそザラを筆頭とした清掃部の面々の仕事の丁寧さもあって清潔なものだが、これが外に出て一歩路地裏に入り込んだところにある男子トイレに入った時のその地獄の姿が本当の姿であるとユウヤミは知っている。
 男子トイレの小便器とは、この世の地獄を凝縮した場所なのである。
 そんなところにこの子を連れて入れないしなぁ、とユウヤミは考える。かと言って外に放り投げておくわけにも行かず、早く誰か帰って来ないだろうかとも思ったがまだギャリーからもテオフィルスからも連絡は無い。自室に戻ろうかとも一瞬思ったが、それよりも先にユウヤミの目に止まったものがあった。多目的トイレのマークだ。ここなら広いし赤ん坊のオムツを変える事も出来る。勿論、この子を座らせておく事も。
 部屋に戻るよりこちらの方が早いからと足を進めたユウヤミは赤ん坊を連れて個室に入ると鍵を掛けた。
「うーぁみ、うーあみ」
「はいはい、ここに居るよ」
「うーあみぃ」
「はいはい」
 誤算だったのは、赤ん坊が思った以上に寂しがりだった事。座らせておいてもユウヤミが少し離れると手を伸ばし泣きそうな顔をしてしまう事だった。
「困ったなぁ…おチビ君、ほんの少しだけ待っていてくれたまえ。ほんのちょっと、ほんのちょっとだからね」
「にゃんにゃ…」
「目の届くところにいるから泣かないでおくれ。私もね、人としての尊厳は保ちたいんだ」
 人としての尊厳=つまり漏らしたく無いのだと込めて赤ん坊に訴えてみる。赤ん坊は「ふぇ…」と声を上げ掛けたものの少し我慢する様な素振りを見せてくれたのでユウヤミは急いで離れた。
 赤ん坊を背にするが、鳴き声は聞こえないのでユウヤミは安心した。この子がひっきりなしに泣くタイプでは無かったのが幸いか。用を足してすぐ手を洗い、赤ん坊の座っているところまで戻ると、赤ん坊はユウヤミに向かってすぐ手を伸ばした。
「うーあみ、うーあみぃ」
 ユウヤミは赤ん坊を抱き上げる。ずしりっ、と先程以上の重みを感じた気がした。
「…ね?私が約束事をする時は、守れる時だよ」
「うーあみ」
「守れない約束はしない主義だから」
 そんな事理解しているのかいないのか。ユウヤミの肩の辺りに顔を押し付けた赤ん坊は、彼の服の襟元をがっちりと掴むと「泣くの我慢したでしょ?偉い?」と言わんばかりに頬を緩め誇らしげににっこりと笑う。
「…何かその笑顔には勝てそうに無いのだよねぇ」
 観念した様にユウヤミが微笑むと、赤ん坊は途端にすんっと無表情になる。そしてだんだん険しい顔になると、顔を赤くして眉間に皺を寄せた。
 と、思ったらホッとした様に力の抜けた顔になる。何かを察したユウヤミが「ちょっと失礼」と一言、赤ん坊の股に顔を突っ込んだ。
「あぁー…力んで出す方かぁ…」
 まあ、都合良くトイレだしちょうど良かったか。そのままオムツを替えてしまおう。
 ベッドに寝かせてペラリと服を開きオムツを外す。やり遂げた顔の赤ん坊とは対照的に出たものの量を見てユウヤミは困った様に笑った。

箸休め

 昼前後には完璧な父であるかの様に振る舞っていたテオフィルス、ギャリー、ユウヤミの三人ではあるが、勿論初めからそう出来た訳では無い。

大人の嗜み御法度です

「じゃあ、何かあったらすぐ連絡してね!」
 出来る限り答えるから!とにこにこ笑って保育部外へ出そうとするオルヴォをテオフィルスは恨めしい顔で、ギャリーは青い顔で見つめた。時間を稼ぎに稼いでなるべくプロの傍に居ようと思ったのだが無理そうだ。
「おいオルヴォ…随分とツレねぇじゃねぇか…」
「え?何?テオどうしたの?」
「赤ん坊の世話するなら此処に居たって良いだろ…?」
 テオフィルスの疑問にギャリーも「そうだそうだ!」と後ろからヤジを飛ばす。オルヴォは一瞬何かを考えると瞬時にいつもの人当たりの良い笑顔になった。これはテコでも断る時の顔だとテオフィルスは判断した。
「残念ながら今日は保育部の皆で探検をするんだよ。どっちにしろこの部屋、出払っちゃうんだよね」
 当然の事ながら体の大きさが違えば出来る事も違ってくる。赤ん坊の生活サイクルは一歳以上の子達とまるで違ってしまう為何をやるにしても特別枠の様な扱いを受けてしまうのは仕方がない事だった。
「それでも…この部屋に居たい?なら、ぼくらが外に居る間この部屋は二人に任せる事になるから、その間部屋の鍵の徹底と見回りと…」
「…いや、良い…やっぱ良い…」
 折れたテオフィルスは赤ん坊を抱き上げるとまだ文句を垂れるギャリーを引き摺って部屋を出た。
「おいテオフィルス!部屋いさせて貰やぁ良いじゃねぇか!」
「馬鹿、オルヴォも出るっつってるのに居られねぇだろ。一応本職休みでここに居るのに手続きやら部屋でやる事やら教員並みで面倒くせぇ。そもそもあの部屋、昼はオルヴォ達教員以外の飯運ばれて来ないんだぜ」
「あ、どっちにしろ一回は出なきゃいけねぇのか」
「…だし、あんな子供達からの物珍しげな視線浴びまくって落ち着いてられるかよ…」
 子供と言うのは好奇心の塊だ。普段と違う環境となると興味深げにジロジロ見てくるし「何で何で」と声も掛けてくる。現に先程の十数分の間にテオフィルスもギャリーも子供達から質問攻めにあっていた。
 しかしテオフィルスとは対照的に意外にもギャリーはケロッとしていた。
「まあ俺はイケメンだからそんな視線慣れてっけどね!」
「そうかよ」
 そんなアホギャリーとの会話にどっと疲れたテオフィルスは赤ん坊を連れて休憩所に向かった。無言で後に続くギャリーはテオフィルスが何故こっちに来たのか向かった先を見て納得した様に頷く。
「ああー…ねぇ…。確かにこれは子供の前じゃ出来ねぇなぁ…」
「ガキに囲まれてちゃ流石にやりにくいだろ…」
「同感…」
 言いながらギャリーは懐から煙管を、テオフィルスは電子タバコを取り出した。
「んぁう…」
 赤ん坊はテオフィルスの取り出した電子タバコに手を伸ばす。うっかり掴まれそうになり、テオフィルスはサッと躱しながら逃げた。
「お、おい…食べ物じゃねぇって…!!」
「え?何?おチビ、これお菓子じゃねぇよ?パパの『大人の嗜み』だよ?」
「もしかしてこいつ、腹減ってんのか?」
「或いはこの歳にして口寂しいか…それよりどうする?本当に俺らで見る?この子」
「チビったって女だしな…目の前で泣いてる女放り出して離れたら寝覚めが悪ぃや」
「泣いてる女放っておけないって?」
「何歳でも女は女だろ」
 ギャリーが指をびしっと此方に向けて「格好良いー!」と戯ける。テオフィルスはやれやれと抱っこをしたまま電子タバコのスイッチを入れた。ギャリーも刻みたばこを丸めて煙管の吸口を口に咥える。口に咥えると言う動作にシンパシーを感じたのかギャリーを見ていた赤ん坊は何かを求める様に手を伸ばした。
「んまぅ…」
「こらこら、これもパパの『大人の嗜み』だよ?」
「んぁ…むぅ…!」
「こいつも一丁前に何か欲しいらしいな」
 テオフィルスがそう言うと、ギャリーはゴソゴソ懐を漁りそこからのりの様なスティックを取り出した。
「これ吸うかな?」
「おいギャリー、のりじゃねぇか。文具じゃねぇか!」
「え?違うよ?これ蜂蜜だよ?」
「意味わかんねぇよどう言う事だ?」
「経理部でさ、ギルバートの机からのり借りたつもりが蜂蜜だったんだよね」
「説明されても意味が分からん」
「ギルバートの変な趣味なのか何なのか、のりによく似た商品さや。文具のスティックのりとそっくりなデザインのスティック蜂蜜をどっかのメーカーがウケ狙いで出したわけ。ギルバートは朝飯食えなかった時経理部の部屋でトーストにこれ塗って食ってるわけ」
「ああ…ジョークみたいなアイテムな…」
「あいつはこのそっくりな見た目でも間違わねぇんだけど傍目に見てる俺らは意味分かんなくてさ、この間密かにのり借りたつもりが蜂蜜で資料から甘い香りが…その時から返してないんだけど…」
 テオフィルスはそれを聞き、実はギャリーに諸々の勝手な拝借を辞めさせようと敢えて似たデザインの物を囮として置いているんじゃないかなぁ?と思ったが、確信が持てないので黙っている事にした。
「おーいおチビ、お前もこれチュパる?」
「あぅ?」
「蜂蜜って良いのか…?」
「え?赤ん坊にダメな食い物ってあんの?生魚とかはダメだろうけど、蜂蜜って完全栄養食って言わねぇ?」
「あー…それもそうか…」
 ギャリーから蜂蜜を受け取ったテオフィルスが赤ん坊に握らせその口に近付けた時。
 ギャリーが手に持っていた刻みたばこを煙管に詰め火を点けた時。
 だだだだっ!と猛烈な足音を立てたその人物は二人にストップを掛けに来た。
「テメェら!何やってンだ!?」
 割り込んで来たのはアンだった。アンは赤ん坊から蜂蜜スティックをひったくると舐めていないか慌てて確認する。
「ふうぅ…ふぇぇぇえんっ!」
 アンの勢いに驚いた赤ん坊は忽ちわんわん泣き始める。そんな彼女と赤ん坊の様子を目を丸くして見つめていた二人。アンは二人をキッと睨むとテオフィルスの手から赤ん坊を取り上げ、口周りを見たり指で軽く口を触ったりしながら蜂蜜の有無を確認した。おそらく口にしてはいないだろう事を確認すると、安心した様に溜息を吐く。そして泣いている赤ん坊を腕の中でゆさゆさ揺すりお尻も軽く叩いてあやしてやった。
「よしよし…大っきい声出してごめんな、ビックリしたな…?」
「うぅ…まんま…まんま…」
「よしよし。怖かったな、ごめんな…驚いたよな…?」
「んむぅ…」
 アンの腕の中でいつしか泣き止んだ赤ん坊は安心した様に彼女の胸元に頬を擦り寄せた。ずっと男性に抱かれていた赤ん坊だが女性の胸は膨らみによるフィット感が良いらしく、二人に抱かれるよりも早くご機嫌になっていた。
「…良いなー…」
 ボソッと呟くギャリー。
 途端に、先程まで菩薩の様であったアンの眉間に皺が寄り、彼女の背後に地獄の様な猛火が見えた気がした。
「おい…テメェら何やってンだ…」
「な、何って…」
「一応…あやしてたんだけど…」
 しどろもどろ口にするとアンの眉間の皺は更に深まり、顔色の悪い彼女の顔の凄みを増させた。
「あのなァ…赤ん坊に蜂蜜は御法度なンだよ…!!」
「う、うそ!?マジ!?」
「蜂蜜は厳密に言えばナマモノだ!加熱殺菌されてねぇからボツリヌス菌が含まれてる場合があンだよ!赤ん坊は消化器官がまだ未熟だから吸収して食中毒起こす可能性が高いんだ!」
「やっべぇ…何てもの掴ませてくれてんだギルバート」
 ギャリーの中でさも戦犯がギルバートであるかの様になったところで、そんなギャリーの事もアンは睨む様な目を向けた。
「な、何?アンちゃん…そんな射る様な目を向けなんで…」
「赤ん坊の横で煙管蒸すなんて何考えてンだ!テメェの肺がどうなろうと知ったこっちゃねぇが赤ん坊を巻き込むな!!」
 アンの勢いに萎縮する大人達。そんなアンの胸の中に居た赤ん坊は怒りまくっているアンを見、怒られて縮こまっているテオフィルスとギャリーを見、何となくどう言う状況か理解するとぷんすかと言うオノマトペが似合いそうな顔を瞬時に作り、アンの胸に顔を押し付け二人に背を向けた。
「どっちのガキだか知らねェが最低限口にするものの良し悪しは考えて行動しろ!!」
「すみませんっ!」
「それから赤ん坊の横でバカスカ煙草吸うんじゃねェ!赤ん坊が居たら原則煙は見られねェと思え!!」
「面目次第もございませんっ!」
 勢い良くアンに雷を落とされた二人。二人はアンからあげて良いものいけないもののレクチャーを軽く受け、女の子から滅茶苦茶に怒られたギャリーはショックのあまりしばらく暗い顔のまま戻らなかった。この後自業自得とは言えセリカからも誤解を受けてしまったので今日の彼は厄日と言える。

十秒以上は御法度です

「にゃん、にゃ」
「ふふふ」
「にゃんにゃ」
 ユウヤミを気に入ったのかずっと彼に抱かれて揺すられてニコニコしている赤ん坊。テオフィルスは少しだけ面白くないと思いながら重みの無くなった腕の中を見る。ギャリーは先程アンに叱られたショックで眉をへにゃりと下げていたものの、段々と叱られたと言うのがショックではなく「あれはあれでちょっと良いかも?」と言う感覚に変わってきているのか見る見る元気になっていく。
 仕事は無いのか聞いた上で暇だと言うユウヤミも同行させたわけなのだが何とも不思議な組み合わせだとテオフィルスは思った。しかしもっと意外だったのは、赤ん坊の前にあのユウヤミ・リーシェルが手も足も出なかった事だ。
「しかし意外だな。何でもこなす天才肌の第六小隊小隊長殿が赤ん坊の世話からっきしなんて」
 思わずそう口に出すと、横で聞いていたギャリーも同意した。
「ああ、まさか髪引っ掴まれるとこ見れると思わなんだわ。『雲隠れの魔術師マジシャン』、『足早の黒猫シャノワール』ことレディキラー・ユウヤミも赤ん坊の前じゃあ形無しか」
「…普通はなかなか無いんじゃないかい?と言うか私にはそんな通り名があるのだねぇ、今知ったよ」
 ねぇ?と同意を求める様に赤ん坊の方を向くユウヤミ。赤ん坊も何が何だか分かってなさそうだが、「だぁう」と相槌した様にも見えた。まあ赤ん坊もユウヤミにすぐ懐いたし、たった三時間足らずのお世話なのに既にテオフィルスもギャリーも二人揃って疲れ果てている。見てくれる人間は多い方が良い。
「君が生後どのくらいか分からないから喜んでくれるか自信無いけれど…いないいないばあしようか?ねぇ?」
「あう、まぁう…」
 最初こそ少し動揺していた様にも見えたが徐々にユウヤミも乗り気になってきた。何をやらせても卒なくこなすのが彼だ。きっと赤ん坊のお世話も自分達以上にやってくれるだろう。何故なら彼にはおそらく知識があるから。
「いないいなーい……」
「んんぅ…」
 顔を隠したユウヤミと何かを期待する様にゆさゆさ体を動かす赤ん坊。普段と違う、モノトーンに近しい印象の彼のあたたかい姿。なかなか珍しいものを見ているなぁとテオフィルスは目を細めてそれを見つめた。
「いなーい…いなーい……」
 しかしユウヤミといないいないばあと言うのもまた不思議な組み合わせだ。普段の彼は泣く子も黙る第六小隊小隊長。彼の相棒とも言える機械人形のヨダカを筆頭にウルリッカ、シリルととにかくクセの強い個性豊かなメンバーのトップにいるのが彼だ。クセもアクも強い面々を調和して束ねてしまう、アスファルトと空を繋ぐ陽炎の様な男。
 それが赤ん坊をあやす為に良きお兄ちゃんの素振りを見せるとは。そんな顔を引き出せる赤ん坊の無垢な力と言うのは凄いものだ。
「いなーい……いなーい…」
「ふぅ…えぇっ…」

 ……いや。

 長くないか?ユウヤミ。

 テオフィルスは時計を見た。もう十秒近く経過している。赤ん坊は先程まで笑顔だったのに気付くと不安そうな顔でぷるぷる震えていた。
 慌てて携帯端末を取り出したテオフィルスは「いないいないばあ」について検索を掛ける。しかしどうやら同じ事を考えていたギャリーの方が一足早かった様で、一言「げっ!」と零すと彼は慌ててユウヤミの肩を揺すった。
「おい、おいユウヤミ!書いてあるって!ここに!『赤ん坊がいないいないばあで歓喜するのはいわゆる恐怖からの解放感を味わっているから』だって!『大人で言えば肝試し大会の様なものでありそれらはせいぜい一時間程度の疑似恐怖体験で、その後元の場所に戻れるのを分かっているから楽しめる』って!!」
 赤ん坊のいないいないばあも理屈はそれと一緒と言われている。つまり、これが永遠に続けば赤ん坊にとっては本物の霊界と等しい。そしてこの反応を見るに、すなわち零歳児にとって十秒以上は霊界の様だ。
「にゃあっ」
「ほぎゃぁぁぁぁぁあああっ!!」
「…あれ?」
「だーから言ったじゃん…」
 ギャリーに肩を掴まれながら「にゃあっ」こと「ばあっ」までやり終えたユウヤミ。しかし意図せず彼によって霊界の片鱗を見せ付けられてしまった哀れな赤ん坊は恐怖からか彼のいないいないばあからの解放と共に大泣きしてしまったのだった。
「おかしいな…いないいないばあは赤ん坊が喜んでくれる最たるものだと認識していたのだけれど…?」
「ああ、短い時間ならな…」
「うーん、十秒未満か…気を付けるよ。ごめんねぇおチビ君」
 しかしそこは流石ユウヤミ。抱っこはもうコツを掴んだのか上手い事赤ん坊の心を鷲掴む抱き方を会得していた。それはさながらいないいないばあでの失敗をリカバリーする程と言っても過言では無い。
「ほほう…ユウヤミに抱かれたら赤ん坊まで骨抜きになるのか…何なの?えらいテクニシャンじゃねぇ?」
「ファン君、とてつもなくいかがわしく聞こえるのだけれど何故だろうねぇ?君の雰囲気かな?」
「随分だな、誰がフェロモンダダ漏れの年上キラーだって?」
「ははは、言ってないけど」
「…そう言やユウヤミってそう言う冗談通じる人?」
「分からなくはないよ。好かないけれど」
 ギャリーもそのテの事を口にするタイプの人間か。あの人事部の黒い奴より些かガキくさいがストレートだ。テオフィルスがそんな事を思っていると、一足先にギャリーとの会話に飽きたユウヤミが赤ん坊を前にしながらぶつぶつ何かを呟き始めた。
「…三歳ごろまでは新しい経験をする度に脳の神経細胞のつなぎ目がどんどん枝分かれして伸びていく…六歳頃までには殆ど伸び尽くしてしまうからこの時期を逃すと勿体無い…その後も努力で身に付ける事は可能だがいわゆる『天才』になるかどうかはこの時期に如何に神経系を伸ばすかが鍵で……」
「ん…?」
「まーたぶつぶつ言ってらぁ」
「…赤ん坊にはエントロピー増大の法則が成り立つ…?自力でエントロピーを縮小させられる様になって初めて進歩したと言えるわけで、エネルギーの分散がひたすら乱雑な内はまだ本能のままの赤ん坊…その境目は大体平均一歳くらいで…」
「…よく見たらおチビに何か聞かせてねぇ?」
「アイツ止めろよ、ギャリー」
「何で俺?」
 しかし、ぼーっと見ていられたのも束の間。次のユウヤミの行動に二人とも事情が変わった。
「あぅ…まぁっ!」
 赤ん坊がいきなり大きな声を上げたからだ。テオフィルスは用心深くユウヤミの動向を見守った。
「おお…本当に足の裏くすぐると指が扇状に広がるんだねぇ…!」
「むぁう、うぁ」
「ふふ、足の裏で触れた物をまだ掴もうとするんだねぇ…!と言う事は、君は生後半年は過ぎてる感じだけど八ヶ月前後なのだろうねぇ…ふふ。非対称性緊張性頸反射もするかなぁ…?ふふふ」
「何興奮してんだ」
 見かねてとうとうテオフィルスが声を掛ける。ユウヤミはいつもより少しだけ熱のこもった爛々とした瞳で彼を見返した。
「原始反射を一通り試したくてねぇ…!」
「赤ん坊をおもちゃにすんじゃねぇよ」
「ええー酷いなぁ。私だってこんな無垢な存在を知的好奇心に利用する程鬼畜じゃないよ?」
「今してんじゃねぇか、正に」
「これはあれだよ、赤ん坊のエントロピー縮小の手助けをしているとも言うしシナプスの枝分かれの手伝いをしているとも言うし」
「くそ…こっちが言葉の意味分からないのを良い事に都合良く色々ならべたくりやがって…」
 そんな二人のやりとりをじっと見つめるギャリー。不意に赤ん坊と目が合うと、赤ん坊はユウヤミがテオフィルスと喋っていて暇だったのかギャリーを見るなりにこりと笑った。すかさずそれを捉えたユウヤミが声を上げる。
「おっとそうこうしている内に赤ちゃんが急に微笑み出したねぇ、さぁ何があった!?」
「いきなり大喜利めいた言い方で話を急カーブさせるな!」
「はいピンポン!単純に俺の顔が好み過ぎた!!」
「お前はお前で答えるな!珍回答しか生み出さねぇから!」
 この日、テオフィルスの父性が急に養われ過保護さに拍車の掛かったのはこの二人の存在が大変大きかったが故、不可抗力的に急成長したのだと思われる。

異変に気付き始める

 さてオムツも変えたし、この子もスッキリしたんじゃないだろうか。ユウヤミは赤ん坊に手を伸ばすと愛おしげに撫でる。散々痛い痛いと訴えたからか、髪は掴まなくなったし服の襟はきゅっと優しく握るだけになったその子を眺めるとユウヤミは口を開いた。
「ノイ」
「まぁう?」
「ノイ。これから君を『ノイ』と呼んで良いかい?」
 暗闇の様な瞳の中、仄かなあたたかみを灯してユウヤミは赤ん坊を見つめる。赤ん坊は嬉しそうににこりと笑うとユウヤミの真似をして手を上げて返事をした。
「ぅあい」
「うん、良い子だね」
 身支度を整えると同時にテオフィルスから連絡が入る。これから戻る、と一言だけ添えられた端末を見、ユウヤミも「どこで落ち合う?」と返した。
「あぃ、あぃ」
「ん?はいはい」
 抱っこをせがまれ、ユウヤミは赤ん坊の脇に手を入れるとぐっと持ち上げた。しかし何だかずしりと急に重く、あれ?むしろさっき大量に出したよな?とユウヤミは頭に疑問符を浮かべる。するとそこに、先程会ったザラがまた通った。
「あら、リーシェルさんにノイちゃん、さっきぶり」
「あ、ほらノイ。カルラティさんだよ。さっきも会ったね」
「ばぁば!」
「あらあら、ばぁばなんて呼んでくれるの?嬉しいわ…あら…?」
 ザラは赤ん坊の顔をじーっ…と確認すると、右から左から斜め下からと角度を変えて食い入る様に見つめる。そして思い掛けない言葉を口にした。
「あの…リーシェルさん…この子、ノイちゃんよね…?」
「え?どう言う事でしょう…?」
「ううん…きっと私の考え過ぎね!何だかねぇ、子供の成長は早い早いと思っているけど、何だかこの子急成長した様に見えて…」
「急成長…?」
 ユウヤミは腕の中の赤ん坊を見つめる。先程からずっと引っ掛かっていた物の存在感が増した感覚がそこにあった。
 自分もつい今し方思ったのだ。ベビーチェアから抱き上げる際、何だかやたらこの子の重みを感じるなと。しかしそんな事・・・・は現実に起こり得ないだろうと思い微塵の可能性も考えて居なかった。しかし、子供達を成人までしっかり育て上げたザラだったからなのか。それともたまたま彼女が目敏かったのか、彼女はこの子の体の変化を異常な速度だと認識した。
「リーシェルさん?私…変な事言ったかい?」
「いいえ。むしろ喉のつかえが取れた様な心地です」
 ザラと別れ、少し澄んだ気持ちでいるユウヤミはテオフィルスからの返事を待つが、彼の返事より先にギャリーが目の前に現れた。頬に紅い跡を携えて。
「あれぇ?ファン君、どうしたんだい?それ」
「…るっせ、とぼけんなよ。大体俺がこんなモン食らってる時点でどう言う理由かユウヤミなら推理出来ちまう癖に」
「いやぁ。私もねぇ、デリケートな話題は気にするのだよ?うん、跡付けてるのがファン君と言うところから察するに日頃の行いか何かが祟って女性から平手でも食らったかな?何てとてもとても想像も付かないし思っても口には出せないねぇ」
「全部口に出てんだわ。ほんでそれ大体当たってるから怖ぇわな」
「ところでファン君、今し方妙な事が起こってねぇ」
 急に神妙な面持ちでユウヤミは話し出す。ギャリーも彼の珍しく急な方向転換についつい身を乗り出して顔を近付ける。
「何…?」
「んー…メドラー君が来たら話すよ。どちらにせよ、まだ明瞭しないんだ。彼の話も聞いてからじゃないと難しいねぇ」
「んだよ勿体付けんなぁ」
「ところで、この子」
 ギャリーの目の前で赤ん坊を抱いてみる。ギャリーはハッとその存在に気付くと「おおーおチビー!」と手を広げた。
「ぱぱ!ぱぱ!」
「よしよしー!さあさあパパに抱かれておくれー!」
「だぁ!」
「うん、思う存分抱いてくれ給え。私は少しだけ腕が疲れたからねぇ」
 ユウヤミがそんな事を口走るなんて珍しい。そう思いながらギャリーは手を伸ばし、赤ん坊を抱こうとする。赤ん坊も自らギャリーに手を伸ばし、彼の方へ移動した。
「んっ……?」
 赤ん坊を抱いた瞬間、ギャリーも不思議な顔をする。赤ん坊を抱っこした瞬間にハッとした顔をしたギャリーにユウヤミは彼も自分と同じ違和感に気付いたのだと確信した。
「……重たいだろう?」
「ああ…急に重てぇ…」
「私もさっき清掃部のカルラティさんに言われて気が付いてねぇ。あまりにも近くに居過ぎて気付かなかったのか…」
「こ、この事、テオフィルスには?」
「言っていないよ。と言うか、実際目にして聞かされるまではとても信じられる事象じゃないだろう?実はもう一つ現実的に考えてあまりにもあり得ない仮説を立ててしまったんだ。でもそれを確認するには他の情報も必要でね。だから三人が揃うまで、と思ったんだけれど…」
 現時点でかなり不思議な事になっているねぇ。
 と、呑気な口ぶりだが目には鋭い光を携えてユウヤミはそう口にした。

 * * *

「悪ィ。遅くなっちまっ…て…?」
 テオフィルスの足を考慮して落ち合う場所を指定したユウヤミ。彼に感謝しながらテオフィルスが向かうとそこでは既にユウヤミとギャリーがやけに難しい顔をして待っていた。
「ど、どうしたんだよ。急にそんな難しい顔してさ…」
「…よし、三人揃ったね」
 ふう、と呼吸を一つ溢し、ユウヤミは意を決した様に声を漏らした。
「先ず、二人が同時に留守をしていた先程、カルラティさんに子供の事を追求されて咄嗟に頭を働かせた結果、まぁ話の流れではあったけどこの子の名前を『ノイ』と答えてしまってねぇ。周囲にそう認識されたので今後第三者の前ではこの子を『ノイ』と呼んでくれないかい?」
「え!?ちょ、それ初耳だけど!?」
 心底驚いた様にギャリーがぎゃあぎゃあ騒ぐ。赤ん坊もそんなギャリーに合わせてきゃあきゃあ声を上げた。
「うん、さっき言わなかったからねぇ」
「俺名前付けたかったのにぃ!」
「済まないねぇ、咄嗟に聞かれたものだから確認の仕様が無くてね」
「じゃあもういっそ、ガンマラカントゥスキトデルモガンマルス・ロリカトバイカレンシス・チャルチャレーロビスカーチャ・ノイみたいな長ぇ名前にして各々希望の名前突っ込んで構成するとか!」
「テメェは名前を何だと思ってんだよ」
 テオフィルスの的確なツッコミでギャリーは大人しくなる。そして改めて三人集まってから、と言ったユウヤミを中心に話を始めた。
「さて、この子の事なんだけれど。明らか分かるくらいの異常に早いスピードで成長した痕跡があった」
 ユウヤミは呟く様にぽつりぽつりと話し始める。そう言われてテオフィルスもギャリーの腕の中で彼の髪の毛で遊んでいる赤ん坊を見た。確かにほんの三十分くらい離れただけなのに、何と言うか「赤ん坊」から「子供」くらいには彼女はなっていた。しかし現実的に考えて、いくら成長する事が仕事の様な赤ん坊とは言えこんな数十分で数ヶ月分も飛ぶ程体を成長させたと言うのは到底受け入れられる事象ではない。
 しかし、現実に成長した彼女がここに居る。ギャリーもテオフィルスもユウヤミの言葉に頭を抱えた。あまりにも現実的でない事象に理解が追い付かない。
「体だけじゃなく、おそらく知能も。二回目に会った時カルラティさんの姿を見て「ばぁば」って呼んだんだよ。今までそこまで明確に人を指して名前を呼ぶ事は無かったんだけど、さっき再会した時ファン君の事も「ぱぱ」と呼んだ。人を呼ぶと言う事に関して「とりあえず声を上げる」までしか出来なかったこの子が明確に人を区別して且つ区別する言葉を使ったんだ」
「急に言葉分ける様になった…とかは?」
 おずおずと質問するギャリー。ユウヤミはふうと溜息を吐くと「それも考えたのだけれどねぇ」と呟く。
「急に呼べる様になった、が百歩譲って成立したとして、見た目に分かって驚く程成長した事の証明には何もならないんだ。だったら最初から「現実的ではない事が起きている」と言う前置きがあると思っていた方が良い。それから、メドラー君に聞きたい事がある」
「え?俺?」
 まさか自分に白羽の矢が立つと思わずテオフィルスは素っ頓狂な声を上げた。ユウヤミはそんな彼を見てうんうんと冷静に頷くと口を開く。
「時にメドラー君、君の懐にある女性物の下着は一体どう言う経緯で拾って何を決め手に誰の物だと結論付けたんだい?」
 ぐりんっと勢いよくギャリーの顔がテオフィルスを向いた。
「女物の…下着だと…!?」
「返しに行って居たんだよね?今」
「…どこまでお見通しなんだよ…」
 一瞬物凄く動揺したテオフィルスはそれでも何とか平静を装い懐からそれを取り出した。彼の懐から紐が飛び出し、そのままずるりとレースのあしらわれた大きめのカップが飛び出すと、ギャリーは据わった目でそれを見つめた。
「…これを拾ったのは何つーか…まぁ事故だ。朝、汚染駆除班の職場に向かう時にこれが廊下の真ん中に落ちてた。他にも落ちてた物はあったが…」
「詳しく頼むよ。私の中で渦巻いた妙な仮説の後押しになるかもしれなくてねぇ」
「…ユウヤミもその仮説とやらちゃんと話せよ?とにかく部屋に向かったら廊下の真ん中にこれが落ちてた。何つーか…まるでその場でストンって脱いだみてぇな輪っか作ってさ。今考えても洗濯カゴから落ちた、とかじゃ無さそうなんだよ。明らかその場で体から落ちたみたいな形だった。ブラだけじゃねぇ、上下セットになってるっぽいデザインのパンツも、それから外に着ていたであろう医療班のスクラブも」
 テオフィルスが曇り一つない目でそう証言する。もし本当に廊下の真ん中で下着を脱ぎ散らかしたとなると明らかに変質者ではあるが、そんな注意喚起は聞いて居ないのでおそらく「異常事態」がそこで起きて居たのだろう。テオフィルスもこう言うところで嘘を言うタイプではないし彼は見たままを本当に話している。ユウヤミの中でカチカチカチッとパズルが嵌る様に仮説が形作られていった。
「医療班のスクラブ!?じゃあ脱いだそのブラの持ち主は医療班メンバー!?」
「…それだけじゃねぇ。そう言やこの服の近くでだった。何も着てねぇ裸のおチビを、見付けたの……」
 ハッとした様な目で赤ん坊を見つめるテオフィルス。赤ん坊はただ嬉しそうに目線を返すだけだ。ユウヤミの頭の中でカチッ!!と大きな音を立てて仮説が一つ輪郭をハッキリさせた。
「…突拍子もなく、到底有り得ない事の様に思えるけれど…この子は──ノイはもしかしたら、何らか・・・の事情で体の時間が赤ん坊まで逆行してしまった元大人…ひいては君の持っている下着の本当の持ち主じゃないかい…?」
 有り得ないと思って頭から除外して居たそのたらればがユウヤミの口から紡がれる。テオフィルスは目を白黒させると赤ん坊の顔を見つめた。確かに彼女・・に似ているところはある。きっと、赤ん坊の時こうだったのではないかと思える様な面影も見られる。目や髪は彼女のものだ。けれどそんな事があり得るのか。

「………ヴォイド……?」

 テオフィルスは赤ん坊を見つめながら、か細い声で彼女の名前を呼んだ。

「それ」を君は知っているか

「そもそもさ、テオフィルスはどうしてこの下着がヴォイドちゃんの物って思ったわけ?」
 じっと探る様な目でギャリーから見られついついテオフィルスはその視線から逃れようと顔を背けてしまう。別にやましい事など何も無い筈だが、取り出せずに未だに胸ポケットに潜ませているブラジャーと同じデザインのパンツはこの瞬間完全にテオフィルスの懐以外の行き場を失っていた。
「ま、前に見た事があったんだよ…アイツがこれ着てたの…」
「は…?テオフィルスってあの殺傷能力高めなエロさが服着て歩いてるヴォイドちゃんのエロさ剥き出しな格好を傍で拝める様な仲なの…?」
 羨ましい、と言いたげなギャリーの言葉に普段は屁でも無い筈が一気に体温が上がった様な心地になる。顔にも出て居たのか、熱く赤く上気した頬を隠す様に顔を背けるとテオフィルスはあれやこれや弁明をした。
「ヴォイドってスクラブか下着かみたいな格好多かったろ!?最近はお気に入りの服があるのかそれ結構着てたけど…でも下着にパーカーとか白衣羽織っただけみたいな格好の事も多いだろうが!それ見るなって!?無理だろ!そこに巨乳の谷間があったら拝むしそれ包んでんのがそれなりに好みなデザインのレースのブラだったら脳裏にも焼き付くだろ!?」
「ンな事ァ問題じゃねェ!!俺が問題視してんのはヤったかどうかだ!!」
「おーい」
 脱線仕掛けた話をユウヤミがその一言で持って軌道修正する。こほんと咳払いをするとギャリーもテオフィルスも状況を整理した。
「あのさ…それでもやっぱ俺にわかには信じられねぇんだけど」
 ギャリーはチラチラ赤ん坊を見ながらそう呟いた。こんな非現実的な話、誰だってそう思うだろう。ユウヤミはまだ何か考えているのか未だに口数が少ないままだ。
「そうだよな…状況だけ述べるなら、たまたま廊下の真ん中で女が服をその場で脱いだ形跡があって、そこにたまたま裸の身元不明の赤ん坊が転がって居た。そしてヴォイドはどうも留守にしてて消息不明、拾った赤ん坊は異様な速度での成長も確認されて──…」
 言っていてテオフィルスは頭が痛くなった。むしろここまで色々羅列したのならこの赤ん坊が実はヴォイドであり、何らかの理由で小さくなってしまったと言う方が余程説得力があったのだ。
「いや、ヴォイドが小さくなったって方がよっぽど理由としちゃまとも・・・だ…」
「だとして、ヴォイドちゃんがそうなった理由って何だよ…?」
 テオフィルスもギャリーも頼みの綱はユウヤミだと言わんばかりに彼を見る。しかし、ユウヤミは依然として黙って考え込むだけだった。その内頭をがしがしと乱雑に掻くと「ふぅ」と溜息を一つ。呆けた目を二人に向けた。
「済まない…席を外すよ…」
「ど、どうしただ?急に元気無くなってよぉ…」
「いや…栄養が足りなくてねぇ…」
 糖分が足りない。ユウヤミのエネルギー切れ発言に二人は止める道理は無かった。むしろ今はこんな非常識な状況を飲み込むだけの頭の柔軟さと相応の知識、見解が求められており、それに一番適しているのはユウヤミだったからだ。
「ちょっと糖分を摂ってくる。ついでに少し調べ物をして良いかな?」
「あ、ああ…」
「俺らさっき席外したしさ、今度はユウヤミが休んでよ」
「済まない。じゃあ少し休んでくるよ」
 ユウヤミが何を話しているのか分かってしまったのか、赤ん坊は「行かないで」と言わんばかりに唸りながら彼に手を伸ばした。
「うぅー…うぅー」
「……」
 彼女がヴォイドであって欲しいし、この子がただの「ノイ」でもあって欲しい。赤ん坊に名を付け、絆を育んだユウヤミの胸の内で複雑な思いが渦巻いていた。けれど、もしも本当に彼女がヴォイドだとしたらこれは自然の摂理を捻じ曲げる行為。絶対に歪みが生まれる。そんな事の当事者に彼女を置いてはおけない。
 ユウヤミは伸ばされた赤ん坊の手を優しく包むと、反対の手で彼女の頭を撫でた。
「うぅー…にゃんにゃ…」
「大丈夫…にゃんにゃはノイを置いてどこにも行かないよ…」
「うぅ…」
「ちゃんと戻ってくるから、パパ達もいるから安心して」
「…にゃんにゃ、ちう」
「「「……!!?」」」
 目を瞑り唇を前に突き出し尖らせる赤ん坊。まさかのキスを求められたユウヤミを含め三人は同時に固まる。ギャリーは「赤ん坊から子供に成長したとは聞いたが随分おませじゃないか!?」と。テオフィルスは「この赤ん坊が本当にヴォイドだとしてこんな甘えん坊な面見た事ないぞ」と。当のユウヤミは突然求められた事で珍しく一瞬動揺した。
「えーっと……?」
「ちう。にゃんにゃ、ちう」
 この子は本当にヴォイドだったかもしれない。とは言え、今は赤ん坊の体だ。ヴォイド本人ですらそうなのに不用意に目の前のこの子に過度な触れ方をするのはやはり躊躇われる。
「……赤ちゃん自体は生まれた時に持っていないと言うが、親からのキスや口移しで引き継がれるのがミュータンスむし歯菌…」
「にゃんにゃ…?」
「ごめんね、お口には出来ないけどほっぺにはしてあげる」
 頬へのキスで満足してくれるか心配だったが、いざしてみると赤ん坊は嬉しそうににこりと笑った。
「それじゃあ、私は少し席を外──……うわぁ、メドラー君何て顔してるの」
 その様子を見て「これが娘を持つ父親の気持ちか」と、テオフィルスは血涙でも流しそうな顔をユウヤミに向けたのだった。

to be continued