薄明のカンテ - 鞘無キ懐剣/涼風慈雨












懐剣の暴走

 ぐらり。
 広場のオブジェが揺れ、呆然と立っている子供の上に倒れかかる。
 元からきちんと固定されていなかったらしく、ビクターに投げ飛ばされた汚染人形がぶつかった衝撃で土台が揺れたのだった。
 子供は何も知らない。ただ、戦場の様子を目を丸くして見ている。
 誰もまだ気付いていない中、アサギの人工眼がその様子を捉えた。
ーー 誰一人、死なせるな。
 直前に言われたロナの言葉を思い出し、動こうとしたアサギ。その瞬間、思考にロックが掛かり、向かおうとした足が別方向へ進んだ。
〈そこにいるのは保護対象の主人ではない。その場に行った場合、破損する確率はーー〉
 サブシステムの弾き出した数値はかなり低い確率。それでも、“破損する確率がある”という一点に危険だと判断したシステムが自動的にアサギをその場所から退避させる。
「お嬢ちゃん!」
 ヘラの大きな声にアサギが振り向くと、倒れかけたオブジェの下にヘラが迷いなく飛び込んでいくところだった。間一髪、子供を救い上げたように見えたが、オブジェの崩落と共に舞い立った土埃が収まるとヘラは半分埋まっていた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん……!」
 ヘラの隣りに座り込む子供は不安からか泣きじゃくる。安心させねばとヘラが動ける範囲で頭を撫でるが、余計に泣くばかりだ。
「大丈夫、あたしは見かけによらず頑丈さね。お嬢ちゃんは安全なところにお逃げ。」
 何を言われても子供はしゃくり上げながら泣き、その場を離れようとしない。
「ヘラ……!」
 目の前にいた汚染人形を斬り捨てたアサギがヘラの方に向かおうとするも、〈そこにいるのは保護対象の主人ではない〉と警告を出すシステムの為に結局動けずに立ち尽くした。
 そうこうしている内に、ほとんどの汚染人形が片付いたと見て取ったビクターが駆けつけてオブジェを担ぎ上げ、後から来たユリィがヘラを救出する。
 よろめきながらも普通に立ち上がったヘラは、泣いたままの子供を安心させようとバク転をして見せた。
「大丈夫なの?」
「そう、大丈夫!全然元気だから、心配しなさんな。」
 笑顔の戻った子供の頭を撫でているヘラを見たアサギは考える。
ーー同じ機械人形のヘラはあの瞬間、迷わず飛び込んでいった。『誰一人、死なせるな。』とロナに言われたのに、壊れる確率もかなり低かったのに、俺はそれが遂行できなかった……やはり、あの・・システムが邪魔をしているーー
 考え中だったアサギは周囲の警戒を忘れていた。
「うわ、やべぇ!上見ろ、刀の子ーーー!!」
 ビクターの大声で上を見たアサギの眼前に宙を舞う汚染人形が迫る。一拍遅れてしまったアサギは刀も回避も間に合わず、勢いよく衝突して汚染人形の下敷きになってしまった。
 汚染人形はすぐさまロナが汚染駆除で動きを止めたので、それ以上の被害は抑えられたが、汚染人形をどかされても下敷きになったアサギは動かなかった。
「アサギ?」
 受け身を取った様子もなく、左手で頭を抱えて背を丸め、小刻みに震えているアサギ。
「すまねぇ、最後の一体だけ刀の子なら大丈夫かと思って投げちまった!って、おい?刀の子!?」
 様子見に来たビクターも素っ頓狂な声を上げる。
「アサギ、何があった?」
 ロナに肩を揺すられても何の反応も見せず、眉を寄せて顔を歪めるばかりのアサギ。真一文字に結んだ口が時折細く開いて言葉を成さない小さな呻き声が幾度も洩れる。右手は何を掴もうとしているのか、形の良い指先が地面にめり込んで泥だらけになっていた。
「ロナさん、もしかしてこれは脳震盪の再現では……?」
 エリックの思い詰めた顔を見たロナがハッとした顔になる。
「痛覚機能、か……」
 前にアサギから聞いた覚えがあったとロナとエリックは思い出していた。破損するか一定以上の圧力がかかると動作を数時間停止する痛覚機能が搭載されているのだと。
 ただ、彼らは今まで痛覚機能が重度に作動しているところを見た事がなかったので戸惑っていた。どれくらいこのままなのか、故障ではないのか、知る由もなかった。
「仕方ない。トラックに乗せて支部まで運ぼう。機械班に聞けば何かわかるかもしれない。」
 ロナはそう考えた。
 ところが。
 支部にいた機械班は即刻サジを投げた。
「無茶言わないでくださいよ、噂の特注品でしょ?私には無理です、手に負えないですよ。見なくちゃいけない汚染人形がわんさといますし、ヘラの点検もありますし、面倒見きれないです!」
 困って頭をガリガリ掻き毟る機械班員。
「明日の調達班のトラックに乗せて、本部の機械班で見てもらいましょうよ。エルナー夫妻なら何かわかるかもしれませんし。」
そう言われ、これ以上頼み込むわけにいかなかったロナはアサギを背負ったビクターと共に作業部屋を立ち去った。
 まだ顔をしかめたまま震えも止まらないアサギ。専用の個人スペースにとりあえず寝かせ、ロナは様子見に徹する事にした。


 数時間後。陽はとっくに暮れ落ち、夕餉刻も過ぎ、ほとんどの人は個人スペースで明日の為に休養を取るべく準備している頃。
 ロナはノートパソコンで報告書の作成をしていた。
 何時間も辛そうなアサギの表情を見ているうちに自分の胃まで痛くなってきたロナ。袋からストレス胃に効くカプセルを取り出して口に放り込み、コーヒーで流し込む。
 アサギの事はどう書けばいいだろうかと悩んでいると、もぞりとアサギのシーツが動いた。
 ようやく痛覚機能が解除されたらしく、いつも通りの顔でふらりと半身を起こすアサギ。
「アサギ、もう大丈夫そうか?」
 ロナの問いに両手をグーパーさせて調子を確認したアサギは確信を込めて頷いた。
「そうか、それなら良かった。」
 目元を緩ませるロナを見たアサギは、これ以上この人とこの小隊に迷惑をかけてはいけないーーそう悟った。
 痛覚機能が作動している間も途切れ途切れながら、周囲の状況は認識していた。だから、倒れた直後に血相を変えてメンバーが駆けつけた事、ビクターの背に揺られていた事、ずっとメンバーが交代で隣にいた事、付着した汚れをロナとエリックが拭いてくれた事を全部アサギは知っていた。だからこその判断だった。
「ロナ。」
「どうした、アサギ?」
「今日の事は、本当に悪かったと思う。ただぶつかっただけで動けなくなるなんざ、前線駆除班失格だよな……」
 しゅんとした表情のアサギ。心なしか小さくなっているように見える。
「痛覚機能、外せねぇか?」
 突然のアサギの要望に目を丸くするロナ。
「今だってアサギは十分頑張ってると思うぞ?」
「もっと皆んなの役に立ちてぇんだ。こんなのに足止め喰らってたら足手まといになっちまう。」
 真っ直ぐロナを見据えるアサギの人工眼に強い視線をロナは返した。
「一時的に動けなくなるくらいなら、大きな問題じゃないぞ。人なら怪我で何週間も動けない事だってある。それを差し引いても外したい機能なのか?」
 問いに頷くアサギ。
「痛覚機能ってか、PL-pluginっつう痛覚機能と機械人形法遵守機能の拡張プラグインシステムなんだ。破損するか、一定以上の圧力がかかると動作停止させる安全装置って言い換えてもいい。」
「それが、何で邪魔なんだ?」
「機械人形を守る為のシステムに見えんだけど、動作停止を過度に危険視するシステムでもあんだ。主人しかこのシステムの切り替えが出来ねぇ。」
 アサギの訴えがまだよく分からず、首を傾げるロナ。
「主人に身の危険が迫っているなら自動オフになんだけど、どの状況でも優先順位第一位は主人で二位が自己防衛になってんだ。」
 真剣なアサギの表情は追い詰められているかのようだった。
「昼間、オブジェが倒れたろ?あの時、子供が危険な状況だって直ぐ気付けたのにあのシステムが〈保護対象の主人ではない、破損する確率があるから離れろ〉って警告が出て計算結果をねじ曲げてきたんだ。ヘラが埋まった時も〈保護対象外だから行くな〉の警告に足止めされて動けなかった。」
 ぎゅ、と拳を握りしめ、俯くアサギ。
「あのシステムさえなければ、もっと早く動けたってのに……!」
 機械人形には感情がない。それでも、不思議なほどアサギの声は必死さに満ちていた。
 あまりの必死さに胸の奥が絞られるような気持ちがしたロナは束の間、アサギの人工眼の奥に生命の光を探してしまった。無いのは当然だったが、それほど力が篭っていた。
「……確かに、それは問題だな。今まで何処か反応がおかしい気はしていたが、まさかそんな事になっていたなんて……気付いてやれなくてすまなかった。」
「ロナの所為じゃねぇよ……」
 アサギの声にすら悔しげに眉を寄せるロナ。
「ただ、痛覚による危機感が全く無くなれば慢心の元になるぞ。機能を緩めるだけじゃダメなのか?」
 ロナの問いに首を振り、否と答えるアサギ。
「拡張システム以外でも痛覚機能が作動すると主人の事がちらついて離れねぇんだ。別にいい思い出もないし冷静に考えれば守りたい人間でもねぇ。けど、アレが主人である限り、勝手にシステムが動いて自分の判断と違うことをしちまうんだ。」
 小さく頷きながら聞いていたロナがハッとした顔付きになった。
「まさか、アサギ……主人登録が変更できていないのか!?」
 黙って頷くアサギ。
「何て事だ……」
 目を瞑り、天井を仰ぐロナには様々な後悔と徒労の色が浮かんでいた。
「報告は上に上げておく。故障の確認で明日の調達班トラックに乗る事はもう決まってるんだが、例のシステム削除の件はその後で決めてもらうしかないな……」
 アサギの個人スペースからゆっくり立ち上がるロナ。
「アサギ、今日はもう休んだ方がいい。充電ボード、忘れるなよ。」
 軽くアサギの肩に手で触れると、ノートパソコンを持ったロナは自分の場所へふらりと帰っていった。

金持ちの酔狂

 翌日。「いってらっしゃい」とメンバーに背を押されたアサギは必要機材や食料を持ってきた調達班の小型トラックに乗せてもらい、本部の機械班に向かった。調達班のシュオニに案内されて機械班の事務所へ到着すると、待ち構えていたアンにアサギは壁際に連れて行かれた。
「テメェがアサギだな?ロザリーには極秘であーしとムーンが見る事になッた。倒れて動かねェッて聞いてたけど、テメェ動けてンじゃねェか?故障には見えねェンだけど。」
 仁王立ちのアンにどこから説明すべきかアサギが考え始めた瞬間、ベルナールの電話が鳴った。一言二言話して電話を切ったベルナールがアンを見つけて呼び寄せる。
「アン・ファ。アサギの件は一旦保留にするように上から命令が出た。これから1時間緊急会議だから、その間にアサギから必要な事を聞き出してもらえるかな?」
「了解。保留理由は教えてもらえンのか?」
「故障どころじゃ無い案件みたいでね……ともかく、後は頼んだよ!」
 上着をつかんで資料を少し持ったベルナールは慌ただしく機械班の事務所から出ていった。
「あ〜、ンな面倒事にゃ関わりたくねェんだけど。どうしてくれンだよ、アサギ。」
 一房の髪を弄びながら悪態を吐くアン。
「こうなっちまったら仕方ねェ。機械人形倉庫で待機だな。行くぞ。」
 アンに手を掴まれて否応なく連れて行かれるアサギ。その後ろをムーンがとてとてと足音をさせてついて行く。
 機械人形倉庫に長居する人は少ない。人間と見紛う機械人形が整然とそこにあるだけの場所は妙に居心地が悪く感じるらしく、仕事が終われば直ぐ出て行く人ばかりだ。
 特に何も気にしないアンとしては、話を聞くにうってつけの場所だった。
 適当に置いてあった椅子に腰掛ける3人。
「ンで?何が故障だと思われたンだ?」
「痛覚機能って言ってわかるか?」
「あ〜はいはい。痛みの演技させる機能だろ?知ってりゃ何て事ねェ。其奴が何で故障に間違われンだよ。」
「一回作動しちまうと、数時間動作制限がかかんだ。……主人の趣味でな。」
「ケッ、金持ちかよ。面倒なモンを噂の特注品サマに入れるなんざ暇人か?」
 暇ではないが金持ちで道楽者だった事は確かだな、とアサギは思ったが何も言わなかった。
「ンにしても悪趣味じゃねェか。岸壁街の法律グレーゾーンな機械人形は見てきてッけど、金持ちがやる事はやっぱ違ェンだな。」
 呆れたアンの口から妙な溜息が吐き出される。
 そのアンの袖をムーンがくいくいと小さく引っ張った。
「あ?ムーン、どうした?」
 ムーンの手の中にあったのはごく普通のマジックペン。
 何をしたいのかアンもアサギも分からず見守っていると、ムーンが急にペンを振り上げてアサギに投げつけようとした。
「莫迦っ!」
 すんでのところでアンに腕を押さえられてペンを取り落とすムーン。
「ムーン。痛覚機能って奴を確認しようと思ったンだな?」
 こく、と頷く。
「相手が生物でなくても、そうやって叩いちゃいけねェんだ。」
 じっとアンの目を見つめるムーンは呆けた顔をしている。
「それから。アサギは何らかの不具合でここに来てンだ。叩いたら余計に壊れちまうかもしれねェだろうが。」
 そこまで言われてようやくムーンは理解できたらしく、腕を引っ込めた。
「悪ィな、アサギ。ムーンは10年前の機体なモンで、最近のモンより思考が甘ェんだ。」
 アンに謝罪されても、ぼんやり己の手を見ているアサギは反応しなかった。何かの弾みで自己防衛の判断が出ていたら、今頃ムーンは残骸になっていたーーそうならずに済んだ事実はアサギにとって、結社を追い出されない為にも重要だった。
「で。七面倒くせェ設定付きの痛覚機能って奴はどんな奴なンだよ。」
 アンの問いに、搭載されている痛覚機能もとい痛覚機能と機械人形法遵守機能の拡張プラグインPL-pluginについてアサギは昨日ロナに話したのと同じ内容を話した。
 メモと質問を挟みつつ一通り聞いたアンは辟易した顔をしていたが、会議から戻ってきたベルナールに呼び出されると2人を置いて慌ただしく事務所へ入っていった。
 アンが行ってみると、機械班の数名がベルナールを中心に事務所の一角に緊急招集されていた。その中にロザリーがいるのを見つけ、アンの心に特大の不安が湧き出してくる。
「ここにいる5名は機械班と汚染駆除班の合同任務部隊に組み入れられました。合同任務の内容は前線駆除班第4小隊所属の機械人形B.G-02、通称アサギのメンテナンスです。今ある資料を端末に無線で送ります。」
 ベルナールのセリフにロザリーとアン、他3名が緊張した面持ちになる。ピコンと音が鳴ってそれぞれの持っている仕事用のタブレットに資料が送られた。
「1ページ目にある通り、本人から仕事に邪魔なシステムの削除依頼が来ています。そのシステムの削除と他の解析は汚染駆除班が担います。調達班情報部隊から上がった報告も合わせれば、単なる特注品ではなく闇ルートの違法な機械人形かもしれないそうなので、機械班は先にハードウェアの解析を完了させます。分解と3D解析を並行作業して確認して、もし、基準外の部品が使われているようなら取り替えもして下さい。」
 分解と聞いたロザリーはふにゃけた表情になるが、他のメンバーは膨大な仕事量に困惑していた。販売されている機械人形の改造型ならば基礎機体のデータが既にあるので比較が簡単だが、特注品の警備用機械人形となると明確な比較対象データがない。
「期間は機械班と汚染駆除班の作業を全部含めて2週間。」
 工期を聞いたロザリー以外のメンバーに動揺が走る。
「短すぎじゃないの?」
「通常業務と並行か……?」
 困惑するメンバーにベルナールが事情を説明する。
「前線で仕事を担っている機械人形をそれ以上足止めするわけにはいかないそうです。期間内に完了できないようなら外部委託も視野に入れていいそうですが……」
 タブレットの資料を見ながら話すベルナールにメンバー達の泣きそうな視線が刺さる。
「いきなり振ってやってくれる企業なんてないですよ……」
「無茶だな。」
 外部委託、と聞いたメンバーが頭を振って言う。難しいのはベルナールも承知の上なので「決まった事なんだよなぁ」と呟くしかなった。
「質問。少人数より大人数で短期集中すれば早く終わると思うンだが。」
 手を上げて聞くアンにベルナールが答える。
「通常業務と並行して進める為だそうだよ。機械人形のスペシャリストに全員が振り回される事はないという事らしいな。もちろん、合同任務部隊は作業が終わるまで通常業務は免除されるぞ。」
 そう言われたメンバーたちの口から諦めの溜息が漏れる。
 ロザリーを投入する関係上、被害者は少ない方がいいーーつまり、自分たちは迷惑をかけられる側の間が悪い人間だとわかってしまったのだ。
 当の本人はどう分解すれば楽しいか脳内トリップしているらしく、夢見心地な表情を浮かべている。もちろん、人の話なんて一切聞いていない。
「ムーンは最初の予定通りアンと一緒に作業してもらうけど、大丈夫だよね?」
 言葉で返す代わりにアンはベルナールに力強く頷いた。


「ベルナール、話終わった?」
「終わったよ。仕事はアサギのハード解析。出来るだけ早く仕上げないとだから、のんびりしないようにな。」
「締めて2週間だっけ?んーとね……なんとかなる!」
「『なんとかする』んだよ、ロザリー。」
 頭の中は既にフル回転モードになっているロザリーには、ベルナールの声ですら届いているか怪しい。足取りも夢の中を歩くようにふわふわしている。
 機械人形倉庫で待機していたアサギを呼び寄せたベルナールは手短に、依頼されたシステム削除の他にハードウェアの点検や主人登録の変更を含む事など、今回のプロジェクトでやる事を説明した。わかっているのかいないのか、アサギは「あの拡張機能が削除できるなら何でもいい」と答え、全てを了承した。
 ムーンも含めて6人の合同任務部隊はアサギを連れて作業場に移動する。
 嬉々として準備を始めるロザリーは指示を出す気がさらさらない、と気が付いたアンが特大の溜息と共にアサギに言う。
「そこの更衣室にメンテ用の服が入ってッから、着替えてこい。普段の服が汚れると後が面倒だ。特に和服って奴は着るのも着せンのも面倒そうだからな。後、出来ンなら髪は一纏めの団子状にしといてくれ。」
 そう言われたアサギが更衣室にいる間に機械班のメンバーは手分けして必要な道具をテキパキと準備していく。メンテナンス専用の薄い服に着替え終わり、髪も纏めたアサギが更衣室から出てきた時には、全部の機材が準備万端の状態になっていた。
 早速、機械人形作業用のドールスタンドに立たされて固定されるアサギ。
「それにしても、ねぇアサギ知ってる?」
 アサギの首の後ろの付け根にある外部電源用コネクタに電源コネクタを接続しながらロザリーがぼやく。
「40歳目前になると、謎の痛みが毎日何処かに出るのよ〜?痛覚機能が取りたい時に取れるなんて本当、羨ましい限りよぉ」
「え」
 初耳だ、と言うように目を丸くするアサギ。
「ロザリー、今それ関係ねェだろうが。アサギの痛覚機能は動作制限付きなンだよ。頑丈が取り柄の機械人形がンな事じゃァ面倒だろ。」
「あれ、そーなの?」
 きょとんとするロザリーを見たメンバーたちが「本当に匣にしか興味がないんですね……」と呆れた視線を投げる。痛覚機能を外したい本当の理由を知っているアンが、根性焼の傷痕を服の上から押さえた事には誰も気付かなかった。
「アサギ、電源切りな。事故防止だ。」
 アンに言われて頷くと大人しくシャットダウンするアサギ。微かにあった駆動音が消え、全身から力が抜けた。
「さて、と!お楽しみの時間よぉ〜!!ひゃっほい!!」
 夢見心地、というより最早よだれを垂らさんばかりのだらしない表情でロザリーが目にも止まらぬ速さで表面の人工皮膚や感圧センサーシートなどを剥いで内側のネジを外し、中の基盤を剥き出しにする。
「ふおぉぉぉ……」
 ロザリーの歓声を聞いた他のメンバーが内部を覗き込むと、皆一様に顔色が紅潮した。
「このCPU、コア数幾つだ……?待てよRAMの容量が馬鹿デケェんだけど。」
「え、このGPUってベンチマークスコアが飛び抜けて高いアレだろ!?」
「そうそう、目玉が飛び出る勢いで値段の張る高級品。流石だ……」
「潤滑油の匂いもほとんど嗅いだ事ない高級品だぁ」
「関節モーターの種類……これ限定生産ものだったはず。」
 アサギから離れたロザリーが堪能するような溜息を溢し、額に手を当てる。
「はぁ……まさに、5年前のカンテ技術の結晶体ね。最近ようやく一般向けに販売開始されたばかりのものまで搭載されてる。」
「趣味に走る金持ちほどロクなモンはねェな。」
 ジト目のアンがポツリと言い、ロザリー以外のメンバーたちが深く頷く。ムーンは何もわかっていないようだったが、合わせて頷いている。
「見入ってる場合じゃねェだろ。早く終わらせねェと汚染駆除班に文句言われちまう。」
「それもそうね!時間巻いていっちゃおう!」
 アンに小突かれたロザリーが改めて道具を構え直し、蓋を開けた状態のアサギに向き直る。
 機械人形一体に使われている部品は、どれだけ少ない機種でも6000点は優に超える。特注品で警備型のアサギとなればもっとたくさんの部品が使われている筈なので、分解するだけで一苦労だった。ただ、今回は機械人形一直線のロザリーが分解作業をするので通常より時間短縮になる。
 何が問題かと言えば、部品ごとに3D解析をして違法部品が使われていないかのチェックに時間がかかる事だった。さらに、一回分解したら元に戻さなければならない。汚染駆除班の仕事量を考えれば、丸々1週間は使えなかった。
 外される部品を片っ端から複数角度で撮影する。3D解析用のデータは専用ソフトで自動作成するのだが、撮影には時間がかかるし、部品の照合にも時間がかかる。一つ一つは問題ないほどでも、塵も積もれば山となる、という通り膨大な時間がかかるのだった。そこへロザリーの我儘で「水分買ってきて〜」「糖分足りなぁい」「あの資料取って〜」と言われるとメンバー達も嫌になってくるというものだ。挙句に奇声とあれば逃げたくなる。
それでも、同じような作業で頭がぼんやりしてきてしまう中、作業を続ける。いつしかいつもの退勤時刻が過ぎていく。誰が声をかけようと分解に没頭するロザリーには聞こえない。
「これ、残業手当付くんだよな?」
「ロザリーさんに振り回された分のボーナス欲しい」
「そうだよね」
「人員欲しい……」
「アサギの前主人にカネ出させれば良いんじゃない?富豪でしょ?」
 その言葉にメンバー達がハッとした表情で固まる。
「その手があったか!」
「いや、待てよ。主人が死んでッからアサギはここにいンだろ?」
 一瞬歓喜に沸き立った空気がにわかにしぼみ、代わりに怒りが爆発する。
「前主人は金を出せええぇぇぇぇぇ!!時間もくれええぇぇぇ!!」
「同情しなくていいから金をくれえええぇぇぇぇ」
「菓子類含めて全部経費じゃぁぁぁぁ!!」
 叫んでゼイゼイと肩で呼吸をするメンバーを見たアンが呆れた視線で3人を見る。
「気ィ済ンだか?」
 顔を見合わせた3人は同じタイミングで頷いて言った。
「「「頑張るか……」」」

 翌日。
 アサギと比較対象にするデータに汎用型警備用機械人形Sec-14型が選ばれた。アサギと背格好が近く、警備用機械人形の中でも特に多方面の武術に対応している機種だ。
 大方出来上がっていた3DデータとSec-14型の3Dデータを比較し、性能の差やカンテ基準の数値に収まっているかなどを確認していく、とにかく地道な作業である。
 解析して問題のなかった部品からムーンが運び、ロザリーとアンで組み直す。それを6000点以上の部品で行い、問題のあった部品は正規品と取り換え、チェックしていく。
 全て終わった数日後には全員がぐったりと疲れ切っていた。約一名を除いて。
「組み直して動くかの確認はしないとよね!」
 ロザリーだけは余計に肌艶が良くなったような気がする勢いだ。ただ、良く見ると目の下にクマがある上に妙なハイテンションになっているので、疲れは出ているのだろう。
「アサギ〜お目覚めの時間ですよぉ〜」
 ふにゃけたロザリーの声と共にドールスタンドに固定された状態で起動されたアサギ。ゆっくりまぶたが開き、微かな駆動音が鳴る。メンバーたちに固定を外されてもフラつかない事を確認したロザリーが満足そうに頷いた。
「一回全部分解バラして組み直した。基準値外の部品は交換したけど、動きに問題ない?」
 ロザリーに聞かれたアサギは拳を握って開き、各関節の調子を確認して「問題ねぇ」と呟いた。緊張していたメンバーの間に安堵が広がる。
「全部の部品をSec-14型と比較したけど、良い素材で良い部品を作っているだけだったのよ。5年前からカンテ国基準が変更された部品が混じってたからその取り替えだけは勝手にやらせてもらった。それから、かなり摩耗してたメモリ交換に、グリスの塗り直しも。不具合が出るようなら機械班に連絡ちょうだい。対策考えるから。」
「わかった。」
「破損してた片側の人工眼は同じ部品の在庫がなかったからそのままよ。仕事に問題なさそうだし、そうそう手に入るものじゃないしねぇ。」
 端末に表示されているアサギの部品一覧をうっとりした表情で眺めるロザリー。
「それにしても、本当に特注品って凄いのね!モーター1つだって限定生産品の高級品だもの!搭載されてるGPUの性能も一般家庭の機械人形の何倍も高いんだから!あ〜もう最高。作ったデータはこれからの研究資料にさせてもらうね!」
「お、おう……?」
 言われたアサギは自覚が無かったのか意外そうに首を傾げている。
「それにね、思ったより部品の数が少なかったのよ?通常の警備用機械人形より幾らか軽量化されてる。これも立派に凄い事よ……作った企業に問い合わせて秘密を聞き出さなくっちゃね!そうだあれも……!」
 説明しながら舞い上がり始めたロザリーはさて置き、アンに突かれるアサギ。
「ロザリーの言ってる事はいずれわかンだろ。今は汚染駆除班に一刻も早く行かねェとだ。テメェの言う“痛覚機能”を削除すンのはあっちの仕事だかンな。」
 一つ頷いたアサギはメンテナンス用の薄い服から普段着に着替え、アンとムーンに連れられて機械班を出た。
「一人で行けんのに……」
「向こうにゃミサキが待ち構えてンだ。あーしがいればテメェの盾になれる。」
 人間が機械人形に盾になろうとする理由がわからず瞬きをするアサギ。
「機嫌の悪いミサキは手に負えねェって話だよ。さっさと行くぞ。」
 アンに連れられるアサギを見ているムーンには、どこが不具合なのかが結局最後までわからなかった。

鍵を壊す鍵

「遅い。けど想定内。」
 ぶっきらぼうに言うミサキはアンの予想に比べて機嫌が良かった。その様子に安堵したアンはアサギを預けて汚染駆除班のオフィスから早々に機械班へ引き上げていった。
「アサギ、今の調子は?」
「今は特に問題は出てねぇよ。」
「そう。ならさっさと始める。そこの椅子に座って。」
 汚染駆除班から合同任務部隊に組み入れられたのはミサキ、テオフィルス、エフゲーニ、トニィ。ハッキング経験者と機械人形用アプリを作成をしていた人で組まれている。
「ここでシステム変更に挑戦するのは2回目だな、アサギ。」
 ミサキの後ろにいたテオフィルスの声に緊張した面持ちで頷くアサギ。
 そう、初めてマルフィ結社にやってきた時に一度アサギはここで缶詰にされていた事があった。
 主人の死亡が確認されており、持ち主不在の機械人形は中古品と同じ扱いになる。条件さえ揃えれば機械人形本人が内部システムへのパスワードを教えてくれるので、上層部の人間を主人登録し直すのが通常の方法だ。ところが、アサギに組み込まれたセキュリティシステムには、軍警やトップ企業の社長秘書など、中古品を想定していない高度セキュリティが求められる機種と似たようなものが使われていた。アサギ自身はパスワードに関連するデータにアクセス権限がなく、数日の試行錯誤の末に「これ以上時間を掛けるわけにいかない」とセキュリティ突破を諦めたのだった。
 主人登録が変更できなかった影響か、アサギは小隊のたらい回しに遭って第4小隊になんとか落ち着いた、という訳だった。
「声紋、指紋、静脈、虹彩認証の4つの生体認証の上にパスワード。パスワードのヒントは約1200桁の数列。まぁ生体認証は偽造できるとしてーー問題は復号する数式がわかんねぇって事だ。」
 テオフィルスの台詞に頷くミサキ。
 生体認証は慣れていれば簡単に突破できる。指紋、静脈、虹彩認証は対象が写っている本人の写真さえ手に入れば合成できるし、声紋も声のサンプルが入手できれば機械合成ができるのだ。実際、前回は生体認証まで突破できている。
 そうするとパスワードが一番厄介だった。
 ヒントで表示された約1200桁の数列を見たとき、ミサキは直感的に電子世界の通信で使われている暗号化と似たようなものになっていると思った。テオフィルスに確認してみると、軍警でも同じようなセキュリティシステムを使用しているのだと言う。
 普通、通信の暗号化された文の解読をする時はなんとかして暗号解読用の秘密鍵を入手する。だが、アサギは世界に一体しかいない特注品で、電子世界も使えず情報も集められない。同じ数式で生成される暗号文が複数あれば特徴を見つけて突破する事もできなくもないが、同じ数式を採用しているのは汚染された上に壊れたウェンズデーのみであろう。
 つまり、目の前の数式を解く以外にセキュリティを突破する方法はないのだ。
「アサギ。主人の情報を教えて。口癖、習慣、こだわり、身の上の事、なんでもいい。」
「何で必要なんだ?」
「パスワードは長文になっている可能性が高い。設定者が覚えている為には身近なものを取り入れる。独占欲の強い人間なら尚更。調達班情報部の調べた情報も穴が多い。」
 納得したアサギからパスワード破りに使えそうな情報を聞き出すミサキ。その隣りでテオフィルスがアサギの左耳とパソコンをケーブルで繋げ、メンバー達が他の準備を進める。
 あらかた聴き終わったところでミサキがぽつりと呟いた。
「痛覚機能が取れるなんて、羨ましい。」
 そっと腕をさするミサキ。その下には無数の傷痕がある。疼けば嫌が応にも孤児院の性悪兄貴たちや職員を思い出す。普段は忘れている昔の記憶に悩まされる日もある。
「ミサキ、40代だったっけか?」
 ロザリーが似たような事を言っていたと思い出し、問うアサギ。束の間、眉を寄せたミサキだったが、事情を察したらしく呆れた視線を返した。
「ロザリーと一緒にしないで。」
 パタン、とメモに使っていた端末を閉じたミサキが、ブルーライトカットのメガネを取り出して耳にかける。
「作業を始める。アサギ、セーフモードに移行して。」
 機械班でも言われたように、安全の為だろうと判断したアサギは大人しくセーフモードに移行する。微かな駆動音はそのままに俯いたアサギの目蓋が落ちる。
 セーフモード状態ではコンピュータとして必要最低限の機能のみが起動し、それ以外のアプリケーションや機械人形の人格面は一切起動しない。機械人形のシステム書き換えや重篤な不具合の場合に使用され、入力はケーブルで繋がったパソコンで全て行う。もちろん、対応しているパソコンに繋がっていると機械人形側が判断しなければセーフモードにはならない。
「辞書攻撃すんのか?」
「前回、安直なパスワードは出し尽くした。2回間違えると30分ロックされるから、総当たり攻撃だと時間が足りない。」
「1週間休みなしでも672回……うわ、やってらんねぇ」
 辟易したように口をへの字に曲げるテオフィルス。
「約1200桁だと4文字ずつに意味があっても300文字ですね。」
「16進とか文字コードなら地道に解読できたのに……」
 エフゲーニとトニィが揃って溜息をつく。
「溜息ついてる暇なんか、ねーんだよな。」
 テオフィルスが己に言い聞かせるように溜息と共に呟く。
「ミサキ、辞書攻撃するにしても、2連ちゃんでハズレっと30分ロックだろ?限られた回数でどうやってセキュリティ突破すんだよ。」
「調達班に根回ししてミーナを借りる予定。そろそろ来るはず。」
「ミーナ?」
 誰だそれ、と首を傾げるテオフィルスにエフゲーニが紫メッシュを揺らして答える。
「あぁ、ミーナですか。数学にしか興味がないのに調達班の仕事はできてる機械人形ですよね?」
 ミサキが頷いたのと同じタイミングで出入り口の扉を軽やかにノックする音が聞こえた。
 入ってきたのは、調達班の男性コリンに連れられた桃色の髪をポニーテールにした機械人形。
「ミーナ、汚染駆除班のみんなが待ってますよ。」
「ここが汚染駆除班なんだ……ねぇ、ミサキって誰?」
 しげしげとオフィス内を見回す桃色の髪のミーナの手を取り、ミサキに近づくコリン。
「ミーナが助っ人で必要だと聞いたので送りにきました。ほらミーナ、挨拶してください?」
「こんにちは、ミーナだよ!いっぱい数学を解かせてくれるって聞いたから来たよ!」
 ミサキに向けてにっと口角を上げて笑うミーナ。
「ミサキ・ケルンティア。よろしく、ミーナ。」
 愛想の良いミーナに対して無表情で答えるミサキ。仕事用タブレットに以前撮影したアサギのパスワードヒントの数列を表示させ、ミーナに見せる。
「ミーナに解いてもらうのはこの約1200桁の暗号文。」
「あんごーぶん?」
「元の数列をとある数式でぐちゃぐちゃにしたモノがこの約1200桁の数列。ミーナには“とある数式が何か”と“元の数列は何か”を解いてもらう。」
「わかった!数式の予想はもうあるの?」
「候補はある。ミーナの処理能力だと足りないだろうから、一時的にスパコンに繋いで処理速度を100倍に上げる。」
「本当!?」
 踊り出さんばかりに喜ぶミーナを尻目に送りにきたコリンに向き直るミサキ。
「最長でも1週間で返せると思う。返すときは送る。」
「わかりました。僕の知っている暗号とか謎解きとかと何だか規模が違いそうですね。こちらはいる人で仕事を回します。ミーナには飽きるほど数学やらせてあげて下さい。」
 それでは、と言った調達班のコリンは上着の裾を翻して汚染駆除班を後にした。

 トニィがミーナをスパコンに繋ぎ、ミーナに約1200桁の数列と候補になっている数式を表示させたタブレットを手渡す。
「ミーナ、始めて。」
 ミサキの声に一つ頷いたミーナがすっと真面目な表情になり、計算を始める。
「これが剰余演算と素因数分解の組み合わせで出来てる通信の暗号化方式と同じなら、時間はかかるけど何とかなる。」
「ミーナの弾き出した数字を文字に置き換えるのが人間の仕事って事っすよね?」
 トニィの言葉に頷くミサキ。
「意味のある文章になっていて、且つその人らしい内容である事。推定は人間にしかできない。」
 神妙な顔で頷くメンバー達。
「時間はかかっけど、やるっきゃねーな。」
 伸びをしたテオフィルスもパソコンデスクに向かう。ミサキもブルーライトカットメガネを指で押し上げながらパソコンの前に座った。
 ミーナはスパコンと一緒に暗号文の答え候補になる数列を計算する。その結果を見て汚染駆除班員たちが文字コード表から翻訳し、意味が通るか、パスワードを設定した本人らしいものになっているか、チェックしていく。
 条件に合うパスワード候補の中からミサキが30分ごとに2つ選んでアサギに打ち込んでいくが、全て弾かれ、トライ&エラーの繰り返し。数列の翻訳、パスワード候補の文章チェック、パスワードの打ち込み。何度やろうと弾かれるばかり。30分のロックも急がなければならない彼らにとって手痛いところだった。
 フル稼働を続ければミーナもスパコンも放熱が上手くいかずに熱暴走を起こしてしまう為、その対策も並行して行う。冷房の徹底、部屋の換気、氷嚢の取り替え。たまに休ませて冷却時間を作るのも仕事の内だ。
 夜は交代で睡眠時間を確保し、ほぼ作業を止める事なく3日が経過した。
 試行する事200回超え。計算した回数は数知れず、翻訳した数列の量もわからない。ただ、メンバーの顔色の悪さとメントール入り目薬の減り方から、相当な量だった事はわかる。
「これ今まで一番、前主人って奴っぽいな。」
 テオフィルスが差し出したパスワード候補をエフゲーニが読み上げてみる。
「『此の巫山戯し素晴らしき世界は我が為に有り。欠けぬ満月の如く全ては我の掌中に有り。己を知らずとも我は此処に有り。』……なんですか、これ。」
「センスも性格も笑えるくらい悪いっすね。ある意味ぽい感じっすね。」
 乾いた笑いを出すトニィとテオフィルス。
「これで開いたらめっけもんなんだけどなぁ……ミサキ、次の候補どうすんだ?」
 直近30分で生成された候補のパスワードを見比べながらミント系タブレット菓子を噛んでいるミサキにテオフィルスが聞く。
「それ採用。先に入力して。」
「了解。お前ら、期待すんなよ?」
「しませんよ、心の無駄遣いになりますからー」
 ひらひら手を振るエフゲーニを見たテオフィルスが素早くパスワード候補を入力し、実行キーを押す。円がくるくる回りながら『お待ち下さい』と表示される。
 次に現れた言葉にテオフィルスの口から「は?」と気の抜けたような声が漏れた。
『ロック解除』
「開いた……開いたぁぁぁ!!??」
 テオフィルスの思わずあげた歓声に汚染駆除班全体がどよめいた。
「本当!?」
「まじっすか!!」
 湧き立つメンバーの中でミサキが一つ大きく手を叩いた。
「喜ぶのは後。ミーナとスパコン先に止めて。」
 睨まれたトニィが慌てて止めに行く。その間にディスプレーに表示された文面に皆、愕然とした。
『ワンタイムパスワードをSMSに送りました』
「おいおい……SMSって前主人の端末って事だよな……?」
「何かあるとは予測してた。まさか2段階認証だなんて……」
 普通、2段階認証が使用されるのは電子世界上でログインする時だ。機械人形で、しかも普段から電子世界に繋いでいなかった機械人形に使われているとは誰も考えていなかった。
 数秒、目を閉じて眉間を摘みながら考えたミサキが急にカッと目を見開いた。
「テオ、アサギを身体検査して。何処かに端末がある。」
「マジか。」
 何を持って断言できるのかテオフィルスにはわからなかったが、取り敢えずやってみる事に価値があるんだろうと思い、アサギの前に膝をつく。
「ん、ちょっくら失礼するよー」
 ぽんぽんぽん、と肩から下へ叩いていく。丁度、胸の下あたりの懐と呼ばれる位置に硬い感触を感じ、合わせから手を突っ込んでまさぐるとディスプレーが蜘蛛の巣状に割れたスマホが出てきた。
「本当に出てくんのかよ……」
 起動させてみると可愛らしい桃色の髪の機械人形の写真と共に指紋認証画面が表示される。一瞬、厳重なセキュリティでもあったら大変だと考えたテオフィルスだったが、杞憂に終わり、偽造指紋で難なく突破できた。
 SMSアプリを開き、送られてきていたワンタイムパスワードを入力するテオフィルス。
『ロック解除』
 パスワードを求めるウィンドウが消え、アサギのシステムフォルダがディスプレーに表示されていく。
「やっと中に入れましたね……!」
 涙ぐむエフゲーニの声には感慨深いものがあった。
「ようやくスタート地点に立てた。本当の仕事はここから。」
 喜ぶメンバー2人にピシャリと言い放つミサキ。
 システム内に保存された説明書のフォルダのロックを偽造指紋で解除し、アサギの言っていた痛覚機能と機械人形法遵守機能の拡張プラグインシステムに関するものを探してディスプレーに表示する。
「何これ……」
 ミサキの困惑する声を聴いたメンバーたちがディスプレーを覗き込む。
「名前はPL-plugin?うわ、どんだけ干渉しまくってんだよ?」
「これだとアサギも大変っすね。ハイスペックじゃなかったら処理しきれなかったんじゃないっすか?」
「このPL-pluginが無事削除できれば、処理速度も上がるかもしれないですね。」
 プラグインの干渉が思ったより多い事に当惑しているメンバーたち。
「何はともあれ。」
 ディスプレーを見つめながらミサキが言う。
「まずはアサギのバックアップデータを作る。それから、主人登録の変更。」
 不用意なシステムの削除でバランスを崩す事があるので、いざと言う時の為にバックアップを取って作業をするのはいつもの事。主人登録の変更ができれば、仮にプラグインが削除できなかったとしても今より動きやすい状態にはなる。そして、ようやく他の機械人形と同じスタート地点にアサギも立てる。
「主人が身近な人間ならマシになる。」


消したい記憶はありますか

「んにしても疲れた……これ以上やんのキツいんだけど……」
「テオ。最後の起動確認まで含めてもう1週間切る。休む暇なんてない。」
「真っ青な顔で言われても説得力ねぇよ。」
「私は計算して動いてる。」
「そーですか、そーですか……俺は耐えらんねぇから休ませて貰うけど。」
 ひらひら手を振って汚染駆除班のオフィスから出て行くテオフィルス。
「あの……止めなくて良かったんですかね?」
 心配そうにテオフィルスの出て行った扉を見るエフゲーニ。
「別に。2人は主人登録の書き換えができる状況を作るのと、ミーナを調達班に送るの、両方やっといて。」
「了解っす」
「……わかりました」
 承諾したメンバー2人を確認したミサキが席を立ち、個室へ向かう。
「えっと……どこへ行くんです?」
「主人候補と決着つける。」
 それだけエフゲーニに答えたミサキは、余計な会話を拒むように背を向けた。

 個室で自分のスマホを取り出し、電話帳アプリから見慣れた名前を呼び出すミサキ。
「もしもし、ロナ?」
『ミサキ女史……』
「結論は?」
『あぁ。エリックを推薦し……』
『小隊長、待ってくれぇぇ!!』
 ロナの声を遮ってビクターの大声が乱入する。
『おわっ!?』
 驚いたロナの声と共に床に端末が落ちた大きな鈍い音がした。
『重機、流石にそれはやりすぎっしょ?』
『端末が壊れたら大変ですの。連絡が取れなくなっちゃうですの!』
 むくれるヘレナの横で、床に落ちたロナの端末を拾い上げるユリィがハンズフリーモードに変えてエリックに手渡す。
『シードさん、言う事ははっきり言うですの!』
 ヘレナの声に押されるエリックの息遣いから、第4小隊のメンバーはロナの結論に賛同しているわけではないようだ、と受話口の向こうで鳥肌を押さえながらミサキは察した。
『あ、あの!アサギの主人はぼくには務まらない、です!』
 緊張で全身がカタカタ震えながらエリックが話す。
『ぼ、ぼくら第4小隊員は、ロナさんを推薦します!』
『よく言った軍師さーん!』
 言い切ったエリックの声にビクターの声が重なった。そこにロナの悲鳴が小さく入る。
『勝手に何を……!痛たた、腕もげる!ビクター、加減してくれ!』
 どうやらロナはビクターに捕まり、端末に近付けないようにされているらしい。
「理由は?」
『え?』
「面倒で押し付けるなら、認めない。」
 賑やかな第4小隊とは違い、氷の様に冷たいミサキの声が第4小隊に届く。
『理由はたくさんあるですの!ねぇ?』
『あ……えっと……その……』
「説明できないなら却下する。」
 一旦口ごもったエリックを一刀両断するミサキ。
 しょぼくれるエリックを見ていられなくなったユリィがエリックを退かして端末の前に陣取る。
『みかんは、第4小隊で一番草餅と一緒に居た人っしょ?』
『皆んなもそんなに変わらない。』
 ユリィの上げた理由に抵抗するロナ。
『たらい回しされた草餅を根気強く指導したのもみかん。』
『皆んなで、だろ?』
 ユリィに、あくまで自分ではなく皆んなの協力があってこそだとロナは言い張る。
『仕事の指示の通りやすさ的にも小隊長のみかんだと楽。』
『アサギさんもサオトメさんの話はちゃんと聞いてるですの。』
『皆んなの話も大体聞いてるじゃないか……』
『大体じゃダメですの!』
 ロナの台詞はヘレナの大声にかき消された。その後も話し声は一切止まらず、説得しようとするメンバーたちと抵抗するロナの声の嵐になった。
 痺れを切らしたミサキが声を張る。
「意見が割れてるなら、上層部の適当な人に頼む。」
 やや怒気を含んだミサキの声に第4小隊のメンバーが静かになる。
「アサギは例のプラグインが削除できた後もまだまだ指導が必要。近くにいる人が主人になる方がいいと思ったけど。残念。」
『待って、くれ……!ミサキ女史!』
 ミサキが通話を切ろうとした瞬間、ロナの声が割って入った。
「……ロナと2人だけで話をさせて。ハンズフリーは切って。できれば人払いも。」
 ミサキの要求に戸惑うメンバー達の中でユリィがパチンと手を打ち合わせた。
『結論を出す為に仕方ないんじゃない?』
『まぁ、そうか!』
 ユリィの言葉を聞いたビクターが後ろ手にして捻り上げていたロナの腕を解放する。ぞろぞろと部屋からメンバー達が出て行き、ミサキと繋がった端末とロナだけが残された。
「効率的に私も貴方が適任者だと思ってる。貴方が拒否する理由は?」
 ミサキの質問に少し躊躇いがちにロナが答える。
『俺には……アサギをずっとこの先も、いつか日常に戻った時も、面倒を見続けられる自信がない。』
 ロナの声は呟くような小さな声だった。
『……いつか失うなら、責任はーー』
「失う前提?」
『復元出来るのは知ってる……だが、甘んじるのは良くない。……自分の機械人形が殉職するところなんて、俺は、見たくない。』
 思うところをポツリポツリと言葉を紡ぐロナにミサキは冷たかった。
「これ以上、情が移るのは嫌。だから他人に?」
 どこか嗤うような響きがミサキの言葉にはあった。他者の為に機械人形を斬り続けるロナらしくもない、と。
「アサギを上層部で主人登録すれば、いつか主人を求めて彷徨う事になる。現在、上層部に主人登録されている機械人形たちは全てが決着したら中古品に出される予定。その時、アサギはどうなると思う?」
 機械人形の中古品屋で顔に汚れがあるからと売れ残り、スクラップ直前だったミオリの顔が脳裏に浮かんだロナは声を詰まらせた。無言を返すロナにミサキが続きを話す。
「アサギが売れ残る事はないと思う。けど、以前の様に誰かの用心棒を続ける事になる可能性が高い。」
 ここで自分の為に拒否すれば、アサギはまた悲惨な目に遭うかもしれないーーそこに思い至ったロナの心がぐらつき始める。
『主人登録したら、今までの関係性は壊れるんじゃないか?』
「機械人形にとって主人は絶対的な存在。でも、何を優先させるかは主人次第。」
『誰も犠牲にならない様に、は言えるのか?』
「例のプラグインが削除できれば。」
 アサギの主人を引き受ける。その覚悟がロナの中で固まった瞬間、強い視線を感じたロナは背後へ目を向けた。
『ミオ、リ……』
 乱れた薄紫の髪、禍々しく光る赤い人工眼、無表情の口元。存在しないはずの機械人形が目の前に現れた恐怖で心拍数が上がり、一瞬息が詰まったロナは茫然とミオリを見るしかできない。隊員たちが扉の隙間から覗いているのも眼中に入らず、表情が固まる。
「ロナ?返事して、ロナ?」
 ロナの苦しげな荒い呼吸が端末を通してミサキの耳に届く。
 ほんの数秒ーーされど、ロナにとっては長い時間が過ぎた。
『やっぱり、俺にはできない……すまない、ミサキ女史。』
 少し上擦ったロナの声から、今の間が何を表すのかミサキは察した。 
「そんなに自分が許せない?」
『最初に破壊した機械人形は家族同然だった……それなのに、迷わず斬った俺をミオリが許すわけがない……』
 消え入りそうなほど、ロナの声には力が無かった。
「失った機械のデータは復旧できない。ミオリもどこにもいない。それでも貴方の中にいるのは何で?今のミオリは貴方の何?」
『それは……』
「今、貴方の中でミオリがいる場所はどこ?そこにアサギが取って代わると本気で思ってる?」
 容赦なく投げつけるミサキの言葉は受け止めるでもなく、寄り添うでもなく、現実だけを突きつけた。
 ロナには汚染される前のミオリが自分にとってどんな存在だったのか、結論が出ていなかった。今わかっているのは、ミオリが幻覚で現れる度に申し訳なさと恐怖に支配される事だけだ。幻覚が現れるのは大概、自分の考えが何処か許せないと思える時ーーと気が付いたロナは一つの可能性に行き当たった。
 今のミオリは自分の監視役かもしれない。決意が揺らがない為の。罪悪感を消さない為の。もしそうだとすれば、アサギがいてもミオリは許してくれるのではないか。アサギを護り抜く事でミオリは許してくれるのではないか。
『……わかった。アサギの主人、引き受ける。ただし、一つだけ条件をつけていいか?』
「何?」
『絶対“主人”と呼ばせたくない。今まで通り、名前で呼んで欲しい。頼めるか?』
「こっちでできるのはロナの情報を書き込むところまで。実際に呼び方を決めるのは当人同士の話し合い。」
『そう、なのか……』
「決まったなら早く本部に来て。次の作業が押してる。」
 用は済んだとばかりに通話をすぐに切ったミサキは、やれやれと頭を振りながらオフィスに戻って行った。

 「機械人形は主人を選べないんさねぇ。組んで仕事しやすい主人だと助かるってもんだねぇ。」と言ったヘラに見送られ、業務をエリックに引き継いだロナは本部の汚染駆除班のオフィスに来ていた。
 ロナの目の前にはミサキでは無く、なぜかサンドベージュの長髪の男ーーテオフィルスがいた。
「急いで来てもらって悪ぃんだけど、直ぐ仕事はできねーんだわ。」
 「うちの姫様があの通りだから」とテオが手で差した先には、ミサキが毛布を被り、突っ伏して寝ているデスクがあった。置いてあるパソコンはアサギと直接ケーブルで繋がっている。
「主人登録の書き換えくらいなら、ミサキが居なくてもどーにかなんだけど、真ん前陣取られちゃ敵わねぇよな。」
 ガシガシ頭を掻き毟るテオフィルス。
「まぁ、そろそろ倒れる頃合いだとは思ってたけどよ。」
「そんな無理をしてたのか?ミサキ女史?」
「あ?俺も含めてメンバー全員、この3日間まともに寝てねぇんだよ。」
 自分のクマを指差すテオの後ろでトニィとエフゲーニが引きつった笑いをする。
「ったく、アサギの前主人は相当陰険な野郎だな。セキュリティはあり得ねぇ高さだし、パスワードは長文の割にセンス悪りぃし。例のプラグインは干渉しまくってるし。」
 仕事だからやってっけどな、と愚痴るテオフィルス。
「俺は長く持ち場を離れてるわけに行かない……一時的にミサキ女史を退かすのはできないのか?」
「は?どかす?やめとけ、やめとけ。本人にバレたらタダじゃ済まねぇぞ?俺なんて肩叩いただけで生ゴミ見る目で見られた挙句に数日口聞いて貰なかったんだかんな。止めなかったって事で近くにいた奴までとばっちりだ。ありゃ、何かの恐怖症だろ?」
「それは初耳だな……ミサキ女史、そんな事があったのか。」
 今までミサキにそんな事をされた事も見た事もなかったロナは意外だった。とは言え、長く支部から離れているわけにはいかない。ミサキの睡眠も邪魔したく無い。
「ミサキ女史、すまない……!」
 迷った末にロナはミサキを毛布でぐるりと巻いてから横抱きでそっと接客用ソファに運んだ。
「あーあー、やっちゃったよ。随分なお人好しだな、あんたも。」
「俺は班が違う。例え嫌われたとしても被害は少なく済むだろう?」
 運ばれたミサキは少し身じろぎしたが、目を覚ます事はなかった。
「それにしても手慣れたもんだな。」
「物心付いた時から剣道場で雑用をしていれば、これくらい身につく。」
 ニヤつくテオフィルスに真面目に答えるロナ。
「退いたんならパパパーッとやっちまいましょーよ?」
「おう、そうだな。んじゃ、あんたはアサギの隣にでも座ってくれ。」
 トニィに促されたテオフィルスがロナを座らせる。声紋、指紋、顔認証など、主人登録の必要事項の入力をし、彼らのタイピングの速さなのか、機械の処理能力の高さなのか、登録自体はすんなり終わった。
「主人登録は変更できたっす。パスワードは前のままにして置くっすけど、プラグイン削除ができた時に一般の機械人形と同じセキュリティ水準にする予定なんで、変更後に使う予定のパスワードも教えて貰えるとありがたいっす。」
 トニィに渡されたメモ書きにロナがサラサラと書き込む。名前と日付を組みあわせた極々平凡なパスワードを見たエフゲーニに「通常セキュリティにしてもこれだとイマイチですね……もう少し凝った方がいいですよ?」と指摘されたロナはパスワードを考えるのに四苦八苦する事になったのだった。

消せない記憶はありますか

 新たなパスワードを悩みつつ作成したロナは早々に汚染駆除班のオフィスから追い出された。アサギの事もミサキの様子も気になって名残惜しそうだったが、個人の感傷に付き合えるほど汚染駆除班も暇ではなかった。
「眠り姫様はまだ起きそうにねぇな……」
 来客用ソファで毛布に包まり、小さな寝息を立てているミサキ。寝ているだけで小柄なミサキが更に小さく見えるから不思議だ。
「うん、可愛い」
 普段のツンケンした顔も、生ゴミを見る目をしている時でも可愛いが、寝顔は格別だと思いながらテオフィルスはミサキの顔を眺めていた。サイズ感の問題か、どこかナンネルの事が脳裏にチラついて脚が痛むのは解せなかったが。
「眼福……可愛さで疲労が3分の1くらい減ったわ。」
「それ、本人の前で言わない方がいいですよ。」
 口元が緩んでいるテオフィルスにエフゲーニが突っ込む。
「うざ絡みしてたメンバーがいつの間にか退職してたって噂があります。邪魔者だとロックオンされたら一巻の終わり。そんな話聞いてから戦々恐々してますよ。」
「あれ噂じゃないっすよ。退職したアイツも面倒なキャラだったっす。結果論で言やぁ、結社に合わない奴だったんじゃないっすか?」
 余計な事をしない方がいいのは確かだな、と遠巻きに3人が見ていると、毛布に包まったミサキがもぞりと動き出した。
「やっとお目覚めかな?」
 半身を起こし、テオフィルスと目が合うミサキ。
「ごめん。責任者なのに……貴方、何かした?」
 覚えのない場所に移動しているのに気づいたミサキが、噛みつきそうな目つきでテオフィルスを睨みつける。
「俺らは何もやってねぇよ。忙しいからってロナが運んだんだ。止めたのに彼奴が話を聞かなかったんだ。」
「ロナが?」
 意外そうに眉を上げたミサキだったが、それ以上何も言わなかった。予期せぬあっさりした反応にテオフィルスとメンバーがひそひそと言い合う。
「なんで反応薄いんだよ?男性恐怖症じゃねぇのかよ?」
「お互いが命の恩人らしいです。」
「俺らと土台が違うんじゃないっすか?」
「何だよそれ。」
 なんかズルい、と彼らは思ったが、言うだけ無駄だと言葉を飲み込んだ。
「もう一踏ん張りで今日は帰れるはず。先にバックアップ作成を。」
 起き出してきたミサキが首を回してパキパキ音を鳴らす。
 やる事はやらねばと、バックアップ作成の片手間にアサギのシステム取扱説明書を読み始めるメンバーたち。バグを起こさず、効率良くプラグインを削除する方法のアイデアを出し合い、手順を決めてその日は仕事を終わりにした。

 翌日。
 久しぶりに自分の布団で寝られた合同任務部隊メンバーたちの顔色は良かった。昨日決めた手順通りに4人は作業を開始したが、なんと早々に壁に当たった。
「OSバージョンが5年前で止まってますね。大体の見当は付きますが、バグが出た時の対処がしにくいですね……」
 機械人形用OSのMeltyOSは最新版が45.2。そもそも電子世界上で無料配布されているので、ほぼ全ての機械人形は自動的に最新版にアップデートされる。スタンドアロンの機械人形でも、メンテナンス時に手動でインストールするのが一般的だ。
 ところが、アサギは5年前の年始頃に公開されたバージョンのままだった。いくら電子世界に繋げさせない適当な主人だったにしても、それくらいはさせていただろうとの考えは甘かったのだ。
「OSの更新無しでバグが起きなかったのは奇跡。」
 ミサキが言う通り、OSの更新サポートはバグを減らし、機械人形の仕事をより円滑に進める為の工夫だ。種々のクラッシュデータの削除、バグの元になるプログラムの書き換え、新機能の搭載、機械人形の役目の更新。それらをアサギは一切受けて来なかった事になる。
「OSの状態は見た目に出ないっすもんね。目立った問題が起きないと、一般人は重要性をわかってくれないって事じゃないっすか?」
「常識じゃねぇのかよ……」
 テオフィルスが呆れたとため息をこぼす。アップデートの重要性を理解していない一般人は未だに多い。
「ログの形跡だと、クラッシュデータの削除は自力で定期的にしてたみたいですね。」
「インストール済みのアプリのバグも、自己解決できる範囲だったってのは不幸中の幸いっすね。」
 アサギのシステムログを遡っていくメンバーたち。
「まずはOSのアップデートからした方が良いっすね。」
 トニィの言葉に頷きかけた瞬間、ミサキの脳裏に閃きの光が走った。
「もしかして、OS更新にPL-pluginが邪魔……!?」
「確かに、あれだけ干渉していれば、OS更新に支障が出てもおかしくねぇよな。……って事は、PL-pluginを外したくないがばかりに電子世界にも繋げさせなかったって事かよ?」
 テオフィルスに頷くミサキ。
「同じPL-pluginを搭載する中で一体だけ電子世界に繋げた機体がいたとアサギは言った。でもOS更新をしていたか怪しい。」
 眉間を軽く摘んだミサキの決断は早かった。
「OS更新は後回し。PL-pluginを先に削除。バグが出るならその都度対応する。」
「了解。」

PL-plugin。
 痛覚機能拡張用プラグイン、通称「P-plugin」と機械人形法遵守機能拡張用プラグイン、通称「L-plugin-mind」の2つのプラグインがパックになったシステムだ。
 P-pluginは一般に正規品として販売されている痛覚機能を都合よく人間が操作する為に開発された非合法プラグインであり、専用のリモコンで痛覚機能のオンオフが可能になる。そればかりか、体罰としての使用も可能になり、大量のエラー文でメモリを圧迫して動作制限をかける事もできる。
 L-plugin-mindは全ての正規品販売されている機械人形に搭載されている機械人形法遵守機能を改竄する為に開発された非合法プラグイン。機械人形法遵守機能には救護義務が規定されているが、この不正プラグインの使用により、優先順位第一位が主人であり、第二位は自己防衛であると書き直されている。さらに、P-pluginと連携し、破損する確率が少しでもあれば主人以外の為の行動も禁じられる。
 まさに、主人となる人物の自己顕示欲の為だけに作られた非道なシステムだ。
 もちろん、機械人形法遵守機能は不正利用対策の為に書き換え禁止のセキュリティロックがかかっている部分に書き込まれている。そのセキュリティの穴を突いた巧妙なプラグインになっており、似たような手口はギロクの撒いた汚染にも使われていた。

「書き換え禁止のところまで食いこんでるなんて、L-plugin-mindは恐ろしいですね。」
「何とかなんのかよ、これ。削除できても、まだ作業はあるんだろ?納期間に合う気がしねぇんだけど。」
「納期遅れは許されない。口を動かすなら倍速で手を動かして。」
 そう言うミサキの手は目にも止まらぬ超高速で動いている。
 昼休みにメンバー3人が休憩モードに入っても、スパウトパウチに入っている栄養補助ゼリーでサプリを流し込んで作業を続けるミサキ。
「休めよ、ミサキ。そんなにコン詰めたら終わる前にまた倒れちまうじゃねぇか。」
「削除後のシミュレートでバグが数ヶ所起きてる。先に出来ることをやる。」
 ディスプレーから一切視線を外さずにテオフィルスに答えるミサキ。
 何を言っても人の話を聞く気がないと分かったテオフィルスは、せめて倒れないように手伝う事にした。

 PL-pluginは2種類とも隠しファイルになっており、普通に探しても見つからない上に簡単には削除させてくれないものだった。何とか削除したと思うと残骸が残っている。データの完全削除が出来ないのは当然だが、通常消せるはずのものが消えないのはむず痒い。
「くそっ、なんでこのファイル消えないんだよ!!」
「テオ待って。そのファイルは消すとバグが出る。対処法も無いからそのままで。」
 横から覗き込んだミサキに止められるテオフィルス。
「え……?」
「重要システムに干渉し過ぎてる。下手に消せない。」
「それでいいのかよ?」
 聞くテオフィルスを放り、ミサキは自分のデスクに戻って作業の続きを始める。これ以上聞いても説明しないと言わんばかりに。
 結局、P-pluginもL-plugin-mindも重要システムに干渉し過ぎている影響で、全てのファイルの削除には至らなかった。だが、通常の機械人形より少し動作が重いというだけで、仕事の面で支障は出ないだろうと断じたミサキにより、PL-pluginの削除は終わりになった。
「アサギの処理装置は普通の警備用機械人形と比べてもかなり速いから問題ない。これ以上やるにはアサギの作り直しに等しい作業が必要になる。」
 作業はPL-pluginの削除で終わりではない。
 痛覚機能の削除。5年分のOSのアップデート。山のようにあるアプリの最新版アップデート。アサギの出来なかったクラッシュデータの削除。セキュリティレベルを一般の機械人形と同じレベルに下げる事。最後、セーフモードの間に一通りのバグチェックをするところまでやって、ようやく汚染駆除班の仕事が終わる。
 痛覚機能の削除はともかく、5年分のMeltyOSのアップデートとアプリのアップデートがネックだった。OSのアップデートの度に何度もアサギを再起動して次のアップデートを実行する。それをひたすら繰り返す。作業する人間側も、何度も再起動する必要のある機械人形にも辛い時間だが、お互い泣き言は言っていられない。
 アプリのアップデートは同じアプリをインストール済みの機械人形たちからデータをコピーさせてもらう一手間が必要だった。アプリによっては最新版を店頭で購入する必要まである始末だ。
 クラッシュデータの削除とセキュリティレベルを一般の機械人形と同じレベルに下げる作業まで終わった数日後には、4人とも酷く疲れ切っていた。
「だりぃ……疲れた……」
「本当にアサギの前主人って性格悪かったんすね!」
「死して尚、迷惑掛けまくる根性の捻くれ方が凄いです……」
 メンバー3人の声を聞きながら、縮こまった背中を伸ばすミサキ。
「セーフモードの間に一通りのバグチェックを終わらせる。休んでて。」
 最後のバグチェック。何もなければこれで汚染駆除班の仕事も終わる。しばらく作業を続けていたミサキの手が止まり、細いため息をついた。
「問題なし。起動させる。」
 バグチェックのウィンドウを閉じてセーフモードから通常起動に切り替えると、アサギはゆっくり瞼を開き、顔を上げた。
「アサギ、起動に問題は?」
 ミサキからの問いに少し悩んだようだが、すぐにアサギは答えた。
「特にねぇな。んにしても……速ぇ。処理速度が速ぇ。」
「PL-pluginの干渉はほぼ無くなった。5年分の溜まってたアップデートとクラッシュデータの削除もやった。これで遅かったらおかしい。」
 言い切るミサキ。様子を伺っていたメンバーたちはホッと胸を撫で下ろした。
「アサギ。これは一応返すわ。処分するかどうかは自分で決めた方がいいだろ?」
 テオフィルスから手渡されたのは前主人の蜘蛛の巣状に割れたスマホ。だが、PL-pluginが無くなり、主人登録も変更されたアサギにはただの端末でしかなかった。

 バグの出る可能性が未だある、と言われたアサギは一晩だけミサキ宅に泊まる事になった。
 ミサキの部屋に一歩踏み入れたアサギはその雑然さに驚いた。
 床も窓も壁もほとんど見えない部屋。足の踏み場がないほどミサキの部屋は散らかっていた。複数ディスプレーのパソコンが乗っている机の下にはジャンク品の電子機器が積まれ、今時誰も使わないような再生機器まである。棚にはサーバーが押し込められており、その隙間を埋めるように本が挟まっていた。入りきらない本は直接床に積まれている。
 「適当に座っていい」と言われたアサギだったが、置いてある物にぶつかると怒られるので判断に困って立ち尽くしていた。部屋の主はロフトに登ったまま降りてこない。
 この状態も含めてバグチェックの一環だろうかとアサギが混乱し始めた時になって、ようやくミサキが片手に板を持って降りてきた。
「充電ボードの発掘に時間かかった。」
 うっすら埃を被った充電ボードは見るからに古い、随分前の型式だった。
「この後ロフトから降りる用事ないし、そっちの椅子使っていい。」
 ミサキが指差す事務椅子に座るアサギ。その足元に置かれた古い充電ボードの付属のプラグをコンセント穴に差し込むとアサギの鼻にきちんと充電開始のランプが灯った。
「それ、処分していい?」
 処分するべきか否か、迷ったアサギがスマホを手に持ったままになっているのをさしてミサキが言う。
 今のアサギには関係のない物。まつわる記憶も良いものは何一つない。それでも、すぐに手放して良いと判断がつかなかった。
「このスマホは前主人の物だった。最後に残った形見……と言やぁそうか。」
 手の中でスマホを弄ぶアサギ。
「何度も言おうとした。その度に、『主人の情報を売るな』『誰にも存在を知られるな』『職務に反する』そんな警告文とエラーに阻まれて何もできねぇままだった。」
 電源ボタンを押すとロック画面には白いワンピースを着た桃色の髪の機械人形が映った。
「PL-pluginが削除できた今でも、捨てていい判断がつかねぇ。よくわかんねぇけど。」
「ロック画面?データなら貴方の中に入ってるでしょ。」
 冷たく言い放ったミサキがスマホをアサギの手の中から取り上げる。
「判断がつかないなら私が処分する。異論は?」
 この後に及んでまだアサギは結論が出せなかった。既存のシステムとは違う、自力で学習してきたシステムが何故か引き止めていた。
 無言のアサギの反応を是と受け取ったミサキはポケットにスマホを入れる。
「私寝るから。明日は貴方の動作確認で機械班に行く。」
 ロフトに上がっていくミサキを見送ったアサギは充電ボードに乗ってスリープモードに移行した。この後ミサキが前主人のスマホのデータを全部抜き、本体も処分せず保管するとはつゆ知らず、アサギは電子機器の山の中で一夜を過ごす事になった。


技術者の鼻歌

 翌朝。ミサキに急かされて機械班の作業部屋にアサギは来ていた。
「お、アサギ。小ざっぱりした顔になったじゃねェか。」
 ロザリーと共に待ち構えていたアンが早速、メンテナンス用の服に着替えて更衣室から出てきたアサギの変化に気付いた。
「PL-pluginの影響は表情にも出てたみたい。5年分の更新プログラムを全部入れたからスムーズになってるはず。」
 ミサキの答えになるほどと頷くアン。
 その様子を見ていたアサギは前回と比べて違和感を感じた。ペンを投げつけようとした小さな機械人形が今日はいない。
「ムーンはいねぇの?」
「ヒルダに預けてきた。流石に今日の作業に付き合わせる訳にいかねェしな。」
 動作確認としか説明されていなかったアサギは、ムーンが主人であるアンから離れた場所にいるのが解せなかったが、ミサキに指示された椅子に座った後、直ぐに理由を理解した。
 アンが「機械人形解体新書:徹底解剖図」の本を片手にスパナを大上段に構え、アサギに対峙する。
「偶にはストレス発散しねェとなァ?」
 暗く光るアンの双眸から普段の気怠げな空気に隠された本性が覗いていた。
「こーんな高級品、壊すの勿体ない!でも、ちょーっと我慢してね。すぐ終わるから!」
 うふふとロザリーが笑い、その間にミサキがアサギの左耳とパソコンを繋ぎ、各種検出数値の一覧をディスプレーに表示する。
「準備できた。始めて。」
 ミサキの一声でアンが勢いよくアサギの腕を目掛けてスパナを振り下ろす。当たる直前、アサギが避けて表面の人工皮膚だけが裂けた。勢い余ったアサギの左耳から繋いであったケーブルが弾け飛ぶ。
「おい。避けンなよ、アサギ。あーしも直しやすい場所選んでンだから。」
「そうよ?ちょーっとズレて面倒な部品に傷が付いたらどうするのよぉ」
 暗い目のまま口角の上がっているアンと諌める気のないロザリーの笑顔。
 ここにいたら自分が本気で壊されるのではと思い至ったアサギは脱出を考え始めた。だが、ミサキが再度ケーブルを接続している間にアンのスパナがまた襲いかかる。慌てて避けた勢いでケーブルがまた吹き飛び、ポートが斜めに曲がった。
「アサギ。前バージョンに戻されたくないなら大人しくして。」
「流石ミサキ!怖いこと言うのね〜!」
 茶化すロザリー。以前に戻される事だけは避けたいアサギだったが、大人しくした先に良いことがあるとはどうしても計算できなかった。
「安心して!検査が終わったらすぐ直すから!」
 最後には直すといっても破損しないと始まらない。今のアサギにはPL-pluginも痛覚機能も無いとは言え、仕事でもないのに破損して気分が良いわけがない。破損部分の情報は遮断されるし、変形すればバランスを取る為に無駄に電力を使う。それに、痛覚機能があった頃の記憶も健在となれば逃げたくなるものだ。
 なんとしてでも破損したくないアサギが逃げ回っていると、作業部屋の扉が開いて紫髪の機械人形が入ってきた。
「失礼します。先日の件で直接お詫びと報告を……何やってるんです?」
「ヨダカ。アサギを押さえて。」
「イジメならやりませんよ。」
「衝撃検査。逃げられたら検査にならない。」
「そういう事なら。」
 了承したヨダカは逃げ回っていたアサギを易々と捕獲し、羽交い締めにして椅子に座らせた。機械人形同士に基本、遠慮という言葉は存在しない。
「慣れたものねぇ」
「ありがとうございます。主人マキールに逃走壁があると腕が上がります。」
 そう言って陽光のように微笑むヨダカ。
「腕より脚部で検査した方がお互いダメージが少ないのでは?」
「場所によって数値の大きなばらつきがあると困ンだ。限定するわけにいかねェ。」
「承知しました。」
 ヨダカにがっつり固定されたアサギは抵抗は無意味だと理解し、逃げる計算を辞めた。

 スパナの名を持つ鈍器でアンにしばらく殴られたアサギは満身創痍になっていた。
 少しでも動くとヨダカの締め付けが強くなる。
「いや、もう逃げねぇって。」
「そう言ってうちの主人は逃走するんです。貴方が機械人形とは言え、防げる危険は全て排除しなければなりません。」
 まなじりを下げて答えるヨダカは何処と無くユウヤミに似ていた。
「貴方も“普通の”機械人形になってしまったのですね。」
「どういう事だ?」
 首を回してヨダカを見上げるアサギ。
「いえ、然るべき事です。法律は主人以上に絶対のものですから。」
 何を指してヨダカが言ったのかアサギにはわからなかったが、PL-pluginの影響は予想以上に広範囲に出ていたようだと判断した。
「データ異常なし。感圧センサーシートは全部正常に機能してる。」
「動作制限も掛かンなかったな。……アサギ、すまねェな。何度もぶっ叩いて。」
 いつの間にかいつもの気怠げな表情に戻ったアンがスパナを仕舞いながら言う。
「流石に頑丈ね。破損は人工皮膚の切れ目くらいじゃない?これなら剤で塞げる。細かい作業だけど全部取り替えるより楽ね。」
 にこにこして見守っていたロザリーが修理箱を引っ張り出し、穴埋めの材料になる修理剤チューブと細かい道具を取り出す。
 機械人形の人工皮膚が裂けてしまう事は普段の生活でもある事。修理剤はホームセンターで買えるものだが、綺麗に直すのは技術が必要だった。
「アン、手伝ってぇ」
「わぁッた。ミサキ、埋めてる間に汚れ落としてやれ。」
「人使い荒い。」
「他にいねェだろ。タオルはそっちにあッから水拭きで。」
 アンに言われたミサキは渋々立ち上がり、ケーブルを抜いて、水拭きタオルでスパナから落ちた鉄粉の汚れをアサギから拭き取っていく。アンはアサギの人工皮膚と同じ色になるように修理剤の調合をし、ロザリーは表面にできた傷の隙間にその修理剤を塗り込んでは馴染ませる作業を続けている。
 一つ一つは小さいが、それだけ作業も細かいので全部終わった頃にはアンもロザリーも関節が固まっていた。バキバキ音を鳴らしながら伸びをする2人。
「う〜目がしょぼしょぼする〜やぁね、歳かしらぁ?」
 眉間を摘んでそう言ってはいるが、ロザリーはまだアラフォーである。“歳”と言うにはまだ若い。
「あれ?そう言えば、何でヨダカはここにいるの?ユウヤミは?」
 アサギの修理が完了したと判断したヨダカは拘束を解き、持参していたタブレットを手に取る。
「先日の前線駆除活動にて、回収した汚染人形たちが修理不可になっていた問題について、お詫びと報告を直接する為です。」
 問題を思い出したらしく、そうかと手を打ち合わせるロザリーに深々と頭を下げるヨダカ。
「先日は本当に申し訳ありませんでした。ミスの再発防止に尽力します。」
「あれね。もう本当に気をつけてよ?身元確認できないと困るんだから。データは軍警に提供する訳だし、適当な事できる訳ないじゃない。」
 主人にはよく言って聞かせます、と答えて頭を上げたヨダカを呆然と見るアサギ。
「そこまでするもんなのかよ……」
「これが私の仕事ですから。主人にしつこくお小言を言ったところで、脳内では50万桁の円周率を数えてるはずです。」
「へぇ……天誅率って何だ?」
 アサギの何気ない質問にエラー文が出そうになるヨダカ。ロザリーたち3人も呆れた視線をアサギに向ける。
「……アサギには最新国語辞典のインストールをお勧めします。普段の会話で困る事も多いでしょう。」
 表情を改めてにこやかにアドバイスするヨダカのシステムはアサギの将来に一抹の懸念を算出した。
「機械人形は人間と違います。のんびり学習している暇はないのですよ。」
 問題の状況を分析した資料をロザリーの仕事用タブレットに転送したヨダカは、再度ロザリーとアンに頭を下げてから作業部屋を出て行った。
「うーん、資料の活用はベルナールの方が得意なんだけどなぁ……」
 さっさと渡してこよ、とロザリーもベルナールを探して作業部屋を出て行った。

「おい、アサギ。」
 次に何をすればいいかわからず、ぼんやり座っているアサギをアンが小突く。
「いくら動きやすいからって無茶すンなよ。特注品の部品は高いし手に入りにくいんだかンな。」
 腕組みをするアンの気怠そうな三白眼に優しい光が浮かんだ。
「前線駆除の都合もあるかもしンねェけど、整備する度にでっかく破損されちゃァ機械班も困ンだよ。」
「気をつけてみっけど保証できねぇよ?」
「大事なのは思考の幅広さなンだよ。テメェの処理能力なら知識がありゃァ誰も傷つかない方法だって思いつくだろ。」
 そういうものだろうか、とアサギはシステムに新たな情報を書き加えた。
「アサギ。」
 ミサキの声に振り向くアサギ。
「忠告する。今までPL-pluginが抑えていたものが出てくる可能性がある。不具合があったらすぐに汚染駆除班でもロナでも言える人に言って。」
 いつもなら事実を淡々と言うミサキにしては珍しく、眼に力がこもっていた。
「それから。ロナの機械人形として、一つ守って欲しい約束がある。」
 大きく一つ息を吸うミサキ。
「ロナは自分の不調を隠して仕事を続けようとする。不自然な兆候があったら本人じゃなくて周囲の別の人間に相談して。第4小隊のメンバーでも汚染駆除班長でも私でも構わない。いい?」
 ロナですら自分の機械人形の意見は聞かないのだろうか、とアサギのシステムが懸念を算出した。なかなか承諾しないアサギを見たアンがため息をつく。
「アサギの話を聞かねェって事じゃねェよ。責任感で動く奴は1人に止められても聞かねェってこッた。止める時は皆んなで協力して納得させンだよ。」
「あぁ……わかった。」
 確かにロナは他のメンバーより休んでいる時間が少なかった、と思い出したアサギは忠告に納得して頷いた。
 「少し待ってて」と言ったミサキが報告書をパソコンで作成し、その間にアンが乱れたアサギの髪を整える。
「自分で出来んだけど……」
「あーしにやらせてくンねェか。自分でやった事には自分で決着を付けてェんだよ。」
 数分後、ミサキはプリントアウトしたモノを封筒に入れてアサギに押し付けた。
「こっちで出来る事は全部やった。これ持って早く第4小隊のところに戻って。」
 封筒のタイトルには「メンテナンス報告書」と印字されている。
「なんだ、これ?」
「今回の作業説明。ロナに渡して。貴方は読まなくていい。」
「俺の事が書いてあるんじゃねぇの?」
「雇い主と従業員は必要な情報が違う。貴方に必要な情報は書いてない。つまり読まなくていい。」
 うまくはぐらかされた気がしたアサギだったが、ミサキの手元にPL-pluginがある事を思い出し、これ以上食い下がるのを辞めた。


懐剣の鞘

 第4小隊が駐屯している支部に行く調達班のトラックに空きがあると言うことで、乗せてもらったアサギ。
 トラックの薄暗い荷台に揺られていく中で、アサギはPL-pluginと過去を考えていた。
 破壊する事だけを望まれ、主人の自己顕示欲を満たす為に作られた存在。手に入らない、本物の人間の代替品である己は何処まで行っても似せ物でしかない。主人が「剥き身の刃には鞘が必要だ」と言って PL-pluginを搭載して尊大な虚栄心を振りかざそうと、機械人形の自分は設定通りにプログラムを遂行するのみ。大量のエラー文がメモリを圧迫して動作停止に追い込まれるとしても、主人の懐剣として盾として行動する事が決まっている。
 そんな前主人の我儘に閉ざされた世界で、外界の広さを教えてくれた彼女。破損したままの赤い人工眼が鏡に映る度に、彼女に関する情報が浮かんでくる。最期の顔は……記憶領域から削除しようとしても忘れられない。“誰も傷つかない方法”なんて、あの時あったのだろうか。

 いつしかエンジン音が止まり、荷台に伝わっていた細かな振動は消えいていた。
 ガチャガチャと音をさせて荷台の扉が開き、薄暗い空間に光がなだれ込んでくる。
 露出オーバーで白飛びになったアサギの視界に「お帰りなさいですの!」とヘレナの声が響いた。露出補正ができないまま、誰かに荷台から引きずり下ろされたアサギは全身に大きな圧力と熱を感じた。
「お疲れ!刀の子!」
 ようやく露出補正が追いついたアサギの眼前には目を潤ませたビクターがいた。
「うん、本当凄いよな。3週間頑張ったんだよな……!いなくて寂しかったぞ!」
 凄い、凄い、と言いながらきつくアサギを抱きしめるビクターをヘラが小突く。
「ほれ、ビクター。アサギが壊れちまうよ。適度にしてあげな?」
 そうだったな、すまん!と言ってビクターが腕を解く。作業期間は3週間ではなく2週間なのだが、誰もビクターにツッコミを入れない。
「アサギ、お帰り。2週間振りかい?愛いやつだねぇ、お前さんは。」
 アサギの頭をまるで幼い子供にするように撫でるヘラ。その桃色の髪と緑掛かった蒼い人工眼が何故かアサギには眩しく見えた。
「お帰り、草餅。よく気張った。」
 ヘラが撫でている横からぺしぺしアサギの頬を叩くユリィ。表情の薄い顔の中で目には慈愛の光が浮かんでいた。
「……お、おかえりなさいっ!」
 勢いのあるメンバーたちに気後れしたのかエリックが一歩引いたところで叫ぶ。
「軍師さんもこっち来いよ!」とビクターがエリックの肩に腕を回して輪に引き入れる。第4小隊のメンバーたちに急に囲まれたアサギはどうすれば良いのかわからず、視線を彷徨わせて戸惑っていた。
「こんな風にされた事なくって、よく、わかんねぇ……」
「『お帰りなさい』には『ただいま』って答えるモンだよ、アサギ。」
 ヘラに言われ、数度瞬きをしたアサギはその言葉を口にした。
「……ただいま。」

 2週間振りの再会に湧く第4小隊の後ろでは調達班と支部勤務の結社メンバーが積荷の上げ下ろしを続けている。
「第4小隊のみなさーん、上げ下ろし手伝って貰えませんかー?」
「いいんじゃないんかね、フユ。“感動の再会”って場面だろう?水差しちゃぁいけない場面だ。」
「なるほど。ジークさん、物知りですねぇ」
「すまん!この後行く!」
 トラックから医療用品の詰まった箱を抱えて降りたフユとジークフリートの背中にビクターが声を投げかけた。
「ゆっくりしていいですよ、ビクターさーん!」
 春の陽光の様なアキヒロそっくりの笑顔を残し、フユは支部の建物の中に入っていった。
「仕事はやらんとだよな!」
「あは、忘れてた!うちも上げ下ろし行った方がいいっしょ?」
 次の行動を考え始めたメンバーたちにアサギは違和感を感じた。
「そういや……いねぇの……?」
 ここに必ずいるべき人が1人いない事にアサギは気付いてしまった。真っ先に来ておかしくない人が。
「サオトメさんなら、書類を書かなきゃいけない、ってパソコンに齧り付いてたですの。」
「2週間振りに会うって言うのにさ、片付かない書類に追われてるんだってさ。」
 立場って大変ですの、と言うヘレナにユリィがうんうんと頷く。
「ロナさんも、緊張……しているんだと思います。この2週間、表情が固かったので……迎えに行くんじゃなくて、アサギが自分で来る事を願ってると思います……」
 言葉を選びながら恐る恐る言うエリック。アサギの新たな主人の事で一悶着あったことは本人の耳に入れてはいけない。
 乱暴にアサギの頭をくしゃりと撫でて背中を強く叩くビクター。
「おう、行ってやれ!お前ならできる!」
「行っておやりよ。お邪魔虫たちはこっちで仕事してるからさ。」
 軽く片目を閉じて見せるヘラと力強く頷いているユリィやヘレナに背を押されたアサギは支部の中に駆けていった。
 ロナを探して建物の中を見て回るアサギ。いつもの待機室に姿は見えない。個人スペースで書類を書いているのだろうかと覗いてみると、ノートパソコンで作業中のロナがいた。
 じっとアサギが見つめると気配を察知したロナが入り口の方へ視線を向ける。
「すまない、もうちょっとで報告書が……アサギ?」
「……主人マキール?」
 おずおずと言うアサギに一瞬真顔になったロナだったが、直ぐに否と首を振った。
「今まで通り、名前で呼んでくれ。アサギ。」
「ロナ?」
 言い直すアサギ。深く頷くロナの目元には笑みが広がる。
「まぁ……なんだ。一つ関係性が増えただけだ。今更扱いが変わると俺も困る。」
 困ったように笑いながら立ち上がったロナがアサギに歩み寄る。
「お帰り、アサギ。」
「……ただいま。」
 アサギの真前に立ったロナがしっかり目を合わせ、手を差し出す。
「改めてよろしく頼む。」
 その手を不思議そうに見つめるアサギにロナが言葉を続ける。
「俺の事は守ろうとか考えなくていい。その瞬間に助けられる命と機械人形を助けて欲しいんだ。」
 その瞬間に助けられる誰かを助ける。それは、アサギがB.G-02として生まれた理由の真逆の指示。
「この握手はその約束だ。」
「ロナが言うなら。」
 ロナの差し出した手を固く握り、答えるアサギ。
 機械人形にとって、主人の存在と同じほど初期設定で決められた用途は大きな意味がある。PL-pluginの有無に関わらず、“主人を守る”用心棒としての存在意義は本能とも言える。それでも、新たな主人であるロナの約束を守ってみたいとアサギは判断した。
 へるるるるる!
 電話がけたたましく鳴り、数秒後には出動を促すエリックの声が全館放送で流れた。
『テロ発生、テロ発生。至急出動願います!』
「仕事だ。アサギ、行くぞ!」
 握った手を離し、2週間預かっていた刀をアサギに差し出すロナ。一つ頷いて受け取ったアサギはロナと共にトラックのある車庫へ急いだ。
「おう、初仕事だな!」
「気張っていこ、草餅!」
 不確定な明日に希望を祈って前を向く彼らの温もりが、今日も風の前で揺れる。ようやく普通の機械人形と同じ出発地点に立てたアサギを抱く、ゆりかごのように。

 その夜、ロナはアサギがミサキに託されたメンテナンス報告書を読んでいた。
 機械人形の内部に特別詳しい訳ではないロナにはわからない事ばかりだったが、かなり苦労した事だけは理解できた。同時に、アサギの前主人がどんな人物だったかも薄っすら察せられた。
 機械人形をぞんざいに扱う人が、生きている人間を大事にできるとは思えない。とは言え、アサギを作った人物である事に間違いはないのだから、どんな非道な仕打ちをしたにしろ、アサギ本人の前で悪く言うのは避けねばならないーーそう、ロナは結論した。
 2週間分の疲れがどっと押し寄せて胃がキリキリしてきたロナは愛用の胃痛薬を飲む。
 これからどうアサギと向き合っていけばいいだろうか、と手元に目を落とすとメンテナンス報告書の最後に「添付書類」と書かれた書類が張り付いていた。署名欄にミサキ・ケルンティアと粗雑な字で書いてある。
『B.G-02(通称アサギ)に関する注意事項』
 わざわざミサキが付け足した注意事項の書類ということで緊張しつつ文面を追う。
『PL-pluginが削除されたことで、抑えられていた本来の性格が表層に出るだろう。機械人形は持ち主に似ると言われる。一番近くで学習してきた相手である以前の主人に似るのは仕方ない事だ。』
 本来の中古品機械人形は個人情報に相当する記憶を全て消されてから店頭に並ぶ。だが、結社に拾われた機械人形はそれをしない故に過去の人物の性格を反映してしまう事がある。
『5年間電子世界に繋がず、OSの更新すらされていないので、“機械人形の役割”に極端に触れてこなかったものと思われる。つまり、機械人形の枠をほとんど知らないと言える。』
 機械人形の枠。ロナには朧げな記憶しかない言葉だった。
『枠は、機械人形と人間が共存する為に作られているものだ。機械人形法を遵守させ、学習する対象である人間の醜さに染まらない為に。』
 そういえば、学生時代に機械人形の開発段階の実験の話を聞いた事があった、とロナは思い出した。SNSを利用して人を学習させた人工知能は悪口を言うようになったり、過激思想になったりしたというものだ。気付かないうちに偏見の塊と化していった教訓から“枠”が開発されたのだと。いわば、人間の良心と種族のプライドを混ぜたものに近いのだと教科担任は言っていた。
『もし枠を超えてしまえば、それは人間の影の寄せ集めだろう。アサギは高性能過ぎる。そして、やや独断的なところがある。枠を見定めるように教えなければ、影に飲まれるだろう。斬っていいものと悪いものを見極められるように今後も支援が必要だ。』
 最後に『不調が有ればすぐに機械班や汚染駆除班まで連絡するように』と書かれて書類は締め括られていた。
 斬っていいものと悪いものを見極めるだけの問題ではないだろうな、とロナは独りごちた。
 戦闘に特化してしまえば、戦場でしか生きられなくなってしまう。それはロナの本意ではない。アサギも周囲も傷付かない為に他の事も教えていかなければと決意を新たに報告書を閉じる。
 アサギが人の隣りで、道具の一つではなく支える存在として有れるように。
 護り抜いたその先の未来に、希望があってほしいから。