薄明のカンテ - 十人十色の破裂音/燐花

人事部騒然

 その日、人事部は穏やかな時間を過ごしていた。目立ったトラブルも起きず、データの管理に関してもシステム障害やら面倒なトラブルは起きておらず、快適に仕事が出来ていた。
「紅茶が美味しい…」
 そんなタイガのしみじみとした言葉すら人事部の部屋の隅から隅まで聞こえるくらいには穏やかな空気が流れる。
 時刻はお昼前。エーデル、ヴィーラ、シーリアの三人はお昼前のお腹が空く時間にこんな穏やかな空気が流れており少しだけ慌てた。こんな音が筒抜けの様な部屋の中、空腹でお腹を鳴らしたら間違いなく誰かしらの耳に入る。と言うか、ロードが同じ部屋の中にいるのだ。彼にそんな音を聞かれたく無い。
 腹の虫が鳴らぬ様祈りながら仕事を続ける。人によっては穏やかな空間だが、人によっては緊張の空間の様だ。
「(早くお昼にならないかしら…)」
 三人、誰ともなくそう思った。
 すると、無音の空間を壊す様な破裂音が鳴り響く。

「くちゅんっ」

 エーデル、ヴィーラ、シーリアの三人は張り詰めていた空気の中仕事をしていたので突然のその音に激しく動揺した。え!?今の誰のくしゃみ!?と意識が仕事からそちらに行き掛ける。何とか耐えて持ち直したものの、次の瞬間タイガの一言でそれは一気に崩れた。
「ロードさん?可愛いくしゃみするんですねー」
 三人の意識は完全に仕事からくしゃみに向いた。え?さっきのくしゃみの発生元が?まさかの彼?
 三人がぐりっと目線をロードに向けると、そこにいたのはいつもの余裕そうな彼ではなく、片手で口元を抑え、恥ずかしそうに耳まで赤くして少しはにかんでいるロードだった。
「いやぁ…昔からくしゃみの仕方がちょっと…ちょっとでしてねぇ…」
 そう言って誤魔化す様に笑う彼からさっきの可愛らしい破裂音が放たれたのか。言わずもがな三人はいつもの彼とそのくしゃみとのギャップに軽くアッパーを食らった心地だった。
「そんな事無いですよ!可愛いくしゃみって良いじゃ無いですか!」
 タイガの主張に三人はうんうんと頷く。ロードは少し恥ずかしそうに頬を掻きながら彼の主張を笑っていた。
「お?ロードまたあの妙なくしゃみしたの?」
 背後から現れたのは彼と同じ様にスーツを着た、少し丸みを帯びた体に低い背丈、人の良さそうな笑顔の目立つ新規勧誘課のベン・レッヒェルンだった。ベンはニコニコ笑うがロードの顔は穏やかでは無い。
「妙なくしゃみって余計ですよ…」
「だってねー?お前みたいなスマートな見た目した奴がさ、まさかのくしゃみする時「くちゅんっ」て!くちゅんだよ!?俺ギャップにやられて初めて見た時五分は笑ってたよ!」
「本当に五分笑ってましたよね…仕方ないでしょう?生理現象なんですから、出す時のコントロールなんて出来ませんよ。それでも変えようと昔は頑張りましたけど…」
「いるよねー!思春期とかに周り見てくしゃみの仕方変えようとする奴!大概変わんないんだよなー」
 でもさー、くちゅんっの方が可愛くて良くない?と、ベンはピンポイントでエーデル、ヴィーラ、シーリアの三人の方を向く。三人はいきなり話を振られると思わなかったがとりあえずベンの言い分に全面同意だったので落ちるのかと言う勢いで首を縦に振った。ちなみにベンは三人がロードに憧れている事も、剰えロード親衛隊(非公式)を名乗っている事も知らない。完全なる「何となく」で彼女達の方を向いたのだ。ニコニコ穏やかに笑っているのにほんの少しでも漂えば甘い香りを嗅ぎ分ける。以前食堂でタイガもヒギリにけしかけられており、秘めた想いを抱える彼もまた大いに慌てたものだ。
 このピンポイントで人の恋心を無自覚で嗅ぎ分ける性質は「ベンのハニーハント」と呼ばれており、恋をしている人間からは「片想いが筒抜けにバレる」と大変恐れられている。かく言うロードも間違って鉢合わせてウザ絡みにならない様にとベンと居る時に絶対ヴォイドに会わない様に細心の注意を払っている。
「くしゃみ一つ取っても人によって違うから面白いよねー」
 あ、昼だ。時計を見て昼休憩に気付いたベンは、愛する妻に作ってもらった弁当を持っていそいそと席を立つ。
「…今日も奥様のお弁当なので?」
「そうだよ!本当毎日朝早くからこんな美味しいお弁当作ってくれて…俺はもう嫁さんに足向けて寝られないんだよ」
「へぇ…仲がよろしくて良い事ですね」
「子供もそろそろとは思うんだけど…何が起こるか分からないこのご時世だからなぁ。まあ、今は嫁さんが傍に居てくれるだけで幸せだけどね!」
 ところでお前は良い人居ないの?
 ベンにそう聞かれロードは思わず真っ赤な顔で下を向いた。ピッタリと分けた筈の前髪が勢いでさらりと顔に掛かり彼の印象を変える。顔の赤みも相俟って余裕の無さそうなロードが瞬時に出来上がった。
「わ、私は良いじゃ無いですか…」
「いつも思うけど何でお前普通の話でそんな照れるの?」
「良いでしょう?苦手なんですよ…自分の恋愛に関する事や結婚観聞かれるの」
「え?酒の席で下ネタ製造機になるのは大丈夫なのに…?」
「それはそれ、これはこれです」
 ボソボソと喋る二人の会話はどうやら周囲の人間の耳には届かないらしい。エーデル・ヴィーラ・シーリアの三人の耳には、ベンの言い放った「お前は良い人居ないの?」以降の言葉は届かなかった様で、まさか「下ネタ製造機」呼ばわりされているとは思っていない彼女達は何か言っていなかったかと必死に聞き耳を立てた。
 自分のくしゃみによって静寂を裂いてしまった挙句妙な注目を浴びたロードは恥ずかしそうにコホンと咳払いした。

冤罪

「あ、クロエ」
「シキ。仕事終わりですか?」
「うん、クロエは?」
「牛乳を買いに行きます」
 相変わらず好きだねー、とシキは興味無さげに欠伸をする。クロエはそんなシキをじぃっ…と見つめた。女性としてかなり背の高い部類のクロエだが、今のところ一番近い存在であるシキの背は勿論ロードの背も抜けず、一番小さいのが何だか癪に触った。
「…クロエは大っきいよ?」
 ぽんっとシキの大きな手がクロエの頭を包み込んだ。しかし、クロエからしたら火に油を注がれた心地であった。
「……本当腹立ちますね、シキ」
「え?」
「はぁ…あんたはデカすぎますね」
「んー…まぁ自覚はしてる」
 尚もクロエの頭を撫でくり撫でくり。しかし適当に触っているせいか段々上から押さえ付けるような力の入り方になっている。クロエは徐々にイライラして来た。
「シキ…私の背を縮める気ですか…?」
「え?」
「だから…私の背を縮める気かと聞いている」
「あ、ごめん。触り方嫌だった?」
「言い方を考えろ」
「だって…撫でてるって触ってんのと同じじゃないの?」
「アンタが疑いの目で見られても良いなら私は止めないです」
「もー…クロエはいちいち細かいところ気にして煩いなぁー…兄貴みたい
 それは、クロエの逆鱗に触れた。

 ロードみたい。
 ロードに似てる。
 ロードを彷彿とさせる。
 ロードっぽい。

 これらは全てクロエにとっては地雷ワードであった。決してロードが嫌いな訳ではない。嫌いな訳ではないのだが…彼と似ているところを指摘されるのは何だかムカつくのだ。
 だって、別にそんなつもりはないのにまるで自分が彼に寄せていっている様に見られている気がする。それは何だか癪だ。
「あ、テディにユーシンだ…じゃあ俺、そろそろ…」
「……」
「クロエ?」
 がしっと重なる様にシキに纏わりつくクロエ。シキは突然の事に体をびくりと震わせた。
 体の大きいシキと重なると細身なクロエの姿は周りから見えなくなる。クロエに腹に抱き付かれ行き場の無い手をどこに置こうか考えていたシキは頬をぽりぽり指で掻くと「ちょっと恥ずかしいかも…」と呟く。それを聞いたクロエはニヤリと笑った。
「は……」
「は?」
「はぁ……!」

 ──ぶぁっくしょん!!ダラボケェ!!

 およそイメージしづらいくしゃみをシキに纏わり付いたままのクロエはかましてくれた。シキが目をまん丸くするとクロエは即座に彼から離れる。廊下の先に居たテディとユーシンが変な顔をしながらシキに近付いてきた頃、彼はやっとクロエによって濡れ衣を着せられた事を理解した。
「えー…うそー…シキ、何だかイメージに無いくしゃみするねー…」
「うん…シキはもっと大人しいかと思った」
「ち、違…俺じゃなくて…」
 そう思ってクロエを見るが、クロエはツンとした顔でそっぽを向くだけだ。今ここで何か言ってクロエが謎に纏わり付いてきていたと暴露するのも違うし、頑なに「このくしゃみクロエだから!」と言うのはそれはそれで無理に彼女の評判を落とす様な気もするからそれは兄貴分を謳っている身としては避けたい展開だ。
 そう思ったシキは、苦肉の策として口を開いた。
「うん……俺、だ……」
「あははっ!シキってば意外性あり過ぎてウケるねー!!あ、待てよ?逆にイメージ通りかも!」
「ははは……」
 ケラケラ笑うテディに落ち込むシキ。思わずクロエを睨むと彼女はもうこの空気に飽きたのか何食わぬ顔で瓶牛乳をゴクゴク美味しそうに飲んでいた。ぷはー!と豪快に飲み干す頃、口元を手で拭いながらクロエは笑みを携えシキを見た。
「うふふ…今日は一段と牛乳が美味いです…」
「…くっ…こんにゃろ……」
「人の不幸ってメシウマだって言いますけど、まあ間違って無いですね」
「なになに?何の話ー?」
 クロエに濡れ衣を着せられどんなに嘲笑われようが、テディに追求されようが、それでもくしゃみの犯人は言わないシキだった。
 後日、そんなやり取りも忘れた頃、ロードとクロエと共に廊下を歩いていたシキは横に居たロードがくしゃみをした事で近くにいたミアから「シキ君可愛いくしゃみだねー!」と言われ(尚、彼女と友人のはずのクロエは笑うばかりで訂正する気は更々無く)、少し時間が経って今度クロエがあの豪快なくしゃみをした際には近くに居たビクターに何度も顔を確認された。おそらくくしゃみに驚いて出処を確認したのだと思うが何故クロエもロードも除外して自分を見たのかシキは解せなかった。
「うふふふ…クロエ、随分とくしゃみお下品じゃありません?」
「兄さんこそ何ですか、くちゅんって」
「うふふ、可愛いでしょう?」
「耳まで赤くして強がるな可愛くねぇよ。くしゃみまで女に媚び売ってんじゃねぇ」
「どうでも良いけど俺に擦り付けるのやめてくれない?二人ともくしゃみコンプレックスなんだろ?分かるけど何で俺に疑いの目が向けられた時訂正してくれないの?」
「……」
「……」
「…え?何で黙るの?」
 明日から正直に生きよう。
 そう心に誓ったシキだった。